1/26(土)18時 バートウィッスル全ピアノ曲+なかにしあかね新作+金澤攝新作

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2005年クリスマスディナー、バートウィッスル邸で七面鳥に取り組むサー・ハリーとなかにしあかね氏


Portraits of Composers [POC] 第40回公演
ハリソン・バートウィッスル全ピアノ作品 The complete piano works by Sir Harrison Birtwistle
大井浩明(ピアノ)

2019年1月26日(土)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


○小林純生(1982- ):《フーガ》(2016、委嘱作東京初演) 7分
■H.バートウィッスル(1934- ):
 《ウックウ鳥 Oockooing Bird》(1950、日本初演) 3分
 《約言 (J.オグドンのために) Précis》(1960) 3分
 《悲しい歌 Sad Song》(1971) 2分
 《ジャンヌの子守歌 Berceuse de Jeanne》(1984) 3分
 《ヘクターの薄明 Hector's Dawn》(1987) 1分
○なかにしあかね(1964- ):《Dialogue》(2018、委嘱新作初演) 9分
  I. In the Knot Garden - II. In the Water - III. From Both Sides of the River - IV. Into the Deep Forest - V. At Home, Sweet Home
■H.バートウィッスル:《ハリソンの時計 Harrison's Clocks》(全5楽章、1998) 25分
  I. - II. - III. - IV. - V.

 (休憩15分)

■H.バートウィッスル:《メロディとオスティナート (P.ブーレーズのために) Ostinato with Melody》(2000) 5分
 《ベティ・フリーマン - 彼女のタンゴ Betty Freeman: Her Tango》(2000) 2分
 《サラバンド:王の拝辞 Saraband: The King's Farewell》(2001、日本初演) 3分
 《メトロノームの精の踊り Dance of the metro-gnome》(2006、日本初演) 1分
○金澤攝(1959- ):《烏枢沙摩 Ususama, Toilet Music》(2018、委嘱新作初演) 9分
■H.バートウィッスル:《ジーグ・マシーン Gigue Machine》(2011、日本初演) 16分
 《ゴールドマウンテン変奏曲 Variations from the Golden Mountain》(2014、日本初演) 10分




なかにしあかね:《Dialogue (Series 1)》(2018)
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  Dialogueには様々な種類があります。表面的な言葉のやり取りに過ぎない会話、むなしくすれ違う会話、深く相手を受け止める対話、第三者の意志が働いているかのような言葉の受け渡し・・・言葉の使い方は民族によっても異なりますし、どこで、どのような背景や感情をもって言葉が交わされるかによっても、色合いも温度も深度も異なります。私達の生きている世界は、個人レベルから国家レベルまで、対話のさまざまなルートや方向性を豊かに持つことが、切実に必要とされています。ひとつの対話が機能しなくても、別の方法を試みることはできるはず。このDialogue for piano soloシリーズは、短くシチュエイションを切り取った小品群を提示することにより、対話の様々な可能性を立体的に組み上げて行ければと願うものです。
  本日大井浩明さんに初演して頂きます第1シリーズの5曲は、「place=場所」がテーマとなっております。発想の出発点となった第1曲「In the Knot Garden」は、英国の16世紀エリザベス1世時代に流行した庭園スタイルで、「knot=結び目」を特徴とする幾何学模様の庭で近づいたり離れたりしながら対話が進みます。第2曲「In the Water」は深海の中で、発される言葉はあぶくとなって立ち昇って行きます。第3曲「From Both Sides of the River」は河の両岸から呼びかけ、併走する言葉。第4曲「Into the Deep Forest」は深い森の中。こだまする音、乾いて消えて行く音などが響き合い存在し合います。第5曲「At Home, Sweet Home」は、イギリスで愛唱されている歌の題名の通り、愛しい我が家での語らいです。ささやかな不協和音があることが日常の穏やかさであり、不協和は何も傷つけません。
  Dialogueは、今回の第1シリーズ「place」以外に「time」「with」「emotion」・・・などのシリーズを構想しております。数を頼んで大きなひとつのメッセージになろうという、ほぼ妄想に近い計画ですが、いつの日か、どこかでお聴き頂くこともあるかも知れません。
  本日、第1シリーズを初演して下さる大井浩明さんに心から感謝申し上げます。敬愛するサー・ハリーの作品群と共に皆様にお聴き頂けますことは、この上ない光栄です。(なかにしあかね)


なかにしあかね Akane Nakanishi, composer
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  東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ大学院にて作曲修士号、キングスカレッジ大学院にて作曲博士号を修める。作曲をサー・ハリソン・バートウィスル氏、声楽伴奏法を故ジェフリー・パーソンズ氏に師事。第66回日本音楽コンクール作曲部門第1位及び安田賞受賞、国際フランツ・シューベルト作曲コンクール入賞ほか、入選・入賞多数。作曲と演奏の双方向から「言葉と音楽」を多角的に研究し実践し続け、国内外の演奏家から委嘱を受けている。歌曲、合唱曲の他、室内楽作品やピアノ独奏、連弾作品、こどものためのソングブックなどが多数出版されている他、「合唱エクササイズ~作曲家編」執筆、歌曲や合唱のコンクール審査員や講習会講師など、多角的に活動している。作品CD『なかにしあかね歌曲作品集~歌が生まれる』(ALCD7211音楽現代推薦盤)ほか。平成17年度文化庁在外研修員。現在、宮城学院女子大学教授。 https://soundinternationaljapan.com/


金澤攝:《烏枢沙摩》(2018)
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  今回書き下ろした新曲は、トイレの守護神・烏枢沙摩(うすさま)明王からインスパイアされた、謂わば「音の仏像」である。元より大井氏の持つピアニズム - 色合いを想定して作曲したものだが、同時に彼の新たな表現性に挑む内容でもありたいと考えた。このところ19世紀の作曲家の発掘調査や実演に明け暮れている中で、5年振りの新作となったこの作品は、私にとっても大井氏にとっても、新機軸を拓く契機となる予感がする。
  ところで人間の生活に不可欠のトイレを扱った音楽作品は極めて少ない。常識で考える「美」のイメージとは正反対であれが故に取り合わないのだろう。しかし、正面から取り組むと、これは相当重いテーマとなる。トイレは単なる排泄の場ではない。汚せば魔が入り、磨けば神光が射す。唾を吐くと目を患い、倒れると命が危ういとされるように、人間の命運を左右する、極めて深秘な霊域である。誰もが他者との関わりを謝絶して、自分と神の摂理と向き合う。
   そしてこの場を司るのが烏枢沙摩(うすさま)明王である。不浄を払うと共に財運に大きく関わる神と伝えられる。新曲はこの神名をメインタイトルに据え、その威徳を讃えると同時に、その姿を音として写し取ったものである。その尊影は作曲中、常に私の傍らにあった。人には「気線」というものがあり、この明王と大井氏を結ぶ何らかのそれが、私を介して働いている可能性も考えられる。いづれにしても大井氏は今宵、"烏枢沙摩"の使徒を務めることになる。願わくばその威神力を開顕されんことを。(金澤攝)


金澤攝 Osamu N. Kanazawa, composer
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  作曲家、ピアニスト、研究家。1959年石川県金沢生まれ(旧名:中村攝)。70年から74年までピアノを宮沢明子氏に師事。15歳で渡仏、パリに学ぶ。1979年メシアン・コンクール第2位(1位なし)。1985年第1回日本現代音楽コンクール審査委員長(園田高弘)奨励賞。エピックソニーより『アルカン選集』(全8集)リリース、アルカンブームの火付け役となる。第3回村松賞大賞、金沢市文化活動賞、石川テレビ賞ほかを受賞。知られざる名作を日本に紹介すべく、現在千名の音楽家を対象として研究・演奏を行っている。著作に『失われた音楽 秘曲の封印を解く』『表紙の音楽史 ―楽譜の密林を拓く―(近代フランス篇 1860-1909年生まれの作曲家たち)』『同 資料集』(龜鳴屋・刊)。ウェブ連載《音楽における九星》《演奏とコンクール》、ライヴ音源リスト  




小林純生:《フーガ ~モーリス・ラヴェルを頌して》(2016)
  この曲はラヴェルのフーガ、特にその構造を模して作曲されている。極めて幾何学的なその構造は楽曲の基盤として作品のバランスを整える。安定した土台の上に、ラヴェルのフーガは均整のとれた形で構築されているが、この曲では曖昧にぼかされた線が曲を形作る。音の交差や声部数の多さ、リズムの不安定さ、ヘテロフォニックな書法が線を、そして作品自体を霞ませる。
  フーガの体を成している限り、特に鍵盤楽器のソロ曲の場合、複雑すぎるフーガはおそらくただ無秩序な音の連続に聞こえるだろう。この曲のなかではその不安定な音の集合に秩序を与えるものとして、安定した形式に加えて、ラヴェル的な和声が重要な役割を果たしている。調性という規則によって、雲散しそうな線に形が与えられるが、この和声法は楽曲を締め付け過ぎはしない。
  上記の配慮があってもバランス次第で楽曲は極めて難解なものにも簡明なものにもなりうるが、理解と不理解のはざまで、平衡がとられている。(小林純生)


小林純生 Sumio KOBAYASHI, composer
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  1982年三重県菰野町生まれ。作曲を伊藤弘之と湯浅譲二に師事。日本音楽コンクール (2009)、 国際尹伊桑作曲賞 (2011)、 インターナショナル・ミュージック・トーナメント (2010)、 ICOMS国際作曲コンクール (2011)、 シンテルミア国際作曲コンクール (2012)、 アルヴァレズ室内オーケストラ作曲コンクール (2012)、 武満徹作曲賞 (2013)、 パブロ・カザルス国際作曲コンクール (2015)、サン・リバー賞(2015)、 ワイマール春の音楽祭作曲コンクール (2016)、欧州文化首都ブロツワフ国際作曲コンクール等に入賞・入選。ルーマニアのアイコン・アーツ現代音楽際 (2013) 、武生国際音楽祭 (2010、 2013、 2014)、韓国の統営市国際音楽祭 (2015) 、スロバキアのメロス・エトス国際現代音楽祭(2015)等で、アンサンブル・カリオペ、アンサンブルTIMF、イデー・フィクス・アンサンブル、東京シンフォニエッタ、東京フィルハーモニー交響楽団、ネクスト・マッシュルーム・プロモーション、アンサンブル・ミセーエン等により作品が演奏されている。現在は英国ケント大学博士課程で韻律論の研究に従事する一方で、東京にて日本大学芸術学部音楽学科助教を務める。 http://sumiokobayashi.com/




サー・ハリソン・バートウィスルと私――小林純生

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  サー・ハリソン・バートウィスルと出会った時に思い浮かんだ言葉は「純朴さ」だった。コンクールの審査員と審査されるファイナリストという立場での出会いはそれなりに気まずいものではあったが、巨匠である彼自身が「審査前に会うというのも気まずいよね」と、なんとなくバツが悪そうに話しているのを見てその純朴さを強く感じた。その時私が同時に考えていたのは、三島由紀夫がトーマス・マンやゲーテを「したたか」と発言していたことで、彼はそういったしたたかさとは無縁の、純粋に自分の美学を追求する芸術家であるように思え、それと同時に自分にあるやも知れぬしたたかさを恥じた。
  審査結果を発表したあとも、自分が下した結果に関して「君が満足していてくれたら良いのだけど」と私のことを気遣ってくださり、私としてはファイナリストになって曲が演奏されただけで満足だったので、そのことを伝えたら気恥ずかしくも嬉しそうな顔を見せてくれた。
  私にとっては他にも十分に満足できることがあり、それは彼が私の音楽を「詩的な極端主義」と形容したことだった。曲目解説にも楽譜にも書いてはいなかったが、ここ数年の私の作曲における目標は言語的な詩を音楽で表現することだった。そのことに気づいてくれたこと、つまり自分の目的が達成できたことで、思いがけない贈り物をいただけたような気持になれた。
  私の作曲の師である湯浅譲二先生は、時の構造に着目した作品を書き、その曲を聞いたメシアンがその曲の時間軸を高く評価し、それがとても励みになったと語っていたが、それと同じような印象を、サー・ハリソン・バートウィスルの「詩的な極端主義」とう表現にもった。
  私はイギリスかアメリカで言語学を学ぶ予定だったのでそのことを話すと、「イギリスに来るなら是非イギリスの自宅に遊びに来てくれ」と連絡先を教えて下さった。結局私はイギリスに滞在し博士課程をもうすぐ終えようとしているが、一度も連絡はしなかった。彼に会うことで何かあさましい感情が芽生え、そういったあさましさが彼の純朴さに対して汚らわしいようにも思え、結局は会わないことがお互いにとって一番良いように感じたからだ。願わくば彼のような純朴さをもって、また再会出来れば。


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サー・ハリーが教えてくれたこと――なかにしあかね

  1990年代ある日の『タイムズ』紙に、こんな時事漫画が載ったことがある。国鉄BRが民営化されてからストライキ続きで(民営化される前もスト続きだったが)、暴動を起こしそうな乗客達を必死に抑えながら、駅長が放送係に叫ぶ。
「ディーリアスじゃ生ぬるい。バートウィスルをかけろ!!」

  サー・ハリソン・バートウィスルの「サー」の称号は、ナイトに叙任された男性の肩書で、サー・ハリーは1988年に叙勲され、その後2001年にはCompanion of Honour (名誉勲爵士)にも叙されている。”最も偉大な作曲家”という大見出しと共に『ガーディアン』紙の一面にサー・ハリーの顔が全面アップになり、ウィルトシャーの自宅シルクハウスの庭は、造成された当時ガーデニング雑誌で特集を組まれていた。押しも押されもせぬセレブリティである。

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  私がロンドン大学キングスカレッジ大学院博士課程でバートウィスル門下であったのは1995年から1999年までで、彼は1995年から2001年まで、ヘンリー・パーセル・プロフェッサーという冠つきの教授であった。
  バートウィスルがキングスで教える、というニュースは当時相当なセンセーションを巻き起こし、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸からも入学希望者が殺到した。私はそれ以前からキングスに在籍していて、別の大学へ移籍するか迷っていたところに、降って湧いた幸運だった。
  最初の面会で気に入られなければ門下に採ってもらえない、と言われていた。私はそれまでのロンドンでの苦闘の歴史である自作品のスコアを持って、サー・ハリーの待つ部屋へと入った。
  メディアの作り上げるイメージが、これほど現実と合致している人も珍しいと思うくらい、ニコリともしない無愛想なサー・ハリソン・バートウィスルが部屋の中をうろうろしていた。
「ハロー。サー」
  サー・ハリーは私の顔をちらっと見ただけで、不本意に檻に入れられた熊のようにいらいらと動き回った。
  私がバッグからスコアを出そうとすると
「待て待て。そう慌てるな。楽譜なんか俺に見せるな。まあ座れ。俺はここ、おまえはここだ」
  明らかに選択が逆の、サー・ハリーは小さ過ぎる椅子、私は大き過ぎる椅子に、私達はようやく落ち着いた。
「おまえのことをしゃべれ。」
「は?」
「おまえ自身のことを聞きたい」
  サー・ハリーは私の迷走の歴史を我慢強く聞いた後、言った。
「しかし、無駄じゃなかっただろう?」
「無駄ではありませんでした。いっぱい考えましたから」
「ならいい・・・それは何だ?おまえの曲か?」
  こうしてようやくサー・ハリーは、私のスコアを手に取ってくれたのだった。

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  レッスンは、最初のうちは当時サー・ハリーがテムズ河畔に持っていたフラットに伺い、やがてフランスの家もロンドンのフラットも手放してウィルトシャーのシルクハウスに腰を据えられると、ロンドンから車で3時間の道のりを泊りがけで伺うようになった。緑の丘陵に浮かぶホワイトホース(白い馬の地上絵)、ストーンヘンジなどを通り過ぎ、元は絹の工房だった建物を改築したという邸宅シルクハウスへと至る。立体的に造形された庭にはコンクリートで四角く切った池があり、夏だけ姿を見せる鯉が泳いでいて、その奥に、サー・ハリーの仕事用のコテージがあった。

  サー・ハリーのレッスンは、まるで禅問答のようだった。
「ネイチャーとはなんだ?」
  自然?天然?何を指しているのだろう?それがこの曲とどういう関係があるのだろう?・・・私はじっと考える。
「どうだ?」
「考えてます(I’m thinking.)」
「いや、おまえは沈んでいる(No, you are sinking.)」
  こんな冗談ともつかない会話から、私はサー・ハリーが、楽器にはそれぞれ特有の個性と特質があり、それを生かすということをおまえ自身はどう考えるか明確にせよと言っているのだと、ようやく理解する。
  他の学生には最初からぺらぺらと説明しているように見えるのに、なぜか私には禅問答をふっかけて楽しんでいる節があった。しかしそうやって、考えに考えて意味をつかんだひとつひとつが、その時々の私の作品に必要なものを教え、いらざる些末なもやもやしたものをふっ切らせた。私は、肩が凝るほど虚飾やこだわりを着込むのではなく、裸で自分の音楽と向き合って、最もふさわしい着物だけを選んで着ることを、次第に覚えて行った。

  彼は私に「作曲」は教えなかった。作品以前の、根源的な部分を常に問題にした。読むべき本。見るべき絵や映画。私にとって音楽を創るとはどういうことか。考え抜くとはどういうことか。それぞれの楽器について一般論ではなく私自身の考えをどう確立するか。音を楽譜に移すとはどういうことか。・・・私が何に引っかかっているか、どこでもたもたしているか、サー・ハリーには手に取るようにわかるらしかった。
「俺は方法を知っているぞ」
  サー・ハリーはよく言った。
「でも教えない。自分で考えろ」
「おまえは、何かは考えたかも知れない。だが、まだ考え抜かれていない。」
「一番簡単な道を探すんじゃない。一番いい道を探せ」

  たったひとつの音符の記譜をめぐって何時間でも議論した。サー・ハリーはもっと的確に表す方法があると主張し、デモンストレーションまでして見せてくれたが、私はその記譜によって失われるものがあると主張した。議論は平行線のまま終わり、サー・ハリーは私を「頑固者」と呼んだ。
  ある日「ちょうどロンドンでダニーとリハーサルしているからBBCのスタジオに来い。」と言われて行ってみると、「ダニー」はダニエル・バレンボイムで、BBCシンフォニーの新曲リハーサルをまるまる聴かせてくれようと言うのだった。
  阪神大震災で私の実家が被災した時、サー・ハリーは慰めのような言葉は一切言わず、私を、当時貧乏留学生には高嶺の花だった日本食レストランに連れて行き、なんでも好きなものを頼めと言った。うどんの汁をすすりながら(今思えばもっと高いものを頼めばよかった!)私の心は温められ、サー・ハリーが「俺はこれが好きだ」と薬味の生姜ばかりを何皿も注文するのを見て、心が緩んだ。
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  サー・ハリーと過ごした時間がゆっくりと私の中で実を結んでいく実感を得た頃から、レッスンは少しずつ変わって行った。サー・ハリーが私の作品を見て根源的な何かを指摘したり、記譜について延々とやり合うこともなくなった。
「私はこの部分の音楽はこういう風に鳴って欲しいと思っているんですが、この記譜は有効だと思いますか?」
「おまえが書いた通りに鳴るだろう」
  私は自分で検証せざるをえなくなった。
  少しずつ、少しずつ、サー・ハリーは私を突き放した。判断を仰ぎたい私を素っ気なく振り払い、助けを求めてもヒントも与えてくれなくなった。問題は自分で解決するしかなかった。すべてが自分の力で考え抜かれなければならなかった。

  そしてついにある日のレッスンで、サー・ハリーはこう宣言した。
「俺はもう教えてやらないぞ。おまえはもう俺の生徒じゃない」
  大学院博士課程の指導教官という立場もシステムも完全無視の宣言だった。私は数か月じっと考えて、ある日、ウィルトシャーへ車を飛ばした。

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  私達は大学の話も作曲の話もしなかった。ただ、ハリーご自慢の庭を散歩し、息子さんの作ったセラミックの置物をどこにどう置くのがよいかでもめた。作曲する上での確信に近いものをつかみつつありながら、心のどこかでハリーに頼りたがっていた私の弱さを、見抜かれていたのだと思った。教え教わる関係が、自立した者同士のそれに変わらなければならないことを、私は意識的に自覚していた。ハリーはそれを感じ取ったのか、安心したように音楽の話を始めた。奥様のシーラに、私が日本のコンクールで賞をもらったことや、委嘱作品が演奏されたことを得々と話した。
「あら。よかったわねえ」
「あたりまえだ。何しろ彼女はいい先生についているんだからな」
  はぁぁぁ?! 呆れるのを通り越して私は爆笑した。その夜は私が和食らしきものを作り(もちろん生姜も大量にすりおろし)、翌朝はハリーが特製のブレックファースト・シリアルを怪しげなうんちくと共に創作した。奥様と競い合うように息子たちや孫たちの話をし、料理してくれるんならなぜヒロ(夫・テノール歌手辻裕久)を連れてこなかったかと責めた。夫は料理がうまく浮世離れしたのどかな人で、夫妻のお気に入りだった。近くの街で市が立つと言うので3人で出かけ、私が夫のためにミニチュア・モデルの旧型ロンドンバスの模型を買うと、帰りの車の中で見せろ見せろと包みを開けさせた。
  私は書きかけの作品を持っていたのだが、あえてハリーには見せず、別室を借りて一人で作業した。1時間も経たないうちにハリーの方から痺れを切らせてやってきて、横からのぞいていった。未解決の問題がいくつかあったが、まだ自分で十分よく考えていなかったのでハリーには聞かず、彼も何も言わなかった。
「また遊びに来い。今度は必ずヒロも連れて来いよ」
  私がサー・ハリーから”卒業”した日だった。

  日本に帰って大学教員になると報告した時、ハリーは言った。
「教えるのはいい。だがフルタイムは避けろ。」
  恩師の言葉を尊重せず、私は専任教員として仙台に赴任した。マネージできると思った。東日本大震災の後、数百人に及ぶ被災学生を抱える大学の担当教員として、また現地に関わる音楽家として、心のエネルギーを絞り尽くしてなお絞り出すような日常が続いた。心の中で何度ハリーに「はいそうです。私はあなたの言いつけを守りませんでした。」と呟いたことだろう。
  しかし。
  サー・ハリーに鍛えられた人間が、ただ打ちのめされ、ただ消耗している訳にもいくまい。『音楽の力』が空疎なスローガンに成り下がっていないか。変化し続ける状況の中で、私が音楽を創るとはどういうことか・・・。今も私は、じっと考え続けている。そして自分に問いかける。おまえは本当に考え抜いているか。
  サー・ハリーが教えてくれたことは、確かに「作曲」ではなかった。[初出:東京オペラシティ文化財団「コンポージアム2013」]
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# by ooi_piano | 2019-01-22 09:32 | POC2018 | Comments(0)

12月14日(金)19時 松村禎三/三善晃/野平一郎 全ピアノ曲

Portraits of Composers [POC] 第39回公演  日本アカデミズムの帰趨
大井浩明(ピアノ)

2018年12月14日(金)19時開演(18時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


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●アンリ・デュティユー(1916-2013):《コラールと変奏》(1948) 10分
●三善晃(1933 - 2013):《ピアノソナタ》(1958) 20分
  I. Allegro - II. Andante - III. Presto
●松村禎三(1929-2007):《ギリシャに寄せる二つの子守唄》(1969) 9分
●三善晃:《24の前奏曲集「シェーヌ(鎖)」》(1973) 17分
  第一部 〈A〉〈B〉〈C〉〈B'〉〈C'〉〈B"〉〈C"〉〈Aへの復帰〉-小さな鎖〈I〉〈II〉
  第二部 〈A〉〈B〉〈C〉〈D〉〈短い綜合〉-小さな鎖〈III〉 (ABCB'D)
  第三部 小さな鎖〈IV (C.H.A in Es)〉〈A〉〈B〉〈C〉〈D〉-復帰と応照〈A〉〈B〉〈C〉

 (休憩10分)

●野平一郎(1953- ):《アラベスク第2番》(1979/89/91) 10分
●三善晃:《アン・ヴェール》(1980) 7分
●野平一郎:《間奏曲第1番「ある原風景」》(1992) 6分
●三善晃:《円環と交差Ⅰ・Ⅱ》(1995/98) 8分
●野平一郎:《間奏曲第2番「イン・メモリアム・T」》(1998) 4分
●松村禎三:《巡禮 I/II/III》(1999/2000) 10分

 (休憩10分)

●野平一郎:《響きの歩み》(2001) 8分
●野平一郎:《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006) 11分
●棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/2018、改訂版初演) 3分
●野平一郎:《間奏曲第7番》(2014) 7分





棚田文紀 Fuminori Tanada, composer
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  1961年岡山市生。河田文忠氏に作曲、和声法、対位法を学ぶ。1979年東京藝術大学音楽学部作曲科入学。作曲を北村昭、南弘明、八村義夫の各氏に、ピアノ伴奏方をアンリエット・ピュイグ・ロジェ女史に師事。1984年、フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ国立高等音楽院に入学。作曲科、管弦楽法科、ピアノ伴奏科の全科でプルミエプリ(一等賞)を得て卒業。その間、クロード・バリーフ、ポール・メファーノ、ベティ・ジョラス、ジャン・ケルネール、ソランジュ・キャパランの各氏に師事。以降、作曲家、ピアニストとしてフランスを中心に活動を続けている。1991年よりパリ国立高等音楽院のフルート科伴奏者を務める。また現代音楽のアンサンブル、イティネレールのピアニストとして数多くの現代作品の初演にたずさわる一方、2014年よりパリ国立高等音楽院室内楽科の教授として後進の指導にも当たっている。作曲家としては、エマニュエル・パユの為に書かれたフルート四重奏曲、レ・ヴァン・フランセの為の六重奏曲、サクソフォーン四重奏曲、ギターとアンサンブルの為の作品、フルート協奏曲、二本のフルートとフルートオーケストラの為の作品、Lancelot国際コンクールの為に書かれたクラリネット協奏曲などがある。現在はレ・シエクル(Les Siècles)の為のオーケストラ作品を作曲中。作品の多くはÉditions Henry Lemoineから出版されている。




POC流・日本「アカデミズム」小史──野々村 禎彦

c0050810_21232292.jpg 今年度のPOCにおける米国アカデミズムの総説では、伝統的アカデミズムは自明なものとして扱ったが、日本の場合はそれほど単純ではない。ただし戦前のアカデミズムは、米国と同程度に自明である。ヨーロッパの伝統音楽(日本固有の音楽ではない)を教える機関として東京音楽学校が設立され(明治維新後に作られた「日本画」という擬似伝統の比重が大きい東京美術学校とは対照的)、ドイツ人と独語圏留学組が教授陣を占めた。作曲は大学院修士課程に相当する研究科の片隅で細々と教えられてはいたが、本科で演奏を専攻した後、海外留学で学ぶのが通例だった。例えば山田耕筰(1886-1965) は声楽部を卒業後ドイツで作曲を学び、信時潔(1887-1965) は器楽部でチェロを専攻した後ドイツで作曲を学んだ。山田は指揮活動に時間を割き、文化学院などで教鞭を執ったが専門教育には関わらなかったのに対し、信時は東京音楽学校教授として本科作曲部の創設(1932) に尽力し、下総皖一(1898-1962)、橋本國彦(1904-49)、細川碧(1906-50)、長谷川良夫(1907-81)、髙田三郎(1913-2000)、大中恩(1924-) らを育てた。戦後の日本合唱界で活躍した髙田や大中の世代になると、作曲部で学んで海外留学は経ていない。

c0050810_21244512.jpg このようにして日本でも作曲におけるアカデミズムが確立し、アカデミックな様式に忠実な作風が楽壇で評価されて教職に結びつき、公的行事でもアカデミックな様式に沿ったオリジナルな音楽が用いられるようになる。ただしこのアカデミズムは米国と同様に、極めて内向きなものだった。1934-37年に日本に滞在し、教育や日本人作品の海外への紹介に尽力したロシア生まれフランス育ちの作曲家=ピアニスト、アレクサンドル・チェレプニン(1899-1977) は、日本人が対象の作曲コンクールを1935年に主催したが、ルーセルらフランスのアカデミックな作曲家たちが審査した結果は、1位は伊福部昭(1914-2006)、2位は松平頼則(1907-2001) と、ほぼ独学でフランス新古典主義を研究していた在野の作曲家たちが上位を占めたのは象徴的である。公的行事のためのアカデミックな作品の比重は、日本が戦争に向かう中で高まったが、戦後には「戦争責任」を問われて東京音楽学校作曲部の多くの教員が職を解かれた。理論書の執筆や童謡・文部省唱歌に関わり教授職への昇進は遅かった下総や長谷川は戦後も藝大教授を続けたのに対し、ウィーン留学を経て早々に東京音楽学校教授に就任し旺盛な創作を行った橋本や細川は失職し、失意の中で早逝した。特に橋本は、作曲部創設に際して教授に着任する以前はバレエ音楽や歌謡曲にも取り組み、留学の帰途にロサンゼルスでシェーンベルクから12音技法を学び、フランス近代音楽も独自に研究して学生たちにも薦めるなど、作曲家としても教師としても進歩的で懐の広い人物だった。

c0050810_21251637.jpg 彼らと入れ替わる形で1947年に着任し、アカデミズムの中心人物になってゆくのが池内友次郎(1906-91) である。池内は戦前には稀少なフランス留学組で、帰国後の活動も作曲よりも音楽理論や教育が中心で「戦争責任」を問われる余地はなかった。他方1946年には伊福部が着任した。実作に精通した彼は学生に慕われ、芥川也寸志(1925-89) や黛敏郎(1929-97) の初期の作風には強い影響が見られる。ただし、1949年に東京美術学校と合併し東京藝術大学に改組される中で、芥川も黛もアカデミーには残らず、伊福部も主著『管絃楽法』上巻(1953) 出版に先立って藝大を辞している。彼らが教職に頼らない道を選んだ背景には、商業的なピークに向かいつつあった日本映画の音楽を担当すれば、生活には困らなかったという時代状況が大きい。アカデミズムからも国際的な戦後前衛の潮流からも距離を置いた、早坂文雄(1914-55) や武満徹(1930-96) のような作曲家が主導的な役割を果たした日本作曲界の特殊性は、映画音楽が商業音楽教程の最終段階としてシステムに組み込まれている米国とは対照的な、当時の日本映画のあり方に多くを負っている。

c0050810_21254505.jpg 1951年、旧制東京音楽学校研究科を修了した黛と矢代秋雄(1929-76) は、パリ音楽院に留学した。伊福部の影響を受け在学中からジャズバンドでも活動していた黛は、保守的なパリ音楽院では学ぶものなしとして1年で帰国したが、池内の影響を受けた矢代は1956年まで在学し、後に留学してきた三善晃(1933-2013) と親交を結んだ。この時点で、戦後日本のアカデミズムの骨格は作られたとも言える。ただし、フランスのアカデミズムを範とすることには矛盾がある。現地に馴染んだら、もはや日本に戻る理由はない。矢代の場合は作曲で一等賞を取れなかったのが帰国の理由だが、丹波明(1932-)、平義久(1937-2005)、今回改作初演が行われる棚田文紀(1961-) らは現地で職を得て音楽活動を続けている。また、藝大に飽き足らず中退して1954年からパリ音楽院に留学した篠原眞(1931-) はさらに意識が高く、一等賞で卒業しても満足できずGRMでミュジック・コンクレートを学び、師メシアンに助言されてダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加し、ケルンでB.A.ツィンマーマンとケーニヒに学び、シュトックハウゼンの助手を経てユトレヒトのソノロジー研究所に職を得た。アカデミズムを極めたら、戦後前衛に目覚めてしまったわけだ。

c0050810_21301327.jpg 帰国後の矢代は国内で受賞を重ね、野田暉行(1940-)、池辺晋一郎(1943-)、北爪道夫(1948-)、西村朗(1953-) ら、海外留学を経ずに藝大や東京音大の教授陣の中核になった作曲家たちを門下から輩出した。アカデミズムが完成すれば海外留学の必要はなくなり、むしろポスト前衛の時代には「前衛」側が、国際的潮流の中での立ち位置を海外留学で確認するようになった。西村や権代敦彦(1965-) は日本のアカデミズム内では異色だが(権代は留学先だけ見れば「前衛」側のようだ)、旋法性で特徴付けられる彼らの作風は、比較的早くからアカデミズムに分類されていた。アカデミズムの対象は徐々に広がってゆくもので、結成当初はフランスの「アカデミズムの反逆者」だったスペクトル楽派も、近年は世界各地でアカデミズムの一部になりつつある。前衛志向が強いと見做されてきた八村義夫(1938-85)、甲斐説宗(1938-78)、川島素晴(1972-) らも、そろそろアカデミズムに分類されても良い時期かもしれない。「娯楽の王様」が映画からテレビに移り、高度経済成長も曲がり角を迎えた後は、映画音楽が作曲家のキャリアの抜け道として機能する状況ではなくなった。委嘱のみで生計を立てられる作曲家は国際的にも数えるほど、演奏家とは違って個人レッスンは生計を立てる手段には成り得ない以上、何らかの形で教職に就くことが作曲家には普通になっており、それだけではアカデミズムの要件にはならない。自らの作風ないし美学を受け継いだ弟子が楽壇で評価されるサイクルの当事者のみが、アカデミズムと呼ぶにふさわしい。

c0050810_21265471.jpg 八村は棚田、野川晴義(1962-)、藤家渓子(1963-) ら、美学の一端を受け継いだ弟子を輩出したことで、甲斐は禁欲の美学を受け継いだ嶋津武仁(1949-) や伊藤祐二(1956-) を育て、また作曲指導を通じてピアニスト井上郷子(1958-) を創造的な選曲・委嘱活動に導いたことで、川島は「演じる音楽」のコンセプトを真摯に受け止めて、極端なコンセプトの重要性を理解する弟子を育てつつあることで、アカデミズムの要件を満たす。逆に日本における12音作曲の草分けである柴田南雄(1916-96) や入野義朗(1921-80) は、音楽史観や音楽理論の後継者は育てたものの、作曲美学は自分限りと割り切っており、アカデミズムには分類しにくい。ただし柴田は、藝大教授と作曲家の両立は困難と気付いて教職を辞した後、民謡を素材とするシアターピースという独自の鉱脈を探り当てた。アカデミーでの地位が上がると雑用に追われて作曲ができなくなる(最悪の場合は矢代のように過労死する)という日本のアカデミズムの問題点を、柴田は身をもって実証した。

c0050810_21281350.jpg 前置きが長くなったが、これでようやく今回の主役である松村禎三(1929-2007)、三善、野平一郎(1953-) の位置付けに入る準備が整った。3人とも池内の弟子ないし孫弟子だが、池内や矢代のような典型的な日本のアカデミズムからは逸脱しており、そこに彼らをPOCシリーズで取り上げたポイントがある。彼らは戦後前衛の宿敵ではなく、少なくとも前衛の時代には同じ山に反対側から挑むライバルだった。また、日本においては前衛とアカデミズムの対立構造は、八村、池辺、毛利蔵人(1950-97, 三善に師事)、柿沼唯(1961-, 松村に師事) らアカデミズムの有望若手を積極的に助手(主に大編成作品の浄書を担当)として採用した武満の政治的センスによってあらかじめ無化されていた。このあたりも音楽プロデューサーとしての武満の才覚である。

 松村は旧制三高(現京大教養部)卒業後上京し、清瀬保二(1900-81) の知遇を得て池内に紹介されて作曲を学んだ。音大受験前に未来の指導教官に私的に学んでおくのは日本のアカデミズムの常道だが、松村は結核を発症して受験に失敗し、5年間の療養に入る。結局受験は諦めて作曲を再開し、退院年の《序奏と協奏的アレグロ》(1955) で日本音楽コンクール作曲部門管弦楽の部1位となり楽壇デビューした。この時、伊福部が審査員として松村作品を高く評価した縁で作曲を師事する。石井眞木(1936-2003) も同年、ベルリン留学に備えてかねてから知遇のあった伊福部に師事しており、前衛の時代にオスティナートを基調とする音群音楽で一世を風靡したふたりは伊福部の影響下に語法を育んだ。1958-61年にベルリンで学んだ石井は、帰国後は日独文化交流の企画を通じて華々しく活動したが、松村は映画音楽で生計を立てながらストラヴィンスキーと伊福部に由来する管弦楽書法を同時代のリゲティに匹敵する強度まで磨き上げ、《交響曲第1番》(1965) と《管弦楽のための前奏曲》(1968) で楽壇に衝撃を与えた。《ギリシャに寄せる二つの子守唄》は代表作2曲とは対照的な、ラヴェルを範とする簡潔なピアノ曲だが、全盛期の彼は素材のインパクトに頼った一発屋ではなく、強靭な持続を生む地力の持ち主だったことを伝える。

c0050810_21350076.jpg 《前奏曲》は翌年の尾高賞を受賞し、大阪万博のために書いた《飛天》(1969)・《祖霊祈祷》(1969)・《詩曲1番》(1969) もそれぞれに味わい深く、松村は創作歴の頂点にあった1970年にアカデミックなキャリアを経ずに藝大助教授に着任した(1978年より教授)。だが、その後の彼はアカデミズムの環境に過剰適応し、創造力の源泉だった進取の気性まで失ってしまったのではないか。多くの弟子を育てたものの、自身の全盛期の音楽性を受け継ぐ方向に導いたわけではない。実験工房参加以前の武満は清瀬に師事しており、松村とは藝大受験以前から親交を結んでいた。その武満が藝大着任以降の松村の作風の変化を心配し、たびたび退官を薦めていたというのも宜なるかな。ただしこれは、音楽観の根本的変化というよりは、作曲に集中できる時間を削るアカデミズムの弊害の結果だったのかもしれない。《子守唄》と同じ編成で30年後に書かれた《巡禮I-III》を聴けば、彼の全盛期と晩年では何が変わり、何が変わらなかったのかを見極められるだろう。

c0050810_21361179.jpg 三善は小学生時代から平井康三郎(1910-2002) に作曲を学んで将来を嘱望され、橋本、細川と共に教壇を去った彼から池内に交代した頃には、既に日本の音大で学ぶことは残っていなかった。来たるべきフランス留学に備えて1951年には東大に入学して仏文科に進み、在学中の1953年に日本音楽コンクール初参加で作曲部門1位、1955年には最初の尾高賞受賞と、実力を実証した上で同年からパリ音楽院に留学した。だが、当時のパリ音楽院は彼の期待に沿う場所ではなかった。1952年時点で黛は学ぶものなしと見切り、1958年時点での篠原の疑義にメシアンも「新しい音楽を学ぶには良い場所ではない」と認めた状況は、三善にとっても満足できる環境ではなかった。結局彼は1958年に中退し帰国するが、唯一の収穫は、この時にはラジオ・フランス音楽部門長を務めていたデュティユー(1916-2013) を、師にふさわしい美学の持ち主として見出したことだった。デュティユーは交響曲第2番(1957-59) で評価を確立し、1961年からエコール・ノルマル音楽院で教え始めており、もし三善が藝大に進んで修士課程まで修了してから留学するアカデミズムの通常ルートを歩んでいたならば、デュティユーに師事してフランスに残り、日本のアカデミズムの歴史は大きく変わっていたかもしれない。これは平義久が歩んだ道に他ならないが、秀才として鳴らした平が日本には戻らない覚悟で渡仏したのは、国内には三善という高峰がそびえ立っていたからでもあり、三善と平が入れ替わっただけの、よく似た歴史が続いていたのかもしれないが。

c0050810_21382160.jpg 帰国した三善はまずピアノソナタを発表した。デュティユーのピアノソナタ(1947-48) よりも半音階的で凝縮されており、まだ伝統的だが10年のタイムラグに見合う進歩は刻印されている。《交響三章》(1960) とピアノ協奏曲(1962, 尾高賞) を受けて1963年に藝大講師、《管弦楽のための協奏曲》(1964, 尾高賞) とヴァイオリン協奏曲(1965) を受けて1966年に桐朋学園大教授に着任し、順調な創作にアカデミー内の地位も自然と伴った。だがその地位を意識して守りに入ることはなく、弦楽四重奏曲第2番(1967) 以降、三善の作風はますます無調的で尖ったものになってゆく。その背景としては、私淑するデュティユーが《メタボール》(1963-64) 以降一作ごとに尖鋭化し、最初の曲がり角を過ぎて柔和化しつつある戦後前衛に追いついたことと、日本でも戦後前衛のプレイヤーが交代し、黛と諸井誠(1930-2013) に代わって武満が同世代のライバルとして浮上してきたことが挙げられる。その後長らく武満と三善を両極とする日本の現代音楽の記述が音楽マスコミでは一般化する。楽壇での影響力を考慮すれば妥当だが、前衛側では湯浅譲二(1929-)、篠原、松平頼暁(1931-)、アカデミズム側では松村、間宮芳生(1929-) をはじめとする日本の戦後前衛第一世代の国際的にも稀な豊かさが、結果的に矮小化されがちだったことも否めない。

c0050810_21401751.jpg 《レクイエム》(1971) は、武満にとっての《ノヴェンバー・ステップス》(1967) のような、作品自体の価値すら超えた代表作になった。クライマックスに近づくほどに合唱と管弦楽が互いをマスクするこの曲は、太平洋戦争の本質を音楽で描こうとすると、西洋音楽としては破綻したカオスこそが説得力を持つという逆説を体現している。《詩篇》(1979)・《響紋》(1984) と続く、戦争体験を題材とする「三部作」は、1974年の桐朋学園大学長就任後も創作のモチベーションを維持する原動力になった。ただし、同時期のデュティユー作品が持つ密度や完成度に比肩し得るのはむしろ、チェロ協奏曲第1番(1974)・《変化嘆詠》(1975)・《レオス》(1976) などの作品群である。この時期の三善作品の充実を支えたのは不確定書法の導入であり、相対的に古典的な佇まいを持つピアノ独奏曲《シェーヌ》《アン・ヴェール》でも控え目に使用している。確定譜面に回帰した80年代半ば以降は創作ペースも落ちていたが、桐朋学園大学長を辞した90年代後半には、再び戦争体験を題材に《夏の散乱》(1995)・《谺つり星》(1996)・《霧の果実》(1997)・《焉歌・波摘み》(1998) の「四部作」及びオペラ《遠い帆》(1999) を書き上げた。《円環と交差I・II》もこの時期の作品である。

c0050810_21421056.jpg 90年代に入ってポスト前衛の諸潮流が一挙に紹介されて音楽評論家の世代交代も進む中、武満と三善に「日本の現代音楽」を代表させる風潮も変わり始めた。「前衛」側の評論家には、三善を過小評価して音楽史記述に含めない者すら珍しくないが、これに反発するアカデミズム側関係者は三善を神格化し、「四部作」は「三部作」に匹敵する作品と位置付ける。だが筆者はいずれの極論にも与しない。少なくとも60年代半ばから《響紋》までの三善作品は、デュティユーの同時期の作品同様、戦後前衛のトップクラスに劣らぬ前向きな姿勢に貫かれていたが、その後の作品は同列には論じられないと判断している。70年代後半には「調性の海」などと唱えて迷走していた武満が、80年代前半にまず室内楽、後半には管弦楽でも輝きを取り戻したのとも開きがある。ただしこの時期の両者の対比には、運命の皮肉が付きまとう。80年代武満の充実には、70年代後半から80年代末まで助手を務めた毛利蔵人の貢献が大きいが、そもそも毛利は三善に憧れて作曲を独学し、高校卒業後は桐朋学園大図書館で働いて1971年から師事し、僅か2年で日本音楽コンクールに入選してデビューした、アカデミックな経歴とは全く無縁な三善の秘蔵っ子だった。だが、彼が人生を捧げたのは師ではなく武満であり、武満の後を追うように師よりも先に早逝した。

c0050810_21425997.jpg 野平は藝大付属高から藝大作曲科に進み、池内門下の理論家永冨正之(1932-) に作曲理論を、同じく池内門下の間宮芳生に作曲実践を学んだ。バルトークにならった民謡研究を通じて声楽書法を発展させた間宮の《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は、ヨーロッパ戦後前衛の探求に比肩する達成であり、管弦楽曲でも《オーケストラのためのタブロー’65》とピアノ協奏曲第2番(1970) で尾高賞を2回受賞し、藝大や桐朋学園大で教鞭を執ったが常勤職には就かなかった。民謡のフィールドワークが重要な作曲スタンスの持ち主には常勤職の制約は窮屈だったのだろう。同期の矢代の急逝を補う形で黛は藝大で教え始め、松下功(1951-2018)、南聡(1955-) ら門下生を輩出したが、藝大着任の年に自由国民会議(自民党党友組織)代表、後には日本を守る国民会議(日本会議の源流となる右派政治団体)議長にも就任し、常勤職には就かなかった。黛の門下生たちと同じく、野平も師の作曲美学を受け継いでいるわけではない。野平の場合は副専攻でピアノも学んでおり、アカデミックな書法の習得以上の美学に構っている余裕はなかったのだろう。

c0050810_21441063.jpg 野平は1978年からパリ音楽院に留学する。彼はスペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりになるが、この時点ではIRCAMの研究プログラムに指定されてアカデミズムの対象になるどころか、まだ「スペクトル楽派」という呼称自体が存在していなかった。彼が師事したのはブーレーズバラケと並ぶフランスの戦後前衛第一世代のセリアリスト、ベッツィ・ジョラス(1926-) らであり、確立された書法を磨く場になった。ピアノも引き続き副専攻として学んだが、彼はピアノ演奏を武器に新しい道を自力で切り開く。卒業後に彼が選んだのは、アンサンブル・イティネレールのピアニストとしてパリに留まることだった。スペクトル書法の作品の演奏には特殊調律が求められるため、広く認知される以前は一般的なアンサンブルは演奏を忌避した。そこで、自作を音にするために楽派第一世代の作曲家が中心になって結成したのがこの団体だった。野平はこの楽派が「アカデミズムの反逆者」としてDIY精神で活動していた時期を知る最後の世代なのである。異国で伝統を持たない団体に参加する以上、作曲家の視点で楽派を十分に調べたはずで、参加直後からこの楽派の様式に基づいた《錯乱のテクスチュア》シリーズ(1982-) を書き始めている。

c0050810_21453475.jpg そもそもこの楽派の出発点は、パリ音楽院の優等生ミュライユとグリゼーが、ローマ賞を得てメディチ荘滞在中にシェルシの音楽を知って衝撃を受け、その本質を科学的に再構築しようとした試みであり、伝統的エクリチュールとの親和性は元々高かった。また野平が活動を続ける上で特に参考にしたのは、楽派第一世代最後の作曲家でアンサンブルの先輩ピアニストでもある、ミカエル・レヴィナス(1949-) だったことは疑いない。楽派第一世代では最もノイズ志向の強い彼に倣って、野平の代表作にはエレキギター協奏曲《炎の弦》(1990/2002) や、MIDIピアノ、アンサンブルと電子音響のための《挑戦への14の逸脱》(1990-91/93) などが並ぶ。また独奏ピアニストとしての活動でも、フランス近現代作品に加えてベートーヴェンのソナタ全曲をレパートリーにし、優先的に全曲録音を行った方向性も一致している。しかし90年代に入ると、ノイズ志向だったレヴィナスの曲にも伝統的なフレーズや形式感が目立ち始める。この傾向は彼に限った話ではなく、楽派第二世代の多くの作曲家たちにも並行して起こった出来事だった。このあたりの事情はミュライユ特集回の解説で書いたので繰り返さないが、日本のアカデミズムに飽き足らずフランスに留学したのに、結局彼地も伝統回帰したのではもはや留まる理由はない、という判断は合理的だ。

c0050810_21465162.jpg 帰国後の野平は室内協奏曲第1番(1995) で尾高賞を受賞し、東京シンフォニエッタ初代代表として現代音楽普及にも積極的に取り組みながら藝大で教え始めた。その後の作風はレヴィナス同様伝統回帰で特徴付けられるが、内外の情勢を把握した上での自覚的な選択であり、ある種の風格は感じられる。スペクトル楽派第二世代以降の調性回帰の少なからぬ部分が、スペクトル和声を使い続けていることを言い訳に、音楽の内実は限りなくムード音楽に近づいていることから目を逸らすレベルなのとは対照的ではある。今回の曲目は出版譜ないし公認自筆譜が存在する演奏会用ピアノ独奏曲全曲=パリ音楽院時代の《アラベスク第2番》、スペクトル楽派の一員だった時代の《間奏曲第1番》、帰国しアカデミーの一員となってからの《間奏曲第2番》以降と、彼の歩みをコンパクトに辿るものになっている。《間奏曲》シリーズの番号が飛ぶのは、自演が前提の曲も通し番号に含めているためで、このシリーズは演奏家の生理から自然体で生まれた曲集だと伝えている。


# by ooi_piano | 2018-12-12 09:13 | POC2018 | Comments(0)

11/30(金)バートウィッスル《キーボード・エンジン》(2018)日本初演

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浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2018年11月30日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)

【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838



【演奏曲目】
●G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)  18分
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
●L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)  25分
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
(休憩10分)
●H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)  25分
●J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)  16分
●N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)  4分


□浦壁信二 Shinji Urakabe, piano
  1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ、’03年CD「ストラヴィンスキーピアノ作品集」'12年「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

□大井浩明 Hiroaki Ooi, piano
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSICA VIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival(ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers (POC)」を開始、現在までに36公演を数える。公式ブログ: http://ooipiano.exblog.jp/



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自作のシェーンベルクの肖像画の前でポーズをとるガーシュイン


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ベルクのガーシュイン宛メッセージと「抒情組曲」第2楽章冒頭が書き留められたカード



ガーシュイン~モダニズムに魅せられた放蕩児
~「アメリカのヴォツェック」としての『ポーギーとベス』(甲斐貴也)

  『ラプソディ・イン・ブルー』とスタンダードナンバーの数々により、ジャンルを超えて多くの人々を楽しませてきた作曲家ジョージ・ガーシュイン。彼はクラシック音楽を愛好し研究するなかでも、20世紀前半現代音楽界の最前衛、新ウィーン楽派の作曲家アルバン・ベルクに心酔し、その作風に影響を受け、それどころか逆に影響を与えていた


■帝政ロシアのユダヤ人ゲルショーヴィチ~革命以前のユダヤ人大移住

  帝政ロシアはほぼ一貫してユダヤ人追放政策をとってきたが、18世紀末の女帝エカテリーナのポーランド分割による領土獲得によって100万人ものユダヤ人が領内に居住することとなり、追放政策は事実上無意味になって廃止された。啓蒙思想の影響もあって世界に先駆けてユダヤ人の自由化が進んだロシアにさらにユダヤ人が流入したが、その数の多さは次第に脅威となり、エカテリーナ2世は指定した定住区域からの移動をユダヤ人に禁じる措置をとった。それでもその後19世紀末には帝政ロシアのユダヤ人口は500万を超え、世界最大に達していた。1881年の皇帝アレキサンドル2世暗殺事件にユダヤ人活動家が関わっていたことに端を発する、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害の民衆暴動の広がりは数多くの犠牲者を出した。被害者も加害者もほとんどは貧しい下層民だったが、アレキサンドル3世はこれをユダヤ人の商工業進出による有害な活動が原因として、居住地域と商業活動のさらなる制限を課す反ユダヤ法「5月法」を制定した。こうした状況からロシアのユダヤ人の多くが国外移住に希望を託し、またある者は革命運動に、またある者はパレスチナにユダヤ人国家の建国を目指すシオニスト運動に身を投じた。国外を目指したユダヤ人の7割が選んだのが、かのリンカーンが人種法を撤廃した自由の国アメリカであり、1881年から1910年にかけて実に300万ものユダヤ系ロシア人が渡米したという。

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米国移民局のあったニューヨークのエリス島に到着した移民たち。


  ジョージ・ガーシュインの祖父ヤーコフ・ゲルショーヴィチはヴィリナ(現リトアニア首都ヴィリニュス)で生まれたユダヤ人で、10歳で帝政ロシア軍に徴用されたが、25年の兵役を勤め上げたおかげで居住地や旅行の自由を得、退役後の事業の成功もあってサンクトペテルブルグ近郊に移り、比較的裕福に暮らしていた。その息子でジョージの父となるモリス・ゲルショーヴィチは若くして婦人靴の革加工で身を立てていたが、自らも25年の兵役が待っていた。その入営の期限が目前になったこと、結婚を願っていた娘ローザ・ブラスキンが一家でニューヨークに移住してしまったことで、モリスもアメリカ移住を決意する。
  先に渡米しブルックリンで仕立て屋をしている母方の叔父グリーンスティンを頼り単身船に乗ったモリスだが、ニューヨークに到着した時に自由の女神を見ようと舷側に駆け寄った際、叔父の住所を記したメモを内バンドに挟んだ帽子を風にさらわれ海に落としてしまった。しかし生来楽天的で行動的なモリスはめげずに、当時ニューヨークで一番大きいユダヤ人街のあったマンハッタンのロウアー・イーストサイドに安宿を見つけ、早速賭けビリヤードで30セント稼いだ。その金を交通費に地下鉄でブルックリンに行き、そこから足を延ばしたブラウンズヴィルでついに「仕立て屋のグリーンスティン」を探し出した。モリスは英語を一言も話せなかったが、既に多くのユダヤ系ロシア移民がいたので、イディッシュ語とロシア語で全て何とかなったのだ。

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ニューヨークに到着し、自由の女神を眺める移民たち


  そして更なる幸運が待っていた。アメリカ風にローズ・ブルースキンと名を変えたローザに再会したのだ。しかも彼女の父親は婦人靴製造の職工長で、モリスの希望していた皮革加工の職を得ることができた。1895年7月、二人は結婚した。


■ガーシュインの『イーストサイド物語』

  翌1896年に兄アイラが、1898年にジョージが生まれ、そして弟アーサーと妹フランシスが加わり4人兄弟となった。この4人は程度の差こそあれ皆が才能に恵まれていた。モリスはゲルショーヴィチからガーシュヴィンGershvinと名を変えた(のちにジョージがさらにGershwinに変えた)。家の向いがユダヤ教会だったにもかかわらず、一家は信仰心が薄く、宗教行事に重きを置かなかった。ユダヤ教の成人式バルミツヴァーを受けたのは兄弟でアイラだけだった。楽天家で行き当たりばったりの父親は、その後新しい商売を始めては投げ出して職を転々とし、いつも職場の近くに住みたがるために一家は引っ越し続きだった。当時のユダヤ家庭としては異例に自由放任と言っていい母親の元で、内向的で真面目な兄アイラが読書家の優等生だったのに対し、ジョージは自由闊達というより、いっぱしの不良少年に育っていった。学校では問題児で通っており、優等生のアイラが教師に何度も取りなす羽目になった。体格が良くて喧嘩っ早く、しょっちゅう生傷を作り、通りで仲間とホッケーやローラースケートに興じた。当時のニューヨークの街ではユダヤ系、イタリア系、アイルランド系の移民の少年たちがそれぞれの縄張りをめぐって争っており、まるでミュージカル『ウェストサイド物語』さながらだが、実際『ウェストサイド物語』の初期の構想ではまさにロウアー・イーストサイドのユダヤ人とイタリア人カトリックの抗争に設定されており、タイトルも『イーストサイド物語』だったのである。ジョージもそうした街の悪童の一人として闊歩し、さらには9歳でガールフレンドを作ったと友人に吹聴しており、その後売春宿に通うことを覚えてこれは生涯続いたという。

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ニューヨークの新聞少年たち


  音楽に関心のなかったジョージが初めて音楽に心を動かされたのは、6歳の時にゲームセンターの自動ピアノが奏でるアントン・ルビンシテインの「へ調の旋律」だったという。だがこの件は単発的に終わり、本格的に音楽に目覚めたのは、その6年後12歳の時に学校で1歳年下の、後にヴァイオリニストとして名を成したマクシー・ローゼンツヴァイクの奏でるドヴォルザーク「ユモレスク」を偶然に聞いてからだった。
  この音楽にすっかり心奪われたジョージはマクシーと友達になり、音楽談議に明け暮れるうち、マクシーの伴奏者になることを夢見て、マクシーの家や他の友達の家でピアノの練習を始めた、
  ちょうどその頃母ローズが、妹(ジョージたちの叔母)ケイトがピアノを購入したから自分もという理由で、経済的な余裕のない中無理をして、中古のアップライト・ピアノを月賦で買った。ローズは叔母にピアノを習っていたアイラに弾かせるつもりだったが、いざピアノが運び込まれると、悪童ジョージがいきなりピアノに突進し、さっさと回転椅子の高さを調節すると、その頃家族がよく歌っていた流行歌を即興の装飾をまじえて華麗に1曲弾き切った。これには家族一同腰を抜かして驚いてしまった。ジョージがピアノを練習していたことを誰も知らなかったのだ。1910年春のことだった。


■ティン・パン・アレーの売れっ子から「ラプソディ・イン・ブルー」作曲へ

  その後親の許しで何人かのピアノ教師にピアノを習い、当時既に名を成していたアーヴィング・バーリン(Irving Berlin 1888?1989)とジェローム・カーン(Jerome David Kern 1885-1945)に傾倒しながら、クラシックの演奏会にも通い始めた。1912年にヴァイオリンのエフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist 1889-1985)、ピアノのジョゼフ・レヴィン(Josef Lhevinne 1874-1944)(モスクワ音楽院で同級のスクリャービン、ラフマニノフを凌いだという伝説の名手)、そして前衛作曲家・ピアニストのレオ・オーンスタインLeo Ornstein(1893-2002)(ヘンリー・カウエルに先駆けてトーンクラスターを駆使したモダニスト)、の演奏を聞いた。上記5人の音楽家はいずれもユダヤ人で、ドイツ系のカーン以外はロシア系である。1913年にはアマチュアのベートーヴェン協会管弦楽団でピアノを弾いた。その頃に初めて試みた作曲の成果のひとつは、シューマンの「トロイメライ」にラグタイムのリズムを付けた「ラッギング・トロイメライ」だった。
  ジョージのピアノ教師の1人、ハンガリーの指揮者フォン・ツァーリは、スケール練習の代わりに、自らピアノ編曲したロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲を教え込むという風変わりな教育を施した。その次についた同じくハンガリー出身の音楽家チャールズ・ハンビッツァーは、大げさな抑揚とテンポの変化をつけたジョージのその演奏に驚き、「こんなのを教える奴の頭に弓矢を一発お見舞いしたいな、リンゴは無しでね。」と言った。ハンビッツァーはオーケストラのほとんどの楽器を演奏できたという才人で、和声法、対位法、管弦楽法を学んでおり、管弦楽曲とオペレッタの作曲と、劇場オーケストラの指揮も手掛けていた。新しい音楽にも関心があり、アメリカでシェーンベルクの「6つのピアノ小品 作品19」を演奏した初期の1人となっている。前教師と異なりハンビッツァーはジョージに音楽理論の基礎と、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、リスト、さらには当時最新のドビュッシーやラヴェルのピアノ音楽を手ほどきした。14歳のジョージは、ポピュラーソングを評価しないハンビッツァーに、アーヴィング・バーリンはアメリカのシューベルトだと力説したという。
  その後ハンビッツァーの紹介でキレニーに和声法を習い、またリュビン・ゴルトマルク(カール・ゴルトマルクの甥でアーロン・コープランドも師事している)にも教えを受けたが、3回目のレッスンで以前に作曲した弦楽四重奏のための小品「子守歌」を見せたところ、ゴルトマルクが自分のレッスンの成果に満足したと言うのでレッスンをやめてやったという話を、ジョージ自身が事あるごとに笑い話にしていたという。この頃に管弦楽法をみっちり学ばなかったことでジョージは後に苦労することになる。
  ともあれジョージの演奏会通いは更に熱心になり、ニューヨーク・フィル、ニューヨーク交響楽協会管弦楽団(後にニューヨーク・フィルと合併)、ロシア交響楽協会(ユダヤ系ロシア人の演奏家を主とする楽団で、ラフマニノフ、スクリャービン、ストラヴィンスキー、シベリウス作品などの米国初演を行った)、指揮者ではピエール・モントゥー、ピアノではユダヤ系ポーランド人の大ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーLeopold Godowsky(1870-1938)を聴いている。

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ピエール・モントゥーと


  音楽の道に進むと心を決めたジョージに、母の希望で通っていた商業高校は煩わしいものになっていた。決定的になったのは叔母ケイトの結婚式で演奏されたジェローム・カーンの曲、”You’re Here and I’m Here” 、“They don’t belive Me”を聴いたことだった。1914年、友人から音楽出版のリミック社にソング・プラガー(ポピュラーソングの新曲の楽譜を売り込むためにピアノで弾いて聞かせる係)の空きがあると聞いて応募し合格した。ジョージは母親の反対を押し切って高校を退学し、最年少15歳のソング・プラガーが誕生した。
  それから曲折を経て、顔を黒く塗った白人歌手アル・ジョルスンが歌った「スワニー」の大ヒットにより一躍名声を得、ティン・パン・アレーの営業ピアニストからミュージカル・コメディ作家の寵児にのし上がるまでの成功物語は、いくつもの評伝を参照していただくとして、ガーシュインの音楽が米国クラシック音楽界はもとより国際的にも注目され、大きな影響を与えた作品『ラプソディー・イン・ブルー』の成立するまでに移ろう。

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1920年代のニューヨーク、ロウアー・マンハッタン



■「アフロ・アメリカン風オペラ」『ブルー・マンデイ』

  ジョージは興業主ジョージ・ホワイトのシリーズ・ショー『ジョージ・ホワイツ・スキャンダルズ』の歌を書いていたが、作詞担当のB.G.デ・シルヴァは興業主に、ショーの中の出し物として、ガーシュイン作曲の1幕物の黒人オペラを提案した。デ・シルヴァはジョージの未発表のピアノ作品「ノヴェレッテ」(1919)、弦楽四重奏のための「子守歌」(1919)を知っており、その作曲力に新しい試みを期待したのだ。ジョージ・ホワイトは当初断ったが、思案の末やらせてみることにした時には、公演が三週間後に迫っていた。ジョージとデ・シルヴァは五日間不眠不休で作詞作曲に取り組み、オーケストレーションは黒人の作編曲家兼指揮者ウィル・ヴォダリーが担当した。これがジョージ・ガーシュイン初のオペラであり、公式的には初のシリアスな音楽となる。
  物語は、一人の女性をめぐる三角関係から起きた誤解による嫉妬で女性が主人公を拳銃で撃ち、瀕死の主人公が朗々と無実の真相を歌い上げた後に死ぬという型通りの悲劇である。
  1922年8月22日の初演は黒人でなく顔を黒く塗った白人によって演じられ、演奏は当時売り出し中のポール・ホワイトマン・バンドが担当した。大方の評価は『ワールド』紙による、「ひどく馬鹿げた物語の最後に主人公を撃つ、顔を黒く塗ったソプラノは、最初に出演者全員を撃ってから自分を撃つべきだった」というものに近かったが、W.S.なる批評家は、このある意味『ポーギーとベス』を予告した作品を、ブルース、ジャズ、ラグタイムを使用した、抒情的な歌とレチタティーヴォによる、真のアメリカ民衆のオペラが誕生したと預言的に称賛した。そして伴奏の指揮をとったポール・ホワイトマンも、ジョージの作曲手腕に感銘を受けていた一人であった。興業主はその後一度再演させたものの、物語が暗すぎてショーの客の機嫌を損ねるという理由でそれっきりとなった。実際にはこの企画に興味を持ってスポンサーとなっていたアル・ジョルスンの意向とされる。


■エヴァ・ゴーティエの「古今歌曲リサイタル」でクラシックコンサートにデビュー

  翌1923年11月1日、フランス語圏カナダのメゾ・ソプラノ歌手エヴァ・ゴーティエ(Eva Gauthier 1885-1958)が、当時カーネギーホールに次いで格の高いクラシック専用ホールだったニューヨークのエオリアンホールで開いたリサイタルに出演し、ジョージはクラシック音楽界にデビューした。彼女の友人だったモーリス・ラヴェルと、ジョージの音楽を高く評価していた作家・写真家カール・ヴァン・ヴェクテン(Carl Van Vechten, 1880 - 1964)が、現代アメリカの歌曲、それも「ジャズ」を歌うようエヴァに勧め、ヴァン・ヴェクテンの紹介でジョージがアメリカ現代作品の部を伴奏した。「古今歌曲作品リサイタル」と名うたれたプログラムは「古典」「現代ハンガリーとドイツ」「オーストリア」「イギリス」「ドイツ」「アメリカ現代」の6部に分かれ、パーセル、バード、ベッリーニ、ペルッキーニ、ヒンデミット、バルトーク、ベルク編曲のシェーンベルク『グレの歌』~「山鳩の歌」(米国初演)、アーサー・ブリス、ミヨー、ドラ-ジュ、そしてアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、そしてガーシュインという盛りだくさんで大胆な演奏会である。シェーンベルク作品を取り上げていることからか、彼がウィーンで設立した国際現代音楽協会(ISCM)が資金援助をしている。
  アメリカの部のみの伴奏を担当し、ティン・パン・アレーの派手な表紙の楽譜を持ったジョージがステージに登場すると聴衆から失笑が漏れたというが、いざバーリンの「アレグサンダーズ・ラグタイム・バンド」を弾き始めると、聴衆はすぐに魅了されてしまった。リムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』の一節から始めて、自作「楽園への階段を作ろう」に巧みに移行すると、客席に感嘆のどよめきが起きた。ジョージの伴奏したアメリカの部は大好評で、アンコールに自作「もう一度愛して」が2回演奏された。当時はもちろん現代の聴衆にでさえかなり難解な同時代作品に比べて、ジョージの即興的で華麗なピアノ伴奏によるポピュラーソングが大受けしたろうことは想像に難くない。この出演はセンセーションと言って良い成功をおさめ、3か月後にボストンで再演された。なおゴーティエはわが国では今日ほとんどラヴェル、ガーシュインらと並んで写った写真のみで知られる歌手だが、1913年頃にインド、ジャワ、上海とともに日本にも来ているという。この演奏会以後ジョージは名士たちのパーティに招かれるようになり、上流社会入りするきっかけにもなった。

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「古今歌曲リサイタルのプログラム」


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ヴァン・ヴェクテン撮影のガーシュイン(1938)


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ヴァン・ヴェクテン撮影のエヴァ・ゴーティエ



■デンヴァーの放蕩息子、自称「ジャズの王」ポール・ホワイトマン

  『ブルーマンデイ』での共同作業で知り合ったポール・ホワイトマンはジョージより8歳上で、父はコロラド州デンヴァー交響楽団の指揮者とデンヴァー市公立学校の音楽教育監督官を務め、母は元オペラ歌手だった。ヴァイオリンとヴィオラを学びデンヴァー響のヴィオラ奏者になったが、若くから酒癖女癖が悪く、あまりの素行の悪さに父に勘当され、カリフォルニアに流れてサンフランシスコ交響楽団員となった。当地で飲み歩いたダンスホールで、サックスを導入した初期の白人バンド、アート・ヒックマン・バンドの演奏に感銘を受け、さらには交響楽団員のギャラよりはるかに収入が多いことに驚いて、自らもバンドリーダーを志した。バンジョー奏者マイク・ピンジドアのバンドに指揮者兼ヴァイオリン奏者として加入し、小柄で足の悪いピンジドアの代わりに見栄えのいい長身偉丈夫のホワイトマンがリーダーを務めるうち、乗っ取るような形で自らの名を冠したバンドにしてしまった。
  ヒックマンのバンドにいた若いアレンジャーがファーディ・グローフェで、彼もクラシック畑の人物だった。祖父はメトロポリタン歌劇場のチェリスト、叔父はロサンジェルス・フィルのコンサートマスター、母はセミプロの弦楽器奏者で父はコメディアン兼バリトン歌手だった。グローフェを引き抜いたホワイトマンは、奏者のアドリブを廃して譜面通りの演奏をするスタイルを確立した。
  ビクターレコードと契約して発売したレコード「ジャパニーズ・サンドマン」(1920)は250万枚売れたという。フォックストロットとレーベルマークに記されたこの曲は、ジャズとも日本とも縁がない社交ダンス音楽で、他のレパートリーも似たようなものだったが、プロのクラシック演奏家ホワイトマンの統率とグローフェの編曲手腕に加え、その後に伝説のコルネット奏者ビッグス・バイダーベックや、トロンボーンのドーシー兄弟という白人の名演奏家、さらには黒人のトロンボーン奏者ジャック・ティーガーデンらの真正ジャズの名ソリストを起用するというホワイトマンの鑑識眼により、その実態は今で言うジャズのビッグバンドではなく(いまだスイング・ジャズも出現していなかった、ディキシーランドジャズの時代である)ダンスバンドではあったが、ジャズ色濃く演奏力の高い楽団に成長していった。


■『ラプソディー・インブルー』の大成功

  1924年1月4日の夜、ジョージとデ・シルヴァがブロードウェイの店でビリヤードをしているとき、翌日の朝刊を読んでいたアイラは、2月12日にエオリアンホールで開かれるポール・ホワイトマンの『現代音楽の実験』という演奏会の広告を見つけて驚いた。ラフマニノフ(ホワイトマンを称賛していた)、ハイフェッツ、ジンバリスト、アルマ・グルック(ユダヤ系ルーマニア人の著名オペラ歌手でジンバリストの妻)らがパネリストとして出席するこの企画のための書き下ろしの作品として、アーヴィング・バーリンの交響詩、ヴィクター・ハバートの新作、そしてジョージ・ガーシュインが「ジャズ・コンチェルト」を鋭意作曲中であるという。アイラがジョージに問いただすと、驚いた様子もなく、奴は本気でやる気なのかと言う。
  ポール・ホワイトマンによれば、ライバルのバンドリーダー、ヴィンセント・ロペスが、W.C.ハンディの新作「ブルースの進化」を売り物にした同様の趣旨の演奏会を予告しており、それに先んじるため、ジャズ風の協奏曲の新作を打診していたジョージの承諾を得る前に公表したのだという。
  当初断ることも考えていたが、既に構想を巡らせていたジョージには、ジャズはリズムが一定したダンス音楽という偏見を打破したいという思いがあり、時間的制約からも古典的な協奏曲ではなく、異なる曲調を自由な構成で接続するラプソディ(狂詩曲)という形を取ることにした。2台ピアノのスコアで作曲を始めたが、オーケストレーションに不慣れであること(ミュージカルのオーケストレーションは、作曲家ではなく専業の編曲者が行うのが通例だった)、時間的制約とホワイトマン・バンドの各メンバーの能力に合わせて書く必要があることから、バンド専属の編曲者グローフェにオーケストレーションを依頼した。グローフェはガーシュインの指示した楽器編成にとらわれず自由に編曲し、部分的にはガーシュインの承認を得て音形の変更も行った。ピアノパートは演奏会当日までに完成できず、開演時間を過ぎてから控室でようやく書き上げたという。
  演奏会には各界の名士が訪れたが、音楽家では前記4名のほか、ストラヴィンスキー、クライスラー、ミッシャ・エルマン、ストコフスキー、マーチ王ジョン・フィリップ・スーザ、ストライドピアノのウィリー・ザ・ライオン・スミスらがいた。
プログラムは当時の典型的なジャズである白人バンド、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ニック・ラロッカ作曲)の曲「貸し馬ブルース」に始まり、続いて様々なジャズとクラシックの融合を試みた楽曲が演奏された。バーリンの「交響詩」は、バーリンが楽譜を書けないために実現の可能性がないのに、宣伝のためその名声を利用したホワイトマンのはったりで、バーリンの有名曲のいくつかをグローフェがオーケストレーションしたものが演奏された。盛りだくさんで長時間にわたる、平凡と言って良い曲を連ねた演奏会に聴衆が退屈しきった頃、最後から2番目にガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』が演奏された。(最後の演目はなぜかエルガーの「威風堂々」だった)
  クラリネット奏者ロス・ゴーマンが冒頭の上行グリッサンドを奏したとたんに、弛緩していた聴衆は一変して耳をそばだてた。終了後の反応は熱狂的で、ガーシュインは何度も舞台に呼び戻された。この成功はポール・ホワイトマンの目算よりもはるかに大きな反響を呼び、それまで「アルコール中毒、自殺など社会の悪弊は皆そのせいにされていた」(ポール・クレシュ『アメリカン・ラプソディ』)ジャズなるいかがわしい音楽が、一般社会でアメリカの独自の音楽として認知されるきっかけとなった。同じプログラムは3月に再演され、4月にはカーネギーホールでも再現された。
 同年6月にジョージとホワイトマン・バンドは『ラプソディ・イン・ブルー』の短縮版をビクター社に録音した。1925年からの電気録音が間に合わず、ラッパ吹込みの旧録音だが、3年後の電気録音による2度目のものより『貸し馬ブルース』的土俗性に勝る点で魅力的な演奏になっている。両者を聴き比べると、当時の「ジャズ」がどんなもので、『ラプソディ・イン・ブルー』がそこから多くを取り入れながらも、クラシック音楽の範疇に入る楽曲であることは明らかになるだろう。

  1927年、商用で訪れたニューヨークでこのレコードを購入したチャーリー・ベルクという人物がいた。3月、ウィーンに戻ったチャーリーは、弟の作曲家アルバン・ベルクに『ラプソディ・イン・ブルー』のレコードを土産に渡した。ベルクはこれを聴いて感銘し、翌1928年になってから、出版されたばかりの弦楽四重奏曲『抒情組曲』のスコアをガーシュインに贈った。同年のヨーロッパ旅行の折にガーシュインはウィーンのベルクを表敬訪問することとなる。
  『ラプソディー・イン・ブルー』初演の翌年、1925年にはニューヨーク・フィルの指揮者ウォルター・ダムロッシュから委嘱を受け、より本格的な三楽章のピアノ協奏曲「へ調の協奏曲」を発表。チャールストンのリズムを使っているが、サックスやバンジョーなどジャズ的な楽器を用いない交響楽団用の作品である。オーケストレーションも勉強し直して自ら行い、今日も交響楽団のレパートリーして残る作品となった。ジョージの次の目標はオペラだった。
  オペラ第一作の『ブルー・マンデイ』は改訂され『135番通り』と名を変えた形で、ポール・ホワイトマンが再演してくれたが、またもや興行的にはかばかしくなかった。数多くのミュージカルとレヴューを手がけ多忙な中、ジョージが構想していたのはS.アンスキーの『悪霊(ディバックThe Dybbuk)』のオペラ化だった。ユダヤの民話を元にした戯曲で、1920年にブロードウェイで上演されたのをジョージは見ていた。このオペラ化の試みは断続して続くが、結局オペラ化の権利関係で断念せざるを得なくなる。
  1928年初めにモーリス・ラヴェルが渡米し、各地で演奏会を開いたのち、3月7日の53歳の誕生日に旧知のエヴァ・ゴーティエがニューヨークで誕生パーティを開催した。ゴーティエがプレゼントの希望を尋ねたところ、ラヴェルはガーシュインに会って演奏を聴きたいと言った。喜んで参加したジョージはそれまで以上に華麗な演奏でラヴェルを驚かせた。二人はその後各所のパーティで顔を合わせ、親交を深めた。作曲法の師事を希望したガーシュインにラヴェルは独自性を保つべきと諭したというが、有名な「あなたは一流のガーシュインなのに二流のラヴェルになることはない」というセリフそのものは、ガーシュインの伝記映画の脚本家が書いた創作であるという。ともあれラヴェルは、近々ヨーロッパ旅行でパリを訪れるというガーシュインに、高名な音楽教育者ナディア・ブーランジェへの紹介状を書いてくれた。

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ニューヨークのラヴェル誕生パーティで。左からオスカー・フリート、エヴァ・ゴーティエ、ラヴェル、マノア・レイデ=テデスコ(指揮者・作曲家)、ジョージ・ガーシュイン



■ヨーロッパ旅行 

  ラヴェルの誕生パーティのわずか4日後、ガーシュインは兄アイラ、妹フランシス夫妻とともにヨーロッパ余暇旅行に旅立った。ロンドンとパリでは大歓迎で、行く先々のオーケストラがガーシュインの曲を急遽プログラムに入れて演奏した。パリでは旧知のフランシス・プーランク、ストラヴィンスキーを始め、ミヨー、オーリック、ウォルトン、ストコフスキー、ヴァーノン・デュークらが代わる代わる面会に訪れた。パーティではジョージのピアノ演奏とホロヴィッツによる「カルメン」変奏曲の対決という一幕もった。
  ラヴェルの紹介状を持ってナディア・ブーランジェを訪ねたが、ブーランジェにも、あなたに教えることは一つもない、そのまま自分の道を進みなさいと言われてしまった。ブーランジェに師事したアメリカ人は、アーロン・コープランド、ヴァージル・トムソン、ロイ・ハリス、ウォルター・ピストン、エリオット・カーター、レナード・バーンスタインと、その後米クラシック音楽界で名を成した作曲家が居並び、ジャズ界のドナルド・バード、ジジ・グライス、キース・ジャレットの名も見えるが(毒舌家のヴァージル・トムソンは、アメリカの都市には安雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしていると言った)、そんなことを言われたのはジョージ・ガーシュインただ一人であろう。
  3月27日には、ちょうどパリ楽旅中だった、現代音楽の演奏で有名なウィーンのコーリッシュ弦楽四重奏団がジョージの宿泊するホテルの部屋を訪ね、シューベルトとシェーンベルクの弦楽四重奏曲を演奏してくれた。
  パリを訪れた音楽的成果は、行く先々で往々にしてあまり出来の良くない演奏で自作を聴かされたことよりも、多忙の合間を縫って管弦楽曲『パリのアメリカ人』の作曲が進んだことだった。再びウォルター・ダムロッシュに委嘱された、このガーシュイン初のピアノ無しの管弦楽作品は帰国してから完成されたが、モダニズム的に注目されるのはストラヴィンスキーに由来する「ペトルーシュカ和音」の使用だろう。


■アルバン・ベルクとの邂逅

  パリを離れたガーシュインは、ベルリンでクルト・ワイル、レハールらと会った後ウィーンに向かった。クシェネックの「ジャズ・オペラ」『ジョニーは演奏する』を鑑賞したのち同年5月5日、ウィーンのヒーツィンクにアルバン・ベルクの家を訪ねた。そこには作曲家エメリッヒ・カールマンと、アメリカ人ピアニストのジョシーことジョゼファ・ロザンスカ(Josefa Rosanska 1904-1986)も同席した。
  カールマンはオペレッタ『チャールダーシュの女王』で名高いユダヤ系ハンガリー人の作曲家だが、作品にフォックストロットを取り入れ、ドラムセットを用いたアメリカのダンスバンド風の編成を試みている。ジョージの友人ロザンスカは13歳でフレデリック・ストック指揮シカゴ交響楽団とショパンの協奏曲を演奏した神童で、西欧・北米・中南米で高く評価されるピアニストだった。後にコーリッシュの妻となるが、ベルクのピアノソナタ作品1をレパートリーとしていたという。
  ロザンスカの発案で、既にパリで相まみえていたコーリッシュ弦楽四重奏団をベルクの家に招き、『抒情組曲』の第2楽章が演奏された。(コーリッシュのアパートでという説もある) ベルクに何か弾くよう求められたジョージは場違いに思ってか、ややためらってからスピリチュアルソングをいくつか歌った。それを称賛するベルクに戸惑うジョージに、ベルクは「音楽は音楽です」と答えたという。ベルクは自らの肖像写真カードに『抒情組曲』第2楽章冒頭と親愛のメッセージを手書きしたものと、出版されたばかりの『抒情組曲』のポケットスコアをガーシュインに贈った。

  帰国後1928年秋の「ミュージカル・アメリカ」紙による自宅でのインタビューでガーシュインは、ヨーロッパ訪問の中で音楽的に得に感銘を受けた場所はとの質問に答え、『抒情組曲』のベルクのサイン入りポケットスコアを見せて、「オーストリアの超モダンな作曲家アルバン・ベルクがこの弦楽四重奏曲を書いた地こそ、わたしの今回の訪問で最高の場所です。」「この四重奏曲は、平均的な音楽愛好家の協和音に慣れた耳には不快なことが間違いない程度に不協和ですが...この作品には真実の美質があると思います。」「その着想と技法は、言葉の最高の意味で完全に現代的です。」と述べたという。
  ガーシュインのウィーン訪問の約6週間後、1928年6月17日に妻ヘレンに宛てたベルクの手紙にも興味深い記述がある。「コーリッシュの素晴らしい手紙を紹介しよう。『ガーシュインはパリの王のように遇せられ、パーティやレセプションにおいて、毎回私たちにベルクの『抒情組曲』を演奏するよう頼みました。私はもう何度演奏したのかわからないくらいです。』」
  「パリの王」という表現から見て、ガーシュインのパリ滞在時のことと考えられるが、コーリッシュ四重奏団はホテルの部屋でシューベルト、シェーンベルクを演奏した以外に、『抒情組曲』をガーシュインのために何度も演奏していたという訳である。このエピソードを論文” Reflections upon the Gershwin-Berg Connection”で報告しているアレン・フォルテA llen Forteは、こうした話があまり知られないのは、ガーシュインに興味のある人はベルクに興味がなく、ベルクに興味のある人はガーシュインに興味がないからだとしている。ベルクは長兄ヘルマンの影響で元々アメリカ贔屓だったというが、こうしたガーシュインの自作への熱狂を知り、アメリカ人全般が自作に好意的だろうという、いささか楽観的な感触を持ったようである。
  また、ベルクの評伝を参照すると、1928年3月末に国際現代音楽協会の審査員として招かれ、ヘレーネ夫人と共にチューリヒに行った折、パリに立ち寄ってジャンヌ・デュボストのサロンで『抒情組曲』のフランス初演を聴き、ナディア・ブーランジェも臨席したとある。このことと前記の3月27日にコーリッシュ四重奏団がガーシュインのホテルの部屋で演奏した件を考え合わせると、コーリッシュ四重奏団は『抒情組曲』パリ初演のためにパリに滞在していたとわかるが、そこでベルクとガーシュインは会う機会がなかったということだろうか。更に、ガーシュインがパリでシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番の第1楽章が演奏された演奏会に出席したという話もあるが、これが『抒情組曲』のパリ初演の演奏会だったのか、あるいはホテルの部屋での演奏のことなのか。残念ながら本稿では時間の制約で調査しきれなかった。
  ガーシュインはベルクのオペラ『ヴォツェック』のヴォーカルスコアを大切にしており、『ポーギーとベス』作曲中の1931年、フィラデルフィアにおけるストコフスキー指揮によるアメリカ初演を鑑賞して強い感銘を受けた。1933年に発売されたガリミール四重奏団の『抒情組曲』世界初録音のSPレコードも所持していた。


■シェーンベルク

  ガーシュインのシェーンベルクとの交友は比較的よく知られている。しかし同じビバリーヒルズに住んで、テニスや卓球を楽しんだご近所付き合い程度の仲であると思われている節もある。シェーンベルクがアメリカに移住し、現代音楽協会を立ち上げて寄付を募った折、真っ先に資金を提供したのはガーシュインで、2番目がストコフスキーであった。そして、パリのホテルでシェーンベルクの四重奏曲を演奏してくれた、コーリッシュ四重奏団によるシェーンベルクの弦楽四重奏曲全集世界初録音という記念碑的企画のスポンサーもまた、ジョージ・ガーシュインその人であったという。ガーシュインがシェーンベルクとのテニスの試合に夢中になって、老シェーンベルクを翻弄しコートで右往左往させたという有名なエピソードについて、「そのときガーシュインを内側から突き動かしていたもの、それは音楽に『歌』を求めながら現代音楽から裏切られ続けた大衆の怨念だったのかもしれない」などという穿った解釈をした本もあるが、あまりの的外れに言葉もない。


■歌劇『ポーギーとベス』~「アメリカのヴォツェック」

  『ポーギーとベス』の原作である小説『ポーギー』の作者デュボーズ・ヘイワードは、小児麻痺の後遺症で右手が不自由だった。そのことから、たまたま新聞で見かけた、足に障害を持つため山羊車に乗っている黒人の乞食が傷害罪で逮捕されたという奇妙な記事に、体が不自由なのに勇ましいことをするものだと興味を持ち、この物語を着想する。ガーシュインが『ポーギー』に出会ったのは1925年に遡る。眠れぬ夜にふと手に取った『ポーギー』を午前4時までに読了してしまい、感動したジョージはすぐさまヘイワードにオペラ化打診の手紙を書いた。ヘイワードから快諾を得たジョージは多忙を縫って打ち合わせをしたが、ヘイワードの妻で劇作家のドロシーが『ポーギー』の舞台化を進めていたことと、当時ジョージはオペラの作曲に必要な実力が不足していると感じていたことで、この件は一旦お預けということで両者は合意した。
  1927年にドロシー・ヘイワードの脚本による舞台版『ポーギー』がブロードウェイで上演され、ガーシュインも観劇したが、この頃彼がオペラ化を構想していたのは『ディバック』だった。そしてようやく1932年初頭、ガーシュインはデュボース・ヘイワードに久々に手紙を書き、改めて『ポーギー』オペラ化を打診した。当時大恐慌の影響で困窮していたヘイワードには渡りに船のことでもあり、再び快諾を得た。その後アル・ジョルスンがミュージカル化の希望を出したり、ジョージの多忙もあって紆余曲折があったが、結局ジョルスンは『ポーギー』を放棄し、ついにジョージはオペラ『ポーギー』に着手する決心を付けた。ヘイワードはジョージに、『ポーギー』を「ミュージカルコメディー(ミュージカル)」ではなく「フォーク・オペラ」にしたいと言った。
  舞台は20世紀初頭の港町チャールストンの黒人街で、主人公ポーギーは足が不自由だが頑健な男。悪漢クラウンの情婦ベスに恋して愛し合い、クラウンに襲われるが返り討ちにして殺してしまう。逮捕されたポーギーは証拠不十分で釈放されるが、その間にベスは麻薬密売人のスポーティング・ライフにたぶらかされてニューヨークに去っていた。
  小説、戯曲、オペラではいくつかの変化がある。小説ではファムファタールではあるが単純でわき役に近かったベスが、戯曲では苦悩する内面をもつ人物に描かれた。オペラのタイトルが『ポーギーとベス』に変えられたのは、『ロミオとジュリエット』、『トリスタンとイゾルデ』、『ペレアスとメリザンド』といった名作の先例に倣ったものというが、元の小説より発展した形に全くふさわしいものだった。さらにオペラでは、ベスが元のサバンナに去った時にポーギーは落胆して老け込み、その死で終わる救いのない結末が、ニューヨークに向かったベスを追って、ポーギーが山羊車で決然と出発する場面で幕となるという、大きな変更がある。
  この結末については、肉体的ハンディキャップがある上に目的地の遠さと移動手段の非力さから、無謀な実現性のない行動と見て、絶望的なものと解釈する向きも多いようだが、遠いニューヨークに愛する娘を追っていく男といえば、本校の前半で触れたガーシュインの父親モリスが母ローズと再会したエピソードを思い起こさせる。おそらくガーシュインはそのイメージを投影し、強い意思とバイタリティによって、困難を乗り越えた末の再会を示唆する結末にしたのではないだろうか。

  『ポーギーとベス』について、ベルクの『ヴォツェック』との共通点を指摘する声は多くある。
  「ガーシュウィンの《ポーギーとベス》とベルクの《ヴォツェック》には、それぞれが置かれた社会・文化的環境を遥かに超えた、多くの類似点がある。二人とも、ある状況を描写する際に特定の音型を使っており、音楽様式の部分でも類似点が多い。子守歌やフーガもそうだ―――ガーシュウィンがこれ以前にフーガを書いたことはなかったと思う。ガーシュウィンとベルクは真の意味で心がつながっていたのだろう。」
  「ベルクとの交流が、作品の全体像、作曲技法(とりわけレチタティーヴォ)、深い意味の込められた豊富なモティーフの用法―――かなり複雑な心理まで表す、ライトモティーフと呼べそうなものもある――に影響を与えた可能性はかなり高い。2007年にアメリカ音楽協会誌に掲載された論文でクリストファー・レイノルズは、《ポーギーとベス》をずばり、“アメリカの《ヴォツェック》”と呼んでいる。ガーシュウィンの和声が、以前の作品と比べて多様化、複雑化していることに注目した研究もある。」


■急逝

  1937年7月9日、午前中自宅でピアノを弾いていたジョージ・ガーシュインは夕方仮眠をとったまま昏睡状態となる。11日脳腫瘍摘出の手術を受けた後、午前10時35分、意識を取り戻すことなく逝去した。

  「私はガーシュインを崇拝していた。『ポーギーとベス』には夢中になったものだ。1937年の夏に、私はハーヴァードの第2学年を終えて、ニューヨーク州の北部でキャンプの指導員をしていた。水泳と音楽を教えていたのだが、キャンプに集まったのはニューヨークの甘やかされた子どもたちばかりだった。週末の父兄面会日のとき、キャンプの監督から日曜日の昼食会で演奏してくれと言われた。だが、断ろうかと思った。騒々しい連中にちがいないし、フォークや皿がぶつかる音や、うるさいおしゃべりが想像できたからだ。
  ところが、日曜日の朝、起きぬけにガーシュインが死んだことを知らされた。それで、やはり演奏しようと思った。昼食会は思った通り、ひどく騒々しかった。やがて、私はピアノのところへ行き、まず和音を弾いて出席者の注意を促した。そして、ガーシュインが死んだことを告げ、これからガーシュインの作品を1曲弾くけれども、演奏が終わっても拍手しないでほしいと言った。演奏したのはプレリュードの第2番だったが、人々は静まり返っていた。重苦しい静けさだった。そのとき初めて、音楽の力をまざまざと感じた。その場を歩き去りながら、自分がガーシュインになった気がした。天国にいるような気分という意味ではなく、私がガーシュインその人で、その曲を自分で作曲したような気がしたのだ。」レナード・バーンスタイン(ジョーン・パイザー『レナード・バーンスタイン』鈴木主悦訳より)


■クラシック界の逆襲!バーンスタイン『ウェストサイド物語』
ブロードウェイで大成功したクラシックサイドのミュージカル

  レナード・バーンスタインは1918年8月25日にマサチューセッツ州ローレンスに生まれた。出生証明には祖父がつけたルイスという名が記されていたが、父サミュエルと母ジェニーはこれが気に入らず、生まれたときからレナードと呼んでいた。父はウクライナのユダヤ系ロシア人で祖父は宗教学者だったが、父はポグロムか兵役かという運命を逃れるため家出同然に出奔し、先にアメリカに移民していた叔父の助けで1908年にニューヨーク行きの船に乗り、ご多分に漏れず自由の女神が見えるエリス島の移民局に到着した。
  一文無しから身を起こして熱心に働いたおかげで、1917年にはアメリカ市民となり、花嫁を見つけて家庭を持つことができた。母は同じくロシア移民で貧しい羊毛工場労働者だったが、その境遇から抜け出すために好きでもない父と結婚したのだった。宗教に厳格な父と世俗的で享楽的な母はそりが合わず、家庭はいさかいが絶えなかったという。
  少年時代のレナードはポピュラーソングやユダヤ教の聖歌などを楽しんでいたが、特に音楽に熱心というほどではなく、楽器を習得しようという意欲もなかった。10歳の時に、ブルックリンに引っ越す叔母から譲られたアップライトピアノが家に来てから、急激にその才を現し始めた。音楽家への道に理解を持たない父との葛藤を乗り越え、近所の子供たちにピアノを教えたり、友人と結成したジャズコンボで地元のクラブに出演してこずかい稼ぎをし、ピアノの勉強を続けた。レナードがバルミツヴァーを迎えると、父親は小さなグランドピアノを買ってくれるなど、理解を示すようになっていった。ボストンの高名なピアノ教師、ハインリヒ・ゲプハルトに師事することを希望するが、高額のレッスン料が障害となり、ゲプハルトは弟子のヘレン・コーツを紹介した。コーツはバーンスタインの才能に惚れ込み、それ以前の教師による癖を修正するだけでなく、相談相手となり、以後50年に渡って彼の個人秘書を務める関係となる。 
  1933年、友人と出かけたボストン交響楽団の演奏会における、ロシア系指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーの劇的な指揮はレナードに大きな啓示を与え、後年の情熱的な指揮ぶりにその影響が見てとれる。
  1935年にハーバード大学の音楽専攻課程に入学。音楽教育としてはジュリアードやカーティスにかなり劣るが、ハーバードは知的刺激とともに、裕福な家庭の子弟とのコネクション作りに役立った。


■1937年

  ガーシュインが死んだ1937年は、バーンスタインの生涯に大きな影響を与える出来事が次々と起こった年だった。まずその年の1月にギリシャ人の指揮者ディミトリ・ミトロプーロスと「宿命的」出会いをする。ハーバード大で催された、ミトロプーロスを主賓とする会員制の茶会に潜り込んだのだ。ミトロプーロスはバーンスタインの才能を認め、作曲家・指揮者への道を励まし、音楽に理解の少ない父親に代わって経済的援助を買って出てくれた。そしてホモセクシャルのミトロプーロスにより、19歳のバーンスタインはその方面にも開眼することとなったらしい。
  その夏に実家を離れたバーンスタインはマサチューセッツ州キャンプ・オノタで音楽指導員を務めた。ここで知り合った二歳下のアドルフ・グリーンは、ミュージカル作品の歌詞を手がける協力者として、また友として生涯の関係となる。
  秋にはマサチューセッツ州ケンブリッジの州立オーケストラで、ラヴェルのピアノ協奏曲の独奏でピアニスト・デビューを飾り好評を得た。バーンスタインはその成功に気をよくして、ラヴェルの協奏曲のほかに数曲しかレパートリーがないにもかかわらず、コンサートピアニストを夢見た。その野望はのちに、カーティス音楽院の同窓、シェーラ・チェルカスキー、ホルヘ・ボレットらの演奏を聴いて断念することになるのだが。
  11月14日、バーンスタインはニューヨークの劇場で偶然アーロン・コープランドの隣の席に座り面識を得た。コープランドはバーンスタインを、これから催す自分の37歳の誕生パーティに誘った。コープランドはガーシュインと同じユダヤ系ロシア人の移民の子で、しかもブルックリン生まれという同郷人にもかかわらず、アメリカの音楽におけるガーシュインの貢献を終生黙殺していた。ポピュラー音楽界の寵児ガーシュインのクラシック音楽界進出に対して強い反感を抱いていた、アメリカのクラシック音楽界を代表する作曲家と目されていた立場があったにせよ、ショービジネス界の作曲家が真のアメリカ音楽の創始者としてもてはやされることに苛立ちを覚えていたろう事は想像に難くない。コープランドの誕生パーティでは、コープランドの讃美者の一人で、あのガーシュインに憎悪を燃やした毒舌批評家兼作曲家ヴァージル・トムソンにも会っている。
  ガーシュインの急逝した年に、同じくロシア系のユダヤ人で、コープランドらと同じく正規の教育を受けた側の、才能ある若者が現れたことは、ガーシュインを憎んだ彼らになにがしかの感慨を与えたのだろうか。それからコープランドは、バーンスタインの師として、作曲・指揮活動と人脈作りと公私にわたり 絶大な貢献をしていく。そしてバーンスタインはブロードウェイからクラシック界に進出したガーシュインと逆に、クラシック界からブロードウェイに進出して大成功を収めることになるのだ。
  ミトロプーロス、コープランドに続いてバーンスタインの力になってくれた音楽家に大指揮者フリッツ・ライナー(Fritz Reiner, 1888-1963)がいる。ジュリアード音楽院入学に失敗したバーンスタインを、コープランドがカーティス音楽院で教えていたライナーに紹介してくれたのだ。ライナーはシンシナティ響時代にガーシュインをたびたび招くなど、その才能を認めており、ガーシュインもその指揮に信頼を置いていたが、厳格と傲慢で知られるライナーが、10歳下のガーシュインにも、30歳下のバーンスタインにも、年長者への礼儀をわきまえずに「フリッツ」呼ばわりされたというエピソードがあるのが面白い。ライナーは、そのたびにバーンスタインに「こんにちは、バーンスタインさん」と皮肉に答えたという。
  同じくガーシュインを支援した指揮者ロジンスキーもバーンスタインと縁が深い。兵役不適格で職にあぶれていたバーンスタインを、ニューヨーク・フィルの副指揮者にしてくれたのである。ライナーもロジンスキーも気難しく気性の激しい指揮者として知られているが、ポピュラー音楽に偏見を持たず、アメリカ人の才能ある音楽家を育てようとした意外な一面が知れる。ただしロジンスキーとはその後関係がこじれてゆくことになる。一方、バーンスタインの最初の指揮のアイドル、改宗ユダヤ系ロシア人クーセヴィツキ―はジャズ的なものを嫌い、バーンスタインがブロードウェーで成功したことに腹を立てたという。
  その後1940年にボストンの新聞社が主催する音楽クイズに優勝し、現金150ドルと、ボストン・ポップス・オーケストラの野外演奏会で指揮する権利を得た。そこでワーグナーの『マイスタージンガー』前奏曲を振ったのが、プロ・オーケストラでの指揮デビューとなる。このころ最初の交響曲『エレミア』を作曲。1943年には、ニューヨーク・フィルに客演したブルーノ・ワルターの急病の穴を埋めて全国生放送された演奏会の指揮台に立ち、伝説的成功を収めた。これはワルターが仮病を使ってバーンスタインに振らせた美談としても知られるが、休暇中のロジンスキーが副指揮者のバーンスタインを指名したに過ぎないらしい。但しバーンスタインと親しいマネージャーがよりふさわしい代役の到着を阻止した可能性もあるという。
  この年の秋に、バレエ・シアターの振付師ジェームズ・ロビンズが、『ファンシー・フリー』という題の、一幕物のバレエの企画を持ってやってきた。これが『オン・ザ・タウン』、『ウェストサイド物語』、『ディバック』へと続く、実り豊かな協力関係の始まりとなる。1944年にはライナーのピッツバーグ響で『エレミア』初演の指揮をとる。


■「悲劇的ミュージカル・コメディ」『ウェストサイド物語』

  このミュージカル(ミュージカル・コメディの略語である)の大きな特色は、伝統的なブロードウェイのスタッフではなく、「クラシック系」のアーティストによって作られていたことだった。ジェームズ・ロビンズはバレエの振付師。アーサー・ローレンツはシリアスな脚本家、劇作家。作詞のスティーヴン・ソンダイムはプリンストン大でミルトン・バビットに学んだ。舞台デザインのオリバー・スミスは画家。そしてクラシックの作曲家バーンスタイン。ブロードウェイのミュージカル・コメディのノウハウを知らない若い才能たちが協力して作り上げた、現代の音楽劇であった。
  バーンスタインの日記には、1949年1月6日にその発端が見られる。「ジェローム・ロビンスが「復活祭と過越し祭が同時進行するスラム街で展開される現代版『ロメオとジュリエット』という案を電話で伝えてきた。ユダヤ人がキャピュレット家、カトリックがモンタギュー家だ。ジュリエットはユダヤ人。修道僧ロレンスは近所のドラッグストアの親爺。街中での喧嘩、二人の死など、すべてが重なる。しかし、ミュージカル・コメディの手法を使ってこの悲劇を演出しようというアイデアに比べれば、こうした設定は大して重要でない。ミュージカルの手法を使いながら、オペラの罠にはまるまいということだ。」
  だが企画はすぐに実現せず、機が熟すまで温めていくことになる。1955年にようやく再度話が動き出す。
  「ユダヤ人対カトリックという設定は新鮮味がないので没。その代案に思い付いたのが、血の気の多いプエルトリコ人と、アメリカ人気取りの不良少年グループの対立だ。」
  1958年8月20日ついに初公演。成功裏に終えた翌朝バーンスタインは書いている。
  「昨夜の初公演は我々が夢見ていた通りの出来栄えだった。数知れぬ苦しみ、度重なる延期、果てしない書き直しが、すべて報われた。ブロードウェイで最終的に成功するかどうかはわからないが、我々がここ何年もの間に夢見てきたことが可能だという確信を得た。愛と憎しみという深刻なテーマ、死と人種問題、若い出演者、シリアスな音楽、高度なバレエという、ミュージカル上演に危険な要素を取り入れたにもかかわらず、観客と批評家両方に意義のある上演と受け止められたのだから。」
  バーンスタインの熱狂的な自画自賛の中にあるおぼろげな危惧は的中した。『ウェストサイド物語』初演は確かに好意的に受け止められたが、興行全体としては大成功とは言えなかったのである。興行は732公演で終了したが、これは当時としては中ヒット程度の公演数で、トニー賞は装置と振り付けのみが受賞した。やはりシリアスなテーマと音楽はすぐには受け入れられなかったのだ。同年に上演された『ザ・ミュージックマン』という典型的なミュージカル・コメディこそは大ヒットとなり、『ウェストサイド物語』の10倍以上、1375回のロングランとなって、トニー賞は主要6部門を受賞した。『ウェストサイド物語』が今に至る名作の地位を得るのは、その後の映画化の大成功によるものであり、その大人気によってミュージカルも1960年代から世界各地でリバイバル上演されるようになって、今日のミュージカル史上屈指の傑作としての地位を築いていった。
  だが運命とは皮肉なものである。大指揮者であるよりも作曲家であることを望んだバーンスタインは、自らの名がシリアス・ミュージックの作曲家としてでなく、ブロードウェイのミュージカル『ウェストサイド物語』の音楽担当として名を残すことを生涯恐れることになった。晩年には超一流のオペラ歌手を揃えて自らの指揮により『ウェストサイド物語』を録音し、オペラ作品としての存在感を示そうとさえした。伝記作者のひとりポール・マイヤーズはバーンスタインが泣きながら語ったという言葉を伝えている。「わたしはもうベートーヴェンが死んだ年齢よりも2歳しか若くないのに、いまだに偉大な作品を作曲できていない。」



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【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選  https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
 ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版)   花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
 一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
 西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
 篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
 湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
 南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)

■2018年5月25日 ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成 https://ooipiano.exblog.jp/29413702/
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
  I. - II. - III. - IV. - V.


# by ooi_piano | 2018-11-26 11:02 | POC2018 | Comments(0)