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[未改訂]2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その2)

(「シャーンドル・ピアノ教本」の感想・続き)

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■種々のテクニック


《演奏をしていない指は、必ず鍵盤からわずかに持ち上げておかねばならない。》(p.90)
《ひとたび指が鍵盤の上でお休みしてしまえば、もう指は下へ落ちてしまっているのだから、重力はそれをさらに下へ引っ張ることが出来ないのだ。》(p.91)

鍵盤表面からでも鍵盤底へ向けて「落下」させることは、指の付け根が脱力していれば可能であるし、むしろ頻用されるテクニックである。ただ練習プロセスとして、使っていない指を鍵盤から0.1mm上空で待機させるイメージ、というのは有用。





《(7)腕のポジションを変える時は、絶対に前腕の回転動作を使ってはならない。この種の動作は他のテクニックにおいてフル活用するものであって》(p.93)

まずピアノのテクニックを5種類に分ける、という発想がおかしい。この教本における「自由落下」と「スタッカート」の違いって何? また「スタッカート」と「オクターヴ」が一緒、というのは意味不明。 「突き」にしろ「スタッカート」にしろ、自由落下のヴァリアントに過ぎず、そこに「回転」の要素が場合によって加味される、というところが妥当なのでは。


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《なお技術的グルーピングと音楽的なそれを区別しなければならない。というのも、これらの二つのグルーピングは必ずしも一致するとは限らないからである。》(p.101)

余談ながら、バロックでは技術的グルーピングと音楽的なそれが一致することがしばしばです。


《真のレガート、(・・・)手首のポジションを低めにしてそのフレーズを弾き始め、幾分高めにした手首で終わるようにする。》

レガート奏法と手首のポジションの「上下」とやらは、無関係です。ただし、練習の一プロセスとしては有用かもしれません。
《レガートとは、途切れることもなく、重なったりすることもなしに、ある音が次の音に溶け合うことを要求する。(・・・)あらゆる唐突さこそレガートの敵なのだから。》(p.104)

その通り!


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《我々の目的はゆっくりと鍵盤から指を離すことであるが、指だけでこれを行うのは至難である。つまりある指はゆっくりと持ち上げ、隣の指は普通の速度で下ろすのは、極めて難しいのである。この問題を解決するには、腕をゆっくりと持ち上げるのがよい。》(p.105)

腕など使う必要はありません。指の根元が脱力していれば指はそれぞれ独立するわけですから、ある指をゆっくりと持ち上げ(「持ち上げる」というよりは「持ち上がる」)、他の指を別の速度で下ろすのは十分可能ですし、普通のテクニックです。これが出来るかどうかが、プロとアマの違いだと思います。


《譜例15 あらゆる鍵盤における五指運動の練習》(p.109)
このくらいでは、手の甲の位置は回転させないほうが良いでしょう。C-D-E-F-Gのトーンクラスター和音をしっくり楽に弾けるポジションがベストの位置となります。


《若干の注意をしておこう。回転動作の時は、手首は能動的であってはならず、どんなねじる動作も避けなければならない。それは手を前腕の延長としてしっかりと保つだけでいのである。指は能動的でなければならないが、決して次の鍵盤へ無理に伸ばしてはならない。》(p.124)

これは、別に「回転動作」に限った話ではなく、常にそうあるべきだと思います。指が旅する軌跡を、手首・肘は受動的に追うけれども、指が最小限の運動で済むよう助けてもいる。


《中音域で回転を行う場合、上腕が狭いスペースに押し込められて硬直するような感じがするはずである。この不快な状況を避けるために、身体をわずかに上腕から離すとよい。両腕がふさがっているなら、身体をわずかに後方に傾ける。》(p.126)

肘がリラックスしているのなら、本来これも不要。


[未改訂]2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その2)_c0050810_133239.jpg図50「スタッカートにおける上腕・前腕・手・指がシンクロナイズされた動き」(p.137)
手首から先だけを使い腕は固定・硬直しているスタッカート、あるいは指先だけでピチピチはじくスタッカートは、連続使用には耐えず音も飛んでいかないのでそもそも論外として、この図50の写真では、「シンクロナイズ」といいながら、一番上のポジションでは手の甲は上に反っているし、指先の軌跡は「直線」ではなく弧になっている(どうでもいいけど)。図51で何が言いたいのか、残念ながら私には理解出来ませんでした。
《手と指は、まるでボールをドリブルするように、もしくは鍵盤が沸騰しているかのように、瞬間的にバウンドして戻ってこなければならないのだ。》には全面同意ですが、それとオクターヴ奏法に何の関連があるのか。


《腕全体を同時に持ち上げることも重要である。自由落下におけるように、まず腕を、次に手を持ち上げるのではなく、腕全体を同時に持ち上げるのである。この動作は重要である。そして腕の動作範囲の中心領域[第3章を参照]の中で、次の投げに備えて、投げができる位置に再び腕全体を戻すのである。》(p.142)

してみると、私にとっての「自由落下」は、この人にとっての「スタッカート」準備運動に相当するようです。p.213の一覧表を見ても、ますます混乱するばかり。


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《オクターヴのレガートは、投げというよりはシフトの動作に近い。(・・・) これらは手首の動きではないことに注目されたい。胴体によって助けられつつ、腕全体が常に演奏に参加しなければならないのである。》(p.144)

あっ、また一歩正解に近づいたよ! 手首の上下運動なんか使わず、つねに「シフト」して下さい!
《ショパンの《エチュード》作品10-7のような例においては、親指で弾く音では手首を低くし、その他の指では手首を持ち上げる。だが速いテンポでは、この上下運動は上腕の前後運動へと変えられる。手首の垂直運動が、もっと都合のよい別の運動へと置き換えられるのである。》(p.207)

なんで遅いテンポのときでも、「もっと都合のよい別の運動」を使用しないんでしょうか。それが「前後運動」とは思わないけど。


《ピアノに可能な伸縮性の限界内での最大の音量は、鍵盤の表面からのこの突きによって作られる。我々は最強の筋肉をほんの一瞬使うだけなので、この動作には何の努力もいらない。》

いやいや、努力が要る人もいると思うよ。 その「一瞬」の努力を繰り返すうちに、手を壊しちゃう人もいると思うよ。 この本の有害記述第2位ランキングだな。
「譜例53 ショパン前奏曲op.28-20」(p.158)、右手が「突き」で左手が「自由落下」ですか、ユニークだけど、まぁ好き好きかな。


《それに対してポルタートでは、個々の音ごとに手首を上下させ、指は柔らかく動かす。》(p.194)

手首を上下させる必要はありません。ヴァイオリンの弓の毛が弦から浮いたり再び吸い付いたりするように、指先が鍵盤上をふわふわと上下すればそれで良い。「譜例115 ベートーヴェン協奏曲第3番第2楽章」の第3小節では、確かにご丁寧に一音毎に手首の上下が矢印で指定してあり愕然(p.232)。


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《「筋肉を鍛える」ための指練習 (・・・) 犠牲者、つまり生徒は、四つの音を押し下げ、音を弾く指は持ち上げて、上下運動を繰り返す。前腕に相当な緊張とこわばりが生じるはずである。》(p.214)
《動いていない四本の指は、休息をする代わりに、鍵盤を押さえ続けており、その屈筋は常に緊張状態に置かれている。》(p.215)

これはやり方次第です。「筋肉を鍛える」ための練習ではなく、「神経を発達させる」ための練習と捉えるべきで、前腕をこわばらせることなく、四本の指はラクに鍵盤を押さえたまま、残る一本の指を遅い速度で打鍵する訓練は、もちろん可能ですし、非常に有用だと思います。
ときにシャーンドル氏は、たとえばある作品の一部がこの指練習のような譜面だった場合、「前腕に相当な緊張とこわばり」を発生なさるんでしょうかね。


《要するに、出来るだけ頻繁にペダルを使うべきなのである。ペダルは、かつての幸福な状態に、つまり全部の弦がダンパーによって妨げられずに豊かで心地よく振動してたあの状態に、ピアノを戻してやる手段だと考えなければならない。》(p.230)

まぁ何も付け加えるコメントはありません(笑)。ここ数年で思い出せる範囲では、私が「出来るだけ頻繁かつ長いペダル」を意識的無意識的に使おうとしたのは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の2台ピアノ用編曲の「愛の場面」のことでした(要するに非常に特殊なケース、ということです)。


《メンタルに練習しているときは、我々は一切ミスタッチをしないし、機械的な練習に陥ることもなく、時間もエネルギーも浪費しない。》(p.257)

非常に真剣にイメージ・トレーニングをした場合、よくよく観察してみると、弾きにくいパッセージは、頭の中でさえちゃんと「弾けてなかった」ということはありませんか? 頭の中で完全なポジティヴ・イメージを作り上げることが出来たなら、練習は半分以上済んでいるのかもしれません。


《「身体の近代/近代の身体」からの決別》(p.315)

全然決別してないと思われます。



[未改訂]2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その2)_c0050810_13331082.jpg■よせばいいのに薀蓄


《ピアノの前身であるクラヴィコードやチェンバロといった鍵盤楽器についての本もあるが、それらはごくわずかである》(p.3)

17世紀以来、たくさん書かれてます。


《古いピアノ楽派は「指」の強さを強調した。この種のテクニックは、ハープシコード、クラヴィコード、オルガンに対しては十分であるが、近代の演奏会用グランドピアノにとっては十分とは言えなくなった。》(p.16)

1981年出版、2005年に最終チェックされているわけだから、この記述の根本的誤りを糺すチャンスはいくらでもあったでしょう。なお、多くの現代ピアニストは「指」メインで弾いていると思います(もちろん良くない)。


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《ハープシコードは、タッチではなく装置の操作によってでしか、音量や音色に濃淡をつけることが出来ないが、》(p.22)
《オルガンやチェンバロと違ってピアノではタッチを変えることが出来るので》(p.270)

チェンバロの音色はタッチで変えられます。あと典型的な錯誤としては、「チェンバロの音は立ち上がりが遅く音色が鈍いが」、「チェンバロの音色をピアノで模するためには、ダンパーペダルが必須となる」、ゴルトベルク変奏曲の繰り返しで「チェンバロの4'ストップを模倣して」一オクターヴ上で弾く、等々。


《これらの楽器(ハープシコードやオルガン)では、ある特定の音だけを強調することができないため、重要な音を強調するには、その音に不協和音を付け加えるのが唯一の適切な方法だったのである。》(p.24)

装飾音を付ける以外にも、あの手この手あります。


《ハープシコードやオルガンで演奏する場合、旋律が伴奏と同時に始まるなら、恐らく我々はその旋律を完全に聴きとることは出来ない。(・・・)逆にクラヴィコードやピアノの場合、旋律を伴奏より大きく弾くことができる》(p.25)

レジストレーションやアーティキュレーションの工夫を含めてあの手この手ありますし、逆にクラヴィコードの高音域というのはモダン・ピアノのように旋律を浮き立たせるには不向きでもあります。
恐らくシャーンドル氏にとってのチェンバロとはランドフスカあたり、クラヴィコードとはカークパトリックあたりのイメージなのでは。


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《例えば、バッハの作品のなかで最もよく知られているオルガン局のうちの二曲《パッサカリア ハ短調》と《幻想曲とフーガ ト短調》は、もともと二段鍵盤のペダル付きハープシコードのための曲として構想されたものであって、》(p.25)

BWV 582が「二段鍵盤ペダル付きクラヴィコード」のために書かれた、という話はよく聞くけれど、BWV542がチェンバロ用ってことは絶対に有り得ない。


《それでもなお装飾音をつけて弾きたいと思ったとしても、主音符の上から始めるか、それとも主音符から始めるかについては、ピアノの場合は大差ない。》(p.26)

楽器や解釈によって装飾音を含めたヴァリアントを取捨選択するのは結構だが、どの音から弾き始めるかについては場所と時代でおおよそ決まってきます。


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《ピアノの前身であるクラヴィコードやチェンバロといった鍵盤楽器》(p.3)
《ダンパー(消音器sordino)は、18世紀後半においてピアノの弦がどんどん長くなってきたせいで、それにとりつけられた機構である。その役目は、長い弦が発声させる過度の残響をとめることにあった。モーツァルトより以前には、ダンパーはまったく必要なかった。なぜなら弦は短く、響きも弱く、余分な残響はほとんど気にならなかったからである。実際、古い楽器はすべての弦の倍音を混ぜ合わせることが出来たので、その響きは残響によって非常に豊かに響いた。だがやがてピアノという楽器が成熟し、リストから現代にかけての九から十フィート(2.7~3メートル)ものコンサート用グランドピアノへ発達していった。今やダンパーは絶対不可欠の救命道具になっている!》(p.104)

ダルシマーかパンタレオンの話でもしたいのかと思ったけれど・・。してみると、この人はチェンバロやクラヴィコードあるいはフォルテピアノ等の歴史的鍵盤楽器を、見たことはおろか触ったことも無い、という疑惑が高まりますなあ。


《ちなみにバロック時代より後の作品でのみ、点と楔形を区別するように。羽ペンが筆記に用いられていた頃、どうにも点の書きようがなかったので、楔形がスタッカート記号となっていただけのことなのである。その後、とりわけロマン派の時代には、楔形は鋭いスタッカートの記号だとされ、それに対して普通のスタッカートは点で表されるようになった。いずれにせよ、19世紀より以前に書かれた音楽では、両者を区別する必要はない。》(p.180)

少なくとも春秋社編集部チェックが入るべき箇所。これじゃあモーツァルトの譜面も読めてない、ってことだよな。楔形は何らかの音楽的「強調」と考えると良いと思います。


《ピアノは決して、既に存在していた楽器で十分に用が足りているのに、気まぐれでわざわざ発明されたのではない。それどころか、必要があったからこそピアノは発明されたのだ。ピアノの前身の楽器には多くの改善すべき点があり、また作曲家たちは必然的に鍵盤楽器の改革を促すような音楽を書いた。ピアノの音量と表現力の増大は前へ向けての一歩であり、ペダルはその響きのパレットをさらに豊かにするものだった。》(p.232)

書き写すだけで疲れた(笑)。一応メモ。


《他方、バロック時代に非常にポピュラーだった鍵盤楽器であるクラヴィコードの音は非常に柔らかいのである。バッハの前奏曲(譜例122:平均律クラヴィーア曲集第1巻第8番変ホ短調前奏曲)のような音楽においては、最も柔らかなピアニッシモこそ最適であると私には思える。次のようなパッセージは、一体ピアニッシモ以外の何を望んでいるだろうか?》

クラヴィコードの絶対音量はモダン・ピアノにくらべて小さいが、表現力の幅広さは決してひけを取らない。変ホ短調前奏曲がフォルテッシモだとは思わないが、ピアニッシモだとも思わない。


《譜例132 ベートーヴェン:ソナタ第30番第3楽章》
どういう楽器、音響、前後関係、テンポetcで弾くかによって、ケースバイケースなので、高いH音が2分音符ぶん「きっちり」伸ばされるかどうかは、いわばどうでもいい議論。どちらかというと、バッハ無伴奏チェロ組曲のブーレやジーグなどで、ソプラノ声部を「きっちり」音価ぶん伸ばそうとする強迫観念により舞曲リズムが完全崩壊している場合など、弊害のほうが目に付く。


[未改訂]2006/07/18(火) 自動販売機で 自動販売機より 大きなものは 買えないらしい。(その2)_c0050810_13344227.jpg■原著もこうなの?

《「ピアノは打楽器ではない」という基本的な事実がまったく無視され》(p.(i) 序文―日本語版に寄せて)
《ピアノは本質的に打楽器であり》(p.100)
《ピアノはまずは打楽器であるが》(p.242)

まぁ序文は25年後に書いたものですからね(笑)。


《こんなふうに本書では、断定的にものを言い、様々な原理を挙げるわけだが、(・・・) 私が単に原理や規則を列挙しているだけではなくて、その内実を述べ、説明し、その正しさを証明していることを保証しよう。》(p.6)
《我々はただ一つの基本ルールを受け入れておくだけでよかろう――便利で簡単に弾けるならそれでよいというルールである。》(p.55)
《わたしが言うとおりにきちんとピアノを弾かなければ上達しないとはお考えにならないで下さい。わたしのとはまったく違ったやり方で練習しているすばらしいピアニストもいますから》(デュバル『ピアニストとのひととき』p.259)

自信があるなら最後まで強気のままでいて。


《音の変化は動作(モーション)を反映し、動作(モーション)は感情(エモーション)を反映する。》《動作と音が相互関係にあるように、動作と感情も相互関係にある。》《表に出す、出さないは別として、ピアニストの感情の度合いと強さは、ピアニスト自身の身体の動作によって表現される。》(p.12)、《楽譜は感情と動作の間の結節点なのだ。》(p.13)

あやうくオカルト。第一行の駄洒落以上の意味合いがあるとは思えない。



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私の上記感想について、他のピアニストにも同意を求めたい誘惑に駆られますが、そもそもこの手のピアノ教本など有難く読んでいるプロ奏者がいるとも思えません。とりあえず訳者の皆さんにお伺いしたいのは、「この本を読んでピアノが上手くなりましたか?」。
なお著者名のカタカナ表記は、姓名順はともかく、ジェルジ・シャーンドル(ハンガリー語読み)かジョージ・サンダー(亡命先の米語読み)のどちらかにするのが適当ではないでしょうか。いま気付きましたが、チェンバロとハープシコードの両方の用語を使っておられますね。
Commented by k.n. at 2006-07-23 17:54
この批判は「わからなくもない」です。

ただ、随分インチキに近かったギーゼキング=ライマーの本とかにくらべれば、「進歩ではある」。おそらく、シャンドール(昔は圧倒的にシャンドール表記だったよ?)はクセナキス以降の現代ピアニズムやジャレユ、グリーペンケルルの文献まで対応する奏者がこれを読むとは想定していないはずです。シャンドールも部分で「意図的にミスリード」を誘うように書いている箇所があり、読者からどのような反応が出るか探っている様にも見受けられました。

最近は動画配信も頻繁に行われているので、誰がどの流派かもかなり肉眼で類推できるようになりました。これが出来ない時代ならシャンドールの言い分も「ま、さよか」。
Commented by ooi_piano at 2006-07-23 23:59
◆ 「わからなくもありません」etcの短い御感想ではなく、出来ましたら、もう少し詳細にきちんと論を立てて頂けますか? そうでないと議論が先へ進みません。 ご自身のブログからトラックバックして下さっても構いませんし、あるいは長文でもメールフォームetcから送信して頂ければ、別記事として当ブログへ掲載も可能です。例えば、親指使用時には手首を下げるべし、音階では肘を外側へ出すべし、等と言う「原則」には、賛同なさるんでしょうか?
Commented by ooi_piano at 2006-07-23 23:59
◆私の論旨は、「無理な力を使ってはいけない」と繰り返しながら、無理な(あるいは無意味な)奏法を奨めるな、ということであって、何もハイ・レベルな話をしているわけでは全くありません。「手首を下げろ」は、ルヴィエやシェベックも言っているようですが、問題は「彼らがそれを舞台上でも使うのかどうか」。
私の該当記事はいわば「独り言」に過ぎませんけれども、シャーンドル氏がこの教本の内容を「教室内」で   述べた場合、それは半強制であり、学生側には逃げ場がありません。発言主体が厳しく問われることになります。文学作品ならともかく、全てを明瞭に記述すべき教育的テクストで「意図的にミスリードを誘う」とは、これいかに? しかも、出版後25年も経過してからの序文やら後書きやらで、内容訂正は一切無しでしょう?
Commented by ooi_piano at 2006-07-23 23:59
◆総音列主義作品に照応したピアノ奏法の整理=ピアニズムの発展、ということはありえても、クセナキスは一切関係ないと思います。マリー・ジャエルMarie Jaëll については、白虎社もびっくりのマムシ指写真http://perso.orange.fr/jc.ingelaere/jaell/expofr/mainjael.htmを見て、興味を失いました。グリーペンケルルは単に史料文献として貴重、というだけで、それとは無関係にああいう弾き方を実践している人は現にピアノでもチェンバロでも存在します(たとえば上尾直毅氏)。 
◆シャーンドル・ヴェーグ、シャーンドル・ヴェレシュ、シャーンドル・ヴァイオリン教本・・。普通シャーンドル、かと。 いまやグバイドゥーリナのことをグバイドゥリーナと言う人がいなくなったように。
また、繰り返しになるけれど、舞台や動画を見ただけで奏者の筋肉が体の内部でどのように作用しているかが分かるのならば、誰でもコルトーの音色を出せる筈です。見かけというのは一切あてにならない。「流派」というくくり方も、基本的にナンセンスだと思う(体を使う以前の「発想」は共通しているでしょうけど)。
Commented by ooi_piano at 2006-07-24 00:02
◆そうそう、機会があってちょっと実験してみましたが、グレン・グールドの37cmの低い椅子でピアノを普通に演奏するのは、全く問題ありませんでした。ことに、4オクターヴ以内でペダルを使わないで済むレパートリー(古典派以前)はチェンバロやクラヴィコード感覚に非常に似ていたし、ロマン派以降についても慣れればオッケー、という感じ。
ポイントは、「決して手首が凹まないこと」。グールドの体格(座高)や腕のリーチや筋肉や「気分」に、きっと都合の良い姿勢なんでしょう。肘や肩に力が入っているようには見えない。よって、グールドの指先にはいわゆる「全身の力」がかかっていても不思議ではない。(そもそも、ピアノ演奏では「全身の力」は使いません。)
Commented by ooi_piano at 2006-07-24 00:03
◆グールドの指が時々バタバタと天井を向くことがあるけれど、あれは指の根元から「一直線」で動かしているので、いわゆる「まむし指」などとは一線を画しています。そのときどきの「気分」ですね。
シャーンドルの「親指だけハイ・フィンガー奏法」も、親指の根元が凹んでしまわなければ、「気分」次第で、使ってもそれほどには有害では無いのかもしれません(教育的メソッドとしてはそれでも回避すべき事項だとは思うけど)。
とにかく、グールドの演奏姿勢と、「音というものが一種異様な自由度を獲得」していること(笑)は、無関係です。
Commented by k.n. at 2006-07-24 01:42
つか、時間が全く無いのですわ。九月まで。
で、大要約したのです。しすぎたか。
by ooi_piano | 2006-07-18 12:22 | プロメテウスへの道 | Comments(7)

Blog | Hiroaki Ooi


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