![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_134986.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_134986.jpg)
さて、シャーンドル・ピアノ教本については、出版直後に訳者の方から献本していただく → パラパラ見て放置 → 監訳岡田氏「オーイ君の批判やったら聞くヨー」 → 再び放ったらかし → 昨年末にシャーンドル氏94歳で大往生 → 年が明けて訳者の方と雑談中「まだ批評らしい批評は書かれていない」と仄聞 → 某所で会った邦人ピアニストの感想「難しすぎてよく分からない」 → 「親指使用時に手首を下げろ」という教師がパリ音楽院を含めチラホラ存在することが判明 → コメント欄で「シャーンドル批判書きます」宣言 → 初めからきっちり読み出す → 毎頁頭痛 → 暑いのでやる気なくす → せやかて記事書いて更新ピン送らへんことには来月の宣伝もせーへんとあかんしィ → もう一度読み出す → 体が全身で拒否 → カフェで4時間粘って完読(エスプレッソ一杯1.3ユーロ) → 失神。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_13494574.gif](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_13494574.gif)
なお、英語原本を持っておりませんので、すべては日本語訳書に基づく感想です。「かなり思い切った意訳をした箇所がある」(p.315)そうですから、本来は原書をあたる必要があるんですけど。《 》内は引用です。
■脱力の脱構築
《専ら重力だけを利用すべき時はいつか、筋肉のエネルギーのみを使うべき時はいつか、またはそれら両方をいつ、そしてどのように組み合わせるべきかを決めるのは、我々の責任である。》(p.18)
昔も今も、「筋肉のエネルギーのみを使うべき時」など存在しないと思います。
《完全な弛緩というものはピアノ演奏においては存在しない。》(p.18)
《筋肉と関節が固定されるのは、打鍵の一瞬のみである。(従って、常時弛緩することも、絶えず身体を固定することも、どちらも間違っている。)》(p.330)
考え方、イメージの問題ですが、指・手の形を崩さない程度に常に意識は通しながら、打鍵時を含めて常時リラックスを心がける、と考えるのがベストじゃないでしょうか。
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《「内面の緊張」と「硬直した筋肉」とは別物である。》(p.30)
その通り。そもそも、「硬直が発生している」ことを自覚する、ということ自体が非常に難しい。
ヴァイオリンのように「筋力」を必要としない楽器でも、男性と女性では音が違ってくる。効率的な力の入れ方、使い方のポイントがすぐ見つかる人、見つからない人。巨漢を投げ飛ばす柔道少女は実在するようです。
弾く手・指の「形」じたいは、いわばどうでもいい。 形が最重要ではなく、そのときに手の内部に筋肉の緊張が走っていないことが大事。 ただ、「形」から入ると、脱力状態へもって行きやすくなる、ということです。
図9「手首と手の垂直方向の動作範囲」(p.43) ・・・この太線で示された部分は「中心領域」となっているが、最高に広く見積もっても、この「中心領域」以外の下腕~手首ポジションは有り得ないと思う。
図10「手首と手の側面方向の動作範囲:中心領域は太線」(p.43)
図34「親指、中指、あるいは小指と一直線になった前腕の筋肉」(p.84)
図36「各指の水平方向へのポジション調節を上から眺めた様子」(p.86)
この図36の写真を見ると、図10に比べて、この人の手首の水平方向の柔軟性が十分でないことが見て取れよう。
《肩・・・肩の主な役割は、腕を持ち上げること、腕の重さを運び、それを導き、コントロールすることである。》(p.48)
《上腕を上行音階の間ずっと持ち上げているなら、肩の筋肉を休ませる必要がある。》(p.98)
肩については喋々すべきではないと思う(イメージの問題)。上腕/脇は使うが、肘・肩は「(能動的に)使わない」からである。
《白鍵から黒鍵に移動する時には、わずかに前方へ身体を傾け、肘(上腕)を持ち上げてやる必要がある。》(p.53)
そんなことに意識は使わなくてよい。肘が適度にリラックスしていれば、肘が前へ移動するだけであり、上腕は結果としてわずかに「持ち上がる」かもしれないが、「持ち上げる」必要はない。図41「黒鍵のためのポジション」だと、どうも不必要に肘が高すぎる。
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《スピードを生み出す重さが大きいか小さいかなどは、どうでもよいのである。(・・・)腕の全重量をかけた方が、軽い重さをかけた場合よりも大きな音を出すことが出来るなどというのは、誤りである。》(p.60)
捩じ込み系のタッチに反駁したいあまり、誤解を招き易いと思います。人間の2本の腕、10本の指という限定された条件の中で、複数のハンマーの最終速度を連続してコントロールするためには、鍵盤に与える「重さ」というイメージは非常に有用です。豊かなフォルテを出そうとする際、どっぷりした重さをゆっくりしたスピードで鍵盤に与えようとするなら、音は割れなくなります。素早くしかし軽いタッチでは、音の立ち上がりが早い、ピリッとした音色になるでしょう。
「自由落下」のための写真:
図17「落下しようとしている腕」(p.61) ・・・手首が上へ曲がり過ぎている。手首に不要な力が入ってませんか?
図18「着地した腕」(p.62) ・・・手首がここまで低い位置へ来る必要は無い。
図21「再び落下する前のポジション、肘がかなり外側を向いていることに注意」(p.63) ・・・肘を外側へ向ける必要は無い。
図23「自由落下をこれから行うには手首の構えが悪い。手首は低く構えなければならない」 ・・・これだと手の甲は下がりすぎだし、肘の位置が低すぎる。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_1454653.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_1454653.jpg)
ついでに言うと、写真や映像での説明というのも、二義的に過ぎないと思います。見ただけでどういう筋肉の使い方をしているのかが判別出来るのなら、みんなオリンピック選手になれるでしょう。
《落下の準備が出来た時には、鍵盤から指先までの距離はほぼ25センチになる。》(p.64)
《ピアニストは各自、腕を落下させる地点を自分で決めなければならない。》(p.70)
《指が鍵盤から25センチだけ持ち上げられているかどうかも確認されたい。》(p.72)
《また自由落下の場合、腕を高すぎるポジションから落としてはならない。》(p.73)
25センチなのかケースバイケースなのか。
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《この時、肘をわずかに下げなければならない。そうすれば、手首と指先の落下が完全に垂直運動になる。》(p.64)
肘は下げる、というよりは、上腕によって持ち上げられなければならない(ヴァイオリンやチェロのダウンボウ直前の動きと一緒で、「アップ」されている状態)。肘をあげる、と思うと、肩があがったり肘がリキんだりしてしまうので、意識はあくまで上腕にあるべき。
落下が垂直運動になることに拘る必要は無い。
《このおかげで、指が鍵盤に着地する際にすべての関節がしなやかなクッションとなり、エネルギーを正しく鍵盤に伝えることが出来るのだ。》(p.64)
「すべての」関節がクッションになってはいけない。形の変わらない(しかしリキんでいるわけではない)ものがストンと鍵盤に降り立つイメージ。
《鍵盤の底への着地 (・・・) エネルギーが鍵盤に伝えられ、手と指、とりわけ手首がほんのわずかリバウンドする。》(p.66)
リバウンドはしません。1mmもしない、とは言わないけど。
《鍵盤を押し続ける感覚が指先にあってはならないということである。》(p.66)鍵盤を押し続ける感覚は、過不足なく指先に持続しているべきです。
《手がリバウンドする時、肩の筋肉は(最初の段階に戻るために)既に上腕を持ち上げ始めていなければならない。》(p.66)
不要。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_1412432.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_1412432.jpg)
《手首が自然にクッションとして働くためには、手首の位置をかなり下げた状態で鍵盤の底に着地するようにすることが、非常に重要である。もし手首が高くて緩んだ状態で鍵盤に触れると、下への余分な「ぐらぐらした」動きが増える。》(p.67)
手首を高い状態――下腕と手の甲が一直線上にある状態――で、その形を崩さないよう最低限の意識を通し(~これは「硬直」しているわけではない)、上腕からの重みが指先へ効率よく伝えられたのなら、指は「ぐらぐら」はしない。落下した打鍵時に手首の位置が鍵盤よりも低くなるほど折れ曲がったのなら(図18)、折れ曲がった手首において「自由落下」加速度をほどこす「重さ」が指先に伝わらなくなる上、図28(p.69)のような滑稽な結果まで発生する。「動作を誇張してはならない」(p.70)とあるので、誇張した写真、というわけでは無いようである。
《ただし自由落下は、掌を大きく広げて弾かなければならない和音には、まったく向いていない。なぜなら、このような和音を弾くために広げた手は、ややもすると落下する手の自然な加速度を変えてしまいがちだからである。ここでは別のタイプの動作を用いる方がよい――それは「突く」動作である(第8章)。》(p.70)
《ミスタッチの危険はより少ないし、そもそも手を広げたポジションでは、落下の自由な加速がやりにくいのである。》(p.157)
本末転倒。自由落下的音色が要求される箇所では、その広げた手のまま、可能な範囲ギリギリまで自由落下を利用するべき。「自由な加速がやりにくい」のは、恐らく肘の硬直による。
《(10)最も重要なのは、重力が生み出すスピードに、余計な加速や減速を加えないことである。》(p.72)
ナンセンス。10本の指で連続したパッセージを弾く際、どうしても調節は必要である。
《(11)指先の上げ下げが完全な垂直線を描くようにするべく、手と前腕と上腕がそれぞれ適切に動いているかどうかを、しっかりチェックすること。》(p.72)
これは肘の脱力の問題に過ぎないと思います。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_14133773.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_14133773.jpg)
《自由落下の練習。(・・・)重力を妨げてはならない。》(p.74)
たとえば譜例4ではミソドを右手125で、などと指定してありますが、最初はこうやって音高をいちいち指定するのは危険だと思います。いわばトーンクラスターで十分。でないと「重力を妨げる」ことになるでしょう。黒鍵時に「胴体と腕と肩の位置」の変更は意識する必要があるんだろうか?また、fis-aisを右手の4-5でパシッと自由落下で当てさせるetcのは、最初の練習としては甚だ不適当。
《譜例8 上腕の平行移動 (手首は動かさない)》(p.76)
手首は上下には(いつもそうであるように)動きませんが、和音のポジションに応じて水平方向には回転します。
《譜例10 ショパン作品10-1》(p.77)
「落下」点は、それぞれの拍頭のアクセント記号がついた16分音符であるべきで、すなわち上行時も下行時もそれは右手小指である。《譜例66 ショパン作品10-8》(p.171)も同様。
《譜例11 バッハ:イタリア協奏曲》(p.78)
8分音符がいわゆる「スタッカート」とは限らない。
《譜例12 リスト:ソナタ》(pp.78-79)
固めて突くテヌートの音色でも、自由落下の要素を完全に除外するのは誤り。要素のバランスはパッセージによって変わる。《譜例13 ショパン:ピアノソナタ第3番》では逆に、自由落下だけだと音色がのんびりしすぎるのではないか。《譜例14 ショパン:ピアノソナタ第2番》第4小節を「突く」のはおかしく、また第5小節に「突く」要素が入らないのはおかしい。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_14161141.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_14161141.jpg)
《仰々しい生物学的あるいは化学的あるいは解剖学的統計で満たされた本もあるが、それらはまるで自然科学の教科書のようだ。(・・・) 理解すべきはピアノ演奏についての全体像であって、その構成要素を全体から切り離してはならない。》(p.5)
と書いておきながら、
《この解剖学上の違いから、次のような明白な結論が引き出される。つまり、親指が垂直に動く際には、(・・・)手首はかなり低めにしなければならない。》(p.81)
《ピアノ演奏における諸々の「タブー」 (・・・)「指を高々と上げないこと」。》(p.332)
この本で最も奇天烈かつ有害なポイント。
手首はそのまま(低くしない)で、リラックスし緩やかに弧を描いた親指の根元(=手首近くあたり)を脱力すれば、親指の先端(右手の場合、左斜め端)は鍵盤の少し手前(斜め下)の部分に着地する。このときの親指の軌跡は完全なる直線ではないかもしれないが、何よりも重要なのは親指が重力に逆らわない、ということである。図33に見られるとおり、この人はなぜか親指だけ「ハイ・フィンガー」で弾こうとしているのである。なお、図30は肘の位置が高すぎる。
《お分かりのように、人間の身体部位を総動員させる方が、個々の部位をばらばらのまま無理強いするより好ましいのだ!》(p.96)
だったら、なんで親指の時だけは指先のみを使用したハイフィンガー奏法にしたがるのだろうか。
《ひとたび親指が掌の下に置かれると、手の構えに違和感が生じるだけでなく、親指を垂直に下げるための筋肉を利用することがまったく出来なくなってしまうのだ。》(p.87)
そんなことはありません。ただ、親指の根元は、歩くときの両足の根元のように十分に弾性を備えており、親指が掌の下にある時間を最小限に抑えるべきではあります。図37では親指は硬直して手の甲へ引き付けられ、人差し指(そしてどうやら小指も?)が跳ね上がっています。これは「手首の位置」以前の問題です。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_14211917.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_14211917.jpg)
《それぞれの指に最適なポジションであるためには、腕(手首と手を含む)を水平方向に絶え間なく移動していなければならないのだ。》(p.40)
《つまり音階(スケール)を弾く際には、肘は外側へ向けながら、親指を掌の横に沿って持ち上げなければならないのである。》(p.92)
《右手の下行音階や左手の上行音階を弾く際に、上腕(および肘)を胴体から離すだけで、これは解決するだろう。》(p.97)
手首の水平方向の回転が十分に柔軟であれば、「肘を外に出す」必要など無い。ただ、手首や肘のリラックスのための練習の一プロセスとしては、一度肘を外へ出してみるのも良いだろう。
《またこの動作は速さが増すにつれて小さくなる。なぜなら[テンポが速いと](親指が鍵盤に触れる前の)手首を下げる動作は、親指を置くというよりも、打鍵すべき位置へ向けて親指を放り投げるような感じになるからである。》
その通りっ。それをスローモーションでやりなさい。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_14324588.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_14324588.jpg)
《概して子供は大人よりも一層優れた身体のコーディネート能力を備えていることが多いが、それは子供の身体が大人よりも小さいからである。》(p.32)、《教師がこの能力を邪魔したりせずにうまく利用してやれば、ずっとよい、そしてずっと恵まれたピアニストを育てることが出来るはずなのである。》(p.33)
生まれたばかりの赤ん坊は、100人中99人、水につけると自ずと息を止めて泳ぐことが出来る、という話を聞いたことがあります。カナヅチ、というのは、生まれた瞬間には持っていた能力を忘れた人々である、と。
何も考えずにパラパラと素早く音階を弾いているときには、親指は自然な弾力性を持って手の甲の下を移動しているのに、そのテンポを下げると、「解剖学的見地から」やれ肘を外に出してみるだの手首を低くしてみろだの、百害あって一利無しのアドヴァイスが発生するのです。
譜例23「ショパン練習曲op.25-2」(p.114最上段)の目もくらむような「↓」「↑」マークの応酬。あるいはその次のページの譜例25「ショパン・ソナタ第3番終楽章」での「肘は外へ」と指定されながら、音楽的コンテクストとは全く無関係に、親指では手首ダウン、小指では手首アップを示す矢印の嵐・・・。譜例27「ショパン前奏曲Op.28-23」(op.115)の、16分音符毎の手首ガクガク運動も凄い。譜例64「ショパン練習曲op.10-2」、あーあーあーあー・・。譜例79「木枯らし」で「4音ずつグルーピングして回転」などと推奨しているのを見ると、この人はいったい、ショパンのエチュードさえ弾けていたのか疑いたくなる。
この「↓」「↑」マークは自分で書き込んでいるんでしょうか、それともアシスタントが書き込んだものをノーチェックで印刷しちゃってるのか。
《例えば5の指のポジションにある時、親指は見事に鍵盤から離れてしまうのが分かる。》(p.90)
手首が高めで小指が立っていれば、親指は離れない。そもそも図39では手首が低すぎて、小指が「指だけ」の打鍵になり、指の根元に不必要な負担がかかっている。
![[未改訂]■2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その1)_c0050810_14364189.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/200607/19/10/c0050810_14364189.jpg)
《あなたは次のことに気づいたかもしれない。つまり一番後に述べた法則(グループ最後の音で手首を上げる)と、「親指で弾く時はいつでも手首は低くし、5の指で弾く時はいつでも高くしなければならない」という法則とは矛盾しているのである。》(p.102)
そりゃあ、頓珍漢な法則を次々に打ち立てていったら、矛盾もどんどん出てきて八方塞がりになるだろうて。シャーンドル氏やジャック・ルヴィエ氏やジェルジ・シェベック氏が、教室内だけではなく舞台上でも、「親指で弾く時は出来る限り手首を低くして」いたのかどうかは大変興味がある。
もし舞台上で彼らが手首を低くして弾いていたとしても、彼らの手にとってそれは無問題だったのだから結構なことである。この奏法で手を傷めり、技術的向上が見られなかった学生に、彼らはエクスキュースしたのか。
《『だけど音楽院は実際多くの芸術家を輩出しているじゃない? それはどうなの?』と尋ねる人もいるでしょう。この質問に対して私は次のように答えましょう。それは『強者生存の法則なのだ』と。》(p.326)
これは1873年にドイツへ留学したアメリカ人女性が、グループレッスンしか受けられなくなった際の不平の言葉ですが、「体操」についていけなくなった「負け組」の人たちには、コンサートピアニストの道は閉ざされる、という点で、シャーンドルもその謗りを免れるものでは無いでしょう。
(続く)

こんにちは。拾い読み中です。パッチを当てながら自由落下と25cmの問題について私が感じた事をコメントします。25cmというのは鍵盤から指までの高さであって、ご指摘の25cmではない部分、《ピアニストは各自、腕を落下させる地点を自分で決めなければならない。》(p.70) は腕(=前腕と上腕)の鍵盤との水平距離を、《また自由落下の場合、腕を高すぎるポジションから落としてはならない。》(p.73) は腕(前腕もしくは上腕)の高さを指してるように読みました。腕の前後の位置と高さは強さや着地点(白黒)の調整機構なのかなと。でもなぜ指の高さが25cmなのか、はたしてこれが物理的な運動計算の末導き出されたのか、それともある種の黄金比のようなものなのか、この先理由が書いてあるといいです。前腕と上腕のイメージもぼんやりしています。そもそも私の理解力のなさ故に本書の文面自体、私には難解で、理解不足の切は平にご容赦の程を。
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シャーンドル氏がそれぞれのセンテンスを書き散らかしておられる時に何を考えていたかは、私にも忖度不能です。空中であろうが鍵盤上であろうが、肘(上腕の最低ポイント)と手首/手の甲はほぼ同じ高さにあり、指先は手首/手の甲よりも低い位置にあります。すべては一体となって動きますので、それぞれの「高さ」をバラバラに説明する意味がありません。肉体条件や出したい音によって「高さ」は逐一変化するでしょう。私見では、例えばチャイコフスキー協奏曲第1番冒頭のようなフォルテシモでも、指先はせいぜい鍵盤上2~3cmからの落下で十分です。(「突き」ではありません。)弱音の場合はほとんど鍵盤表面上からの「落下」になります。上腕は肩から肘まで、下腕=前腕は手首から肘までを指します。腕の前後や高さの調節は、能動的な指先に受動的な肘や手首が付いていくだけのもので、上腕を意識的に調節しようとするのは本末転倒であり、硬直の原因になると思います。

文章が難解で一読して全体を把握できるような本ではないので仕方が無いのですが、大井様は細かいセンテンスに突っ込みを入れるあまり、文脈を読めていない様に思われます。
シャーンドル氏やジャック・ルヴィエ氏やジェルジ・シェベック氏が、教室内だけではなく舞台上でも、「親指で弾く時は出来る限り手首を低くして」いたのかどうかは大変興味がある。
というコメントはその最たるもので、図31には「低すぎる手首」が悪い例として挙げられています。
また、大井様は「イメージ」という言葉を多用されていますが、大井様の言語化された身体感覚とシャンドール氏の解剖学的・物理学的記述を付き合わせれば齟齬が生じるのは当然です。
スポーツ選手にしばしば見られる、身体感覚を科学的な風に言語化したものが実際の物理学的観点からは珍妙なものになっている、というのと同様の現象が起きているように見受けられます。
シャーンドル氏やジャック・ルヴィエ氏やジェルジ・シェベック氏が、教室内だけではなく舞台上でも、「親指で弾く時は出来る限り手首を低くして」いたのかどうかは大変興味がある。
というコメントはその最たるもので、図31には「低すぎる手首」が悪い例として挙げられています。
また、大井様は「イメージ」という言葉を多用されていますが、大井様の言語化された身体感覚とシャンドール氏の解剖学的・物理学的記述を付き合わせれば齟齬が生じるのは当然です。
スポーツ選手にしばしば見られる、身体感覚を科学的な風に言語化したものが実際の物理学的観点からは珍妙なものになっている、というのと同様の現象が起きているように見受けられます。
コメント有難う御座います。だいぶ前に書いた記事なので記憶も曖昧ですし現在と見解が違う点もあると思います。ピアノ教本で引き合いに出される「物理学的」「解剖学的」なる指針が、けっきょくは印象論でしかない、という感想は、多分執筆当時と現在で一貫しています。人体解剖図を眺めて、ただちに体が効率的に動き出す人は実在しているようですが、勿論そうで無い人もいるわけです。

恐らく力学の理解の程度で印象論と受け取るかどうかが変わってくるように思います。
無論、言語化された身体感覚でもって奏法を伝達することの有効性はあるでしょう(特にマンツーマンのレッスンであれば)。しかし、それだとあまりに人によって違いがありすぎるので、それを議論のベースに据えると混乱を招くので、「物理学的」「解剖学的」記述には意味があると思います。
ただ、私個人の経験からすると、それを実際の演奏に結びつけるとなると、「物理学的」「解剖学的」な頭での理解を身体感覚と関連づける、というもう一段階のプロセスが入ります。
それから、本書に即効性は求められないと思います。一般論として奏法の修正には長い時間がかかりますし、シャンドール自身も基本動作を身に付けるのに「数ヶ月はかかる(p.257)」と書いています。
無論、言語化された身体感覚でもって奏法を伝達することの有効性はあるでしょう(特にマンツーマンのレッスンであれば)。しかし、それだとあまりに人によって違いがありすぎるので、それを議論のベースに据えると混乱を招くので、「物理学的」「解剖学的」記述には意味があると思います。
ただ、私個人の経験からすると、それを実際の演奏に結びつけるとなると、「物理学的」「解剖学的」な頭での理解を身体感覚と関連づける、というもう一段階のプロセスが入ります。
それから、本書に即効性は求められないと思います。一般論として奏法の修正には長い時間がかかりますし、シャンドール自身も基本動作を身に付けるのに「数ヶ月はかかる(p.257)」と書いています。
アンドラーシュ・シフのマスタークラスでシューベルトのハ短調ソナタを弾いた際、第1楽章最後の3つの和音のバランスについて、「これは一生かかって取り組む問題だ。」との彼の言葉は、強く印象に残っています。昨日と今日、今年と来年で具合が刻々と変わる我々の筋肉と神経、そのなかにあって、解剖学的に「骨盤を立ててピアノを弾きましょう」と原則論を言われても、果たしてそれは数ヶ月で体感・決着出来る問題なのかどうか。かえって混乱を引き起こさないかどうか。