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2026年1月11日(日)《ロベルト・シューマンの轍》第3回公演 [2025/12/08 update]


大井浩明 連続ピアノリサイタル
Hiroaki OOI Klavierrezitals
Robert Schumanns Fußspuren

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

後援 一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) [ ]

チラシ 

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【第3回公演】 2026年1月11日(日)15時開演(14時45分開場)
朗読:山村雅治 (*) 

《4つのフーガ Op.72》(1845) 11分
I. Nicht schnell - II. Sehr lebhaft - III. Nicht schnell und sehr ausdrucksvoll - IV. Im mäßigen Tempo

《スペインの歌芝居 Op.74》より「密輸業者」(1849/62) [C.タウジヒ編独奏版] 2分

《4つの行進曲 Op.76》(1849) 15分
I. Mit größter Energie - II. Sehr kräftig - III. Sehr mäßig - IV. Mit Kraft und Feuer

《子供のための歌のアルバム Op.79》より「春の訪れ S.569」(1849/74) [F.リスト編独奏版] 2分

《森の情景 Op.82》(1848/49) 20分
I. 森の入り口 - II. 待ち伏せる狩人 - III. 孤独な花 - IV. 禁足地 - V. 懐かしい風景 - VI. 宿 - VII. 予言の鳥 - VIII. 狩の歌 - IX. 別れ

  (休憩)

《協奏的小品 Op.86 (原曲:4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック)》(1849/2025)[米沢典剛独奏版、初演] 17分
I. Lebhaft - II. Romanze. Ziemlich langsam - III. Sehr lebhaft

《ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」に基づくリートと歌 Op.98》より「ただ憧れを知る者だけが S.569」(1849/74) [F.リスト編独奏版] 3分

《色とりどりの小品 Op.99》(1836/49) 35分
〈3つの小品〉 I. - II. - III. / 〈アルバムの綴り〉 IV. - V. - VI. - VII. - VIII. / IX. ノヴェレッテ - X. 前奏曲 - XI. 行進曲 - XII. 夕べの音楽 - XIII. スケルツォ - XIV. 速い行進曲

  (休憩)

《スペインの愛の歌 Op.138》より「前奏曲」「間奏曲(国民舞曲)」(1849)[作曲者編独奏版] 3分

《美しきヘートヴィヒ Op.106 (詩:F.ヘッベル)》(1849) (*) 5分

《3つの幻想的小曲 Op.111》(1851) 10分
I. Sehr rasch, mit leidenschaftlichem Vortrag - II. Ziemlich langsam - III. Kräftig und sehr markirt

《2つのバラード Op.122 (詩:F.ヘッベル/P.B.シェリー)》(1852/53) (*) 8分
I. 荒野の少年のバラード - II. 難民

《アルバムの綴り Op.124》(1832/45) 25分
1. 即興曲 - 2.哀しみの予感 - 3. 小スケルツォ - 4.ワルツ - 5. 幻想的舞曲 - 6. 小さな子守歌 - 7. 田舎風舞曲(レントラー) - 8. 終わりなき悲哀 - 9. 即興曲 - 10. ワルツ - 11. ロマンス - 12. ブルラ(ブルレスカ) - 13. ラルゲット - 14. 幻視 - 15. ワルツ - 16. まどろみの歌 - 17. エルフ(妖精) - 18. 伝言 - 19. 幻想的小品 - 20. カノン


〈使用エディション〉 新シューマン全集 (2020)


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《きみは花のよう》から《レクイエム》へ                      
山村雅治

 作品番号を付けた最初の23曲はすべてピアノ独奏のための音楽だった。1829年以来、ひたすらピアノという鍵盤楽器に身をささげてきた若い作曲家は、ほかのジャンルには見向きもしない一心不乱さにおいてショパンと肩を並べていた。「歌の年」1840年を半年後に控えた1839年にも、シューマンは声楽曲を「器楽作品よりも下位に置き、偉大な芸術とは見なしてこなかった」と書いている。「自分が生きているあいだ、この考えを翻すつもりはない、と。

 習作時代に歌曲は書かれなかったわけではない。宗教合唱曲の作曲を試みもし、学生のときには歌曲も熱心につくっていた。これらのなかのいくつかの部分はピアノのための作品に転用された。
 だからこそいっそう1840年2月16日/22日付のクララ宛の手紙には驚かされる。
「とりあえず、これだけは伝えておこう。僕は楽譜帳6冊分の歌曲やバラード、大小さまざまな4世の作品を仕上げた。いくつかは君も大いに気に入ると思うよ。ああ、クララ、歌のために書くことはなんという喜びだ! 長いあいだ、僕はこの幸せを知らずに過ごしてきたんだ」。

 歓喜にはちきれる叫びは1840年の最初の数か月に、猛然と湧きあがった創作意欲に駆られて書き上げたいくつかの歌曲集について発せられたものだ。ブラームスによれば、ハイネの詩「きみは花のよう」が「歌の年」に書いた最初の作品だった。歌曲集《ミルテの花 Op.25》の第24曲に置かれた。《ミルテの花》はリュッケルト、ゲーテ、バーンズ、バイロン、ハイネなど6人の詩に曲がつけられた。彼らのなかでハイネは1830年代にパリからの記事や本によって、ドイツの若い芸術家たちに最も持続的な影響を及ぼした文学者だった。

 すでに1828年にシューマンは、ハイネと知り合っていた。大学入学を控えた候補生のときのミュンヘンへの旅で、シューマンは「不平屋の厭世家」としてハイネをとらえていたところ、ハイネが「人間味あふれるギリシャのアナクレオンのごとく、親しげに」自分に歩み寄ってくれたのだ。
 「彼は口のまわりにだけ、辛辣で皮肉な微笑みを浮かべていたが、この微笑みは実人生の些細な煩いを超越した至高の微笑みであり、卑小な人間たちへの嘲りなのである。『旅の絵本』に見られるあの辛辣な風刺、魂の内奥から身体の隅々にまで染みわたるかのような生への憤怒さえもが、彼の話しぶりに大きな魅力を添えていた」。

 シューマンの目に、ハイネは「大いなる絶望」という世界と人生をつらぬく感情を代表する人物と映っていた。ハイネの「奇抜な趣向」や「灼けつくようなような皮肉」に惹かれると同時に、異様で不気味なものと感じた。判り、認める。しかし、シューマン自身は、「全体が最後に調和し、宥和が達成されないような」芸術作品は「解決に至らぬ不協和音と同じだ」と断罪した。

 ベルリオーズの《幻想交響曲》への批評にもこの屈折がある。最後の一行「そしてさらに、滂沱の涙はいつのまにか真珠へと変容を遂げたのである」は、印刷に際して削除した。
 ゲーテの「ファウスト」を音楽にするにあたって、ベルリオーズとシューマンは扱う場面がまるでちがった。ベルリオーズではメフィストフェレスが活躍し、ファウストは地獄の底に突き落とされて死んでしまう。Dämonisch(日本語ではデモーニッシュと表記される)な表現をベルリオーズは自家薬籠中のものにした。
 シューマンはちがった。まず作曲にとりかかったのは「ファウスト」の最終場面で、ファウストは救済される。そしてその前の神秘の「合唱」。メフィストフェレスはファウストの死の場面しか出てこない。

 最終場面について、マルセル・ブリオンは激賞している。
 「この曲の〈神秘の合唱〉を聴くと、天上の平安の国へと、またすべて人間的なものを超越し、真の精神の光を目の当たりにさせる晴朗なエクスタシーへと導かれ、高められるように感ずる。シューマンの作曲した教会音楽すら、これほどの神聖な情感、神的な直感に達してはいない。シューマンは見事な簡潔さで天使の合唱によって天上の喜びを称えさせ、厳かにも甘美な和音の響きの中で聖母マリアを顕現させる」。

 シューマンは、ハイネが言い表した「世界を両断する巨大な裂け目」はよく認識していた。しかし、「社会に走る亀裂」は修復可能であると確信していた。彼にとって、実人生と芸術創造はこうした希望なしには考えられなかった。「さまざまな矛盾こそが、見透かされ、嘲笑される」という可能性をよりどころとした彼の音楽。
 「実人生における苦痛は、音楽における不協和音に相当する。不協和音はそれ自体、大きな魅力を持つものの、聴き手の心は解決を志向するのである」(1838年8月23日)。

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 かくして、魅かれていたけれども怖れていた「ハイネの思想」からは身を遠ざけるようになった。ジャン・パウルのフモールの概念と、ハイネの刻印を帯びた皮肉(イロニー)はしだいに分離していった。
 ハイネは「歌の本」などの抒情詩を初め、多くの旅行体験をもとにした紀行や文学評論、政治批評を執筆した。1831年からはパリに移住して多数の芸術家と交流を持ち、その中には作曲家エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、フランツ・リスト、ジョアキーノ・ロッシーニ、フェリックス・メンデルスゾーン、リヒャルト・ワーグナー、作家オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・サンド、アレクサンドル・デュマらが含まれる。

 ハイネは1832年、ゲーテの死を受けて、「ドイツ近代文学の歴史のために」を執筆した。このころより青年ドイツ派の作家ハインリヒ・ラウベと交流を持つようになるが、1835年にドイツ連邦議会により青年ドイツ派の出版が禁止され、ハイネは彼らの筆頭に上げられてしまう。

 1843年、パリで25歳のカール・マルクスと親交を結び、1845年のマルクスの出国まで頻繁に会う。マルクスはハイネの「ドイツ冬物語」(13年ぶりのドイツ旅行を題材にしたもの)の出版の手助けをするなど援助に努め、ハイネもマルクスに多くの詩を読み聞かせて意見を求めた。1844年、シレジアの窮乏した織物工が起こした蜂起を題材にした時事詩「シレジアの職工」を発表、社会主義者の機関紙でフリードリヒ・エンゲルスの激賞を受ける。ハイネは彼らのプロレタリア革命など共産主義思想の着想に多大な影響を与えた。文学史的にはロマン派の流れに属するが、政治的動乱の時代を経験したことから、批評精神に裏打ちされた風刺詩や時事詩も多く発表している。

 とはいえ愛誦していたハイネの「抒情詩」は別だった。ハイネの愛をうたいあげる抒情詩は文句なく美しかった。シューマンは、「歌の本」に収録された作品群から《詩人の恋》《リーダークライス Op.24》《二人の擲弾兵》など多くの歌曲を書いた。
 1833年の「ライプツィヒの生活帳」には、「H.ハイネの詩にもとづいて音楽による詩をまとめ、これをハイネに捧げる」と書きとめた。ハイネの詩を下敷きにピアノによる「詩」を書こうと考えていた。もとになった詩は、おそらくは添え書きとして付されて聴衆は黙読したり、あるいは演奏前に朗読することを予想していただろう。

 詩を音楽に置き換えるという発想は、ロマン派の時代には中心になる課題だった。ピアノ・パートと歌の声部の関係はシューベルトから一歩踏み出して、両者はきわめて密接に結びついている。「詩をかぶせたピアノ作品」にさえ聞こえる場合がしばしばある。ピアノ作品にも歌詞をつけたくなるような旋律が出てくることがある。1845年、フランツ・ブレンデルはシューマンの音楽の歴史上の意義を早くもみつけようとし、彼の歌曲が「ある意味で、ピアノのための性格的小品の延長上にある」と見抜いていた。


「きみは花のよう」 ハイネ

きみは花のように
とても優しく、美しく、清らかだ
きみを見つめると、切ない思いが
ぼくの心に忍び込んでくる。

ぼくはこの手を
きみの頭にのせて
神に祈りたくなってしまう
きみを清らかで、美しく、優しいままでいさせて下さいと


 シューマンはクララとの愛の日々に酔い、せき止められていた大滝が流れ落ちるように、1840年には来る日もくる日も「歌」を書いた。彼はシューベルトの後継者ではなかった。完全に新しい歌曲の時代を先駆けていた。噴きあがる創造の高揚のなかに、古今未踏の領域に足を踏み入れていると感じていた。「魂の言語としての音楽芸術は、いまだ始まったばかりだ」。
 「人間の声だけではすべてを再現できない」。「歌詞の細かなニュアンスを浮き彫りにする」ためには、なによりも器楽の役割が重要になる。ピアノは声楽パートにおのが身を「絡みあわせて」、ひとつの統一体をなさねばならない。ピアノが歌曲全体にかかわるさまは、「縁どり」「支え」「伴奏」といったものではなく、全体の流れはピアノ・パートのなかに凝縮されている。
 
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 7年間にわたる中断ののち、1847年にシューマンは《ロマンツェとバラード》(メーリケ詩)によって歌曲創作の第2期を迎える。愛をうたいあげる抒情詩ではなく、政治や社会を採りあげている、きわめて多声的な書法が用いられている。後期の歌曲創作は1849年と1850年が中心になり、1852年の《メアリー・ステュアート女王の詩 Op.135》で終止符が打たれた。独唱歌曲は大量の声楽曲の一部にすぎなくなり、合唱によるバラードやロマンツェ、そしてオラトリオという新しいジャンルの作品を生んだ。音楽はあまねく理解され、できるだけ社会の現実にはたらきかけるものにあってほしい。歌曲は合唱曲の様式に近づいていく。音楽の構造を簡潔に切りつめ、歌詞が朗読のように聞き取れるようにする。もはや「詩の細かいニュアンス」をすくいあげようとする意図が前面に押し出されることはない。《楽園とペリ》以来、合唱作品でなかで追及されてきた方向が、いまや逆にピアノ伴奏による歌曲にも影響を及ぼしていく。
 
 シューマンが劇的な朗読様式を強く求めるようになったことも確かだろう。《美しいヘドウィッヒ Op.106》(ヘッベル詩)において「語られる歌曲」にきわまり、1852年にはバラード2篇《荒野の少年》(ヘッベル詩)と《逃亡者たち》(シェリー詩)でさらに推し進められる。リート(歌曲)にとどまらず「メロドラマ」様式の可能性をシューマンは探っていた。
 
 歌曲様式のドラマへの接近は、もうひとつの「歌芝居」(Liederspiel リーダーシュピール)への取り組みにもつながった。1849年の《スペインの歌芝居 Op.74》と《スペインの愛の歌 Op.138》と《愛の戯れ Op.101》(リュッケルト詩)の3作品を同じ年につくっている。この「歌芝居」は、筋と音楽のつくりが簡素であるという点でジングシュピール(Singspiel、モーツァルト《魔笛》など)を上回っている。このように「歌の年」1840年に生みだされた一連の歌曲とはちがい、後期の歌曲はひとつの固有のジャンルにとどまらない、より広い表現手段としての「声楽」の試みが広がった。

 創作活動の終わりに、シューマンは宗教音楽の大作を書いた。まず《ミサ曲 ハ短調 Op.147》が1852年2月13日から3月30日にかけて大部分が作曲され、その後1853年3月23日に「オッフェルトリウム」が付け加えられて現在の形となった。作曲者の死から6年後の1862年に、クララ・シューマンの呼びかけで全曲初演が実現した。出版も1862年まで持ち越された。
 そして《レクイエム 変ニ長調 Op.148》は、作品番号ではシューマンの最後の楽曲になっている。出版は死後の1864年。しかし本曲は完全に忘れられ、初演は1976年まで行われなかった。祈祷文を使用した純粋なレクイエムとしてはこの作品が唯一の作品。おだやかな慰安を求めるような広やかな響きが意外だった。ほかの作曲家のレクイエムのような旋律の強さは避けられている。終曲へ進むにつれて沁みこんでくる悲しみの翳。無視されてきたのは、「晩年の精神の病が影を落としているとみなされたため」とされている。しかしこの曲に狂気の影はない。楽譜に向かうシューマンの精神に狂いはなかった。


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〈予告〉
【第4回公演】
2026年3月22日(日)15時開演(14時45分開場)

《7つのフゲッタ形式によるピアノ曲 Op.126》(1853)
《朝の歌 Op.133》(1853)
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《プロヴァンス地方の恋唄 Op.139-4/ S570》(1852/1881) [F.リスト編独奏版] 〔ブラームスに献呈〕
《序奏と協奏的アレグロ Op.134》(1853/2025) [米沢典剛編独奏版/初演] 〔ブラームスに献呈〕
《F.A.E.ソナタ(自由だが孤独に)》より「間奏曲とスケルツォ」(1853/2025) [ブラームスとの共作、米沢典剛編独奏版/初演]
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《ゲーテのファウストからの情景 WoO 3》序曲 (1853/1882) [R.クラインミヒェル編独奏版]
《天使の主題による変奏曲 WoO24》(1854)
ブラームス:《シューマンの天使の主題による変奏曲 Op.23》(1861/1878) [T.キルヒナー編独奏版]




by ooi_piano | 2025-11-15 19:38 | シューマンの轍 | Comments(0)

12/20(土)18時 1840年製エラールによる《リストの轍》第3回公演


by ooi_piano