Portraits of Composers [POC] 第41回公演
権代敦彦・自選ピアノ代表作集
大井浩明(ピアノ)

2019年2月23日(土)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


○R.シュトラウス(1864-1949)/川島素晴編:歌劇「サロメ」より《七つのヴェールの踊り》(1905/2019、委嘱初演) 10分
●権代敦彦(1965- ):《十字架の道/光への道 op.48》(1999) 15分
□川島素晴(1972- ):《複数弦によるホケット》(2019、委嘱初演) 3分
●権代敦彦:《青の刻 op.97》(2005) 13分
□川島素晴:《手移り》(2019、委嘱初演) 4分
●権代敦彦:《耀く灰 op.111》(2008) 13分

 (休憩15分)

□川島素晴:《ジャンプ》(2019、委嘱初演) 2分
●権代敦彦:《無常の鐘 op.121》(2009) 7分
□川島素晴:《ポリル》(2019、委嘱初演) 3分
●権代敦彦:《カイロス―その時 op.128》(2011) 11分
□川島素晴:《マルシュ・リュネール》(2019、委嘱初演) 4分
●権代敦彦:《時の暗礁 op.146》(2015) 13分



権代敦彦 Atsuhiko Gondai, composer
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  1965年9月6日東京都生まれ。少年期にメシアンとバッハの音楽の強い影響のもとに作曲を始める。また、この頃欧米のキリスト教文化に触れ、高校卒業後にカトリックの洗礼を受ける。桐朋学園大学音楽学部作曲科を経て、90年同大学研究科修了後、DAAD奨学生として、フライブルク音楽大学現代音楽研究所に留学。91年よりIRCAMでコンピュータ音楽を研究。94年よりイタリア・カステロ市の芸術奨学金を得て同地にて研修。作曲を末吉保雄、K.フーバー、S.シャリーノに、コンピュータ音楽をP.マヌリに、オルガンをZ.サットマリーに師事。95年~99年渋谷ジァン・ジァンにおいて原田敬子と「東京20世紀末音楽集団演奏シリーズ/→2001」を、97年~99年横浜県立音楽堂において「権代敦彦シリーズ・21世紀への音楽」を制作。カトリック教会のオルガニスト、桐朋学園大学作曲科非常勤講師(95年~)もつとめている。日本音楽コンクール作曲部門第1位(1987)、V.ブッキ国際作曲コンクール第1位(1991)、セロツキ記念国際作曲家コンペティション第2位(1992)、バーロウ基金作曲賞(1993)、芥川作曲賞(1996)、出光音楽賞(1996)、中島健蔵音楽賞(1999)、芸術選奨文部科学大臣新人賞(2002)、尾高賞(2016)等。近作に、大教大附池田小無差別殺傷事件を鎮魂するメゾソプラノと管弦楽のための《子守歌》(2005)、東日本大震災を追悼する5奏者のための《クロノス ―時の裂け目―》(2011)/ピアノのための《カイロス―その時》(2011)/児童合唱とオルガンのための《iki・iki》(2017)、セウォル号沈没事故を追悼するヴィブラフォン協奏曲《セウォル~海から》(2018)等。




川島素晴 Motoharu Kawashima, composer
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  1972年東京生れ。東京芸術大学および同大学院修了。1992年秋吉台国際作曲賞、1996年ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞、1997年芥川作曲賞、2009年中島健蔵音楽賞、2017年一柳慧コンテンポラリー賞等を受賞。1999年ハノーファービエンナーレ、2006年ニューヨーク「Music From Japan」等、作品は国内外で演奏されている。1994年以来「そもそも音楽とは『音』の連接である前に『演奏行為』の連接である」との観点から「演じる音楽(Action Music)」を基本コンセプトとして作曲活動を展開。自作の演奏を中心に、指揮やパフォーマンス等の演奏活動も行う。いずみシンフォニエッタ大阪プログラムアドバイザー等、現代音楽の企画・解説に数多く携わり、2016年9月にはテレビ朝日「タモリ倶楽部」の現代音楽特集にて解説者として登壇、タモリとシュネーベル作品で共演した。また執筆活動も多く、自作論、現代音楽、新ウィーン楽派、トリスタン和音等、多岐にわたる論考のほか、曲目解説、コラム、エッセイ等も多数発表している。日本作曲家協議会副会長。国立音楽大学准教授、東京音楽大学および尚美学園大学講師。






「アカデミズム」の終焉――川島素晴

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 日本の作曲界に於いて「アカデミズム」という語を字義通り解釈するなら、大学での教育(その大半は師匠が弟子に継承していくものとしてある)を通じて形成される音楽書法の伝統、といった意味合いになるだろうか。少なくとも、1980年代末に大学受験を控えていた頃の私にとってはそのような認識であり、入学前から「いかにして自分自身の表現、全く新しい音楽様式を形成するか」という理想を追い求めていた私としては、それは鬱陶しく、忌み嫌うべき対象だった。そしてその想いは、1991年に実際に東京藝術大学に入ってみてもさほど変わらなかった。
 当時の東京藝術大学作曲科は3つの講座に分かれていて、入学後のカリキュラムも微妙に異なっていた。主としてフランス仕込みの先生方(あるいはそういった先生の直弟子筋)が担当していた第1講座では、入学してからも和声、対位法、フーガ等の勉強を継続し、それらの試験も課せられていた。受験勉強で強いられるエクリチュールの修練に必要悪以上の意味を見出していなかった自分としては、そういう学習を乗り越えてせっかく大学に入ったにも関わらず、そのようなエクリチュールの学習から逃れられない第1講座になど死んでも入るものか、と心に決めて入学した。その点、第2講座、第3講座にはどちらもそのような習慣は無かったが、松村禎三等が所属していた第3講座では、古式ゆかしい日本の現代音楽が放つ抹香臭さを浴び続け、それを是と思い込むための洗脳を受けねばならないことに辟易することは明白で、もちろん敬遠させて頂いた。
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 かくして、外野からは、最も自由度が高く、在学生や卒業生も先進的な人物を多数輩出しているように見えた(実際には佐藤眞らによる放任主義の賜物なわけだが…)第2講座を希望した。(というよりは、担当教員の希望欄には講座名ではなく教員名を書くので、実のところ近藤譲、松下功という名前を記しただけである。)その結果、入学当初は松下功に師事することとなる。その後、途中で(当時は非常勤だった松下功が担当できる学生数に限りがあったため)近藤譲に移ることとなるのだが、そういった経緯の中、第2講座のはずが、教員ごと第3講座に飛ばされたり、また戻ったりということがあった。松下功、近藤譲はともに南弘明の弟子筋である。電子音楽を主たる領域として活動していた南弘明にしてみれば、そもそも第2も第3もない。そしてもちろん、松下功や近藤譲のような人だって、そういったカテゴライズの外側にいたわけだ。ようは大学の数合わせの都合で時折第3講座の一員となったわけだが、その頃には最早(というよりは当初から)、講座の概念などどうでもいいと思うに至っていた。むしろ、そうやって流浪の民として講座を横断するくらいが健全である。そういえば、第3講座で義務付けられていた定期的な試演会に参加して《孤島のヴァイオリン》という、ヴァイオリンを孤島に漂着したオブジェと見立て打楽器として演奏する作品の自作自演を行ったことがあったが、試演会の後にはお歴々勢揃いの批評会というのがあって、そこで松村禎三と議論したことも、今となっては良い思い出である。
 その後、衰退の一途を辿った第3講座に、従来なら第1講座の先生であるはずの人物が入り込む。つまり第3講座は、事実上の吸収合併が進むのである。そして遂には、全ての教員がフランス仕込み、即ちかつての第1講座系の教員になってしまった。その、まるでどこぞの国の政界再編のような顛末は卒業後のことなので、私としては他人事ではあったが、しかし、東京藝大作曲科が「アカデミズム」を脱するどころか、最もアカデミックな系統の牙城として長らく定着している現状を全く憂えないと言えば嘘になる。もちろん、私が学生時代だった1990年代とは「アカデミズム」の範囲は著しく異なっている。かつてのようにエクリチュール修練の延長で20世紀前半の書法までがキャパシティだった時代からは格段の進歩である。野平一郎をはじめとする最先端のフランス音楽を識る人物が、ヨーロッパ前衛の書法を余すことなく施すようになってはいるのだろう。しかしその一本道のみを是とする画一的な教育システムには、空恐ろしい想いを禁じざるを得ない。かつては同じ作曲科学生にも様々な個性が集った。今は、そういう機能を音楽環境創造科等の新しい学科が担っているともいえるが、作曲を専門に学ぶ意識で集う学生に向けた環境やカリキュラムにも、多様性は不可欠なのではあるまいか。

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 …等とのたまう私自身も、いつの間にやら教員の側に立ち、「アカデミズム」の端くれを担うようになってしまった。私が現在所属している国立音楽大学は、昔は長らく「全員が」入学後2年間、エクリチュール「しか」勉強しないカリキュラムになっていた。福士則夫が主任となって以後、その悪しき伝統は改善され、現在では全学年で作曲作品の提出とその実演審査が実行されている。オリジナル作品を次々書かせる方向は、その後を継承した私が更にドラスティックに改革し、現在のカリキュラムは、とにかく書いて音にするということを徹底するものになった。それも、様々なジャンル、編成を4年間で一通り経験できるようになっている。実験音楽を含む現代音楽の様々な側面を学ぶのみならず演奏実践も経験する。毎年たくさんの講師を招いて最先端の創作、演奏実践を学べる。一方で映画音楽方面、エクリチュール方面の各スペシャリストを志向する向きにも手厚いカリキュラムが組まれ、多様な指向性にも対応している。そう、これぞ作曲科のあるべき姿!というべき理想像を体現しつつあるのだ。

 …と、ここまで書いて気付く。これぞまさしく「アカデミズム」じゃないか。

 ここで、POCシリーズ第39回公演「日本アカデミズムの帰趨」に寄せられた野々村禎彦が寄稿した『POC流・日本「アカデミズム」小史』の一部を振り返ろう。

アカデミズムの対象は徐々に広がってゆくもので、(中略)前衛志向が強いと見做されてきた八村義夫(1938-85)、甲斐説宗(1938-78)、川島素晴(1972-)らも、そろそろアカデミズムに分類されても良い時期かもしれない。(中略)教職に就くことが作曲家には普通になっており、それだけではアカデミズムの要件にはならない。自らの作風ないし美学を受け継いだ弟子が楽壇で評価されるサイクルの当事者のみが、アカデミズムと呼ぶにふさわしい。(中略)川島は「演じる音楽」のコンセプトを真摯に受け止めて、極端なコンセプトの重要性を理解する弟子を育てつつあることで、アカデミズムの要件を満たす。

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 どうやら私は、自分自身が忌み嫌っていた「アカデミズム」の中の人に成り下がってしまったわけだ。例えば、野々村の指摘する「極端なコンセプトの重要性」というのも、それを創作上の必須要件などと諭しているようでは「旧世代のアカデミスト」なのかもしれないから気をつけねば…。
 このように、中の人になってみて痛感するのは、より良くしようともがけばもがくほど、強固なアカデミズムが構築されてしまうということである。それが完璧であればあるほど、危険でもある。ここで強調しておきたいことは、私は、学生各人の示す多様な方向性を、その方向を延ばすことにのみ専心するのであり、画一的な美学や教育システムを押し付けることだけはしないようにしているつもりである。そのような教育姿勢は、アカデミーに於けるカリキュラムの充実とは異なる地平の問題である。野々村の指摘は、野々村の目に映じる人物のみがたまたまそう見えているだけなのではないかと思う。クセナキスにとってのメシアンが、「アカデミズム」の軸を通して連なる存在ではないのと同様、私は私の「アカデミズム」を継承させたいと考えたことは無い。(例えば、私と同じ考えに基づく「演じる音楽」を実践したがる学生がいれば、それはむしろ止めに入るであろう。)

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 話は変わるが、ここ最近の教員経験で気付かされたことがある。アメリカからの留学生やタイからの留学生を担当していると、伝統的な音感からみたら特殊と思える音感を共有している現象が見られるのである。そしてそれは、比較的エクリチュールの修練の浅い(あるいはそれと実作とを完全に切り離すタイプの)日本人学生にも共通していることがある。
 例えば、フレーズの終止部分にやたらと完全4度が置かれる、といった、いわゆる伝統的な和声教育を受けると生理的レヴェルで忌避するように刷り込まれた運びを、全く厭わない音感である。そこで気付いたのは、古いゲーム機を通じて経験されるゲーム音楽の特性への親和性である。12平均律によるシンプルな電子音で、少ない声部数でできた音楽では、長3度を奏でると第5倍音との微妙な音程の差に由来する「うなり」が生じてしまうため、生理的にそういった音程を終止に置きたがらない傾向がある。楽音によって生じるうなりは心地良い範囲なのだが、電子音同士によるうなりは耳障りが悪い。一方、完全5度は調和し過ぎてしまい、声部の隠蔽が著しい。すると必然的に、終止部分には完全4度を選ぶことが多くなる。伝統的な音楽教育を受けた「アカデミック」な者であれば、どうしてもその先入観から、そのような終止は避けようとする。しかし、音楽教育と無縁な者でも参入できたゲーム音楽の世界では、自らの聴感覚に従って選んだ自由な音運びが行われ、伝統的な耳では忌避したくなる音程の運びが自然に行われるようになる。そのようなゲームが世界的にヒットすれば、それは世界中の若者の耳に感覚的に定着する。ゲーム機の再生音源が進化し、オーケストラサウンド等が自在に再生されるようになった現在でも、その感覚だけは継承され、その方向で発展していった部分もある。そのような方向で形成された音感覚を持ってしまった人口は、クラシック音楽の聴取経験によって育まれる音感覚がベースである人口の比ではないであろう。そしてそのような新しく定着してしまった音感覚を、我々はどういう権限で否定でき得るであろうか。
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 このような傾向を見るだに、作曲媒体が異なることによって生じた、新しい音楽理論体系が世界レヴェルで生じてしまったことを認めざるを得ない。圧倒的な数の力の前には、伝統教育は屈するしかないし、そもそも、その音響特性を鑑みるなら、ゲーム音楽としては、そのような音感こそを是と言うべきである。
 今、欧米やアジア諸国の多くの音楽大学では、日本の作曲学生が学ぶような伝統的な和声教育を課していない。であるから、先に示した留学生たちの音感覚は、クラシック音楽の伝統によって育まれたそれではない、全く別の感性の延長にあり、そしてそれが伝統教育によって矯正されることなく自然に育まれたものなのであろう。である以上、それを矯正してまでして、ガラパゴス化した日本的和声教育を施す意味など皆無である。それどころか、今我々は、このような世界の現実を直視し、各世代、個人が経験したそれぞれの世界に偏在する音から導かれる感覚を前提とした、それぞれなりの音楽理論体系を導くことをこそ求められている。国籍すらボーダーレスな時代、各人の生きた環境、ライフスタイル等により、それは全く異なっていくであろう。画一的なメソッド(=アカデミズム)など、存在し得る道理が無いのである。
 つまるところ、私が今、「アカデミズム」の中の人として言い得ることは、こうである。
 画一的「アカデミズム」の終焉こそ、アカデミーが導くべき至上命題なのである。

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by ooi_piano | 2019-01-28 10:52 | POC2018 | Comments(0)

POC2018 第37~第41回公演

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Portraits of Composers [POC] 第37~第41回公演
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
〈予約・お問い合わせ〉エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp





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【ポック[POC]#41】 権代敦彦・自選ピアノ代表作集  2019年2月23日(土)18時開演(17時半開場)
●権代敦彦(1965- ): 《十字架の道/光への道 op.48》(1999)、《青の刻 op.97》(2005)、《耀く灰 op.111》(2008)、《無常の鐘 op.121》(2009)、《カイロス―その時 op.128》(2011)、《時の暗礁 op.146》(2015)
●川島素晴(1972- ):《複数弦によるホケット/手移り/ジャンプ/ポリル/マルシュ・リュネール》(2019、委嘱新作初演)
●R.シュトラウス(1864-1949)/川島素晴編:歌劇「サロメ」より《七つのヴェールの踊り》(1905/2019、委嘱初演)




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(終了)【ポック[POC]#37】 北米ピアノ・アンソロジー 2018年10月6日(土)17時開演(16時半開場)
●E.カーター(1908-2012):《夜想(ナイト・ファンタジーズ)》(1980)、《懸垂線》(2006)
●M.バビット(1916-2011):《3つのピアノ曲》(1947)、《パーティションズ》(1957)、《ポスト・パーティションズ》(1966)
●G.クラム(1929- ):《マクロコスモス》第1巻(1972)&第2巻(1973)
●J.C.アダムズ(1947- ):《中国ゲート》(1977)、《フリュギアのゲート》(1977)、《アメリカン・バーセルク》(2001、日本初演)
●C.ヴィヴィエ(1948-1983):《シーラーズ》(1977)
●J.ゾーン(1953- ):《雑技団巡業(カーニー)》(1989)、《爾の懷ふを爲せ》(2005、日本初演)
●D.ゼミソン(1980-):《霞を抜けて》(2018、委嘱新作初演)



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(終了)【ポック[POC]#38】 ルチアーノ・ベリオ 全ピアノ作品  2018年11月9日(金)19時開演(18時半開場)
●L.ベリオ(1925-2003):《小組曲》(1947)[全5曲]、《ダッラピッコラの歌劇「囚われ人」による5つの変奏》(1953/66)、《循環(ラウンド)》(1965/67)、《水のピアノ》(1965)、《続唱(セクエンツァ)第4番》(1966)、《土のピアノ - 田園曲》(1969)、《空気のピアノ》(1985)、《火のピアノ》(1989)、《塵》(1990)、《葉》(1990)、《ソナタ》(2001)
●B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977、東京初演)
●P.エトヴェシュ(1944- ):《地のピアノ - 天のピアノ(L.ベリオの追憶に)》(2003/2006、日本初演)
●小内將人(1960- ):《ピアノ造形計画/国歌--運動と停滞による》(2018、委嘱新作初演)


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浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2018年11月30日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
●G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃないIt Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
●L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
●J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)
●N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)
●H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン》(2017/18、日本初演) 


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(終了)【ポック[POC]#39】 日本アカデミズムの帰趨  2018年12月14日(金)19時開演(18時半開場)
●松村禎三(1929-2007):《ギリシャに寄せる二つの子守唄》(1969)、《巡禮 I/II/III》(1999/2000)
●三善晃(1933 - 2013):《ピアノソナタ》(1958)、《前奏曲「シェーヌ」》(1973)、《アン・ヴェール》(1980)、《円環と交差Ⅰ・Ⅱ》(1995/98)
●野平一郎(1953- ):《アラベスク第2番》(1979/89/91)、《間奏曲第1番「ある原風景」》(1992)、《間奏曲第2番「イン・メモリアム・T」》(1998)、《響きの歩み》(2001)、《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006)、《間奏曲第7番》(2014)
●棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/2018、改訂版初演)





c0050810_17360340.jpg(終了)【ポック[POC]#40】 ハリソン・バートウィッスル全ピアノ作品  2019年1月26日(土)18時開演(17時半開場)
●H.バートウィッスル(1934- ): 《約言》(1960)、《悲しい歌》(1971)、《ジャンヌの子守歌》(1984)、《夜明けのヘクトール》(1987)、《ハリソンの時計》(1998)、《メロディとオスティナート》(2000)、《ベティ・フリーマン - 彼女のタンゴ》(2000)、《サラバンド:王の拝辞》(2001、日本初演)、《メトロノームの精の踊り》(2006、日本初演)、《ジーグ・マシーン》(2011、日本初演)、《ゴールドマウンテン変奏曲》(2014、日本初演)
●なかにしあかね:《Knot Garden》(2018、委嘱新作初演)
●金澤攝(1959- ):《Toilette Music》(2018、委嘱新作初演)



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POC2018:アカデミズム再考──野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で8期目。戦後前衛の枠組みをひっくり返した異能者たちも昨年度に取り上げ、もはや残るはアカデミズムくらい…なのだが、「アカデミズム=保守の牙城」という図式は、戦後前衛の時代にはむしろ例外的だった。枢軸国側のドイツとイタリアの戦後処理では、「元々は都市国家の連合体だった両国は、統一が遅れた分中央集権を過度に指向しファシズムに至った」という判断から、特に文化面では徹底的な地方分権が行われた。統一国家における教育機関の序列化こそが「アカデミズムらしさ」の源泉であり、一国一城の主の集合体ではそうはならない。ファシスト党支配からの自力解放を果たしたイタリアではアカデミズムの大きな入れ替わりはなかったが、ドイツでは戦時体制の一翼を担った保守派は教育の場から追放され、アカデミズムはむしろ進歩派(ただし、尖鋭化した戦後前衛の主流派からは微温的とみなされた)の巣窟になった。前衛の時代が終わる頃には、リゲティ、クラウス・フーバー、シュトックハウゼン、シュネーベル、カーゲル、ラッヘンマンら、戦後前衛を代表する作曲家たちがアカデミズムの中枢を占めることになる。

 連合国側の米国でも、ブーランジェ門下の新古典主義者たちに代わって、米国独自のセリー主義者たちがアカデミズムの中心になった。文化面で米国のプレゼンスを示すために、米国発の潮流を現代美術の主役に押し上げた以上、音楽は旧態依然では格好がつかなかったのだろう。英国では伝統的なアカデミズムが保たれたが、行き過ぎた保守性ゆえに再生産は行われず、前衛の時代の終わりとともに保守化したかつての進歩派たちに取って代わられた。結局、伝統的なアカデミズムが戦後前衛を経た後も保たれたのは、ドイツ占領下で冷凍保存されていたフランスだけだった。日本においてもそのようなアカデミズムのイメージが保たれているのは、ドイツ系の作曲家たちは公職から追放されたがフランス系の作曲家たちは追放を免れ、戦後のアカデミズムの中心になったことに由来する。

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 以下では各回の特集作曲家を紹介するが、演奏会の順序とは少々変えて、まずはベリオ。ノーノと並ぶイタリア戦後前衛第一世代を代表する作曲家と一般にはみなされているが、表現したい題材に応じて前衛語法もそれ以外も使い倒すノーノとは対照的に、前衛語法を所与の前提として職人的に仕上げるベリオの姿勢は、伝統的なアカデミズムに極めて近い。彼の作風は1962年の米国移住、1972年のイタリア帰国、1983年のキャシー・バーベリアンの死という私的な出来事を境に、若干のタイムラグを伴って大きく変わる。妻バーベリアンの歌唱と電子音楽制作からインスピレーションを得て「前衛職人」道を邁進していた最初のイタリア時代。私生活ではバーベリアンと別れ(音楽生活では彼女はミューズであり続けた)、ポピュラー音楽やクラシック音楽との様式混淆を通じて才能が開花した米国時代。ミルズ・カレッジとジュリアード音楽院で教鞭を執り、ライヒやアンドリーセンらを教えて最も「アカデミック」に活動した時代でもある。米国時代のミニマル音楽の思い出と民謡への関心が前面に出てきた二度目のイタリア時代。そして、ミューズを失った後の抜け殻の時代。

 次はバートウィッスル。P.M.デイヴィスと並ぶ「マンチェスター楽派」を代表する作曲家であり、英国の戦後前衛第二世代のアカデミズム側を代表する。前衛の時代の終わりとともに急速に保守化し、古典的形式に則った「新・新古典主義」に落ち着いたP.M.デイヴィスとは違い、70年代まではベリオの歩みを参照して一歩遅れて追随していたが、80年代半ば以降はオペラを中心に、無調だがクラシック音楽の伝統的な様式感に沿った「進歩的アカデミズム」の見本になった。POCシリーズでは、英国のポスト戦後前衛の中心的潮流「新しい複雑性」を代表するファーニホウ(英国の保守性を早々に見限って、ドイツと米国の前衛アカデミズムを牽引した)とフィニッシー(状況の漸進的な改良を目指して英国に留まり、実験主義にも目配りしつつ作曲・演奏の両面で貢献した)を既に紹介しており、これで英国戦後前衛の主な流れを俯瞰する最後のピースが埋まったことになる。

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 そして、北米(ほぼ米国)アンソロジー。バビットは米国発の「総音列技法」の祖であり、総ての音楽要素を音列で管理するという点ではヨーロッパ戦後前衛に数年先行している。ただしヨーロッパ流とは対照的に、容易に聴き分けられる明晰さを目指した。シンセサイザーをいち早く取り入れた点でも彼は先駆者である。彼の路線はウォーリネンらに継承されたが、このような純粋培養組だけではセリー主義がアカデミズムの中心になるはずはなく、頭数は新古典主義からの転向組が主力である。かのコープランドすらその一人だが、その中でもカーターは飛び抜けた存在だった。バビットらとは対照的にヨーロッパ的な複雑さを志向し、英国発の潮流に先行する「新しい複雑性」のルーツとみなされている。米国音楽には辛辣なブーレーズも、カーターは唯一高く評価していた。ただし80年代に入ると「複雑性」からは距離を取り始め、《ナイト・ファンタジーズ》はその端緒である。

 セリー主義の主力は転向組なので、何らかの契機でそこから離れて伝統回帰する例は珍しくない。米国における「新ロマン主義」を代表するロックバーグ、デル=トレディチ、ツヴィリチは、60-80年代にそれぞれの理由で伝統回帰した。クラムもその中に含まれるが、彼は元々教条的なセリー主義者ではなく、声ならではの幻想的な世界を求め(《子供達の古の声》が特に名高い)、ロックに触発されて電気増幅を探求した(《ブラック・エンジェルス》が特に名高い)。このような志向は、直接の接点はないがベリオと軌を一にしており、ベリオが米国アカデミズムに溶け込めた背景でもある。《マクロコスモス》シリーズは、バルトーク《ミクロコスモス》を意識している時点でヨーロッパの伝統を志向していることは明白だが、彼は第1集と第2集の間で「新ロマン主義」の川を渡った。

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 ミニマル音楽はニューヨーク楽派以降の米国実験主義で最も影響力を持った潮流である。インド音楽とフルクサスの強い影響から出発したヤングやライリーと、よりアカデミックな発想から出発したライヒやグラスがサイケデリック・ムーヴメントの中で反復と電気増幅の魅力に目覚め、協同歩調を取って始まったわけだが、次世代になるとアカデミズムに取り込まれてゆく。ジョン・クーリッジ・アダムズはその代表である(米国実験主義の「素朴派」にあたるジョン・ルーサー・アダムズと区別するためにミドルネームも表記される)。グラスとライヒは、オペラや管弦楽曲の委嘱を受ける中で機能和声を用いた「マキシマル」な書法に移行してゆくが、その方向性ならばアカデミックな基礎が堅いJ.C.アダムズに優位性があり、表舞台の主役になってゆく。結局グラスはポップカルチャーとの折衷、ライヒはメディアミックス、ライリーとヤングは純正律探求と棲み分けることになる。

 ヴィヴィエは今回の特集作曲家では唯一のカナダ人。70年代前半、シュトックハウゼンがケルン音大で数年間教鞭を執っていた時期の学生として、W.リームと並んで後世に名を残した。彼が本領を発揮したのは70年代半ばに日本やバリ島に滞在し民俗音楽を深く身に着けてからだが(なお、委嘱作曲家のゼミソン・ダリルもカナダ出身。日本の民俗音楽に魅せられて移り住み、日本の風土の中での音楽のあり方を探求している)、フォルメル技法を使い始めた時期のシュトックハウゼンの関心を受け継いだ初期作品も、その後の展開の基礎として興味深い。「アカデミック実験主義」の孤高の作曲家テニーも長らくカナダに拠点を置いており、東海岸/西海岸、アカデミズム/実験主義といった表層的な二項対立に収斂しがちな北米の音楽状況の中で、カナダは第三極として機能している。

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 最後にゾーン。初期カーゲルに衝撃を受けて音楽を始め、ヨーロッパ自由即興に続く実験的ポピュラー音楽の潮流、NYダウンタウン即興をフレッド・フリスとともに牽引したサックス奏者であり、また様式混淆志向の一環として80年代後半から90年代初頭まで高円寺で暮らし、太田裕美を自作で起用し矢野顕子を米国市場に紹介した日本音楽マニアでもある(彼が主宰するTzadikレーベルは、日本のアンダーグラウンド音楽を紹介し続けている)。だが彼は、ウォーリネンに私淑し、その書法を作曲作品で用いた米国アカデミズムの継承者でもある。コロンビア大学による米国の作曲家の生涯業績賞であるウィリアム・シューマン賞を、彼はライヒとオリヴェロスの間という象徴的な順序で受賞しているが、Tzadikレーベルでウォーリネンやバビットらの作品を取り上げたことも無視できない貢献である。なお2000年以降の同賞の受賞者は、現時点でこの3人とJ.L.アダムズの4人のみ。

 旅の終わりは日本のアカデミズム。三善、松村、野平は日本の戦後前衛第一世代とポスト戦後前衛世代の一員としてシリーズ解説で既に触れており、池内友次郎門下の桐朋学園大と東京藝大の重鎮としてあらためて紹介するまでもないが、若くして将来を嘱望されていた三善はパリ音楽院留学を前提に音大には進まず、松村は結核療養のため音大受験を断念し、野平は大学院修了後にパリ音楽院留学を経てスペクトル楽派に加わり、アンサンブル・イティネレールのピアニストとして長期滞在した。みな日本のアカデミズムの典型的なレールからは逸脱しており、そこが彼らの個性の源泉になった。権代の音楽はしばしば奇矯さにおいて語られるが、アカデミズムの強固な基礎を土台にした逸脱は、中川俊郎や伊左治直と比べられる。その逸脱がメルツバウとの共同作業まで振れてしまうところが、彼の凄さだが… 彼が最も打ち込んできたピアノ独奏曲の特集は、彼の個性を確認する好機だ。


by ooi_piano | 2019-01-26 08:17 | POC2018 | Comments(0)

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2005年クリスマスディナー、バートウィッスル邸で七面鳥に取り組むサー・ハリーとなかにしあかね氏


Portraits of Composers [POC] 第40回公演
ハリソン・バートウィッスル全ピアノ作品 The complete piano works by Sir Harrison Birtwistle
大井浩明(ピアノ)

2019年1月26日(土)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


○小林純生(1982- ):《フーガ》(2016、委嘱作東京初演) 7分
■H.バートウィッスル(1934- ):
 《ウックウ鳥 Oockooing Bird》(1950、日本初演) 3分
 《約言 (J.オグドンのために) Précis》(1960) 3分
 《悲しい歌 Sad Song》(1971) 2分
 《ジャンヌの子守歌 Berceuse de Jeanne》(1984) 3分
 《ヘクターの薄明 Hector's Dawn》(1987) 1分
○なかにしあかね(1964- ):《Dialogue》(2018、委嘱新作初演) 9分
  I. In the Knot Garden - II. In the Water - III. From Both Sides of the River - IV. Into the Deep Forest - V. At Home, Sweet Home
■H.バートウィッスル:《ハリソンの時計 Harrison's Clocks》(全5楽章、1998) 25分
  I. - II. - III. - IV. - V.

 (休憩15分)

■H.バートウィッスル:《メロディとオスティナート (P.ブーレーズのために) Ostinato with Melody》(2000) 5分
 《ベティ・フリーマン - 彼女のタンゴ Betty Freeman: Her Tango》(2000) 2分
 《サラバンド:王の拝辞 Saraband: The King's Farewell》(2001、日本初演) 3分
 《メトロノームの精の踊り Dance of the metro-gnome》(2006、日本初演) 1分
○金澤攝(1959- ):《烏枢沙摩 Ususama, Toilet Music》(2018、委嘱新作初演) 9分
■H.バートウィッスル:《ジーグ・マシーン Gigue Machine》(2011、日本初演) 16分
 《ゴールドマウンテン変奏曲 Variations from the Golden Mountain》(2014、日本初演) 10分




なかにしあかね:《Dialogue (Series 1)》(2018)
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  Dialogueには様々な種類があります。表面的な言葉のやり取りに過ぎない会話、むなしくすれ違う会話、深く相手を受け止める対話、第三者の意志が働いているかのような言葉の受け渡し・・・言葉の使い方は民族によっても異なりますし、どこで、どのような背景や感情をもって言葉が交わされるかによっても、色合いも温度も深度も異なります。私達の生きている世界は、個人レベルから国家レベルまで、対話のさまざまなルートや方向性を豊かに持つことが、切実に必要とされています。ひとつの対話が機能しなくても、別の方法を試みることはできるはず。このDialogue for piano soloシリーズは、短くシチュエイションを切り取った小品群を提示することにより、対話の様々な可能性を立体的に組み上げて行ければと願うものです。
  本日大井浩明さんに初演して頂きます第1シリーズの5曲は、「place=場所」がテーマとなっております。発想の出発点となった第1曲「In the Knot Garden」は、英国の16世紀エリザベス1世時代に流行した庭園スタイルで、「knot=結び目」を特徴とする幾何学模様の庭で近づいたり離れたりしながら対話が進みます。第2曲「In the Water」は深海の中で、発される言葉はあぶくとなって立ち昇って行きます。第3曲「From Both Sides of the River」は河の両岸から呼びかけ、併走する言葉。第4曲「Into the Deep Forest」は深い森の中。こだまする音、乾いて消えて行く音などが響き合い存在し合います。第5曲「At Home, Sweet Home」は、イギリスで愛唱されている歌の題名の通り、愛しい我が家での語らいです。ささやかな不協和音があることが日常の穏やかさであり、不協和は何も傷つけません。
  Dialogueは、今回の第1シリーズ「place」以外に「time」「with」「emotion」・・・などのシリーズを構想しております。数を頼んで大きなひとつのメッセージになろうという、ほぼ妄想に近い計画ですが、いつの日か、どこかでお聴き頂くこともあるかも知れません。
  本日、第1シリーズを初演して下さる大井浩明さんに心から感謝申し上げます。敬愛するサー・ハリーの作品群と共に皆様にお聴き頂けますことは、この上ない光栄です。(なかにしあかね)


なかにしあかね Akane Nakanishi, composer
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  東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ大学院にて作曲修士号、キングスカレッジ大学院にて作曲博士号を修める。作曲をサー・ハリソン・バートウィスル氏、声楽伴奏法を故ジェフリー・パーソンズ氏に師事。第66回日本音楽コンクール作曲部門第1位及び安田賞受賞、国際フランツ・シューベルト作曲コンクール入賞ほか、入選・入賞多数。作曲と演奏の双方向から「言葉と音楽」を多角的に研究し実践し続け、国内外の演奏家から委嘱を受けている。歌曲、合唱曲の他、室内楽作品やピアノ独奏、連弾作品、こどものためのソングブックなどが多数出版されている他、「合唱エクササイズ~作曲家編」執筆、歌曲や合唱のコンクール審査員や講習会講師など、多角的に活動している。作品CD『なかにしあかね歌曲作品集~歌が生まれる』(ALCD7211音楽現代推薦盤)ほか。平成17年度文化庁在外研修員。現在、宮城学院女子大学教授。 https://soundinternationaljapan.com/


金澤攝:《烏枢沙摩》(2018)
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  今回書き下ろした新曲は、トイレの守護神・烏枢沙摩(うすさま)明王からインスパイアされた、謂わば「音の仏像」である。元より大井氏の持つピアニズム - 色合いを想定して作曲したものだが、同時に彼の新たな表現性に挑む内容でもありたいと考えた。このところ19世紀の作曲家の発掘調査や実演に明け暮れている中で、5年振りの新作となったこの作品は、私にとっても大井氏にとっても、新機軸を拓く契機となる予感がする。
  ところで人間の生活に不可欠のトイレを扱った音楽作品は極めて少ない。常識で考える「美」のイメージとは正反対であれが故に取り合わないのだろう。しかし、正面から取り組むと、これは相当重いテーマとなる。トイレは単なる排泄の場ではない。汚せば魔が入り、磨けば神光が射す。唾を吐くと目を患い、倒れると命が危ういとされるように、人間の命運を左右する、極めて深秘な霊域である。誰もが他者との関わりを謝絶して、自分と神の摂理と向き合う。
   そしてこの場を司るのが烏枢沙摩(うすさま)明王である。不浄を払うと共に財運に大きく関わる神と伝えられる。新曲はこの神名をメインタイトルに据え、その威徳を讃えると同時に、その姿を音として写し取ったものである。その尊影は作曲中、常に私の傍らにあった。人には「気線」というものがあり、この明王と大井氏を結ぶ何らかのそれが、私を介して働いている可能性も考えられる。いづれにしても大井氏は今宵、"烏枢沙摩"の使徒を務めることになる。願わくばその威神力を開顕されんことを。(金澤攝)


金澤攝 Osamu N. Kanazawa, composer
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  作曲家、ピアニスト、研究家。1959年石川県金沢生まれ(旧名:中村攝)。70年から74年までピアノを宮沢明子氏に師事。15歳で渡仏、パリに学ぶ。1979年メシアン・コンクール第2位(1位なし)。1985年第1回日本現代音楽コンクール審査委員長(園田高弘)奨励賞。エピックソニーより『アルカン選集』(全8集)リリース、アルカンブームの火付け役となる。第3回村松賞大賞、金沢市文化活動賞、石川テレビ賞ほかを受賞。知られざる名作を日本に紹介すべく、現在千名の音楽家を対象として研究・演奏を行っている。著作に『失われた音楽 秘曲の封印を解く』『表紙の音楽史 ―楽譜の密林を拓く―(近代フランス篇 1860-1909年生まれの作曲家たち)』『同 資料集』(龜鳴屋・刊)。ウェブ連載《音楽における九星》《演奏とコンクール》、ライヴ音源リスト  




小林純生:《フーガ ~モーリス・ラヴェルを頌して》(2016)
  この曲はラヴェルのフーガ、特にその構造を模して作曲されている。極めて幾何学的なその構造は楽曲の基盤として作品のバランスを整える。安定した土台の上に、ラヴェルのフーガは均整のとれた形で構築されているが、この曲では曖昧にぼかされた線が曲を形作る。音の交差や声部数の多さ、リズムの不安定さ、ヘテロフォニックな書法が線を、そして作品自体を霞ませる。
  フーガの体を成している限り、特に鍵盤楽器のソロ曲の場合、複雑すぎるフーガはおそらくただ無秩序な音の連続に聞こえるだろう。この曲のなかではその不安定な音の集合に秩序を与えるものとして、安定した形式に加えて、ラヴェル的な和声が重要な役割を果たしている。調性という規則によって、雲散しそうな線に形が与えられるが、この和声法は楽曲を締め付け過ぎはしない。
  上記の配慮があってもバランス次第で楽曲は極めて難解なものにも簡明なものにもなりうるが、理解と不理解のはざまで、平衡がとられている。(小林純生)


小林純生 Sumio KOBAYASHI, composer
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  1982年三重県菰野町生まれ。作曲を伊藤弘之と湯浅譲二に師事。日本音楽コンクール (2009)、 国際尹伊桑作曲賞 (2011)、 インターナショナル・ミュージック・トーナメント (2010)、 ICOMS国際作曲コンクール (2011)、 シンテルミア国際作曲コンクール (2012)、 アルヴァレズ室内オーケストラ作曲コンクール (2012)、 武満徹作曲賞 (2013)、 パブロ・カザルス国際作曲コンクール (2015)、サン・リバー賞(2015)、 ワイマール春の音楽祭作曲コンクール (2016)、欧州文化首都ブロツワフ国際作曲コンクール等に入賞・入選。ルーマニアのアイコン・アーツ現代音楽際 (2013) 、武生国際音楽祭 (2010、 2013、 2014)、韓国の統営市国際音楽祭 (2015) 、スロバキアのメロス・エトス国際現代音楽祭(2015)等で、アンサンブル・カリオペ、アンサンブルTIMF、イデー・フィクス・アンサンブル、東京シンフォニエッタ、東京フィルハーモニー交響楽団、ネクスト・マッシュルーム・プロモーション、アンサンブル・ミセーエン等により作品が演奏されている。現在は英国ケント大学博士課程で韻律論の研究に従事する一方で、東京にて日本大学芸術学部音楽学科助教を務める。 http://sumiokobayashi.com/




サー・ハリソン・バートウィスルと私――小林純生

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  サー・ハリソン・バートウィスルと出会った時に思い浮かんだ言葉は「純朴さ」だった。コンクールの審査員と審査されるファイナリストという立場での出会いはそれなりに気まずいものではあったが、巨匠である彼自身が「審査前に会うというのも気まずいよね」と、なんとなくバツが悪そうに話しているのを見てその純朴さを強く感じた。その時私が同時に考えていたのは、三島由紀夫がトーマス・マンやゲーテを「したたか」と発言していたことで、彼はそういったしたたかさとは無縁の、純粋に自分の美学を追求する芸術家であるように思え、それと同時に自分にあるやも知れぬしたたかさを恥じた。
  審査結果を発表したあとも、自分が下した結果に関して「君が満足していてくれたら良いのだけど」と私のことを気遣ってくださり、私としてはファイナリストになって曲が演奏されただけで満足だったので、そのことを伝えたら気恥ずかしくも嬉しそうな顔を見せてくれた。
  私にとっては他にも十分に満足できることがあり、それは彼が私の音楽を「詩的な極端主義」と形容したことだった。曲目解説にも楽譜にも書いてはいなかったが、ここ数年の私の作曲における目標は言語的な詩を音楽で表現することだった。そのことに気づいてくれたこと、つまり自分の目的が達成できたことで、思いがけない贈り物をいただけたような気持になれた。
  私の作曲の師である湯浅譲二先生は、時の構造に着目した作品を書き、その曲を聞いたメシアンがその曲の時間軸を高く評価し、それがとても励みになったと語っていたが、それと同じような印象を、サー・ハリソン・バートウィスルの「詩的な極端主義」とう表現にもった。
  私はイギリスかアメリカで言語学を学ぶ予定だったのでそのことを話すと、「イギリスに来るなら是非イギリスの自宅に遊びに来てくれ」と連絡先を教えて下さった。結局私はイギリスに滞在し博士課程をもうすぐ終えようとしているが、一度も連絡はしなかった。彼に会うことで何かあさましい感情が芽生え、そういったあさましさが彼の純朴さに対して汚らわしいようにも思え、結局は会わないことがお互いにとって一番良いように感じたからだ。願わくば彼のような純朴さをもって、また再会出来れば。


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サー・ハリーが教えてくれたこと――なかにしあかね

  1990年代ある日の『タイムズ』紙に、こんな時事漫画が載ったことがある。国鉄BRが民営化されてからストライキ続きで(民営化される前もスト続きだったが)、暴動を起こしそうな乗客達を必死に抑えながら、駅長が放送係に叫ぶ。
「ディーリアスじゃ生ぬるい。バートウィスルをかけろ!!」

  サー・ハリソン・バートウィスルの「サー」の称号は、ナイトに叙任された男性の肩書で、サー・ハリーは1988年に叙勲され、その後2001年にはCompanion of Honour (名誉勲爵士)にも叙されている。”最も偉大な作曲家”という大見出しと共に『ガーディアン』紙の一面にサー・ハリーの顔が全面アップになり、ウィルトシャーの自宅シルクハウスの庭は、造成された当時ガーデニング雑誌で特集を組まれていた。押しも押されもせぬセレブリティである。

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  私がロンドン大学キングスカレッジ大学院博士課程でバートウィスル門下であったのは1995年から1999年までで、彼は1995年から2001年まで、ヘンリー・パーセル・プロフェッサーという冠つきの教授であった。
  バートウィスルがキングスで教える、というニュースは当時相当なセンセーションを巻き起こし、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸からも入学希望者が殺到した。私はそれ以前からキングスに在籍していて、別の大学へ移籍するか迷っていたところに、降って湧いた幸運だった。
  最初の面会で気に入られなければ門下に採ってもらえない、と言われていた。私はそれまでのロンドンでの苦闘の歴史である自作品のスコアを持って、サー・ハリーの待つ部屋へと入った。
  メディアの作り上げるイメージが、これほど現実と合致している人も珍しいと思うくらい、ニコリともしない無愛想なサー・ハリソン・バートウィスルが部屋の中をうろうろしていた。
「ハロー。サー」
  サー・ハリーは私の顔をちらっと見ただけで、不本意に檻に入れられた熊のようにいらいらと動き回った。
  私がバッグからスコアを出そうとすると
「待て待て。そう慌てるな。楽譜なんか俺に見せるな。まあ座れ。俺はここ、おまえはここだ」
  明らかに選択が逆の、サー・ハリーは小さ過ぎる椅子、私は大き過ぎる椅子に、私達はようやく落ち着いた。
「おまえのことをしゃべれ。」
「は?」
「おまえ自身のことを聞きたい」
  サー・ハリーは私の迷走の歴史を我慢強く聞いた後、言った。
「しかし、無駄じゃなかっただろう?」
「無駄ではありませんでした。いっぱい考えましたから」
「ならいい・・・それは何だ?おまえの曲か?」
  こうしてようやくサー・ハリーは、私のスコアを手に取ってくれたのだった。

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  レッスンは、最初のうちは当時サー・ハリーがテムズ河畔に持っていたフラットに伺い、やがてフランスの家もロンドンのフラットも手放してウィルトシャーのシルクハウスに腰を据えられると、ロンドンから車で3時間の道のりを泊りがけで伺うようになった。緑の丘陵に浮かぶホワイトホース(白い馬の地上絵)、ストーンヘンジなどを通り過ぎ、元は絹の工房だった建物を改築したという邸宅シルクハウスへと至る。立体的に造形された庭にはコンクリートで四角く切った池があり、夏だけ姿を見せる鯉が泳いでいて、その奥に、サー・ハリーの仕事用のコテージがあった。

  サー・ハリーのレッスンは、まるで禅問答のようだった。
「ネイチャーとはなんだ?」
  自然?天然?何を指しているのだろう?それがこの曲とどういう関係があるのだろう?・・・私はじっと考える。
「どうだ?」
「考えてます(I’m thinking.)」
「いや、おまえは沈んでいる(No, you are sinking.)」
  こんな冗談ともつかない会話から、私はサー・ハリーが、楽器にはそれぞれ特有の個性と特質があり、それを生かすということをおまえ自身はどう考えるか明確にせよと言っているのだと、ようやく理解する。
  他の学生には最初からぺらぺらと説明しているように見えるのに、なぜか私には禅問答をふっかけて楽しんでいる節があった。しかしそうやって、考えに考えて意味をつかんだひとつひとつが、その時々の私の作品に必要なものを教え、いらざる些末なもやもやしたものをふっ切らせた。私は、肩が凝るほど虚飾やこだわりを着込むのではなく、裸で自分の音楽と向き合って、最もふさわしい着物だけを選んで着ることを、次第に覚えて行った。

  彼は私に「作曲」は教えなかった。作品以前の、根源的な部分を常に問題にした。読むべき本。見るべき絵や映画。私にとって音楽を創るとはどういうことか。考え抜くとはどういうことか。それぞれの楽器について一般論ではなく私自身の考えをどう確立するか。音を楽譜に移すとはどういうことか。・・・私が何に引っかかっているか、どこでもたもたしているか、サー・ハリーには手に取るようにわかるらしかった。
「俺は方法を知っているぞ」
  サー・ハリーはよく言った。
「でも教えない。自分で考えろ」
「おまえは、何かは考えたかも知れない。だが、まだ考え抜かれていない。」
「一番簡単な道を探すんじゃない。一番いい道を探せ」

  たったひとつの音符の記譜をめぐって何時間でも議論した。サー・ハリーはもっと的確に表す方法があると主張し、デモンストレーションまでして見せてくれたが、私はその記譜によって失われるものがあると主張した。議論は平行線のまま終わり、サー・ハリーは私を「頑固者」と呼んだ。
  ある日「ちょうどロンドンでダニーとリハーサルしているからBBCのスタジオに来い。」と言われて行ってみると、「ダニー」はダニエル・バレンボイムで、BBCシンフォニーの新曲リハーサルをまるまる聴かせてくれようと言うのだった。
  阪神大震災で私の実家が被災した時、サー・ハリーは慰めのような言葉は一切言わず、私を、当時貧乏留学生には高嶺の花だった日本食レストランに連れて行き、なんでも好きなものを頼めと言った。うどんの汁をすすりながら(今思えばもっと高いものを頼めばよかった!)私の心は温められ、サー・ハリーが「俺はこれが好きだ」と薬味の生姜ばかりを何皿も注文するのを見て、心が緩んだ。
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  サー・ハリーと過ごした時間がゆっくりと私の中で実を結んでいく実感を得た頃から、レッスンは少しずつ変わって行った。サー・ハリーが私の作品を見て根源的な何かを指摘したり、記譜について延々とやり合うこともなくなった。
「私はこの部分の音楽はこういう風に鳴って欲しいと思っているんですが、この記譜は有効だと思いますか?」
「おまえが書いた通りに鳴るだろう」
  私は自分で検証せざるをえなくなった。
  少しずつ、少しずつ、サー・ハリーは私を突き放した。判断を仰ぎたい私を素っ気なく振り払い、助けを求めてもヒントも与えてくれなくなった。問題は自分で解決するしかなかった。すべてが自分の力で考え抜かれなければならなかった。

  そしてついにある日のレッスンで、サー・ハリーはこう宣言した。
「俺はもう教えてやらないぞ。おまえはもう俺の生徒じゃない」
  大学院博士課程の指導教官という立場もシステムも完全無視の宣言だった。私は数か月じっと考えて、ある日、ウィルトシャーへ車を飛ばした。

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  私達は大学の話も作曲の話もしなかった。ただ、ハリーご自慢の庭を散歩し、息子さんの作ったセラミックの置物をどこにどう置くのがよいかでもめた。作曲する上での確信に近いものをつかみつつありながら、心のどこかでハリーに頼りたがっていた私の弱さを、見抜かれていたのだと思った。教え教わる関係が、自立した者同士のそれに変わらなければならないことを、私は意識的に自覚していた。ハリーはそれを感じ取ったのか、安心したように音楽の話を始めた。奥様のシーラに、私が日本のコンクールで賞をもらったことや、委嘱作品が演奏されたことを得々と話した。
「あら。よかったわねえ」
「あたりまえだ。何しろ彼女はいい先生についているんだからな」
  はぁぁぁ?! 呆れるのを通り越して私は爆笑した。その夜は私が和食らしきものを作り(もちろん生姜も大量にすりおろし)、翌朝はハリーが特製のブレックファースト・シリアルを怪しげなうんちくと共に創作した。奥様と競い合うように息子たちや孫たちの話をし、料理してくれるんならなぜヒロ(夫・テノール歌手辻裕久)を連れてこなかったかと責めた。夫は料理がうまく浮世離れしたのどかな人で、夫妻のお気に入りだった。近くの街で市が立つと言うので3人で出かけ、私が夫のためにミニチュア・モデルの旧型ロンドンバスの模型を買うと、帰りの車の中で見せろ見せろと包みを開けさせた。
  私は書きかけの作品を持っていたのだが、あえてハリーには見せず、別室を借りて一人で作業した。1時間も経たないうちにハリーの方から痺れを切らせてやってきて、横からのぞいていった。未解決の問題がいくつかあったが、まだ自分で十分よく考えていなかったのでハリーには聞かず、彼も何も言わなかった。
「また遊びに来い。今度は必ずヒロも連れて来いよ」
  私がサー・ハリーから”卒業”した日だった。

  日本に帰って大学教員になると報告した時、ハリーは言った。
「教えるのはいい。だがフルタイムは避けろ。」
  恩師の言葉を尊重せず、私は専任教員として仙台に赴任した。マネージできると思った。東日本大震災の後、数百人に及ぶ被災学生を抱える大学の担当教員として、また現地に関わる音楽家として、心のエネルギーを絞り尽くしてなお絞り出すような日常が続いた。心の中で何度ハリーに「はいそうです。私はあなたの言いつけを守りませんでした。」と呟いたことだろう。
  しかし。
  サー・ハリーに鍛えられた人間が、ただ打ちのめされ、ただ消耗している訳にもいくまい。『音楽の力』が空疎なスローガンに成り下がっていないか。変化し続ける状況の中で、私が音楽を創るとはどういうことか・・・。今も私は、じっと考え続けている。そして自分に問いかける。おまえは本当に考え抜いているか。
  サー・ハリーが教えてくれたことは、確かに「作曲」ではなかった。[初出:東京オペラシティ文化財団「コンポージアム2013」]
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by ooi_piano | 2019-01-22 09:32 | POC2018 | Comments(0)