人気ブログランキング | 話題のタグを見る

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]


音楽院時代の未出版の野心的習作から、戦後前衛音楽の扉を開いた初期傑作群を経て最晩年の帰趨まで、
ブーレーズ創作史の全貌を辿る4時間の旅

大井浩明ピアノリサイタル ~ピエール・ブーレーズ全ピアノ作品による(生誕100周年記念)
2025年9月18日(木)17時30分開演(17時開場)
豊洲シビックセンターホール(東京メトロ「豊洲」駅徒歩1分)

全自由席:一般 5,000円/学生 3,000円 https://teket.jp/10893/53339

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_14324471.jpg9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_14325849.jpg


【第一部】 17時30分~
《左手のための主題と変奏》(1945、日本初演)  13分
Thème, Très lent - Var.1 Lent - Var.2 Lent - Var.3 Pas trop vite - Var.4 Modéré - Var.5 Scherzando - Var.6 Très agité - Var.7 Très égal et assez lent. Dans un grand crescendo - Var.8 Intermède. Très léger et assez vif. Net - Var.9 Modéré, très brusque - Var.10 Modéré, avec de violentes oppositions - Var.11 Assez vif, strident et exaspéré - Var.12 Très modéré, presque lent - Var.13 Très lent, simple

《3つの頌歌(プサルモディ)》(1945、日本初演) 23分
 1. Très modéré - 2. Vite, sans traîner - 3.Très lent

《前奏曲、トッカータとスケルツォ》(1944/45、日本初演) 26分
 1. Prélude / Très lent - 2. Toccata / Avec beaucoup de fougue - 3. Scherzo / Rapide

 (休憩10分)

【第二部】 18時40分頃~
《12の徒書(ノタシオン)》(1945) 10分
 1. Fantasque. Modéré - 2. Très vif - 3. Assez lent - 4. Rythmique - 5. Doux et improvisé - 6. Rapide - 7. Hiératique - 8. Modéré jusqu’à très vif - 9. Lointain. Calme - 10. Mécanique et très sec - 11. Scintillant - 12. Lent. Puissant et âpre

《フルートとピアノのためのソナチネ》(1946) 11分
 Très librement /Lent - Rapide - Très modéré presque lent - Tempo scherzando - Tempo rapide

《第1ソナタ》(1946) 10分
 1. Lent - 2. Assez large

《第2ソナタ》(1947) 30分
 1. Extrêmement rapide - 2. Lent - 3. Modéré, presque vif - 4. Vif

《構造 第1巻》(1951/52) 17分
 Ia / Très modéré - Ib / Très rapide - Ic / Assez rapide

 (休憩10分)

【第三部】 20時10分頃~
《第3ソナタ》(1956/57) 30分
 第3フォルマン(構成素):《コンステラシオン-ミロワール(星座-鏡像形)》 [メランジュ(混合体) - ポワン(点)3 - ブロック(塊)2 - ポワン2 - ブロック1 - ポワン1] - 第2フォルマン:《トロープ(修飾)》 [テクスト(文章) - パランテーズ(括弧) - グローズ(注釈) - コマンテール(解説)] - 第1フォルマン:《アンティフォニー(交唱)》 [アンティフォニーⅠ- アンティフォニーⅡ - シグラ(略語) - トレ・イニシャル(初期特性)》

《構造 第2巻》(1961) 20分
 Chapitre I – Chapitre II

《下書き断片》(1987) 1分

《内挿節(アンシーズ)》(1994/2001) 10分
 Libre. Lent, sans traîner - Prestissimo - Très lent puis Vif - Très lent

日めくりの一頁》(2005) 5分



(※)2011年ブーレーズ公演感想集 https://posfie.com/@kenhongou/p/3kHru0c



9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_02374875.jpg
神田寛明(フルート/客演) Hiroaki KANDA, flute
NHK交響楽団首席奏者・桐朋学園大学教授。東京藝術大学、ウィーン国立音楽大学にて学ぶ。1991年第5回日本フルートコンベンションコンクールおよび第8回日本管打楽器コンクールにおいて第1位。赤星恵一、金昌国、細川順三、ヴォルフガング・シュルツ、ハンスゲオルグ・シュマイザーの各氏に師事。大阪芸術大学客員教授、東京藝術大学講師。日本フルート協会特任理事。アジア・フルート連盟東京常任理事。神戸国際フルートコンクールをはじめ、国内外多くのコンクールにおいて審査員を務める。N響定期公演においてトン・コープマン氏とモーツァルトの協奏曲を演奏するなどソリストとしても活動する。音楽之友社より教本「上達の基本 フルート」を発表。CDの発表、フルートアンサンブル作品の編曲出版も多い。



9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_02375947.jpg
浦壁信二(ピアノ/客演) Shinji URAKABE, piano
1969年生まれ。4 才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。都立芸術高校作曲科を経て、1987 年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1 等賞を得て卒業、対位法で2 等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994 年オルレアン20 世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。室内楽・伴奏を中心に、国内外の多くのアーティストとの共演を果たす一方、2012年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集1」、2014年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集2」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得た。現在、洗足学園音楽大学客員教授、東京音楽大学特任教授、ヤマハマスタークラス講師。





作曲家ブーレーズを生誕100年に総括する―――野々村 禎彦

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_16284290.jpg
 ピエール・ブーレーズ(1925-2016)は、同世代で同じくオリヴィエ・メシアン(1908-1992)に師事したイアニス・クセナキス(1922-2001)やカールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)と比べると、20歳代前半で時代の寵児になってエリートコースを歩んだように見えるが、クラシック音楽の基準ではさほどでもない。フランス南東部ロワール県の小都市モンブリゾンで生まれ、7歳でピアノを始めたのも中流階級の嗜みとしてであり、その後は鉄鋼技術者の父が望む理系エリートへの道を歩み始める。だが、エコール・ポリテクニーク入学を目指して近場で最大の都市リヨンの学校に進んで運命が変わる。オーケストラの演奏会やオペラの舞台に初めて接してクラシック音楽への興味が増し(作曲も始め)、同地のソプラノ歌手ニノン・ヴァラン(1886-1961, 《マラルメの3つの詩》の初演など生前のドビュッシーと活動し、その後はオペラ・コミック座などで活躍)にピアノの腕前を認められ、音楽院への進学を薦められた。父は反対したが、姉の援助でパリ音楽院受験準備を進め、1943年秋に入学した(父も最終的には認め、下宿探しを手伝って仕送りも行っていた)。

 当初目指していたピアノ科上級クラスには入れなかったが、1944年1月に和声科初級クラスに入り、数ヶ月後にはクラス随一の学生だと認められると、上級クラスを担当するメシアンに近づき、同時代の作曲法を教える課外授業に出入りするようになる。また同時期に対位法クラスを担当するアンドレ・ヴォラブール(1894-1980, ピアノ科で一等賞を得てオネゲルと結婚し、夫のピアノ曲演奏でも知られる)の知己を姪が同級生の縁で得て、彼が音楽院を去る2年後まで対位法を私的に学んだ。翌1945年1月にメシアンのクラスに入ると、6月に一等賞で修了している。彼がこのように長足の進歩を遂げた秘訣は、確立した理論は基本的に独学で身に付けて、講義は独善に陥っていないかを確認する機会として活用する、理系エリートを目指した時期に会得した学習法にあった。後の彼の「意志による独学者であるべき」という持論には、このような背景がある。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_16285484.jpg
 本日日本初演される習作3曲のうち《前奏曲、トッカータとスケルツォ》《3つの頌歌》はメシアンのクラス在籍時に書き始めたが、同時期にルネ・レイボヴィッツ(1913-1972)が振ったシェーンベルク《木管五重奏曲》を聴いて12音技法に初めて接し、早速独習した成果が《左手のための主題と変奏》である(手を動かしながら学ぶために書いたので、《3つの頌歌》よりも完成は早い)。1945年の秋にはメシアンの課外授業の仲間たちと、レイボヴィッツに12音技法と新ウィーン楽派の音楽を学ぶ私的セミナーを組織した。12音技法という新たな道具を手にしたことで、彼はメシアンの音楽に突き放して向き合えるようになった。こうして《12のノタシオン》は1945年末に一気に作曲された。先の習作3曲同様、この曲も習作扱いで封印されていたが、1970年代末から始まった数曲を管弦楽編曲する企画に際して封印は解かれ、その後長らく作品表の冒頭に置かれていた。彼の目が黒いうちは決して演奏されなかった先の3曲との違いは、素材との批評的な距離が取れているところで、その後の作品でも重要な側面である。

 パリ音楽院では、ある科(初級と上級がある場合は上級の科)で一等賞を取れば卒業扱いだが、引き続き在籍も可能である。ブーレーズの場合は、目指すのは教師ではなく作曲家なので作曲科で一等賞を取りたいが、当時の教授陣では望み薄なので、ヴォラブールに対位法を学んでいるうちは在籍することにした。多くの時間は作曲に費やしたが、《12のノタシオン》作曲前後にはギメ東洋美術館やパリ人類博物館でバリ島や日本やアフリカの民俗音楽に没頭していた。1946年1月にはヴォラブールとは別のフーガ・対位法クラスに入ってみたが、因襲的な講義なのですぐ出席しなくなり、メシアンの作曲科移籍を求める運動を組織したりもしている。

 彼の12音技法による作品は、《主題と変奏》は試し書き、《12のノタシオン》は小品集であり、次作《フルートとピアノのためのソナチネ》が最初の大曲になる。《12のノタシオン》でメシアンに向き合ったので、今度はシェーンベルク。複数部分を単一楽章に縫い合わせた重量感のある作品といえば室内交響曲第1番だが、表現主義的な性格も含めてモデルにしている。ピアノソナタ第1番はその直後に書かれており、シェーンベルクOp.11との関連を見る向きが多いが、断片化した素材を12音技法でつなぎ直した持続であり、シェーンベルクで言えばOp.19を経たOp.23と比較する方がふさわしい。彼はこれらの作品をレイボヴィッツに見せており、《ソナチネ》は好評だったので第1ソナタを献呈する予定だったが、気に入らず手直しすら行おうとしたので決裂した。以後の彼はレイボヴィッツを教条主義者として拒絶する。伝統的な旋律線が見え隠れする《ソナチネ》と極度に断片的な第1ソナタで世代の好みが分かれるのは致し方ないが、両作品とも1949年まで繰り返し改訂されており、第1ソナタの方が改変度は大きいことは注意を要する。1945-46年にかけて彼が1作ごとに急速に進歩したように見えるのは、最初期から顕著だった〝改訂癖〟の産物でもある。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_16290774.jpg
 1946年5月にヴォラブールに最後の対位法のレッスンを受け、彼のパリ音楽院生活は実質的に終わった。フーガ・対位法クラスの試験は1週間後だったが、その直前まで《変奏曲とロンド》という小品を書いてヴォラブールに献呈した。独習では掴めなかった対位法の真髄を2年かけて教えてくれた師への感謝を込めた、その時点では最も対位法的な(《ソナチネ》も第1ソナタも音数は多いが高々2声)曲で、後にピアノソナタ第2番第3楽章の原型になった。講義について行けなかったわけではないことを示すためだけに受けたフーガの試験で〝なぜか一等賞にはならなかった伝説の模範答案〟を残して去ってゆくあたりが彼らしい。学生生活を終えたら生計は自分で立てることになるが、ピアノの延長で習得したオンド・マルトノ(この電子楽器のための四重奏曲も作曲したが、撤回して他作品の素材に用いた)の腕を活かして、ベル・エポック時代に一世を風靡したミュージックホール、フォリー・ベルジェールの箱バンに入った。もちろんこの仕事は腰掛けで、同年10月にルノー=バロー劇団からオンド・マルトノ演奏を頼まれた機会を逃さず、同劇団の音楽監督に就任して1956年まで務めた。六人組などの音楽の指揮と編曲が主で創造的ではないが、それはミュージックホールの仕事と変わらない。少なくともクラシック曲の指揮経験にはなり、公演で世界各地にも行けるので、指揮者への準備としては悪くなかった。

 生活が安定して生まれた最初の(おそらく最大の)代表作がピアノソナタ第2番である。ソナタと名乗りながらソナタ形式を破壊することが中心的なコンセプトだが、主題や展開などの要素を抹消してもなお統一感を保つ鍵は強固な対位法構造であり、J.S.バッハの《クラヴィーア練習曲集第3巻》や《フーガの技法》を自ら研究して身に付けた。ヴォラブールに学んだ2年の成果であり、20世紀を代表する傑作のひとつはこうして生まれた。彼の作品の良し悪しを判定する基準として、〝改訂が行われていないほど良い〟があり、《ソナチネ》や第1ソナタでも出版までに数年にわたる改訂を経ているのに対し、第2ソナタは完成後は一切手が入っていない。後から手を加えたくなるのはコンセプトやリアリゼーションに瑕疵があるからだが、彼はそれを過去は過去と切り捨てて前に進めないタイプなのだ。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_16292334.jpg
 第2ソナタの前後にはルネ・シャールの詩に基づくふたつの作品がある。《婚礼の顔》と《水の太陽》である。前者は10打楽器奏者を含む4管編成の大管弦楽、ソプラノ、アルト、女声合唱のための約30分のカンタータであり、1946-47年の初稿、1951-52年の改訂稿を経て1957年に初演された。シェルヘンが指揮する予定だったが、彼の合唱指揮を見て譲り、彼が最初にオーケストラを指揮する機会にもなった。当時の彼のイメージとはギャップがある後期ロマン派風の響きが話題になったが、彼はオーケストレーションに問題があるとして長らく封印状態だった。1989年の再改訂で4分音を除くなど大きく手を入れて自ら録音し、以後はレパートリーに定着した。後者は元々は1948年に制作されたシャールの詩を含むラジオドラマであり、同年に詩の部分を抜き出してもう1篇加えた3独唱者と室内管弦楽版、1958年に混声合唱と管弦楽のための改訂版、1965年にソプラノ、混声合唱、管弦楽のための最終版に至って出版された。ドビュッシーと初期ストラヴィンスキー(新古典主義以前)という、彼の新ウィーン楽派以外のもうひとつ発想の源泉を伝える重要な作品だが、比較的大編成だが約10分というアンバランスさのため、演奏機会はあまり多くない。

 実のところ、ここまでで作曲家ブーレーズの本質的側面は出揃っている。発想の源泉は20世紀前半のウィーンとパリのモダニズムで、前者はピアノ曲、後者は声とアンサンブルのための曲で主に発揮された。前者は技法としては後者の曲でも用いられており、両者の交配は20世紀前半には考えられなかった。彼はこの時期にクレーなどの20世紀前半のモダニズム絵画にも出会っており、Le pays fertile : Paul Klee (1989) を読んでも、彼の芸術観は戦前・戦中のモダニズムで閉じている。ここで再び、同じくメシアンに師事したクセナキスやシュトックハウゼンと比べると、対ナチスドイツ(戦後は対英国軍)抵抗運動に参加して瀕死の重傷を負ったクセナキスや、最前線の野戦病院に勤務して有機物と無機物の境界が失われる極限状態を経験したシュトックハウゼンとは違い、彼は第二次世界大戦中に価値観が根幹から揺るがされるような体験はしていない。根本的な部分で彼らとは〝違う〟わけだが、この違いはどのような形で現れるのだろうか。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_16293348.jpg
 その意味でも、この時期に彼がジョン・ケージ(1912-1992)と親交を結んでいたのは興味深い。ケージは世代的にはレイボヴィッツと同じだが、芸術観では戦後米国の抽象表現主義も受け入れており、この点では彼よりも〝若い〟。他方、音楽観の根幹には青年時代にシェーンベルクから教えられた、秩序と構成を重視する姿勢が横たわっている。誤解含みでもあったが、ふたりは根本的な部分でわかり合えた。ふたりの関係は1949年6月にケージがブーレーズの部屋を訪れて始まった。バリ島やアフリカの民俗音楽を特徴付ける打楽器合奏に関心を持っていた彼は、それを西洋音楽を象徴するピアノ上にインストールして精緻に制御する、プリペアド・ピアノの発想に強く惹かれ、サロンでの紹介や演奏会を企画した。ケージも帰国後、第2ソナタの米国初演に奔走して実現した。深い絆で結ばれたふたりは頻繁に往復書簡を交わすようになる。

 第2ソナタに続く作品として、まず《弦楽四重奏のための書》(1948-49) が挙げられる。第2ソナタの基盤は音高のみを管理する伝統的な12音技法であり、それ以外の音楽要素は意志の力で制御して「ソナタ形式の破壊」を行っている。だが後期ヴェーベルンの作品では、音高とリズムを連動して管理する工夫がなされており、この曲で彼もその方向を試み始めた。またタイトルの「書」はマラルメの「書」概念にならった断片の入れ替え可能性を意味し、楽章の順序は奏者が自由に選べる。曲想はアンサンブル曲よりもピアノ曲に近いがピアノ曲よりも静的なのは、演奏順序を可変にするための配慮と理解できる。作曲者はいくつかの試演を経て演奏困難で指揮者が必要な失敗作と判断し、一度は撤回して弦楽合奏への編曲を始めたが、アルディッティ四重奏団やディオティマ四重奏団など全曲の通奏をこなす団体が現れ始めて撤回を撤回し、2012年に全6楽章の最終校訂を行った。なお、未完成だった第4楽章は作曲者死後の2017年にマヌリーが補筆完成した。この路線を受け継いだのが《ポリフォニーX》(1950-51) であり、1950年末のケージへの手紙では「24音の四分音音列を用い、7奏者の7グループが14ないし21の断片を対位法的に組み合わせ、リズム細胞の管理法は…」と雄大な構想を楽しげに披露している。だが、初演日程が決まって実務的な打ち合わせが始まると、四分音は取り止め、編成も18人に縮小…とスケールダウンされてゆき、彼の意欲も下がっていった。後述する《構造I》を書き始めると(この曲よりも〈構造Ia〉の方が先に完成)彼の関心はそちらに移り、初演にも立ち会わず(ルノー=バロー劇団の公演を優先)、初演の録音を聴いて撤回を決めた。教条的すぎるという判断だった。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_02125420.jpg
 《構造I》は《弦楽四重奏のための書》や《ポリフォニーX》に連なる作品だが微妙に系列が違い、この時期のヨーロッパ戦後前衛で大流行した総音列技法を用いた最初期の作品のひとつである。奥歯に物が挟まったような書き方になるのは、時系列は《構造I》で最初に書かれた〈Ia〉よりも、ベルギーの作曲家カレル・フイヴェールツ(1923-1993)が《2台のピアノのためのソナタ》(1950-51)を完成した方が微妙に早いからである。だが、ブーレーズが発想を横取りしたわけでもない。フイヴェールツはこの作品を1951年のダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会で公にしたが、〈構造Ia〉はそれよりは早く、ふたりは独立に同じ発想に至っている。それまでのブーレーズはリズム細胞を音列化しようとしていたが、リズム細胞は複数の音符で構成され音列と音符が1対1対応しないので、音高などの1対1対応する音列との組み合わせ方が自明ではなく、作曲に時間がかかった。だが、音価で音列を作り、リズムは音価の並びから結果的に生成されると割り切れば、強度やアタックなどすべての音列が1対1対応になり、あとはほぼ自動生成になる。〈Ia〉は一晩で書いたと彼が豪語するのも、誇張ではないだろう。ただし音域は自由に選べる設定なので、彼らしい跳躍音程が頻出する譜面になっており、最低限の個性は刻印されている。このように全音楽要素に音列を均等に適用すると、生み出される音世界も均質で静的なものになる。フイヴェールツが総音列技法を用いた《Nummer》シリーズ(《2台ピアノのためのソナタ》=《Nummer 1》)にはそのような曲が並んでいるが、ブーレーズは《構造I》以前の試みの経験から、適用対象を絞ったり適用方法を不均等にしたりしてダイナミックな偏りが生じた状況の方が面白いと考えた。〈Ib〉〈Ic〉はそのような偏りをデザインした結果であり、その方が手間がかかるので完成は1952年までずれ込んだ。ちなみに《構造I》も第2ソナタ同様、完成後は一切手が入っていない。

 アルトと6楽器のための《主なき槌》(1953-55) は、ルネ・シャールの詩に基づく彼の作品でも特に知られ、一般的には彼の一番の代表作とされている。《構造I》の次の総音列技法による作品だが、ここでの音列操作は《構造I》のような厳密なものではなく、彼自身が「分析不可能」と述べるほどに元の音列から置き換えられている。このような〝感覚的修正〟自体は必ずしも批判されるべきものではないが、問題は何を〝修正〟しているかである。モダニズムの一般論として、未知の音響を得るためにシステムを用いるのであれば、その出力結果を〝修正〟するのは意味がわからない。目標とする既知の音響があり、それにそぐわないものを〝修正〟しているのである。この作品の目標は明確で、基本はシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》、シュプレッヒシュティメではない滑らかな歌唱はドビュッシーの歌曲、民俗音楽風アンサンブルはストラヴィンスキー《狐》あたりが想定されているのだろう。ギターは日本の箏、シロリンバはアフリカのバラフォン、ヴィブラフォンはバリ島のガムランという楽器の見立ても、彼がパリ音楽院時代に愛聴していた民俗音楽そのものである。いずれも戦前どころか1910年代のモダニズムで、それだけでは古すぎるので総音列技法を介して後期ヴェーベルンのフィルターをかけたということかもしれない。この曲が1950年代ヨーロッパ戦後前衛の代表曲だとみなされているとしたら、その美学は戦前のモダニズム美学とさほど隔絶しておらず、この時期まではそのアップデートで十分通用したことの何よりの証拠である。なおこの曲も、初演を踏まえて1957年にわずかな改訂が行われたのみである。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_02154855.jpg
 ブーレーズが第2ソナタから《構造I》に向かった時期は、ケージがプリペアド・ピアノのための《ソナタと間奏曲》から《易の音楽》に向かった時期でもある。この時期のケージは東洋思想の影響で「自我の放棄」を目指しており、5×5の魔法陣で音高をシステマティックに生成して達成しようとした。ブーレーズはそれを音列を用いた音高管理の等価物とみなし、「我々は同じ道を歩いている」と考えた。だが、ケージの目的はあくまで「自我の放棄」であり、このシステムは偶然性に置き換えられる。《易の音楽》では、8×8通りの卦それぞれに短い断片を対応させ、易を立てて選んでゆく。だがブーレーズはこれを、魔法陣を8×8に拡大したものと捉えて激賞した。やがて、《4分33秒》などを通じてケージの真意を知ると、一転して「怠惰による偶然性」と非難するようになる。ケージの魔法陣システムとヨーロッパ戦後前衛の音列システムが等価だとしたら、魔法陣システムは偶然性に置き換えられる(実際、ブーレーズは区別がつかなかった)のだから、音列システムも偶然性に置き換えられることになる。究極のシステムだと思っていたものがサイコロを振るのと変わらないことになったら恐怖でしかない。何としても叩き潰さなければいけない!

 かくなる上は、ケージ流の偶然性を止揚する概念を提唱して上書きするしかない。そこでブーレーズは「管理された偶然性」を提唱した。すべてを偶然に委ねるのは不毛である、マラルメの「書」のように断片を並べる順序を読者に委ねる程度の偶然性が創造的だ、という主張であり、断片の演奏順序を演奏家に委ねたピアノソナタ第3番は、そのプロトタイプだった。だが、彼の創作史における「書」概念は、音列概念の拡張が主目的だった《弦楽四重奏のための書》ではおまけ的な扱いに過ぎなかった。ケージ流の偶然性へのカウンターとして担ぎ出すのは、そもそも無理がある。原理的にも、マラルメの「書」が成立するのは、詩の本を手元に置いて折々に眺めるからであり、演奏会で一回限り聴く状況では並べ換えの自由度は殆ど意味を持たない。せいぜい演奏家ごとに固定されたいくつかの「版」が生まれるだけである。ブーレーズも程なく問題点に気付き、《プリ・スロン・プリ》や《カミングスは詩人である》のような作品では演奏順序確定版を作る方向で改訂したが、プロトタイプの第3ソナタではそうもいかず、未完成作品として長らく放置されることになった。ケージは1958年にダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会を初めて訪れたが、そこで「管理された偶然性」はケージの毒の防波堤になったわけではなく、むしろケージ訪問が追い風になって、「ケージ思想の簡略版」としてヨーロッパ現代音楽界で流行することになった。何のことはない、ケージの偶然性の音楽に真剣に向き合ってその毒に気付いたのはブーレーズだけで、心ならずも提唱した「管理された偶然性」概念と心中したのは徒労だったのである。

9月18日(木)ブーレーズ全ピアノ作品リサイタル (※)17時30分開演 [2025/09/10 update]_c0050810_02155694.jpg
 この流れの中で、《構造II》は地味ながら意義はある。音列技法における和声は偶発的に発生するもので、その連なりを管理するには別なシステムを持ち込むか、感覚的修正に頼るかだった。この曲を通じて、総音列技法の枠内で和声の連なりを管理できるようになったのは、大きな進歩である。美学的にも、ドビュッシーや初期ストラヴィンスキーと結びついているのは専ら声とアンサンブルのための曲だったが、これでピアノ曲とも結びついたことになる。《プリ・スロン・プリ》(1957-62) は「管理された偶然性」ありきでマラルメを召喚したのに、1984/89年の改訂で演奏順を確定したのでは何の意味があったのかと言いたくなるが、和声の連なりを管理する総音列技法を声とアンサンブルのための作品に導入したという点において、感覚的修正頼みだった《主なき槌》にはない意義は残っている。

 ヨーロッパ戦後前衛の潮目は1960年代半ばから変わり、電子音楽体験と戦後特有の美学が台頭する。第二次世界大戦中に価値観が根幹から揺るがされるような体験を経ているかどうかは、ここで効いてくる。あらためて同世代のメシアン弟子と比較すると、古代音楽の数学的モデル化とノイズ音楽の先駆をなす電子音楽に舵を切ったクセナキスや、ライヴエレクトロニクスと即興的要素の制御に焦点を移したシュトックハウゼンのように、新たな美学を打ち出す余力はもはやブーレーズには残っていなかった。ただし彼は、ジャン・バラケ(1928-1973)のように戦前の美学に殉じたわけではない。1963年のフランス国立放送管との《春の祭典》 の録音と《ヴォツェック》のフランス初演で指揮者として注目され、その後数年でBBC交響楽団とNYPの音楽監督に相次いで就任した彼は、むしろ巧みに活動の中心を切り替えて勝ち逃げに成功したのである。

 作曲家はピークが10年続けば一流、15年続けば超一流の世界である。彼は1946年から1962年まで約15年間ピークを維持しており(頂点は最初の5年だとしても)、その後の余生をとやかく言っても詮ない。1970年代の《ミュルティプル》や《メッサージェスキス》になると、常套音型の反復と堆積に終始する、趣味の作曲としか言いようのないものに退行している。素材に耽溺して、批評的距離は微塵も感じられない。IRCAM所長時代に大型コンピュータの4Xシステムのために《レポン》を作曲したことが刺激になり、その余波で《二重の影の対話》のような佳曲も生まれたが、4Xシステムが吐き出した合成音が、1970年代の彼と変わり映えしない装飾音型なのが問題だった。1992年のIRCAM所長退任後は、再び指揮が活動の中心になったが、作曲に割ける時間も増えた。だが書かれたのは、《内挿節》や《日めくりの一頁》のような救い難い曲だった。《レポン》作曲体験を経て、器楽的な4Xシステムが生成する「未来の音楽」が1970年代の自分と大差なかったことで、それで良いと思い込んでしまったのだろう。同世代のシュトックハウゼンとは違い、電子音楽のセンスがなかったことが、ここに来て致命傷になってしまった。



by ooi_piano | 2025-09-08 14:38 | コンサート情報 | Comments(0)

1月11日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第3回公演


by ooi_piano