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体は正直ぢゃのう

会田誠 《美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを褒めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。》
Makoto AIDA "In so far as Fine Art, I wonder when and in what way Akira Asada, who harmed the development of Japanese art scene by praising a bunch of crap and diminishing valuables, will take responsibility."(2007)

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月刊新潮2008年5月号《くわしく教えてクラシック》─────────────────────────────
第一回「21世紀のクラシック音楽体験とは?」
中原昌也(暴力温泉芸者) × (ゲスト)浅田彰

(前略)
体は正直ぢゃのう_c0050810_13581290.jpg浅田彰: ワーグナーの時代、オーケストラや劇場が巨大化し、観客数も増えたことで、演奏スタイルも変わってくる。とくに出演者がカリスマ性を帯びるにつれ、エモーショナルでうねるような表現になっていった。フルトヴェングラーやカラヤンなんかが典型でしょう。しかし、ベートーヴェンの頃までは、せいぜい二、三十人でやっていた。楽器もピアノなんかはがちゃがちゃしたドライな音だった。で、あまりエモーショナルにならず、一種、機械的に演奏していた、と。その原型に戻ろうという「ピリオド楽器のオリジナル奏法による演奏」というのが、いわばカラヤン以降かなり流行っているんですね。だけど、誰も昔の演奏を聴いたことはないんだから、本当にそうだったかなんてわかんない(笑)

中原昌也: そうなんです。

体は正直ぢゃのう_c0050810_141228.jpg浅田彰: ベートーヴェンは晩年耳が聴こえなくなり、ピアノ・ソナタでも、とくに「ハンマークラヴィーア」以降は、ある意味、ヴァーチュアルな音楽を作曲していた。当時の響きの浅いピアノ・フォルテでは出ないような音を夢想していたかもしれず、その意味では、現代のスタインウェイのグランド・ピアノが後からベートーヴェンの意図を別な形で表現したと言えなくもない。僕はそれが素晴らしい演奏だったら十分なので、ベートーヴェンの時代の響きにこだわっても仕方がないと思うんです。

  小説がそうであるように、クラシックというのは、のちの創造的誤読を生みだすためのプレテクストだと思えばいいんじゃないか。真の古典文学はいくらでも創造的誤読ができる。その意味でいうと、別にベートーヴェンなんか好きじゃない、でもやっぱりその音楽は真の古典音楽だと認めざるをえない。

体は正直ぢゃのう_c0050810_20193824.jpg   僕はピアノが好きなんだけど、昔のピアノ・フォルテによる演奏よりは、グレン・グールドがめちゃくちゃに速くチェンバロみたいにドライに弾いてみせた演奏の方が面白い(というのはむしろモーツァルトの演奏に顕著だけれど)。また逆に、ヴァレリー・アファナシエフやイーヴォ・ポゴレリッチみたいに、次の音が出る前に止まってしまうんじゃないかと観客を凍りつかせるほど創造的に変形できる。しかも、本当にすごいピアニストだと、それで説得力ある演奏をやり抜いちゃうわけですよ。古典音楽というのは、そういうプレテクストとなりうる音楽だと思います。
   (・・・)レコードという複製技術の影響も大きく、カラヤンのような演奏が標準のレコードになってグローバル化した、それをもう一度、古楽の側から再検討して相対化しようとする。いま流行っているのは、そういうリヴィジョニズム(歴史の見直し)でしょう。[2008年3月、話者による加筆校閲済のインタビュー]
























Commented by プー猫 at 2008-10-12 16:55
なんか、とても自己解釈的に勘違いなさっていて、
失望しますね、こういうエラい方の発言は。傲慢にさえ
思えます。
Commented by ooi_piano at 2008-10-13 17:12
同じインタビューで、《(・・・)たとえば彼の「構造」でも、昔のイヴォンヌ・ロリオとブーレーズ自身の録音なんて大雑把にしか弾けていない感じだけれど、最近のエマール&ボファールなんかだと相当クリアに弾けるようになった。(・・・)》、との仰せですが、構造第1巻(1952)・第2巻(1961)初演直後に録音されたコンタルスキー兄弟盤(1965)の超完璧さを御存知無いのでしょうか。あのIb・Icの壮絶な演奏は、20世紀後半の演奏様式を規定していると言っても過言では無い。客受けし易い第2巻のみをちゃらちゃら弾き飛ばしているのとは話が違う。
Commented by TH at 2008-12-10 23:36
ポゴレリッチが創造的だといわれると何だかなー
Commented by 「1750からの挑戦」 at 2009-07-26 10:46
  この短い引用部分で、「ドライ」な音についてダブルスタンダードな用法をしていらしゃる。(1)フォルテピアノはドライで、フォルテピアノはダメで。(2)グールドはドライで、グールドはおもしろくて。とくに、「チェンバロみたいにドライに」という比喩に同意しかますね。<自分はチェンバロも聴くよとナイフをちらつかせながら、それを超えてグールドを評価しますよとスノブる>、グールドとチェンバロを持ち出す効果はそれしかないように私には思えます。だれも反対できないグールドという虎の威をかりる。
  チェンバロは個々の楽器で音が違います。わたくしはピリオド楽器の個体差を聴いています。近代にむかって個体差は平準化され、その反動でふたたび個体差に注目しているのが現代だとか、幼稚なことは言いません。ともかく、ひとくくりにできないほど音色は個々の楽器で違うところを、それをグールドの音のドライ面だけの比喩として使える、用意周到な細やかな神経の持ち主が浅田先生だと考えています。
Commented by ooi_piano at 2009-07-28 11:34
  まともなヒストリカルのクラヴィコードやチェンバロが無かった半世紀前とは状況が完全に変わったわけですから、そろそろネタにマジレスし続ける無粋は切り上げるべきだと思います。一方、「どうしてもグールドのテンポでゴルトベルクを弾きたい」と漏らす音大古楽科主任もいまだに健在なようで・・。
Commented by 久保田啓 at 2020-11-13 16:51
つまり、3者は、

ジル・ドゥルーズ、フーコーの、唯物論を、採用・・・馬鹿は、ヘーゲル、ジャック・デリダ、というスタンスの連続の人です。このようなスタンスは、ジル・ドゥルーズのスタンスです。ただ、ジル・ドゥルーズは、ヘーゲル、ジャック・デリダを、こき下ろしていません。①ジル・ドゥルーズを採用・・ヘーゲルなどは馬鹿だというスタンスは、ジル・ドゥルーズを採用後の、蓮實さんの、連続の、基本的な、スタンスです。柄谷行人さんも、同じ、スタンスです。浅田彰は、近い、スタンスです。ぼくは、ヘーゲルに、文化的価値を、認める、スタンスですが、ジル・ドゥルーズの価値も、高いと考えています。また、蓮實重彦は、ドゥルーズを、「と」の人というのですが、器官なき身体、意外に、リゾーム、プラトー、消尽するもの、という、主要で、重要で、レベルが高い、オリジナルな、哲学を、上梓しています。蓮實重彦の、ドゥルーズが、「と」の人という、評価は、でたらめなだけです。

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Commented by 久保田啓 at 2020-11-13 16:52
また、3者は、基本的に、ジル・ドゥルーズ、フーコーを採用のスタンスであるのに、ジル・ドゥルーズ、フーコーを、馬鹿に、よくします。ぼくは、3者と、同一視、されたくないし、過去の、発言で、不一致の意見は、多いはずです。フーコーの遺作は、やっぱり、NAMの基本のコンセプトによく似ているだけです。繰り返すと、ぼくは、3者と、同一視、されたくないです。過去の、ぼくの発言だと、そうであるはずです。

ぼくは、柄谷行人さん、蓮實重彦さん、浅田彰の本を、たくさん、持っていました。高校1年から、持っていました。構造と力は、序文以外も、すらすら読める箇所が多いです。柄谷行人さんの本を、読んだ後、構造と力を読むと、さらに、構造と力を読めるように、なる上に、構造と力という本の、理論の、誤謬も、わかるように、なります。近年、立ち読み、ネットで、ジル・ドゥルーズ、ミッシェル・フーコーの本を、読みました。柄谷行人さん、蓮實重彦さん、浅田彰の3者が、ジル・ドゥルーズ、ミッシェル・フーコーが、本に、書いている、理論を、引用元を、記さずに、繰り返し、批評空間、その他の、本で、発表しているこは、間違いない、感じでしかないです。その割に、過小評価は、ジル・ドゥルーズのほうです。蓮實さんですが、かなり、ジル・ドゥルーズの影響が、強すぎて、ほとんど、全面的にの箇所が多いです。

Commented by 久保田啓 at 2020-11-13 16:54
浅田彰・・・極端な意見を、表明して、何人もを、無根拠に、一方的に、馬鹿にする。
浅田彰の対話のスタンスは、一般的な観点から、問題が、大きすぎる。
浅田彰のスポーツ、未経験で、サッカーなどを、論じるのは、無理があるだけです。
浅田彰の極端な理論は、あごの骨が細いかどうか、関係がない、サッカーというスポーツに、そういう別の問題から、論じる感じで、逃がしてほしい相手です。

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フーコーさんの、批判は、外人が、普通によくしています。また、その場合に、外人は、論点を、間違えていません。批評空間は、なぜか、優秀な外人を、全部、却下、排除していて、だまされている人が多い感じが、強く、します。
Commented by 久保田啓 at 2020-11-13 17:26
ぼくは、柄谷行人さん、蓮實重彦さん、浅田彰の本を、たくさん、持っていました。高校1年から、持っていました。構造と力は、序文以外も、すらすら読める箇所が多いです。柄谷行人さんの本を、読んだ後、構造と力を読むと、さらに、構造と力を読めるように、なる上に、構造と力という本の、理論の、誤謬も、わかるように、なります。近年、立ち読み、ネットで、ジル・ドゥルーズ、ミッシェル・フーコーの本を、読みました。柄谷行人さん、蓮實重彦さん、浅田彰の3者が、ジル・ドゥルーズ、ミッシェル・フーコーが、本に、書いている、理論を、引用元を、記さずに、繰り返し、批評空間、その他の、本で、発表しているこは、間違いない、感じでしかないです。その割に、過小評価は、ジル・ドゥルーズのほうです。蓮實さんですが、かなり、ジル・ドゥルーズの影響が、強すぎて、ほとんど、全面的にの箇所が多いです。
また、蓮實重彦を中心に、3者は、唯物論が、却下したあとに、出てくる、イメージの強度という概念を、執拗に、排除しています。唯物論は、イメージ、一般、つまり、スポーツや、映画や、ファッションなどの、一般のイメージを、軽視するのですが、軽視したあと、イメージは、強度として、捉えなおすのが、普通の、理解です。イメージの強度の却下を、蓮實重彦は、著書で、執拗にするのですが、20年以上前から、たびたび、イメージを、弾圧します。哲学的にも、誤謬でしかないし、日常の、スタンスでも、迷惑です。近年、読むと、事故るといわれている、ドゥルーズ、フーコーの著作を、ネットでゲットしました。蓮實重彦神話は、崩れ、蓮實重彦は、基本的に、読者を、騙しているという、評価に代わりました。宇宙広範囲に、文字情報、高速、伝送、
by ooi_piano | 2009-03-30 01:25 | プロメテウスへの道 | Comments(9)

Blog | Hiroaki Ooi


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