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【増補】11月9日(金)19時 L.ベリオ全ピアノ作品+小内将人新作(音源リンクつき)

Portraits of Composers [POC] 第38回公演  ルチアーノ・ベリオ 全ピアノ作品
大井浩明(ピアノ)

2018年11月9日(金)19時開演(18時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp
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●P.エトヴェシュ(1944- ):《地のピアノ - 天のピアノ(L.ベリオの追憶に)》(2003/2006、日本初演) 約3分
●L.ベリオ(1925-2003)
  《小組曲》(1947) 約10分
   ~ 前奏曲 - 小エール第1 - ガヴォット - 小エール第2 - ジーグ
  《ダッラピッコラの歌劇「囚われ人」による5つの変奏》(1953/66) 約8分
  《循環(ラウンド)》(1965/67) 約4分
  《水のピアノ》(1965) 約2分
  《続唱(セクエンツァ)第4番》(1966) 約11分
  《土のピアノ - 田園曲》(1969) 約2分
●小内將人(1960- ):《ピアノ造形計画/国歌--運動と停滞による》(2018、委嘱新作初演) 約10分

 (休憩 15分)

●B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977、東京初演) 約8分
●L.ベリオ(1925-2003):《空気のピアノ》(1985) 約3分
  《火のピアノ》(1989) 約3分
  《塵》(1990) 約2分
  《葉》(1990) 約1分
  《ピアノソナタ》(2001) 約25分


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  《小組曲》(全5楽章)は1947年作曲、翌年にコモ(イタリア)で初演された。1975年に祖父エルネスト・ベリオ(1847-1942)、父アドルフォ・ベリオ(1883-1966)の作品とともにウニヴェルザル社から「ベリオ一家のアルバム」として出版。ガヴォットの中間部にミュゼットが差し挟まれるのは、シェーンベルク《組曲Op.25》(1921/23)の模倣というよりは、その元ネタであるバッハ《イギリス組曲第3番BWV808》の有名なト短調ガヴォットを直接的に参照している。
  《五つの変奏》は1952~53年に作曲、同年ミラノで作曲者自身により初演された後、出版にあたって1966年に大幅に改訂された。被献呈者であるイタリア人作曲家、ルイージ・ダッラピッコラ(1904-1975)のオペラ《囚われ人》(1948)で、看守が囚人に「兄弟よ」と呼びかけ、フェリペ2世に対するフランドル蜂起を伝える3音の動機(F-E-Cis)に基づく、5つの変奏と終結部から成る。後年ルイジ・ノーノも、打楽器アンサンブルとライヴエレクトロニクスのための《ルイジ・ダラピッコラとともに》(1979)で、このモチーフを援用した。

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  《循環(ラウンド)》は、まずモダンチェンバロ作品として1965年に作曲され、同年アントワネッテ・ヴィッシャーによりバーゼル(スイス)で初演。2年後にピアノ版へ改作され、指揮者マルチェロ・パンニに献呈、ジョエル・スピーゲルマンにより1968年ニューヨークで初演。第1部の譜面をひっくり返したものが第2部であり(変位記号はそのまま)、その後第1部がダカーポされる。「際限なく混淆され分岐する声部と音色の妙技」(ベリオ)。
  《続唱(セクエンツァ)第4番》は、ワシントン大学(セントルイス)の委嘱で、ブラジル人ピアニスト、ジョシー・デ・オリヴェイラ(カルヴァリョ)のために1965/66年作曲、同年同地で初演。1993年に改訂。《続唱》は独奏/独唱のための技巧的な作品のシリーズであり、全14曲(編曲を含めると19曲)を数える。その幾つかは協奏曲シリーズ《道(シュマン)》(全11曲)へと発展した。

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  《水のピアノ》は1965年作曲、1970年にブレシア(イタリア)でアントニオ・バリスタにより献呈初演。ブラームスのロ短調間奏曲Op.119-1やシューベルトのヘ短調幻想曲D940についてNYの友人達と雑談したことに着想を得たと云う。《土のピアノ》(1969)は米人批評家トーマス・ウィリスに献呈、1970年にベルガモでアントニオ・バリスタにより初演。《空気のピアノ》は、ピアノ協奏曲第2番《谺する曲線》(1988/89)のスケッチとして1985年作曲、翌年1月27日にフィレンツェでグレゴリオ・ナルディにより初演。当時21歳だったナルディが、《水》《土》に続く連作をベリオに手紙で問い合わせたのがきっかけらしい。《火のピアノ》は1989年作曲、同年NYでピーター・ゼルキンにより献呈初演。《塵》(1990)は、仏人ピアニスト、ミシェル・ウダル(1960-1993)に献呈。ウダル自身の録音が残っているので、早世したウダルへの追悼作品では無い。《葉》は、1989年に亡くなったロンドン・シンフォニエッタ音楽監督、マイケル・ヴァイナーの追憶に捧げられ、1990年5月6日ロンドンでポール・クロスリーにより初演。(ヴァイナー追悼作品としては、他にH.W.ヘンツェ《レクイエム》、武満徹《リタニー》《マイ・ウェイ・オブ・ライフ》、P.M.デイヴィス《単旋聖歌による葬送曲》、H.グレツキ《おやすみ》、O.ナッセン《密かな賛美歌》等がある。)1990年に『六つのアンコール曲』としてまとめて出版された際の楽章順は、《塵》-《葉》-《水》-《土》-《空気》-《火》、である。
  《ソナタ》は、チューリヒ音楽祭委嘱により2001年に作曲、ドイツ人音楽学者ラインホルト・ブリンクマンに献呈。2001年7月22日チューリヒ・トンハレにてアンドレア・ルケシーニにより初演。他界する2年前に書かれた、ベリオ最後にして最長のピアノ曲である。「古今のソナタに見られる二項対立については、統語論的に対手としていない」(ベリオ)。


■小内將人:《ピアノ造形計画  国歌~運動と停滞による》(2018)
  ピアノ造形計画とは、ピアノでどんな表現ができるのだろうかという自分なりの可能性を探ろうという取り組みのシリーズ。「国歌」で4作目だ。この作品には、日本を取り巻く国際情勢に対するアイロニーが国歌の引用という形で色々と表されている。曲は国歌のモチーフをふんだんに用いて賑やかで騒々しいカプリチオに始まり、特殊な響きを作り出そうとする中間部を経て再びカプリチオに終わる。素材はかなり自由に変容されているが、いくつの国歌が何カ所に引用されているかは皆さんの耳でご確認いただきたい。(小内將人)

●小内將人 Masato Kouchi, composer
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 1960年東京生まれ。明治学院大学文学部フランス文学科卒業。在学中より独学で作曲を始める。1983年仏ポワチエ夏期音楽大学に参加、パリ音楽院教授のM.メルレに対位法を学ぶ。 1986年第二回ヴィオラ・ダ・ガンバ作曲コンクール第一位入賞。1994年より「新しい世代の芸術祭」を主催。多くの若手リサイタルや他ジャンルとのコラボレーションを企画する。室内楽、管弦楽、オペラ、合唱、古楽、雅楽などの様々な分野に作品多数。



■B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977) 
  私は常に迷宮、迷路、カレンダー、カタログに関心を抱いてきた。私が作曲した幾つかの迷宮は、何度も出発が繰り返され、到着は錯覚に過ぎないような領域の探求である。この《カターロゴ》では、探査される領域は非常に狭く、中央Cから1オクターヴ上のCまでの13音の可能な組み合わせに限定されている。ピアニストの2本の手で、この音域で何通り(100万以上?)の異なる分配が可能か計算したことは無いし、正直なところ、反復されたかどうかもチェックしていない。
  たった今、最小限の使用音域のせいで、この曲がアメリカ・ミニマリズムと関連付けられると思い至ったが、しかしそれは本意ではない。単調さを避けるのは困難であろう。もっとも、狭い和音に加えて、不如意に加えられる低音、アクセント、平手打ちのように使われる音塊、演奏者によって控えめに歌われる二つの音、それにある種の装飾音、ペダルのノイズ等が現れる。ともあれ、この単調さは《カターロゴ》を悲しげな小品にしている。
  悲しみは私の人生とはかかわりが無く、私は幸福な人間である。そして音楽は、それが私の音楽でさえ、人生の出来事に添うものとしては深刻に過ぎる。私の忘れられた作品を大井浩明が演奏することに感謝する。(ブルーノ・カニーノ、2018年10月)




ルチアーノ・ベリオ覚え書き──野々村禎彦(音源リンク付)

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 ルチアーノ・ベリオ(1925-2003) はオルガニストを輩出した音楽家一家に生まれ、ピアニストを目指して音楽を学び始めたが、第二次世界大戦で徴兵されて銃の暴発で右手を傷め、やむなく作曲家に転じた。ピアノ演奏はその後も続け、ミラノ音楽院に留学してきたアルメニア系米国人キャシー・バーベリアン(1925-83) の伴奏を行う中で親密になり、1950年に結婚した。心ならずも作曲を選んだ彼は同世代の進歩主義には共鳴できず、新古典主義的な堅実な作風だった。だが、タングルウッドの講習会でルイジ・ダラピッコラ(1904-75) に学び、後期ヴェーベルンに傾倒していた師の影響でセリー音楽に興味を持ったことで、彼の歩みは大きく変わった。この運命の岐路にも、バーベリアンの存在は無視できない。イタリアは敗戦国とはいえ、クラシック音楽の本場ミラノからわざわざマサチューセッツ州郊外に学びに行くことは、妻の出身地でなければ有り得なかったはずだ。

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 ヨーロッパ戦後前衛の中心地ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加したベリオは、最新の流行を貪欲に吸収してゆく。総音列技法と管理された偶然性という戦後前衛の基本的な語法に加え、ブルーノ・マデルナ(1920-73) とイタリア国営放送(RAI)電子音楽スタジオを設立し(1955)、アンサンブルの空間配置なども試みた。5楽器群のための《アレルヤII》(1957-58) に至る作品群によって彼は戦後前衛を代表する作曲家のひとりに数えられるようになったが、彼が示したのはブーレーズやシュトックハウゼンのような開拓者精神ではなく、誕生後間もない語法ですら職人的洗練の対象として扱えることだった。左翼的な主題の表現のためなら調性も具体音も躊躇なく使ったルイジ・ノーノ(1924-90) とも対照的だ。なお、バーベリアンは活動初期から現代音楽に積極的に取り組んでいたわけではなく、ジョイスの詩によるベリオ《室内楽》(1953) の初演後数年は育児に専念していた。

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 バーベリアンの最初の本格的な仕事は1958年、ウンベルト・エーコとベリオが企画したラジオ番組で朗読を担当したことだった。この際のジョイス『ユリシーズ』の朗読の録音を徹底的に加工して彼の電子音楽の代表作《テーマ》(1958) が生まれた。RAIスタジオは国外の作曲家への新作委嘱も行ったが、ケージは《フォンタナ・ミックス》(1958) 制作中に《アリア》(1958) をバーベリアンのために書いた。そして「現代音楽の歌姫」は覚醒した。この曲を通じて彼女の現代音楽解釈能力は広く知られるようになり、内外から作品献呈が相次いだ。ベリオも彼女の歌唱に刺激されて声楽書法を研究し、前衛前期の代表作である《サークルス》(1960) (その1その2)や《主の顕現》(1959-61) を彼女の演奏を前提に書いた(あるいは、彼女の演奏がこれらの曲を彼の代表作に引き上げた)。

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 ベリオの電子音楽のもうひとつの代表作《顔》(1960-61) も、バーベリアンの声が素材である。シュトックハウゼンや湯浅譲二のように、正弦波発振音やホワイトノイズから未知の音響を作り出す志向は彼は持っておらず、既存の素材の精緻な加工が、彼にとっての電子音楽制作だった。この作品では特定のテキストを用いずに彼女の声のニュアンスを活かそうとした。それに応えて狂気の淵まで降りた彼女の表現は凄まじく、さすがのベリオも収録中に耐えられなくなってスタジオから逃げ出したというが、この時期の作品中でもインパクトの強さは飛び抜けている。ただし、声の魔力に目覚めてしまった彼女は、私生活のパートナーとしては強烈すぎる存在になっていた。

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 彼は1962年からオークランドのミルズ・カレッジで教え始める。当初は長期休暇を取るミヨーの代役という形だったが、その前年にはRAIスタジオを辞しており、そのまま米国移住する予定だったものと思われる。バーベリアンと距離を取って新生活を始めることが、大きな動機だったのだろう。ヨーロッパ時代の集大成《パッサジオ》(1961-62) の後、《セクエンツァII》(1963) から《見出される曲線上の点》(1974) までの、米国での音楽経験が色濃く反映された前衛後期の作品群こそが、作曲家ベリオのピークにあたる。彼は渡米後程なく、後に高名な心理学者となるスーザン・オヤマと暮らし始め、彼女と結婚するためにバーベリアンと正式に離婚するが、その年に現代音楽では屈指の人気曲となる民謡編曲集《フォーク・ソングス》(1964) をバーベリアンのために書き(彼女が採譜したアルメニア民謡も含まれる)、ふたりはその後も音楽上の重要なパートナーであり続けた。彼女のキャリアはここからが本番で、《ビートルズ・アリア》(1967)、モンテヴェルディから自作まで取り上げた《マニフィキャシー》(1971) などのアルバムでクラシック音楽界を超えて知られるようになった。なお、大井の師ブルーノ・カニーノ(1935-) は、彼女の伴奏者としても名高い。

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 彼が自ら手を動かして電子音楽制作に打ち込んだのはRAIスタジオ時代までだが、むしろスタジオを離れたことで、その経験は創作全体に広がった。器楽ソロの《セクエンツァ》シリーズでは、《サークルス》と一緒に最初のLP (WERGO, 1967) に収録された I (1958) / III (1965-66) / V (1966) が特に有名だが、各々ニコレ/バーベリアン/グロボカールが録音したことも手伝って、超絶技巧がテーマだと思われがちだ。だが、真の狙いは持続音の和声の精妙な制御にあり、テープ上で音色と残響を加工する操作の器楽曲への応用に他ならない。ソステヌート・ペダルを駆使したIV (1965-66) の実演はそれを体感する良い機会になるだろう。和声や対位法の拡張とコンテクストの置換を通じて小編成旧作を大編成に拡大する「注釈技法」は、《セクエンツァ》シリーズを《シュマン》()シリーズに発展させるところから始まったが、これもテープ加工操作の器楽曲への応用とみなせる。

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 ダンテ生誕700年記念曲《迷宮II》(1963-65) はベリオ終生の代表作になった。ダンテ作品と関連作品を再構成したテキスト+アンサンブルに大編成フリージャズ、合唱にスキャットを全面的に導入+サイケデリックな電子音の背景という構成は、ヨーロッパの伝統と米国の同時代が交錯する、前衛後期の豊かな時代様式の最良のサンプルだ。これに匹敵する作品は、B.A.ツィンマーマン(1918-70) 終生の代表作《ある若き詩人のためのレクイエム》(1967-69) くらいだろう。ミシェル・ポルタル(クラリネット)、ジャン=フランシス・ジェニー=クラーク(コントラバス)、ジャン=ピエール・ドゥルーエ(打楽器)ら、現代音楽とヨーロッパ・フリージャズ双方で活動する初演メンバーがリードする祝祭的な自演録音()も面白いが、ジョン・ゾーンとの共演歴も長いロックヴォーカリストのマイク・パットンが、あえて現代音楽的な音色の複雑さと間に焦点を合わせたIctusアンサンブルの精緻な音世界を達者な語りで引っ張る、パットンの個人レーベルからリリースされた2010年ライヴは、リーマンショック後の陰鬱な世界を反映した、今日の音楽に生まれ変わっている。

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 彼のもうひとつの終生の代表作が、NYP創立125周年記念作品として委嘱され、マーラー《復活》(当時の音楽監督バーンスタインの十八番)の第3楽章を泰西名曲の引用で装飾した第3楽章、キング牧師追悼曲《おおキング》(1968) を第2楽章として含む《シンフォニア》(1968/69) である()。レヴィ・ストロースのテキストをスウィングル・シンガーズが歌う設定は多元的文化状況を象徴しているが、音楽的には《迷宮II》よりも随分マイルドで、いまだ日本未初演の同曲とは対照的に、この曲は現在では《セクエンツァ》シリーズと並んで日本でも頻繁に演奏されている。


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 1965年からジュリアード音楽院で教え始めたベリオは教育にも力を入れ、翌年にジュリアード・アンサンブルを結成した。ミルズ・カレッジではスティーヴ・ライヒ(1936-) やフィル・レッシュ(1940-, グレイトフル・デッドのベーシスト)、同時期に欧州ではルイ・アンドリーセン(1939-) らを教えた。すなわち彼は、ある意味では「ミニマル音楽の父」にあたる。また、1972年の帰国後の代表作である、《2台ピアノのための協奏曲》(1972-73) や《見出される曲線上の点》を特徴付ける反復書法は、米国でのミニマル音楽の記憶の反映とみなせる。彼はイタリア帰国の理由を、国際的な委嘱で忙殺されホテル暮らしが常態になった中で、祖国での日常生活への郷愁が芽生えたと説明するが、その前年にはジュリアード音楽院を辞してオヤマとも別れており、米国移住時と同様のパターンと推察される。その中で1974年からはIRCAM電子音響部門ディレクターに就任し、ホテル暮らしは続いたが、1977年の最後の結婚を機にシエナ近郊の農村ラディコンドリに居を構えた。

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 合唱とオーケストラのための《合唱》(1975-76)()、チェロとアンサンブルのための《夢への回帰》(1976-77) からヴィオラ協奏曲《》(1984) に至る、彼のポスト前衛時代の最初の10年の作品群を特徴付けるのは、民謡素材への強い関心である。一般にはこの時期の代表作とされる、イタロ・カルヴィーノのテキストによる音楽劇《真実の物語》(1977-81)() と《聞き耳を立てる王》(1979-84) も、この傾向の一翼をなす。彼はIRCAMのディレクターを1980年まで務め、この間に電子音響部門では音響合成システム4Xを開発したが、クラリネットとの相互反応の実験(器楽パートのみ《セクエンツァIX》(1980) として発表し破棄)など、成果はいくつかの試作に留まった。バーベリアンは1983年に世を去り、彼は追悼音楽《レクイエス》(1984-85) を書いた。私見では、これがベリオが輝いていた最後の作品であり、彼の作曲家としての生涯はまさに彼女とともにあった。

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 その後の歩みで特筆すべきは、IRCAMディレクター時代の探求を引き継いだ、実用性を重視した音響合成システムを開発する研究所「テンポ・レアール」を1987年にフィレンツェに設立し、自作にも積極的に応用し始めたことだが、肝心の音楽の魂が抜けた状態で、オーケストラのリアルタイム音像移動を行っても… 彼の「注釈技法」は、多作な作曲家の生産性を支える秘訣としてW.リームらにも参照されたが、この時期になると《見出される曲線上の点》のオーケストラ版《協奏曲II:谺する曲線》(1988-89)、《主の顕現》のオーケストラ版《エピファニーズ》(1991-92) など、アンサンブルの代表曲まで再加工の対象にした。だがそれらは、弦楽四重奏の魅力が弦楽合奏に編曲した途端に失われる、クラシック音楽でも馴染み深い失敗の再生産にすぎなかった。なおこの時期には、シューベルトのニ長調交響曲の補筆完成版《修復》(1989-90) など、クラシック音楽の創造的編曲にも取り組んだ。戦後前衛とは一線を画した音楽職人にふさわしい終の住処だった。


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by ooi_piano | 2018-10-25 01:53 | POC2018 | Comments(0)