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【増補】5/25(金)ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成

c0050810_20532062.jpg名録音誕生を応援するチケットレス・後払い方式のコンサート
ピティナ・ピアノ曲事典 公開録音コンサート
2018年5月25日(金) 18:30 開演(18:00開場)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
入場料:後払い方式(※)


東音ホール 
(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838
予約フォーム  チラシpdf



c0050810_09230354.jpg【演奏曲目】
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版) 20分
Concerto for piano and wood winds (1923/24) [Two piano version]
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版) 17分
Capriccio for piano and orchestra (1926/29) [Two piano version]
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)20分
Symphony for Psalms (1930) [Transcription for four hands by D. Shostakovich, japanese premiere]
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)

  (休憩15分 intermission 15min.)

二台ピアノのための協奏曲(1935)20分
Concerto for two pianos (1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版) 16分
Dumbarton Oaks Concerto in E-flat (1938) [Two piano version]
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943) 10分
Sonata for two pianos (1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944) 4分
Scherzo à la russe (1944) [Two piano version]
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版) 8分
Movements for piano and orchestra [Two piano version]
  I. - II. - III. - IV. - V.

(※)入場料:後払い方式・・・コンサート後に、好きな額を当日お配りする封筒にいれて頂きます。そのお金は演奏者ならびにピティナ・ピアノ曲事典への寄付金として大切に使わせて頂きます。 公開録音について



□浦壁信二 Shinji Urakabe, piano
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  1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ、’03年CD「ストラヴィンスキーピアノ作品集」'12年「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

□大井浩明 Hiroaki Ooi, piano
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSICA VIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival(ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers (POC)」を開始、現在までに36公演を数える。公式ブログ: http://ooipiano.exblog.jp/



詩篇交響曲 第1楽章
Exaudi orationem meam, Domine, et deprecationem meam;  あゝヱホバよねがはくはわが祈をきゝ わが號呼に耳をかたぶけたまへ
auribus percipe lacrimas meas. Ne sileas, quoniam advena ego sum apud te, et peregrinus sicut omnes patres mei. わが涙をみて黙したまふなかれ われはなんぢに寄る旅客すべてわが列祖のごとく宿れるものなり
Remitte mihi, ut refrigerer prius quam abeam et amplius non ero. 我こゝを去てうせざる先になんぢ面をそむけてわれを爽快ならしめたまへ

第2楽章
Exspectans exspectavi Dominum, et intendit mihi. 我たへしのびてヱホバを俟望みたり ヱホバ我にむかひてわが號呼をきゝたまへり
Et exaudivit preces meas, et eduxit me de lacu miseriae et de luto faecis. Et statuit super petram pedes meos, et direxit gressus meos. また我をほろびの阱より泥のなかよりとりいだしてわが足を磐のうへにおきわが歩をかたくしたまへり
Et immisit in os meum canticum novum, carmen Deo nostro. Videbunt multi, et timebunt, et sperabunt in Domino. ヱホバはあたらしき歌をわが口にいれたまへり 此はわれらの神にさゝぐる讃美なり おほくの人はこれを見ておそれ かつヱホバによりたのまん

第3楽章
Alleluia. Laudate Dominum in sanctis ejus; laudate eum in firmamento virtutis ejus. ヱホバをほめたゝへよ その聖所にて神をほめたゝへよ その能力のあらはるゝ穹蒼にて神をほめたゝへよ
Laudate eum in virtutibus ejus; laudate eum secundum multitudinem magnitudinis ejus. その大能のはたらきのゆゑをもて神をほめたゝへよ その秀ておほいなることの故によりてヱホバをほめたゝへよ
Laudate eum in sono tubae… ラッパの聲をもて神をほめたゝへよ [筝と琴とをもて神をほめたゝへよ]
Laudate eum in tympano et choro; laudate eum in chordis et organo. つゞみと蹈舞とをもて神をほめたゝへよ 絃簫をもて神をほめたゝへよ
Laudate eum in cymbalis benesonantibus; laudate eum in cymbalis jubilationis. 音のたかき鐃鈸をもて神をほめたゝへよ なりひゞく鐃鈸をもて神をほめたゝへよ
Omnis spiritus laudet Dominum! Alleluia. 氣息あるものは皆ヤハをほめたゝふべし なんぢらヱホバをほめたゝへよ








ストラヴィンスキー《詩篇交響曲》とショスタコーヴィチ――大塚健夫

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  《詩篇交響曲 Symphony of Psalms》(1930) はイーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882-1971)がそれまでの作風から大きくギアを切り替えるセンセーショナルな合唱と管弦楽の作品である。弦楽器群にヴァイオリンとヴィオラはなく、フルート5本、オーボエ4本、トランペット5本、それにピアノ2台といった楽器の取り上げ方は、普通のオーケストラの編成と大きく異なる。「詩篇 Psalms」とは旧約聖書の一部で、カトリックのミサにおいて二人の朗読者が歌う詩篇にこたえるかたちで会衆が唱和することを答唱詩篇という。カトリック教会の共通言語であったラテン語が用いられたが、その後各国語の言葉が使われるようになり、ストラヴィンスキーはまずロシア語の歌詞を用いて書き始めたが、その後ラテン語に切り替え最終版とした。

  第1楽章: 冒頭Em(ホ短調)の和音のあとに、いきなりEから増五度はなれたBbをベースとするオクタトニックのアルペジオが始まる。当時なんともモダンな響きであったろうことは、現代の我々でも想像に難くない。それに続いてまずはチェロの高音部で始まる歌。舞踏カンタータ「結婚(儀礼)」(1917)の冒頭、kosa maya(露 коса моя,あたしの三つ編み髪)・・・もそうなのだが、ストラヴィンスキーの書く歌あるいは合唱の最初の部分は半音あるいは一度という狭い音程での動きに支配されている。
  第2楽章: C - Eb - B♮-Dの増五度の音程がちょっと無理な背伸びをするような主題をまずオーボエが切り出し、そのあと古典的で緻密なフーガが展開してゆくメロデイーの重なりの中に、控えめだが深い悲しみの思いが聞こえるようだ。
  第3楽章: 始まりの「アレルヤ」のゆっくりしたハーモニーはF6の和音からFm6を経てEbで終わる特徴的なもので、このあたりがすでに一般的な宗教音楽の域を超えている。テンポが速くなって、拍のアクセントを金管が刻み八分音符と三連符八分が絡んでくると、ストラヴィンスキーお得意の風を切るようなカッコいいスピード感が出る。そして再びまったりとしたテンポとなり最初の「アレルヤ」のコラールが出て、ゆっくりとした低音部のオスティナートに乗って歌は「主をほめたたえよ」を繰り返しながら、美しいハ長調の響きに終わる。

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  《詩篇交響曲》はボストン交響楽団の創立50周年を記念して委嘱された作品で、1930年12月19日、常任指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951) によってアメリカ初演された。同じ演奏会でシェーンベルクの編曲によるバッハ《プレリュードとフーガ変ホ長調 BWV552》の管弦楽版も披露された。当時の現代音楽楽壇の寵児二人を同時に紹介したクーセヴィツキーの意図は明らかだ。その6日前の12月13日にアンセルメの指揮によりベルギーで《詩篇交響曲》はヨーロッパ初演され、ストラヴィンスキーは《ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ》(1926/29)のピアノを自演してこの演奏会に参加している。
  今まであまり宗教的な作品に縁のなかったストラヴィンスキーがなぜこういう曲を書いたかについては、いくつかの説があって面白い。ヴェネツィアでの演奏会の前に手に腫れ物ができたのだが、教会へ行って祈りを捧げたら腫れがすっと引いたのをきかっけに宗教心に目覚めたという説がある。祖国を離れて十数年が経つストラヴィンスキーが異国の地にあって、自分は何者なのか、ロシア人かヨーロッパ人か、あるいはユーラシア人かというアイデンティティーを求めて悩んでいたであろう。病気が進み信心深くなっていた妻エカチェリーナのことや、多くの作品を一緒に手掛けてきたディアーギレフの急逝(1929)が大変なショックであったことが自伝に述べられている。なにかの心の拠り所を必死に求めていたことがこの作品を生んだのかもしれない。
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  アルテゥール・ルリエ(1892 - 1966)というヨーロッパに亡命し戦後米国で没したロシア人作曲家の《Concerto Spirituale》(1929)という合唱曲に影響を受けて書いたという説もある。ルリエは革命後のソヴィエト新政権のもと、ルナチャルスキー率いる人民啓蒙委員部(NARKOMPROS 1918-)の音楽部門の人民委員という要職にあったにも拘わらず、1921年に欧州に出国したあとソヴィエト・ロシアには戻らなかったので、その後のロシア・ソヴィエト音楽史からは完全に抹殺されていた。しかし近年米国の音楽学者リチャード・タラスキン(2017年に稲盛財団「京都賞」を受賞)による研究でその存在が明らかになってきた。彼は欧州で一時期ストラヴィンスキーのアシスタントの仕事をし、ロシア出身で欧州を経て米国に渡った指揮者クーセヴィツキーとも懇意で、後年この大指揮者の伝記も出版した。ルリエの《Concerto Spirituale》を聴くかぎり旋律や和声での《詩篇交響曲》との共通性は感じられないが、2台のピアノが入り弦楽器は低弦のみという特徴的な編成が共通している。ルリエは思想面でも大きな影響をストラヴィンスキーに与えたというが、その後は疎遠になっていった。ストラヴィンスキーは言うこと書くことともにかなり屈折した人であったから彼の本音に迫ることは難しいが、亡命先で生計を立てるための演奏活動に追われていた当時の彼にとって、ルリエを通じてクーセヴィツキーがより身近な存在となり、米国の名門オーケストラから委嘱されたことは経済的にも大きなラッキーであったことは確かだと思う。

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  ストラヴィンスキーより24歳若いドミートリー・ドミートリーヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906 – 1975) は、ストラヴィンスキーの《結婚(儀礼)》のロシア初演(1926)において第二ピアノ(編成はピアノ4台、打楽器、声楽)を担当したことを後年まで誇りにしていた。そのあと《火の鳥》や《浄められた春(春の祭典)》よりも《詩篇交響曲》に最も強く惹かれていたというのは興味深い。1930年代の西側とのコンタクトが困難な時代、《詩篇交響曲》のスコアをレニングラードにいたショスタコーヴィチに届けたのが誰かは定かではないが、彼はそれを受け取るとすぐにピアノ四手版の編曲に着手した。第二次大戦でナチス・ドイツ軍がレニングラードに迫る中、モスクワへ疎開せざるを得なかったショスタコーヴィチは、携行できる荷物を制限され、持って行けたのは自身の第七交響曲の原稿、《マクベス夫人》、そして《詩篇交響曲》のスコアとピアノ四手編曲版だったという。このことからも彼のこのストラヴィンスキー作品への執着がわかる。ショスタコーヴィチは1955年3月に《詩篇交響曲》のスコアを愛弟子だったガリーナ・ウストヴォルスカヤ(1919 - 2006)にプレゼントしている。表紙にEdition Russe de Musique, Founds : S&N Koussevitsky(セルゲイ・クーセヴィツキーは、大商人の娘ナターリヤ・ウシュコーヴァと結婚して資金面のバックグラウンドを得ており、出版社の基金は夫妻の名前を冠している) と印刷されたこのスコアは現在ウストヴォルスカヤのギャラリーに保管されている
  ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院の教授時代、管弦楽曲のピアノ連弾への編曲を通じて弟子たちに作曲を教えていた。2006年、作曲家生誕100年を記念した「プラウダ」紙のインタビューで、チホーン・フレンニコフ(1913 - 2007) はレニングラードへ行った際、ショスタコーヴィチと共に《詩篇交響曲》ピアノ四手版を一緒に演奏したと語っている
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  1940年にストラヴィンスキーは欧州から米国に渡り、最初は西海岸、そして晩年はニューヨークで過ごし1971年に没した。その間、たった一回だけ祖国ロシア、当時のソ連を訪れている。これを実現させたソ連側の人間の一人がフレンニコフだった。既にソ連音楽界の要職にあった彼がソ連音楽家代表団として1961年にロサンゼルスに来て、翌年1962年秋にストラヴィンスキーをソ連へ招待することに決めた。前述のタラスキンによれば、フレンニコフはストラヴィンスキーがこれを機会に祖国に戻って永住することを促し、果てはチャイコフスキーや「力強い仲間たち」の作曲家たちが眠るレニングラード(現サンクトペテルブルグ)のネフスキー寺院に葬りたかったのだ、とまで述べている。それはさておいてもフレンニコフという人はたいへんなソヴィエト・ロシア愛国者であったことは間違いなく、それゆえ彼の評価も賛否両論がある。話はややそれるが、筆者がモスクワに住んでいた1998年6月、第11回チャイコフスキー国際コンクールのオープニングにおいて、組織委員長を務めていたフレンニコフは「前回は日本のスポンサーにお世話になったが、今回はロシアの国家と企業の資金でコンクールは運営される」と高らかに宣言、大きな拍手が沸いたのをよく覚えている。
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  1962年10月のモスクワで行われたストラヴィンスキー歓迎レセプション(主催はソ連邦文化大臣に就任して間もないエカチェリーナ・フルツェヴァ(1910 – 1974):ソ連史上初めての女性政治局員、自由奔放でスキャンダラスな生涯を送った) と晩餐会にはショスタコーヴィチも招待され、これが二人の作曲家の人生でただ一度の言葉を交わす機会となった。ショスタコーヴィチは《詩篇交響曲》を初めて聴いたときの驚きと、その後自分で編曲までしたことを、はにかみながらストラヴィンスキーに語ったという。ショスタコーヴィチは1949年にソ連の文化人代表の一人としてニューヨークに派遣され、そこでストラヴィンスキーの作品について否定的なソ連の公式見解を述べざるを得なかったという苦い経験があった。モスクワではスターリン没後9年を経た「雪解け」の時期ではあったが、二人が忌憚のない意見を交換できるような状況ではまだなかったのであろう。ストラヴィンスキーの方も大いに「構えていた」に違いない。ストラヴィンスキーは生まれ故郷であるレニングラードにも来た。筆者がレニングラードに留学していた1982-3年当時はまだこの20年前の出来事を覚えている人たちが多くいて、彼らは「ストラヴィンスキーが自作を指揮したオーケストラは、ムラヴィンスキーの功労者芸術家集団(レニングラード・フィルハーモニー)ではなく、当時ワンランク下と位置付けられていたレニングラード交響楽団の方だった」と語ってくれた。
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  ショスタコーヴィチは回想録で「ストラヴィンスキーもペテルブルグ生まれであるのみならず、二人ともポーランドの血を受け継いだ家系という点でも共通、これはリムスキー=コルサコフも同じ」と語っている。1962年のレセプションでのショスタコーヴィチの「はにかみながらの語りかけ」は、ロシア出身の偉大な先輩作曲家へのできる限りの敬愛の表明だったのであろう。





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【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)
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■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版

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■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選  https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
 西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
 一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
 西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
 湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
 南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)


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【ストラヴィンスキー作品によるピアノリサイタル】

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■2016年8月20日@芦屋  https://ooipiano.exblog.jp/25870367/
ストラヴィンスキー:スケルツォ(1902) 2分
:4つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
:バレエ音楽「火の鳥」より3つの場面(1910)〔グイド・アゴスティ(1901-1989)による独奏版〕 12分
  魔王カスチェイの凶悪な踊り - 子守歌 - 終曲
:ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
:ドイツ人の行進曲の思い出(1915) 1分
:3つの易しい小品(1915) 4分
  行進曲 - ワルツ - ポルカ
:子供達のワルツ(1917)  1分
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ストラヴィンスキー:交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、日本初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気
:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
ムソルグスキー(1839-1881):《ボリス・ゴドノフ》序幕より民衆の合唱「なぜ我らを見捨てられるのか、我らが父よ!」(1869/1918)(ストラヴィンスキーによる独奏版、日本初演) 1分
ストラヴィンスキー:ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
:管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、日本初演) 8分
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中田粥:ピアノとエレクトロニクスのための《Pieces of Apparatus I》(2016、委嘱新作初演)  10分
ストラヴィンスキー:5本の指で(1921) 8分
  I. Andantino - II. Allegro - III. Allegretto - IV. Larghetto - V. Moderato - VI. Lento - VII. Vivo - VIII. Pesante
:ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
:イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
:タンゴ(1940) 3分
:仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分


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■2017年1月22日@東京  https://ooipiano.exblog.jp/26292708/
ストラヴィンスキー:ピアノソナタ 嬰へ短調(1903/04)〔全4楽章〕(日本初演) 28分
  I.Allegro - II. Scherzo, Vivo - III.Andante - IV.Finale. Allegro
:四つのエチュード Op.7 (1908) 8分
  I. Con moto - II. Allegro brillante - III. Andantino - IV. Vivo
:ペトルーシュカからの3楽章(1911/21) 15分
  ロシアの踊り - ペトルーシュカの部屋 - 謝肉祭
:交響詩《夜鶯の歌》(1917)(作曲者による独奏版、東京初演) 21分
  故宮の祭礼 - 二羽の夜鶯(本物の夜鶯と機械仕掛けの夜鶯) - 皇帝の病気と快気
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大蔵雅彦:《where is my》 (2016)(委嘱新作・世界初演) 4分
ストラヴィンスキー:11楽器のラグタイム(1917/18)(作曲者による独奏版) 4分
:《兵士の物語》による大組曲(1918)(作曲者による独奏版、日本初演) 25分
  I.兵士の行進 - II.兵士のヴァイオリン - III.王の行進曲 - IV.小コンセール - V.3つの舞曲(タンゴ/ワルツ/ラグタイム) - VI.悪魔の踊り - VII.コラール - VIII.悪魔の勝利の行進曲
:ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) 3分
:管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、東京初演) 8分
:コンチェルティーノ(1920)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 6分
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:八重奏曲(1923)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演) 16分
  I.シンフォニア - II.主題と変奏 - III.終曲
:ピアノ・ソナタ(1924) 9分
  I. - II. Adagietto - III.
:イ調のセレナード(1925) 12分
  頌歌 - ロマンス - ロンドレット - 終止曲
:タンゴ(1940) 3分
:仔象のためのサーカス・ポルカ(1943) 4分




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by ooi_piano | 2018-04-19 03:42 | コンサート情報 | Comments(1)

【増補】4/15(日)フェルドマン大作2曲+上野耕路委嘱新作

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京都在住の画家Mississippi氏:「大井浩明さんによる、morton feldman の演奏を聴きに行ったのは去年の夏。地下で、空調をとめて、知らないひとばかりで、いつ終わるともしれない不思議な曲で。明かりがついたとき、いちじかん潜水したみたいな気分でした。

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c0050810_23572718.jpg【特別公演】 フェルドマン全ピアノ曲総攬・完結編
2018年4月15日(日)午後2時半開演(午後2時開場) 全自由席3000円 
えびらホール (品川区/東急旗の台駅より徒歩6分)
[要・事前予約] feldman2018@yahoo.co.jp
(※プライベートホールの為、詳しい場所はチケット予約されたお客様のみにお知らせします。ネット上で住所や地図は公開されていません


【演奏曲目】
モートン・フェルドマン(1926-1987):《三和音の記憶(トライアディック・メモリーズ)》(1981) 約80分

  〔休憩10分〕

上野耕路(1960- ):《Volga Nights(たらこたらこたらこパラフレーズ)》(2018、委嘱新作・世界初演) 約10分
●モートン・フェルドマン:《バニタ・マーカスのために》(1985) 約70分


  【cf. POC#34 フェルドマン(没後30周年)ピアノ曲総攬  (2017/12/22) 】



上野耕路《Volga Nights(たらこたらこたらこパラフレーズ)》(2018、委嘱新作・世界初演)
 いわゆる「One Hit Wonder(一発屋)」のその後はどうなったのか?というのがこの曲の真相なのかもしれません。しかしこれは皮肉などではなく、そのような曲が自分に一曲でもあること、自分もあまたのOne Hit Wondersの一人であることにとても感謝しています。
  オリジナルは、キューピーたらこパスタソースCMのための音楽(2004年)で、ヴィヴァルディが好むコード進行とロシア民謡を意識して作りました。思いのほか人口に膾炙したこのCM音楽に基づき、ひねった独立作品ができないかと考えました。ロシア民謡かと思っていたら交響曲の一部だった、というレフ・クニッペル(1898-1974)の逆行形のようです。
  この楽想には、カルト的ロックバンド、スパークスロン・メイル氏によって、英語の歌詞を付けて頂く機会がありました。要人の履歴を改ざんする仕事をしているナターシャとレーニン廟のガードのセルゲイという恋人たちの歌、という内容となっています。そのタイトルが《ヴォルガ・ナイツ》です。(上野耕路)


上野耕路 Koji UENO
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  千葉県出身。日大藝術学部在学中に、「8 1/2」、サエキけんぞうらと「少年ホームランズ」「ハルメンズ」を、戸川純・太田螢一と「ゲルニカ」を結成、1982年に『改造への躍動』でYENレーベルからデビュー。1985年、無声映画のための『Music For Silent Movies』をリリース。1986/87年、坂本龍一の映画音楽プロジェクトへ参加、『子猫物語』『オネアミスの翼』『ラストエンペラー』などを手がける。高嶺剛監督『ウンタマギルー 』(1989)で第44回毎日映画コンクール音楽賞。14奏者のための《日本民謡組曲》(1990、国立劇場委嘱)、邦楽器アンサンブルのための《Sinfonietta Rurale》(1992)・《稲の王》(1996)(日本音楽集団委嘱)、6奏者のための《Connotations》(1993、ポール・ドレッシャー・アンサンブル(サンフランシスコ)委嘱)等。NHKテレビドラマ『幻蒼』(1995)で第32回プラハ国際テレビ祭でチェコ・クリスタル賞。1999年、全音楽譜出版社より『上野耕路 ピアノ作品集』を出版。2000年より日本大学藝術学部にて、映画音楽の講義を受け持つ。2004年、キユーピー「たらこパスタソース」のCM音楽が話題を呼ぶ。2009年、リコーダー四重奏のための《クァルテット・パストラーレ》初演。犬童一心監督『ゼロの焦点』(2009)で第33回日本アカデミー賞優秀音楽賞。2011年、音楽的側面の集大成とも言えるアルバム『エレクトロニック・ミュージック』を配信開始。蜷川実花監督『ヘルタースケルター』(2012)音楽監督。犬童一心・樋口真嗣監督『のぼうの城』(2012)で第36回日本アカデミー賞優秀音楽賞。2014年、NHKアニメ「ナンダカベロニカ」、NHKBSドラマ「プラトニック」等。16人編成のバンド「上野耕路・アンド・ヒズ・オーケストラ」を経て、現在は「ソシエテ・ノワール」で活動中。 https://www.alchemy-music.net/


●上野耕路:中全音律オルガンのための《パルティータ》 (2015)  ~〈プロローグ〉-〈ルール〉-〈第1スケルツォ〉-〈第2スケルツォ〉-〈トリオ〉-〈第2スケルツォ〉-〈第1スケルツォ〉-〈メヌエット〉-〈フーガ〉 大井浩明(中全音律バロック・オルガン) 
●上野耕路:《ブレーメン(ブレヘメン)》(1981) 大井浩明(ピアノ)
●上野耕路:《ウンタマギルー》(1981) 大井浩明(ピアノ)
●上野耕路:WOWOW連続ドラマ《夢を与える》オリジナル・サウンドトラック (music marketing research / BASiLiCA INC.) 大井浩明(ピアノ、フェンダーローズ他) 
●上野耕路:NHK土曜ドラマ《逃げる女》オリジナル・サウンドトラック (IDEAL MUSIC LLC. NGCS-1063) 大井浩明(ピアノ、オンドマルトノ、チェレスタ、フェンダーローズ他) 録音風景




フェルドマンと女性たち―――野々村 禎彦

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 音楽家の生涯を描く際に、パートナーや恋人たちとの関係を中心に据えるのは、通俗的な伝記では常套手段である。そして多くの場合、音楽の本質を描くには邪魔でしかない。だが、モートン・フェルドマン(1926-87) は例外のひとりである。彼と女性たちとの関係と作曲歴との相関は、シューマンとクララの場合ほど直接的でも能動的でもないが、彼の作風の大きな変化は常に女性関係の変化と時を同じくしており、意識的であれ無意識にであれ密接に関連している。本公演の対象である後期作品では、特に重要になる。

 ニューヨークのユダヤ系服職人の家庭に生まれたフェルドマンは、9歳で作曲、12歳でピアノを始め、15歳から作曲のレッスンも受け始めたが、本格的に職業音楽家を目指したわけではない。大学受験を前にいったんレッスンは止めたが、受験生の雰囲気が気に食わないと称して試験を放棄し、父が独立して始めた子供服会社でフルタイム事務員として働いた。余暇に作曲のレッスンも再開し、シュテファン・ヴォルぺ(1902-72) に師事した。だが、師の評価は「さまざまな書法を試みては否定するばかりで、5年間何の進歩もなかった」。最初の妻アーリーンと所帯を持つまでは、何事も中途半端だったようだ。

c0050810_17443350.jpg 1950年1月、ミトロプーロス/NYPによるヴェーベルン《交響曲》の米国初演で彼はジョン・ケージ(1912-92) と出会って意気投合した。夫婦でケージと同じアパートに移り、同世代の美術作家たちとも知り合ってキャリアが本格的に始まるが、実はその前年に決定的な出会いがあった。レッスンを止める時、ヴォルペは彼にヴァレーズを紹介した。ヴァレーズは彼をたびたび自宅に招き、作曲の心得を伝えた。この経験がなければ作曲家にはなっていなかったと彼は回想している。後にニューヨーク州立大学バッファロー校で得た常勤職の肩書は、彼の希望通り「エドガー・ヴァレーズ記念教授」になった。

 「音楽は音響現象であり、音が舞台から客席に達し再び舞台に戻るまでに要する時間を織り込んで作曲を行うべき」というヴァレーズの教えは、極端に少ない音数と遅いテンポで特徴付けられる、フェルドマンの特異な作風の土台になった。また、米国の作曲界に絶望していたヴァレーズは「この国で本物の作曲家になるためには、音楽で生計を立てようとしてはいけない」という持論を持ち、家業を生業とする彼を祝福した。なお、師弟関係を止めてもヴォルペとは、芸術談義を交わす友人として20年以上親交を続けた。

c0050810_17454355.jpg ケージとの出会いから程なく、彼はブーレーズの第2ソナタの米国初演を企画していたケージにピアニストとして同門のデヴィッド・チューダー(1926-96) を紹介し、ケージはクリスチャン・ウォルフ(1934-) への作曲レッスンを始め、「ニューヨーク楽派」の創立メンバーが揃った。一緒に行動することが多かった4人は、同1950年暮れのチューダーによるブーレーズの第2ソナタ米国初演後もケージとカニングハムのアパートに集まってケージの料理を待っていたが、この時フェルドマンに図形楽譜の発想が降りてきた。

 紙切れに引いた4本の横線の隙間を高音域・中音域・低音域とみなし、縦線でグリッドに区切ってところどころを塗り潰すと、五線譜を使わず音高も指定せずとも音楽的持続が生まれる。このスケッチが音楽史上初の図形楽譜作品、チェロ独奏のための《Projection 1》(1950) の原型になった。グラフで旋律をスケッチする手法はシリンガー・ハウス(後のバークリー音楽大学)で教えられた作曲システムに先例があり、グリッドを切って決めたリズム構造に音符をはめ込む手法もケージが打楽器合奏曲のために開発したものだが、旋律楽器でも音高を確定せずに「作曲」が可能だと示したことは彼の独創である。これはケージが《易の音楽》(1951) で「偶然性の音楽」に至るよりも前の出来事だった。

c0050810_17464649.jpg 彼が図形楽譜に至った背景として、ケージに導かれた美術への関心は見逃せない。翌年からは抽象表現主義の画家たちの交流会の常連になり、特にフィリップ・ガストンと親しくなった。「楽派のピアニスト」チューダーが、不確定性を含む譜面を読み解き演奏譜を作る作業を、作曲を学んだキャリアを演奏に生かす行為として歓迎したことも手伝って、各メンバーは思い思いの手法で「偶然性の音楽」を発展させた。ハーヴァード大学文学部に進んだウォルフと入れ替わるように、翌1952年からアール・ブラウン(1926-2002) が加わり、電子回路技師の経験を楽派初期の電子音楽に生かした。また、シリンガー・ハウスでジャズを学んだブラウンは、フェルドマンとは独立に図形楽譜に到達していた。

 フェルドマンの50年代前半の図形楽譜作品は、《Projection》シリーズ5曲(1950-51) と《Intersection》シリーズ4+1曲(1951/53) で出版曲は尽くされ、それ以外の曲(自演が前提のピアノ曲が多い)は伝統的な確定譜面で書かれている。彼にとっての図形楽譜はアイデンティティではなくイディオムであり、複数の記譜法を並行して使う姿勢を、絵画と彫刻を並行して制作する美術作家に喩えている。グリッドと数字で構成される彼のストイックな図形楽譜は、「抽象絵画のような図形」というこの記譜法の一般的なイメージとは様相を異にするが、このイメージはむしろブラウン《Folio》(1952-53) に由来する。ブラウンは50年代半ばから度々ヨーロッパに赴いてダルムシュタット国際現代音楽で講師も務めており、ヨーロッパにおける図形楽譜のモデルになったのはブラウン作品だった。

c0050810_17475084.jpg クラシック畑の演奏家には音高は特権的で、それが不確定であることは大きなストレスになる。ある者は苦し紛れに、ある者はサボタージュとして既存の旋律の切り貼りで音高選択を処理し、音楽が台無しになることも少なくなかった。1953年を最後に、彼がいったん確定譜面に戻ったのも無理はない。だが、それも1956年まで。この年は、抽象表現主義最大のスター画家ジャクソン・ポロックが交通事故死した年であり、図形楽譜による作曲と抽象表現主義が分かち難く結びついている彼にとっても大きな出来事だったことは想像に難くない。またこの年は、彼の最初の結婚が破綻した年でもある。

 彼は立ち直りも早く、同年にシンシアと再婚した。翌1957年にはピアノ連弾や複数のピアノのための曲に集中的に取り組み、「グリッド内の音符の音高のみ厳密に指定する」新しい書法を開発した。この書法は60年代末まで彼の作曲の中心になったが、ヨーロッパの「管理された偶然性」でも同様の書法が見られ、演奏実態にも即していた(むしろ音価は、厳密に指定しても守られることは殆どない)。ピアノ独奏曲《Last Pieces》(1959) や《Durations》シリーズ(1960-61) など、最初の代表作はこの書法から生まれている。翌1958年からグリッドと数字の図形楽譜作品も再び書き始めたが、あえて音高を指定せずにグリッド間を軽やかに飛び回る運動を生み出すという当初の意図は放棄して、トゥッティと沈黙が交代する、旋律的なソロがなるべく生じない展開に絞っている。

c0050810_17492651.jpg ペータース社は1960年からケージ、1962年からフェルドマンとウォルフの作品を網羅的に出版したが、この頃からチューダーは自作電子回路の即興的操作に基づいた活動に軸足を移し、ケージもチューダーに追随してマルチメディア・パフォーマンスに移行した。ウォルフはハーヴァード大学で西洋古典学の博士号を取得し、音楽とは無関係な研究生活に時間を割いた。相対的にフェルドマンへの注目が高まり、特に60年代前半は録音(ブラウンは録音技師の経験を積んだ後、Timeレーベル現代音楽部門のプロデューサーを任された)や大舞台での演奏(バーンスタイン/NYPによる定期演奏会での)に恵まれたが、新奇なコンセプトよりも漸進的な改良で質を高めてゆく彼の姿勢は米国では理解されず、振り回されただけとも言える。この時期を代表する《誤った関係と引き伸ばされた終結》(1968) や《カテゴリーの間に》(1969) などの作品は、60年代末に書かれている。

 ただし、「音高のみ厳密に指定」書法の円熟期は、私生活は底の時期だった。1960年代半ばから家業は傾き、生計が苦しくなってゆくにつれて二度目の結婚生活も冷え込み、1970年には破綻した。またこの年は、ポップアート絶頂の中でも抽象表現主義を守ったマーク・ロスコとバーネット・ニューマンが相次いで世を去り、フィリップ・ガストンも毒々しい具象絵画に転向して長年の親交が終わった年でもある。彼にとって、不確定性を内包した作曲と抽象表現主義の絵画は切り離せないもので、この界隈との交流が失われた時点で不確定性を含む作品を書き続ける気力も失せ、確定譜面に回帰した。ケージとの出会いから始まった、彼の創作歴の過半数を占める長い「前期」が終わった。

c0050810_17503924.jpg しかし、落ちるところまで落ちたらスカッと切り替えられるのが彼の強み。彼がいつまでも「ケージ一派」という扱いだったのは譜面も同じペータース社から出版していたからで、作風を転換した機会に出版社も、ヨーロッパに強いウニヴェルザール社に切り替えた(逆に言えば、この時点で彼を「ケージの亜流」ではないと評価する人々も存在した)。また、ニューヨークで生まれ育った彼は、芸術の最新動向に触れられる都市生活に拘りを持っていたが、もはや家業では暮らせないのであれば背に腹は代えられない。教職で生計を立てることを前提に、内外数校の非常勤講師や客員研究員を経て、ルーカス・フォスの招きでニューヨーク州立大学バッファロー校に職を得て同地に居を移した。結婚生活よりも上だった都市生活の優先順位は、抽象表現主義と縁が切れたら下がったのだろう。

 また彼は女性関係の切り替えも早い。確定譜面による最初の代表作《The Viola in My Life》シリーズ(1970-71) はヴィオラとアンサンブルの連作だが、ヴィオラ独奏者として想定されたカレン・フィリップスは新しい恋人に他ならない。彼女との関係が終わった後も、独奏楽器とアンサンブルという編成への偏愛は「中期」を特徴付ける。トゥッティと沈黙が交代し、トゥッティの音色変化に焦点を絞ったアンサンブル書法は、50年代末からの音高のみ厳密に指定した時期の方向性を受け継いでいるが、不確定性を排除した結果音色のコントロールはより精緻になった(近藤譲が最も影響を受けた部分である)。図形楽譜作品では既存の旋律の引用を防ぐため、不確定性を含む作品でも自己顕示欲の強い奏者の暴走を防ぐために、アンサンブル作品では旋律的なソロは極力排除していたが、確定譜面になればその心配はなく、むしろ差別化のために積極的に導入したのだろう。

c0050810_17520166.jpg この時期を代表する作品群は、《Cello and Orchestra》(1972) に始まる、独奏楽器とオーケストラのための連作である。この種の曲の演奏機会が得られるのは米国ではなくヨーロッパ、特に制度的に現代音楽に取り組むドイツの放送オーケストラであり、この連作でもチェロ、ピアノ(1975)、オーボエ(1976)、フルート(1977-78) のための4曲はみなツェンダー/ザールブリュッケン州立放送響が初演している。この連作に限らず、この時期の作品は楽器編成そのもののストイックなタイトルを持ち、自ら「ベケットの時代」と称していた。その総決算としてベケットに台本を依頼してオペラを書いたのは自然な成り行きだった。音響プロトタイプ3曲を書く入念な準備を経て、彼は《Neither》(1977) に臨んだ。彼がこの曲で「出し尽くした」ことは、ハイペースで書いていた声とアンサンブルのための作品を、この曲の後は殆ど書かなくなったことにも表れている。

 彼はニューヨーク州立大学で1974年に常勤職に昇格したが、それは研究室に大学院生が加わることを意味する。彼のもとには1976年にバニータ・マーカス(1952-) が入ってきた。彼女の基本的な作風は、調性的な素材を反復しつつ、和声進行を利用して展開する「ポストミニマル」書法だが、同世代の作曲家の多くは新ロマン主義的な文脈でこの書法を用いたのに対し、彼女はシステマティックな方法論と組み合わせた。中期フェルドマンの作風は、反復の積極的な使用も特徴のひとつだが、《Neither》以降の行き詰まり打開策としてさらなる反復(ただし不規則な)による長時間化を着想し、そのためには記憶に引っかかりやすい調性的な素材を用いることが有効である。彼女の研究室への参加は彼にとっても渡りに舟で、この意味では彼女は適切な研究室を選んだ。


c0050810_17533654.jpg 長時間化と調性化で特徴付けられる「後期」と中期の境界は、前期と中期のように明確ではなく行きつ戻りつしたが、分水嶺を定めるならば《Violin and Orchestra》(1979) になる。独奏楽器とオーケストラの連作の最後に位置し、管弦楽書法は中期を引き継ぐ一方、独奏パートの旋律素材には以後の作品で再利用されたものが多い。この次に書かれたのが弦楽四重奏曲第1番(1979)、少数の素材を不規則に反復し演奏時間は1時間半を超える、後期のプロトタイプである。彼の番号付き弦楽四重奏曲はもう1曲、5時間を超える第2番(1983) だけだが、それ以外にも独奏楽器と弦楽四重奏という編成でさらに3曲ある。すなわち、中期におけるオーケストラが後期は弦楽四重奏に入れ替わった格好になる。長時間作品に見合う練習時間をオーケストラに求めるのは非現実的という実際的な理由に加え、この時期の彼が重視したのは音色の変化よりも旋律断片の記憶の中での変容なので、アタックが目立たない弦楽四重奏の滑らかな音表面は理想的な表現媒体だった。

 また後期作品では、ピアノも弦楽四重奏と並ぶ大きな位置を占めている。弦楽四重奏を含まない編成では、ヴァイオリン、チェロ、フルート、打楽器からの組み合わせに、常にピアノが加わる。前期作品ではピアノが大きな役割を担っていたのは、自分で弾けることに加えてチューダーという信頼できる指標があったからだが、中期は独奏曲自体が少なくアンサンブル曲の中での役割も限られているのは、中期の協力者ウッドワードとの関係はそこまで緊密ではなかったということだ。だが後期は、高橋アキの「絶対的に静止した」タッチを基準にした長時間作品が、ピアノ独奏曲《三和音の記憶》(1981) を端緒に続々と書かれた。《バニータ・マーカスのために》(1985) もその中の1曲である。マーカスは1981年に博士号を取得し、フェルドマンの求婚を断ってニューヨークに移ったが、その後も密接な関係が続いた。彼女の公式サイトには「(フェルドマン後期にあたる)7年間の二人は分かち難く、手を携えて作曲し、音楽思考や発想を分かち合った」とある。

c0050810_18031479.jpg ニューヨークで活動を始めた彼女は、1982年に同地に移住してきた画家のフランチェスコ・クレメンテ(1952-) と親交を結んだ。80年代後半には連続サロンコンサートを共同企画している。イタリアに生まれ長年インドで暮らしていたクレメンテは、後期ガストンを思わせる具象画と抽象表現主義を受け継ぐ抽象画の二面性を持ち、晩年のフェルドマンも傾倒した。マーカスが委嘱し初演した彼の最後のピアノ独奏曲《マリの宮殿》(1986) はクレメンテに献呈されている。彼女の分析によると、この曲は彼女の旧作を明確に参照しているというが、本質的に1種類の素材を反復ごとに微妙に変容させてモノトーンと多様性を両立させる凝縮された書法は、《コプトの光》(1985) や《サミュエル・ベケットのために》(1987) にも見られる最晩年の新境地である。1987年6月、彼は研究室で博士号を取得したバーバラ・モンク(1953-) と結婚した。マーカスは彼女と親しく、結婚式では彼女のメイクを担当した。だがその数日後、胃潰瘍の手術を受けた際に末期の膵臓癌と診断され、同年9月に急逝した。葬儀では新妻ではなくマーカスが弔辞を述べている。

 マーカスは弦楽四重奏のための《絨毯職人》(1986) で少女時代の父親からの性的虐待を題材にし、作曲家として知られるようになった。彼女のキャリアはPTSDの発症でたびたび中断されたが、児童虐待被害者の支援活動を通じて克服し、音楽活動の傍らフェルドマンとの仲睦まじい思い出を語ってきた。だが2014年、彼女はイタリアの音楽情報サイトsentireascoltareのインタビューの中で、大学院生時代に彼からたびたび性的暴行を受け、それが原因で結婚生活が破綻したこと、作曲の素材や発想を彼に盗用されていたことなどを初めて語った。「7年間の二人は分かち難く…」という記述の真意、《絨毯職人》というタイトルの真意(彼は後期作品のテクスチュアをペルシャ絨毯に喩えていた)、彼女と出会うまでの彼の華やかな女性遍歴などとも整合的である。情報ソースはこのインタビューと当時のネット上の反応への彼女名義のコメントに限られ、また一方の当事者は四半世紀以上前に世を去っており、慎重に扱うべき事例ではあるが、複雑な権力関係を伴うハラスメントの被害者が真実を語るまでにはしばしば長い時間を要することは広く知られている。この事例は近年の#MeTooムーヴメントの中で再び注目され、追加取材を行ったジャーナリストもいるようだが、現時点で大きな矛盾は見出されていない。

c0050810_18050026.jpg ただし、後期フェルドマン作品は実はマーカスが作曲した、という単純な話でもない。彼女の作品と後期フェルドマン作品の持続の質は違い、それは彼の中期までの創作の積み重ねに由来する(ちなみに彼女は、「私と出会うまでの彼の音楽は退屈」という姿勢)。ケージと出会ってからの彼は、映画音楽のような特殊な機会以外は基本的に無調で作曲を行ってきた。後期の作風への飛躍は決して小さくなく、彼女がいなければ不可能だった。ハラスメントに寛容な時代背景と、父親からの性的虐待を内面化していた彼女の背景が、DVの共依存に似た不幸な関係を生んだ(80年代までの彼女のキャリアが「優秀な弟子」としての評価に支えられていたことも否定はできない)。彼女の痛みを意識することで、宗教的崇高さに傾きがちだった彼の後期作品への視座が広がることに期待したい。


【cf. リンク集】

https://sentireascoltare.com/articoli/bunita-marcus-intervista-2014/

https://nmbx.newmusicusa.org/hearing-and-remembering-trauma-in-bunita-marcuss-the-rugmaker/

https://nmbx.newmusicusa.org/who-is-bunita-marcus/

http://slippedisc.com/2014/12/us-composer-accuses-another-of-sexual-violence/ (コメント欄付)

https://slippedisc.com/2017/08/did-the-composer-write-this-piece-for-a-woman-he-raped/ (コメント欄付)

http://www.good-music-guide.com/community/index.php/topic,28007.20.html

https://twitter.com/bunitamuse


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Triadic Memories is jointly dedicated to Aki Takahashi and Roger Woodward. After the first German performance, Morton Feldman laconically described it as the “biggest butterfly in captivity", and it is indeed vast, lasting over an hour and a half. During the eighties, Feldman's pieces began to escalate in length – compared to the 5-hour String Quartet No. 2 or the 4-hourFor Philip Guston, Triadic Memories is almost aphoristic. Why these enormous lengths? Feldman says: "Personally, l think the reason the pieces are so long is that form, as I understand it, no longer exists... I'm not looking so much for a new form, I’d rather substitute the word scale or proportion, and in music it's very difficult to distinguish between a thing's proportions and its form...My pieces aren't too long, most pieces are actually too short...lf one listens to my pieces, they seem to fit into the temporal landscape I provide. Would you say that the Odyssey is too long?”

Let's not argue about Homer; there are other factors. During the eighties, Feldman became obsessed with 19th century Turkish carpets. Part of this interest was financial, and allowed him to die rich. But the patterning of these carpets also became a (musical) preoccupation for him, and is reflected in titles of late pieces such as Why Patterns? and Crippled Symmetries.This interest led him to completely reassess the role of pattern and repetition in his work, and, as indicated above, of 'scale':

“Music and the designs or a repeated pattern in a rug have much in common. Even if it be asymmetrical in its placement, the proportion of one component to another is hardly ever substantially out of scale in the context of the whole. Most traditional rug patterns remain the same size when taken from a larger rug and adapted to a smaller one...

I was once in Rothko's studio when his assistant restretched the top of a large painting at least four times. Rothko, standing some distance away, was deciding whether to bring the canvas down an inch or so, or maybe even a little bit higher. This question of scale, for me, precludes any concept of symmetry or asymmetry from affecting the eventual length of my music.

As a composer I am involved with the contradiction in not having the sum of the parts equal the whole. The scale of what is actually being represented, whether it be of the whole or of the part, is a phenomenon unto itself. The reciprocity inherent in scale, in fact, has made me realize that musical forms and related processes are essentially only methods of arranging material and serve no other function than to aid one's memory.

What Western forms have become is a paraphrase of memory. But memory could operate otherwise as well. In Triadic Memories, there is a section of different types of chords where each chord is slowly repeated. One chord might be repeated three times, another, seven or eight – depending on how long I felt it should go on. Quite soon into a new chord I would forget the reiterated chord before it. I then reconstructed the entire section: rearranging its earlier progression and changing the number of times a particular chord was repeated.

This way of working was a conscious attempt at formalizing a disorientation of memory. Chords are heard repeated without any discernible pattern. In this regularity (though there are slight gradations of tempo) there is a suggestion that what we hear is functional and directional, but we soon realize that this is an illusion: a bit like walking the streets of Berlin – where all the buildings look alike, even lf they're not.”

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For Bunita Marcus was untypical of my music, but I’ll tell you exactly how I wrote it, formally speaking. Not the notes; the notes didn’t write the piece. I have a talent for notes, the way some people have a talent for catching fish or for making money. I have no problems with notes. I just pull them back out of my ear – no problem at all.

For me, rhythm doesn’t exist. I would rather use the term “rhythmicize.” I started to get interested in metre; for me, at the moment when you use it, it implies the question, “How do I get beyond the bar-lines?” I wrote down 4/4, left a little space, drew a bar-line and then I wrote over that bar-line. “The black hole of metre,” because some people shouldn’t come too close to the bar-line – there is a lot of music where the style tends to pull it across the bar-line.

For Bunita Marcus mainly consists of 3/8, 5/16 and 2/2 bars. Sometimes the 2/2 had musical importance, like at the end of the piece. Sometimes the 2/2 acts as quiet, either on the right or the left or in the middle of a 3/8 or a 5/16 bar, and I used the metre as a construction – not the rhythm – the metre and the time, the duration which something needs.

What finally interested me were the “development sections,” where I was using mixed-metre. It went 2/2, 3/4, 5/8 … so I used metre up to a certain point as a period of instability. I didn’t consider it a development section where I – I can’t find a better expression – developed the metre. Then, like every other composer, I thought, how much change is possible in this grid? And I said; accelerate it or slow it down. But I couldn’t make a definitive plan – that wouldn’t work. It can only work if you go along with the material and see how it is turning out.

Morton Feldman

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by ooi_piano | 2018-04-04 21:40 | POC2017 | Comments(0)