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大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第42~第46回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs II》
大井浩明(ピアノ独奏)

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp
チラシpdf




c0050810_04130168.jpg【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)
R.シュトラウス:《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演
しばてつ(1959- ) :《「君が代」逆行形による変奏曲》(2019、委嘱改訂初演)
李聖賢(1995- ):《W.フェントン「君が代」による変容》(2019、委嘱初演
成田為三(1893-1945):《「君が代」変奏曲》(1942)
M.グルリット(1890-1972):《信時潔「海ゆかば」による変奏曲》(1944、全曲による世界初演)
黛敏郎(1929-1997):《オール・デウーヴル》(1947)
松平頼則(1907-2001):《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)
諸井誠(1930-2013):《αとβ》(1954)、《ピアノ曲1956》(1956)
入野義朗(1921-1980):《三つのピアノ曲》(1958)
松下眞一(1922-1990):《可測な時間と位相的時間》(1957/60)



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【ポック(POC)#43】 「ヤナーチェクからの眺望」 2019年11月9日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
間宮芳生(1929- ):ピアノソナタ第2番(1973)
林光(1931-2012):ピアノソナタ第2番「木々について」(1981)
レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928):《ズデンカ変奏曲 Op.1》(1880)、《草かげの小径にて》(1901-08/1911)、ピアノソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」(1905)、《霧の中で》(1912)、弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」(1928/2018)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演


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【ポック(POC)#44】 「スクリャービンの窯変」 2019年12月20日(金)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
山田耕筰(1886-1965):《スクリャービンに捧ぐる曲》(1917)、舞踊詩《青い焔》(1916)
スクリャービン(1871-1915) :ソナタ第7番「白ミサ」Op.64 (1911)、詩的夜想曲 Op.61 (1911/12)、ソナタ第6番 Op.62 (1911/12)、2つの詩曲 Op.63 (1911/12)、3つの練習曲 Op.65 (1912) 、2つの前奏曲 Op.67 (1912/13)、ソナタ第9番「黒ミサ」Op.68 (1912/13)、2つの詩曲 Op.69 (1912/13)、ソナタ第10番「トリル・ソナタ」Op.70 (1913)、ソナタ第8番 Op.66 (1913)、2つの詩曲 Op.71 (1914)、詩曲「焔に向かって」Op.72 (1914)、2つの舞曲 Op.73 (1914)、5つの前奏曲 Op.74 (1914)

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【ポック(POC)#45】 「シマノフスキの讖緯」 2020年1月18日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
若尾裕(1948- ):委嘱新作初演(2019)
李聖賢(1995- ):委嘱新作初演(2020)
カロル・シマノフスキ(1882-1937):《メトープ(浮彫) Op.29》(1915)、《仮面劇 Op.34》(1916)、《ピアノソナタ第3番 Op.36》(1917)、《20のマズルカ集 Op.50》(1924/25)、《2つのマズルカ Op.62》(1933/34)



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【ポック(POC)#46】 「ジョリヴェの蚕蝕」 2020年2月15日(土)18時開演 松涛サロン(渋谷区)
門脇治(1964- ):委嘱新作初演(2019)
前田克治(1970- ) :委嘱新作初演(2020)
アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974):《マナ》(1935)、《五つの儀式的舞踊》(1939)、ピアノソナタ第1番(1945)、ピアノソナタ第2番(1957)
エドガー・ヴァレーズ(1883-1965):《アルカナ》(1927/2018、米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演





POC2019:日本戦後前衛の源流を辿って――野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で9期目。第6期ではヨーロッパ戦後前衛に直結したシェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキーを取り上げたが、日本の戦後前衛への直接的な影響は実は限定的だった。12音技法の学習は柴田南雄、入野義朗らの戦後最初の課題だったが、生まれてきたのは新ウィーン楽派とは似ても似つかない音楽だった。新古典主義を取り入れた作曲家は多いが、ドイツ系ではヒンデミットやオルフ、フランス系では後期ラヴェルや六人組が参照され、ストラヴィンスキーに挑んだ作曲家はいない。バルトークの影響を標榜する作曲家も多いものの民謡素材の導入という入り口の段階に留まり、それを活かすためにヨーロッパ古典音楽の体系の方を組み換える(対象が微分音や噪音ならば前衛語法に直結する)という核心部分には至らなかった。

 むしろ同時代には、スクリャービン(シマノフスキが後期ロマン派風書法から飛躍したのも、スクリャービンの影響が大きい)やジョリヴェ(「若きフランス」の作曲家としては、メシアンよりも断然)の方が、日本作曲界への直接的な影響ははるかに大きかった。またオペラ作曲家として発話旋律の収集を根幹に据えたヤナーチェクのアプローチは、日本語に根ざしたオペラの指標になった。ロシアと東欧、及びフランスでのオリエンタル志向という彼らの立ち位置が、ヨーロッパの中心から見ればさらに辺境にあたる日本の作曲家たちにとっては近づきやすかったことは疑いない。前衛の時代が終わってから欧米では再評価が始まった彼らと日本の作曲家たちの影響関係や照応関係を具体的に見てゆくことが、今年度のテーマである。
 
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 アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915) はモスクワ音楽院でセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943) と同期だった。十度を楽に掴める大きな手と異常に柔軟な指関節を活かし、楽曲の対位法構造を徹底的に抽出してモダニズムを体現したピアニスト=ラフマニノフは、作曲家としては19世紀の語法の革新を必要としなかったが、ピアニストとしては化け物ではなかったスクリャービンはそれでは済まない。《法悦の詩》(1908) 《プロメテ》(1910) で独自の無調書法を編み出し、ようやくライバルの影から解放された。長三度・完全四度・増四度を堆積した「神秘和音」で「無調」のトーンを作り、時間分節は持続音で行う。ダンパーペダルで持続音を作ると和音が混濁するピアノ独奏曲の場合は、アルペジオとトリルで代用する。彼にとって管弦楽の作曲は得意分野ではなく、この2曲以降に完成されたのはすべてこの書法によるピアノ独奏曲だった。その大半が今回網羅的に取り上げられる。

 スクリャービンは音楽史から隔絶された特異な存在だと長年見做されてきた。彼のインスピレーションの源泉は神智学やニーチェの超人思想で、色彩と音響の共幻覚が強調されてきたことも要因のひとつだろう。彼の影響を神秘和音の使用に限定すると、その構成音は全音音階の構成音1個を半音ずらしたものなので、彼の影響は無視して「印象派風」と見做されがちだった(シマノフスキがまさにそうだった)。だが「無調的な構成音と持続音による分節」まで拡大すれば影響圏は一挙に広がる。ロスラヴェッツ、ルリエー、ヴィシネグラツキーらロシア・アヴァンギャルドの作曲家の大半はこの意味では彼の影響下にある。シェルシも12音技法と並行してスクリャービンの弟子からその作曲法を学び、微分音オルガンを使い始めるまでのピアノの即興に基づいた作品群に至った。セリー技法は本質的に筆記的だが、広義のスクリャービン流「無調」は即興音楽における「無調」表現の現実的な処方箋になった。

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 カロル・シマノフスキ(1882-1937) は、当時はロシア支配下のポーランドの貴族の家庭で生まれ育った。親戚のネイガウス家の音楽学校で学び始め、スクリャービンの音楽に初期から親しんでいた。ワルシャワ音楽院に進み、ルービンシュタイン、コハィンスキらと音楽家集団「若きポーランド」を結成する。当時の彼はワーグナーやR.シュトラウスを好み、交響曲第2番(1909-10) やピアノソナタ第2番(1910-11) はまさにそのような音楽だ。1914年に南欧や北アフリカを旅行してオリエントやアラブの音楽を知り、異国の音組織と無調化以降のスクリャービンの音組織の類似性は、後期ロマン派を超える音楽を模索していた彼に啓示を与えた。ピアノ独奏のための《メトープ》(1915) 《仮面劇》(1916)、ヴァイオリンとピアノのための《神話》(1915)、交響曲第3番(1914-16)、ヴァイオリン協奏曲第1番(1916)、ピアノソナタ第3番(1917)、弦楽四重奏曲第1番(1917) などで、彼は一挙にヨーロッパ作曲界の最前線に立った。なかでも《神話》は、バルトークの最も尖鋭的な作品であるヴァイオリンソナタ第1番(1921) に直接的な影響を与えている。

 この充実期は、ロシア革命に際しボリシェヴィキの一団に自宅を襲撃された事件で終わる。そのショックで音楽活動を中断していた彼が活動を再開したのは、第一次世界大戦が終結してポーランドが独立を回復した時だった。しばらくは「若きポーランド」の盟友との海外での活動が中心だったが、ストラヴィンスキー《結婚》に衝撃を受けて民俗音楽に目覚め、1922年からポーランド南端ザコパネに別荘を借り、近代西洋音楽に毒されていない同地の音楽を収集した。充実期の作風を受け継いだオペラ《ロジェ王》(1918-24) 完成後の《20のマズルカ》(1924-25)、《スターバト・マーテル》(1925-26)、弦楽四重奏曲第2番(1927) がこの時期の成果である。ただしフィラデルフィア音楽財団の弦楽四重奏曲コンクールでは入賞を逃し(バルトーク第3番は相手が悪すぎたが、カゼッラ《セレナータ》にも後塵を拝した)、この時期の彼の方向性はもはや同時代にも作曲界の最前線とは見做されていなかった。

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 レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928) は生年で見れば今期最年長だが、音楽的にはむしろバルトークやシマノフスキと同世代と見做せる。生涯の大半をチェコ・モラヴィア州の州都ブルノで過ごし、晩年までヨーロッパのモダニズムの動向とはほぼ無縁だったが、この孤立が唯一無二の音楽を生んだ。彼の音楽歴は修道院で暮らす聖歌隊員として始まり、声楽曲の作曲が終生活動の中心になる。教会オルガニストとしても頭角を現し、1882年にはブルノにオルガン学校を設立して長らく校長を務めた(チェコスロヴァキア独立後の1919年にブルノ音楽院に発展)。また彼はモラヴィア民謡を網羅的に収集・刊行し、チェコ文化の中心地であるボヘミア州の州都プラハでは長らく、「作曲も嗜む民俗音楽学者」という扱いだった。《ズデンカ変奏曲》(1880) などのロマン派風の初期作品の後は、民謡を直接的に用いた作品が続くが、カンタータ《アマールス》(1897) でその段階を離れた。

 民謡研究を進める中で、言葉が内包する「発話旋律」こそが民謡の起源だと考えるに至った彼はその収集も始め、オペラ《イェヌーファ》(1894-1903) から作曲に応用した。ただし発話旋律の収集はそれを直接引用するためではなく、既存の旋律に引きずられないためのガイドだった。彼の旋律はテキストと不可分で、望ましい旋律を得るためにしばしばテキストの方を変更していた。今回の曲目の中核となるピアノ曲集《草陰の小径にて》(1901-08/11)《1905年10月1日》(1905)《霧の中で》(1912) は、独自語法を見出しても世間では正当に評価されない、鬱々とした日々の中で書き溜められた。単純な動機の執拗な反復と唐突な転換、全く異質な要素の重ね合わせと結果的に生じる斬新な和声。動機の有機的な展開と対位法的な構成を良しとする伝統的な価値観(たとえ技法的には「前衛」であっても)に立てば、同時代には素朴なローカル作曲家として片付けられていたのもやむを得ない。

 第一次世界大戦の趨勢と共に独立への期待が高まった1916年、《イェヌーファ》はようやくプラハで上演されて大成功を収め、翌年には40歳近く年下の人妻カミラ・シュテスロヴァと出会って一方的な恋愛感情を抱いた。このように公私とも充実した最晩年の十余年が彼の「傑作の森」になった。今回は最後の完成作、弦楽四重奏第2番《内緒の手紙》(1928) のピアノ独奏版が取り上げられる。彼が本格的に評価されたのは1950年代以降、まずマッケラスの尽力で「ブリテンと並ぶオペラ作曲家」という位置付けで英国で受容された。さらに1980年代以降、ポストミニマルやスペクトル楽派第二世代以降の潮流が「新しい調性」に向かう中、そこで議論されていた「新しさ」は彼が既にはるかに高い水準で達成していたことが再発見されてゆく。モダニズムの歴史は無調とその組織化及び特殊奏法の探求にほぼ特化していたわけだが、それが相対化された時、ヤナーチェクの真価が明らかになった。

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 アンドレ・ジョリヴェ(1905-74) は師エドガー・ヴァレーズ(1883-1965) からオリヴィエ・メシアン(1908-92) を経てモーリス・オアナ(1913-92) まで続く、エキゾティックな音楽に強いインスピレーションを受けたフランス近代の作曲家の列に連なる。作曲家集団「若きフランス」結成に際してメシアンが在野の作曲家ジョリヴェに声をかけたのは、ヴァレーズ譲りの無調書法が反新古典主義を旗印にしたグループの理念に合致していたからだが、早くから電子音響を夢想していたヴァレーズ、インド音楽の旋法やリズムを科学的に分析したメシアン、セリー主義へのアンチテーゼとして地中海の民俗音楽を創造的に用いたオアナと比べると、ジョリヴェの姿勢は典型的なエキゾティシズムに留まっていたことは否定できない。

 《マナ》(1935)、《5つの呪文》(1936)、《5つの儀礼的舞踏》(1939) などの生気に満ちた作品群から出発した彼は、《兵士の3つの嘆き》(1940) で調性回帰し、ピアノソナタ第1番(1945) の頃にはすっかり保守的な精神の持ち主になっていた。80年代は「クセナキスの唯一の弟子」にふさわしい輝きを見せていたデュサパンの90年代以降の変節を例に挙げるまでもなく、「在野の改革派」がいったん名声を確立すると保守派以上に保守的になってしまうのはフランス作曲界の宿痾なのだろう。ただし、マッカーシズムに葬られたニューディール左派の理想主義が日本国憲法に残されたように、《赤道協奏曲》(1950) の悪名の前に忘れられたジョリヴェ初期の輝きは、日本の現代音楽草創期の作品群に残されていた。

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 このような認識を踏まえて日本の作曲家の曲目は選ばれた。スクリャービンの影響を直接的に受けた山田耕筰の2曲を本家と聴き比べ、合唱曲やオペラを通じて日本語の話し言葉に正面から対峙した間宮芳生林光の代表作にヤナーチェクの精神を確認し、ジョリヴェ受容の諸相を日本の現代音楽草創期の作品群に探す。初期ジョリヴェの影響を最も強く受けたのは湯浅譲二福島和夫だが、このリストには黛敏郎も含まれる(彼の場合はその後の顛末も含めてだろうが)。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951) は、フランス新古典主義(モデルは主にプーランク)から雅楽のフィルターを介した戦後前衛に乗り換える瞬間に現れた、創作史の特異点という位置付けだが、雅楽の素材をエキゾティシズムの対象として扱って多様式を繋ぐハブにするという発想には、同時代の「ジョリヴェ的なもの」も無関係ではないだろう(その影は石井眞木やその後の世代まで伸びている)。この文脈では、諸井誠・入野義朗・松下眞一の初期作品は解毒剤として並んでいることになりそうだが、併せて聴くことで見えてくるものもあるはずだ。


by ooi_piano | 2019-07-26 02:12 | POC2019 | Comments(0)

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大井浩明ピアノリサイタル
《盤涉(ばんしき)の調(しらべ)にのせて In Moll besingend》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分 ( GoogleMap https://bit.ly/2FdmuZP )
各回 3000円(全自由席)
【お問い合わせ】松山庵 banshiki2019@hotmail.com (要予約)
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)


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【第1回】 2019年7月6日(土) 15時開演(14時45分開場)
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R.シューマン(1810-1856)  ピアノソナタ全3曲
   I. Un poco Adagio - Allegro vivace - II. Senza passione, ma espressivo - III. Scherzo e Intermezzo - IV. Allegro und poco maestoso
   I. So rasch wie möglich - II. Andantino. Getragen - III. Scherzo. Sehr rasch und markiert - IV. Passionato
   I. Allegro brillante - II. Scherzo Primo. Vivacissimo - III. <Promenade> Scherzo Secondo / Intermezzo. Molto commodo - IV. Quasi variazioni. Andantino de Clara Wieck(主題と6つの変奏) - V. Prestissimo possibile
  [使用エディション:新シューマン全集版(2012/2018)]


【第2回公演】2019年7月20日(土) 15時開演(14時45分開場)
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●A.スクリャービン(1872-1915):
   I. Andante - II. Presto
   I. Drammatico - II. Allegretto - III. Andante - IV. Presto con fuoco /Maestoso

●T.ミュライユ(1947- ):《水に映える礫(つぶて)》(2018、日本初演)

   I. Andante - II. Prestissimo volando

(休憩15分)

●A.スクリャービン ピアノソナタ第5番 Op.57 (1907)
  [以上、使用エディション:Bärenreiter新訂版(2013)]

●S.ラフマニノフ(1873-1943):
  I.Allegro agitato - II. Non allegro /Lento - III. Allegro molto
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Ich weiß ―― ロベルト・シューマンはクララに歌った   山村雅治

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 ロベルト・シューマン(1810-1856)は18歳になる1828年、9歳の少女クララ・ヴィーク(1819-1896)のピアノ演奏を聴いて衝撃を受けた。フンメルの三重奏曲のピアノパートを見事に弾いた彼女は、名高いピアノ教師フリートリヒ・ヴィークの娘だった。
 このときシューマンは故郷のツヴィカウから出てきてライプツィヒ大学法科に入学したばかりで、しかも音楽家としては出遅れていた。同年からヴィークに師事して2年がたち、1930年。その年にはすでにショパンはピアニストとして作曲家として新しい星として仰がれていた。一歳年少のリストがパリの社交界の偶像になっていたとき、シューマンはようやくライプツィヒからハイデルベルクの大学生活に別れを告げて音楽に打ち込んだ。 

 音楽家として立つ決意を固めるためには大きな迂回が必要だった。子供のころからの音楽の天才児ではなかったロベルトは書籍商アウグスト・シューマンの息子であり、本に囲まれて成長した。文学には早熟だった。ギムナジウムへ進む前からギリシア語、ラテン語、フランス語を学びはじめ、入学後の10歳代前半には詩の創作を試みているほどだ。バイロン、シラー、ジャン・パウル、E.T.A.ホフマンなどを耽読した。
 『詩と音楽』は17歳のときの詩だ。ここにシューマンが終生にわたって追求したテーマが簡潔に語られていた。「詩の韻律の器をやさしく そよかぜの拍子がゆらすとき 音と音、ことばとことばが競い 音は感じ、詩句は息づき ついにやさしくひとつの調和に ふたつの芸術が誠実に愛に満ちて抱きあうのだ」。

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 1830年、作品1『アベッグ変奏曲』から1939年の作品28『3つのロマンス』にいたるまで、彼はピアノ独奏曲ばかりを書いていた。そして執筆活動に力を注いでいた。
 シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809 - 1849)を紹介する論文を投稿した。そして当時の音楽批評に不満を感じていた。1833年に準備を始めて翌1834年に刊行した音楽紙「音楽新報」の執筆者たちのなかにもフロレスタンとオイゼビウスがいる。彼の二人の分身だけではなくラロー楽長という名に変わったとされるヴィーク先生、キアリーナに変わったクララもそのなかにいる。
 シューマンは「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」と語っている。自分のなかに対照的な二人の人物がいる。シューマンにはジャン・パウルの小説からの影響が深く根を下ろしていたようだ。「対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだ」とも語っていた。

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 ピアノソナタ第1番 嬰ヘ短調 作品11の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。作品5『クララ・ヴィークの主題による即興曲』、作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』についで書かれた作品9『謝肉祭』にもフロレスタン、オイゼヴィウス、クララは登場した。しかしこの年1834年はシューマンにとってはヴィーク家に住み込みの弟子になったエルネスティーネ・フォン・フリッケンに首ったけになり婚約して婚約を解消した。それまでは兄と妹のような関係だったクララは成長し、翌1835年にシューマンは求愛した。1837年に互いに結婚の意志を確かめあう仲になった。その年に完成した作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』は重要な作品だ。ダヴィッド同盟はシューマンの空想と現実が織りまぜられた音楽の革命をめざす多様な人間の集団であり、この曲の主役はシューマン自身の二人の分身であるフロレスタンとオイゼヴィウスだ。フロレスタンは現実に生きて前へと進む勇者であり、オイゼヴィウスは深みへ沈み黙考する瞑想者。

 しかしながらロベルトとクララの結婚へ至るまでには大きな困難を乗り越えなければならなかった。クララの父、ヴィークが執拗に妨害したのだ。ロベルトとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移らせシューマンから遠ざけた。シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵言雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視のもとに置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会えば罵り、顔につばを吐きかけた。ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。
 ソナタ第1番第2楽章アリアには旧作の歌曲『アンナに寄す』があらわれる。ケルナーの詩には「ぼくはきみをおもう、かわいいひとよ」の一行がある。そして第3楽章と第4楽章には明らかに自分の意志をうたう「ファンダンゴ」が変転しながら繰りかえされている。

 クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。その後もすったもんだが繰りかえされて、やっとのことで1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下された。9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。

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 ロベルト・シューマンは少年時代には読書家だった。愛し、のめりこんだのはジャン・パウル、E.T.A.ホフマン、バイロンなど狂気をはらんだ作品を書いた作家や詩人であり、当時のノートには狂気への憧れを記した言葉もある。いまや、かつてあこがれた狂気が大波のように容赦なく襲いかかってくる。彼が驚くべき音楽家だったのは、こうした晩年にあっても作品の姿は支離滅裂ではなく、むしろ大きな構築力が必要な大作を書き続けたことだ。17歳の12月の日記には詩的な創作について「なにごとにも縛られず自由に動く資質を持つ人は、もっとすばらしく詩作していた。そこに理論がなかったからだ」と書いた彼は、まさに初期のピアノ曲に少年時に抱いた理想を実現させていた。
 1840年は「歌の年」。クララとの結婚を機にシューマンは歌曲を次々と書き、120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。それまで書いていたピアノ曲は姿を消した。「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」としたシューマンはこの年、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と宣言した。1840年3月から7月にかけて二つの『リーダークライス』(作品24と作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)を書きあげたことには驚嘆を禁じ得ない。
 歌曲はクララとの結婚の1840年「歌の年」以来、ほぼその後の生涯にわたってつくられた。音楽をつくりだす少年の時間には、すでに本を読み魅入られた言葉が全身に渦巻いていた。1839年までの『ピアノ・ソナタ』3曲を含む名作ぞろいのピアノ独奏曲には言葉を音に結びつけて時空に放った「詩」があった。「歌の年」から歌われた作品には、暗誦できるほどのおびただしい数の詩人の言葉があった。どれもシューマンの感性に合う精選された詩だった。

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 ピアノソナタ第3番 ヘ短調作品14は、「第1番」に先立ち1835年に完成されていた。ロベルトはしばしばクララが書いた旋律を自作のなかに引用した。すでに1833年の『クララ・ヴィークの<ロマンス>による即興曲集』に自作を作る重要な音楽の素材としてつかっていた。のちにも枚挙のいとまもないほどだが「ソナタ第3番」の第3楽章には隠れもなく「クララ・ヴィークのアンダンティーノによる変奏曲」と記されている。全体の構成については変転がある。1836年9月に出版された時のタイトルは『管弦楽のない協奏曲』(Concert sans orchestre)であって、1853年10月にスケルツォが挿入され、大幅な改訂が施された際に、『ピアノソナタ第3番』(原題は『大ソナタ』 Große Sonate - 『グランドソナタ』)になった。いずれにせよ「クララの主題による変奏曲」は中心にある楽章だ。単純な旋律にこめられた音楽は意外に深い。青春のときめきの初々しさを表すことができれば、葬送行進曲の響きがきこえたこともある。
 ピアノソナタ第2番 ト短調 作品22は、1833年に着手して1838年に完成し、翌1839年に出版された労作だ。「第1番」と同じく、快速な第1楽章―緩徐楽章―スケルツォ楽章―急速な終楽章。第2楽章は作品1『アベッグ変奏曲』(1829‐30)より前につくられた1828年の歌曲『秋に』(Im Herbste、ユスティヌス・ケルナー詞) が素材になっている。ここにもクララへの思いが語られていなかったはずがない。




アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

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  ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951) とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
  1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
  ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

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  スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。

  スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。

「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

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  もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年、森松晧子氏による訳が2014年に出ている)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。

  サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家であるある。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60」を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

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  一方でサバネーエフはピアニストとしてのスクリャービンがいかに卓越した演奏技術をもっていたかを絶賛している。とくにそのペダリングによる音色の変化は彼独自のもので、弾きだされた音の響きは即興性も含めて変幻していった。スクリャービンは、「ラフマーニノフの弾く音はマテリアーリヌィ、即物的・唯物的なものに過ぎず、打鍵のあとの音色の変化で人を酔わすところがない。そういうピアニストにとってペダルは単なる足の乗せ場でしかない。」と批判した。しかしスクリャービンはそれがペダリングという技術によるものではなく、自分から発せられるアストラル(「星幽」とも訳される一種のオカルト用語)が響きに作用するのだと思いこんでいたので、サバネーエフはそれ以上にマトモな話を展開できなかったという。(20世紀末には、オウム真理教が「アストラル音楽」なるものを考案している。)スクリャービンのピアノ演奏の音色の変化は絶妙であったが、音量は当時のラフマーニノフ他ロシア・ピアニズムの代表者たちに比べると小さく、鋼鉄の楽器をホール一杯に響かせるというものではなかった。彼の作風が大きく変化する時期の代表的な作品であるピアノ・ソナタ第5番 作品53(1907年)は、なぜか交響曲第3番と第4番「法悦の詩」のモスクワ初演演奏会で2作品の合間に作曲家によって披露されたのだが、あまりにデリケートな音量であったため、聴衆には印象が薄く、曲が終わったのか単に作曲家が舞台から姿を消したのかわからなかった、とサバネーエフは回想している。

  「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。
  「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

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  スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
  最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
  二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。

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  ところでヴャチェスラフ・モーロトフ(1890 – 1986)というソ連時代の政治家を覚えておられる方はいるだろうか。彼は本名をヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンといった。モーロトフというのはレーニンやスターリンと同じくペンネームであり、ロシア語の「モーロト(ハンマー)」からとっている。戦中から戦後にかけてスターリンの片腕、ソ連邦外務大臣として活躍した。作曲家のスクリャービンとの直接の血縁関係はないようだが、幼少時にはヴァイオリンを弾き、兄のひとりは作曲家(ニコライ・ノリンスキー、1886 – 1966)であった。スターリンの没後は共産党から除名されたが、1984年に名誉回復がされ、96歳の長寿を全うしている。





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(※)スクリャービン第5ソナタのエピグラフ(自作詩)

Я к жизни призываю вас, скрытые стремленья!
Вы, утонувшие в темных глубинах
Духа творящего, вы, боязливые
Жизни зародыши, вам дерзновенье приношу!

Je vous appelle à la vie, ô forces mystérieuses !
Noyées dans les obscures profondeurs
De l’esprit créateur, craintives
Ébauches de vie, à vous j’apporte l’audace !

吾は爾を生命(いのち)へと喚ぶ
噫、秘鑰の勁(ちから)よ!
造化の靈の朧朧たる深淵(ふかみ)に溺れし
怯懦なる生命の胚子、
爾に吾は驍悍を齎す! (安田毅・訳)






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【艷なる讌樂】
君の心は 奇らかの貴なる風景、
假面假裝の人の群 窈窕として行き通ひ、
竪琴をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪の衣裳の下に 仄仄と心悲しく、

誇りかの戀 意のままのありのすさびを
盤涉の調にのせて 口遊み 口遊めども、
人世の快樂に涵る風情なく
歌の聲 月の光に 入り亂れ、

悲しく美しき月魂の光 和みて、
樹樹に 小鳥の夢まどか、
噴上げの水 恍惚と咽び泣き、
大理石の像の央に 水の煙の姿たをやか。

by ooi_piano | 2019-07-08 22:17 | POC2019 | Comments(0)