まだ体重がギリギリ2桁だった大昔の演奏動画を、なかなか興味深く視聴しました。自分の過去の演奏を聴いて良いと思うことはほとんど無いのですが、この録画には非常に肯定的な印象を持ちました。
「この映像の意味するところ」について、以下、夜郎自大な独り言を呟かせて頂きます。 「でっかい独り言やなー」
■幾つかの意外な点で画期的なドキュメントとなっています。
(i) スコア指定通り、管弦楽がα・β・γ・δ群に立体配置されている。各奏者は通常の座席とは異なった場所に座らされ(なんとコントラバスが真正面ド真前に)、コンマスは舞台最左翼に追いやられるので(工藤千博氏が何度かアップで写っています)、非常に指揮しにくくなる。 そのため、しばしばこの種の指定は、たとえ作曲家が臨席していても平然と無視されがちである。 逆に言うと、田舎だから莫迦正直に指定を守った。
(ii) 弦楽器のノイズ奏法指定(駒向こうを弾く)を、オケが完全に守っている。ありそうで無い話。
(iii) 録り直しのきかない正真正銘のライヴ演奏でありながら、4拍子の定テンポで、縦が乱れることなく、目立った瑕もなく最後まで通奏されている。そのため、楽譜が楽に追える(泣笑)。この手の現代曲では稀有なケースかと。
(iv) 指揮者のgesteが、楽想と完全に一致している。ありそうで無い話。
(v) ソリストが自分で譜めくりをしている。もちろん流血などしていない(笑)。
(vi) 一地方テレビ局が、こんな現代音楽をまるまる15分以上も、しかも再放送まで行っていた。カメラワークも頑張っている。 それにしても、ここまで莫迦正直な演奏がネット上を徘徊していたら、かえって再演されなくなってしまうかも。
■この27歳の日本人ピアニストは、この時点(1996年11月)で、正規の音楽教育はほぼ受けていない独学状態であり、演奏技術は拙劣、読譜能力もお粗末でした。 にも関わらず、指は猛然と回り脱力もある程度は出来ているように見えるし、音楽的にも悪くないように聞こえる(痛い自画自賛御容赦)のは、いかにアピアランスからの的確な批評が困難か、ということです。 正規教育を受けていなかったことは長らくコンプレックスでしたが、この演奏には独学・荒削り(そして若さ)であるがゆえの魅力、というものが確かに存在する。 逆に言うと、「この若さでこれだけ弾けているのに、その後パッとしなかったねえ」(笑)。
■「勝因」として思い当たるのは、10段譜に書き込まれた16声部のピアノ独奏パートを処理するため、否応無く全ての音符を写譜し、長時間かけて仔細にわたる音響設計の検討を行ったことでしょう。 すなわち、音楽教育を全く受けなかったとしても、人間本気になれば、たとえ苦学力行でも良い線行ける、ってことです。恐らく《ヘルマ》初演時の高橋悠治氏にしても、「委嘱した手前、いまさら弾けないとは言えなかった」こと、ならびに自筆譜を写譜したことが、扉を開くきっかけになったのでは無いでしょうか。
■勿論今、この演奏について1小節ずつ批判を加えることは可能です。もっとも、西洋古典複音楽を一通り通過した現在から振り返ってみて、多声部の弾き分けなんて、所詮トリックの種類は限られているわけで、6分00秒あたりからの箇所(「絡み合い蠢動する蟯虫」)など、楽譜のrealizationとして中々巧みに切り抜けていると思いました。 高橋悠治氏のエッセー(演奏ではなく)や三宅榛名女史のピアニズムなど、幾つかの領導あってのスリップストリームです。
■大学同窓の5歳の息子さんがこのノイズ音響を毎日母親にせがむ一方、ご主人は「1分間が限度」だそうな。「これぞまさにカロリーの無駄、完璧な退廃芸術の標本であり、こんなものを演奏しているヒマがあったら、雪かきをするとか風呂場の掃除でもやれ」、「耳が癌になる」等という率直な書き込みには笑いました。現代音楽演奏について、映像を見ながらみんなでワイワイ匿名で実況論評する機会・メディアというのは、確かに今まで存在しえなかったわけで、なんかほのぼのしました。 個人的には、「ただいま第××小節を無事通過!」とか、あるいは楽譜をクロスフェードさせたい箇所が幾つか・・・。
―――――
《シナファイ》を巡る幾つかのトピックスについて、序ながら。
◆「最も演奏の難しい作品」というよりも、「最も譜読みに手間がかかる」という方が正確でしょう。 いまどき《三度》も《鬼火》も《ラフ3》も女子中学生が平気でこなすらしいので、「演奏が難しい」とはどういうパラメーターを指しているのか、ちゃんと定義すべきかと。 10段16声部で書いてあっても、やることはバッハ練習法の一般化に過ぎません。すなわち、根気よく手間隙かければ誰にでも出来る筈です。
◆「演奏不可能かどうか」について。
譜面に書いてある音符や指示(全ての声部を違う速度で連打すること)を100%守ることは、不可能です。作曲者の序文にも「もし出来るなら」と但してあります。
100%無理だからといって初めから放棄せず、地味な作業を重ねると、だいたい87%くらいは拾えることが判明します(テンポを落とせばもっと拾える)。 ビートボックスでさえ「3声部」は可能なわけですから、いかに聞かせるか、の熱意の問題です。
スクリャービンやブラームス等の譜面も「演奏不可能」な和音は頻出し、女性ピアニスト達などは音の省略を茶飯事としていることから、これもクラシック演奏の延長線上の出来事と言えるでしょう。
では、MIDIで打ち込んでディスクラヴィア演奏させれば完璧か、というと、そうはなりません。バッハの任意のフーガ、あるいは《別れの曲》程度のクラシック作品でも、そこに音楽としての「解釈」というオペレーションが要求される限り、たとえスコアより音符の量が幾ぶん少なかろうが、そして(これは重要なことですが)聴き手が人間である限り、打ち込みと生演奏では見紛いようの無い歴然とした差が発生します。 そもそも皆さんは、あのMIDIピアノ特有の聞くに堪えない論外の音色が、作曲作品に使用されることをどうお思いでしょうか。
◆クラシックの延長と申せば、同音のアッチェレランド・リタルダンドによるモチーフは、鏡像点を中央にしたフォアシュラークとナーハシュラーク(の一般化)に他ならず、してみるとこれは指揮台を中央にしたα・β・γ・δの楽器群と相似形でもあります。あれだけで一曲書いてしまえるのはやはり力量かと。
レゾナンスを開放して各音を独立させ漸進・後退させるのは、バルカン半島から小アジアあたりのハンマーダルシマー系撥弦楽器、あるいは88コースのブズーキのイメージでしょう。
それにしても、確かにメシアンの言うとおり、「ピアノ協奏曲」というジャンルはMozartに始まりMozartに終わっていることだったなあ。
「この映像の意味するところ」について、以下、夜郎自大な独り言を呟かせて頂きます。 「でっかい独り言やなー」

(i) スコア指定通り、管弦楽がα・β・γ・δ群に立体配置されている。各奏者は通常の座席とは異なった場所に座らされ(なんとコントラバスが真正面ド真前に)、コンマスは舞台最左翼に追いやられるので(工藤千博氏が何度かアップで写っています)、非常に指揮しにくくなる。 そのため、しばしばこの種の指定は、たとえ作曲家が臨席していても平然と無視されがちである。 逆に言うと、田舎だから莫迦正直に指定を守った。
(ii) 弦楽器のノイズ奏法指定(駒向こうを弾く)を、オケが完全に守っている。ありそうで無い話。
(iii) 録り直しのきかない正真正銘のライヴ演奏でありながら、4拍子の定テンポで、縦が乱れることなく、目立った瑕もなく最後まで通奏されている。そのため、楽譜が楽に追える(泣笑)。この手の現代曲では稀有なケースかと。
(iv) 指揮者のgesteが、楽想と完全に一致している。ありそうで無い話。
(v) ソリストが自分で譜めくりをしている。もちろん流血などしていない(笑)。
(vi) 一地方テレビ局が、こんな現代音楽をまるまる15分以上も、しかも再放送まで行っていた。カメラワークも頑張っている。 それにしても、ここまで莫迦正直な演奏がネット上を徘徊していたら、かえって再演されなくなってしまうかも。

■「勝因」として思い当たるのは、10段譜に書き込まれた16声部のピアノ独奏パートを処理するため、否応無く全ての音符を写譜し、長時間かけて仔細にわたる音響設計の検討を行ったことでしょう。 すなわち、音楽教育を全く受けなかったとしても、人間本気になれば、たとえ苦学力行でも良い線行ける、ってことです。恐らく《ヘルマ》初演時の高橋悠治氏にしても、「委嘱した手前、いまさら弾けないとは言えなかった」こと、ならびに自筆譜を写譜したことが、扉を開くきっかけになったのでは無いでしょうか。

■大学同窓の5歳の息子さんがこのノイズ音響を毎日母親にせがむ一方、ご主人は「1分間が限度」だそうな。「これぞまさにカロリーの無駄、完璧な退廃芸術の標本であり、こんなものを演奏しているヒマがあったら、雪かきをするとか風呂場の掃除でもやれ」、「耳が癌になる」等という率直な書き込みには笑いました。現代音楽演奏について、映像を見ながらみんなでワイワイ匿名で実況論評する機会・メディアというのは、確かに今まで存在しえなかったわけで、なんかほのぼのしました。 個人的には、「ただいま第××小節を無事通過!」とか、あるいは楽譜をクロスフェードさせたい箇所が幾つか・・・。
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◆「最も演奏の難しい作品」というよりも、「最も譜読みに手間がかかる」という方が正確でしょう。 いまどき《三度》も《鬼火》も《ラフ3》も女子中学生が平気でこなすらしいので、「演奏が難しい」とはどういうパラメーターを指しているのか、ちゃんと定義すべきかと。 10段16声部で書いてあっても、やることはバッハ練習法の一般化に過ぎません。すなわち、根気よく手間隙かければ誰にでも出来る筈です。
◆「演奏不可能かどうか」について。
譜面に書いてある音符や指示(全ての声部を違う速度で連打すること)を100%守ることは、不可能です。作曲者の序文にも「もし出来るなら」と但してあります。
100%無理だからといって初めから放棄せず、地味な作業を重ねると、だいたい87%くらいは拾えることが判明します(テンポを落とせばもっと拾える)。 ビートボックスでさえ「3声部」は可能なわけですから、いかに聞かせるか、の熱意の問題です。
スクリャービンやブラームス等の譜面も「演奏不可能」な和音は頻出し、女性ピアニスト達などは音の省略を茶飯事としていることから、これもクラシック演奏の延長線上の出来事と言えるでしょう。
では、MIDIで打ち込んでディスクラヴィア演奏させれば完璧か、というと、そうはなりません。バッハの任意のフーガ、あるいは《別れの曲》程度のクラシック作品でも、そこに音楽としての「解釈」というオペレーションが要求される限り、たとえスコアより音符の量が幾ぶん少なかろうが、そして(これは重要なことですが)聴き手が人間である限り、打ち込みと生演奏では見紛いようの無い歴然とした差が発生します。 そもそも皆さんは、あのMIDIピアノ特有の聞くに堪えない論外の音色が、作曲作品に使用されることをどうお思いでしょうか。

レゾナンスを開放して各音を独立させ漸進・後退させるのは、バルカン半島から小アジアあたりのハンマーダルシマー系撥弦楽器、あるいは88コースのブズーキのイメージでしょう。
それにしても、確かにメシアンの言うとおり、「ピアノ協奏曲」というジャンルはMozartに始まりMozartに終わっていることだったなあ。