Hiroaki Ooi Matinékoncertek
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
【第3回公演】2025年1月12日(日) 15時開演(14時45分開場)

マイアベーア《悪魔のロベール》の回想 S.413 (1841) 10分
[第3幕「地獄のワルツ」 - 「黒い悪魔たちよ、亡霊たちよ、天を忘れよ」(合唱)/「私の栄光は消え去り」(ベルトラン)/「喇叭を鳴らせ、旗を讃えよ」(騎士団の合唱)]
ハンガリー狂詩曲第14番 S.244-14 (1846) 12分
[Lento quasi marcia funebre - Allegro eroico - Allegretto alla Zingarese - Vivace assai]
ギャロップ S.218 (1841、遺作) 6分
ベルリオーズの叙情的モノドラマ《レリオ、あるいは生への回帰》の主題による交響的大幻想曲 S.120 (1834/2021) [D.ドスサントス編独奏版] 23分
[漁夫のバラード(第1楽章) - 山賊の情景(第3楽章)]
---
J.S.バッハのカンタータ第12番《泣き 歎き 憂い 慄き》の通奏低音と《ロ短調ミサ》の「十字架に釘けられ」による変奏曲 S.180 (1862) 16分
[主題と43の変奏 - コラール「神の御業は全て善し」]
ハンガリー狂詩曲第6番 S.244-6 (1847) 7分
[Tempo giusto – Presto - Lassan (Andante) - Friska (Allegro)]
モーツァルト《フィガロの結婚》と《ドン・ジョヴァンニ》の動機による幻想曲 S.697 (1842/1993) [L.ハワード補筆版] 20分
[第1幕フィガロ「もう飛ぶまいぞ、この色気の蝶々」 - 第2幕ケルビーノ「恋の悩み知る君は」 - 《ドン・ジョヴァンニ》第1幕終結部(メヌエット+コントルダンス+ワルツ)]
---
ベッリーニ《清教徒》の回想 S.390 (1836) 18分
[アルトゥーロのカヴァティーナ「いとしい乙女よ、あなたに愛を」(第1幕第3場) - エルヴィーラのポロネーズ「私は愛らしい乙女」]
スケルツォと行進曲 S.177 (1851) 12分
[Allegro vivace, spiritoso (Scherzo) - Allegro moderato, marciale]
パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 (初版、1838) [全6曲] 28分
第1番 ト短調「トレモロ」 Andante - Non troppo Lento (カプリス第5番+第6番)
第2番 変ホ長調「オクターヴ」 Andante - Andantino, capricciosamente (カプリス第17番)
第3番 変イ短調「ラ・カンパネラ」 Allegro moderato - Tempo giusto (協奏曲第2番第3楽章+協奏曲第1番第3楽章)
第4番 ホ長調「アルペジオ」 Andante quasi Allegretto (カプリス第1番)
第5番 ホ長調「狩り」 Allegretto (カプリス第9番)
第6番 イ短調「主題と変奏」 Quasi Presto (a Capriccio) (カプリス第24番)
リストと宗教音楽――山村雅治
1

現実は残虐だ。リスト父子が息子フランツの音楽の勉強のために、ハンガリーからパリに到着したのは1823年12月11日。翌日、ピアノ製造のエラールとともに、メッテルニヒ侯爵の推薦状を携えてケルビーニを訪ねた。彼が楽長であるパリ音楽院への入学を希望したからだ。しかし、拒否された。音楽院の授業に外国人が存在することが許されない規則があったからだ。12歳にしてリストはすでにピアニストとして名が知れていたが、彼はこのとき「私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした」と書いている。そこで音楽の勉強は個人教授を頼むことしした。作曲をパエールに、音楽理論をレイハに師事した。ピアニストとしての生活は続き、1824年3月7日にパリ・デビューを果たして、5月に渡英して6月5日にイギリス・デビューをした。イギリスではさらに1825年と27年に長期滞在し、さらなる悲劇が1827年8月に起こる。8月28日に父アダムが腸チフスで急死したのだ。父子の二人三脚で音楽で身を立てる歩みをしてきたのが、ここで止まった。15歳の少年リストはひとりになった。オーストリアにいた母をパリに呼び寄せて、彼女を抱えながら自らの生計を立てなければならなくなった。
ピアノ教師としてリストは生きた。生徒として出会ったサン=クリック伯爵の令嬢カロリーヌは一つ年下だった。たちまちリストとカロリーヌは恋しあった。見守ってくれたカロリーヌの母親が1828年6月30日に亡くなると、父親であるサン=クリック伯爵は、娘が社会的身分が低い音楽家に嫁ぐことなどは許せず、レッスンを打ち切ってリストに出入り禁止を言い渡した。ヨーロッパの辺鄙な田舎に平民として生まれたリストに身分差別も襲いかかった。
この時期のことをリストは1837年1月に公開書簡としてジョルジュ・サンドに書き送っている。
「パリの社交界に進んだことで、芸術家が使用人としての立場を甘受することを、嫌悪感をもってひたすらに我慢した」。またピアノを弾いて生活費を稼ぐことなった彼は「芸術が金儲けのための職業に成り下がり、上流階級の娯楽になっている」ことに嫌悪感を抱く。「この頃、二年間病気になり、その間、信仰と献身への激しい欲求を満たすためには、カトリックの厳格な信心行為に没頭する以外に道はありませんでした」。
パリから見れば田舎生まれの身の民族・国籍差別、どんなときにも庇護してくれた頼るべき父の死、身分差別による失恋。モーツァルトの時代となんら変わらない芸術家の立場。すなわち人間である貴族の前で芸をする猿にすぎなかった。彼は神経衰弱による鬱になり演奏活動からも遠ざかってしまう。1828年4月30日に閉じられた演奏会は翌1829年3月22日まで再開されなかった。ふたたびリストは毎日のように教会へ通い、ついに聖職者になることを考えた。しかし、母と近くに住んでいたバルダン神父に説得されて思いとどまった。しかし、思いはその後も続いた。
少年リストに聖書を通して、イエスは語りかけた。その言葉のすべてが彼の渇いた心に慈雨として沁みこみ、現実の残虐から彼を救い出した。ルター訳のドイツ語聖書を通じてならば、いっそう生々しくイエスの肉声が響いただろう。リストの時代にカトリックは「権威」だったが、その発祥の時代には数世紀の間、ローマ帝国のいたるところで、それは邪教として厳しい迫害を受けた。闘技場でキリスト教徒がライオンに食われるさまを、貴族たちは娯楽として楽しんでいた。
イエスの生きた時代とその後のキリスト教の出発点は、紀元30年から40年頃ユダヤのエルサレムにいたガリレヤ地方の無知文盲の田舎者の群れだった。彼らはイエスが十字架にかけられて死んだのち「復活」して天国に昇り神の右に座しているが、やがて今にも救世主として再臨し、この世に正義と希望の国をもたらし不幸や不正を一掃してくれる、と熱望した。イエスの言葉が記された新約聖書のギリシア語はコイネーと呼ばれる田舎の方言で示されている。原典は後世ローマ教会によって定められたウルガタ、つまり格調高いラテン語の荘重体からは遠い、田舎言葉で書かれていたのだ。新約聖書には、貧しき者(田舎者・芸術家)への賛美と金持ち(貴族)への烈しい非難がいたるところに撒き散らされている。金持ちが天国の門に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい。
おそらくリストは取り澄ました白い手の貴族に古い素性のあいまいな系図を突きつけて、貴族の祖先だった農夫の土が沁みこみひび割れだらけの赤い手を突きだしてやりたかった。カトリック成立以前の原初のキリスト教は「人間のみじめさ」がはぐくむ切ない悲願、凄まじい希望が培養した灼熱の熱さのなかでの「救済」「解放」の運動だった。
2

「宗教音楽」の定義は何か。カトリックのラテン語典礼文に、ただ曲をつければ「宗教音楽」になるのだろうか。それらは間違いなく教会での典礼に用いられる神への信仰を告白する音楽だ。音楽がはじまったとき、用いられた楽器は人間の声だった。祈る言葉の抑揚がいつしかともに朗唱する歌になった。西洋音楽は9世紀ころにまとめられた教会で歌われた「グレゴリオ聖歌」に発祥する。「宗教音楽」はミサでの祈りの言葉や聖書からの言葉が歌われた。それが音楽だった。
修道士たちの男声の斉唱がペロタンらによって声部がわかれる合唱になり、やがて中世・ルネサンスには50声部を超える宗教音楽が書かれた。その頃になれば、なにが目的だったのかが判らなくなった作曲家もいるだろう。一声部、二声部だけでも神と人間のことは書けるのに。いずれにせよ中世・ルネサンスの作曲家には「作曲家と宗教」が問われることがない。教会に仕え、教会の礼拝のための音楽を書くことが主な彼らの仕事だったからだ。世俗の音楽はクラウデイオ・モンテヴェルディがオペラまでも書き、宗教音楽と世俗音楽はいちだんと豊かになった。バッハまでは宗教音楽も教会で演奏された。バッハは楽譜の最後に”Soli Deo Gloria”「神のみに栄光あれ」と記した。同時代を生きたヘンデルは「メサイア」を教会から脱け出して劇場で演奏した。ロンドンの孤児院でくりかえし演奏した。ヘンデルが書いた、たったひとつの宗教的「オラトリオ」だった。
かくして「宗教音楽」は教会に仕えた中世・ルネサンスの時代から、バロックのバッハ、ヘンデルを経て、貴族に仕えたハイドンも教会に仕えたこともあったモーツァルトも「ミサ」をたくさん書いた。教会の人ではなかったベートーヴェンのあとに勃興したロマン派作曲家では、メンデルスゾーン、グノー、ブルックナーと比肩してリストは19世紀を代表する声楽を用いた宗教音楽の作曲家だった。ローマ時代には集中的に作品を書いた。「音楽は本質において宗教的である」とリストは考えていた。ピアノ独奏曲にも書いた「聖なる言葉」がないリストの「宗教音楽」も枚挙にいとまがない。
3

19世紀に才能を持つ音楽家として認められるには「宗教音楽」を書くか、大衆を向いて喝采を博す「オペラ」を成功させることしかなかった。ショパンも学生時代の師ユゼフ・エルスネルから、そうすることを勧められた。13歳のリストは師のフェルナンド・パエールの助けを得てオペラ「ドン・サンシュ」を書いた。その根には教会に帰依し神を祝福すること(宗教音楽)と、人びとが喜ぶものは神も喜ぶだろう(オペラ)という音楽芸術の広さと深さがあったとすれば、「オペラ」が「宗教音楽」の形式を踏襲しつつ発展したことは必然だった。
「ミサ・ソレムニス」(1823)という神と人間を結んだ祈りの音楽を書いたベートーヴェン没後、音楽の世界の中心はパリにあった。自分が死んでも残ってほしい壮大な夢を託した「第九交響曲」(1824)の巨匠の没後3年の1830年、ベルリオーズは「幻想交響曲」を書き時代を震撼させた。新しい時代が訪れたのだ。当時のパリ音楽院が定めた若い作曲家にイタリア留学の資金を賞金を与える「ローマ賞」を獲得するには「カンタータ」を書かなければならなかった。ベルリオーズは『オルフェウスの死』、『エルミニー』、『クレオパトラの死』についで『サルダナパールの死』の4度目の挑戦にして、ついに「ローマ賞」を獲得した。「カンタータ」すなわち複数の独唱者とオーケストラのための作品は、先行して「宗教音楽」に用いられた形式であり、19世紀にはオペラがもつ形式にもなっていた。
オペラをパリ・オペラ座で上演するのが夢だった。「ベンベヌート・チェッリーニ」は受けいれられず、いのちをかけた大作「トロイアの人々」はドイツからやってきたヴァーグナーの「タンホイザー」に先を越された。フランス人の作曲家ベルリオーズはパリの音楽界の梯子を昇ろうとした。彼の才能を誰よりも認めていた19歳のリストは、ベルリオーズが初演した「幻想交響曲」に感激した。その一点にとどまって終生ベルリオーズの才能を世に知らしめようとした。「幻想交響曲」は徹頭徹尾「人間の音楽」であり、恋に狂った青年が巻き込まれた夢と幻視と絶望が展開された。そこに救いはない。
救いのなさに「カタルシス」を得ることがある。カタルシスとは人間個人のいつわらぬ感情を解放することによって得られる精神の「浄化」を意味する。アリストテレスが『詩学』中の悲劇論に「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」として書き著して以降使われるようになった。古代アテネにも神はいた。精神を浄化すれば、人間は神に近づくことができるだろう。「カタルシス」も魂の浄化への道であり、修道士への道に迷った青年リストは、たちまちにして「幻想交響曲」に神への道を嗅ぎとった。
4

残虐はイエス・キリストが体現した「神に生きるもの」の現実そのものだった。新約聖書を読めばいい。ユダヤ教の律法学者たちを否定し続け弾圧され、たえず差別と迫害に遭った。漁師たちを含む世間からは低く見られた階級の弟子たちだけがイエスのもとに集まり教えを聴いたが、ユダに裏切られた。
そののちイエスは捕えられ、処刑されるための重い十字架を背負いゴルゴダの丘までの坂道を歩かされ、処刑場に着くと衣服を剥がれて十字架に固定するために両掌を杭で打ちつけられた。民衆は隣のバラバは助けろと叫び、イエスは槍で突き刺されて死んだ。これは愚かな人間が「神の子」を殺した事実であり、新約聖書に記されて忘れてはならない「人間の劇」として歴史の下層に沁みこんでいった。
リストは1861年にはローマに移住し、1865年にようやく少年時代から切望した聖職者になった。ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由。ここから彼の「宗教音楽」はますます増えていく。1870年代になると調性感が薄らいでいく作品が書かれるようになる1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言した。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。
そして晩年に書いた宗教音楽の最高傑作が『十字架の道』(Via Crucis)。主にローマで作曲、1879年のブダペスト滞在中に完成された。リストの存命中には演奏されず、作曲されてから半世紀たった1929年の聖金曜日にブダペストで初演された。楽譜はさらに遅れて、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された旧リスト全集の第5シリーズ第7巻に収録、1936年に出版された。
『十字架の道』(Via Crucis)は混声合唱と、オルガンまたはハルモニウムまたはピアノのための作品で「十字架の道行きの14留」という副題がつけられている。イエスの受難が14の場面に分けて描かれていく。前奏曲:王の御旗。1留:イエスに死刑宣告。2留:イエス、十字架を背負う。3留:イエス、初めて倒れる。4留:イエス、聖母マリアに出会う。5留:キレネのシモン、十字架を背負うイエスを手伝う。6留:聖ヴェロニカ。7留:イエス、再び倒れる。8留:エルサレムの女たち、イエスのために涙を流す。9留:イエス、三たび倒れる。10留:イエス、衣を剥がれる。11留:イエス、十字架にはりつけられる。12留:イエス、十字架上で死す。13留:イエス、十字架から降ろされる。14留:イエス、墓に安置される。
ここには一般に知られるリストとは、まったくちがうリストがいる。予備知識なしに、この型破りな音楽を聴いて作曲家がわかる人はまずいない。人を酔わせる甘い旋律もハンガリーの土俗の力強さも、かつて得意とした超絶技巧すら、かけらもない。グレゴリオ聖歌を思わせる音楽の佇まい。調性記号があってもなきがごとくに半音階的に動く音楽が奏でられる。リストは音楽においてカトリックもプロテスタントも受け入れた。イエスは「ひとり」なのだから、そうでなければならない。バッハの『マタイ受難曲』からルター作のコラールを歌わせる。全体を通しては調性感が稀薄であり、無調の響きが支配している。
「無調」は信仰の誠実さをあらわす音楽の姿だった。信仰をあらわす表現が人間の真実の姿から神への祈りを伝えるものとすれば、それは幼い主要三和音だけでは嘘になる。自己の罪をも告白しても「許し」は神父によるものではなく、神によるものでなければならない。人間と神のへだたりを埋めるのは人間界の安定した調性ではない。調性が破壊された音のなかでしか歌えない。