大井浩明 フォルテピアノリサイタル
《フランツ・リストの轍》(全5回)
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai
全自由席4,000円
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
〈使用楽器〉 1840年製エラール(Érard)社フォルテピアノ [80鍵、430Hz]
〈使用エディション〉 新リスト全集 (1972/2021、ミュジカ・ブダペシュト社)
![3/28(土)18時 1840年製エラールによる「ヴァイマールの黎明」 [2026/03/06 update]_c0050810_12491775.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/13/10/c0050810_12491775.jpg)
【第5回公演「ヴァイマールの黎明 Die Dämmerung Weimars」】
2026年3月28日(土)18時開演(17時半開場)
ハンガリー狂詩曲第6番 S.244-6 (1847) 7分
Tempo giusto – Presto - Lassan (Andante) - Friska (Allegro)
ハンガリー狂詩曲第14番 S.244-14 (1847) 12分
Lento quasi marcia funebre - Allegro eroico - Allegretto alla Zingarese - Vivace assai
演奏会用大独奏曲 S.176 (1849) 18分
Allegro energico / Grandioso - Andante sostenuto - Allegro agitato assai - Andante, quasi marziale funebre / Allegro con bravura
1qaz (1995-):《トルコ月光行進曲》《ちょっとエモいトルコ行進曲》(2025、委嘱初演) 10分
(休憩)
F.キュームシュテット(1809-1858)《リスト博士の主題による4声の演奏会用大フーガ Op.24》(1850) 11分
Introduction / Adagio - Fuge / Allegro maestoso
スケルツォと行進曲 S.177 (1851) 12分
Allegro vivace, spiritoso (Scherzo) - Allegro moderato, marciale
マイアベーア《預言者》の再洗礼派のコラール「我らに救いを求めし者たちに」
による幻想曲とフーガ S.259 (1850/97) [ブゾーニ編独奏版] 25分
I. 幻想曲 - II. アダージョ - III. フーガ
(休憩)
交響詩「プロメテウス」 S.99 (1855/56) [A. ストラダル編独奏版] 13分
Allegro energico ed agitato assai - Andante (Recitativo) - Allegro molto appassionato - Allegro moderato (Fuge) - Stretto, Più animato
グレゴリオ聖歌「怒りの日」による《死の舞踏》 S.525 (1853/65) [作曲者編独奏版] 16分
序奏 - グレゴリオ聖歌「怒りの日」主題 - 変奏1 Allegro moderato - 変奏2 L'istesso tempo - 変奏3 Molto vivace - 変奏4 (Canonique) Lento - 変奏5 (Fugato) Vivace - Cadenza - 変奏6 Sempre allegro, ma non troppo
レーナウ《ファウスト》からの2つのエピソード S.513a/514 (1860) 25分
I. 夜の行列(聖トマス・アクィナスの聖体讃歌「吾が舌よ、榮光に滿てる御身の秘蹟を謳え」による幻想曲) - II. 村の居酒屋の踊り(メフィスト・ワルツ第1番)
[使用エディション:新リスト全集 (1972/2019、ミュジカ・ブダペシュト社)]
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"Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai"
Hiroaki OOI, fortepiano
Shōtō Salon (1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo) [Google Map https://shorturl.at/bgzJM]
Instrument: An original Hammerflügel by Érard [1840, Paris, 80 keys, 430Hz]
Edition: The New Liszt Complete Critical Edition (NLE), Editio Musica Budapest (1972/2021)
4,000 yen
reservation: poc@artandmedia.com(Art & Media Inc.)
< Die Dämmerung Weimars >
Sat. 28 March 2026, 6pm start
1qaz (1995- ) : "Turkish Moonlight March" "A slightly emo-ish march" (2025, Commissioned works, World Premiere)
Friedrich Kühmstedt (1809-1858): Grosse vierstimmige Concert-Fuge über ein von Herrn Dr. Liszt gegebenes Thema Op.24 (1850)
Franz Liszt (1811-1886) : Ungarische rhapsodie S.244-6 (1847), Ungarische rhapsodie S.244-14 (1847), Grosses Konzertsolo S.176 (1849), Fantasie und Fuge über den Choral Ad nos, ad salutarem undam S.259 (1850/97, piano solo version by Ferruccio Busoni), Prometheus S.99 (1855/1905, piano solo version by August Stradal), Totentanz S.525 (1853/65), Zwei Episoden aus Lenaus Faust S.513a/514 (1860)
![3/28(土)18時 1840年製エラールによる「ヴァイマールの黎明」 [2026/03/06 update]_c0050810_02571399.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202602/27/10/c0050810_02571399.jpg)
YouTubeというプラットフォームにおいて、音楽はまず「情報」として処理される。そこでは、タイトルとサムネイルがすべてを支配する。どんなに緻密な和声や技巧を凝らしたところで、クリックという「門」を通過しなければ、その音はこの世に存在しないも同等だ。近年のJ-POPがイントロを消失させ、冒頭数秒に強烈なフックを配置するようになったのは、ストリーミングという媒体において「スキップ」という審判を回避するための適応進化である。音楽史の文脈から見れば異質な変容だが、今の時代、プラットフォームのアルゴリズムに選別され、レコメンド(おすすめ)という名の「押し付け」の循環に居座ることこそが、音楽が「公に生存する」ための、ひとつの避けては通れないプロトコルなのである。
ここで、ひとつの残酷な問いが浮かび上がる。「音楽的な面白さと、プラットフォーム上の数値には相関があるのか?」
私の見解はこうだ。「良い音楽が必ず人気になるわけではないが、人気な音楽は何かしら人を魅了した項目(変数)を持っている」。再生数、高評価、登録者数……可視化された数値は、かつて本屋やCDショップのポップが担っていた「推奨」という能動的な行為を、AIによる「最適化」という受動的な体験へと変質させた。現代のリスナーにとって「聴きたい曲を探す」という行為はすでに機能不全に陥っており、検索欄はもはや形骸化している。私たちは、プラットフォームが提示する「数値的魅力の高い動画」をただ浴びるように消費し、その数値を唯一の客観的な評価基準として内面化していく。
しかし、私がこの戦場に身を投じた根源は、決して高尚な志ではない。もともとは「脳内に浮かんだ突拍子もない着想を、誰かに見てほしい」という、極めて素朴な、あるいは幼稚な欲求から始まっている。そこには「良い音楽を作りたい」という高潔な意思よりも、衝動的なアイデアを即座に社会へ放り込む「無責任な発信」への快楽があった。かつてならば門前払いを食らっていたはずのこうした個人の創作が、インターネットというインフラによってダイレクトに市場と接続された。これは現代のITがもたらした最大の功績であり、同時に「音楽の氾濫」を招いた最大の功罪でもある。
ある日、唐突に「トルコ“行進曲”を行進不能にしたらどうなるか?」という着想を得て、実行に移した。自分でも手応えはあったが、そこに「再生数」という具体的な数字が伴ったとき、私のクリエイティビティは変質した。人間というのは強欲な生き物だ。一度その数値がもたらす快楽に魅了されると、次はいかにしてその「数字を最大化するか」というゲームに没頭し始める。
当初、ここまで「トルコ行進曲」という一曲に固執するつもりはなかった。しかし、膨大な情報が濁流となるYouTubeにおいて埋没を避けるには、万能な音楽家であることよりも、「一点突破の変人」としてタグ付けされるほうが圧倒的に有利である。これがいわゆる「ジャンル特化型」への転換――再生数を伸ばすためのイメージ戦略である。「良い音楽」を追求すること以上に、「アルゴリズムに認識されやすい、尖ったアイコンになること」を優先した結果なのだ。
この歪な構造を、既存の批評家は「もはや芸術ではない」と断じるかもしれない。だが、それは単に評価軸が二極化したに過ぎない。「音楽に精通した人間が面白いと思う音楽」と、「大衆がクリックしたくなる、数値が伸びる音楽」。これら二つの軸がテクノロジーによって露骨に可視化されたのだ。音楽が飽和する現代において、出会いの難しさを突破するために“数値”という共通言語による格付けが必要とされてしまうのは、ある種の一興、あるいは必然ではないだろうか。
今回の二つの作品――ベートーヴェンの熱量を情報の奔流へと圧縮した『トルコ月光行進曲』、そして現代の「エモさ」というテンプレートをハックした『ちょっとエモいトルコ行進曲』――は、そんな欲望と戦略の交差点から生まれた。これらは純粋な音楽的探求であると同時に、いかにして「30秒の壁」を突破し、視聴者の意識をハックするかという、YouTube的な力学の産物でもある。
クリックもスキップもできないコンサートホールという特殊な空間において、これらの「デジタルな偏執」が、生身の肉体を通じてどう響くのか。それは私にとっても、自分自身の初期衝動を問い直すための、スリリングな実験場なのである。(1qaz [いちくあず] https://www.youtube.com/@1qaz927 )






















