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〈超人とアンチクリスト〉 2019年11月22日(金)19時開演 東音ホール(JR巣鴨駅南口) 
浦壁信二+大井浩明(二台ピアノ) 予約フォーム

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c0050810_11094555.jpg●R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはこのように語った!》 作品30 (1896、オットー・ジンガーによる二台ピアノ版、日本初演)
  導入部(ツァラトゥストラの序説) - 背後世界論者について - 大いなる憧れについて - 歓楽と情欲について - 墓の歌 - 学問について - 病の癒えゆく者 - 舞踏の歌 - 夢遊病者の歌

  (休憩)

●R.シュトラウス:《アンチクリスト ~ アルプス交響曲》 作品64 (1915/2019、米沢典剛による二台ピアノ版、世界初演)
  夜 - 日の出 - 登り道 - 森に入る - 小川沿いに歩く - 滝 - 幻影 - 花咲く草原で - アルムの牧場で - 道に迷い茂みと藪を抜ける - 氷河で - 危険な瞬間 - 頂上で - 幻視 - 霧が立ちのぼる - しだいに日がかげる - 哀歌 - 嵐の前の静けさ - 雷雨と嵐、下山 - 日没 - 終了 - 夜




〈反キリスト者リヒャルト・シュトラウスはこのように作曲した〉―――甲斐貴也


■思想家フリードリヒ・ニーチェについて


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  思想家フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の出現は、ヨーロッパ精神史上の事件であった。その半生は病苦と無理解にさいなまれたが、1880年代から識者の間で名声が徐々に高まり、1889年1月精神の平衡を失った後の1890年代に入ると、「哲学者の発狂」というロマン派的話題性も寄与して、わずか数年の間にフランス、イギリス、イタリア、ロシア、スウェーデンの思想・文学界に絶大な影響を与える「ニーチェ熱」と呼ばれたブームを巻き起こした。ことにフランスでは爆発的に流行し、1902年メルキュール・ド・フランス誌の行ったアンケートでは、最も影響を受けたドイツの文学者・思想家として、ゲーテ、ショーペンハウアー、ヴァーグナーを抑えて、ニーチェを挙げる者が最多であったという。

  西欧で長く続いた中世キリスト教原理主義の時代は、16世紀のマルティン・ルターらの宗教改革に始まり三十年戦争に至る、カトリックとプロテスタントの対立による社会の荒廃によって終わりの始まりを告げた。続く17~18世紀の「啓蒙の時代」には、キリスト教に由来する道徳的進歩を目指す情熱と、科学的合理主義との結びつきが生み出した近代精神である啓蒙思想が、宗教支配と封建主義から離れた理性の支配する社会を目指し、結果キリスト教会の権威を弱体化させていった。

  科学的合理主義からは、創造主としての神は認めるが、歴史と運命を支配する「神の摂理」を認めない理神論が生まれ、さらには世界の創造にも神の力は必要なく、神を道徳的秩序とする無神論に発展する。19世紀にはフランス革命により国民国家が成立して封建主義が終焉し、市民社会が発生・発展したことで、新たに生まれた教養市民層に無神論と自由主義が広まった。生化学、進化論の確立と産業革命により、「科学の世紀」となったこの時代にキリスト教会の権威はさらに低下し、旧来の社会的価値観の劇的な変化(パラダイムシフト)が起きていた。

  にもかかわらず社会を抑圧し続けるキリスト教文化の因習への反発が極限まで高まっていた19世紀末に、「神は死んだ」という度肝を抜く箴言(しんげん)、言わば鮮烈なキャッチコピーによって、二千年間続いたキリスト教文化による諸価値の根本的転換を問うニーチェの出現は、「ニーチェ熱」を巻き起こした諸国の社会に充満して爆発を待つばかりであった新時代を開く機運への、まさに待望された点火であったのだ。

  一方ニーチェの故国ドイツの状況はやや異なっていた。普仏戦争の勝利によって統一されたドイツ帝国はヨーロッパ最強の軍事力と、産業・経済の発展による大国化によって自信を増したドイツは思想的に保守化していた。フランスへの勝利をドイツの文化的優位の結果と位置づけ、小市民的なビーダーマイアー期を迎え、キリスト教の権威が復活して勢力を取り戻しつつあった。ニーチェの「神の死」は、その社会情勢への痛撃であった。

  こうして20世紀思想の源流となったニーチェの根本思想が展開されたのが、代表作とされる”Also sprach Zarathustra”(『ツァラトゥストラはこのように語った』 1883-1885)である。本書は思想書であるにもかかわらず、ルター訳聖書のパロディと言われる擬古的な説話形式をとり、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラ(紀元前13世紀~紀元前7世紀。ルネッサンス期の西欧で、形而上学の祖・キリスト教の先駆者という虚像が流布した)のドイツ語読みを借りたツァラトゥストラなる架空の人物が、ニーチェの思想に加えてその感情をも、寓意や擬人化という前時代の手法を交えたパロディによって披歴してゆく、文学とも哲学ともつかない特異な構成になっている。

  謎かけのような副題「万人のための、誰のためでもない書」を持つ本書は、抽象的な手法によってその真意の理解に、読者一人一人の思索と内省、自己変革を要求する。従って、そこに記されたニーチェの思想の概要をここで伝えるのは不可能であり無意味だが、シュトラウスの楽曲にかかわる範囲でまとめるならば、2つのニヒリズムの克服ということになるだろう。ひとつは、捏造された神と彼岸世界を信じて、人間が実際に生きる地上の世界の価値を認めず蔑視するニヒリズム。もうひとつは、その克服により神を失うことで存在の意味と価値を見失う虚無感としてのニヒリズムである。

  「神の死」によりキリスト教のニヒリズムから自由になった人間を待ち受けるのは、新たなるニヒリズムの深淵である。この世に真理は存在せず、人間の生には何の意味もなく、行くべき来世もない。無常の人生は苦しみに満ち、人間は苦悩に病んで死を待つ死刑囚である。このような世界に生まれ落ちたこと自体が誤りで、最も良いのは生まれないことであり、次に良いのはなるべく早く死ぬことである。

  その生の苦しみを和らげ慰め、一時的にも苦痛を忘れさせるのが芸術・音楽の力であるという、哲学者ショーペンハウアーの厭世哲学と、音楽論に強く共感したリヒャルト・ヴァーグナーの創作した天才的音楽芸術作品にニーチェは心酔し、ニーチェを優れた理解者と認めたヴァーグナーとの幸福な交友が始まった(ショーペンハウアーも一般レベル以上の音楽愛好家であったが、ヴァーグナーの進歩的音楽は理解できず、その好意を受け入れなかった)。その後不幸ないきさつからニーチェはヴァーグナーと決別し、ヴァーグナーがキリスト教に回帰した『パルジファル』を徹底批判することになる。前述のようにドイツでキリスト教が勢力を取り戻す中、ヴァーグナーが無神論から転向して神による「救済」をテーマとしたことは、思想的な必然性ではなく、バイロイト劇場の顧客たる富裕層に気に入られる作品を作ろうという商策だというのである。

  ショーペンハウアーとヴァーグナーの、ニヒリズムからの消極的な逃避を乗り越え、ニーチェは『ツァラトゥストラ』で明快に「神の死」を告げ、宗教的価値観に縛られた人間を克服する「超人」という寓意的概念と、ニヒリズムを克服する「永遠回帰」という謎めいた思想を提示した。


■作曲家リヒャルト・シュトラウスについて


  そして、若き日にニーチェと同じくショーペンハウアーとヴァーグナーに心酔した作曲家リヒャルト・シュトラウスは、ニーチェ思想との出会いにより蒙を啓かれ、同じくショーペンハウアー/ヴァーグナーの厭世哲学と決別し、地上世界を肯定する独自の道を見出していった。

  リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は、バイエルン宮廷管弦楽団の首席ホルン奏者フランツ・シュトラウスを父とし、有名なビール醸造業者プショル家(現ハッカー‐プショル社)の娘ヨゼフィーネを母として生まれた。父の意向で音楽学校には進まず、その同僚たちからピアノ、ヴァイオリンを学んだ後、作曲を宮廷楽長フリードリヒ・ヴィルヘルム・マイアーに師事する。ミュンヘン・ルートヴィヒスギムナジウム(ドイツの中高一貫校)では歴史とゲーテをはじめとする古典文学に興味を持ち、ソフォクレスの『エレクトラ』を学んだ折には、その一節に合唱曲を作曲して学園祭で演奏された。

  ヴァーグナー嫌いの父と異なり、リスト、ヴァーグナーを敬愛する師マイアーの影響もあって、シュトラウスは『トリスタンとイゾルデ』、『ニーベルングの指輪』に熱中し、1882年のギムナジウム卒業祝いには、バイロイトで父の出演する『パルジファル』初演を鑑賞した。そのゲネプロを見学した時に、18歳のリヒャルトは翌年没する巨匠ヴァーグナーの姿を遠くから見たという。ギムナジウム卒業後は父の勧めもあり、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ミュンヘン大学)哲学科に進学し、ショーペンハウアー哲学に関心を持つが、音楽の道に専念するため一年余りで中退した。

  この頃、父親の同僚で、後年ドヴォルザークにチェロ協奏曲を献呈された名チェリスト、ハンス・ヴィーハンの妻で4歳年上のドーラと知り合い恋仲に発展し、その「ヴァーグナー的許されざる愛」の関係は、シュトラウスの結婚まで続くことになる。

  若くして早くも2曲の交響曲を含むいくつかの作品で好評を得たシュトラウスは、大指揮者ハンス・フォン・ビューローに才を認められ、1885年ビューローが楽長を務めるマイニンゲン宮廷管弦楽団の副指揮者となった。そのコンサートマスターの一人で親しくなった作曲家・詩人のアレクサンダー・リッターは、ヴァーグナーとショーペンハウアーの使徒であり、二人の著作をシュトラウスに叩き込んだ。

  ソナタ形式はベートーヴェンによって極められた以上、それに固執するブラームス、ブルックナーとは異なる新しい形式を求めるべきとするリッターは、詩的テキストが形式の構成要素となるリストの交響詩に倣うようシュトラウスに勧め、以後このジャンルが、シュトラウスの管弦楽作品の主要部門となる。また歌曲では、今日も広く愛唱される名歌曲「献呈」「万霊節」を含む傑作ぞろいの『8つの歌曲集』作品10を発表しており、歌曲作家としての早熟の天才ぶりに驚かされる。

  1886年、マイニンゲン宮廷管弦楽団との契約切れにより、シュトラウスはミュンヘン宮廷歌劇場の第三楽長に着任する。この時代指揮者としては不遇であったが、イタリア静養旅行の成果とも言える交響的幻想曲『イタリアから』から、作曲家としての個性が確立されてゆく。ミュンヘンには夫と離婚した年上の恋人ドーラが住んでおり、交際が続いていたようだが、1887年にはのちに妻となるソプラノ歌手パウリーネ・デ・アーナと出会う。同じ年にはライプツィヒで、その後盟友となる指揮者・作曲家グスタフ・マーラーと面識を得ている。

  1888年、最初の交響詩『ドン・ファン』を作曲し、翌年ヴァイマールで初演されるこの斬新な傑作は、新進作曲家シュトラウスの名声を確立することになる。続いてこれも今日名曲として名高い交響詩『死と浄化』、そして同『マクベス』を作曲するが、これらの作品に共通するのは、リッターを介して受けたショーペンハウアー・ヴァーグナー流の、ほの暗い情念の渦巻く世界苦とペシミズム、死のテーマである。

  1889年にはミュンヘンの地位を辞してヴァイマール宮廷歌劇場の副楽長となる。熱烈なヴァグネリアンであったシュトラウスは、ヴァーグナーの『ローエングリン』を父から借金をしてまで理想的上演に努め、バイロイトから観劇に来たコジマ・ヴァーグナーに才を認められ、バイロイト祝祭劇場で大指揮者ヘルマン・レヴィの助手を務めた。それからシュトラウスはコジマと急速に親しくなり、彼女を教祖とする新興宗教のようなバイロイト・サークル(ヴァーグナーの思想と音楽に影響された音楽家・知識人の集まり)に取り込まれてゆく。

  作曲家・指揮者として上り調子のシュトラウスだったが、多忙な生活がたたって健康を害し、コジマが約束したバイロイト・デビューを断念して療養に専念することになる。そして1892年秋、医師の勧めにより、ギリシャ・エジプトに長期静養のためギリシャ・エジプトに向かう。アテネでの遺跡の見分はシュトラウスに古代ギリシャ文化への愛着を生み、後年の名作オペラ群の創作に活かされることになる。カイロでは「棕櫚とバラとアカシアの国」エジプトに魅了され、シュトラウスは肉体的にも精神的にも健康を取り戻していった。

  休暇中に取り組んでいたのが初のオペラ作品『グントラム』で、アテネで自ら台本を完成し、カイロで大半の作曲を終えた。リッターに勧められたショーペンハウアー的題材によるヴァーグナー風の楽劇だが、シュトラウスはその結末を、初期の構想であった主人公の告解による贖罪から、世俗と愛を断念して孤独の中に自ら罪を引き受け、自らを裁く形に改めた。シュトラウスは既にマイニンゲンでニーチェの『悲劇の誕生』を読んでいたと思われるが、エジプトでその『アンチクリスト』を読み、その激烈なキリスト教批判に感化され、ショーペンハウアーの思想から離脱していたのである。のちにシュトラウスは、ニーチェを読んだことが、15歳の頃から感じていたキリスト教への反感、告解によって信者の罪を免れさせてしまうことへの疑念を決定づけたと回想している。

  この件は、筋書きの変更を厳しく非難したリッターとの決別を招いた。さらに、ヴァーグナーが『パルジファル』でキリスト教へ回帰したことを激しく攻撃したニーチェの思想への接近は、コジマとの関係にもひびを入れることになった。愛弟子となっていたパウリーネのバイロイト出演をコジマが一方的にキャンセルし、憤激したシュトラウスが抗議する事件が起こり、1894年7月には『タンホイザー』を指揮してようやくバイロイト・デビューを飾るが、聴衆の不評とバーナード・ショーら批評筋の酷評を受け、以後コジマの存命中には二度とバイロイトに招聘されることはなかった。

  『グントラム』は1894年5月ヴァイマールで初演された。公演は4回で終わったが、まずまずの成功であった。その年の9月にシュトラウスは、生涯の良き伴侶となる婚約者パウリーネと結婚し、ヴァイマールの地位を辞してミュンヘンに戻り新居を構える。ミュンヘン宮廷歌劇場音楽総監督ヘルマン・レヴィの意向により、ミュンヘン宮廷楽団第一楽長という、願ってもない地位を得て、故郷に錦を飾ったのである。ところがこの職は長続きしなかった。

  1895年11月、『グントラム』のミュンヘン初演が行われたが、リハーサルから歌手と楽団員のボイコットにあい、なんとかこぎ着けた上演は、最後までまともに歌えた歌手はパウリーネだけという、破滅的失敗となった。この失敗はシュトラウスに大きな失望をもたらし、しばらくの間オペラの創作から離れることになる。歌手と団員を敵に回したシュトラウスは、翌年には歌劇場管弦楽団によるオーケストラ演奏会の指揮者もはずされる。嫌気のさしたシュトラウスは、1898年ミュンヘンを辞してベルリン・フィルの指揮者に就任する。

  指揮者としては不毛に終わった第2のミュンヘン時代だが、作曲家としてはその個性を確立する実りある時期となった。音詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、『ツァラトゥストラはこのように語った』、『ドン・キホーテ』という屈指の名作を生み出したのである。そして『グントラム』ミュンヘン上演の大失敗にも、かつてのようにストレスで健康を害することなく、苦境に前向きに立ち向かっていく力強さを身につけていた。

  ミュンヘン着任直後から作曲を始めた、民話を題材とする『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』は、熟達の管弦楽法に加え、それまでのシュトラウスの作品になかったユーモアと諧謔に満ちており、『ドン・ファン』、『死と浄化』、『マクベス』のショーペンハウアー=ヴァーグナー的世界苦、ペシミズムと一線を画している。『グントラム』の変更された結末に現れたニーチェ思想の影響が、いよいよその姿を現し、以後のシュトラウスの作品における、架空の彼岸よりも現世と人間を愛する現実主義が確立されるのである。

  そのニーチェの主著『ツァラトゥストラはこのように語った』の名を冠するシュトラウスの新作音詩は1896年に作曲された。読書家のシュトラウスはニーチェに傾倒し、ニーチェの友人だったフリードリヒ・レーシュとの手紙を交換や、1893年の秋にはアーサー・ザイドルとニーチェの主要な作品の全般について話し合うなど、その著書に精通していた。

  前述のように19世紀末の知識層には「ニーチェ熱」が蔓延し、熱狂的な崇拝者とともに非難の声も高まっていた。その思想を精神病による道徳的狂気とみなし「悪魔ならびに嘘の父の預言者」「誇大妄想」といった誹謗がまかり通る一方、L.シュタイン『ニーチェの世界観とその危険』(1893)の「彼に刺激されて産声を上げた《貴族たち》ほど笑止千万なものはない。彼らは襟の汚れたシャツを着て顔も剃らずにライプツィヒの街をうろつき、超人風をひけらかしている」という「ニーチェ熱」に浮かされた人々の風俗への非難には、ニーチェ崇拝の軽佻浮薄な一面を垣間見ることができる(『ニーチェを知る事典』ちくま学芸文庫より)。


音詩『ツァラトゥストラはこのように語った』について


  こうした状況下で、既に音詩『ドン・ファン』、『死と変容』、『ティル・オイレンシュピーゲル』といった、水際立った楽曲を発表していた新進気鋭の作曲家リヒャルト・シュトラウスが『ツァラトゥストラ』による管弦楽作品を作曲しているというニュースがいかに注目の的となったか。この作品におけるシュトラウスのニーチェ解釈についての論議は、作品の初演どころか作曲中すでに始まっていたのである。

  1896年初頭、シュトラウスがオーケストレーションを始める前に、「ノイエ・ムジーク・ツァイトゥング」誌に、作曲家の周辺から出たと思われる匿名の記事が掲載された。曰く、「リヒャルト・シュトラウス氏は交響詩『ツァラトゥストラ』を作曲している。音響の超人。音楽に表現されたニーチェの思想!」。シュトラウスに人々が期待し、あるいは非難しようとしたのは、「ニーチェ哲学を直接音楽に変換した作品」であった。シュトラウスはニーチェ崇拝と非難の論争から距離を置くため、「ニーチェに倣って、自由に」という副題を追加して、次のように説明したとされる。


  「哲学的な音楽を書いたり、ニーチェの素晴らしい作品を音楽的に描いたりするつもりはありませんでした。人類の起源から宗教、科学と、ニーチェの超人のアイデアまでのさまざまな発展段階を通じて、人類の進化を音楽で伝えることを意図していました。音詩全体は『ツァラトゥストラ』で最大の例示が見られるニーチェの天才へのオマージュとして意図されています。

(ノーマン・デル・マーが1962年の著書で、シュトラウスの1897年の発言として英訳を引用した有名なものだが、ヴェルベックによるとそのドイツ語の出典は確認されていないという)


  こうした作曲家の注釈と説明により、本作はニーチェ『ツァラトゥストラ』の標題的解釈による作曲ではなく、「その中心的な概念を音楽的構成そのものに置き換えている」(音楽之友社ポケットスコアの小鍛冶邦隆による解説より)と見るのが大方の一致するところである。

  だが作品中にはツァラトゥストラの哄笑や12回の鐘の音など、明らかな描写的手法も見られ、作品の構成には起承転結的物語の推移を感じることができる。総譜に記された原著の章名の順序は前後しており、原著の構成とは異なる筋立てが設定されているように見受けられる。また、途中で音楽の局面が変わる「病から癒えつつある者」で顕著だが、総譜の各所にカッコつきで記された原著の章名の位置は、必ずしも楽曲構成の切れ目と一致していない。


(1)(序説)(第1部~序説1/10)

(2)背後世界論者について(第1部3/22)

(3)大いなる憧れについて(第3部 14/16)

(4)歓楽と情欲について(第1部 5/22)

(5)墓の歌(第2部 11/22)

(6)学問について(第4部 15/20)

(7)病から癒えつつある者(第3部 13/16)

(8)舞踏の歌(第2部 10/22)

(9)夢遊病者の歌(第2部 9/22)


  ヴェルベックによれば、公式的な説明以外に私的・内的なプログラムが存在しており、初期の段階における作曲者のメモにそれを垣間見ることができる。その「崇拝―疑念」、「疑いの認識―絶望」、「夜明けの復活」というキーワードは明らかに楽曲構成のアイデアを示している。シュトラウスと親しかった作家アルトゥール・ザイドル Arthur Seidl(1863-1928)は、エッセイ『ツァラトゥストラはこのように歌った Also Sang Zarathustra』(1900)で、「病から癒えつつある者」に自伝的意味があるとし、シュトラウスの「古い神々:ヴァーグナーとショーペンハウアーから新しい預言者ニーチェへ」の改宗を指摘している。

  この時期のシュトラウスと数多くの手紙のやり取りや家族ぐるみでの交流のあった仏文学者ロマン・ロランの日記には、シュトラウスの構想について、自然の謎に直面した英雄が、宗教によってもユーモアによってもついに満足できない無力感だとする解説がある。

  この説明では、交響詩の物語の主人公は、ツァラトゥストラではなく「英雄」となっている。それはニーチェ思想との出会い以後の音詩『英雄の生涯』、『家庭交響曲』、『アルプス交響曲』に設定された主人公と同一の、すなわち作曲家シュトラウス自身と見ることもできるだろう。つまり音詩『ツァラトゥストラ』で構成される物語は、ニーチェ思想との出会いにより、ニーチェと同じくヴァーグナー/ショーペンハウアーの影響を脱して自己変革を成し遂げ、ヴァーグナーの追従者を脱して作曲家としてのオリジナリティを確立し、厭世思想を克服して享楽主義的作風に転換した、作曲家自身の成長物語と言えよう。


  近年出版された、シュトラウス研究の権威ヴァルター・ヴェルベックの著書 "Richard Strauss Handbuch" (2014)で、シュトラウス自身による原書テキストを引用した書き込みがシュトラウス所有の総譜に残されていることが明らかにされた。本稿ではシュトラウス自身が引用したテキストと、ロマン・ロランによる解説をもとに、音詩楽曲構成の基になっているはずの内的プログラムを考察する。(テキスト翻訳:甲斐)


(1)導入部(ツァラトゥストラの序説)


出版譜の冒頭には『ツァラトゥストラ』の10編からなる「序説」の第1部分が置かれ、序奏部はこの情景を描いた音楽とされる。


ツァラトゥストラの序説

フリードリヒ・ニーチェ


ツァラトゥストラは30歳で故郷とその湖を去り山に入った。ここで自らの精神と孤独を楽しみ、10年の間飽くことがなかった。だがついにその心が変わる時が来た。―ある朝、彼は日の出とともに起き、太陽の前に歩み出て、このように語った。


  「偉大な天体よ! もしあなたに照らすべきものがなかったなら、あなたに幸福はあるだろうか。

  10年間あなたはわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしの鷲と蛇がいなかったなら、あなたはあなたの光と道とに飽き果てていたことだろう。

  だがわたしたちは毎朝あなたを待ち受け、あなたから溢れこぼれるものを受け取り、その代わりにあなたを祝福した。

  見られよ! 蜜をあまりに集め過ぎた蜜蜂のように、わたしもおのれの知恵に飽き果てている。わたしはそれを受け取るべく差し出される手を必要とする。

  わたしは贈り、分け与えたい。人間のなかの賢者が今一度その愚かさを悟り、貧者が今一度その豊かさを喜ぶまで。 

  そのためにわたしは深みへ降りていかなければならない。あなたが夕方に海の背後に沈みゆきながら、なおも下界に光をもたらすように。あなた、溢れるほど豊かな天体よ!

  わたしは人間たちのところへ下ってゆく。人間たちの呼び方をすれば、あなたと同じく 没 落 す る(untergehen) のである。

  わたしを祝福されよ、あまりに大きな幸福をも嫉妬なく見られる安らかな目よ!

  この杯を祝福されよ、水が黄金色をなして流れ出し、いたるところにあなたの歓喜の反映を運ぶようにと、溢れることを欲するこの杯を!

  見られよ! この杯は再び空になろうと欲する。そしてツァラトゥストラは再び人間になろうと欲する。」


―このようにしてツァラトゥストラの没落(untergang)は始まった。


〔第1部~序説1/10〕


  オルガン、コントラバス、大太鼓の低く鳴る地響きのような持続音の上に、「自然の動機Natur Motive」がトランペットにより荘厳に奏される。クライマックスに達し全管弦楽がハ長調の和音を最強奏して断ち切られ、オルガンのみが残って轟然と鳴り響く。

  作曲家公認の解説に記されている「自然動機」という名称だが、筆者が調べたところでは、原著で「自然 Natur」という語が使われているのは第2部の「詩人について」でのただ一か所であり、それも全く重要な語でないことから、この最重要モティーフの名称としては疑問がある。この序奏モティーフが、ツァラトゥストラの偉大な思想の比喩としての太陽であり、ニーチェ思想の偉大さの象徴であることは間違いないので、本稿では「ZN動機 (Zarathustra-Nietzsche Motiv)」と呼称することにする。


(譜例)


  この「序説」の第2部分で、山を下りる途中ツァラトゥストラは森に住む老いた「聖者」と出会い、神と人間について問答する。神を愛する聖者と人間を愛するツァラトゥストラはかみ合わず、別れたのちにツァラトゥストラが独白するのが名高い「神は死んだ」である。

  「こんなことがあるのだろうか! あの老いた聖者は森の中にいてまだ聞いていないのだ、神は死んだということを。」(第1部~序説2/10)


(2)背後世界論者について Von den Hinterweltlern (第23小節)


  かつてツァラトゥストラもまた、すべての背後世界論者たちと同じく、彼岸の世界に妄想を馳せた。わたしに世界は、苦悩し責めさいなまれた神の作品と思われた。

そのとき世界は、ひとりの神の夢であり詩作であると思われた。崇高にして満ち足らざる者が、その眼前に漂わせた多彩で儚い靄かと思われた。(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


  暗いロ短調で「憧れの動機」が奏される。(譜例) 宇宙の謎の解明を希求し、知恵と認識を深めようとする精神、つまり人間の主題である。ZN動機と共に最重要の動機であり、ロマン・ロラン言うところの「英雄(主人公)」であり、自伝的プログラムとしては作曲家自身を表すと思われる。ホルンにグレゴリオ聖歌の「クレド(我は信じる)」(23-24)が現れ、変イ長調の祈りの音楽が始まる。(35-)


クレド(譜例)


  弦楽は20にも分割され、オルガンが伴奏する。教会で多人数の信者が祈る情景であろうか。美しく感動的な音楽に皮肉や揶揄は見られないが、かすかな疑念が管楽器で奏される。背後世界論者とはニーチェの造語で、地上を生きるに値しない苦界とし、天国・来世といった肉体を捨ててゆく彼岸世界の存在を説く宗教者、すなわちキリスト教徒を指す。ロマン・ロランはこの章を「宗教思想について」と記している。


  この世界、永遠に不完全なこの世界。永遠の矛盾の反映、それも不完全な反映―不完全な創造者の陶酔した喜び、それが世界だとかつてわたしには思われた。

こうしてわたしはかつて、すべての背後世界論者のように、彼岸に妄想を馳せた。だがそれは真実の彼岸であったのか?(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


(3)大いなる憧れについて(75-)

  「憧れの動機」が再びロ短調でチェロとファゴットに現れ、弦楽でグレゴリオ聖歌「マニフィカト」が奏されると続いてロ長調となるが、木管に「ZN動機」が異質なハ調で現れて信仰への疑念を提示する。(82-)


  ああ、兄弟たちよ、わたしが作り出したこの神は、すべての神と同じように、人間の作ったものであり、その妄想の産物だったのだ!

  その神は人間であった。わたしの自我の貧弱な断片に過ぎなかったのだ。その幽霊はわたし自身の灰と残り火から、わたしのところにやって来たのだ。まことに! それは彼岸から来た者ではなかったのだ!

兄弟たちよ、それから何が起こったかと言うか? わたしは苦悩する自分自身を克服し、自分の灰を山上に運び、わたしが発明したより神より明るい炎を持ち帰った。

  すると見よ! その幽霊はわたしから退散したのだ!(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


  「世界背後論者」の動機が再現して「憧れの動機」と対立、拮抗するなか、「自然の動機」が断続的に現れる。この部分にシュトラウスが書き留めたニーチェのテキストは「世界背後論者」のもので、それが楽曲前半のほとんどを占めているのは注目される。「背後世界論者」の動機と「憧れの動機」との闘争のクライマックスにトランペットの「自然の動機」が現れ、ついで劇的に「歓楽と情欲について」の部分になだれ込む。

(98-)

  耳傾けよ、わが兄弟たちよ、健全な身体の声に。それはより誠実で、より純粋な声である。(「背後世界論者について」〔第1部3/22〕)


(4)歓楽と情欲について(115-)

  この部分にニーチェのテキストは引用されていない。

  「背後世界論者たちの動機」に対して優勢となった「憧れの動機」がハ短調で情熱的に展開される。その頂点においてトロンボーン3本による「嫌悪の動機」が提示される。これは「自然の動機」「憧れの動機」と並び重要な動機となる。主人公はキリスト教で悪とされる、地上の歓楽と情欲に耽ろうとするが、それに満足できず飽きてしまう。この動機の出現により情熱的音楽は減衰する。年上の不倫の恋人、ドーラとの恋愛関係が想起される個所である。


嫌悪の動機 譜例


(5)墓の歌(164-)


  「あそこに墓の島、沈黙の島がある。そこにはわたしの青春の墓もある。あそこへ青々とした常緑樹の葉環を捧げに行こう。」

  このように心に決め、わたしは海原を越えていった… 。

  おお、お前たち、わたしの青春の面影と幻よ! おお、お前たちすべての愛の眼差し、お前たち、神々しい瞬間よ! どうしてこんなにも早く死んだのだ! 今日わたしは亡き友のように、お前たちを偲ぶ。

わたしの亡き最愛の友よ、お前たちからわたしに漂う甘い香りは、心をとろかし涙を誘う。まことに、それは孤独な船乗りの心を揺さぶり、そして砕く。

(「墓の歌」〔第2部 11/22〕)


  ツァラトゥストラの教説集である『ツァラトゥストラ』の中で、「夜の歌」、「舞踏の歌」と並び、ツァラトゥストラの心情が吐露される散文詩の章である。この章はこの後、その青春は殺されたと言い、その殺害者たちへの憤りを延々とつづって行く。その執拗さにはいささか当惑するほどだが、この章はニーチェのヴァーグナー・コジマ夫妻との親しい交流への哀惜と、ヴァーグナーへの愛憎併存の感情を込めているとされる。

  ヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』からイゾルデのセリフ「そもそもどのようにしてわたしはそれに耐えたのか?」が引用され、「最愛の歌い手」(ヴァーグナー)が、重苦しい歌曲(キリスト教を題材とするヴァーグナーの神聖舞台祝典劇『パルジファル』)を歌って自分を苦しめたと訴える。

  ニーチェは後年の著書『この人を見よ』で、『ツァラトゥストラ』の執筆開始の年が、ヴァーグナーの死の年であったことを特筆し、離反して以後、厳しい批判の対象ともしたヴァーグナーへの、変わらぬ敬意と哀惜を表明している。ヴァーグナーが亡くなったヴェニスの地にかつてニーチェが滞在した折、借りた屋敷の窓から、墓地の島であるサン・ミケーレ島が見えることを、ニーチェは気に入っていたことから、「墓の島」とはサン・ミケーレ島のイメージともされる。

  この全編中特異な章を選んだシュトラウスの意図も同じところにあったのではないだろうか。ニーチェと同じくヴァーグナーの音楽に深く傾倒し、その死後とはいえヴァーグナー家に出入りし、バイロイトでヴァーグナー作品を指揮するなど重用され、ヴァーグナー風の楽劇『グントラム』を作曲していたシュトラウスは、ニーチェ思想との出会いを機に、ヴァーグナーの影響下を抜け出し、独自の道を見出していくのだから。


  音楽はロ短調に戻り、前章の素材を用いて痛切な哀歌が歌われ、「自然の動機」による緩やかなクライマックスを形成する。小鍛冶邦隆は「憧れの動機」をクラリネットからチェロに受け渡す結尾について「ヴァーグナー風の『移行の技術』を思わせる」と評している。


(6)学問について

  この章にシュトラウスはテキストを引用していない。原著ではひとつ前の「憂愁の歌」に続いて章の主役と言える登場人物である、俳優的芸術家の「年老いた魔術師」は、その設定と、セリフにヴァーグナーの言葉が引用されていることから、ヴァーグナーがモデルであることが定説化している。

  狡猾な扇動家として描かれる老魔術師には、ニーチェの愛憎併存の感情が見て取れる。原著ではそれぞれ第2部(11/22)と第4部(15/20)にある、ヴァーグナーに関連した2つの章を連続させたことは、キリスト教への帰依と疑念を描く「背後世界論者について」「大いなる憧れについて」「歓楽と情欲について」の3つの章に続いて、ニーチェの、ヴァーグナーの音楽とショーペンハウアーの厭世思想への傾倒と反発を描く意図と読むこともできるだろう。前述のザイドルの説に従うなら、次の「病から回復しつつある者」がそこからの離脱を描くことで3章一組になる。

  原書における前章で老魔術師が歌う「憂愁の歌」の「狡猾に仕組まれた悦楽の網」に、ツァラトゥストラの弟子たちは誘い込まれる。シュトラウスの楽曲では、魅惑的な悲歌である「墓の歌」が、原作の「憂愁の歌」の役割を担っているとも言えるだろう。「自然の動機」を基にした12の半音を含む陰鬱な主題によるフガートに始まり、一旦高揚してからロ長調に転じる。


(7)病から回復しつつある者(201-)


  「学問について」のフガート主題と嫌悪の動機の二重フーガに始まる。宗教を捨てたためのニヒリズムをも克服するという、ツァラトゥストラの根本思想となる永劫回帰がついに姿を現そうとする。だがこの思想を受け入れるには大きな障害がある。世界のすべてが反復されるのならば、この世の愚劣も卑小もまたすべて繰り返されることを受け入れなければならない。その嫌悪感にツァラトゥストラは吐き気を催す。


(263-)

  嬉しや! おまえはやってくる、― おまえの声が聞こえる! わたしの深淵が語っているのだ、わたしの最後の深みが明るみに出るのだ!

嬉しや! 近く寄れ! 手を握らせよ ―― あっ! 放せ!  ああ! ―― おぞましい、おぞましい、おぞましい ―― ――情けない!


(321-)

  ツァラトゥストラはそう発するやいなや死んだように倒れ、長い間死体のように横たわった。そして我に返ると、青ざめて震え、横たわったまま長いこと飲みも食いもしなかった。


  ZN動機が全管弦楽のfffで轟然と再現される。注目されるのは、序奏で管弦楽が静まった後も鳴り響いて存在感を示したオルガンが、この再現を最後に、それ以後の全曲後半では一切姿を現さないことである。キリスト教との対決を描いた「背後世界論者について」と続く2章では、マニフィカト音形を奏するなど、キリスト教会の象徴として用いられているので、その呪縛が断ち切られたことを表現しているとみてよいだろう。

  この直後にシュトラウスは第1部序説5の一節を引用しているので、曲頭の「序説」の再現であるとも言える。ツァラトゥストラが市場の民衆に向かって、彼らにも人間の内なる可能性のあることを説く。(338-)


  あなたがたに言おう:踊る星を産み出そうとするには、人は自らの中に更なる混沌を宿していなければならない。あなたがたに言おう:あなたがたはいまだその中に混沌を宿しつづけている。(「序説」(第1部~序説5/10))


  ツァラトゥストラは動物たちのとりなしにより嫌悪の打撃から立ち直る。


(8)舞踏の歌(409)


  ここでは原書における前章「夜の歌」の一節が引用される。(561-)


  夜がきた。愛する者たちのすべての歌が今や目覚める。そして、わたしの魂もまた、ひとりの愛する者の歌である。(「夜の歌」〔第2部 10/22〕)


  続いて「大いなる憧れについて」の一節が引用される。(661-)


  しかし、おまえが泣きたくないならば、おまえの深紅の憂愁に泣きはらしたくないならば、おまえは歌わなければならない。おお、わたしの魂よ! …見よ、このようにおまえに予言するわたしは、自らにむけて微笑んでいる:

…激越に歌わねばならない、すべての海が静まり、おまえの憧れに耳を傾けるまで、…

(「大いなる憧れについて」〔第3部 14/16〕)


  心を高めよ、あなたがた良き舞踏者よ、高く、より高く! そして忘れるなかれ、良き笑いをも! …笑いは聖なるものとわたしは宣する。あなたがた、ましな人間たちよ、わたしから学ばれよ...笑いを!(「ましな人間について」第4部 13/20の20/20)

(der höhere menschの訳語は、高等な人間 貴人 ましな人間 などがあるが、超人と「終わった人間」の間なので、ましな人間が適当だろう))


  音楽はZN動機と背後世界論者のコラールを用いた第1のワルツ、舞踏の動機による第2のワルツからなる。弦や木管に笑い声を模倣する音形が現れ、舞踏者ツァラトゥストラ、哄笑者ツァラトゥストラが暗示され、ニーチェ思想へのオマージュが明らかとなるが、問題はワルツという形式の採用である。

  作曲当時ワルツは舞踏会の伴奏音楽で通俗なものとみなされ、管弦楽団の演奏会で上演されることはなかった。それをわざわざ導入し、前半のオルガンが姿を消してから前面に現れるヴァイオリン独奏が活躍する、大変に上機嫌で幸福な舞踏音楽を繰り広げるさまに筆者は、シュトラウス自身の、新妻パウリーネとの結婚の喜びが投影されているように思えてならない。


(9)夢遊病者の歌(876-)

  ここにテキストは引用されないが、「もうひとつの舞踏歌」に由来するとみられる、鐘の12連打があるところから、その部分のテキストを参照する。(876)


一つ!

おお人間よ、心せよ!

二つ!

深い真夜中は何を語るのか。

三つ!

「わたしは眠っていた、眠っていた...

四つ!

「深い夢から目覚めた...

五つ!

「世界は深い。

六つ!

「昼が思っているよりも深い。

七つ!

「深いのはその痛み、

八つ!

「よろこび...それは苦しみよりさらに深い:

九つ!

「痛みは言う:消えよ!

十!

「だがすべてのよろこびは永遠を望む…

十一!

「...深い、深い永遠を望む!

十二!


(「もうひとつの舞踏歌 3/3」)


  喜びのワルツが大団円を迎え、夜の訪れと永遠の喜びを語って楽曲は静かな終焉に向かう。ロ長調の木管・ヴァイオリンと、トロンボーンと低音弦のハ音がずれたまま終わる終結は、永遠回帰思想の象徴とも、ついに自然の謎に到達できない人間の象徴とも言われるが、ロマン・ロランの解説にある、ついに満足できない英雄という設定によれば後者がふさわしい。

  ニーチェの思想に傾倒し、精通していたシュトラウスだが、合理主義者の彼が、永遠回帰という謎めいた思想を納得して信じていたとまでは考えにくい。キリスト教からの離脱とは、キリスト教を否定し、別のものを信じるということではない。シュトラウスこそは、「わたしを信じるな。わたしはあなたがたを担いでいるのかもしれない。」と、批判精神を持つことを教えるツァラトゥストラの、最良の弟子であった。

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『芸術家の悲劇』から『反キリスト者―アルプス交響曲』へ――甲斐貴也


■シュトラウス14歳の実体験について


  『アルプス交響曲』の起源はシュトラウスが14歳の折までさかのぼると思われる。1879年夏、少年シュトラウスは、父親とハイキングの名所ハイムガルテン山(標高1791メートル)に登った。その「ハイムガルテンへの大冒険」を、ギムナジウムの同級生で同じく作曲家となる親友、ルートヴィヒ・トゥイレに報告した手紙が残されている。


8月26日 親愛なるルートヴィヒ!
 先日、12時間をかけた山登りをしたんだ。午前2時に馬車でふもとの村に出発し、そこから暗闇の中をカンテラを頼りに登り、5時間後に頂上に着いた。それは素晴らしい眺めだったよ。シュタッフェル湖、リーク湖、アンマー湖、ヴュルム湖、コッヘル湖、ヴァルヒェン湖、そしてイザール渓谷は山々に囲まれ、エツトハール(エッツタール?)、シュトゥーバイヤーフェルン、インスブルックの山脈、ツークシュピッツェを眺めた。そして山の反対側をヴァルヒェン湖を目指して降りるはずが、暑い日差しのなか道に迷い、3時間も彷徨い歩くことになってしまった。ヴァルヒェン湖は美しいが、左を森に、右を山々に囲まれて、寂しい印象を与える。その水は美しく輝き、明るい緑色をしていた。それから僕らは湖を船で渡り、ハイムガルテン山の隣、ヘアツォークシュタント山のふもとにある、ウーアフェルデンに向かった。そこからケッセルベルクを通ってコッヘル湖畔のケッセルベルク食堂で1時間を過ごした。
 出発するとすぐに、僕らはすごい嵐に襲われた。樹木が根からなぎ倒され、小石が顔に飛んでくるほどで、ずぶ濡れになってしまった。いつもはロマンティックで美しいコッヘル湖は恐ろしいほど波立ち、僕らの馬車を置いていた対岸のシュレードルフに渡ることなど考えられないくらいだった。結局嵐が去ってから2時間かけて、コッヘル湖岸を歩くことになった。するとまた雨が降ってきたので、1分も休むことなく急いで歩き続け、疲れ果て、びしょ濡れになって、ようやくシュレードルフに到着した。そこで一晩泊まり、翌朝にはすっかり静かになった中、馬車に乗ってムルナウに帰った。この旅は本当にたのしかった。その後数日間、僕はこの旅の行程の全てをピアノで演奏したんだ。もちろんそれは長大な音の絵画に、見かけだけヴァーグナー風のものになったがね。

  『アルプス交響曲』のプログラムそのままと言えるこの内容だが、このアイデアが作品に結実するまで30年の歳月と、構想の紆余曲折があった。

  1892年、シュトラウスはビューローから詩人ジョン・ヘンリー・マッケイを紹介される。「あした」「ひそやかな誘い」というシュトラウスの名歌曲に歌詞を提供した詩人だが、彼はビューローのかつての知人でドイツの哲学者マックス・シュティルナーの伝記を書いていた。シュトラウスはシュティルナーの主著『唯一者とその所有』を読み、そのキリスト者による自然蔑視批判と、大自然の前の人間の無力というくだりに感銘を受けた。ニーチェ思想に加えてこのシュティルナーの思想も、『アルプス交響曲』の構想に影響を与えていると見られる。


■幻の音詩『芸術家の悲劇』について


  次いでニーチェ思想との出会いにより感化され、1896年の音詩『ツァラトゥストラ』で、キリスト教とヴァーグナー/ショーペンハウアーからの離脱を描いたシュトラウスは、以後、音詩『ドン・キホーテ』(1897)、音詩『英雄の生涯』(1898)と傑作を生みだしていたが、ヴェルベックによれば、その次作に音詩『芸術家の悲劇』を構想していた。

  1900年1月28日、シュトラウスは父親に「スイスの日の出とともに」始まる新しい音詩の計画について書いた。同時代のスイスの肖像画家・彫刻家で登山家、カール・シュタウファー=ベルンの思い出に捧げられ、シュトラウスが「芸術家の愛と人生の悲劇」、「芸術的悲劇」、「芸術家の愛の悲劇」などと呼んだこの構想は、後に『アルプス交響曲』で使用されたプログラムと音楽に共通する素材を持つと考えられている。おそらく1899年から1902年にかけて制作された『芸術家の悲劇』のスケッチには、「山の主題」の初期形態と、谷に降り注ぐ太陽の光を表す下行形による「日の出」など、『アルプス交響曲』と共通の素材が多くあるという。

  シュトラウスは『芸術家の悲劇』で自然を主に描くつもりはなく、「芸術家」と「破滅」の2楽章からなるプログラムを構想していた。シュトラウスとシュタウファーには共通の知人がおり、面識もあったが、シュトラウスはシュタウファーの死後、オットー・ブラームスによるシュタウファーの伝記(1892)を読んで、その悲惨な運命を知ったという。

  カール・シュタウファー=ベルン Karl Stauffer-Bern(1857-1891)はスイス・ベルン出身。ミュンヘンで学ぶ。1881年にベルリンの国際美術展で発表されたマックス・クラインの肖像画が高く評価され、肖像画家としての名声を得た。1886年、ギリシア彫刻の崇拝者であったシュタウファーは、ベルンの資産家リディア・エッシャーとアルフレッド・エッシャー夫妻の財政的支援により、 彫刻を学ぶために夫妻と共にローマに赴いた。  ローマでリディアとの恋愛関係が発覚し、リディアの親族は彼女を精神病院に入院させ、シュタイファーは刑務所に収監された。釈放後ベルンに戻ったシュタイファーは精神を病み、何度かの自殺未遂後に1891年薬物で自殺した。精神に異常のないことを証明され解放されたリディアも、一年後に後を追って自殺した。

  シュタイファーの弟子には、高名な彫刻家ケート・コルヴィッツ、画家マリア・スラヴォーナ、クララ・ジーベルトがいる。

  ヴェルベックは、カール・シュタウファーとニーチェには明確な類似点があると指摘する。


・山の孤独に隠れて知識を求める。

・感情的安定と芸術的生産性を見いだすことを望んでの、イタリアへの脱出。

・最愛の女性との破局。

・狂気と早死。


  私見では、『ツァラトゥストラ』の項で検討した、ニーチェとシュトラウス自身の体験の類似性も重要である。シュトラウスに狂気と早世はないかわり、人妻ドーラ・ヴィーハンとの禁じられた愛は、ニーチェが一方的に想いを募らせた才女ルー・サロメへのプラトニックな愛よりも、シュタウファーとの共通性が高い。


  最終的にシュトラウスはこの構想を放棄し、1903年に発表された新作は大規模な音詩、標題交響曲『家庭交響曲』であった。練達の管弦楽法を縦横に駆使し、シュトラウスとパウリーネの幸福な家庭生活を華麗にユーモラスに描いた、『芸術家の幸福』とでも呼ぶべきこの作品と、『芸術家の悲劇』の救いのなさの落差はあまりに大きい。そしてこの曲を区切りとしてシュトラウスの主要創作ジャンルは音詩から、優れた歌手である妻パウリーネの領域、すなわちオペラに移行する。オペラ『サロメ』(1905)、『エレクトラ』(1908)、そして『薔薇の騎士』(1910)、『ナクソス島のアリアドネ』(1903)の成功によってオペラ作家としての名声を得、ベルリン・フィルの指揮者としての活動と合わせ、シュトラウスは多忙な日々を送ることとなる。


■マーラーの死、ドーラとの別れ、『アルプス交響曲』本格着手について


  1902年から1910年の間に、シュトラウスは『芸術家の悲劇』の完成を断念し、その素材を用いた新たな作品、ニーチェの山に生きる精神と、非キリスト教的自然を賛美する全4楽章の交響曲を構想していた。


『反キリスト者―アルプス交響曲』

第1楽章

 夜と日の出/登り道、森(狩り)/滝(アルプスの妖精)/花咲く草原(牛飼い)/氷河/雷雨/下山/静寂(日の出の後に、痛みに引き裂かれた心と自然との強い対比/優しい気持ち/少年時代/無邪気で宗教的な気持ちと厳しい自然の対比/無力感と慰め:自立した思考の覚醒と試み)

第2楽章

 田舎の喜び:舞曲、民衆の祭り、行進

第3楽章

 ゴヤ風の夢と亡霊

第4楽章

 創作・芸術的創造による解放・フーガ


  第4楽章の標題の意図は、シュトラウスが日記に記した「芸術的直感、芸術的生産、哲学の喜びは、苦悩すべての10倍を上回る」という考えを反映していると思われる。

  名作オペラ群作曲の多忙により遅々として進まなかった『アルプス交響曲』がようやく日の目を見るきっかけとなったのは、マーラーの死であるかもしれない。

  1911年5月、グスタフ・マーラーが50歳で死去した。シュトラウスと同時代の偉大な指揮者・作曲家であり、お互いの作品を上演し合う盟友でもあった。その前年、マーラーは短期間に終わったニューヨーク・フィル時代のデビューとなる演奏会で、シュトラウスの音詩『ツァトゥストラはこのように語った』を演奏している。病を得てヨーロッパに戻るマーラーのために、シュトラウスはベルリンで、マーラーが自作の第3交響曲(ニーチェ『ツァラトゥストラ』のテキストを歌詞に用いた作品)を指揮できるよう準備をしておくと手紙で約束し、マーラーを喜ばせている。直後のマーラーの訃報に、いつも規則正しく仕事をする習慣のシュトラウスは、一日何も手につかず、ほとんど口もきかなかったという。


 「重病の末にグスタフ・マーラーが世を去った。この野心家で、理想主義者で、精力的な芸術家の死は、まことに大きな損失だ。(中略)ユダヤ人マーラーは、キリスト教の中で自身を高めることができた。英雄リヒャルト・ヴァーグナーは、ショーペンハウアーの影響を受けたが、老人になった時、再び身を落として本来の自分に戻った。
 完全に明白なことは、ドイツ民族は、キリスト教からの解放のみによって、新しい活力を得られるということだ。(中略)わたしは『アルプス交響曲』を『反キリスト者』と名付けたい。そこには自分自身の力による道徳的浄化、創造による救済、永遠の自然への崇拝があるからだ。」
(シュトラウスの日記 1911年5月)

  この年の同じ月には、かつての恋人ドーラとの再会と別れもあった。夫ヴィーハンと離婚したドーラはミュンヘンを離れ、ギリシャ在住の資産家夫人のピアノ教師として暮らしていたが、その後故郷のドレスデンに戻り、歌劇場のコレペティートル(歌手に下稽古をつける練習ピアニストで、オペラの専門知識が必要とされる職業)として生計を立てていた。1911年当地でのシュトラウスの『薔薇の騎士』初演に際してドーラはコレペティートルを務めた。ミュンヘン時代から上品なドーラと親しく、粗忽なパウリーネと折り合いが悪かったシュトラウスの母と妹は喜んで、ドーラを自宅に招いてもてなした。しかしドーラを敵視するパウリーネにより険悪となり、以後ドーラは二度とシュトラウス家を訪ねることも、シュトラウスと会うこともなかった。

  ドーラはその後1938年に亡くなるまで居室のピアノの上にシュトラウスの写真を飾っていたという。彼女がシュトラウスに書いた多くの手紙は、遺言によって処分され、ほとんどが残されていない。

  そしてこの年シュトラウスは『アンチクリスト―アルプス交響曲』に本格着手し、第2楽章以後を放棄した、第1楽章の構想のみによる単一楽章の作品構成を確定した。上記のこの作品のテーマは、第1楽章の内容のみで、十分に表現できると判断したようである。1913年8月にスケッチが完成。オーケストレーションの完成は1915年に入ってから、オペラ『影のない女』作曲の合間にに行われた。116名を擁する大編成による、演奏時間50分を要する大曲である。


■ ニーチェ『アンチクリスト(反キリスト者)』について


  シュトラウスが『アルプス交響曲』の本来のタイトルにしていた、ニーチェ後期の著書『反キリスト者~キリスト教呪詛』は、1895年に刊行されたグロースオクターフ社のニーチェ全集で初出版された。本書はその名のとおりキリスト教への徹底的な批判・非難の書である。偉大な精神、自由な精神とは懐疑から生まれるとし、懐疑と逆の信仰への欲求を、弱さと依存への欲求とする。その序言でニーチェは本書の対象を「私のツァラトゥストラを理解してくれる読者」とし、その真意を理解するために「山頂で生きる修練――政治や民族的利己心という哀れな当世風のお喋りを足元に見下す修練が必要である」と説く。これは『ツァラトゥストラ』序説における、ツァラトゥストラの山での10年間を想起させる。

  「信仰の人、あらゆる種類の『信者』は必然的に、依存的な人間である。(中略)『信者』は自己に属していない。彼は単なる手段でしかありえない。使い捨てられるに決まっている人間である。自分を使い捨ててくれる何びとかを必要としている人間である。信者の本能は、自己滅却の道徳に最高の栄誉を与えている。自己滅却の道徳に与するように、すべてのものが、彼の智慧、彼の経験、彼の虚栄心が、よってたかって彼を説きつけている。あらゆる種類の信仰は、それ自体、自己滅却の表現であり、すなわち、自己疎外の表現なのである。」(『反キリスト者』54 西尾幹二訳)

  詩的な『ツァラトゥストラ』と異なり、キリスト教への攻撃に終始する全62章のあとに、結語として「キリスト教に対抗する律法」の「布告」をする。以下がその全文である(甲斐訳)



キリスト教に対抗する律法


救いの日、第1年の初日に公布さる (偽りの暦によれば1888年9月30日)


悪に対する決戦: 悪とはキリスト教である


第1条:

悪質なのはあらゆる種類の反自然である。最も悪質な人間は牧師である。反自然を教えているからである。牧師に反駁の余地なく刑務所が待つのみ。


第2条:

礼拝への参加はすべて、公道徳の暗殺である。カトリック教徒に対するよりもプロテスタントに対して、厳格な信者に対するよりもリベラルなプロテスタントに対して、より厳しくなければならない。キリスト者であることによる犯罪性は、学問的であるほど増大する。したがって、犯罪者中の犯罪者は哲学者である。


第3条:

キリスト教がそのバジリスクの卵を育てた悪質な場所は、破壊して平らに均し、後世の恐怖の的となる、地面の焦げた場所にしなければならない。そこで毒ヘビを繁殖させる必要がある。


第4条:

貞操の説教は、反自然への公的な扇動である。性生活に対する軽蔑、「汚れ」という言葉による不潔化は、生の聖霊に対する本質的罪である。


第5条:

テーブルで牧師と食事を共にすること:それは合法社会との関係を壊す。牧師は我々にとってチャンダーラである。彼を追い立て、飢えさせ、いずこであろうと荒野に追放する必要がある。


第6条:

「聖なる」物語は、呪われた歴史として、それにふさわしく呼称すべきである。「神」、「救世主」、「救い主」、「聖人」という言葉は罵詈雑言として用い、犯罪者の記章に利用されるべし。


第7条:

以下これよりさらに続くべし。


                                      反キリスト者


※バジリスク:人間を睨み殺す伝説上の怪蛇

※チャンダーラ:インドの被差別民


  1899年にはシュトラウスの友人、アルトゥール・ザイドルの編集により、グロースオクターフ新全集版が出版される。『反キリスト者』は当初、『ツァラトゥストラ』に続く新たな4部作として構想された『あらゆる価値の価値転換』の第1部として執筆された。しかし4部作の計画は破棄され、ニーチェは『反キリスト者』が『あらゆる価値の価値転換』そのものとみなすようになり、それを副題として『反キリスト者~あらゆる価値の価値転換』としたが、最終的に副題を「キリスト教呪詛」とした。そして自伝的内容の『この人を見よ』を先に世に出す方が、『反キリスト者』のより良い理解につながると考えたニーチェは、前者を先に出版させたが、1889年初頭のニーチェの精神崩壊により、『反キリスト者』の出版は延期されたのだった。

  第二次大戦以前に出版された『反キリスト者』は、キリストを「白痴」と呼んだ部分、ヴィルヘルム2世を揶揄、誹謗する箇所が削除されていたが、親友ザイドルが編集に携わっていたことから、シュトラウスはその箇所のニーチェの真意を知っていたと思われる。

  全4部作の構想が第1部のみになった経緯は、シュトラウスの『アルプス交響曲』の作曲経緯と酷似しており興味深い。これについてもシュトラウスがザイドルから聞き知っていた可能性はあるかもしれない。


  シュトラウスは作品の初演と出版にあたり、プロイセン宮廷歌劇場指揮者という公的な立場から、『反キリスト者』というタイトルを断念せざるを得なくなり、副題の「アルプス交響曲」がタイトルに昇格させられたとされているが、ヴェルベックによれば、これは楽曲のプログラムを隠蔽するための処置であるという。


『反キリスト者―アルプス交響曲』Der Antichrist—Eine Alpensinfonie

1)夜 Nacht

 変ロ短調の全ての音を中低音で響かせるトーンクラスター風のくぐもった序奏に続き「夜」の動機が奏され、やがて山の動機が和音で現れる。

2)日の出 Sonnenaufgang

 夜の動機が変容されたイ長調の「太陽」の動機が輝かしい姿を見せる。下行音形により、朝日が山々の谷まで下りてゆく様が描かれる。


3)登り道 Der Anstieg

 動的な「登山」の動機が低弦に変ホ長調で現れて主部、登山が始まる。これが楽曲の主要主題となる。金管に岩壁の動機が現れ、対位法展開が続く。舞台裏で奏される狩猟ホルンの動機が現れ、遠方の狩人たち、あるいは中世騎士団の幻影が示される。

4)森に入る Eintritt in den Wald

 突如ハ短調に転じ「森」の動機が現れる。ヴェルベックはT230-266を、『ツァラトゥストラ』の「世界背後論者Hinterweltlern」への言及としている。これはHinterweltlernという語が、「Hinterwalder 森の向こうの人=無知な田舎者」にひっかけたニーチェの造語であることにも関連するという。

5)小川に沿って歩く Wanderung neben dem Bache

 変イ長調のせせらぎ。

6)滝 Am Wasserfall

 せせらぎは岩壁で滝となり、ニ長調に転じてしぶきとなる。

7)幻影 Erscheinung

 しぶきは色彩の幻影、虹を作り出す。3拍子。

8)花咲く牧草地で Auf blumigen Wiesen

 8分の6拍子、パストラーレ。   


9)山の牧場で Auf der Alm

 牛の首に着けられたカウベルが聞こえる。

10)道に迷い茂みと藪を抜ける Durch Dickicht und Gestrüpp auf Irrwegen

 山登りの動機と岩壁の動機のフーガ

11)氷河で Auf dem Gletscher

12)危険な瞬間 Gefahrvolle Augenblicke

13)頂上で Auf dem Gipfel

 トロンボーンに頂上の主題がヘ長調で現れ、頂上が視界に入ったことを示す(T566)。次にハ長調で壮大に提示され、頂上への到達を示す。これは『ツァラトゥストラ』の「ZN動機(自然動機)」の変容形とされる。

14)幻視 Vision

 それまでの動機も加わって、登頂の感動と自然への畏敬の念を描く壮大なクライマックスを築く。そこに全曲で初めてオルガンが加わるのが注目される。『ツァラトゥストラ』では前半のみだったオルガンが、『アルプス交響曲』では後半のみに使われているのである。

15)霧が立ちのぼる Nebel steigen auf

 キリスト教会の象徴ともとれるオルガンの登場後、音楽に暗い影が差し始める。この部分は『芸術家の悲劇』の素材とされる。

16)しだいに日がかげる Die Sonne verdüstert sich allmählich

17)哀歌 Elegie

18)嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm

19)雷雨と嵐、下山 Gewitter und Sturm, Abstieg

 山の反対側を降り始める。登山の主題が転回され、下山の主題となる。ウィンドマシーンが強風を表し、木管に大粒の雨がぽつぽつと降り始め、急激に激しくなる。私見ではこの木管は「十字架音形」である。『芸術家の悲劇』で主人公に襲いかかる宗教的モラルの抑圧だろうか。

20)日没 Sonnenuntergang

21)終音 Ausklang

 日没後にふもとの教会を通りすがる。オルガンのコラールが聞こえ、これまでの楽想が次々回想される。この感動的な音楽は、「反キリスト者」を標榜するこの曲の大きな謎となっている。結局はキリスト教の祈りに取り込まれるのだろうか。だが『ツァラトゥストラ』における「世界背後論者について」の、教会で信者たちが祈る敬虔な音楽を思い起こしたい。すなわちこの教会のコラールは、背後世界論者たちの祈りであろう。祈りが結論ではない証拠に、楽曲はここで終わらない。

22)夜 Nacht

 登山の楽しみと雄大な大自然への畏敬の念。それを否定するキリスト教とはなんなのか。もやもやとした疑念が、宿で床に就いた少年の夜の夢にまとわりつく。その疑念を晴らすのは、ニーチェ思想との出会い、『ツァラトゥストラ』冒頭の夜明けを待たねばならない。


■『ツァラトゥストラ』前日譚としての『アルプス交響曲』について


  ヴェルベックは上記のように『アルプス交響曲』と『ツァラトゥストラ』の関連を指摘しているが、『ツァラトゥストラ』を、作曲家自身を主人公とする自伝的作品と捉えれば、その関連性はさらにはっきりとする。『アルプス交響曲』の原体験はシュトラウスが14歳の時であり、初めてキリスト教に疑念を抱いたのは15歳の時だったと回想していた。本作が、大自然への畏敬の念とともにキリスト教への疑念を抱いた、『ツァラトゥストラ』の前日譚的自伝的作品であるという解釈は十分成り立つだろう。

 『ツァラトゥストラ』について、後半にのみ現れるヴァイオリン独奏を、『英雄の生涯』、『家庭交響曲』で公式に用いられる「英雄の妻」の先駆けという見立てをしたが、『アルプス交響曲』にはヴァイオリン独奏が一切現れない。美しい自然情景、牧歌的風景を描く音楽にふさわしいにもかかわらず、まるで頑ななまでに使用されないのである。これは、本作がパウリーネとの出会い以前の自伝的作品だからではないだろうか。つまり本作では、ヴァイオリン独奏の不在によって、後のパウリーネとの出会いが暗示されているわけである。

 そして、ニーチェへのオマージュよりも、むしろドーラとの不倫の愛を想起させる『芸術家の悲劇』の構想が幻に終わり、代わりに幸せな家庭生活を描いた『家庭交響曲』が作曲されたのも、愛妻家シュトラウスがパウリーネのご機嫌を忖度してのことだったのではないだろうか。





by ooi_piano | 2019-11-10 20:31 | POC2019 | Comments(0)

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大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
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【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)

レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):ズデンカ変奏曲 Op.1 (1880)  9分
  主題 Andante - 第1変奏 Andante - 第2変奏 Allegro - 第3変奏 Con moto - 第4変奏 Con moto - 第5変奏 Meno mosso - 第6変奏 Adagio - 第7変奏 Adagio

ヤナーチェク:ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1906)  10分
  I. 予感 - II. 死

林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)  15分
  I. - II. - III.

 (休憩10分)

ヤナーチェク:草の小径(全10曲)(1901-08/1911)  27分
  I. わたしたちの夕べ - II. 舞い散る木の葉 - III. さあ一緒に! - IV.フリーデクの聖母 - V. 娘たちは燕みたいにおしゃべり - VI. どう言えばいいのか! - VII.おやすみ! - VIII.心配でしかたない - IX. 涙にくれて - X. ふくろうが飛ばないなんて!

間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)  15分
  I. Allegretto - II. Presto

 (休憩10分)

ヤナーチェク:霧の中で(1912)  14分
  I. Andante - II. Molto adagio - III. Andantino - IV. Presto

ヤナーチェク:弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演)  27分
  I. Andante/Con moto/Allegro - II.Adagio/Vivace - III.Moderato/Andante/Adagio - IV.Allegro/Andante/Adagio

  [使用エディション:新ヤナーチェク全集版 (Editio Supraphon Praha)]



林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)  
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  「木々について」は、ベルトルト・ブレヒトの(第2次大戦中の)詩『あとから生まれる人びとへ』からの引用。いまという時代に自然(たとえば木々)について会話することは、他のことから、例えば無数の非行(もちろんファシズムによる)について「会話しない」こと、沈黙することであり、犯罪でさえある、と詩人は書いた。詩人に共感しつつも、なお木々について(ついても)語りたいというのが、作曲者の弁。ソナタ形式によらない3楽章からなるこの曲では、また、各楽章に音楽上の引用がある。第1楽章では、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩による作曲者のソング『新しい歌』の旋律が引用され、第3楽章の中間部の旋律は、おなじく作曲者の歌曲『光州5月』のなかの『わかれ』の一節によっている。また、第2楽章は、沖縄童歌『がらさ(烏)』とその変奏で、歌の大意は、カラスよカラス、気をつけろ、オマエのうしろからヤマトンチュウ(日本人)が、鉄砲でお前を狙っているぞ、というようなもの。(林光)


間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)  
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  サックス奏者オーネット・コールマン(1930-2015)が無手勝流で弾くヴァイオリン演奏に想を得た《無伴奏ヴァイオリンソナタ》(1970)と並んで、フリージャズの巨星セシル・テイラー(1929-2018)に触発されたのが《ピアノソナタ第2番》(1973)である。彼らアメリカの黒人が、ヨーロッパの音楽伝統を美しく体現するヴァイオリンとピアノを、遮二無二その伝統から引きちぎり、「何が何でも自己の表現のために使い切る攻撃的な姿勢」に奮起したと云う。「そのリファインされない、荒々しい音楽の息づかいと、硬質のざらざらした響きに出会って強く引き付けられた。その経験は、当時ぼくの中にくすぶりはじめていた奥深い希求の声が、少しずつ具体的な楽想の形を取りはじめるきっかけを作ってくれたようである。《ピアノソナタ第2番》の場合でいえば、その希求は冒頭の上行する無骨なモティーフの形を次第にはっきりさせながら、しきりにぼくに向かって働きかけ、ぼくを導いて歩かせはじめることになる」。




ヨーロッパの中心から少し離れて:ヤナーチェクの場合――野々村 禎彦

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  レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長、フォーレとドビュッシーの間に位置するが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。また教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。さらに彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、農民音楽家集団を引率して都市部や海外での紹介活動も積極的に行った。チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでの彼は、国際的名声が高まる晩年までは「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。

  妻との交際中に留学先のライプツィヒで書いた《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、収集した民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源であると考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしば細部の語句を変更していた。オペラ《ブロウチェク氏の休暇旅行》(1908-17) の台本は、月世界旅行と15世紀へのタイムスリップという題材の難しさも加わって9人の作家をたらい回しにされ、作曲は自作の仮台本に基づいて進められた。これ以降に書かれたオペラの代表作群では、台本も自作になったのは自然な成り行きだった。

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  ピアノ独奏曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)・《1905年10月1日》(1905)・《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても正当な評価は得られない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴な地方の作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。この時期の作品では、男声合唱曲《ハルファール先生》(1906)・《マリチカ・マグドーノヴァ》(1906-07)・《七万》(1909) とヴァイオリンソナタ(1914/21) も重要である。第一次世界大戦の趨勢とともに独立への期待が高まる1916年に、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように、公私とも充実した状況が訪れたことで彼の創作意欲は燃え上がり、人生最後の10年が彼の「傑作の森」になった。

  ただし、ピアノ独奏曲をはじめとする上記作品群は彼にとって身近な編成に限られ、同時期に書かれたオペラ《運命》(1903-05/06-07) と《ブロウチェク氏の休暇旅行》、交響詩《タラス・ブーリバ》(1915-18) のような大編成作品では、書法はより伝統的だった。モダニズムとは生涯無縁だった彼は、組織的に語法の革新を行ったわけではなく、音楽的必然に導かれて手の届く範囲で新しい試みを進めた結果に他ならない。全面的に新しいフェーズに入った最初の作品が歌曲集《消えた男の日記》(1917-19) である。ジプシー女の肉体に惹かれて故郷を捨てた青年が残した詩(実際は、職業詩人が方言を駆使してその状況を装い、匿名で発表)にカミラへの恋愛感情を重ね、新ウィーン楽派の表現主義が無調への飛躍に至ったのに匹敵する変化が訪れた。若干の重唱と合唱以外はピアノ伴奏歌曲というシンプルな編成がこの曲でも力になっており、この後に書かれたオペラ《カーチャ・カヴァノヴァー》(1919-21) もこの曲には及ばない。ドロドロした世話物だけに、オペラ劇場のレパートリーとしては《イェヌーファ》と人気を二分しているが。

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  彼は《利口な女狐の物語》(1921-23) で、オペラでも《消えた男の日記》の水準に達した。発話旋律の採集の対象は、人間の会話だけでは飽き足らず、動物や鳥や虫の鳴き声まで広がっていたが、動物が主人公のこのオペラでその蓄積は活かされた。原作は新聞連載小説で、女狐ピストロウシュカの冒険をコミカルに描いているが、ヤナーチェクの台本ではその部分は大幅に削り、動物たちの森の世界と人間の世界をつなぐ森番に重要な役割を与えた。さらに独自ストーリーの最終幕を追加し、主人公の女狐が死んでその子供たちに世代が受け継がれるところまで描き、台本作家としての成熟も作品の充実に貢献している。弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》(1923) では、スル・ポンティチェロの多用と極端なダイナミクスやテンポの対比が、バルトーク第3番すら予言する一方、トルストイの同名小説をなぞるプログラム音楽でもあり、大元のベートーヴェン作品も引用される。モダンな音響とロマン主義的な旋律が何の矛盾もなく共存するのが彼の音楽の特徴で、システムに依らないからこそ可能な、アイヴズの音楽にも通じる魅力と言えるだろう。

  好調な創作は続き、木管六重奏のための《青春》(1924)、オペラ《マクロプロス事件》(1923-25)、ピアノとアンサンブルのための《コンチェルティーノ》(1925)、《シンフォニエッタ》(1926) が相次いで書かれた(左手のためのピアノ協奏曲《カプリッチョ》(1926) もこの時期の作品だが、この編成に求められる技巧的性格が彼の作風には合わなかった)。初めて参加したISCMプラハ大会(1925) でチェコを代表する作曲家として遇され、バルトークと知り合って親交を結んだことも大いに刺激になった。特に《コンチェルティーノ》はかつてピアノ独奏曲で試みた方向性をアンサンブルに独自手法で拡大(楽章ごとに異なる楽器とのデュオ、後半でフル編成合奏)しており、ピアノ独奏曲の先駆性を実証している。この曲はISCMフランクフルト大会(1927) に入選し、怒れる若者のような音楽と拍手に応えて登場した白髪の老人のギャップが話題になった。そして終生の代表作、《グラゴル・ミサ》(1925-26) が生まれた。合唱と管弦楽の組み合わせはオペラで十分な経験を積んできたが、テキストは古代教会スラヴ語によるミサ通常文なので音楽の性格は抽象的になっている。そこに加わるオルガンが聴き所で、演奏・教育歴と比べて作品は少なく、独奏曲は専ら初期、管弦楽曲の中でも《タラス・ブーリバ》で型通りに使われていただけだが、本作では終曲前のソロをはじめとして存分に暴れ回り、汎スラヴ主義を情熱的に唱える作曲者を代弁するかのようだ。

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  嵐のような創作が一段落し、ドストエフスキー『死の家の記録』に基づいたオペラ《死者の家より》(1927-28) に取り組み始めた時、彼は自らの晩年を意識した。1904年に当時はロシア支配下のワルシャワ音楽院院長職を打診された時から(条件が折り合わなかったようだが)、彼にとってロシア文化は特別な存在だった。ドストエフスキーの獄中体験記として同時代のロシア文学に大きな影響を与え、『地下室の手記』以降の後期作品の母胎になった小説は、人生の最後を賭けるにふさわしい題材だった。《コンチェルティーノ》で既に試みていた、楽章ごとにアンサンブルを細分化して音色のコントラストを大きくする書法を管弦楽に拡大し、薄く室内楽的で明確なクライマックスを持たない場面が続く。作曲が停滞していたヴァイオリン協奏曲《魂のさすらい》(1926-) を放棄してその素材を転用し、同じく難航していた弦楽四重奏曲第2番《内緒の手紙》(1923-28) をオペラの全容が見えてきた時点で完成させるなど、「まるで人生の決済をまもなくすませなくてはならないかのように」創作を進めた。オペラ完成後程なくカミラ夫妻とその息子を故郷に招いた際、その子供が森で迷子になったと思い込んで雨中を探し回り、肺炎を悪化させて世を去った。ただし、この休暇旅行に妻は呼ばず、妻が駆け付ける前に遺書の遺産配分指定をカミラ寄りに書き換えて死んでおり、計画的に人生の幕を引いたかのような最期だった。

  彼はオルガン学校校長時代から、少なからぬ生徒に作曲を教えてきたが、独自の音楽を書くだけに音楽理論の捉え方も独特で癖があり、優秀な生徒ほどプラハの伝統的な教師のもとに移りがちだった。このオルガン学校がブルノ音楽院に昇格した時も、彼の期待に反して院長には選ばれなかった。それでも1925年までは同校で作曲を教えたが、絶頂期に雑事に忙殺されなかったのは結果的に幸いだった(ワルシャワ音楽院院長就任後は保守派との争いに巻き込まれて作曲の時間が殆ど取れず、晩年の可能性が摘み取られたシマノフスキとは対照的である)。彼の音楽性を理解して受け継いだ「弟子」には恵まれなかったが、彼の成功を願って援助を惜しまない友人はマックス・ブロート(彼のオペラ台本を片っ端から自主的に独語訳して出版社に売り込み、全作品がウニヴェルザール社から出版される土台を作った文学者)をはじめ少なくなく、残された問題作《死者の家より》に対して彼らが取った判断は、「薄く不完全な」オーケストレーションを「修正」し、ハッピーエンドの最終場面を「補筆」して上演に漕ぎ着けることだった。彼が求めた音楽への理解が進むにつれて復元作業が始まり、最終版が上演されたのは実に2017年のことである。彼のオペラに取り組み続けた指揮者チャールズ・マッケラス(オーストラリア→英国)と、大部の評伝 ”Years of Life” を著した英国の音楽学者ジョン・ティレルの共同作業による、半世紀に及ぶ執念の結晶だった。

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  彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」として主に英国で受容された。さらに1980年代以降ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで主張されていた「新しさ」は既にヤナーチェクがはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していた、音楽におけるモダニズムの歴史が相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。アンチェル、イーレク、クーベリック、ノイマンらチェコ出身の指揮者以外では彼を早くから評価していたバーンスタインの後任としてNYPの音楽監督になったブーレーズは、彼の音楽に接する機会は比較的多かったと思われるが、長らく「田舎のドヴォルザーク」と小馬鹿にしていた。だが《消えた男の日記》の実演に接して評価は一変し、最晩年の重要なレパートリーのひとつになった。《死者の家より》の映像化に加え、《グラゴル・ミサ》や《シンフォニエッタ》のシカゴ響やBBC響との演奏記録が残されている(いずれも慣用譜ではなくオリジナル復元譜を使用)。スペクトル楽派第二世代以降の演奏経験を重ねる中でヤナーチェクの音楽性を受信する回路がある時繋がった、と理解すべき実例だろう。





by ooi_piano | 2019-11-06 09:09 | POC2019 | Comments(0)


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大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第42~第46回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs II》
大井浩明(ピアノ独奏)

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
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c0050810_00001711.jpg【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)
林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):《ズデンカ変奏曲 Op.1》(1880)、《草かげの小径にて》(1901-08/1911)、ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1905)、《霧の中で》(1912)、弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演



c0050810_06264238.jpg【関連公演】
〈超人とアンチクリスト〉 2019年11月22日(金)19時開演 東音ホール(豊島区) 浦壁信二+大井浩明
R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはこのように語った》 作品30 (1896、オットー・ジンガーによる二台ピアノ版、日本初演)
  導入部(ツァラトゥストラの序説) - 背後世界論者について - 大いなる憧れについて - 歓楽と情欲について - 墓の歌 - 学問について - 病の癒えゆく者 - 舞踏の歌 - 夢遊病者の歌
R.シュトラウス:《アンチクリスト ~ アルプス交響曲》 作品64 (1915/2019、米沢典剛による二台ピアノ版、世界初演)
  夜 - 日の出 - 登り道 - 森に入る - 小川沿いに歩く - 滝 - 幻影 - 花咲く草原で - アルムの牧場で - 道に迷い茂みと藪を抜ける - 氷河で - 危険な瞬間 - 頂上で - 幻視 - 霧が立ちのぼる - しだいに日がかげる - 哀歌 - 嵐の前の静けさ - 雷雨と嵐、下山 - 日没 - 終了 - 夜



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【ポック(POC)#44】 「スクリャービンの窯変」 2019年12月20日(金)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
山田耕筰(1886-1965):《スクリャービンに捧ぐる曲》(1917)、舞踊詩《青い焔》(1916)
スクリャービン(1871-1915) :ソナタ第7番「白ミサ」Op.64 (1911)、詩的夜想曲 Op.61 (1911/12)、ソナタ第6番 Op.62 (1911/12)、2つの詩曲 Op.63 (1911/12)、3つの練習曲 Op.65 (1912) 、2つの前奏曲 Op.67 (1912/13)、ソナタ第9番「黒ミサ」Op.68 (1912/13)、2つの詩曲 Op.69 (1912/13)、ソナタ第10番「トリル・ソナタ」Op.70 (1913)、ソナタ第8番 Op.66 (1913)、2つの詩曲 Op.71 (1914)、詩曲「焔に向かって」Op.72 (1914)、2つの舞曲 Op.73 (1914)、5つの前奏曲 Op.74 (1914)



c0050810_06280988.jpg【関連公演】
〈花々に蔽われた大砲 ~ショパンのマズルカを巡って Armaty ukryte wśród kwiatów - Mazurki Chopina〉 2019年12月29日(日)15時開演 松山庵(兵庫県芦屋市) 
F.F.ショパン(1810-1849):マズルカ風ロンド Op.5 (1826)、マズルカ風ロンド Op.21-3 (1830、作曲者による独奏版)、5つのマズルカ Op.6 (1830)、4つのマズルカ Op.17 (1831/33)、マズルカ Dbop.42A 「ガイヤール」 (1840)、3つのマズルカ Op.50 (1841/42)、3つのマズルカ Op.56 (1843)、3つのマズルカ Op.59 (1845)、3つのマズルカ Op.63 (1846)、マズルカ Op.68-4 (1849) [使用エディション:ポーランド・ナショナル版(1998/2017)]
C.ドビュッシー(1862-1918):マズルカ (1890)
A.スクリャービン(1871-1915):マズルカ Op.25-3 (1898)
L.ゴドフスキー(1870-1938):マズルカ(ショパンOp.25-5に基づく) (1904)
K.シマノフスキ(1882-1937):2つのマズルカ Op.62 (1933/34)
T.アデス(1971- ):マズルカ(2009)



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【ポック(POC)#45】 「シマノフスキの讖緯」 2020年1月18日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
若尾裕(1948- ):《さりながら雪》(2019、委嘱初演
李聖賢(1995- ):《夜の集(すだ)き》(2019、委嘱初演)
カロル・シマノフスキ(1882-1937):《メトープ(浮彫) Op.29》(1915)、《仮面劇 Op.34》(1916)、《ピアノソナタ第3番 Op.36》(1917)、《20のマズルカ集 Op.50》(1924/25)、《2つのマズルカ Op.62》(1933/34)




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【ポック(POC)#46】 「ジョリヴェの蚕蝕」 2020年2月15日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
門脇治(1964- ):《前奏曲第11番》(2020、委嘱初演)
前田克治(1970- ) :《影と形Ⅲ》(2020、委嘱初演)
アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974):《マナ》(1935)、《五つの儀式的舞踊》(1939)、ピアノソナタ第1番(1945)、ピアノソナタ第2番(1957)
エドガー・ヴァレーズ(1883-1965):《アルカナ》(1927/2018、米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演


(終了)【関連公演】
c0050810_06225588.jpg日本シベリウス協会例会 〈ピアノで紡ぐシベリウスの管弦楽の世界――その3〉 2019年9月16日(月・祝)14時開演 マルシャリンホール(調布市)
K.シマノフスキ:ピアノソナタ第2番 Op.21 イ長調 (1910) 
J.シベリウス:交響曲第3番 ハ長調 Op.52 (1907/2018)(米沢典剛編独奏版、世界初演)
J.シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 Op.43 (1901/2017)(マイケル・グラント編独奏版、世界初演) 



c0050810_04130168.jpg(終了)【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)
R.シュトラウス:《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演
しばてつ(1959- ) :《「君が代」逆行形による変奏曲》(2019、委嘱改訂初演)
李聖賢(1995- ):《君が代遺聞》(2019、委嘱初演
成田為三(1893-1945):《「君が代」変奏曲》(1942)
M.グルリット(1890-1972):《信時潔「海ゆかば」による変奏曲》(1944、全曲による世界初演)
黛敏郎(1929-1997):《オール・デウーヴル》(1947)
松平頼則(1907-2001):《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)
諸井誠(1930-2013):《αとβ》(1954)、《ピアノ曲1956》(1956)
入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
松下眞一(1922-1990):《可測な時間と位相的時間》(1957/60)




POC2019:日本戦後前衛の源流を辿って――野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で9期目。第6期ではヨーロッパ戦後前衛に直結したシェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーを取り上げたが、日本の戦後前衛への直接的な影響は実は限定的だった。12音技法の学習は柴田南雄、入野義朗らの戦後最初の課題だったが、生まれてきたのは新ウィーン楽派とは似ても似つかない音楽だった。新古典主義を取り入れた作曲家は多いが、ドイツ系ではヒンデミットやオルフ、フランス系では後期ラヴェルや六人組が参照され、ストラヴィンスキーに挑んだ作曲家はいない。バルトークの影響を標榜する作曲家も多いものの民謡素材の導入という入り口の段階に留まり、それを活かすためにヨーロッパ古典音楽の体系の方を組み換える(対象が微分音や噪音ならば前衛語法に直結する)という核心部分には至らなかった。

 むしろ同時代には、スクリャービン(シマノフスキが後期ロマン派風書法から飛躍したのも、スクリャービンの影響が大きい)やジョリヴェ(「若きフランス」の作曲家としては、メシアンよりも断然)の方が、日本作曲界への直接的な影響ははるかに大きかった。またオペラ作曲家として発話旋律の収集を根幹に据えたヤナーチェクのアプローチは、日本語に根ざしたオペラの指標になった。ロシアと東欧、及びフランスでのオリエンタル志向という彼らの立ち位置が、ヨーロッパの中心から見ればさらに辺境にあたる日本の作曲家たちにとっては近づきやすかったことは疑いない。前衛の時代が終わってから欧米では再評価が始まった彼らと日本の作曲家たちの影響関係や照応関係を具体的に見てゆくことが、今年度のテーマである。
 
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 アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915) はモスクワ音楽院でセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943) と同期だった。十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を活かし、楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現したピアニスト=ラフマニノフは、作曲家としては19世紀の語法の革新を必要としなかったが、ピアニストとしては化け物ではなかったスクリャービンはそれでは済まない。《法悦の詩》(1908) 《プロメテ》(1910) で独自の無調書法を編み出し、ようやくライバルの影から解放された。長三度・完全四度・増四度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、時間分節は持続音で行う。ダンパーペダルで持続音を作ると和音が混濁するピアノ独奏曲の場合は、アルペジオとトリルで代用する。彼にとって管弦楽の作曲は得意分野ではなく、この2曲以降に完成されたのはすべてこの書法によるピアノ独奏曲だった。その大半が今回網羅的に取り上げられる。

 スクリャービンは音楽史から隔絶された特異な存在だと長年見做されてきた。彼のインスピレーションの源泉は神智学やニーチェの超人思想で、色彩と音響の共幻覚が強調されてきたことも要因のひとつだろう。彼の影響を神秘和音の使用に限定すると、その構成音は全音音階の構成音1個を半音ずらしたものなので、彼の影響は無視して「印象派風」と見做されがちだった(シマノフスキがまさにそうだった)。だが「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば影響圏は一挙に広がる。ロスラヴェッツ、ルリエー、ヴィシネグラツキーらロシア・アヴァンギャルドの作曲家の大半はこの意味では彼の影響下にある。シェルシも12音技法と並行してスクリャービンの弟子からその作曲法を学び、微分音オルガンを使い始めるまでのピアノの即興に基づいた作品群に至った。セリー技法は本質的に筆記的だが、広義のスクリャービン流「無調」は即興音楽における「無調」表現の現実的な処方箋になった。

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 カロル・シマノフスキ(1882-1937) は、当時はロシア支配下のポーランドの貴族の家庭で生まれ育った。親戚のネイガウス家の音楽学校で学び始め、スクリャービンの音楽に初期から親しんでいた。ワルシャワ音楽院に進み、ルービンシュタイン、コハィンスキらと音楽家集団「若きポーランド」を結成する。当時の彼はワーグナーやR.シュトラウスを好み、交響曲第2番(1909-10) やピアノソナタ第2番(1910-11) はまさにそのような音楽だ。1914年に南欧や北アフリカを旅行してオリエントやアラブの音楽を知り、異国の音組織と無調化以降のスクリャービンの音組織の類似性は、後期ロマン派を超える音楽を模索していた彼に啓示を与えた。ピアノ独奏のための《メトープ》(1915) 《仮面劇》(1916)、ヴァイオリンとピアノのための《神話》(1915)、交響曲第3番(1914-16)、ヴァイオリン協奏曲第1番(1916)、ピアノソナタ第3番(1917)、弦楽四重奏曲第1番(1917) などで、彼は一挙にヨーロッパ作曲界の最前線に立った。なかでも《神話》は、バルトークの最も尖鋭的な作品であるヴァイオリンソナタ第1番(1921) に直接的な影響を与えている。

 この充実期は、ロシア革命に際しボリシェヴィキの一団に自宅を襲撃された事件で終わる。そのショックで音楽活動を中断していた彼が活動を再開したのは、第一次世界大戦が終結してポーランドが独立を回復した時だった。しばらくは「若きポーランド」の盟友との海外での活動が中心だったが、ストラヴィンスキー《結婚》に衝撃を受けて民俗音楽に目覚め、1922年からポーランド南端ザコパネに別荘を借り、近代西洋音楽に毒されていない同地の音楽を収集した。充実期の作風を受け継いだオペラ《ロジェ王》(1918-24) 完成後の《20のマズルカ》(1924-25)、《スターバト・マーテル》(1925-26)、弦楽四重奏曲第2番(1927) がこの時期の成果である。ただしフィラデルフィア音楽財団の弦楽四重奏曲コンクールでは入賞を逃し(バルトーク第3番は相手が悪すぎたが、カゼッラ《セレナータ》にも後塵を拝した)、この時期の彼の方向性はもはや同時代にも作曲界の最前線とは見做されていなかった。

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 レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長だが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。また彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでは長らく、「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。

 民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源だと考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしばテキストの方を変更していた。今回の曲目の中核となるピアノ曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)《1905年10月1日》(1905)《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても世間では正当に評価されない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴なローカル作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。

 第一次世界大戦の趨勢と共に独立への期待が高まった1916年、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように公私とも充実した最晩年の十余年が彼の「傑作の森」になった。今回は最後の完成作、弦楽四重奏第2番《内緒の手紙》(1928) のピアノ独奏版が取り上げられる。彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」という位置付けで英国で受容された。さらに1980年代以降、ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで議論されていた「新しさ」は彼が既にはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。モダニズムの歴史は無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していたわけだが、それが相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。

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 アンドレ・ジョリヴェ(1905-74) は師エドガー・ヴァレーズ(1883-1965) からオリヴィエ・メシアン(1908-92) を経てモーリス・オアナ(1913-92) まで続く、エキゾティックな音楽に強いインスピレーションを受けたフランス近代の作曲家の列に連なる。作曲家集団「若きフランス」結成に際してメシアンが在野の作曲家ジョリヴェに声をかけたのは、ヴァレーズ譲りの無調書法が反新古典主義を旗印にしたグループの理念に合致していたからだが、早くから電子音響を夢想していたヴァレーズ、インド音楽の旋法やリズムを科学的に分析したメシアン、セリー主義へのアンチテーゼとして地中海の民俗音楽を創造的に用いたオアナと比べると、ジョリヴェの姿勢は典型的なエキゾティシズムに留まっていたことは否定できない。

 《マナ》(1935)、《5つの呪文》(1936)、《5つの儀礼的舞踏》(1939) などの生気に満ちた作品群から出発した彼は、《兵士の3つの嘆き》(1940) で調性回帰し、ピアノソナタ第1番(1945) の頃にはすっかり保守的な精神の持ち主になっていた。80年代は「クセナキスの唯一の弟子」にふさわしい輝きを見せていたデュサパンの90年代以降の変節を例に挙げるまでもなく、「在野の改革派」がいったん名声を確立すると保守派以上に保守的になってしまうのはフランス作曲界の宿痾なのだろう。ただし、マッカーシズムに葬られたニューディール左派の理想主義が日本国憲法に残されたように、《赤道協奏曲》(1950) の悪名の前に忘れられたジョリヴェ初期の輝きは、日本の現代音楽草創期の作品群に残されていた。

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 このような認識を踏まえて日本の作曲家の曲目は選ばれた。スクリャービンの影響を直接的に受けた山田耕筰の2曲を本家と聴き比べ、合唱曲やオペラを通じて日本語の話し言葉に正面から対峙した間宮芳生林光の代表作にヤナーチェクの精神を確認し、ジョリヴェ受容の諸相を日本の現代音楽草創期の作品群に探す。初期ジョリヴェの影響を最も強く受けたのは湯浅譲二福島和夫だが、このリストには黛敏郎も含まれる(彼の場合はその後の顛末も含めてだろうが)。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951) は、フランス新古典主義(モデルは主にプーランク)から雅楽のフィルターを介した戦後前衛に乗り換える瞬間に現れた、創作史の特異点という位置付けだが、雅楽の素材をエキゾティシズムの対象として扱って多様式を繋ぐハブにするという発想には、同時代の「ジョリヴェ的なもの」も無関係ではないだろう(その影は石井眞木やその後の世代まで伸びている)。この文脈では、諸井誠・入野義朗・松下眞一の初期作品は解毒剤として並んでいることになりそうだが、併せて聴くことで見えてくるものもあるはずだ。


by ooi_piano | 2019-10-17 04:24 | POC2019 | Comments(0)


(※)公演は予定通り開催致します

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大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp


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【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)

●R.シュトラウス(1864-1949):皇紀2600年奉祝音楽(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演) 14分
  海景 - 櫻花祭 - 噴火山 - もののふ蹶起 - おほきみは神にしませば
成田為三(1893-1945):「君が代」変奏曲(1942)  15分
  主題 Largo - 変奏1 - 変奏2 Poco più mosso - 変奏3 Animato - 変奏4 Andante - 変奏5 Allegro moderato ma non troppo - 変奏6 Tempo di Thema - 変奏7 Più mosso - 変奏8 Allegretto agitato - 変奏9 Scherzando - 変奏10 Lento ad libitum - 変奏11 Con moto - 変奏12 Con forza - 終結部 Allegro con fuoco
M.グルリット(1890-1972):信時潔海ゆかば」による変奏曲(1944、全曲による世界初演)  30分
  主題 - I.導入 - II.前奏曲 - III.夜想曲1 - IV.幻想曲1 - V.夜想曲2 - VI.急迫曲1 - VII.綺想曲 - VIII.挽歌1 - IX.譚詩1 - X.幻想曲2 - XI.夜想曲3 - XII.譚詩2 - XIII.間奏曲 - XIV.急迫曲2 - XV.挽歌2 - XVI.急迫曲3 - XVII.葬送行進曲 - XVIII.牧歌 - XIX.闘諍 - XX.終曲

(休憩)

黛敏郎(1929-1997):オール・デウーヴル(オードブル)(1947)  8分
  I. 導入部とブギウギ - II. ルンバ/フォックストロット
松平頼則(1907-2001):盤渉調音取(1988) + 盤渉調越天楽による主題と変奏(1951/1983)  20分
  主題 - 変奏I Andante - 変奏II Allegro - 変奏III Allegro(ルンバ) - 変奏IV Lento - 変奏V(ブギウギ) - 変奏VI(トッカータ・メカニコ) - 終結部 Lento
しばてつ(1959- ) :「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019、委嘱改訂初演) 10分
  主題(君が代逆行形) - 変奏1(順行と逆行) - 変奏2(逆行カノン) - 変奏3(和声1) - 変奏4(和声2) - 変奏5(和声3) - 変奏6(ジャズ/2声のインヴェンション) - 変奏7(和声4/エッケルト) - 変奏8(拡大縮小音価) - 終曲
  
(休憩)

●李聖賢(1995- ):君が代-遺聞(ユムン)(2019、委嘱初演) 7分
諸井誠(1930-2013):α(小ソナタ)とβ(主題と12の変奏)(1954)、ピアノ曲(1956) 14分
入野義朗(1921-1980):三つのピアノ曲(1958) 8分
  I. トッカータ - II. コラール - III. スケルツォ
松下眞一(1922-1990):ピアノのための三楽章〈可測な時間と位相的時間 Temps mesurable et temps topologique〉(1957/60) 10分
  I. - IIa. - IIb. - III


c0050810_00421798.jpg  2010年9月に松下眞一歿後20周年追悼公演で開始されたPOC (Portraits of Composers)のシリーズは、既に40プログラムを超えました。10月公演では、今まで取り上げてこなかった、戦中・戦後のミッシング・リンクにあたる作品群を特集致します。
  第一部で演奏する戦中(1940年~44年)に書かれた3作品は、まごうことなき正調ドイツ音楽です。没後70周年のリヒャルト・シュトラウス《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019、米沢典剛による独奏版)は、現在の相場で1000万円を超える日本政府からの高額の委嘱料に見合った、まさに垂訓的お手本の如き和声と対位法の贅を尽くした豪華絢爛な音絵巻ですが、戦後は「皇紀」というネーミングに無頓着な来日外国人指揮者が取り上げるのが関の山で、演奏頻度としては同じ日本ネタのメシアン《七つの俳諧》さえ下回っています。(一方、21世紀になっても邦人オケ作品で「リヒャルト・シュトラウスが後ろを通り過ぎる」(柴田南雄)のは相変わらずです。)

c0050810_00441255.jpg  若書きの歌曲《浜辺の歌》(1916)や《かなりや》(1918)で広く知られる成田為三(1893-1945)は、1922年~26年のベルリン留学時はロベルト・カーンに作曲理論を師事しており、スカルコッタス・ライトナー・ケンプ・ルービンシュタインの同門にあたります。日本人作曲家による変奏曲の最高峰と言うべき《君が代変奏曲》(1942)は、師・山田耕筰の《御大典奉祝前奏曲―君が代を主題とせる》(1915、大正天皇即位礼のための)の綿密な動機労作を意識しながらも、ブラームスからレーガー、新ウィーン派に継がれた重厚な変奏技法が真摯かつ入念に展開される力作です。
  そもそも、19世紀中欧軍歌を模した様式の「国歌」がアジア・中南米を含め圧倒的多数を占める中にあって、アイルランド人楽隊長ウィリアム・フェントンの「君が代」初稿(1869)は即座に却下され、宮内庁雅楽部の林廣守による「君が代」の旋法や構成は西洋音楽の変奏技法には不向きでもあり、プロイセン人楽隊長フランツ・エッケルトの和声付け(1880)も当時から違和感があったのか、山田耕筰・溝部国光・平井康三郎らは「君が代に最高のハーモニーを付ける」ことを何年かかけた課題として競ったそうです。
  国歌を自由に裁断してパラフレーズ化するのは「不敬」だから作品例が少ない・・・、というわけではなく、例えばイギリス国歌《女王陛下万歳(ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン)》などは、古来ベートーヴェン・クレメンティ・ハイドン・クリスチャンバッハ・フンメル・パガニーニ・リスト・タールベルクから、ドビュッシー・レーガー・アイヴズを経てビートルズ・ジミヘン・ピストルズ・クイーンに至る、多彩なヴァージョンが存在しています。プロイセン王フリードリヒ2世が(ベルリン近郊で)作曲した主題を、おかかえ楽士の父親が「反行」させたり半音階的に歪めたりしても(バッハ「音楽の捧げ物」)、大王自身が激怒するわけもありません。
  これらの「歴史」に則り、音楽素材としての君が代の扱いは、戦後よりもむしろ戦前戦中のほうが自由であり、前記の山田耕筰・成田為三作品はもとより、吉本光蔵《君が代行進曲》(1902)や(かもめの水兵さんの)河村光陽《君が代踊り》(1941)の奔放さに比べると、勤務先の高校卒業式で演奏して分限免職処分となった小弥信一郎《君が代ジャズ風》(1979)や、「むかしのわるいうた」として恐る恐る断片的に君が代を引用した林光:交響曲第2番《さまざまな歌》(1983)などは、全く腰が引けています。戦後でも国歌継ぎ接ぎコラージュの大作、シュトックハウゼン《ヒュムネン》(1967、君が代の引用あり)に各国から苦情が殺到した、などという話は聞いたことがありません。

c0050810_00451839.jpg  《海ゆかば》(1937)の作者、信時潔(1887-1965)はベルリン留学時(1920-22)に、リヒャルト・シュトラウスの盟友ゲオルク・シューマンに師事、同氏には箕作秋吉(1921-24)や諸井三郎(1932-34)も薫陶を受けています。ベルリン生まれのマンフレート・グルリット(1890-1972)は同地にてE.フンパーディンクに作曲を学び、1939年に日本に亡命、そのまま東京で後半生を過ごしました。グルリットにより日本初演が行われた多数の作品には、R.シュトラウス《ばらの騎士》(1957)や《サロメ》(1962)も含まれています。
  グルリット《海ゆかばによる20の変奏曲 Nobutoki-Variationen》は1944年5月に作曲、四管編成オーケストラ版が作曲者指揮東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)によって放送初演されています(1944年10月&1945年2月)。グルリット邸で作曲中の試演に接した信時潔の感想は、「グルリット氏は(…)、大衆、否、音楽者を含めて、聴者の理解気に入る入らぬを顧慮せず、オカマヒ無しに作れるらしきこと愉快なり」、というものでした。歌曲「海ゆかば」は2005年頃まで出版も演奏も忌避され続けていた事情もあり、今回演奏するピアノ独奏版は作曲から75年目にして初の全曲世界初演となります。

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c0050810_00465545.jpg  第二部では、黛敏郎《オール・デウーヴル》(1947)松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951)を、新旧2世代(18歳と44歳)の(戦後直後の新しい息吹の表象たる)ブギウギとルンバへのアプローチを共通項として対比させつつ、さらにフリージャズ演奏家しばてつ氏(生誕60周年)による君が代インプロヴィゼーション(平成/令和)へとつなげます。
  黛敏郎といえば、平成初期(1989年~90年頃)に京大西部講堂で黛作品を取り上げようとしたところ、管轄団体である「西部連絡協議会」から演奏禁止を言い渡されたことがありました。まさに「表現の不自由展」を地で行く、不当な検閲行為にほかなりません。当時、譜面提供などでご協力頂いていた黛氏にお伝えしたところ、「大変でしたね、無理しないで下さい」との暖かい御返信、御慰労を頂きました。今年で生誕90周年、没後22周年を迎えながら、カンタータ《なぜ憲法は改正されなければならないか》(1981)は、初演どころか譜面の所在さえ不明だそうで、令和の世でも余り状況は変わってないのかもしれません。
   松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)は懐かしい作品です。盤渉調越天楽は笙で嗜んでいたこともあり、全音楽譜から公刊直後(1991年)に、西部講堂南隣の関西日仏学館ホールで鼻息荒く演奏した際は、中川真氏親子に引率されて故ホセ・マセダ、カール・ストーン各氏らが七福神のようにお見えになっていたのを思い出します。同じ雅楽由来のテーマでも、9年前の成田為三の変奏曲とは驚くべき隔絶があります。
  POCシリーズ第2回公演(2010年10月)で演奏した松平頼則:ピアノ組曲《美しい日本》 (1969)は、戦後日本ピアノ音楽を代表する傑作であり、全音のあらゆるピアノ楽譜の巻末にそのタイトルがクレジットされながら、なぜ「作曲以来41年ぶりの公開全曲初演」になったかと言えば、「ジャンルの違う幾つかの日本の伝統音楽が前衛風に加工されている」という、ピアノ奏者にとって二重の〈表現の不自由さ〉があり、また、川端康成のノーベル賞講演に由来する「美しい日本」という言葉が、後期武満の頽廃性を揶揄する際に使われるなど(浅田彰)、昭和末期には余り良いイメージでは無かったせいもあるかと思われます。(どうせ誰も作品そのものは知らない。)

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c0050810_00481669.jpg  第三部では、1950年代に日本で十二音技法を模索していた代表的な三人、諸井誠・入野義朗・松下眞一の巧緻な佳品を演奏します。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/44歳)と諸井誠《αとβ》(1954/24歳)は、どちらも当時の国際現代音楽協会(ISCM)入選作の「変奏曲」でもあります。
  既にPOCの第1回~第41回公演では、ブーレーズケージシュトックハウゼンから実験工房に至る、1950年代に書かれた代表的なピアノ作品群は縷々取り上げて来ました。そこで思い返されるのは一柳慧氏の述懐、「1950年代は作曲のしにくい時代だった」です。確かに、1960年代に入って急激に開花した人、失速した人、さらに雌伏し続けた人などさまざまなケースがありました。作品そのもののクオリティと、現在「いかに忘れられているか」は直接関連はなく、〈調性がない〉〈ロマンチックな演奏効果がない〉〈遺族が根気よくプロモーションしない〉という程度で演奏頻度は決まるようです。

   1953年(26歳)時点のフランコ・ドナトーニは、「自分が変わらなければならない自覚はあった」が、「音列作法などまるで知らなかった」し、「ラジオで耳にしたシェーンベルグなど耳障りで切ってしまった」ほどで、この年に知り合ったマデルナの話は理解の範疇を超えており、翌1954年初めて参加したダルムシュタット夏季講習会では、クシェネックやレイボヴィッツのセミナーで12音作法を学び、「何ヶ月も家で4色の色鉛筆片手にシェーンベルグの作品31を分析」したそうです。最初期のピアノ曲、《四楽章の作品 Composizione in quattro movimenti》(1955年作曲/1957年ショット社刊)と《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957年作曲/1958年ショット社刊)について、晩年のドナトニ自身の回想では、前者は「ダラピッコラから借りた擬似ウェーベルン」であり、後者は「ブーレーズ第2ソナタの醜悪なコピー」と評されています。
  地続きの中央ヨーロッパでさえこの体たらくなので、講習会もチュートリアルもない戦後直後の日本で新たな潮流を試行するのは難儀だったことでしょう。諸井誠は1955年5月16日~1956年1月9日にかけて渡欧し、リンダウでのジュネースミュジカール・ドイツ支部総会と国際音楽教育教会(ISME)総会に日本代表として出席、(5月29日~6月6日開催のダルムシュタット講習会は不参加)、続けて《αとβ》が演奏されたISCM(バーデンバーデン)に参加(6月17日~21日開催、18日にハンス・ロスバウトによって《マルトーサンメートル》世界初演)、8月にバイロイト音楽祭へ行き、9月から三週間ほどシュトックハウゼンのいた北西ドイツ放送局の電子音楽スタジオに滞在、10月にドナウエッシンゲン音楽祭に出席、そして11月にはパリでブーレーズと面会したそうです。外遊の成果として帰国後に書かれたのが《ピアノ曲》(1956)ということになります。

  第三部では併せて、陳銀淑の秘蔵っ子であり国際的に注目を浴びる韓国人作曲家、李聖賢(イ・ソンヒョン)氏(24歳)による、フェントン初稿「君が代」(1869)を韓国伝統音楽の打令(タリョン)としてパラフレーズ化した新作も初演します。外国人作曲家による「日本ネタ」として、「日本には行ったことが無く伝聞情報だけで仕上げた豪奢な一品」(リヒャルト・シュトラウス)、「かねてよりオペラの題材にしていた遠い異国に実際に亡命して、当地で最もポピュラーな歌曲を主題に大管弦楽用に完成した長大な変奏曲のピアノ版」(マンフレート・グルリット)、「軍楽長として来日したアイルランド人が急遽あり合わせで作った暫定的国歌初案を、そのジャスト150年後に韓国人が韓国伝統音楽風にギタギタにした新作」(李聖賢)の三種三様をお楽しみ頂きます。
  「ルツィファー発言」後のシュトックハウゼンさながら、なぜ松下眞一氏が没後20年間追悼演奏会がなかったか等の「表現の不自由」状況を含めて、白石知雄氏・野々村禎彦氏他の論考(リンク)が、下記(この投稿末尾)にて御覧頂けます。



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しばてつ(1959- ) :「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019、委嘱改訂初演)
  日本の法律に五線紙が記されているのは、国旗国歌法だけだろう。テンポもコードネームもないが、歌詞は明記されている。作曲者名は林廣守で和声をつけたエッケルトの名はない。この11小節の曲は、遥か昔、子供の頃から実効国歌で、最後が突然ユニゾンになるのが変と思ってた。更に昔、私が生まれる14年前以前の大日本帝国憲法下でも国歌として実効していた。かなり長い期間、多くの様々な人々が歌い聴いた有名曲である。12年ほど前、特に志なしに、エッケルト和声もろとも逆行で弾いてみるとなかなか良いので、変奏曲を書いた。それを今回、大井浩明の委嘱で1.5倍ほどに増補加筆した。(しばてつ)


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しばてつ Shiba Tetsu, composer
  ピアノ/ピアニカ奏者、作曲家、即興家。1984年よりスティーブ・レイシーのソプラノサックスsoloに感銘し、ピアニカsoloの即興を始める。書かれた作曲作品として、ピアニカ5重奏「5chサラウンドサウンド ハイドン変奏曲」、「リトルネロ練馬」、オンド・マルトノとピアニカのための「電波梅」、ピアノ曲「フリードリッヒ・タンゴ・バッハ」、jazz曲「ビネール」「土木」などなど。2016年ピアニカ生音soloのCD「Plastic Pneuma」をFtarriよりリリース。2019年還暦達成。



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李聖賢:君が代遺聞(ユムン)(2019、委嘱新作初演)
  アイルランド人楽隊長ジョン・フェントン(1831-1890)による「君が代」の暫定的な初稿(1869)に接した際、その厳粛なコラールは同時に哀調も感じさせ、祖国の擾乱の世に忘却された魂に思いを馳せた。フェントンの素材に準拠しつつ、伝統音楽の打令(タリョン)調の朗詠され繰り返される身振りによって、より内省的なピアノ作品へと昇華させた。終わり近くでシューベルト《影法師 D957》(1828)、グレゴリオ聖歌《怒りの日》、尹龍河(1922-1965)光復節歌》(1949)が引用される。(李聖賢)


c0050810_08062798.jpg李聖賢(イ・ソンヒョン) Sunghyun Lee, composer
  1995年ソウル生まれ。2009年~2017年、ソウル市響「アルス・ノヴァ」講習会にて陳銀淑(チン・ウンスク)に師事。ソウル大学音楽学部で崔宇晸(チェ・ウジョン)に師事。ジュネーヴ国際コンクール第3位(3つの特別賞、2015)、音楽ジャーナルコンクール第1位(主催/音楽ジャーナル社)、韓国音楽協会コンクール第2位(1位なし)(主催/韓国音楽協会)、中央音楽コンクール第1位(主催/中央日報)、2016年韓国音楽賞新人賞(主催/韓国音楽協会)。作品は、フリクション四重奏団(サンフランシスコ、2013)、ヴォーチェ四重奏団(パリ、2015)、シャルフェルト・アンサンブル(グラーツ、2017)、ミザン・アンサンブル(ニューヨーク、2018)等によって演奏されている。


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●M.グルリット(1890-1972):信時潔「海ゆかば」による変奏曲
c0050810_15550835.jpg  マンフレート・グルリット(1890-1972)はベルリン生まれの作曲家・指揮者。ピアノ初学者向けの小品で名高いコルネリウス・グルリットは大叔父にあたる。同地にてE.フンパーディンクに作曲を学ぶ。1914年、ブレーメン歌劇場首席指揮者に就任。1920年、平家物語「祗王」に基づく最初の歌劇《聖女》初演。1924年同歌劇場総監督(27年まで)。1926年歌劇《ヴォツェック》初演(ベルクの同名作の4ヵ月後)。同《兵士たち》(1930)、《ナナ》(1932)等創作活動に邁進しながら、ナチスとの軋轢を経て1939年に日本に亡命。東京フィル初代常任指揮者(1940-1945)他を歴任。グルリットにより日本初演が行われた作品は、R.シュトラウス《ばらの騎士》(1957)、同《サロメ》(1962)、モーツァルト《魔笛》(1953)、同《後宮からの誘拐》(1956)、マスネ《ウェルテル》(1955)、ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(1960)、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》(1949)等、多数に及ぶ。ドイツ連邦共和国功労勲章(1958)、ザルツブルク国際モーツァルト協会賞(1959)、勲四等旭日章(1959)他受章。
c0050810_15552858.jpg  信時潔(1887-1965)作曲の国民唱歌《海ゆかば》(1937)による20の変奏曲は、1944年5月に作曲され、四管編成管弦楽版がグルリット指揮東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)によって放送初演された(1944年10月22日/第一部、1945年2月5日/第二部・第三部)。作品名は「Nobutoki-Variationen」から後に「20 Orchesterstücke」へと改名された。そのピアノ独奏版は、今回の演奏が作曲から75年目にして初の全曲世界初演となる。グルリットによる作曲中の試演を聴いた信時潔の感想は、「Gur[litt]氏は別段東洋的たるを企図せず、欧州人的に作れる由なり、大衆 否音楽者を含めて聴者の理解気に入る入らぬを顧慮せずオカマヒ無しに作れるらしきこと愉快なり」。



●松平頼則:盤渉調音取(1988) + 盤渉調越天楽による主題と変奏(1951/1983)
c0050810_07320609.jpg  盤渉調音取は雅楽の演奏会で、その日に演奏される6調子の中の或調子―例えば盤渉調の曲ばかり演奏する場合、昔は各楽器に調べのために短い断片を演奏していたのが、次第に或る一定の短い形式となって(各調はそれぞれ、その形は異なる)所属調の雰囲気を喚起するような役目をになっている。
  このピアノのための盤渉調音取は雅楽の原曲を殆どそのままピアノに移したもので最後の所だけ箏の連(れん)という奏法を採り入れてある。
  盤渉調「越天楽」の原曲はピアノと管弦楽のための作品で1951年作曲、1952年ザルツブルクのS.I.M.Cの音楽祭で初演、同年カラヤンの指揮によりウィーンで再演、1953年カラヤンの初来日の際、同氏指揮N響定期で東京初演、その後山田一雄指揮、高良芳枝のピアノで十回東京で演奏されている。外国では初演及び再演の後イボンヌ・ロリオがドイツその他で数回演奏、ローマのピアニストがローマでも演奏している。
  1981年佐々木弥栄子さんからの委嘱でピアノ・ソロに編曲、翌年彼女のリサイタルで初演、彼女はその後私の新古典派時代の作品展と彼女との共同企画によるピアノ曲作品による個展で演奏している。猶ほ第6変奏曲には彼女の編曲した部分がある。
  曲は主題と6つの変奏曲そして主題の再現となっている。〔主題:A + A' + B + A + A' + coda〕
  変奏曲 Ⅰ: 華麗な装飾楽句のちりばめられたピアニスティックな曲。
  変奏曲 Ⅱ: 低音部と中音部と高音部がそれぞれ異る調性(又は旋法)によって対立、中間部の笙の和音(合竹)のアルペヂオの中に主題の影が散見する。
  変奏曲 Ⅲ: 私が初めて試みた12音技法にもとずいている。
  変奏曲 Ⅳ: 「無言歌」という副題をもつ最も旋律的で静謐な曲。
  変奏曲 Ⅴ: 当時巷に溢れていたブギ・ウギ(ジャズの一種)のリズムによっている。
  変奏曲 Ⅵ: 左右の腕の交錯する肉体的運動によるトッカータ・メカニコ、その中間部は演奏者自身の発想による6連音符によって飾られている。
  Coda : 変奏曲Ⅵのクライマックスが過ぎると直ちに主題の再現となり、“連(れん)”という箏の奏法を模し乍ら静かに終る。(1991年1月10日 松平頼則)



●黛敏郎:〈Hors-d'œuvre オール・デウーヴル〉(1947)
c0050810_07324584.jpg  1947年、東京音楽学校在学中の作品である。当時、私は、ジャズに非常な興味を持ち、学校には内緒で、ジャズ・バンドのピアノを弾いていた。そのジャズ・バンドが現在“ブルー・コーツ”と云つているバンドの前身であつたが……。
  この作品は、そうしたジャズの溌剌たる躍動感、生命力に溢れたヴァイタリティを、純音楽的に表現しようと試みたものである。
  第1楽章は、短いイントロダクションとブーギー・ウーギー――これはニグロのラグ・タイムに源を発する1940年代にアメリカで流行したジャズのリズムで、低音部の8分音符の動きが特徴である。『東京ブギ・ウギ』という歌謡曲が一世を風靡したのは、私のこの作品が書かれてから約1年後のことだつた。
  第2楽章はルンバ。この曲は後に、オーケストレーションされ、“シンフォニック・ムード”として発表された。
  なお、この作品は、作曲者の自演によって東京音楽学校の演奏会で初演されたほか、公開されていない。(1957年5月 黛敏郎)
  〔音楽之友社編集註 “オール・デウーヴル”は、今日では日本語化されてしまつて、“オードブル”などと云われている。これは料理の“前菜”のことである。(1957年)〕


●松下眞一:可測な時間と位相的時間(1957/60)
c0050810_07322207.jpg  この曲は、1957年夏に初稿が、そして1959年春に改訂が出来上がったが、作曲者の意志によって1960年にふたたび手が加えられ、それが現在の形になった。そして
  国内初演 1959年3月31日(大阪) 演奏者; 横井和子
  国外初演 1965年10月11日(ベルリン) 演奏者; ヘルムート・ロロフ
  初演者の横井さんは何度かこの曲を演奏および放送されており、したがって曲の終りには「ヨコイ」の文字が音符でもって表され(ベルクの“音名象徴”とも言うべきであろうか)、曲自身も彼女も献呈されている。と言っても、ほかの誰がひいても勿論構わないわけで、その際は、そんな“音形象徴”など見逃してひいていただいても音楽的には少しも差しつかえないのである。
  ラジカルな生命感が強調されている部分(すなわち可測な部分)と、在来のビートの観念に支配されない部分(位相的な部分)とから成っていて、この曲での作曲者の主要課題は、ピアノと言う楽器を通しての“音楽時間”の問題への挑戦であった。(松下眞一)



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大政翼賛と万博の間 - 戦後作曲家の同人会とは何だったのか?―――白石知雄

「日本の作曲家たちが得たのは、好きなように作品を書き、それを好きな時に自分たちの資金と手間で発表する権利になるだろう。[…中略…]戦後、作品発表を目的とする作曲家たちの自主的なグループが次々と生まれるが、その理由はつまりそのへんにあったと言える。」(片山杜秀「戦前・戦中・戦後 -- その連続と不連続 1945-1951」佐野光司他編『日本戦後音楽史』上、平凡社、2007年、86頁)

c0050810_07535463.jpg  大日本帝国の大政翼賛を強いられた作曲家たちは、敗戦後に芸術音楽の再建・復興に取り組んだ。セリエリズムに代表される国際的で合理的な創作技法(世界標準の「ゲームの規則」)に準拠した前衛・実験音楽は、戦後立憲民主主義ニッポンの音楽芸術におけるシンボルだったとひとまず言うことができるのだろう。
  音楽における「戦後」は、敗戦の1945年から、復興・成長の総仕上げとして日本万国博覧会に前衛・実験音楽が再び「総動員」される1970年までの四半世紀25年と考えるのがわかりやすい。
  片山杜秀が指摘するように、この復興・成長の四半世紀は作曲家同人会の時代でもあった。大政(=国家)礼賛へのアンチとしての、個人の自由意志による作曲家の連帯・グループ活動である。橋本國彦は東京音楽学校教授、マンフレート・グルリットは同校講師にして藤原歌劇団常任指揮者の肩書きを背負ったが、黛敏郎といえば團伊玖磨、芥川也寸志との「三人の会」、入野義朗は第1回毎日音楽賞を得た柴田南雄らの「新声会」、松平頼則は戦前からの「新作曲派協会」、松下眞一はやや遅れて大阪で「現代音楽研究所」や「えらん」名義のグループ作品発表会を開いた。
  そして1970年大阪万博が戦後の終わりに見えるのは、彼らが個人/同人の趣旨とは別次元の「構造と力」(という名の本を1983年に書いた浅田彰は丹下健三の腹心というべき都市プランナー浅田孝の甥なわけだが)によって、再び国家(ならびに協賛企業)の巨大プロジェクトに組み込まれたからである。
  どうしてこうなったのか?


●同人会の世俗性

c0050810_07552761.jpg  同人活動は、個人の自由意志によるが、俗世から浮いた無重力空間ではない(無調・セリー音楽は無重力な宇宙というSF的なイメージと親和しがちだが)。
  レイボヴィッツ『シェーンベルクとその楽派』をサイゴン(現ホーチミン)で入手して入野や柴田とむさぼり読んだ戸田邦雄は外務官僚だったのだから、十二音技法の日本上陸は国家外交の副産物。非転向の十二音主義者、入野義朗が(短命に終わった本家シェーンベルクの「私的演奏会」と違って)長く同人活動を維持できたのは、彼が経済学部出身で財務に長けていたのと無関係ではないだろう。同人会は公権力の外部というより隙間に花開き、手弁当ゆえに、地味だが膨大で、決して効率的とは言えない雑務を発生させる。
  そして戦後はマス・メディアの時代だった。オーケストラを雇って華やかだった團・黛・芥川の「3人の会」は、それぞれが映画の仕事で滞在していた京都の旅館で結成されたと伝えられる。ケルンのシュトックハウゼンと同じく日本の電子音楽はラジオ放送で発表されたが、柴田南雄や芥川也寸志は音楽番組の有能なパーソナリティでもあった。黛敏郎はテレビ番組「題名のない音楽会」で和製バーンスタイン(ニューヨーク・フィル/CBSの「ヤング・ピープルズ・コンサーツ」におけるような)を演じ、柴田はのちに放送大学の音楽史初代教授に就任する。
  「日本前衛音楽のウッドストック」というべき20世紀音楽研究所の軽井沢での現代音楽祭(1957-1959)には、このように俗世の才に長けた人材が集まっていた。「記録魔」柴田の自伝『わが音楽わが人生』(岩波書店、1995年)に詳しいが、人脈を頼ってNHKやドイツ大使館等の協力を取り付けて、第2回音楽祭(1958)では音楽之友社協賛の作曲コンクールが開催された。かつて大政翼賛のメディアだった放送局、出版統制下で生まれた国策出版社が新時代の旗振り役を演じたわけだ。

c0050810_07572194.jpg  音楽之友社は1959年から1973年まで『音楽芸術』別冊として『日本の作曲』という年鑑を出し、当初は柴田と吉田が編集人に名を連ねた。そして『音楽芸術』自体が1960年から大判横書きの判型に変わる。2000年代にオタク文化が出版物のデザインを一変させたように、作曲家たちの同人活動は1960年代「文化の最前線」として晴れやかな表舞台に出た。(『音楽芸術』の判型はわずか3年で元に戻るのだけれど。)
  作曲コンクールで順位なしの入選、音楽之友社賞を得たのが武満徹(「ソン・カリグラフィ」)と松下眞一(「八人の奏者のための室内コンポジション」)である。やり手の同人たちとはやや距離のあった2人は、その後、前衛運動を広い文脈に開く役割を果たすことになる。
  「実験工房」で詩人や美術家とつきあっていた武満はメディア・ミックスに強い、彼が手がけた映画を通じて、不定形のサウンドを切り裂く邦楽器の一打一吹きが「現代日本の音」としてブランディングされる経緯は今さら詳述するまでもないだろう。
 一方、松下眞一は関西、大阪北部の丘陵地帯、茨木在住の数学者。第4回現代音楽祭(1961)が大阪、第5回(1963)が京都で開かれたのは、松下の地元というより別の事情によるが、松下は東京の作曲家たちの動きに対抗しつつ「ワルシャワの秋」(1956-)の向こうを張る意気込みで、現代音楽祭がなかった1962年に「大阪の秋」国際現代音楽祭なるものを開催した。(ちなみに「可測な時間と位相的時間」を1959年に初演した「現代音楽研究所」は計4回公演した関西の団体で、発足時は大栗裕や評論家の上野晃、指揮者の岩城宏之らが同人に名を連ねた。団体名はこれも「20世紀音楽研究所」のモジリだろう。)「大阪の秋」は、大阪フィルの経営母体、関西交響楽協会が主催を引き継ぎ、1963年に第1回のカウントで再出発して1973年まで続いた。
  ただし結局のところ、武満や松下にとって、国内の同人活動は海外へ出るための通過点に過ぎなかったかに見える。武満は当時バーンスタインのもとにいた小澤征爾の推薦を得て、ニューヨーク・フィルハーモニック125周年記念委嘱作として書いた「ノヴェンバー・ステップス」(1967)以後、海外の仕事が増える。数学論文が物理学者パスカル・ヨルダンの目にとまり、松下は1965年ハンブルク大学客員研究員となりドイツに拠点を得る。1970年万博の開催地は奇しくも松下の生まれ故郷の茨木から吹田にまたがる千里丘陵だが、彼が期間中の内外作曲家のシンポジウムに呼ばれたのは、地元代表というより、ヨーロッパ事情に詳しい国際派としてであった。


●万博、「普通の国」へ

c0050810_07584521.jpg  そして1970年日本万国博覧会である。
  堺屋太一のアイデアとされる「プロデューサー・システム」で、作曲家たち(実は案外世辞に長けた)が「一本釣り」される。京大人文研の中堅学者たちがイベントの立案実働部隊として動き、跡地の一角、西ベルリンのフィルハーモニー周辺を思わせる広大な造成地にダーレム博物館風の国立民族学博物館が建ち、梅棹忠夫が館長になった。
  三波春夫が「こんにちは、世界の国から」と歌った万博は、ヨーロッパもアメリカもアジアも、西も東も北半球も南半球も、経済大国も新興AA諸国も、あらゆる国(と企業)を横並びで参加させるフラットな世界像(「丸い(=global)」地球像)を実感させるイベントであり、文化人類学時代の到来を印象づけたと言えるだろう。科学的客観性(実態はフランシス・ベーコン流の比較と計量)に固執していた柴田南雄は1970年代のシアターピースで「農村」を発見して、民間フランス派の武満徹は1980年代に「海」「水」「島」(日本の人類学は南洋に強い!)を発想の拠り所にする。かつて都会の一室で日々顔を付き合わせていた同人たちが、山や海で身心を癒やす中高年になった。
  世界規模で見れば、「戦後」と呼ばれる25年は、1930年代にはじまる金本位制ブロック経済/鉄鋼と石炭・石油の重工業/映画・放送等のニューメディアがタッグを組んだ大衆動員の時代から、1970年代以後のブレトンウッズ体制による信用通貨/半導体産業/情報ネットワーク・システムで世界がフラットにつながるグローバルでパーソナルな時代への過渡期だった。日本の戦後作曲家たちの振る舞い、時代の各局面における行動・選択は、偉大なアートに期待される冒険・挑戦・投企というより、事態の推移へのドメスティックな反応の集積に見える。未來への旅というより、直近の対処に追われる日々。同人活動と切っても切れない無数のやりくり、そこで鍛えられた終わりなき日常のエートスこそが、当時さかんに言われた「コンテンポラリー/同時代性」の正体ではなかったか。
  こうして日本は、「帝国」から「普通の国」へと軟着陸した。


●「つながり」の日本前衛音楽史?

c0050810_07593853.jpg  携帯通信器機によるSNSが急速に普及した2000年代には、歴史学が社会学化して、国家や企業と個人の中間、テンニース流に言えば機能集団(Gesellschaft)でも血縁集団(Gemeinschaft)でもない社交(「つながり」)の意義が様々に検証・称揚された。ひょっとすると、労音の盛衰を追う長崎励朗『「つながり」の戦後文化誌』(河出書房新社、2013年)の姉妹編として、作曲家同人会をめぐる「つながりの日本前衛音楽史」が書かれていいのかもしれない。
  高潔なアヴァンギャルドを俗世に引きずりおろすと、往年の諸先輩から不謹慎だと怒られてしまうだろうか?
  万博の年に5歳で大阪に越して来た私よりも若い世代の音楽学者は、第33回京都賞を得たリチャード・タラスキン (Oxford History of Western Music, 2010) など北米の「新しい音楽学 New Musicology」(カルチュラル・スタディーズ、ポスト植民地主義と軌を一にするニュー・レフト)を見習って、音楽史のあらゆる領域を日常のコモン・センスで語り直す作業を着々と進めているように見えるのだけれど。



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【関連記事リンク】
●白石知雄 松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて(2010年1月) https://ooipiano.exblog.jp/13519884/
●白石知雄 松下眞一歿後20周年追悼演奏会を聴いて(2010年3月) http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20100227/p1
●白石知雄 松下眞一の肖像(2010年9月) https://ooipiano.exblog.jp/15145179/
●松井卓 数学者としての松下眞一  http://ooipiano.exblog.jp/13734324/
●野々村禎彦 日本の戦後前衛第一世代について  https://ooipiano.exblog.jp/19277696/
●石塚潤一 松平頼則が遺したもの  http://ooipiano.exblog.jp/15280570/
●石塚潤一 松平頼則「美しい日本」について http://ooipiano.exblog.jp/15304150/
●西田博至 一柳慧のピアノ音楽から(その1) https://ooipiano.exblog.jp/25169504/
●伊藤謙一郎 韓国作曲界の「河」の流れ  https://ooipiano.exblog.jp/17209183/


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【関連作品の演奏動画】
■R.シュトラウス(1864-1949):《メタモルフォーゼン》(1945/2017)(米沢典剛によるピアノ独奏版)https://youtu.be/narUgmlcnD4
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902) https://youtu.be/IDIWRZPTtro
■山田耕筰(1886-1965):《御大典奉祝前奏曲 ~「君が代」を主題とせる》1915/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版)https://youtu.be/fbn5gCN0imk
■H.ビュッセル(1872-1973):《日本の歌による即興曲(君が代)Op.58》(1915) https://youtu.be/QSB3i-UpDRg
■河村光陽(1897-1946):《君が代踊り》(1941) https://youtu.be/qMVos6KSO-o
■小弥信一郎(1950- ):《君が代ジャズ風》(1979) https://youtu.be/6YgKq2-J4pA(※勤務先の高校卒業式で演奏して分限免職処分)
■冬木透(蒔田尚昊)(1935- ):《君が代パラフレーズ》(1880/2007) https://youtu.be/UQU4G5mYXMI
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■松下眞一(1922-1990):《スペクトラ第4番》(1971) https://www.youtube.com/watch?v=Z9jdxLpcK7Q
■松平頼則(1907-2001): 組曲《美しい日本》(1969)より第1曲「前奏曲」・第2曲「朗詠的な幻想(七夕)」・第3曲「わらべ唄(手まり唄)https://www.youtube.com/watch?v=a4WMVhE1Dw8
同:第4曲「草刈り唄」・第5曲「平曲のパラフレーズ(横笛)」・第6曲「箏曲風の終曲(茶音頭)」 https://www.youtube.com/watch?v=8YNwJwFLa18
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■武満徹(1930-1996):《二つのメロディ》(1948) https://youtu.be/kL77G__Ha98
同:《二つの作品》(1949) https://youtu.be/FNQBXlSWw-w
同:《二つのレント》(1950) https://www.youtube.com/watch?v=H8fpdTCaRd0
■黛敏郎(1929-1997):《スポーツ行進曲》(1953)  https://youtu.be/THTIXCqCOz8
同:《「天地創造」のテーマ》(1966)  https://youtu.be/GiAiInq-LR4
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■姜碩煕(カン・スキ)(1934- ):《ゲット・バック》(1989)  https://youtu.be/RaoI6rrEY58
■陳銀淑(1961- ): 《ピアノのためのエチュード集 第2番「連鎖」・第3番「自由なスケルツォ」・第4番「音階」(オリジナル版)》(1994) https://www.youtube.com/watch?v=FmUIdRBlc5A
■西村朗(1953- ): 《アリラン幻想曲》(2002) https://www.youtube.com/watch?v=Bn2QpbdGS3Q




by ooi_piano | 2019-10-11 15:20 | POC2019 | Comments(0)

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大井浩明ピアノリサイタル
《盤涉(ばんしき)の調(しらべ)にのせて In Moll besingend》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分 ( GoogleMap https://bit.ly/2FdmuZP )
各回 3000円(全自由席)
【お問い合わせ】松山庵 banshiki2019@hotmail.com (要予約)
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)


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【第1回】 2019年7月6日(土) 15時開演(14時45分開場)
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R.シューマン(1810-1856)  ピアノソナタ全3曲
   I. Un poco Adagio - Allegro vivace - II. Senza passione, ma espressivo - III. Scherzo e Intermezzo - IV. Allegro und poco maestoso
   I. So rasch wie möglich - II. Andantino. Getragen - III. Scherzo. Sehr rasch und markiert - IV. Passionato
   I. Allegro brillante - II. Scherzo Primo. Vivacissimo - III. <Promenade> Scherzo Secondo / Intermezzo. Molto commodo - IV. Quasi variazioni. Andantino de Clara Wieck(主題と6つの変奏) - V. Prestissimo possibile
  [使用エディション:新シューマン全集版(2012/2018)]


【第2回公演】2019年7月20日(土) 15時開演(14時45分開場)
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●A.スクリャービン(1872-1915):
   I. Andante - II. Presto
   I. Drammatico - II. Allegretto - III. Andante - IV. Presto con fuoco /Maestoso

●T.ミュライユ(1947- ):《水に映える礫(つぶて)》(2018、日本初演)

   I. Andante - II. Prestissimo volando

(休憩15分)

●A.スクリャービン ピアノソナタ第5番 Op.57 (1907)
  [以上、使用エディション:Bärenreiter新訂版(2013)]

●S.ラフマニノフ(1873-1943):
  I.Allegro agitato - II. Non allegro /Lento - III. Allegro molto
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Ich weiß ―― ロベルト・シューマンはクララに歌った   山村雅治

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 ロベルト・シューマン(1810-1856)は18歳になる1828年、9歳の少女クララ・ヴィーク(1819-1896)のピアノ演奏を聴いて衝撃を受けた。フンメルの三重奏曲のピアノパートを見事に弾いた彼女は、名高いピアノ教師フリートリヒ・ヴィークの娘だった。
 このときシューマンは故郷のツヴィカウから出てきてライプツィヒ大学法科に入学したばかりで、しかも音楽家としては出遅れていた。同年からヴィークに師事して2年がたち、1930年。その年にはすでにショパンはピアニストとして作曲家として新しい星として仰がれていた。一歳年少のリストがパリの社交界の偶像になっていたとき、シューマンはようやくライプツィヒからハイデルベルクの大学生活に別れを告げて音楽に打ち込んだ。 

 音楽家として立つ決意を固めるためには大きな迂回が必要だった。子供のころからの音楽の天才児ではなかったロベルトは書籍商アウグスト・シューマンの息子であり、本に囲まれて成長した。文学には早熟だった。ギムナジウムへ進む前からギリシア語、ラテン語、フランス語を学びはじめ、入学後の10歳代前半には詩の創作を試みているほどだ。バイロン、シラー、ジャン・パウル、E.T.A.ホフマンなどを耽読した。
 『詩と音楽』は17歳のときの詩だ。ここにシューマンが終生にわたって追求したテーマが簡潔に語られていた。「詩の韻律の器をやさしく そよかぜの拍子がゆらすとき 音と音、ことばとことばが競い 音は感じ、詩句は息づき ついにやさしくひとつの調和に ふたつの芸術が誠実に愛に満ちて抱きあうのだ」。

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 1830年、作品1『アベッグ変奏曲』から1939年の作品28『3つのロマンス』にいたるまで、彼はピアノ独奏曲ばかりを書いていた。そして執筆活動に力を注いでいた。
 シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809 - 1849)を紹介する論文を投稿した。そして当時の音楽批評に不満を感じていた。1833年に準備を始めて翌1834年に刊行した音楽紙「音楽新報」の執筆者たちのなかにもフロレスタンとオイゼビウスがいる。彼の二人の分身だけではなくラロー楽長という名に変わったとされるヴィーク先生、キアリーナに変わったクララもそのなかにいる。
 シューマンは「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」と語っている。自分のなかに対照的な二人の人物がいる。シューマンにはジャン・パウルの小説からの影響が深く根を下ろしていたようだ。「対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだ」とも語っていた。

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 ピアノソナタ第1番 嬰ヘ短調 作品11の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。作品5『クララ・ヴィークの主題による即興曲』、作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』についで書かれた作品9『謝肉祭』にもフロレスタン、オイゼヴィウス、クララは登場した。しかしこの年1834年はシューマンにとってはヴィーク家に住み込みの弟子になったエルネスティーネ・フォン・フリッケンに首ったけになり婚約して婚約を解消した。それまでは兄と妹のような関係だったクララは成長し、翌1835年にシューマンは求愛した。1837年に互いに結婚の意志を確かめあう仲になった。その年に完成した作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』は重要な作品だ。ダヴィッド同盟はシューマンの空想と現実が織りまぜられた音楽の革命をめざす多様な人間の集団であり、この曲の主役はシューマン自身の二人の分身であるフロレスタンとオイゼヴィウスだ。フロレスタンは現実に生きて前へと進む勇者であり、オイゼヴィウスは深みへ沈み黙考する瞑想者。

 しかしながらロベルトとクララの結婚へ至るまでには大きな困難を乗り越えなければならなかった。クララの父、ヴィークが執拗に妨害したのだ。ロベルトとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移らせシューマンから遠ざけた。シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵言雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視のもとに置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会えば罵り、顔につばを吐きかけた。ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。
 ソナタ第1番第2楽章アリアには旧作の歌曲『アンナに寄す』があらわれる。ケルナーの詩には「ぼくはきみをおもう、かわいいひとよ」の一行がある。そして第3楽章と第4楽章には明らかに自分の意志をうたう「ファンダンゴ」が変転しながら繰りかえされている。

 クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。その後もすったもんだが繰りかえされて、やっとのことで1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下された。9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。

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 ロベルト・シューマンは少年時代には読書家だった。愛し、のめりこんだのはジャン・パウル、E.T.A.ホフマン、バイロンなど狂気をはらんだ作品を書いた作家や詩人であり、当時のノートには狂気への憧れを記した言葉もある。いまや、かつてあこがれた狂気が大波のように容赦なく襲いかかってくる。彼が驚くべき音楽家だったのは、こうした晩年にあっても作品の姿は支離滅裂ではなく、むしろ大きな構築力が必要な大作を書き続けたことだ。17歳の12月の日記には詩的な創作について「なにごとにも縛られず自由に動く資質を持つ人は、もっとすばらしく詩作していた。そこに理論がなかったからだ」と書いた彼は、まさに初期のピアノ曲に少年時に抱いた理想を実現させていた。
 1840年は「歌の年」。クララとの結婚を機にシューマンは歌曲を次々と書き、120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。それまで書いていたピアノ曲は姿を消した。「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」としたシューマンはこの年、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と宣言した。1840年3月から7月にかけて二つの『リーダークライス』(作品24と作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)を書きあげたことには驚嘆を禁じ得ない。
 歌曲はクララとの結婚の1840年「歌の年」以来、ほぼその後の生涯にわたってつくられた。音楽をつくりだす少年の時間には、すでに本を読み魅入られた言葉が全身に渦巻いていた。1839年までの『ピアノ・ソナタ』3曲を含む名作ぞろいのピアノ独奏曲には言葉を音に結びつけて時空に放った「詩」があった。「歌の年」から歌われた作品には、暗誦できるほどのおびただしい数の詩人の言葉があった。どれもシューマンの感性に合う精選された詩だった。

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 ピアノソナタ第3番 ヘ短調作品14は、「第1番」に先立ち1835年に完成されていた。ロベルトはしばしばクララが書いた旋律を自作のなかに引用した。すでに1833年の『クララ・ヴィークの<ロマンス>による即興曲集』に自作を作る重要な音楽の素材としてつかっていた。のちにも枚挙のいとまもないほどだが「ソナタ第3番」の第3楽章には隠れもなく「クララ・ヴィークのアンダンティーノによる変奏曲」と記されている。全体の構成については変転がある。1836年9月に出版された時のタイトルは『管弦楽のない協奏曲』(Concert sans orchestre)であって、1853年10月にスケルツォが挿入され、大幅な改訂が施された際に、『ピアノソナタ第3番』(原題は『大ソナタ』 Große Sonate - 『グランドソナタ』)になった。いずれにせよ「クララの主題による変奏曲」は中心にある楽章だ。単純な旋律にこめられた音楽は意外に深い。青春のときめきの初々しさを表すことができれば、葬送行進曲の響きがきこえたこともある。
 ピアノソナタ第2番 ト短調 作品22は、1833年に着手して1838年に完成し、翌1839年に出版された労作だ。「第1番」と同じく、快速な第1楽章―緩徐楽章―スケルツォ楽章―急速な終楽章。第2楽章は作品1『アベッグ変奏曲』(1829‐30)より前につくられた1828年の歌曲『秋に』(Im Herbste、ユスティヌス・ケルナー詞) が素材になっている。ここにもクララへの思いが語られていなかったはずがない。




アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

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  ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951) とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
  1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
  ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

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  スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。

  スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。

「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

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  もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年、森松晧子氏による訳が2014年に出ている)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。

  サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家であるある。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60」を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

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  一方でサバネーエフはピアニストとしてのスクリャービンがいかに卓越した演奏技術をもっていたかを絶賛している。とくにそのペダリングによる音色の変化は彼独自のもので、弾きだされた音の響きは即興性も含めて変幻していった。スクリャービンは、「ラフマーニノフの弾く音はマテリアーリヌィ、即物的・唯物的なものに過ぎず、打鍵のあとの音色の変化で人を酔わすところがない。そういうピアニストにとってペダルは単なる足の乗せ場でしかない。」と批判した。しかしスクリャービンはそれがペダリングという技術によるものではなく、自分から発せられるアストラル(「星幽」とも訳される一種のオカルト用語)が響きに作用するのだと思いこんでいたので、サバネーエフはそれ以上にマトモな話を展開できなかったという。(20世紀末には、オウム真理教が「アストラル音楽」なるものを考案している。)スクリャービンのピアノ演奏の音色の変化は絶妙であったが、音量は当時のラフマーニノフ他ロシア・ピアニズムの代表者たちに比べると小さく、鋼鉄の楽器をホール一杯に響かせるというものではなかった。彼の作風が大きく変化する時期の代表的な作品であるピアノ・ソナタ第5番 作品53(1907年)は、なぜか交響曲第3番と第4番「法悦の詩」のモスクワ初演演奏会で2作品の合間に作曲家によって披露されたのだが、あまりにデリケートな音量であったため、聴衆には印象が薄く、曲が終わったのか単に作曲家が舞台から姿を消したのかわからなかった、とサバネーエフは回想している。

  「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。
  「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

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  スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
  最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
  二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。

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  ところでヴャチェスラフ・モーロトフ(1890 – 1986)というソ連時代の政治家を覚えておられる方はいるだろうか。彼は本名をヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンといった。モーロトフというのはレーニンやスターリンと同じくペンネームであり、ロシア語の「モーロト(ハンマー)」からとっている。戦中から戦後にかけてスターリンの片腕、ソ連邦外務大臣として活躍した。作曲家のスクリャービンとの直接の血縁関係はないようだが、幼少時にはヴァイオリンを弾き、兄のひとりは作曲家(ニコライ・ノリンスキー、1886 – 1966)であった。スターリンの没後は共産党から除名されたが、1984年に名誉回復がされ、96歳の長寿を全うしている。





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(※)スクリャービン第5ソナタのエピグラフ(自作詩)

Я к жизни призываю вас, скрытые стремленья!
Вы, утонувшие в темных глубинах
Духа творящего, вы, боязливые
Жизни зародыши, вам дерзновенье приношу!

Je vous appelle à la vie, ô forces mystérieuses !
Noyées dans les obscures profondeurs
De l’esprit créateur, craintives
Ébauches de vie, à vous j’apporte l’audace !

吾は爾を生命(いのち)へと喚ぶ
噫、秘鑰の勁(ちから)よ!
造化の靈の朧朧たる深淵(ふかみ)に溺れし
怯懦なる生命の胚子、
爾に吾は驍悍を齎す! (安田毅・訳)






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【艷なる讌樂】
君の心は 奇らかの貴なる風景、
假面假裝の人の群 窈窕として行き通ひ、
竪琴をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪の衣裳の下に 仄仄と心悲しく、

誇りかの戀 意のままのありのすさびを
盤涉の調にのせて 口遊み 口遊めども、
人世の快樂に涵る風情なく
歌の聲 月の光に 入り亂れ、

悲しく美しき月魂の光 和みて、
樹樹に 小鳥の夢まどか、
噴上げの水 恍惚と咽び泣き、
大理石の像の央に 水の煙の姿たをやか。

by ooi_piano | 2019-07-08 22:17 | POC2019 | Comments(0)