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昨年《平均律第1巻》クラヴィコード公演のプログラム・ノーツでは、驚くべき聴力を持つ東スーダン地方のマバーン族を引き合いに出して、「本来人類の耳は如何に速やかに、どんな小さな音にも対応し得るか」について延々と力説したため、楽器の「プラチナのような繊細さ」については総じて御寛恕頂けたようでした。星空を眺めるとき、目の瞳が暗闇に慣れるまで約20分ほどの時間がかかりますが(暗順応)、一方、明るさに慣れるのはその何倍も早いものです。
さて、バッハ後期鍵盤作品のうち《平均律第2巻》や《フーガの技法》は、《ゴルトベルク変奏曲》や《音楽の捧げ物》に比べて、弾き手・聴き手双方から敬遠される憂き目に遇っているようです。複数の音大で教鞭を執っておられる渡邉順生氏によると、「チェンバロを副科で学んでいるピアノ学生だけではなく、ピアノ科から古楽部門チェンバロ科へ転科した専門学生でさえ、なかなかレッスンに《平均律》を持って来ない。なぜかと訊いてみたら、『イヤな思い出があるから。』」、だそうです。出拠不明のモダン思考から逃れられなくなったり、《平均律》が嫌いになったり(延いては音楽そのものまで嫌いになったり)するくらいなら、独学でお気楽にやってた方がマシ、というのは本末転倒であります。
《平均律》はともかく、《フーガの技法》まで《ゴルトベルク変奏曲》に演奏回数で大きく水をあけられているのは、分かり易いアリアと盛り上がり方を別にすると、ひょっとするとフーガという形式に対して聴き手が不必要に構えてしまうのが一因かもしれません。バッハからブーレーズにいたるまで、「聴けば分かる」ように作曲家は心を砕いて書いています。《平均律》を「分析」する論文が現れたのは、19世紀に入ってからでした。
そこで今回は趣向を変えて、《平均律》と吉本漫才との比較をしてみたいと思います。声と声との掛け合いによって、聴き手の中に何か感応させる、という点で、両者は非常に似通っているからです。勿論バッハの音楽が素晴らしいのは修辞の所為ではありません。会話の流れが一定の型にはめられないように、フーガのパターンも色々です。
【フリ】
前フリ。マクラ。導入部。フリは本題を引き立たせる役割を持っているが、フリと本題に内容的な関連があるとは限らない。平均律《第2巻》では《第1巻》にくらべ、このフリ(前奏曲)が質・量ともに非常に充実したものになっている。マクロでは前奏曲が、ミクロではフーガの主題そのものが、フリでありツカミである。
【空気】
前後の芸人さんや会場の雰囲気によって、「フリ」や「マエセツ」は臨機応変に変えねばならない。空気読まれへんとアカンのである。バロック音楽の場合、「空気」とは「調性」に相当する。ニ短調ならニ短調、イ長調ならイ長調で、おおよその空間・拍動感・楽想等が決まってくる。 その実質は一意的に定義しにくいが、確実に存在するのは疑い得ない。ハ長調の前奏曲とは、「ほな、これからハ長調で皆様のご機嫌を伺います~」、と即興的に指慣らしをすることである。
【フーガの主題】
フーガの最初に出て来る旋律のこと。形を変えて何度も繰り返される。フーガとは、面白い発想の話題に基づいて数人が雑談している光景である。
【主題の応答】
Aさんが言ったコメントを、Bさんがほぼそのまま繰り返すこと。「いや暑いね」「ほんま暑いね」「大変でしょ」「大変ですわ」。
【主題の対句】
「平均律って漫才と一緒やん」(ボケ)に対するコメント「ちゃうちゃう」(ツッコミ)。世間に対して主題(ボケ)を分かりやすく解(ほぐ)すのが対句(ツッコミ)である。逆に言うと、ツッコミを観察することによって、ボケに何を言わせたかったか(=ボケをどのようにアーティキュレートすべきか)を推定出来る。ボケが生きるか死ぬかはツッコミ次第である。大阪では、言ったボケに自分自身ですぐツッコむケースを見かけるが、これは主題と対句が連続して同一声部で行われるフーガ書法と全く同様である。 クラヴィコード等の鍵盤楽器では手首・肘・肩が「ボケ」であり、指先は「ツッコミ」に相当する一方、弦楽器や管楽器では指先がボケであり、ボーイングやアンブシュアはツッコミと言えるだろう。
【反行形】
内容的には主題とほとんど同じながら、音の向き方が違う形。「こうでんねん↓」が「そうでっか↑」に変化する感じ。ドを出発点にジグサグに上がるとドミレファミ、下がるとドラシソラとなるが、鏡に映すと一緒なので、どちらも主題として扱う。 聴いてすぐ分かる場合とそうでもない場合がある。 なお、「こんばんわ」を「わんばんこ」を変えたものは、逆行形と呼ばれる。
【おーまーえーはーアーホーかー】
「おまえはアホか」の拡大形。 縮小形は、「ぉマぁッかっ」。
【主題の展開】
よくあるパターンは、Aさん「こんにちは、ちは、ちは、ちは!」→Bさん「ちは?」→Aさん「ちは! こんにちは!!」という流れ。声と声が「会話」をしている部分と、その間にある「ト書き」部分の境目がはっきりしていなかったり、二人の声で一人、あるいは一人で二人の声を思わせる動きなどもしばしば見られる点は、再現芸術である落語に酷似している。
【ノリ突っ込み】
ボケにある程度ノっておいて、ツッコミに転じること。あるボケに対して「そうそう、●●って××やんなー…って何でやねん!」というパターン。 Aさんが独りで「こん、こん、こん、こんにちは!」と再登場する場合の応用として、Bさんが「こん、こん、こん・・・」と言いかけているのを横取りしてAさんが「こんにちは!もうかりまっか!」とツッコミまで完結させるケースに相当する。
【かぶせ】
ストレット。連続して短いボケ(とツッコミ)を次々にカマすこと。 曲の冒頭でいきなり「かぶせ」状態になることもある。普通は最後ら辺のイイ所で出て来るものである。《平均律》で頻出する、フレーズ最小単位の半分で次々に「かぶせ」られた際の各々のメトリックまで聞き分けられるならば、リゲティ《練習曲集》やクセナキス《シナファイ》など何程のことでも無いかもしれない。
【転回対位法】
ボケとツッコミの位置関係が逆転しても大丈夫なように仕込んでおくこと。
【二重フーガ】
大事なボケが1個ではなく2個ある場合。
【転調】
「・・・って、誰がやねん!」「・・・て、何言うとんねんアホー!」、で次の話題に行くこと。
【天丼(てんどん)】
自然な会話の流れから少し脱線するような形で、あたかもアドリブのように小ネタが現れる。しばらく時間をあけて、その小ネタが思わぬタイミングで二度・三度と繰り返され、話が大きく盛り上げられていく(・・・というタイプの「天丼」が私は好きである)。アドリブに見せかける、というのは、「3時間かけたナチュラルメイク」みたいなもんである。
【一発ギャグ】
天丼のしつこいヴァージョン。「ぷっす~ん」「かい~の」「今日はこのくらいにしといたるわ」等。 《メタスタシス》初演直後にジョリヴェ夫人がクセナキス夫人に向かって曰く、「あんたねえ。あんたのそのきったない野兎のコート。もう、ミンクに代えてもいいわよ。あんたの旦那は《メタスタシス》でトレードマーク (“truc”)を見つけたんだから、あんたは旦那がそのスタイルを変えちゃわないよう全力を尽くすのよ。クギを打ち込むのよ」
【鉄板(てっぱん)】
一番のヒット・チューン、絶対受けるネタ。 K-1ピアニストを拝命した後にギミック・チェンジするのは大変である。
【フェルマータ】
演奏者の裁量に任される、宙吊りにされた時間。「CMのあと、衝撃の結末が!」
【チャンチャン】
ソシレ→ドミソで締めること。義務教育の朝礼等でも使用される。恐らくは《オクラホマ・ミキサー》あたりにヒントを得た三木鶏郎氏が、終戦直後NHKラジオ「歌の新聞」で自作の歌をつなぐための一口噺(コント)において使用したのが、「チャンチャン」の始まりと目される。その場でデタラメ(=サイコロの「目」)に思いついた単純なアイデア(イデー)が、シコミを感じさせず、あたかもドサクサでの善後策のようにリアルタイムで増殖していきながら、要所要所は「チャンチャン」で「締め」が行われる。逆に、「締める」と全て正当化されるとも言える。古楽演奏の要諦の一つ。
【シェゲナベイベー】
前後を見渡しつつ宙ぶらりんでシェイクすること。古楽演奏の要諦の一つ。
【大喜利(おおぎり)】
笑点。 バッハ作品では《フーガの技法》《音楽の捧げ物》が相当。
【ネタをふくらます】
長男の教育用に書いた小曲を拡大して、《平均律第2巻》前奏曲に転用すること。
【オチ】
最後の締め。「君とはやってられんわ」「わあわあ言うております」「ええ加減にせぇ」「やめさせてもらうわ(帰らせてもらうわ)」「ちょうど時間となりました」などが典型的な終止形である。《フーガの技法》の「最後」は、梯子+地口オチと言ったところか。おあとが宜しいようで。

さて、バッハ後期鍵盤作品のうち《平均律第2巻》や《フーガの技法》は、《ゴルトベルク変奏曲》や《音楽の捧げ物》に比べて、弾き手・聴き手双方から敬遠される憂き目に遇っているようです。複数の音大で教鞭を執っておられる渡邉順生氏によると、「チェンバロを副科で学んでいるピアノ学生だけではなく、ピアノ科から古楽部門チェンバロ科へ転科した専門学生でさえ、なかなかレッスンに《平均律》を持って来ない。なぜかと訊いてみたら、『イヤな思い出があるから。』」、だそうです。出拠不明のモダン思考から逃れられなくなったり、《平均律》が嫌いになったり(延いては音楽そのものまで嫌いになったり)するくらいなら、独学でお気楽にやってた方がマシ、というのは本末転倒であります。
《平均律》はともかく、《フーガの技法》まで《ゴルトベルク変奏曲》に演奏回数で大きく水をあけられているのは、分かり易いアリアと盛り上がり方を別にすると、ひょっとするとフーガという形式に対して聴き手が不必要に構えてしまうのが一因かもしれません。バッハからブーレーズにいたるまで、「聴けば分かる」ように作曲家は心を砕いて書いています。《平均律》を「分析」する論文が現れたのは、19世紀に入ってからでした。
そこで今回は趣向を変えて、《平均律》と吉本漫才との比較をしてみたいと思います。声と声との掛け合いによって、聴き手の中に何か感応させる、という点で、両者は非常に似通っているからです。勿論バッハの音楽が素晴らしいのは修辞の所為ではありません。会話の流れが一定の型にはめられないように、フーガのパターンも色々です。

前フリ。マクラ。導入部。フリは本題を引き立たせる役割を持っているが、フリと本題に内容的な関連があるとは限らない。平均律《第2巻》では《第1巻》にくらべ、このフリ(前奏曲)が質・量ともに非常に充実したものになっている。マクロでは前奏曲が、ミクロではフーガの主題そのものが、フリでありツカミである。
【空気】
前後の芸人さんや会場の雰囲気によって、「フリ」や「マエセツ」は臨機応変に変えねばならない。空気読まれへんとアカンのである。バロック音楽の場合、「空気」とは「調性」に相当する。ニ短調ならニ短調、イ長調ならイ長調で、おおよその空間・拍動感・楽想等が決まってくる。 その実質は一意的に定義しにくいが、確実に存在するのは疑い得ない。ハ長調の前奏曲とは、「ほな、これからハ長調で皆様のご機嫌を伺います~」、と即興的に指慣らしをすることである。
【フーガの主題】
フーガの最初に出て来る旋律のこと。形を変えて何度も繰り返される。フーガとは、面白い発想の話題に基づいて数人が雑談している光景である。
【主題の応答】
Aさんが言ったコメントを、Bさんがほぼそのまま繰り返すこと。「いや暑いね」「ほんま暑いね」「大変でしょ」「大変ですわ」。

「平均律って漫才と一緒やん」(ボケ)に対するコメント「ちゃうちゃう」(ツッコミ)。世間に対して主題(ボケ)を分かりやすく解(ほぐ)すのが対句(ツッコミ)である。逆に言うと、ツッコミを観察することによって、ボケに何を言わせたかったか(=ボケをどのようにアーティキュレートすべきか)を推定出来る。ボケが生きるか死ぬかはツッコミ次第である。大阪では、言ったボケに自分自身ですぐツッコむケースを見かけるが、これは主題と対句が連続して同一声部で行われるフーガ書法と全く同様である。 クラヴィコード等の鍵盤楽器では手首・肘・肩が「ボケ」であり、指先は「ツッコミ」に相当する一方、弦楽器や管楽器では指先がボケであり、ボーイングやアンブシュアはツッコミと言えるだろう。
【反行形】
内容的には主題とほとんど同じながら、音の向き方が違う形。「こうでんねん↓」が「そうでっか↑」に変化する感じ。ドを出発点にジグサグに上がるとドミレファミ、下がるとドラシソラとなるが、鏡に映すと一緒なので、どちらも主題として扱う。 聴いてすぐ分かる場合とそうでもない場合がある。 なお、「こんばんわ」を「わんばんこ」を変えたものは、逆行形と呼ばれる。
【おーまーえーはーアーホーかー】
「おまえはアホか」の拡大形。 縮小形は、「ぉマぁッかっ」。

よくあるパターンは、Aさん「こんにちは、ちは、ちは、ちは!」→Bさん「ちは?」→Aさん「ちは! こんにちは!!」という流れ。声と声が「会話」をしている部分と、その間にある「ト書き」部分の境目がはっきりしていなかったり、二人の声で一人、あるいは一人で二人の声を思わせる動きなどもしばしば見られる点は、再現芸術である落語に酷似している。
【ノリ突っ込み】
ボケにある程度ノっておいて、ツッコミに転じること。あるボケに対して「そうそう、●●って××やんなー…って何でやねん!」というパターン。 Aさんが独りで「こん、こん、こん、こんにちは!」と再登場する場合の応用として、Bさんが「こん、こん、こん・・・」と言いかけているのを横取りしてAさんが「こんにちは!もうかりまっか!」とツッコミまで完結させるケースに相当する。
【かぶせ】
ストレット。連続して短いボケ(とツッコミ)を次々にカマすこと。 曲の冒頭でいきなり「かぶせ」状態になることもある。普通は最後ら辺のイイ所で出て来るものである。《平均律》で頻出する、フレーズ最小単位の半分で次々に「かぶせ」られた際の各々のメトリックまで聞き分けられるならば、リゲティ《練習曲集》やクセナキス《シナファイ》など何程のことでも無いかもしれない。
【転回対位法】
ボケとツッコミの位置関係が逆転しても大丈夫なように仕込んでおくこと。
【二重フーガ】
大事なボケが1個ではなく2個ある場合。
【転調】
「・・・って、誰がやねん!」「・・・て、何言うとんねんアホー!」、で次の話題に行くこと。

自然な会話の流れから少し脱線するような形で、あたかもアドリブのように小ネタが現れる。しばらく時間をあけて、その小ネタが思わぬタイミングで二度・三度と繰り返され、話が大きく盛り上げられていく(・・・というタイプの「天丼」が私は好きである)。アドリブに見せかける、というのは、「3時間かけたナチュラルメイク」みたいなもんである。
【一発ギャグ】
天丼のしつこいヴァージョン。「ぷっす~ん」「かい~の」「今日はこのくらいにしといたるわ」等。 《メタスタシス》初演直後にジョリヴェ夫人がクセナキス夫人に向かって曰く、「あんたねえ。あんたのそのきったない野兎のコート。もう、ミンクに代えてもいいわよ。あんたの旦那は《メタスタシス》でトレードマーク (“truc”)を見つけたんだから、あんたは旦那がそのスタイルを変えちゃわないよう全力を尽くすのよ。クギを打ち込むのよ」
【鉄板(てっぱん)】
一番のヒット・チューン、絶対受けるネタ。 K-1ピアニストを拝命した後にギミック・チェンジするのは大変である。
【フェルマータ】
演奏者の裁量に任される、宙吊りにされた時間。「CMのあと、衝撃の結末が!」

ソシレ→ドミソで締めること。義務教育の朝礼等でも使用される。恐らくは《オクラホマ・ミキサー》あたりにヒントを得た三木鶏郎氏が、終戦直後NHKラジオ「歌の新聞」で自作の歌をつなぐための一口噺(コント)において使用したのが、「チャンチャン」の始まりと目される。その場でデタラメ(=サイコロの「目」)に思いついた単純なアイデア(イデー)が、シコミを感じさせず、あたかもドサクサでの善後策のようにリアルタイムで増殖していきながら、要所要所は「チャンチャン」で「締め」が行われる。逆に、「締める」と全て正当化されるとも言える。古楽演奏の要諦の一つ。
【シェゲナベイベー】
前後を見渡しつつ宙ぶらりんでシェイクすること。古楽演奏の要諦の一つ。
【大喜利(おおぎり)】
笑点。 バッハ作品では《フーガの技法》《音楽の捧げ物》が相当。
【ネタをふくらます】
長男の教育用に書いた小曲を拡大して、《平均律第2巻》前奏曲に転用すること。

最後の締め。「君とはやってられんわ」「わあわあ言うております」「ええ加減にせぇ」「やめさせてもらうわ(帰らせてもらうわ)」「ちょうど時間となりました」などが典型的な終止形である。《フーガの技法》の「最後」は、梯子+地口オチと言ったところか。おあとが宜しいようで。

全然Bachの空気読めてへんやん
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一応真剣には書いてますけど所詮ネタなので、マジレスは御勘弁を(笑)。今回チラシの推薦文を書いて下さった鈴木淳史氏へのオマージュってとこです(高橋源一郎絶賛するところの)。鈴木と言えば、確か鈴木雅明氏は18歳までは関西のお育ちな筈なので、いっぺんお伺いしたいですね、そのあたり。


よろしおますなぁ。
バッハをこのように見ることに抵抗のある人は、まじめな文学作品にたとえてもらっていいと思いますが、その作品とて、吉本風に解釈することは屁の河童でありましょう。
それはそうと、新調弦、聴いてみたいものです。クラヴィコードでも作ろうかなあ・・・・
むかしクラヴィコードを持ってたとき、中全音律から行き当たりばったりで24調すべてのトリトヌスの解決を使用可能に追い込んでみたことがあります。結果はおそらくその新発見調弦にかなり近かったと思います。悲しいかな、行き当たりばったりだったので同じ結果には二度と追い込めませんでした。記録を残しておくんだった・・・ 別の記事の感想書いてごめんあそばせ。演奏会の成功を祈ってます。
バッハをこのように見ることに抵抗のある人は、まじめな文学作品にたとえてもらっていいと思いますが、その作品とて、吉本風に解釈することは屁の河童でありましょう。
それはそうと、新調弦、聴いてみたいものです。クラヴィコードでも作ろうかなあ・・・・
むかしクラヴィコードを持ってたとき、中全音律から行き当たりばったりで24調すべてのトリトヌスの解決を使用可能に追い込んでみたことがあります。結果はおそらくその新発見調弦にかなり近かったと思います。悲しいかな、行き当たりばったりだったので同じ結果には二度と追い込めませんでした。記録を残しておくんだった・・・ 別の記事の感想書いてごめんあそばせ。演奏会の成功を祈ってます。

>空気読めてへんやん

>一応真剣に書いていますけど
確かにその辺、よ~く分かります。私は大井君を実際に知っているから
読み方を自然に身に着けているからかもしれませんが、コメント見るにつけ、読み方に一工夫二工夫必要というか読み手にレベルを要求するというか。狙っているのでしょうが。
まあ、それはどうでも良い問題なんですが、ちょっと興味本位ですが、
聴きたいのは、少し前の「鼻から牛乳」のエッセイしかり、これらの
エッセイ、構想?日、作文?日かけているのでしょうか?
なんぼ優秀であろうとも、一文だけならともかく、これだけ体系化した
文章、単なる思い付きでさらさら書けるとは思えませんので。
と、思いつきの質問で失礼しますが^^;。
50%も理解できたかどうか疑問ですが、このエッセイ読んで
バッハのフーガ聴きなおしてみたいと思いました。
今後も楽しみにしております。
確かにその辺、よ~く分かります。私は大井君を実際に知っているから
読み方を自然に身に着けているからかもしれませんが、コメント見るにつけ、読み方に一工夫二工夫必要というか読み手にレベルを要求するというか。狙っているのでしょうが。
まあ、それはどうでも良い問題なんですが、ちょっと興味本位ですが、
聴きたいのは、少し前の「鼻から牛乳」のエッセイしかり、これらの
エッセイ、構想?日、作文?日かけているのでしょうか?
なんぼ優秀であろうとも、一文だけならともかく、これだけ体系化した
文章、単なる思い付きでさらさら書けるとは思えませんので。
と、思いつきの質問で失礼しますが^^;。
50%も理解できたかどうか疑問ですが、このエッセイ読んで
バッハのフーガ聴きなおしてみたいと思いました。
今後も楽しみにしております。

遅ればせながらー、えーと、一応真剣に書いてませんけどne、所詮ネタ上の<ツッコミ>なので(分かると思いますが、<ツッコミ>の機能上)本来笑うところなのですから、何か違った解釈によるところの集中砲火はご勘弁を(笑
ま強いてマジレスするとすらば、その関西弁か大阪弁か何か知りませんが、いまいちネイティブ感に乏しいことと、比喩を用いたフーガの説明が読み進むにしたがって構成一般についての説明にピントがぼやけてしまっていることの詰めの甘さ、要するにネタとしての完成度に苦言を呈する次第です、と、強いて言うならこういう感じです。何しろネタをつくるのは私の専門でもあり、またバッハの専門でもあるわけですから。
ま強いてマジレスするとすらば、その関西弁か大阪弁か何か知りませんが、いまいちネイティブ感に乏しいことと、比喩を用いたフーガの説明が読み進むにしたがって構成一般についての説明にピントがぼやけてしまっていることの詰めの甘さ、要するにネタとしての完成度に苦言を呈する次第です、と、強いて言うならこういう感じです。何しろネタをつくるのは私の専門でもあり、またバッハの専門でもあるわけですから。
私の不徳の致すところなんでしょう、色んな意味で。コメントさえ不可能なくらい難解系の文章を目指したほうが良いのだろうか。