そもそも事の始まりは、京都府民ホール
ALTIでのピアノ・リサイタル企画でした。スケルツォ第2番かソナタ第3番で華麗にドカーンと終わるショパン・チクルスを提案したら、「そんな気持ち悪いことすんなや」と主催元のS氏に言われ(実話)、その反動で、結局
クラヴィコードで
バッハ平均律をしめやかに奏することになりました。
クラヴィコードの発音原理は、アンプラグド・ギターの左手のタッピングとチョーキング(=ベーブング)と全く同一ですから、グランドピアノのヴォリュームを基準にすると、どうしても「静かな」楽器であることは否めません。しかしこれは、ライヴハウスで難聴になるほどの爆音ノイズ・ミュージックに親しんでいる人にとって、オーケストラの総奏でさえ音量的に物足りないのと同様です。(因みに、難聴にならないためには100デシベルで1日15分が限界だとか。)
例えばヨーロッパでも、古楽を聴き慣れている人達であれば、「今日の公演で使用されたクラヴィコードは良いバランスの楽器だった」とか「今日の奏者は上手く楽器をコントロールしていた」などと立ち入った批評が出来るものの、「音が小さくてどうにもイカン」という感想の聴衆も、一定数いるわけです。これは慣れの問題でしょう。程度の差はあれ、現代文明の諸騒音と付き合わざるを得ない我々は、いわば「音響外傷」を被っているようなものです。(「耳の中の潮騒」を曲に取り入れたのは、スメタナやクセナキスでした。一方、ベートーヴェンの難聴は耳硬化症と呼ばれるものであり、自分の弾くフォルテピアノの音は聞こえていたらしい。)

石畳を走る馬車の音は耳をつんざくほどの轟音だった、という話もありますから、「バッハの時代は現代よりももっと静かで、人々の耳も良かったに違いない」とは一概に言えないかもしれません。生活習慣病はともかく、バッハのストレスは我々を遥かに凌駕していた筈です。
なおSamuel Rosen博士(米国)の研究(
論文提供者)によると、青ナイルと白ナイルの合流点から約1000km南東へ下ったエチオピア国境近くの森林地帯に住むMabaan族は、稀に見る良い聴力を持っていたそうです。スーダン領には珍しく(!)、内気で沈着した平和な種族で、太鼓も叩かなければ大声で喋ったりもせず、生活騒音は冷蔵庫がたてるモーター音の10分の1に過ぎなかったそうな。「あ、飛行機だ、と彼らが言ってから、Rosen博士にその音が聞こえてきたのは数分後のことであった」、「Mabaan族の70代の老人達は、米国の20代の若者と同じ聴力を持っていた」(加齢による血圧上昇無し)、「米国市民は高く大きい音でないと聞き取ることが出来なかったが、Mabaan族は低く小さい音を聞き分けられた」、「一列縦隊で行進しているに、先頭の者が前を見たまま小声で呟いても、後続と会話出来た」、「フットボール競技場(108.73m×48.76m)ほどの大きさの広場で隔てられていても、低いささやき声が聞こえた」などなど、「耳を疑う」エピソードが色々あります。ほぼ菜食であり動物性タンパク質をほとんど摂取する機会が無いわりには、全く健康体。乾季の収穫期には、五弦琴に合わせて男性が非常に静かに一節歌ったのちに、男女20人が極めて大音量(110デシベルに達するとか)で歌い踊るそうですから、大声が出せないわけでは無いのでしょう。家庭(ケ)ではクラヴィコード、教会(ハレ)では大音量のパイプオルガン、という対比を連想させます。
とまれ、オリヴェロスのディープ・リスニングを持ち出すまでもなく、田舎の「自然な静けさ」をイメージすれば、おのずと耳は開かれ、ハタハタと飛び立ってゆくのでは無いでしょうか。
現代人の我々の耳とバッハの耳をわかつのは何でしょうか?「眼が悪くなる原因というのは医学的には良く分かっていない」とは、友人の医師の弁です。曰く、「暗いところで本を読むと眼が悪くなるというのは医学的には証明されてないらしい(※注)。ただひとつ論文として信頼されているのは,夜寝るときに電気をつけていると眼が悪くなる、という話。真っ暗が一番悪くなりにくく、豆球がついてると悪くなる人が増え、電気を明々とつけてねてるとだいぶ悪くなるらしい。ちゃんと休めるときは休めないといけないってことやな。耳も眼も」。
小噺を一つ。
「すでに8人の子供があり、うち三人は耳が不自由で、二人は目が不自由、一人は精神面で成長阻害が見られ、そして本人は梅毒を患っている妊婦の知り合いがいるとする。あなたは、彼女に妊娠中絶を勧めるか?」
→回答
(注)「ピントが合いにくい、あるいはぼんやりとしか見えない状況」で本を読むと、「近視」になりやすい、というのは、「ほぼ実証されていると言っても良い」、との事です。[2014.10.4]