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浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2018年11月30日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)

【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838



【演奏曲目】
●G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)  18分
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
●L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)  25分
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
(休憩10分)
●H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)  25分
●J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)  16分
●N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)  4分


□浦壁信二 Shinji Urakabe, piano
  1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ、’03年CD「ストラヴィンスキーピアノ作品集」'12年「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

□大井浩明 Hiroaki Ooi, piano
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSICA VIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival(ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers (POC)」を開始、現在までに36公演を数える。公式ブログ: http://ooipiano.exblog.jp/



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自作のシェーンベルクの肖像画の前でポーズをとるガーシュイン


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ベルクのガーシュイン宛メッセージと「抒情組曲」第2楽章冒頭が書き留められたカード



ガーシュイン~モダニズムに魅せられた放蕩児
~「アメリカのヴォツェック」としての『ポーギーとベス』(甲斐貴也)

  『ラプソディ・イン・ブルー』とスタンダードナンバーの数々により、ジャンルを超えて多くの人々を楽しませてきた作曲家ジョージ・ガーシュイン。彼はクラシック音楽を愛好し研究するなかでも、20世紀前半現代音楽界の最前衛、新ウィーン楽派の作曲家アルバン・ベルクに心酔し、その作風に影響を受け、それどころか逆に影響を与えていた


■帝政ロシアのユダヤ人ゲルショーヴィチ~革命以前のユダヤ人大移住

  帝政ロシアはほぼ一貫してユダヤ人追放政策をとってきたが、18世紀末の女帝エカテリーナのポーランド分割による領土獲得によって100万人ものユダヤ人が領内に居住することとなり、追放政策は事実上無意味になって廃止された。啓蒙思想の影響もあって世界に先駆けてユダヤ人の自由化が進んだロシアにさらにユダヤ人が流入したが、その数の多さは次第に脅威となり、エカテリーナ2世は指定した定住区域からの移動をユダヤ人に禁じる措置をとった。それでもその後19世紀末には帝政ロシアのユダヤ人口は500万を超え、世界最大に達していた。1881年の皇帝アレキサンドル2世暗殺事件にユダヤ人活動家が関わっていたことに端を発する、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害の民衆暴動の広がりは数多くの犠牲者を出した。被害者も加害者もほとんどは貧しい下層民だったが、アレキサンドル3世はこれをユダヤ人の商工業進出による有害な活動が原因として、居住地域と商業活動のさらなる制限を課す反ユダヤ法「5月法」を制定した。こうした状況からロシアのユダヤ人の多くが国外移住に希望を託し、またある者は革命運動に、またある者はパレスチナにユダヤ人国家の建国を目指すシオニスト運動に身を投じた。国外を目指したユダヤ人の7割が選んだのが、かのリンカーンが人種法を撤廃した自由の国アメリカであり、1881年から1910年にかけて実に300万ものユダヤ系ロシア人が渡米したという。

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米国移民局のあったニューヨークのエリス島に到着した移民たち。


  ジョージ・ガーシュインの祖父ヤーコフ・ゲルショーヴィチはヴィリナ(現リトアニア首都ヴィリニュス)で生まれたユダヤ人で、10歳で帝政ロシア軍に徴用されたが、25年の兵役を勤め上げたおかげで居住地や旅行の自由を得、退役後の事業の成功もあってサンクトペテルブルグ近郊に移り、比較的裕福に暮らしていた。その息子でジョージの父となるモリス・ゲルショーヴィチは若くして婦人靴の革加工で身を立てていたが、自らも25年の兵役が待っていた。その入営の期限が目前になったこと、結婚を願っていた娘ローザ・ブラスキンが一家でニューヨークに移住してしまったことで、モリスもアメリカ移住を決意する。
  先に渡米しブルックリンで仕立て屋をしている母方の叔父グリーンスティンを頼り単身船に乗ったモリスだが、ニューヨークに到着した時に自由の女神を見ようと舷側に駆け寄った際、叔父の住所を記したメモを内バンドに挟んだ帽子を風にさらわれ海に落としてしまった。しかし生来楽天的で行動的なモリスはめげずに、当時ニューヨークで一番大きいユダヤ人街のあったマンハッタンのロウアー・イーストサイドに安宿を見つけ、早速賭けビリヤードで30セント稼いだ。その金を交通費に地下鉄でブルックリンに行き、そこから足を延ばしたブラウンズヴィルでついに「仕立て屋のグリーンスティン」を探し出した。モリスは英語を一言も話せなかったが、既に多くのユダヤ系ロシア移民がいたので、イディッシュ語とロシア語で全て何とかなったのだ。

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ニューヨークに到着し、自由の女神を眺める移民たち


  そして更なる幸運が待っていた。アメリカ風にローズ・ブルースキンと名を変えたローザに再会したのだ。しかも彼女の父親は婦人靴製造の職工長で、モリスの希望していた皮革加工の職を得ることができた。1895年7月、二人は結婚した。


■ガーシュインの『イーストサイド物語』

  翌1896年に兄アイラが、1898年にジョージが生まれ、そして弟アーサーと妹フランシスが加わり4人兄弟となった。この4人は程度の差こそあれ皆が才能に恵まれていた。モリスはゲルショーヴィチからガーシュヴィンGershvinと名を変えた(のちにジョージがさらにGershwinに変えた)。家の向いがユダヤ教会だったにもかかわらず、一家は信仰心が薄く、宗教行事に重きを置かなかった。ユダヤ教の成人式バルミツヴァーを受けたのは兄弟でアイラだけだった。楽天家で行き当たりばったりの父親は、その後新しい商売を始めては投げ出して職を転々とし、いつも職場の近くに住みたがるために一家は引っ越し続きだった。当時のユダヤ家庭としては異例に自由放任と言っていい母親の元で、内向的で真面目な兄アイラが読書家の優等生だったのに対し、ジョージは自由闊達というより、いっぱしの不良少年に育っていった。学校では問題児で通っており、優等生のアイラが教師に何度も取りなす羽目になった。体格が良くて喧嘩っ早く、しょっちゅう生傷を作り、通りで仲間とホッケーやローラースケートに興じた。当時のニューヨークの街ではユダヤ系、イタリア系、アイルランド系の移民の少年たちがそれぞれの縄張りをめぐって争っており、まるでミュージカル『ウェストサイド物語』さながらだが、実際『ウェストサイド物語』の初期の構想ではまさにロウアー・イーストサイドのユダヤ人とイタリア人カトリックの抗争に設定されており、タイトルも『イーストサイド物語』だったのである。ジョージもそうした街の悪童の一人として闊歩し、さらには9歳でガールフレンドを作ったと友人に吹聴しており、その後売春宿に通うことを覚えてこれは生涯続いたという。

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ニューヨークの新聞少年たち


  音楽に関心のなかったジョージが初めて音楽に心を動かされたのは、6歳の時にゲームセンターの自動ピアノが奏でるアントン・ルビンシテインの「へ調の旋律」だったという。だがこの件は単発的に終わり、本格的に音楽に目覚めたのは、その6年後12歳の時に学校で1歳年下の、後にヴァイオリニストとして名を成したマクシー・ローゼンツヴァイクの奏でるドヴォルザーク「ユモレスク」を偶然に聞いてからだった。
  この音楽にすっかり心奪われたジョージはマクシーと友達になり、音楽談議に明け暮れるうち、マクシーの伴奏者になることを夢見て、マクシーの家や他の友達の家でピアノの練習を始めた、
  ちょうどその頃母ローズが、妹(ジョージたちの叔母)ケイトがピアノを購入したから自分もという理由で、経済的な余裕のない中無理をして、中古のアップライト・ピアノを月賦で買った。ローズは叔母にピアノを習っていたアイラに弾かせるつもりだったが、いざピアノが運び込まれると、悪童ジョージがいきなりピアノに突進し、さっさと回転椅子の高さを調節すると、その頃家族がよく歌っていた流行歌を即興の装飾をまじえて華麗に1曲弾き切った。これには家族一同腰を抜かして驚いてしまった。ジョージがピアノを練習していたことを誰も知らなかったのだ。1910年春のことだった。


■ティン・パン・アレーの売れっ子から「ラプソディ・イン・ブルー」作曲へ

  その後親の許しで何人かのピアノ教師にピアノを習い、当時既に名を成していたアーヴィング・バーリン(Irving Berlin 1888?1989)とジェローム・カーン(Jerome David Kern 1885-1945)に傾倒しながら、クラシックの演奏会にも通い始めた。1912年にヴァイオリンのエフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist 1889-1985)、ピアノのジョゼフ・レヴィン(Josef Lhevinne 1874-1944)(モスクワ音楽院で同級のスクリャービン、ラフマニノフを凌いだという伝説の名手)、そして前衛作曲家・ピアニストのレオ・オーンスタインLeo Ornstein(1893-2002)(ヘンリー・カウエルに先駆けてトーンクラスターを駆使したモダニスト)、の演奏を聞いた。上記5人の音楽家はいずれもユダヤ人で、ドイツ系のカーン以外はロシア系である。1913年にはアマチュアのベートーヴェン協会管弦楽団でピアノを弾いた。その頃に初めて試みた作曲の成果のひとつは、シューマンの「トロイメライ」にラグタイムのリズムを付けた「ラッギング・トロイメライ」だった。
  ジョージのピアノ教師の1人、ハンガリーの指揮者フォン・ツァーリは、スケール練習の代わりに、自らピアノ編曲したロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲を教え込むという風変わりな教育を施した。その次についた同じくハンガリー出身の音楽家チャールズ・ハンビッツァーは、大げさな抑揚とテンポの変化をつけたジョージのその演奏に驚き、「こんなのを教える奴の頭に弓矢を一発お見舞いしたいな、リンゴは無しでね。」と言った。ハンビッツァーはオーケストラのほとんどの楽器を演奏できたという才人で、和声法、対位法、管弦楽法を学んでおり、管弦楽曲とオペレッタの作曲と、劇場オーケストラの指揮も手掛けていた。新しい音楽にも関心があり、アメリカでシェーンベルクの「6つのピアノ小品 作品19」を演奏した初期の1人となっている。前教師と異なりハンビッツァーはジョージに音楽理論の基礎と、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、リスト、さらには当時最新のドビュッシーやラヴェルのピアノ音楽を手ほどきした。14歳のジョージは、ポピュラーソングを評価しないハンビッツァーに、アーヴィング・バーリンはアメリカのシューベルトだと力説したという。
  その後ハンビッツァーの紹介でキレニーに和声法を習い、またリュビン・ゴルトマルク(カール・ゴルトマルクの甥でアーロン・コープランドも師事している)にも教えを受けたが、3回目のレッスンで以前に作曲した弦楽四重奏のための小品「子守歌」を見せたところ、ゴルトマルクが自分のレッスンの成果に満足したと言うのでレッスンをやめてやったという話を、ジョージ自身が事あるごとに笑い話にしていたという。この頃に管弦楽法をみっちり学ばなかったことでジョージは後に苦労することになる。
  ともあれジョージの演奏会通いは更に熱心になり、ニューヨーク・フィル、ニューヨーク交響楽協会管弦楽団(後にニューヨーク・フィルと合併)、ロシア交響楽協会(ユダヤ系ロシア人の演奏家を主とする楽団で、ラフマニノフ、スクリャービン、ストラヴィンスキー、シベリウス作品などの米国初演を行った)、指揮者ではピエール・モントゥー、ピアノではユダヤ系ポーランド人の大ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーLeopold Godowsky(1870-1938)を聴いている。

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ピエール・モントゥーと


  音楽の道に進むと心を決めたジョージに、母の希望で通っていた商業高校は煩わしいものになっていた。決定的になったのは叔母ケイトの結婚式で演奏されたジェローム・カーンの曲、”You’re Here and I’m Here” 、“They don’t belive Me”を聴いたことだった。1914年、友人から音楽出版のリミック社にソング・プラガー(ポピュラーソングの新曲の楽譜を売り込むためにピアノで弾いて聞かせる係)の空きがあると聞いて応募し合格した。ジョージは母親の反対を押し切って高校を退学し、最年少15歳のソング・プラガーが誕生した。
  それから曲折を経て、顔を黒く塗った白人歌手アル・ジョルスンが歌った「スワニー」の大ヒットにより一躍名声を得、ティン・パン・アレーの営業ピアニストからミュージカル・コメディ作家の寵児にのし上がるまでの成功物語は、いくつもの評伝を参照していただくとして、ガーシュインの音楽が米国クラシック音楽界はもとより国際的にも注目され、大きな影響を与えた作品『ラプソディー・イン・ブルー』の成立するまでに移ろう。

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1920年代のニューヨーク、ロウアー・マンハッタン



■「アフロ・アメリカン風オペラ」『ブルー・マンデイ』

  ジョージは興業主ジョージ・ホワイトのシリーズ・ショー『ジョージ・ホワイツ・スキャンダルズ』の歌を書いていたが、作詞担当のB.G.デ・シルヴァは興業主に、ショーの中の出し物として、ガーシュイン作曲の1幕物の黒人オペラを提案した。デ・シルヴァはジョージの未発表のピアノ作品「ノヴェレッテ」(1919)、弦楽四重奏のための「子守歌」(1919)を知っており、その作曲力に新しい試みを期待したのだ。ジョージ・ホワイトは当初断ったが、思案の末やらせてみることにした時には、公演が三週間後に迫っていた。ジョージとデ・シルヴァは五日間不眠不休で作詞作曲に取り組み、オーケストレーションは黒人の作編曲家兼指揮者ウィル・ヴォダリーが担当した。これがジョージ・ガーシュイン初のオペラであり、公式的には初のシリアスな音楽となる。
  物語は、一人の女性をめぐる三角関係から起きた誤解による嫉妬で女性が主人公を拳銃で撃ち、瀕死の主人公が朗々と無実の真相を歌い上げた後に死ぬという型通りの悲劇である。
  1922年8月22日の初演は黒人でなく顔を黒く塗った白人によって演じられ、演奏は当時売り出し中のポール・ホワイトマン・バンドが担当した。大方の評価は『ワールド』紙による、「ひどく馬鹿げた物語の最後に主人公を撃つ、顔を黒く塗ったソプラノは、最初に出演者全員を撃ってから自分を撃つべきだった」というものに近かったが、W.S.なる批評家は、このある意味『ポーギーとベス』を予告した作品を、ブルース、ジャズ、ラグタイムを使用した、抒情的な歌とレチタティーヴォによる、真のアメリカ民衆のオペラが誕生したと預言的に称賛した。そして伴奏の指揮をとったポール・ホワイトマンも、ジョージの作曲手腕に感銘を受けていた一人であった。興業主はその後一度再演させたものの、物語が暗すぎてショーの客の機嫌を損ねるという理由でそれっきりとなった。実際にはこの企画に興味を持ってスポンサーとなっていたアル・ジョルスンの意向とされる。


■エヴァ・ゴーティエの「古今歌曲リサイタル」でクラシックコンサートにデビュー

  翌1923年11月1日、フランス語圏カナダのメゾ・ソプラノ歌手エヴァ・ゴーティエ(Eva Gauthier 1885-1958)が、当時カーネギーホールに次いで格の高いクラシック専用ホールだったニューヨークのエオリアンホールで開いたリサイタルに出演し、ジョージはクラシック音楽界にデビューした。彼女の友人だったモーリス・ラヴェルと、ジョージの音楽を高く評価していた作家・写真家カール・ヴァン・ヴェクテン(Carl Van Vechten, 1880 - 1964)が、現代アメリカの歌曲、それも「ジャズ」を歌うようエヴァに勧め、ヴァン・ヴェクテンの紹介でジョージがアメリカ現代作品の部を伴奏した。「古今歌曲作品リサイタル」と名うたれたプログラムは「古典」「現代ハンガリーとドイツ」「オーストリア」「イギリス」「ドイツ」「アメリカ現代」の6部に分かれ、パーセル、バード、ベッリーニ、ペルッキーニ、ヒンデミット、バルトーク、ベルク編曲のシェーンベルク『グレの歌』~「山鳩の歌」(米国初演)、アーサー・ブリス、ミヨー、ドラ-ジュ、そしてアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、そしてガーシュインという盛りだくさんで大胆な演奏会である。シェーンベルク作品を取り上げていることからか、彼がウィーンで設立した国際現代音楽協会(ISCM)が資金援助をしている。
  アメリカの部のみの伴奏を担当し、ティン・パン・アレーの派手な表紙の楽譜を持ったジョージがステージに登場すると聴衆から失笑が漏れたというが、いざバーリンの「アレグサンダーズ・ラグタイム・バンド」を弾き始めると、聴衆はすぐに魅了されてしまった。リムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』の一節から始めて、自作「楽園への階段を作ろう」に巧みに移行すると、客席に感嘆のどよめきが起きた。ジョージの伴奏したアメリカの部は大好評で、アンコールに自作「もう一度愛して」が2回演奏された。当時はもちろん現代の聴衆にでさえかなり難解な同時代作品に比べて、ジョージの即興的で華麗なピアノ伴奏によるポピュラーソングが大受けしたろうことは想像に難くない。この出演はセンセーションと言って良い成功をおさめ、3か月後にボストンで再演された。なおゴーティエはわが国では今日ほとんどラヴェル、ガーシュインらと並んで写った写真のみで知られる歌手だが、1913年頃にインド、ジャワ、上海とともに日本にも来ているという。この演奏会以後ジョージは名士たちのパーティに招かれるようになり、上流社会入りするきっかけにもなった。

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「古今歌曲リサイタルのプログラム」


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ヴァン・ヴェクテン撮影のガーシュイン(1938)


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ヴァン・ヴェクテン撮影のエヴァ・ゴーティエ



■デンヴァーの放蕩息子、自称「ジャズの王」ポール・ホワイトマン

  『ブルーマンデイ』での共同作業で知り合ったポール・ホワイトマンはジョージより8歳上で、父はコロラド州デンヴァー交響楽団の指揮者とデンヴァー市公立学校の音楽教育監督官を務め、母は元オペラ歌手だった。ヴァイオリンとヴィオラを学びデンヴァー響のヴィオラ奏者になったが、若くから酒癖女癖が悪く、あまりの素行の悪さに父に勘当され、カリフォルニアに流れてサンフランシスコ交響楽団員となった。当地で飲み歩いたダンスホールで、サックスを導入した初期の白人バンド、アート・ヒックマン・バンドの演奏に感銘を受け、さらには交響楽団員のギャラよりはるかに収入が多いことに驚いて、自らもバンドリーダーを志した。バンジョー奏者マイク・ピンジドアのバンドに指揮者兼ヴァイオリン奏者として加入し、小柄で足の悪いピンジドアの代わりに見栄えのいい長身偉丈夫のホワイトマンがリーダーを務めるうち、乗っ取るような形で自らの名を冠したバンドにしてしまった。
  ヒックマンのバンドにいた若いアレンジャーがファーディ・グローフェで、彼もクラシック畑の人物だった。祖父はメトロポリタン歌劇場のチェリスト、叔父はロサンジェルス・フィルのコンサートマスター、母はセミプロの弦楽器奏者で父はコメディアン兼バリトン歌手だった。グローフェを引き抜いたホワイトマンは、奏者のアドリブを廃して譜面通りの演奏をするスタイルを確立した。
  ビクターレコードと契約して発売したレコード「ジャパニーズ・サンドマン」(1920)は250万枚売れたという。フォックストロットとレーベルマークに記されたこの曲は、ジャズとも日本とも縁がない社交ダンス音楽で、他のレパートリーも似たようなものだったが、プロのクラシック演奏家ホワイトマンの統率とグローフェの編曲手腕に加え、その後に伝説のコルネット奏者ビッグス・バイダーベックや、トロンボーンのドーシー兄弟という白人の名演奏家、さらには黒人のトロンボーン奏者ジャック・ティーガーデンらの真正ジャズの名ソリストを起用するというホワイトマンの鑑識眼により、その実態は今で言うジャズのビッグバンドではなく(いまだスイング・ジャズも出現していなかった、ディキシーランドジャズの時代である)ダンスバンドではあったが、ジャズ色濃く演奏力の高い楽団に成長していった。


■『ラプソディー・インブルー』の大成功

  1924年1月4日の夜、ジョージとデ・シルヴァがブロードウェイの店でビリヤードをしているとき、翌日の朝刊を読んでいたアイラは、2月12日にエオリアンホールで開かれるポール・ホワイトマンの『現代音楽の実験』という演奏会の広告を見つけて驚いた。ラフマニノフ(ホワイトマンを称賛していた)、ハイフェッツ、ジンバリスト、アルマ・グルック(ユダヤ系ルーマニア人の著名オペラ歌手でジンバリストの妻)らがパネリストとして出席するこの企画のための書き下ろしの作品として、アーヴィング・バーリンの交響詩、ヴィクター・ハバートの新作、そしてジョージ・ガーシュインが「ジャズ・コンチェルト」を鋭意作曲中であるという。アイラがジョージに問いただすと、驚いた様子もなく、奴は本気でやる気なのかと言う。
  ポール・ホワイトマンによれば、ライバルのバンドリーダー、ヴィンセント・ロペスが、W.C.ハンディの新作「ブルースの進化」を売り物にした同様の趣旨の演奏会を予告しており、それに先んじるため、ジャズ風の協奏曲の新作を打診していたジョージの承諾を得る前に公表したのだという。
  当初断ることも考えていたが、既に構想を巡らせていたジョージには、ジャズはリズムが一定したダンス音楽という偏見を打破したいという思いがあり、時間的制約からも古典的な協奏曲ではなく、異なる曲調を自由な構成で接続するラプソディ(狂詩曲)という形を取ることにした。2台ピアノのスコアで作曲を始めたが、オーケストレーションに不慣れであること(ミュージカルのオーケストレーションは、作曲家ではなく専業の編曲者が行うのが通例だった)、時間的制約とホワイトマン・バンドの各メンバーの能力に合わせて書く必要があることから、バンド専属の編曲者グローフェにオーケストレーションを依頼した。グローフェはガーシュインの指示した楽器編成にとらわれず自由に編曲し、部分的にはガーシュインの承認を得て音形の変更も行った。ピアノパートは演奏会当日までに完成できず、開演時間を過ぎてから控室でようやく書き上げたという。
  演奏会には各界の名士が訪れたが、音楽家では前記4名のほか、ストラヴィンスキー、クライスラー、ミッシャ・エルマン、ストコフスキー、マーチ王ジョン・フィリップ・スーザ、ストライドピアノのウィリー・ザ・ライオン・スミスらがいた。
プログラムは当時の典型的なジャズである白人バンド、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ニック・ラロッカ作曲)の曲「貸し馬ブルース」に始まり、続いて様々なジャズとクラシックの融合を試みた楽曲が演奏された。バーリンの「交響詩」は、バーリンが楽譜を書けないために実現の可能性がないのに、宣伝のためその名声を利用したホワイトマンのはったりで、バーリンの有名曲のいくつかをグローフェがオーケストレーションしたものが演奏された。盛りだくさんで長時間にわたる、平凡と言って良い曲を連ねた演奏会に聴衆が退屈しきった頃、最後から2番目にガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』が演奏された。(最後の演目はなぜかエルガーの「威風堂々」だった)
  クラリネット奏者ロス・ゴーマンが冒頭の上行グリッサンドを奏したとたんに、弛緩していた聴衆は一変して耳をそばだてた。終了後の反応は熱狂的で、ガーシュインは何度も舞台に呼び戻された。この成功はポール・ホワイトマンの目算よりもはるかに大きな反響を呼び、それまで「アルコール中毒、自殺など社会の悪弊は皆そのせいにされていた」(ポール・クレシュ『アメリカン・ラプソディ』)ジャズなるいかがわしい音楽が、一般社会でアメリカの独自の音楽として認知されるきっかけとなった。同じプログラムは3月に再演され、4月にはカーネギーホールでも再現された。
 同年6月にジョージとホワイトマン・バンドは『ラプソディ・イン・ブルー』の短縮版をビクター社に録音した。1925年からの電気録音が間に合わず、ラッパ吹込みの旧録音だが、3年後の電気録音による2度目のものより『貸し馬ブルース』的土俗性に勝る点で魅力的な演奏になっている。両者を聴き比べると、当時の「ジャズ」がどんなもので、『ラプソディ・イン・ブルー』がそこから多くを取り入れながらも、クラシック音楽の範疇に入る楽曲であることは明らかになるだろう。

  1927年、商用で訪れたニューヨークでこのレコードを購入したチャーリー・ベルクという人物がいた。3月、ウィーンに戻ったチャーリーは、弟の作曲家アルバン・ベルクに『ラプソディ・イン・ブルー』のレコードを土産に渡した。ベルクはこれを聴いて感銘し、翌1928年になってから、出版されたばかりの弦楽四重奏曲『抒情組曲』のスコアをガーシュインに贈った。同年のヨーロッパ旅行の折にガーシュインはウィーンのベルクを表敬訪問することとなる。
  『ラプソディー・イン・ブルー』初演の翌年、1925年にはニューヨーク・フィルの指揮者ウォルター・ダムロッシュから委嘱を受け、より本格的な三楽章のピアノ協奏曲「へ調の協奏曲」を発表。チャールストンのリズムを使っているが、サックスやバンジョーなどジャズ的な楽器を用いない交響楽団用の作品である。オーケストレーションも勉強し直して自ら行い、今日も交響楽団のレパートリーして残る作品となった。ジョージの次の目標はオペラだった。
  オペラ第一作の『ブルー・マンデイ』は改訂され『135番通り』と名を変えた形で、ポール・ホワイトマンが再演してくれたが、またもや興行的にはかばかしくなかった。数多くのミュージカルとレヴューを手がけ多忙な中、ジョージが構想していたのはS.アンスキーの『悪霊(ディバックThe Dybbuk)』のオペラ化だった。ユダヤの民話を元にした戯曲で、1920年にブロードウェイで上演されたのをジョージは見ていた。このオペラ化の試みは断続して続くが、結局オペラ化の権利関係で断念せざるを得なくなる。
  1928年初めにモーリス・ラヴェルが渡米し、各地で演奏会を開いたのち、3月7日の53歳の誕生日に旧知のエヴァ・ゴーティエがニューヨークで誕生パーティを開催した。ゴーティエがプレゼントの希望を尋ねたところ、ラヴェルはガーシュインに会って演奏を聴きたいと言った。喜んで参加したジョージはそれまで以上に華麗な演奏でラヴェルを驚かせた。二人はその後各所のパーティで顔を合わせ、親交を深めた。作曲法の師事を希望したガーシュインにラヴェルは独自性を保つべきと諭したというが、有名な「あなたは一流のガーシュインなのに二流のラヴェルになることはない」というセリフそのものは、ガーシュインの伝記映画の脚本家が書いた創作であるという。ともあれラヴェルは、近々ヨーロッパ旅行でパリを訪れるというガーシュインに、高名な音楽教育者ナディア・ブーランジェへの紹介状を書いてくれた。

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ニューヨークのラヴェル誕生パーティで。左からオスカー・フリート、エヴァ・ゴーティエ、ラヴェル、マノア・レイデ=テデスコ(指揮者・作曲家)、ジョージ・ガーシュイン



■ヨーロッパ旅行 

  ラヴェルの誕生パーティのわずか4日後、ガーシュインは兄アイラ、妹フランシス夫妻とともにヨーロッパ余暇旅行に旅立った。ロンドンとパリでは大歓迎で、行く先々のオーケストラがガーシュインの曲を急遽プログラムに入れて演奏した。パリでは旧知のフランシス・プーランク、ストラヴィンスキーを始め、ミヨー、オーリック、ウォルトン、ストコフスキー、ヴァーノン・デュークらが代わる代わる面会に訪れた。パーティではジョージのピアノ演奏とホロヴィッツによる「カルメン」変奏曲の対決という一幕もった。
  ラヴェルの紹介状を持ってナディア・ブーランジェを訪ねたが、ブーランジェにも、あなたに教えることは一つもない、そのまま自分の道を進みなさいと言われてしまった。ブーランジェに師事したアメリカ人は、アーロン・コープランド、ヴァージル・トムソン、ロイ・ハリス、ウォルター・ピストン、エリオット・カーター、レナード・バーンスタインと、その後米クラシック音楽界で名を成した作曲家が居並び、ジャズ界のドナルド・バード、ジジ・グライス、キース・ジャレットの名も見えるが(毒舌家のヴァージル・トムソンは、アメリカの都市には安雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしていると言った)、そんなことを言われたのはジョージ・ガーシュインただ一人であろう。
  3月27日には、ちょうどパリ楽旅中だった、現代音楽の演奏で有名なウィーンのコーリッシュ弦楽四重奏団がジョージの宿泊するホテルの部屋を訪ね、シューベルトとシェーンベルクの弦楽四重奏曲を演奏してくれた。
  パリを訪れた音楽的成果は、行く先々で往々にしてあまり出来の良くない演奏で自作を聴かされたことよりも、多忙の合間を縫って管弦楽曲『パリのアメリカ人』の作曲が進んだことだった。再びウォルター・ダムロッシュに委嘱された、このガーシュイン初のピアノ無しの管弦楽作品は帰国してから完成されたが、モダニズム的に注目されるのはストラヴィンスキーに由来する「ペトルーシュカ和音」の使用だろう。


■アルバン・ベルクとの邂逅

  パリを離れたガーシュインは、ベルリンでクルト・ワイル、レハールらと会った後ウィーンに向かった。クシェネックの「ジャズ・オペラ」『ジョニーは演奏する』を鑑賞したのち同年5月5日、ウィーンのヒーツィンクにアルバン・ベルクの家を訪ねた。そこには作曲家エメリッヒ・カールマンと、アメリカ人ピアニストのジョシーことジョゼファ・ロザンスカ(Josefa Rosanska 1904-1986)も同席した。
  カールマンはオペレッタ『チャールダーシュの女王』で名高いユダヤ系ハンガリー人の作曲家だが、作品にフォックストロットを取り入れ、ドラムセットを用いたアメリカのダンスバンド風の編成を試みている。ジョージの友人ロザンスカは13歳でフレデリック・ストック指揮シカゴ交響楽団とショパンの協奏曲を演奏した神童で、西欧・北米・中南米で高く評価されるピアニストだった。後にコーリッシュの妻となるが、ベルクのピアノソナタ作品1をレパートリーとしていたという。
  ロザンスカの発案で、既にパリで相まみえていたコーリッシュ弦楽四重奏団をベルクの家に招き、『抒情組曲』の第2楽章が演奏された。(コーリッシュのアパートでという説もある) ベルクに何か弾くよう求められたジョージは場違いに思ってか、ややためらってからスピリチュアルソングをいくつか歌った。それを称賛するベルクに戸惑うジョージに、ベルクは「音楽は音楽です」と答えたという。ベルクは自らの肖像写真カードに『抒情組曲』第2楽章冒頭と親愛のメッセージを手書きしたものと、出版されたばかりの『抒情組曲』のポケットスコアをガーシュインに贈った。

  帰国後1928年秋の「ミュージカル・アメリカ」紙による自宅でのインタビューでガーシュインは、ヨーロッパ訪問の中で音楽的に得に感銘を受けた場所はとの質問に答え、『抒情組曲』のベルクのサイン入りポケットスコアを見せて、「オーストリアの超モダンな作曲家アルバン・ベルクがこの弦楽四重奏曲を書いた地こそ、わたしの今回の訪問で最高の場所です。」「この四重奏曲は、平均的な音楽愛好家の協和音に慣れた耳には不快なことが間違いない程度に不協和ですが...この作品には真実の美質があると思います。」「その着想と技法は、言葉の最高の意味で完全に現代的です。」と述べたという。
  ガーシュインのウィーン訪問の約6週間後、1928年6月17日に妻ヘレンに宛てたベルクの手紙にも興味深い記述がある。「コーリッシュの素晴らしい手紙を紹介しよう。『ガーシュインはパリの王のように遇せられ、パーティやレセプションにおいて、毎回私たちにベルクの『抒情組曲』を演奏するよう頼みました。私はもう何度演奏したのかわからないくらいです。』」
  「パリの王」という表現から見て、ガーシュインのパリ滞在時のことと考えられるが、コーリッシュ四重奏団はホテルの部屋でシューベルト、シェーンベルクを演奏した以外に、『抒情組曲』をガーシュインのために何度も演奏していたという訳である。このエピソードを論文” Reflections upon the Gershwin-Berg Connection”で報告しているアレン・フォルテA llen Forteは、こうした話があまり知られないのは、ガーシュインに興味のある人はベルクに興味がなく、ベルクに興味のある人はガーシュインに興味がないからだとしている。ベルクは長兄ヘルマンの影響で元々アメリカ贔屓だったというが、こうしたガーシュインの自作への熱狂を知り、アメリカ人全般が自作に好意的だろうという、いささか楽観的な感触を持ったようである。
  また、ベルクの評伝を参照すると、1928年3月末に国際現代音楽協会の審査員として招かれ、ヘレーネ夫人と共にチューリヒに行った折、パリに立ち寄ってジャンヌ・デュボストのサロンで『抒情組曲』のフランス初演を聴き、ナディア・ブーランジェも臨席したとある。このことと前記の3月27日にコーリッシュ四重奏団がガーシュインのホテルの部屋で演奏した件を考え合わせると、コーリッシュ四重奏団は『抒情組曲』パリ初演のためにパリに滞在していたとわかるが、そこでベルクとガーシュインは会う機会がなかったということだろうか。更に、ガーシュインがパリでシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番の第1楽章が演奏された演奏会に出席したという話もあるが、これが『抒情組曲』のパリ初演の演奏会だったのか、あるいはホテルの部屋での演奏のことなのか。残念ながら本稿では時間の制約で調査しきれなかった。
  ガーシュインはベルクのオペラ『ヴォツェック』のヴォーカルスコアを大切にしており、『ポーギーとベス』作曲中の1931年、フィラデルフィアにおけるストコフスキー指揮によるアメリカ初演を鑑賞して強い感銘を受けた。1933年に発売されたガリミール四重奏団の『抒情組曲』世界初録音のSPレコードも所持していた。


■シェーンベルク

  ガーシュインのシェーンベルクとの交友は比較的よく知られている。しかし同じビバリーヒルズに住んで、テニスや卓球を楽しんだご近所付き合い程度の仲であると思われている節もある。シェーンベルクがアメリカに移住し、現代音楽協会を立ち上げて寄付を募った折、真っ先に資金を提供したのはガーシュインで、2番目がストコフスキーであった。そして、パリのホテルでシェーンベルクの四重奏曲を演奏してくれた、コーリッシュ四重奏団によるシェーンベルクの弦楽四重奏曲全集世界初録音という記念碑的企画のスポンサーもまた、ジョージ・ガーシュインその人であったという。ガーシュインがシェーンベルクとのテニスの試合に夢中になって、老シェーンベルクを翻弄しコートで右往左往させたという有名なエピソードについて、「そのときガーシュインを内側から突き動かしていたもの、それは音楽に『歌』を求めながら現代音楽から裏切られ続けた大衆の怨念だったのかもしれない」などという穿った解釈をした本もあるが、あまりの的外れに言葉もない。


■歌劇『ポーギーとベス』~「アメリカのヴォツェック」

  『ポーギーとベス』の原作である小説『ポーギー』の作者デュボーズ・ヘイワードは、小児麻痺の後遺症で右手が不自由だった。そのことから、たまたま新聞で見かけた、足に障害を持つため山羊車に乗っている黒人の乞食が傷害罪で逮捕されたという奇妙な記事に、体が不自由なのに勇ましいことをするものだと興味を持ち、この物語を着想する。ガーシュインが『ポーギー』に出会ったのは1925年に遡る。眠れぬ夜にふと手に取った『ポーギー』を午前4時までに読了してしまい、感動したジョージはすぐさまヘイワードにオペラ化打診の手紙を書いた。ヘイワードから快諾を得たジョージは多忙を縫って打ち合わせをしたが、ヘイワードの妻で劇作家のドロシーが『ポーギー』の舞台化を進めていたことと、当時ジョージはオペラの作曲に必要な実力が不足していると感じていたことで、この件は一旦お預けということで両者は合意した。
  1927年にドロシー・ヘイワードの脚本による舞台版『ポーギー』がブロードウェイで上演され、ガーシュインも観劇したが、この頃彼がオペラ化を構想していたのは『ディバック』だった。そしてようやく1932年初頭、ガーシュインはデュボース・ヘイワードに久々に手紙を書き、改めて『ポーギー』オペラ化を打診した。当時大恐慌の影響で困窮していたヘイワードには渡りに船のことでもあり、再び快諾を得た。その後アル・ジョルスンがミュージカル化の希望を出したり、ジョージの多忙もあって紆余曲折があったが、結局ジョルスンは『ポーギー』を放棄し、ついにジョージはオペラ『ポーギー』に着手する決心を付けた。ヘイワードはジョージに、『ポーギー』を「ミュージカルコメディー(ミュージカル)」ではなく「フォーク・オペラ」にしたいと言った。
  舞台は20世紀初頭の港町チャールストンの黒人街で、主人公ポーギーは足が不自由だが頑健な男。悪漢クラウンの情婦ベスに恋して愛し合い、クラウンに襲われるが返り討ちにして殺してしまう。逮捕されたポーギーは証拠不十分で釈放されるが、その間にベスは麻薬密売人のスポーティング・ライフにたぶらかされてニューヨークに去っていた。
  小説、戯曲、オペラではいくつかの変化がある。小説ではファムファタールではあるが単純でわき役に近かったベスが、戯曲では苦悩する内面をもつ人物に描かれた。オペラのタイトルが『ポーギーとベス』に変えられたのは、『ロミオとジュリエット』、『トリスタンとイゾルデ』、『ペレアスとメリザンド』といった名作の先例に倣ったものというが、元の小説より発展した形に全くふさわしいものだった。さらにオペラでは、ベスが元のサバンナに去った時にポーギーは落胆して老け込み、その死で終わる救いのない結末が、ニューヨークに向かったベスを追って、ポーギーが山羊車で決然と出発する場面で幕となるという、大きな変更がある。
  この結末については、肉体的ハンディキャップがある上に目的地の遠さと移動手段の非力さから、無謀な実現性のない行動と見て、絶望的なものと解釈する向きも多いようだが、遠いニューヨークに愛する娘を追っていく男といえば、本校の前半で触れたガーシュインの父親モリスが母ローズと再会したエピソードを思い起こさせる。おそらくガーシュインはそのイメージを投影し、強い意思とバイタリティによって、困難を乗り越えた末の再会を示唆する結末にしたのではないだろうか。

  『ポーギーとベス』について、ベルクの『ヴォツェック』との共通点を指摘する声は多くある。
  「ガーシュウィンの《ポーギーとベス》とベルクの《ヴォツェック》には、それぞれが置かれた社会・文化的環境を遥かに超えた、多くの類似点がある。二人とも、ある状況を描写する際に特定の音型を使っており、音楽様式の部分でも類似点が多い。子守歌やフーガもそうだ―――ガーシュウィンがこれ以前にフーガを書いたことはなかったと思う。ガーシュウィンとベルクは真の意味で心がつながっていたのだろう。」
  「ベルクとの交流が、作品の全体像、作曲技法(とりわけレチタティーヴォ)、深い意味の込められた豊富なモティーフの用法―――かなり複雑な心理まで表す、ライトモティーフと呼べそうなものもある――に影響を与えた可能性はかなり高い。2007年にアメリカ音楽協会誌に掲載された論文でクリストファー・レイノルズは、《ポーギーとベス》をずばり、“アメリカの《ヴォツェック》”と呼んでいる。ガーシュウィンの和声が、以前の作品と比べて多様化、複雑化していることに注目した研究もある。」


■急逝

  1937年7月9日、午前中自宅でピアノを弾いていたジョージ・ガーシュインは夕方仮眠をとったまま昏睡状態となる。11日脳腫瘍摘出の手術を受けた後、午前10時35分、意識を取り戻すことなく逝去した。

  「私はガーシュインを崇拝していた。『ポーギーとベス』には夢中になったものだ。1937年の夏に、私はハーヴァードの第2学年を終えて、ニューヨーク州の北部でキャンプの指導員をしていた。水泳と音楽を教えていたのだが、キャンプに集まったのはニューヨークの甘やかされた子どもたちばかりだった。週末の父兄面会日のとき、キャンプの監督から日曜日の昼食会で演奏してくれと言われた。だが、断ろうかと思った。騒々しい連中にちがいないし、フォークや皿がぶつかる音や、うるさいおしゃべりが想像できたからだ。
  ところが、日曜日の朝、起きぬけにガーシュインが死んだことを知らされた。それで、やはり演奏しようと思った。昼食会は思った通り、ひどく騒々しかった。やがて、私はピアノのところへ行き、まず和音を弾いて出席者の注意を促した。そして、ガーシュインが死んだことを告げ、これからガーシュインの作品を1曲弾くけれども、演奏が終わっても拍手しないでほしいと言った。演奏したのはプレリュードの第2番だったが、人々は静まり返っていた。重苦しい静けさだった。そのとき初めて、音楽の力をまざまざと感じた。その場を歩き去りながら、自分がガーシュインになった気がした。天国にいるような気分という意味ではなく、私がガーシュインその人で、その曲を自分で作曲したような気がしたのだ。」レナード・バーンスタイン(ジョーン・パイザー『レナード・バーンスタイン』鈴木主悦訳より)


■クラシック界の逆襲!バーンスタイン『ウェストサイド物語』
ブロードウェイで大成功したクラシックサイドのミュージカル

  レナード・バーンスタインは1918年8月25日にマサチューセッツ州ローレンスに生まれた。出生証明には祖父がつけたルイスという名が記されていたが、父サミュエルと母ジェニーはこれが気に入らず、生まれたときからレナードと呼んでいた。父はウクライナのユダヤ系ロシア人で祖父は宗教学者だったが、父はポグロムか兵役かという運命を逃れるため家出同然に出奔し、先にアメリカに移民していた叔父の助けで1908年にニューヨーク行きの船に乗り、ご多分に漏れず自由の女神が見えるエリス島の移民局に到着した。
  一文無しから身を起こして熱心に働いたおかげで、1917年にはアメリカ市民となり、花嫁を見つけて家庭を持つことができた。母は同じくロシア移民で貧しい羊毛工場労働者だったが、その境遇から抜け出すために好きでもない父と結婚したのだった。宗教に厳格な父と世俗的で享楽的な母はそりが合わず、家庭はいさかいが絶えなかったという。
  少年時代のレナードはポピュラーソングやユダヤ教の聖歌などを楽しんでいたが、特に音楽に熱心というほどではなく、楽器を習得しようという意欲もなかった。10歳の時に、ブルックリンに引っ越す叔母から譲られたアップライトピアノが家に来てから、急激にその才を現し始めた。音楽家への道に理解を持たない父との葛藤を乗り越え、近所の子供たちにピアノを教えたり、友人と結成したジャズコンボで地元のクラブに出演してこずかい稼ぎをし、ピアノの勉強を続けた。レナードがバルミツヴァーを迎えると、父親は小さなグランドピアノを買ってくれるなど、理解を示すようになっていった。ボストンの高名なピアノ教師、ハインリヒ・ゲプハルトに師事することを希望するが、高額のレッスン料が障害となり、ゲプハルトは弟子のヘレン・コーツを紹介した。コーツはバーンスタインの才能に惚れ込み、それ以前の教師による癖を修正するだけでなく、相談相手となり、以後50年に渡って彼の個人秘書を務める関係となる。 
  1933年、友人と出かけたボストン交響楽団の演奏会における、ロシア系指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーの劇的な指揮はレナードに大きな啓示を与え、後年の情熱的な指揮ぶりにその影響が見てとれる。
  1935年にハーバード大学の音楽専攻課程に入学。音楽教育としてはジュリアードやカーティスにかなり劣るが、ハーバードは知的刺激とともに、裕福な家庭の子弟とのコネクション作りに役立った。


■1937年

  ガーシュインが死んだ1937年は、バーンスタインの生涯に大きな影響を与える出来事が次々と起こった年だった。まずその年の1月にギリシャ人の指揮者ディミトリ・ミトロプーロスと「宿命的」出会いをする。ハーバード大で催された、ミトロプーロスを主賓とする会員制の茶会に潜り込んだのだ。ミトロプーロスはバーンスタインの才能を認め、作曲家・指揮者への道を励まし、音楽に理解の少ない父親に代わって経済的援助を買って出てくれた。そしてホモセクシャルのミトロプーロスにより、19歳のバーンスタインはその方面にも開眼することとなったらしい。
  その夏に実家を離れたバーンスタインはマサチューセッツ州キャンプ・オノタで音楽指導員を務めた。ここで知り合った二歳下のアドルフ・グリーンは、ミュージカル作品の歌詞を手がける協力者として、また友として生涯の関係となる。
  秋にはマサチューセッツ州ケンブリッジの州立オーケストラで、ラヴェルのピアノ協奏曲の独奏でピアニスト・デビューを飾り好評を得た。バーンスタインはその成功に気をよくして、ラヴェルの協奏曲のほかに数曲しかレパートリーがないにもかかわらず、コンサートピアニストを夢見た。その野望はのちに、カーティス音楽院の同窓、シェーラ・チェルカスキー、ホルヘ・ボレットらの演奏を聴いて断念することになるのだが。
  11月14日、バーンスタインはニューヨークの劇場で偶然アーロン・コープランドの隣の席に座り面識を得た。コープランドはバーンスタインを、これから催す自分の37歳の誕生パーティに誘った。コープランドはガーシュインと同じユダヤ系ロシア人の移民の子で、しかもブルックリン生まれという同郷人にもかかわらず、アメリカの音楽におけるガーシュインの貢献を終生黙殺していた。ポピュラー音楽界の寵児ガーシュインのクラシック音楽界進出に対して強い反感を抱いていた、アメリカのクラシック音楽界を代表する作曲家と目されていた立場があったにせよ、ショービジネス界の作曲家が真のアメリカ音楽の創始者としてもてはやされることに苛立ちを覚えていたろう事は想像に難くない。コープランドの誕生パーティでは、コープランドの讃美者の一人で、あのガーシュインに憎悪を燃やした毒舌批評家兼作曲家ヴァージル・トムソンにも会っている。
  ガーシュインの急逝した年に、同じくロシア系のユダヤ人で、コープランドらと同じく正規の教育を受けた側の、才能ある若者が現れたことは、ガーシュインを憎んだ彼らになにがしかの感慨を与えたのだろうか。それからコープランドは、バーンスタインの師として、作曲・指揮活動と人脈作りと公私にわたり 絶大な貢献をしていく。そしてバーンスタインはブロードウェイからクラシック界に進出したガーシュインと逆に、クラシック界からブロードウェイに進出して大成功を収めることになるのだ。
  ミトロプーロス、コープランドに続いてバーンスタインの力になってくれた音楽家に大指揮者フリッツ・ライナー(Fritz Reiner, 1888-1963)がいる。ジュリアード音楽院入学に失敗したバーンスタインを、コープランドがカーティス音楽院で教えていたライナーに紹介してくれたのだ。ライナーはシンシナティ響時代にガーシュインをたびたび招くなど、その才能を認めており、ガーシュインもその指揮に信頼を置いていたが、厳格と傲慢で知られるライナーが、10歳下のガーシュインにも、30歳下のバーンスタインにも、年長者への礼儀をわきまえずに「フリッツ」呼ばわりされたというエピソードがあるのが面白い。ライナーは、そのたびにバーンスタインに「こんにちは、バーンスタインさん」と皮肉に答えたという。
  同じくガーシュインを支援した指揮者ロジンスキーもバーンスタインと縁が深い。兵役不適格で職にあぶれていたバーンスタインを、ニューヨーク・フィルの副指揮者にしてくれたのである。ライナーもロジンスキーも気難しく気性の激しい指揮者として知られているが、ポピュラー音楽に偏見を持たず、アメリカ人の才能ある音楽家を育てようとした意外な一面が知れる。ただしロジンスキーとはその後関係がこじれてゆくことになる。一方、バーンスタインの最初の指揮のアイドル、改宗ユダヤ系ロシア人クーセヴィツキ―はジャズ的なものを嫌い、バーンスタインがブロードウェーで成功したことに腹を立てたという。
  その後1940年にボストンの新聞社が主催する音楽クイズに優勝し、現金150ドルと、ボストン・ポップス・オーケストラの野外演奏会で指揮する権利を得た。そこでワーグナーの『マイスタージンガー』前奏曲を振ったのが、プロ・オーケストラでの指揮デビューとなる。このころ最初の交響曲『エレミア』を作曲。1943年には、ニューヨーク・フィルに客演したブルーノ・ワルターの急病の穴を埋めて全国生放送された演奏会の指揮台に立ち、伝説的成功を収めた。これはワルターが仮病を使ってバーンスタインに振らせた美談としても知られるが、休暇中のロジンスキーが副指揮者のバーンスタインを指名したに過ぎないらしい。但しバーンスタインと親しいマネージャーがよりふさわしい代役の到着を阻止した可能性もあるという。
  この年の秋に、バレエ・シアターの振付師ジェームズ・ロビンズが、『ファンシー・フリー』という題の、一幕物のバレエの企画を持ってやってきた。これが『オン・ザ・タウン』、『ウェストサイド物語』、『ディバック』へと続く、実り豊かな協力関係の始まりとなる。1944年にはライナーのピッツバーグ響で『エレミア』初演の指揮をとる。


■「悲劇的ミュージカル・コメディ」『ウェストサイド物語』

  このミュージカル(ミュージカル・コメディの略語である)の大きな特色は、伝統的なブロードウェイのスタッフではなく、「クラシック系」のアーティストによって作られていたことだった。ジェームズ・ロビンズはバレエの振付師。アーサー・ローレンツはシリアスな脚本家、劇作家。作詞のスティーヴン・ソンダイムはプリンストン大でミルトン・バビットに学んだ。舞台デザインのオリバー・スミスは画家。そしてクラシックの作曲家バーンスタイン。ブロードウェイのミュージカル・コメディのノウハウを知らない若い才能たちが協力して作り上げた、現代の音楽劇であった。
  バーンスタインの日記には、1949年1月6日にその発端が見られる。「ジェローム・ロビンスが「復活祭と過越し祭が同時進行するスラム街で展開される現代版『ロメオとジュリエット』という案を電話で伝えてきた。ユダヤ人がキャピュレット家、カトリックがモンタギュー家だ。ジュリエットはユダヤ人。修道僧ロレンスは近所のドラッグストアの親爺。街中での喧嘩、二人の死など、すべてが重なる。しかし、ミュージカル・コメディの手法を使ってこの悲劇を演出しようというアイデアに比べれば、こうした設定は大して重要でない。ミュージカルの手法を使いながら、オペラの罠にはまるまいということだ。」
  だが企画はすぐに実現せず、機が熟すまで温めていくことになる。1955年にようやく再度話が動き出す。
  「ユダヤ人対カトリックという設定は新鮮味がないので没。その代案に思い付いたのが、血の気の多いプエルトリコ人と、アメリカ人気取りの不良少年グループの対立だ。」
  1958年8月20日ついに初公演。成功裏に終えた翌朝バーンスタインは書いている。
  「昨夜の初公演は我々が夢見ていた通りの出来栄えだった。数知れぬ苦しみ、度重なる延期、果てしない書き直しが、すべて報われた。ブロードウェイで最終的に成功するかどうかはわからないが、我々がここ何年もの間に夢見てきたことが可能だという確信を得た。愛と憎しみという深刻なテーマ、死と人種問題、若い出演者、シリアスな音楽、高度なバレエという、ミュージカル上演に危険な要素を取り入れたにもかかわらず、観客と批評家両方に意義のある上演と受け止められたのだから。」
  バーンスタインの熱狂的な自画自賛の中にあるおぼろげな危惧は的中した。『ウェストサイド物語』初演は確かに好意的に受け止められたが、興行全体としては大成功とは言えなかったのである。興行は732公演で終了したが、これは当時としては中ヒット程度の公演数で、トニー賞は装置と振り付けのみが受賞した。やはりシリアスなテーマと音楽はすぐには受け入れられなかったのだ。同年に上演された『ザ・ミュージックマン』という典型的なミュージカル・コメディこそは大ヒットとなり、『ウェストサイド物語』の10倍以上、1375回のロングランとなって、トニー賞は主要6部門を受賞した。『ウェストサイド物語』が今に至る名作の地位を得るのは、その後の映画化の大成功によるものであり、その大人気によってミュージカルも1960年代から世界各地でリバイバル上演されるようになって、今日のミュージカル史上屈指の傑作としての地位を築いていった。
  だが運命とは皮肉なものである。大指揮者であるよりも作曲家であることを望んだバーンスタインは、自らの名がシリアス・ミュージックの作曲家としてでなく、ブロードウェイのミュージカル『ウェストサイド物語』の音楽担当として名を残すことを生涯恐れることになった。晩年には超一流のオペラ歌手を揃えて自らの指揮により『ウェストサイド物語』を録音し、オペラ作品としての存在感を示そうとさえした。伝記作者のひとりポール・マイヤーズはバーンスタインが泣きながら語ったという言葉を伝えている。「わたしはもうベートーヴェンが死んだ年齢よりも2歳しか若くないのに、いまだに偉大な作品を作曲できていない。」



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【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選  https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
 ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版)   花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
 一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
 西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
 篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
 湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
 南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)

■2018年5月25日 ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成 https://ooipiano.exblog.jp/29413702/
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
  I. - II. - III. - IV. - V.


by ooi_piano | 2018-11-26 11:02 | POC2018 | Comments(0)