(承前)
《指が回らなくて、もどかしい》シリーズ総括の回です。
なかんずく【第3回】で演繹的に導入された考え方は、かつてこのブログで紹介したグリーペンケルを含めた既存の諸メトードを、否定している部分があります。 それにしても、腐臭立ち籠めるアカデミズムを踏襲しなくていい立場って、ホンット素晴らしいっすね(>水野晴郎風)。 以下、現時点での見解を。
×「指の根元はへこんではいけない」
へっこんでも良い――というよりは、指の根元の硬直が指先の動きを阻害しないように心がけると、凹むまでは行かなくても、少なくとも出っ張りはせず、180度前後の角度に落ち着く、ということです。勿論押し付けすぎは禁物です。
特に小指については、かつて私も根元からグキッと垂直に鍵盤に突き刺すやり方が良いと思っておりましたが、これは小指の根元の硬直、ひいては肘の硬直を招き、音色や指回りに跳ね返ってくる危険性が高い。
こういう平べったい手の形――いわば手の甲にコインを乗せても落ちない「クレメンティ型」――は、現役奏者でも例えばポリーニ・アムラン・ランラン・レオンハルトらが一時的にそういう体勢を取ることはあり、またオルガニストでは広範に見かけます。(そういえばクレメンティはオルガニストでした。)ヴァイオリンやギターの指板を押える左手にも酷似しています。一説には、故ジェルメール・ムニエ女史が推奨していたとか。
手首・肘・肩は、君臨すれども統治せずと言おうか、そこには存在するけれども積極的には参加しない――指先の動きにつられて自由にブラブラ揺れている――ため、一見「指だけで」弾いているように見えます。 が、それは誤解です。 手の甲は、あたかも挽肉と玉葱をツナギで合わせた加熱前のハンバーグのような、グニャグニャの状態を保っています。
×打鍵の瞬間だけ力を入れる
これは、以前にも一度批判したことがあります。この言葉の出拠が知りたい。つねに脱力しているつもりで丁度だと思います。
ここで言う脱力とは、力がぬける(weaken)のではなく、ゆるむ(relax)ことです。なぜ緩めるかといえば、指回りや音色のコントロールを邪魔するような、不必要な筋肉の緊張が起きないようにするためです。
ポリーニや山下和仁の恐るべき指回りは、彼らの強靭な指のおかげと言うよりは、その指が可能たらしめた、極めて高度な脱力法によるものです。そしてその脱力法じたいは、指の弱い我々にも実践可能な筈です。「手が大きいから」「男性は筋肉の付き方が違うから」「西洋人は指が太いから」「小さい頃から猛訓練を積んでるから」「あの人は特別だから」等と、早々にケツを割るのは残念なことです。
×指は鍵盤と平行に
小指や親指は鍵盤と平行である必要はありません。優先すべきなのは、指の根元の脱力です。
右手親指でCを弾いたとき、力を抜いた親指の先が鍵盤上をヌルヌルと滑って人差指側へ回転し、結果としてDの鍵盤の左側面にぶつかって静止する、というモーションは問題ありません。このとき、親指の根元が脱力しているだけではなく、右手の右半分(中指から小指にかけて)がそれを決して邪魔しないことが前提条件となります。同様に、右手小指でGを弾いたとき、力を抜いた小指の先が鍵盤上をヌルヌルと滑って薬指側へ回転し、結果としてFの鍵盤の右側面にぶつかって静止します。右手の左半分(中指から親指にかけて)がそれを邪魔しないこと。
無論【第3回】で説明したエクササイズは、ある種おおげさな練習であり、弾く前にいちいち手首を「うらめしやあ」式に高くかかげたり、親指を使うごとにグニュグニュ回転させたりするのは本末転倒です。 あらゆる予備練習・予備プロセスは、すみやかに標準形へ戻されなければ、思わぬ悪い癖がつくきっかけにさえなります。 ただ、指先や関節に、わずかでもいいので「アソビ」を設ける余裕は持ちたいところです。
【第3回】では、硬直を誘引するあらゆる因子を排除したゼロポイントを設定しました。まず手が鍵盤に溶け込むような状態に習熟してから、徐々に鍵盤との距離(articulation)を取っていくべきだと考えます。
×手首や肘を使ってたっぷりと
ソプラノの故伊藤叔女史が福田進一氏に感嘆して曰く、「こんなにギター弾けたら、気持ちいいだろうなぁ・・・まるで左手が生き物のように動くのよね」。福田氏つっ込んで曰く、「俺は生き物だって!」。
そう、我々は生き物なので、指と手首と肘と肩は一心同体です。 肘を「使う」ことと肘を硬直させることは別物ですし、肘や手首を使っていることを演奏中にわざわざ見せびらかす必要はありません(※)。
肘が不必要に外側に突き出たり、あるいは不必要に内側へ引き付けられている場合は、外から見て硬直が推測されます。しかし、押し付けすぎ、あるいは浮かせ過ぎ、そして「特定のポジションで」一時的に硬直が発生するケースは、他人はおろか、自分でも非常に気付きにくいものです。
一方、指先の硬直/不如意は、視覚的にも認知しやすい。 〈指が上にピンと立ってしまって硬直 ⇔ 指が内側へ畳み込まれて硬直〉、あるいは、〈指が鍵盤の底までいかず中途半端に浮く ⇔ 指が鍵盤の底を不必要に押し付けてしまう〉、等。 こういう癖があっても、日本人のカタカナ英語が「通じる」が如く、「弾けてしまう」ぶんには幸せな人生が送れます。 が、【第1回】で先述しましたように、意識されない筋肉のこわばりは、意識されない透明な壁を自分の回りに張り巡らすことに直結します。
これも以前に申し上げましたが、理想的に素晴らしく良い耳と、充分に良い楽器があれば、場合によっては自分自身でテクニックを矯正出来るのかもしれません。 が、何が良い音色なのか、という価値判断じたい、日本の環境下では存外に困難でしょう。
(※)指先・手首・肘のどこに意識の焦点があるか、をあえて言うならば、「手の平の『肉球』」の部分です。肉球をぷよぷよとバウンドさせている感じ。
×解剖学的・物理学的うんぬん
【第2回】【第3回】では、あえて筋肉の名称などは一切使いませんでした。筋肉の質と機能、その結合の仕方は、余りにも各人各様であり、しかもその筋肉に指令を出す人間の脳は、現在でも仕組みがほとんど解明出来ていないブラックボックスだからです。
アスリートの優劣を決するのは、筋肉の量ではなく質です。 そして、筋肉の質は、訓練により、ある程度は変化させることが出来る。 コルトーの映像を見て、コルトーの身体を物真似するのは簡単ですが、しかし決してコルトーの音色は出せない。 当たり前のことです。
もちろん、低レベルの範囲では、テーブルの上でピアノを弾く仕草をしてもらえれば、その人の音色がおおよそ分別可能ではあります。テーブルの上の時点で、既に手の使い方が変だからです。
×美しい手の形うんぬん
【第3回】では、不必要な力が入る要素を極力排除するために、「手の形を整える」という指標を一旦放棄しました。
関節がしっかりしていない学習者の手の形が崩れた際、脱力を優先した結果そのようになっているのかどうかを、注意深く見極める必要があります。なぜなら、目先の音量・指回りのために、無垢な脱力法(=音色)を犠牲にすると、角を矯めて牛を殺すことになりかねないからです。「健康のためなら死んでも良い」というような様式美を生徒に押し付けるのは、未必の故意として指弾されるでしょう。
×奏法には色々考え方・流儀がある
グラスハーモニカやオンド・マルトノの奏法文献を紐解くと、そのいきあたりばったりな記述に苦笑せざるを得ませんが、よく考えると、ピアノ奏法指南書も似たようなものです。
【弾けてしまう子の場合】・・・・・弾けてしまう子はしばしば、教師の言うことを聞きません。 3割先生、7割自分。 先生側も、好きにさせておくことが多い。
さて、こういう子が教える立場になると、なにせ、いつのまにか弾けてしまうので、「どうして弾けるのか」を省察・言語化していることは稀です。ですので、なぜ生徒の指が回らないのか理解出来ない。ムカデに歩き方を尋ねるようなもので、善意でのアドヴァイスも生徒の混乱を招いたり、表層的な効果を狙うだけになりがちです。
【弾けない子の場合】・・・・・・弾けない子はしばしば、教師の言うことに振り回されます。 7割先生、3割自分。 教師側も、まさか自分の言ったことが、生徒の可能性を凋めているとは夢にも思っていません。
さて、こういう子が教える立場になると、さらに話はややこしい。 ピアノを20数年誰かに師事して、ピアノは弾けるようにならなかったが、ピアノを「教える」ことは出来るようになった。なんとなれば、20数年間耳にタコが出来るほど聞かされた言葉を、自分で理解も納得も実践もすることなく、適当に復唱していれば商売になるからです。 いわく、「もっと力を抜いて」。 (→振り出しに戻る→)
はたして、パウリ効果の寄せ集めのようなシロモノ(「下手糞の現象学」とでも)が、ピアノ奏法虎の巻として上梓される運びとなります。もっとも私見では、「悪い先生はいない。悪い生徒がいるだけだ」。
生徒としての良し悪しは、ある情報が目の前を通過していった際に、その後ろ髪を毟り取るべく手を伸ばすか伸ばさないか、で明暗が分かれます。「こういうムズカシイ説明がしてある本(or授業)は分からない」と尻込みするのも困り物だけれど、「これなら知っている」と早合点するのはそれより遥かに危険です。
生徒は先生とどう付き合うべきか、先生は生徒をどう見守るべきか、については、また別の機会に。 (この項終了)
《指が回らなくて、もどかしい》シリーズ総括の回です。
【第1回 2007/03/02(金)】 指が回らないのは、指のせいではない。その原因究明は、自分自身で行ってゆくしかない。〔心構え〕
【第2回 2007/03/04(日)】 推理小説のように、題材はすべて挙がっている。犯人は驚くべき身近にいる。〔人体・鍵盤・時間の対称性を利用したトラブルシューティング法〕
【第3回 2007/03/06(火)】 そもそも、「間違い」が発生し得ないような奏法は、有り得るのか否か? 〔全関節を緩めヤジロベエのようにバランスを取ること + 弦楽器的ポジションの援用〕
なかんずく【第3回】で演繹的に導入された考え方は、かつてこのブログで紹介したグリーペンケルを含めた既存の諸メトードを、否定している部分があります。 それにしても、腐臭立ち籠めるアカデミズムを踏襲しなくていい立場って、ホンット素晴らしいっすね(>水野晴郎風)。 以下、現時点での見解を。

へっこんでも良い――というよりは、指の根元の硬直が指先の動きを阻害しないように心がけると、凹むまでは行かなくても、少なくとも出っ張りはせず、180度前後の角度に落ち着く、ということです。勿論押し付けすぎは禁物です。
特に小指については、かつて私も根元からグキッと垂直に鍵盤に突き刺すやり方が良いと思っておりましたが、これは小指の根元の硬直、ひいては肘の硬直を招き、音色や指回りに跳ね返ってくる危険性が高い。
こういう平べったい手の形――いわば手の甲にコインを乗せても落ちない「クレメンティ型」――は、現役奏者でも例えばポリーニ・アムラン・ランラン・レオンハルトらが一時的にそういう体勢を取ることはあり、またオルガニストでは広範に見かけます。(そういえばクレメンティはオルガニストでした。)ヴァイオリンやギターの指板を押える左手にも酷似しています。
手首・肘・肩は、君臨すれども統治せずと言おうか、そこには存在するけれども積極的には参加しない――指先の動きにつられて自由にブラブラ揺れている――ため、一見「指だけで」弾いているように見えます。 が、それは誤解です。 手の甲は、あたかも挽肉と玉葱をツナギで合わせた加熱前のハンバーグのような、グニャグニャの状態を保っています。
×打鍵の瞬間だけ力を入れる
これは、以前にも一度批判したことがあります。この言葉の出拠が知りたい。つねに脱力しているつもりで丁度だと思います。
ここで言う脱力とは、力がぬける(weaken)のではなく、ゆるむ(relax)ことです。なぜ緩めるかといえば、指回りや音色のコントロールを邪魔するような、不必要な筋肉の緊張が起きないようにするためです。
ポリーニや山下和仁の恐るべき指回りは、彼らの強靭な指のおかげと言うよりは、その指が可能たらしめた、極めて高度な脱力法によるものです。そしてその脱力法じたいは、指の弱い我々にも実践可能な筈です。「手が大きいから」「男性は筋肉の付き方が違うから」「西洋人は指が太いから」「小さい頃から猛訓練を積んでるから」「あの人は特別だから」等と、早々にケツを割るのは残念なことです。
小指や親指は鍵盤と平行である必要はありません。優先すべきなのは、指の根元の脱力です。
右手親指でCを弾いたとき、力を抜いた親指の先が鍵盤上をヌルヌルと滑って人差指側へ回転し、結果としてDの鍵盤の左側面にぶつかって静止する、というモーションは問題ありません。このとき、親指の根元が脱力しているだけではなく、右手の右半分(中指から小指にかけて)がそれを決して邪魔しないことが前提条件となります。同様に、右手小指でGを弾いたとき、力を抜いた小指の先が鍵盤上をヌルヌルと滑って薬指側へ回転し、結果としてFの鍵盤の右側面にぶつかって静止します。右手の左半分(中指から親指にかけて)がそれを邪魔しないこと。
無論【第3回】で説明したエクササイズは、ある種おおげさな練習であり、弾く前にいちいち手首を「うらめしやあ」式に高くかかげたり、親指を使うごとにグニュグニュ回転させたりするのは本末転倒です。 あらゆる予備練習・予備プロセスは、すみやかに標準形へ戻されなければ、思わぬ悪い癖がつくきっかけにさえなります。 ただ、指先や関節に、わずかでもいいので「アソビ」を設ける余裕は持ちたいところです。
【第3回】では、硬直を誘引するあらゆる因子を排除したゼロポイントを設定しました。まず手が鍵盤に溶け込むような状態に習熟してから、徐々に鍵盤との距離(articulation)を取っていくべきだと考えます。

ソプラノの故伊藤叔女史が福田進一氏に感嘆して曰く、「こんなにギター弾けたら、気持ちいいだろうなぁ・・・まるで左手が生き物のように動くのよね」。福田氏つっ込んで曰く、「俺は生き物だって!」。
そう、我々は生き物なので、指と手首と肘と肩は一心同体です。 肘を「使う」ことと肘を硬直させることは別物ですし、肘や手首を使っていることを演奏中にわざわざ見せびらかす必要はありません(※)。
肘が不必要に外側に突き出たり、あるいは不必要に内側へ引き付けられている場合は、外から見て硬直が推測されます。しかし、押し付けすぎ、あるいは浮かせ過ぎ、そして「特定のポジションで」一時的に硬直が発生するケースは、他人はおろか、自分でも非常に気付きにくいものです。
一方、指先の硬直/不如意は、視覚的にも認知しやすい。 〈指が上にピンと立ってしまって硬直 ⇔ 指が内側へ畳み込まれて硬直〉、あるいは、〈指が鍵盤の底までいかず中途半端に浮く ⇔ 指が鍵盤の底を不必要に押し付けてしまう〉、等。 こういう癖があっても、日本人のカタカナ英語が「通じる」が如く、「弾けてしまう」ぶんには幸せな人生が送れます。 が、【第1回】で先述しましたように、意識されない筋肉のこわばりは、意識されない透明な壁を自分の回りに張り巡らすことに直結します。
これも以前に申し上げましたが、理想的に素晴らしく良い耳と、充分に良い楽器があれば、場合によっては自分自身でテクニックを矯正出来るのかもしれません。 が、何が良い音色なのか、という価値判断じたい、日本の環境下では存外に困難でしょう。
(※)指先・手首・肘のどこに意識の焦点があるか、をあえて言うならば、「手の平の『肉球』」の部分です。肉球をぷよぷよとバウンドさせている感じ。

【第2回】【第3回】では、あえて筋肉の名称などは一切使いませんでした。筋肉の質と機能、その結合の仕方は、余りにも各人各様であり、しかもその筋肉に指令を出す人間の脳は、現在でも仕組みがほとんど解明出来ていないブラックボックスだからです。
アスリートの優劣を決するのは、筋肉の量ではなく質です。 そして、筋肉の質は、訓練により、ある程度は変化させることが出来る。 コルトーの映像を見て、コルトーの身体を物真似するのは簡単ですが、しかし決してコルトーの音色は出せない。 当たり前のことです。
もちろん、低レベルの範囲では、テーブルの上でピアノを弾く仕草をしてもらえれば、その人の音色がおおよそ分別可能ではあります。テーブルの上の時点で、既に手の使い方が変だからです。
×美しい手の形うんぬん
【第3回】では、不必要な力が入る要素を極力排除するために、「手の形を整える」という指標を一旦放棄しました。
関節がしっかりしていない学習者の手の形が崩れた際、脱力を優先した結果そのようになっているのかどうかを、注意深く見極める必要があります。なぜなら、目先の音量・指回りのために、無垢な脱力法(=音色)を犠牲にすると、角を矯めて牛を殺すことになりかねないからです。「健康のためなら死んでも良い」というような様式美を生徒に押し付けるのは、未必の故意として指弾されるでしょう。

グラスハーモニカやオンド・マルトノの奏法文献を紐解くと、そのいきあたりばったりな記述に苦笑せざるを得ませんが、よく考えると、ピアノ奏法指南書も似たようなものです。
【弾けてしまう子の場合】・・・・・弾けてしまう子はしばしば、教師の言うことを聞きません。 3割先生、7割自分。 先生側も、好きにさせておくことが多い。
さて、こういう子が教える立場になると、なにせ、いつのまにか弾けてしまうので、「どうして弾けるのか」を省察・言語化していることは稀です。ですので、なぜ生徒の指が回らないのか理解出来ない。ムカデに歩き方を尋ねるようなもので、善意でのアドヴァイスも生徒の混乱を招いたり、表層的な効果を狙うだけになりがちです。
【弾けない子の場合】・・・・・・弾けない子はしばしば、教師の言うことに振り回されます。 7割先生、3割自分。 教師側も、まさか自分の言ったことが、生徒の可能性を凋めているとは夢にも思っていません。
さて、こういう子が教える立場になると、さらに話はややこしい。 ピアノを20数年誰かに師事して、ピアノは弾けるようにならなかったが、ピアノを「教える」ことは出来るようになった。なんとなれば、20数年間耳にタコが出来るほど聞かされた言葉を、自分で理解も納得も実践もすることなく、適当に復唱していれば商売になるからです。 いわく、「もっと力を抜いて」。 (→振り出しに戻る→)
はたして、パウリ効果の寄せ集めのようなシロモノ(「下手糞の現象学」とでも)が、ピアノ奏法虎の巻として上梓される運びとなります。もっとも私見では、「悪い先生はいない。悪い生徒がいるだけだ」。
生徒としての良し悪しは、ある情報が目の前を通過していった際に、その後ろ髪を毟り取るべく手を伸ばすか伸ばさないか、で明暗が分かれます。「こういうムズカシイ説明がしてある本(or授業)は分からない」と尻込みするのも困り物だけれど、「これなら知っている」と早合点するのはそれより遥かに危険です。
生徒は先生とどう付き合うべきか、先生は生徒をどう見守るべきか、については、また別の機会に。 (この項終了)
