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《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)

2025年2月22日(土)POC第55回公演 〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉 [2025/02/20 update]_c0050810_15314521.jpg


【POC第55回公演】 2025年2月22日(土)18時開演(17時半開場)
〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉

P.ヒンデミット(1895-1963):
《3章の練習曲 Op.37-1》(1924/25) 10分
 I. Schnelle Viertel, durchaus sehr markiert zu spielen - II. Langsame Viertel / Prestissimo - III. Rondo, Äußerst lebhaft

《自動ピアノのためのトッカータ》(1925/2023) [米沢典剛編独奏版、世界初演]  3分

交響曲《画家マティス》(1934/2016) [作曲者/米沢典剛編独奏版、世界初演] 28分
 I. 天使の合奏 - II. 埋葬 - III. 聖アントニウスの誘惑

《C.M.v.ウェーバーの主題による交響的変容》より「トゥーランドット」(1943/2020) [米沢典剛編独奏版、世界初演] 7分

根本卓也(1980- ):《歩哨兵の一日 Ein Tag von einer Schildwache》(2024、委嘱初演) 6分

 (休憩)

《ルードゥス・トナーリス(調の手習い) ~対位法・調性およびピアノ奏法の演習》(1943、全25曲) 55分
 I. 前奏曲 / II. 第1フーガ(ハ調) - III. 第1間奏曲 / IV. 第2フーガ(ト調) - V. 第2間奏曲 / VI. 第3フーガ(ヘ調) - VII. 第3間奏曲 / VIII. 第4フーガ(イ調) - IX. 第4間奏曲 / X. 第5フーガ(ホ調) - XI. 第5間奏曲 / XII. 第6フーガ(変ホ調) - XIII. 第6間奏曲 / XIV. 第7フーガ(変イ調) - XV. 第7間奏曲 / XVI. 第8フーガ(ニ調) - XVII. 第8間奏曲 / XVIII. 第9フーガ(変ロ調) - XIX. 第9間奏曲 / XX. 第10フーガ(変ニ調) - XXI. 第10間奏曲 / XXII. 第11フーガ(ロ調) - XXIII. 第11間奏曲 / XXIV. 第12フーガ(嬰ヘ調) - XXV. 後奏曲

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 東京藝術大学大学院修士課程(指揮)及び、国立リヨン高等音楽院古楽科(通奏低音)修了。新国立劇場他、国内の主要オペラ団体で音楽スタッフとして業界を支えつつ、バロック·チェロ奏者山本徹とのデュオ「ジュゴンボーイズ」を中心にチェンバロ奏者としても活動。オルガンのための連弾作品《Thème et Variations》(2010)が出版(Editions Delatour)されたのを機に、本格的に作曲に取り組む。近作に、オペラ《景虎》(2018、妙高文化振興事業団委嘱)、カンタータ《お前は俺を殺した》(2020、低音デュオ委嘱)、モノオペラ《寡婦アフロディシア》(2021、清水華澄委嘱)、舞台音楽《ばらの騎士》(2024、静岡県舞台芸術センター(SPAC))等。

根本卓也:《歩哨兵の一日》(2024、委嘱初演)
 ヒンデミットは1918年、第一次世界大戦末期に従軍している。最初は軍楽隊員だったが、後に歩哨兵として前線にも配備された。ラヴェルもそうだったが、人々は当時こぞって愛国心から戦地へと赴いた。彼の《クープランの墓》は、戦死した知人の墓碑銘だし、すでに末期の直腸癌だったドビュッシーは、最晩年の作品《家なき子のクリスマス》(”Noël des enfants qui n'ont plus de maison”)で、「フランスの子どもたちに勝利を与え給え!」と自作の詞を締めくくっている。シェーンベルクは42歳にして従軍しているし、アルバン・ベルクも丁度《ヴォツェック》の作曲中に入隊している。
 日本人にとって、第一次世界大戦はあまり印象が強くないが、ヨーロッパ人にとっては(ナチス・ドイツのそれとは全く別の意味で)真のトラウマを残した戦争だったようだ。『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のピーター・ジャクソン監督によるドキュメンタリー、『彼らは行きていた』(”They Shall Not Grow Old”)などを見ると、「塹壕戦」という未知の世界へのイメージが、多少なりとも持てるかもしれない。

 They shall grow not old, as we that are left grow old;
 残された我々は老いていくが
 Age shall not weary them, nor the years condemn.
 彼らは歳月に疲れ果て、衰えゆくこともない
 At the going down of the sun and in the morning
 陽が沈み、また昇るたび
 We will remember them.
 彼らを思い起こそう
 (Lawrence Binyon ”For the fallen”(1914)より)
 
 ヒンデミットがアルザスでバスドラムを叩いている頃に完成させたのが、《弦楽四重奏曲第2番 Op.10》だ。第2楽章は「主題と変奏」と題されているが、その半ばほどに「遅いマーチのテンポで―遠くから聞こえてくる音楽のように」と指示された変奏がある。チェロがドラム風のリズムでピッツィカートを奏する上で、軍楽隊のパロディであろう明るいメロディが聞こえてくる。やがて彼はフランドルの塹壕で地獄を見ることになる。

 「おれはこの頭の中に戦争を捕まえたんだ。そいつはいまだってこの頭の中に閉じ込めてある。」(ルイ=フェルディナン·セリーヌ『戦争』)


《兵士の告白》(2020、詩:谷川俊太郎)[Ms, Pf]
 1.大小 - 2.死 - 3.誰が… - 4.兵士の告白 - 5.くり返す
《智恵子抄》(2023、詩:高村光太郎)[S, B, Pf]
 1、梅酒 - 2、レモン哀歌 - 3、間奏曲 - 4、亡き人に
《見舞い》(2022、詩:谷川俊太郎)[S, T, Pf]
《そのあと》(2023、詩:谷川俊太郎)[Ms, 2Vn, b.c.(Fg, Vc, Cb, Cemb, barock Harp)]
《歌》(2019)[箏]
《死の遁走~パウル・ツェランの詩に寄せて》(2014) [4面の25絃箏]
《チャコーナ》(2018) [Vn, Vc, Cemb]
《アリア》(2019)[Vn, Vc, Cemb]
《春の臨終》(2014/2019、詩:谷川俊太郎)[Ms, Vc, b.c.(Cemb)]
《願い》(2015/2019、詩:谷川俊太郎)[Ms, b.c.(Vc, Cemb)]
《あなた》(2016、詩:谷川俊太郎)[S, Cemb, コンテンポラリーダンス]
《…後》(2020、詩:根本卓也)[S]
《島》(2017、詩:岸井大輔)[演技と語りを伴うCemb]
《お前は俺を殺した》(2019、詩:佐々木治己)[B、Tu]




パウル・ヒンデミット素描――野々村禎彦

2025年2月22日(土)POC第55回公演 〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉 [2025/02/20 update]_c0050810_15274004.jpg
 戦間期ドイツを代表する作曲家=ヴィオラ奏者パウル・ヒンデミット(1895-1963)は、フランクフルト近郊ハーナウで生まれ育った。父は画家を目指したが果たせず、その技術を活かして装飾職人になった人物で、子供たちを芸術家にして夢を継がせようとした。パウルを長男とする三兄弟は音楽を選び、家庭内合奏(弦楽三重奏)で腕を磨いた。フランクフルトのホッホ音楽院(現在はフランクフルト音楽・舞台芸術大学)に進んで引き続きヴァイオリンを学び、1916年にはフランクフルト歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに就いた。また同年からヴァイオリンの師アドルフ・レブナーの弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者(後にヴィオラ奏者)になった。同音楽院では作曲と指揮もアルノルト・メンデルスゾーンとベルンハルト・ゼクレスに学んだ。メンデルスゾーンは大作曲家フェリックスの親類であり、ゼクレスは多くの弟子を育て、指揮者ロスバウトは同期、社会学者=音楽評論家アドルノは後輩にあたる。作曲と指揮の師ふたりともユダヤ人であり、ユダヤ人音楽家との縁は当時から深い。なお、弟のルドルフ(1900-74)もホッホ音楽院に進み、チェロ奏者=作曲家として活動を続けた。



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 彼のフランクフルトでの本格的な活動は、第一次世界大戦後に始まった。作曲家としてはまず、《殺人者、女たちの望み》(1919)、《ヌシュ・ヌシ》(1920)、《聖スザンヌ》(1921)という表現主義的な小オペラ(いずれも1幕物)に集中的に取り組んだ。職人の父が望んだ通り子供たちは芸術家になったが、あくまで職人気質の芸術家であり、自分の書きたいものを追求するよりも時流に沿って技術を発揮する道を選んだ。また演奏家としてはヴィオラに専念することを決め、ヴァイオリンとヴィオラに同じ重みで独奏曲を書いて(ヴァイオリンにはソナタ4曲と無伴奏ソナタ3曲、ヴィオラにはソナタ3曲と無伴奏ソナタ4曲)自らのレパートリーを増やした。さらに1921年、ドナウエッシンゲン音楽祭が室内音楽祭として始まり、彼は弦楽四重奏曲第3番(1920)を出品したが演奏を拒否され、初演のために自ら弦楽四重奏団を結成した。ベルリンフィルのコンサートマスターを務めていたリッコ・アマールを第1ヴァイオリンに迎え、自身がヴィオラ、弟のルドルフがチェロを弾くアマール四重奏団である。1922年に常設団体になると1933年に解散するまで約500公演を行った(ただしルドルフは1927年、彼も1929年に退団)。ヒンデミット作品は重要なレパートリーであり、《ミニマックス》(1923)や《保養所の二流楽団が朝7時に湯治場で初見演奏した「さまよえるオランダ人」序曲》(1925)のような冗談音楽もこの団体のために書かれた。自作に限らず同時代音楽を積極的に取り上げており、ヴェルディの弦楽四重奏曲やバルトーク第2番を初録音したのは彼らである。


2025年2月22日(土)POC第55回公演 〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉 [2025/02/20 update]_c0050810_15280689.jpg 彼は程なく新即物主義に作風を転じ、《室内音楽》シリーズ(1922-27)が最初の代表作になった。ドイツ圏の音楽における表現主義は新ウィーン楽派の無調書法と密接な関連があり、それへの反発から第一次世界大戦後にラテン圏の音楽では新古典主義が台頭した。新即物主義はドイツ圏の音楽における新古典主義の対応物であり、ヒンデミットの歩みは節操がなく見えてしまうが、表現主義も新即物主義も音楽にとどまらない広がりを持った概念であり、ドイツ圏における新即物主義概念の出発点は建築だった。建築においては表現主義も新即物主義もモダニズムの一部であり、鉄筋コンクリートとガラスという新素材の使い方の違いにすぎない。モニュメンタルな建築において伝統的素材では実現できない斬新な構造を実現するために使うのが表現主義、集合住宅などにおいてシンプルな構造美と機能性を求めて使うのが新即物主義であり、同じ建築家が表現主義から新即物主義に移行する例も少なくなかった。ヒンデミットの場合もこれと同様で、拡張された調性をオペラの感情表現に使う場合は表現主義、小編成アンサンブルに使う場合は新即物主義という使い分けの結果であり、職人気質の作風と矛盾はない。作風転換後のオペラでも、《カルディヤック》(1926)のような表現主義的な題材にはそれにふさわしい音楽を付け、《今日のニュース》(1928-29)のような軽い時事オペラでようやく全面的に新即物主義に振り切っている。ただし、どちらの路線とも時流に合わせた背伸びの部分はあり、過渡期に書かれた歌曲集《マリアの生涯》(1922-23) の穏やかな対位法表現が彼の本領だろう。


2025年2月22日(土)POC第55回公演 〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉 [2025/02/20 update]_c0050810_15281619.jpg
 彼は1927年にベルリン高等音楽院作曲科教授に任命されてベルリンに活動の中心を移すが、これにはプロイセン科学文化教育省音楽部部長レオ・ケステンベルクが深く関わっている。ケステンベルクは1925年にシェーンベルクをプロイセン芸術アカデミー作曲マスタークラス教授に任命し、生活の安定が創作の充実に直結した稔り多いベルリン時代を生んだ立役者だが、ヒンデミットを任命した背景は全く異なっている。ケステンベルクはエリート音楽家の選抜に特化した旧来の音楽教育を改革し、民衆自身が主体的に音楽に関わる共同体を作ろうとしていた。「実用音楽」に関わり始めたヒンデミットには、その旗振り役を期待していたのである。「実用音楽」はドイツに特有の概念であり、固有の目的を持つ音楽のことで、それを持たない「芸術音楽」が美学的に格上だとする考え方へのアンチテーゼとして持ち出される。ドナウエッシンゲン音楽祭の常連になったヒンデミットは、1923年から企画側に回り、1926年には「機械音楽」特集として自動演奏楽器のための音楽を集めた。今回生楽器版が取り上げられる《自動ピアノのためのトッカータ》(1926)はこのために制作された。同音楽祭は翌1927年から保養地バーデン・バーデンでの開催に変更され、「実用音楽」の演奏指導を通じて音楽共同体を作ろうとする指導者組織「音楽ギルド」の首脳会議「全国指導者週間」と同地で共同開催されることになった。両組織の考え方の隔たりは大きく、共同開催は翌1928年限りで終わったが、「音楽ギルド」の人々のために彼が書いたさまざまな実用音楽(Op.43-45, 1926-29)は、組織内では一定の評価は受けた。ヒンデミットの試行はその後も続き、1929年のバーデン・バーデン音楽祭では聴衆参加の《教育劇》(1929)をブレヒトと共作した。彼が参加したブレヒトの教育劇には、音楽をヴァイルと共作した《リンドバーグの飛行》(1929)もあるが、「芸術活動と社会主義活動は同じもの」だと考えるブレヒトと、あくまで音楽と政治は切り離して考える彼の溝は埋まらなかった。


2025年2月22日(土)POC第55回公演 〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉 [2025/02/20 update]_c0050810_15284125.jpg 1930年の書簡で彼は「ここ数年、私はコンサート音楽からはほとんど離れてしまっていて、もっばらアマチュアや子供、ラジオあるいは機械楽器などのための音楽を書いてきました。私はこうした活動を、コンサートのための音楽より重要だと考えています。なぜなら後者はプロの音楽家向けの技術訓練以上のものではありませんし、音楽の発展にはほとんど寄与しないからです」と書いている。実用音楽の重要性を自らに言い聞かせるような文面である。少なくとも、1932年6月20日にプレーン城で1日がかりで開かれたアマチュア音楽ワークショップのための音楽を丸ごと作曲した《プレーン音楽の日》(1932)までは、実用音楽が彼の創作活動の中心になっていた。このような場にも彼は指揮者やヴィオラ奏者として参加したが、この時期にヴィオラ奏者としては、ヴォルフスタール(後にゴールドベルクに交代)、フォイアーマンとの弦楽三重奏団が評判になっていた(フランクフルトで結成したアマール四重奏団は1929年に脱退)。オペラ《画家マティス》(1933-35)は久々の伝統的形式の大作であり、16世紀ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルト(本名マティス・ゴートハルト・ナイトハルト)が筆を置いてドイツ農民戦争に加わるが、幻滅して再び筆を取る姿を描いており、実用音楽に身を投じた数年間を投影しているかのようだ。その素材を用いた交響曲版(1934)はナチス政権下でも初演時には高く評価されたが、本体はオペラだと告知されると状況は一変した。《聖スザンナ》《今日のニュース》など旧作オペラの「不道徳性」や、ユダヤ人音楽家と弦楽三重奏団を組んでいることなど、新作とは無関係な音楽外の諸問題で批判が始まり、オペラの上演は禁止された。交響曲版の初演も指揮したベルリン国立歌劇場音楽監督フルトヴェングラーの抗議文が火に油を注ぎ、結局フルトヴェングラーは解任され、ヒンデミットも大学を追われてトルコに移住し、スイスを経て1940年に米国に亡命した。

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 彼の実用音楽はシンプルゆえに尖った室内楽が中心だが、その後は一種諦めたかのような穏やかな書法の大編成作品が中心になる。亡命生活に入ってもこの傾向は変わらず、《気高い幻想》(1938)や《ウェーバーの主題による交響的変容》(1943)は特によく知られる。実用音楽の探求が一段落すると彼は独自の音楽理論の開発に取り組み、《ルードゥス・トナーリス》(1942)はその集大成にあたる。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集を意識しており、彼の理論では長短調は区別しないのでフーガ12曲で全調性が尽くされ、12曲の並びはCに始まりG (3/2) ー F (4/3) ー A (5/3) ー E (5/4) …と徐々に不協和度が上がってゆき、最後に三全音のF#が来る。性格小品11曲がフーガの間に挟まれ、前奏曲と後奏曲(前奏曲の反逆行形)が全体を包む。この大作は、オラトリオ《遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき》(1946)と並ぶ米国時代の代表作である。



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# by ooi_piano | 2025-02-19 21:24 | POC2024 | Comments(0)

《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_02100186.png

【POC第54回公演】 2025年1月31日(金)19時開演(18時半開場)
〈地誌的ヴィラ=ロボス Villa-Lobos em Viridian

H.ヴィラ=ロボス(1887-1959):
《赤ちゃんの眷属》第1組曲「人形たち」(全8曲、1918) 15分
 1. 白皙の娘(陶器の人形) - 2. 褐色の肌の娘(張り子の人形) - 3. カボークロの娘(粘土の人形) - 4. ムラートの娘(ゴムの人形) - 5. 黒人の娘(木の人形) - 6. 貧しい娘(ぼろ切れの人形) - 7. 道化人形(プルチネッラ) - 8.魔女(布の人形)

《赤ちゃんの眷属》第2組曲「小さい動物たち」(全9曲、1921) 28分
 1. 紙の蜚蠊 - 2. ボール紙の仔猫 - 3. 張り子のネズミ - 4. ゴムの仔犬 - 5. 木の仔馬 - 6. 鉛の仔牛 - 7. 布の小鳥 - 8. 木綿の仔熊 - 9. ガラスの仔狼

《ショーロス第5番「ブラジルの魂」》(1925) 5分

川上統(1979- ):《鬼大嘴 Tucano》(2025、委嘱初演) 7分

 (休憩)

H.ヴィラ=ロボス:
《野生の詩》(1926) 19分

《ブラジル風連作》(1936) 20分
 1. カボークロの苗植え歌 - 2. セレナード弾きの印象 - 3. 原野の祭り - 4.白色インディオの踊り

《バッハ風そしてブラジル風の音楽 [ブラジル風バッハ] 第4番》(1930/41) 15分
 1. 前奏曲(序奏) - 2. コラール(荒野の歌) - 3. アリア(頌歌) - 4. 踊り(ミウジーニョ)



<A música de Villa Lobos, ligada às suas raízes no Brasil>
Fri, 31 January 2025, 7 pm start
Hiroaki OOI, piano
Shōtō Salon [1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo]

Osamu Kawakami (1979- ): "Tucano" (2025, commissioned work, world premiere)
Heitor Villa-Lobos (1887-1959) :A próle do bébé "As Bonecas" (1920) / A próle do bébé "Os Bichinhos" (1921) / Choro Nº 5 para piano (1925) "Alma brasileira" / Rudepoêma (1926) / Bachianas Brasileiras Nº 4 para piano (1930) / Ciclo brasileiro (1937)



川上統:《鬼大嘴 Tucano》(2025) 
 ブラジルの国鳥であるオニオオハシは、大きい嘴を持つキツツキ目の鳥である。「鬼」は様々な生物名でもよく使われる通り「大きい」という意味合いであり、恐ろしさはあまり感じられない。嘴が体長の大部分を占めているものの、その重さは非常に軽く、風貌のコミカルさとその重さ感が少しバグを生じさせる。もっとも、腕に乗せるとやはりずっしりとしていて、果実を器用に嘴から食べる姿は面白い異様さがある。ビビッドなカラーリングも、この軽いのか重いのかよく分からない雰囲気を謎に包んでおり、そのような風体をグルーヴ感に乗せて描きたいと思った。(川上統)

川上統 Osamu Kawakami, composer
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 1979年生まれ。東京生まれ、広島在住。東京音楽大学音楽学部音楽学科作曲専攻卒業、同大学院修了。作曲を湯浅譲二、池辺晋一郎、細川俊夫、久田典子、山本裕之の各氏に師事。2003年、第20回現音新人作曲賞受賞。2009、2012、2015年に武生国際音楽祭招待作曲家として参加。2018年秋吉台の夏現代音楽セミナーにて作曲講師を務める。2021年ピアノトリオ組曲「甲殻」のCDがコジマ録音より発売され、雑誌「音楽現代」において推薦版に選ばれる。作曲作品は200曲以上にのぼり、曲名は生物の名が多い。現在、エリザベト音楽大学准教授、国立音楽大学非常勤講師。






ヴィラ=ロボスと向き合う――野々村 禎彦

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 ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)は、ブラジル音楽と西洋音楽の融合を終生旗印にしていたのは広く知られるところであり、この方向性を前面に打ち出した《ショーロス》シリーズと《ブラジル風バッハ》シリーズが代表作とみなされることが多い。だが、そこで問題になるのは「ブラジル音楽」とは何か、ということである。

 彼はリオ・デ・ジャネイロで生まれ育ち、アマチュア音楽家の図書館員(音楽家を集めたパーティを自宅で定期的に開く名士)の父からチェロとクラリネットを学び、12歳で父を亡くした後は民衆音楽ショーロのグループに出入りしてギターの腕を磨き、映画館や劇場のオーケストラで演奏して家族の生計を助けた。大都市の民衆音楽と日常生活の一部になったクラシック音楽の現場で音楽を身に付け、アカデミックな音楽教育はほとんど受けていない(何度か試みたが水が合わなかった)。1905年からたびたびアマゾン奥地や中米を放浪して原住民や黒人の民謡を採集し、それを素材に作曲を始めた。このような生活は1912年にピアニストのルシリア・ギマランイスと出会って終わりを告げる。ふたりはチェロとピアノで共演を重ねるうちに意気投合し、翌年には結婚した。ルシリアは家族とともにヴィラ=ロボスを献身的に支え、彼も彼女からピアノを本格的に学んでこの楽器のための作品が増えてゆく。

 その後しばらくの作風は交響曲や弦楽四重奏曲のような「絶対音楽」ジャンルではアカデミックな方向性、交響詩のようなジャンルでは神話などを題材にして民俗音楽を素材にする方向性(《アマゾナス》(1917)、《ウイラブルー》(1917) など:ただし両曲とも初演は10年以上後で相当改作されている)を試みた。一般に旧植民地の文化は独立後も旧宗主国の影響下にあり、南欧のクラシック音楽はフランスを参照していることから、アカデミックな書法の手本はダンディだった。そんな彼はダリウス・ミヨー(1892-1974)を通じて近代フランス音楽(特にドビュッシー)を知る。フランスの劇作家=詩人ポール・クローデルの生業は外交官だが、1917-18年にブラジル全権公使を務めた際にミヨーは秘書官として同行し、ブラジルの民衆音楽を収集しながらフランスの同時代音楽を紹介する演奏会を企画した。また1918年にはアルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982)がブラジルを初訪問して多くの演奏会を行い、連日違うプログラムはドビュッシーやシマノフスキなどの同時代音楽も豊富に含んでいた。

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 その影響はピアノ独奏曲《赤ちゃんの眷属第1集》(1918) に如実に表れている。赤ちゃんのマスコットのさまざまな人形を題材にした組曲という発想が既に《子供の領分》を想起させるが、その書法は《版画》から《前奏曲集第2巻》までのドビュッシーのピアノ書法のリミックスに他ならない。ただし、旋律素材は人形のキャラクターに合わせてブラジル民謡などから選ばれており、単なる丸パクリではない。他方、彼はアカデミックな作曲でもこの時期に大きな仕事をしている。ブラジルは第一次世界大戦に連合国側で参戦し、戦闘には参加せずに「勝利」してパリ講和会議にも代表を送った。この「戦勝」を記念する交響曲の仕事をアカデミズム側の作曲家が降り、急遽お鉢が回ってきた。こうして書かれた交響曲第3番《戦争》(1919) は国内で評判になったが、ベルギー国王夫妻を迎えて初演された続編の第4番《勝利》(1919) は不評で、三部作の最後にあたる第5番《平和》(1920) は演奏されないまま紛失した。この経験を経て、国内の政治的な立ち回りで仕事を得るよりも、本場のパリで勝負したいという気持ちが膨らんでゆく。

 そこで彼は、民俗音楽素材により真剣に取り組み、ギター独奏曲《ショーロス第1番》(1920) を書いた。民衆音楽ショーロを素材にしたギター独奏曲としては、後に《ブラジル民謡組曲》(1908-23) として出版された5曲の小品があるが、これは民謡やクラシック音楽(第4曲〈ガヴォッタ・ショーロ〉の素材はJ.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第6番》第4曲)の旋律をショーロ風に処理したサンプルなのに対し、《ショーロス第1番》ではこの民衆音楽の本質である、直線的に進まない音楽的時間(この曲の場合はルバートの伸縮)に正面から向き合っている。同1920年にはルービンシュタインが再度ブラジルを演奏旅行したが、彼は今度はルービンシュタインのホテルの客室に楽士たちと訪れて自作を披露するという大胆な方法でコンタクトを取り、親密な関係を築いた。この時特にインパクトを与えたのは《ショーロス第2番》(1924) の原型と思しきフルートとクラリネットの小品だった。両者が同じ曲ならば、シンコペーションの位置がずれた2本の線の絡み合いが、やがて片方が三連符系になってさらにずれてゆく、ポリリズム由来のより進んだ非直線性が鮮烈な印象を与えたことになる。ルービンシュタインは次の1922年のブラジル演奏旅行では、《赤ちゃんの眷属第1集》の世界初演を担当した。

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 ヴィラ=ロボスはリオ・デ・ジャネイロで芸術を幅広く援助する資産家たちに加え、新興都市サンパウロの前衛芸術愛好家たちも新たなパトロンとして獲得し、1923-24年にパリに初めて滞在した。到着早々のサロンでの即興演奏をコクトーに「ドビュッシーやラヴェルの物真似に過ぎない」と酷評され、赤ちゃんのマスコットの動物の玩具を題材に非直線的な音楽的時間を掘り下げた《赤ちゃんの眷属第2集》(1921) もあまり注目を集めることはなかったが、ルービンシュタインの助力もあってマックス・エシッグ社と出版契約を結び、ルービンシュタインによる《赤ちゃんの眷属第1集》のフランス初演と共に初演された《ノネット:ブラジル全土の簡潔な印象》(1923) は、サックスを含む木管五重奏のエキゾティックな旋律をハープ、ピアノ、チェレスタ、打楽器が補強し、混声合唱が母音唱法のグリッサンドやオノマトペで色彩を添える趣向が注目された。このパリ滞在は、資金が続かず1年余りでいったん切り上げたが、パリといえども結局受けるのは〝未開の土人の音楽〟なのだと学んだ。

 ブラジルに戻った彼は、《ショーロス》シリーズの路線をエキゾティシズム寄りに修正して書き進め、ルービンシュタインのためのピアノ独奏曲の新作もエキゾティシズムと名技性増し増しの《野生の詩》(1921-26) としてまとめて捲土重来を期した。ルービンシュタインも彼のパトロンたちに彼の将来性を増し増しで語り、1926年からの2回目のパリ滞在が始まった。1回目は最初に用意した資金が尽きたところで帰国せざるを得なかったが、今回はマックス・エシッグ社からの本格的な作品出版にこぎ着け、パリで稼いだ金で滞在を続けられるようにしたい。そのためには大規模な作品個展を成功させる必要がある。というわけで1927年の10月と12月にマックス・エシッグ社主催で2回の個展を伝統ある室内楽ホールのサル・ガヴォーで行い、その評判にすべてを委ねることが決まった。10月はルービンシュタインによる《野生の詩》の世界初演と《ショーロス》シリーズの2・4・7・8番(3ホルンとトロンボーンのための4番、2台ピアノと室内管弦楽のための8番が世界初演)、12月は《野生の詩》の代わりに合唱入りの《ショーロス》3・10番が加わった。

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 結果は大成功。1回目はルービンシュタインのための大作(〝世界一難しいピアノ曲〟という触れ込みでルービンシュタインのレパートリーに定着)目当てで集まった客に《ショーロス》シリーズのエキゾティシズムがアピールし、2回目はその再演に〝土人の合唱〟をフィーチャーしたさらに強烈な2曲が加わるという流れの演出だった。特に《ショーロス第10番》(1926) のアンサンブルと混声合唱のインパクトは強く、《ショーロス》シリーズの最高傑作と特筆されることが多い。この成果を受けてまず15曲の出版が決まり、出版曲リストが増えるにつれてその収入で滞在を延長するサイクルが始まった。今回は妻も同行しているので長期滞在でも支障はないが、今度は本国で忘れられないように定期的に帰国しての新作披露が求められる。1929年8月に最初の凱旋帰国、1930年6月にもパリに荷物を置いて一時帰国したが……

 ブラジルの政局は世界大恐慌を背景に混乱し、1930年3月の大統領選挙の不正が囁かれる中、対立側の副大統領候補が7月に暗殺されて火に油を注ぎ、10月には対立側が軍事クーデターを起こしてヴァルガス独裁政権が成立した。資本流出を防ぐために海外送金は停止され、ヴィラ=ロボスのアパルトマンは家賃未納で差し押さえられ、置いてきた《赤ちゃんの眷属第3集》や《ショーロス》13番・14番などの譜面を失った。この状況下で彼のパトロンたちも資金援助どころではなくなった。そこで彼は、地方へのクラシック音楽普及活動への資金援助という新政権の提案に乗り、チェリストとして妻ルシリアらと演奏旅行を重ね、新政権との距離を縮めた。1933年には音楽芸術庁初代長官に就任し、今度は政府をパトロンにして音楽活動を続けてゆく。

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 《ショーロス》シリーズのエキゾティシズム路線はパリの需要に合わせたもので、ブラジルを〝土人が跋扈する未開の地〟扱いする路線はもちろん国内では評判が良くない。そこで新たに《ブラジル風バッハ》シリーズを始め、民俗音楽素材を新古典主義的に扱って西洋音楽と融合する路線へと転換した。《ショーロス第1番》は民衆音楽での自身の楽器ギターの独奏で始まるのに対して、《ブラジル風バッハ第1番》(1930/38) はクラシック音楽での自身の楽器チェロの八重奏で始まるのは必然性がある。このシリーズは《ショーロス》シリーズよりも穏当で、ブラジルの団体でも演奏しやすく書かれている。このような「合理性」は、作曲以外の主な活動が演奏から音楽行政や音楽教育に移るとピアニストの糟糠の妻ルシリアを1936年に捨て、活動の中心を米国に移す将来の秘書にふさわしい、英語が堪能で社交的なアルミンダ・ダウメイダと再婚した「合理性」に通じるものがあり、およそ芸術的とは言い難い(アルミンダとは親子ほど歳が離れているのも、自身の死後も長らくヴィラ=ロボス博物館館長を務められるので「合理的」だからではないか)。

 ここで終わるとなんとも後味の悪い総説になってしまうが、「ブラジル音楽」の見方を変えると、新たなものが見えてくる。クラシック音楽で言うところの「ブラジル音楽」はいわゆる民俗音楽に限られ、エキゾティシズムか新古典主義的民族主義かの二択になってしまいがちで、これがヴィラ=ロボス観の閉塞につながっていた。だが、《ショーロス》シリーズで〈ブラジルの魂〉という大仰な副題を与えられているのは、ピアノ独奏曲《ショーロス第5番》(1925)、わずか5分の小品である。世評の高い10番や1時間を超えるピアノ協奏曲の11番(1928) ではなくこの曲、というところに意味があるのではないか。この曲は先に触れた2番のようなシンコペートする旋律と三連符系の旋律の絡み合いで始まるが、そこに基本のビートの単純な繰り返しが加わると、直線的に進まず不規則なゆらぎに満ちた、層状の音楽的時間が浮かび上がる。これこそが「ブラジルの魂」=ブラジル音楽の本質だと、ヴィラ=ロボスは言いたかったのではないか。このような音楽的時間を把握できる彼は、《赤ちゃんの眷属第1集》でもドビュッシーの本質であるレイヤー構造を把握してリミックスを行っており(録音を聴く限り、ルービンシュタインはそのような側面は把握せずに単なるヴィルトゥオーゾ・ピースとして弾いているが)、《赤ちゃんの眷属第2集》を続けて聴くと、ドビュッシー的多層性から歩みを進めてブラジル的多層性に至った道筋を追体験できる。

 この「ブラジルの魂」は抽象的かつ普遍的な概念なので、民俗音楽やヴィラ=ロボス作品に対象を限る必要もない。むしろ基本は民衆音楽にあり、この3声部の関係性は、管楽器の主旋律・ギターの対旋律・カヴァキーニョ(小型4弦ギター)のリズムというショーロの基本形に由来する。音源ならまず聴くべきはボサノヴァ、特にジョアン・ジルベルトのギター弾き語りだろう(作曲者のアントニオ・カルロス・ジョビンは西洋ポピュラー音楽風のアレンジで商品性を高めて「魂」は隠してしまいがち)。なかでも《三月の水》(1973) は、弾き語りに極めてインテンポの打楽器(西洋ポピュラー音楽的なセンスでは凡庸と断じられそうな)が加わって同様の3声部の関係性(ただしポリリズムではなく直接的に操作されたゆらぎ)が生じており、この音源で「魂」の何たるかを把握してからヴィラ=ロボスに向き合う方が良いかもしれない。再び彼の音楽に戻ると、《ブラジル風バッハ第4番》(1930/35/41) はこのシリーズでは例外的に、ブラジル風(=民俗音楽的)な素材をバッハ風(=対位法的)に処理するのではなく、バッハ風な素材(特に第1楽章は《音楽の捧げもの》の「王の主題」そのもの)をブラジル風に処理しており、このシリーズでは「ブラジルの魂」が聴ける唯一の曲と言えるだろう。《ブラジル風連作》(1936-37) はこの意味では、素材も手法もブラジル風にして至った境地ということになる。

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 ヴィラ=ロボスの「ブラジルの魂」が聴けるのは本日のピアノ独奏曲プログラムだけであるかのような書き方になってしまったが、少なくともあとふたつのジャンルがある。ひとつはギター独奏曲。先に触れた《ブラジル民謡組曲》と《ショーロス第1番》に加えて、《12の練習曲》(1928-29) と《5つの前奏曲》(1940) があり、《練習曲》に関しては初演者セゴビアの序文の「スカルラッティやショパンの練習曲のギター版」という位置付け以上に適切な表現はないだろう。ギター音楽の歴史にはそれに相当するものはなかったので、マイスターの責任として書いたということだ。《前奏曲》も「ショパンの前奏曲のギター版」でよいのかもしれないが、彼の創作史に即して言えば、《ブラジル風連作》のギター版という位置付けになる。もうひとつは弦楽四重奏曲。彼にとっては交響曲と弦楽四重奏曲はパラレルな位置付け(民俗音楽的な素材に依らない「絶対音楽」であり、創作時期も共通する)だと先に示唆したが、初期から一貫して彼の交響曲はつまらないのに弦楽四重奏曲は面白いのは、交響曲では「ブラジル性」を民族打楽器の使用のような外面的な部分に求めているのに対し、弦楽四重奏曲では展開手法に求めているからである。また、管弦楽作品は演奏されないと始まらないので妥協せざるを得ないが、室内楽作品や器楽作品は未来の演奏家に期待して妥協しない譜面を残すことが可能だから、という違いもあるのかもしれない。


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# by ooi_piano | 2025-01-26 18:40 | POC2024 | Comments(0)
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大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演
《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)

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【POC第52回公演】 2024年10月31日(木)19時開演(18時半開場)
A.ウェーべルン(1883-1945):《ピアノのための楽章》(1906)、《ソナタ楽章(ロンド)》(1906)、《パッサカリア Op.1》(1908/2013) [杉山洋一編独奏版]、《5つの歌曲 Op.3》(1907/08)、《5つの歌曲 Op.4》 (1908/09)、《4つの歌曲 Op.12》(1915/17)、《4つの歌 Op.13》 (1914/18) [作曲者編ピアノ伴奏版] 、《子供のための小品》(1924)、《ピアノのための小品》(1925)、《3つの歌 Op.23》 (1934)、《協奏曲 Op.24》 (1934/2024) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《3つの歌曲 Op.25》 (1934/35)、《ピアノのための変奏曲 Op.27》 (1936)、《管弦楽のための変奏曲 Op.30》(1940/2016) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《カンタータ第1番 Op.29》(1939)より第2曲/《カンタータ第2番 Op.31》(1943)より第4曲 [作曲者編ピアノ伴奏版]



【POC第53回公演】 2024年12月7日(土)18時開演(17時半開場)
若松聡史(1983- ):《暈色 "Iridescence" for extended piano》(2024)
A.ベルク(1885-1935):《ピアノソナタ》(1908)、《弦楽四重奏曲 Op.3》(全2楽章、1911/2017)[米沢典剛編曲独奏版、世界初演]、《抒情組曲》 (全6楽章、1926/2016)[米沢編独奏版、東京初演]、オペラ《ヴォツェック》第1幕第3場より「マリーの子守唄」(1922/1985)[R.スティーヴンソン編]、オペラ《ヴォツェック》第2幕第4場より「居酒屋のワルツ」(1922/1987)[Y.ミカショフ編]、オペラ《ルル》に基づく幻想曲 (1935/2008)[M.ウォルフサル編]

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【POC第54回公演】 2025年1月31日(金)19時開演(18時半開場)
川上統(1979- ):《鬼大嘴 Tucano》(2025、委嘱初演)
H.ヴィラ=ロボス(1887-1959):《赤ちゃんの眷属》第1組曲「お人形たち」(全8曲、1918)/第2組曲「小さい動物たち」(全9曲、1921)、《ショーロス第5番》(1925)、《野生の詩》(1926)、《ブラジル風バッハ第4番》(1930/41)、《ブラジル風連作》(1936)

【POC第55回公演】 2025年2月22日(土)18時開演(17時半開場)
〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉
根本卓也(1980- ):《歩哨兵の一日 Ein Tag von einer Schildwache》(2024)
P.ヒンデミット(1895-1963):《3章の練習曲 Op.37-1》(1924/25)、《自動ピアノのためのトッカータ》(1925/2023)[米沢典剛編独奏版、世界初演]、交響曲《画家マティス》(1934/2016) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《C.M.v.ウェーバーの主題による交響的変容》より「トゥーランドット」(1943/2020) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《ルードゥス・トナーリス(調の手習い) ~対位法・調性およびピアノ奏法の演習(全25曲)》(1943)

【POC第56回公演】 2025年3月29日(土)17時開演(16時半開場)
〈投機者Ⅱ ショスタコーヴィチ〉
鈴木悦久(1975- ):《ドミニサイド・ダンス Dominicide Dance》(2024、委嘱初演)
P.I.チャイコフスキー(1840-1893):《管弦楽組曲第1番 ニ短調 Op.43》より「フーガ」(1879/1886) [G.L.カトワール(1861-1926)による独奏版、日本初演]
D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975):《24の前奏曲とフーガ Op.87》 (1952)




POC2024:戦後前衛の源流はまだ尽きない――野々村 禎彦

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 近年のPOCシリーズは戦後前衛の源流の精査に比重を移しており、一昨年の前シリーズではついに「源流の源流」のドビュッシーまで遡った。この路線もようやく一段落……ではない。むしろ今期の顔ぶれこそが、POCシリーズの真骨頂だ。まず、ピアノソロが中心だが連弾や他楽器とのデュオも含む姿勢と、編曲ものも取り上げる姿勢。ヴェーベルンとベルクはシェーンベルクに劣らず重要だが、いかんせん扱える曲は少な……くはない。通常のフォーマットの演奏会では編成によらず見えないふたりの作曲家の全貌がこの各1回で俯瞰できる。また、実際に戦後前衛の源流だったかどうかも絶対的な基準ではない。その可能性は持っていたが、何らかの理由でそうならなかった作曲家も取り上げて良いはずだ。むしろ戦後前衛の先を目指すならば、「なり損ねた人々」の方が検討に値する。ヴィラ=ロボスとヒンデミットは、まさにそういう人選である。特にヴィラ=ロボスは、従来のモダニズム史観ではあまりに軽視されてきた。代表作を網羅的に取り上げるPOC流アプローチで真価が明らかになるだろう。そしてショスタコーヴィチ。演奏機会は多いが、モダニズム史観での扱いはかなり微妙……ならばピアノソロの代表作《24の前奏曲とフーガ》の全曲演奏で検証しよう、という姿勢がPOCなのだ。ウクライナ戦争も終わりが見え、この頃にはロシア文化忌避も収まっているだろうが、それが最高潮だった昨年初春のロシア・アヴァンギャルド特集の続編でもある。

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 アントン・ヴェーベルン(1883-1945)アルバン・ベルク(1885-1935)アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)の高弟だが、無調に向かったのも12音技法を採用したのも師の導き……という単純な関係ではない。シェーンベルクは弦楽四重奏曲第1番(1904-05) や室内交響曲第1番(1906) で後期ロマン派の対位法の複雑化を進めたが、なかなか無調への最後の一歩が踏み出せなかった。他方彼は1904年から自宅で音楽の私塾を始め、そこから台頭したヴェーベルンとベルクは、「卒業制作」にあたる作品を1908年に書き上げた。ヴェーベルンの《パッサカリアop.1》はシェーンベルクの歩みに忠実な管弦楽曲だが、ベルクのピアノソナタはその域を超えて、「後期ロマン派の本質」の客体化に成功した。伝統の中心で独学で叩き上げたシェーンベルクには伝統は血肉化し過ぎて客観視できなかったが、音楽を本格的に学んだのはこの時がほぼ最初というベルクの距離感がちょうど良かったのだろう。後期ロマン派的な素材を新古典主義的に扱うスタンスはベルクの音楽の核心になる。弟子の達成からヒントを掴んだシェーンベルクは弦楽四重奏曲第2番(1907-08) 終楽章で無調への第一歩を踏み出すと、《5つの管弦楽曲》やモノオペラ《期待》を含む、1909年の無調表現主義作品ラッシュに突き進む。近年の研究では、ベルクのピアノソナタの完成は1909年中頃だと推測されているが、その時期にこの段階だと、次の弦楽四重奏曲(1910) とのギャップが大きすぎるのではないか。前年に師に草稿を見せたものの、単一楽章で終えるか他の楽章も書くかを延々と悩み、師が自分を踏み台にして無調の新作を続々と生み出すのを横目で見ながらようやく決断したのがこの時期、と考えるのがその後のベルクの筆の遅さと見比べても妥当だと思われる。
 無調の大作である弦楽四重奏曲をベルクが書き上げた頃には、シェーンベルクはこの方向性では書き尽くして次の道を模索していた。他方ヴェーベルンは師の歩みに沿って、1曲2分前後に凝縮された無調表現主義の《弦楽四重奏のための5楽章op.5》(1909) や《管弦楽のための6つの小品op.6》(1909) を書いたが、《ヴァイオリンとピアノのための4つの小品op.7》(1910) ではさらに先に進み、もはや表現主義の前提になる文学的コンテクストも切り捨てた1曲1分前後の「極小様式」に至った。シェーンベルクは早速この路線を取り入れ、《6つのピアノ小品》(1911) はヴェーベルンが乗り移ったかのようだし(6曲5分)、終生の代表作《月に憑かれたピエロ》(1912) の凝縮された構成(21曲35分)もヴェーベルン体験抜きには有り得なかっただろう。小アンサンブル伴奏歌曲という新しい方向性はブームになり、ストラヴィンスキーやラヴェルも追随した。シェーンベルクの創作力はここで燃え尽き、12音技法を開発するまで長い沈黙に入るが、ヴェーベルンは地道に極小様式の探究を進めて、初期代表作の《弦楽四重奏のための6つのバガテルop.9》(1911-13) と《管弦楽のための5つの小品op.10》(1911-13) に至る。ベルクも兄弟子の路線に影響されて、《クラリネットとピアノのための4つの小品》(1913) を書いた。無調初期における新ウィーン楽派の3人の間の密接な交流はこれで一段落し、以後は各々独自の道を歩むことになる。

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 ヴェーベルンの歩みを器楽曲のみで辿ると、素直な後期ロマン派の書法~彼の代名詞の極小様式~12音技法採用直後の複雑な作品群~《交響曲op.21》(1928) 以降の点描化と戦後前衛への直接的影響、という馴染み深い飛び飛びのイメージになる。だが、歌曲を視野に入れると後期ロマン派と地続きで無調に向かう過程(op.3, op.4)極小様式を切り上げて複雑な無調書法に向かう過程(op.12)、《交響曲》の前後で音楽様式が断絶したわけではないことの実例(op.23, op.25)も聴けることになり、より包括的なヴェーベルン像が結ばれる。これも「他楽器とのデュオ」に変わりはない。一流の奏者を起用するのもPOCの矜持で、本公演では近代ドイツ歌曲の第一人者森川栄子である。そこにピアノ独奏曲も加わると、後期ロマン派時代の2曲、12音技法採用直後の2曲、《交響曲》以降のスタイルの到達点である《ピアノのための変奏曲op.27》(1935-36) も一緒に聴ける。 さらにPOC独自の編曲ものまで加えると、《パッサカリア》、独唱とアンサンブルのための《4つの歌曲op.13》(1914-18)、《交響曲》と並ぶ12音技法後期の代表作《9楽器のための協奏曲op.24》(1931-34)、最晩年の複雑かつ豊穣な新境地《管弦楽のための変奏曲op.30》(1940) 2曲のカンタータop.29/31 (1938-39/1941-43) と、この作曲家のほぼ全貌が掴めることになる(特にop.24とop.30は、米沢典剛による新編曲の世界初演)。すなわち、カヴァーされていないのは極小様式の作品群とop.14-19の小アンサンブル伴奏歌曲群のみ、いずれも音色が本質的な意味を持ち、他楽器への置き換えができない作品群である。
 ベルクは今回取り上げられる作曲家の中ではショスタコーヴィチに次いで広く知られており、多言は不要だろう。彼の全体像を掴むには、まずはふたつのオペラ(各々無調時代と12音技法時代の最後を締めくくる)、続いてふたつの弦楽四重奏曲(各々無調時代と12音技法時代の最初に位置する)という見立ても共有されているはずだ。これを一夜で聴くことは普通には有り得ないが、編曲ものを駆使するPOCならば可能になる(もちろんオペラ2曲はごく一部の抜粋になるが)。ここでも弦楽四重奏曲2曲は、米沢典剛の新編曲に依っている(世界初演と東京初演)。ここにピアノソナタが加われば、残る主要作は室内協奏曲(1923-25) とヴァイオリン協奏曲(1935) のみだが、これら2曲もピアノソロ編曲とは極めて相性が悪いことは言うまでもない。

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 ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)は、1923-24年と1926-30年の2回にわたってパリで活動したが、最初の滞在では表面的なフランス音楽趣味をコクトーに酷評された。そこで彼は、ギタリストとして民衆音楽ショーロのグループに出入りし、国内各地を放浪して民俗音楽を収集した青年時代に立ち返り、ブラジルのさまざまな民俗音楽を戦略的に導入した《ショーロス》シリーズの作曲に集中し、2回目の滞在で成功を収めた。だが、一時帰国中に祖国でクーデターが起こり、政情不安でパトロンたちの支援も途絶え、パリのアパルトマンに置いてきた多くの譜面を失った。そこで彼は、クラシック音楽普及活動への資金援助という新政権の提案に乗り、チェリストとしてピアニストの妻ルシリアらと演奏旅行を重ね、新政権との距離を縮めた。1933年には音楽芸術庁初代長官に就任し、政府をパトロンにして音楽活動を続けてゆく。《ショーロス》を発展させた《ブラジル風バッハ》シリーズは、このような状況下で書かれた。ブラジル音楽と西洋音楽の融合を旗印にした両シリーズ(その中のピアノ独奏曲も今回の曲目に含まれる)を彼の代表作と見做す向きは多い。しかし彼の音楽を真に代表するのは、エキゾティシズムに還元されないブラジル音楽の本質(音楽的時間が直線的に進まず、不規則なゆらぎを含む層状の時間の上で一見単純な旋律が多彩な陰影をまとう)を抽象的なフォルムの中に浮かび上がらせた、弦楽四重奏曲とギター独奏曲だろう。どちらも自身の楽器であるチェロとギターを含む編成なのも示唆的だ。他方ピアノは、最初の妻ルシリアの楽器であり、親密な関係を築いてパリ滞在の足がかりになったアルトゥール・ルービンシュタイン(《赤ちゃんの一族》《野生の詩》の初演者)の楽器でもあるが、因襲的なピアニズムが作品の真価を覆い隠してきたことも否定できない。その真価は、《ブラジル風連作》まで代表作を網羅した今回のプログラムで明らかになる。

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17595669.jpg
 パウル・ヒンデミット(1895-1963)は戦間期ドイツを代表する作曲家=ヴィオラ奏者である。フランクフルトでヴァイオリン/ヴィオラ奏者として音楽活動を始め、第一次世界大戦後はアマール弦楽四重奏団のヴィオラ奏者として自作を含む同時代音楽を積極的に取り上げるとともに、まず表現主義的な小オペラに集中的に取り組んだ。やがて新即物主義に作風を転換し、《室内音楽》シリーズ(1922-27) が最初の代表作になった。《3章の練習曲》《自動ピアノのためのトッカータ》はこの時期に書かれた。ただし、表現主義路線・新即物主義路線とも時流に合わせた背伸びの部分はあり、過渡期に書かれた歌曲集《マリアの生涯》(1922-23) の穏やかな対位法表現が彼の本領だろう。1927年にベルリン音楽大学作曲科教授に任命されて活動の中心を移すと、まず時事オペラ《今日のニュース》(1928-29) を書いたが、作風は徐々に穏当になり、ナチス政権下でも交響曲《画家マティス》(1934)は初演時には高く評価された。他方ヴィオラ奏者としては、ヴォルフスタール(後にゴールドベルクに交代)、フォイアーマンとの弦楽三重奏団が評判になった。だが、《画家マティス》のオペラ化(1934-35) が告知されると状況は一変する。《今日のニュース》のヌードシーンやユダヤ人音楽家との弦楽三重奏団が問題視されて批判が始まり、オペラの上演は禁止された。交響曲版の初演も指揮したベルリン国立歌劇場音楽監督フルトヴェングラーの抗議文が火に油を注ぎ、結局フルトヴェングラーは解任され、ヒンデミットも大学を追われてトルコに移住し、スイスを経て1940年に米国に亡命した。彼の音楽理論の集大成でもある《ルードゥス・トナーリス》(1942) は、オラトリオ《遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき》(1946) と並ぶ米国時代の代表作である。



# by ooi_piano | 2025-01-25 16:30 | POC2024 | Comments(0)


Hiroaki Ooi Matinékoncertek
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

後援 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) []

チラシ 



【第3回公演】2025年1月12日(日) 15時開演(14時45分開場)

1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23404471.jpg
マイアベーア《悪魔のロベール》の回想 S.413 (1841) 10分
 [第3幕「地獄のワルツ」 - 「黒い悪魔たちよ、亡霊たちよ、天を忘れよ」(合唱)/「私の栄光は消え去り」(ベルトラン)/「喇叭を鳴らせ、旗を讃えよ」(騎士団の合唱)]

ハンガリー狂詩曲第14番 S.244-14 (1846) 12分
 [Lento quasi marcia funebre - Allegro eroico - Allegretto alla Zingarese - Vivace assai]

ギャロップ S.218 (1841、遺作) 6分
 
ベルリオーズの叙情的モノドラマ《レリオ、あるいは生への回帰》の主題による交響的大幻想曲 S.120 (1834/2021) [D.ドスサントス編独奏版] 23分
 [漁夫のバラード(第1楽章) - 山賊の情景(第3楽章)]
 
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J.S.バッハのカンタータ第12番《泣き 歎き 憂い 慄き》の通奏低音と《ロ短調ミサ》の「十字架に釘けられ」による変奏曲 S.180 (1862) 16分
 [主題と43の変奏 - コラール「神の御業は全て善し」]
 
ハンガリー狂詩曲第6番 S.244-6 (1847) 7分
 [Tempo giusto – Presto - Lassan (Andante) - Friska (Allegro)]
 
モーツァルト《フィガロの結婚》と《ドン・ジョヴァンニ》の動機による幻想曲 S.697 (1842/1993) [L.ハワード補筆版] 20分
 [第1幕フィガロ「もう飛ぶまいぞ、この色気の蝶々」 - 第2幕ケルビーノ「恋の悩み知る君は」 - 《ドン・ジョヴァンニ》第1幕終結部(メヌエット+コントルダンス+ワルツ)]

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ベッリーニ《清教徒》の回想 S.390 (1836) 18分
 [アルトゥーロのカヴァティーナ「いとしい乙女よ、あなたに愛を」(第1幕第3場) - エルヴィーラのポロネーズ「私は愛らしい乙女」]

スケルツォと行進曲 S.177 (1851) 12分
 [Allegro vivace, spiritoso (Scherzo) - Allegro moderato, marciale]

パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 (初版、1838) [全6曲] 28分
 第1番 ト短調「トレモロ」 Andante - Non troppo Lento (カプリス第5番+第6番)
 第2番 変ホ長調「オクターヴ」 Andante - Andantino, capricciosamente (カプリス第17番)
 第3番 変イ短調「ラ・カンパネラ」 Allegro moderato - Tempo giusto (協奏曲第2番第3楽章+協奏曲第1番第3楽章)
 第4番 ホ長調「アルペジオ」 Andante quasi Allegretto (カプリス第1番)
 第5番 ホ長調「狩り」 Allegretto (カプリス第9番)
 第6番 イ短調「主題と変奏」 Quasi Presto (a Capriccio) (カプリス第24番)





リストと宗教音楽――山村雅治

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1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23405710.jpg
 現実は残虐だ。リスト父子が息子フランツの音楽の勉強のために、ハンガリーからパリに到着したのは1823年12月11日。翌日、ピアノ製造のエラールとともに、メッテルニヒ侯爵の推薦状を携えてケルビーニを訪ねた。彼が楽長であるパリ音楽院への入学を希望したからだ。しかし、拒否された。音楽院の授業に外国人が存在することが許されない規則があったからだ。12歳にしてリストはすでにピアニストとして名が知れていたが、彼はこのとき「私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした」と書いている。そこで音楽の勉強は個人教授を頼むことしした。作曲をパエールに、音楽理論をレイハに師事した。ピアニストとしての生活は続き、1824年3月7日にパリ・デビューを果たして、5月に渡英して6月5日にイギリス・デビューをした。イギリスではさらに1825年と27年に長期滞在し、さらなる悲劇が1827年8月に起こる。8月28日に父アダムが腸チフスで急死したのだ。父子の二人三脚で音楽で身を立てる歩みをしてきたのが、ここで止まった。15歳の少年リストはひとりになった。オーストリアにいた母をパリに呼び寄せて、彼女を抱えながら自らの生計を立てなければならなくなった。

 ピアノ教師としてリストは生きた。生徒として出会ったサン=クリック伯爵の令嬢カロリーヌは一つ年下だった。たちまちリストとカロリーヌは恋しあった。見守ってくれたカロリーヌの母親が1828年6月30日に亡くなると、父親であるサン=クリック伯爵は、娘が社会的身分が低い音楽家に嫁ぐことなどは許せず、レッスンを打ち切ってリストに出入り禁止を言い渡した。ヨーロッパの辺鄙な田舎に平民として生まれたリストに身分差別も襲いかかった。

 この時期のことをリストは1837年1月に公開書簡としてジョルジュ・サンドに書き送っている。
「パリの社交界に進んだことで、芸術家が使用人としての立場を甘受することを、嫌悪感をもってひたすらに我慢した」。またピアノを弾いて生活費を稼ぐことなった彼は「芸術が金儲けのための職業に成り下がり、上流階級の娯楽になっている」ことに嫌悪感を抱く。「この頃、二年間病気になり、その間、信仰と献身への激しい欲求を満たすためには、カトリックの厳格な信心行為に没頭する以外に道はありませんでした」。

 パリから見れば田舎生まれの身の民族・国籍差別、どんなときにも庇護してくれた頼るべき父の死、身分差別による失恋。モーツァルトの時代となんら変わらない芸術家の立場。すなわち人間である貴族の前で芸をする猿にすぎなかった。彼は神経衰弱による鬱になり演奏活動からも遠ざかってしまう。1828年4月30日に閉じられた演奏会は翌1829年3月22日まで再開されなかった。ふたたびリストは毎日のように教会へ通い、ついに聖職者になることを考えた。しかし、母と近くに住んでいたバルダン神父に説得されて思いとどまった。しかし、思いはその後も続いた。

 少年リストに聖書を通して、イエスは語りかけた。その言葉のすべてが彼の渇いた心に慈雨として沁みこみ、現実の残虐から彼を救い出した。ルター訳のドイツ語聖書を通じてならば、いっそう生々しくイエスの肉声が響いただろう。リストの時代にカトリックは「権威」だったが、その発祥の時代には数世紀の間、ローマ帝国のいたるところで、それは邪教として厳しい迫害を受けた。闘技場でキリスト教徒がライオンに食われるさまを、貴族たちは娯楽として楽しんでいた。

 イエスの生きた時代とその後のキリスト教の出発点は、紀元30年から40年頃ユダヤのエルサレムにいたガリレヤ地方の無知文盲の田舎者の群れだった。彼らはイエスが十字架にかけられて死んだのち「復活」して天国に昇り神の右に座しているが、やがて今にも救世主として再臨し、この世に正義と希望の国をもたらし不幸や不正を一掃してくれる、と熱望した。イエスの言葉が記された新約聖書のギリシア語はコイネーと呼ばれる田舎の方言で示されている。原典は後世ローマ教会によって定められたウルガタ、つまり格調高いラテン語の荘重体からは遠い、田舎言葉で書かれていたのだ。新約聖書には、貧しき者(田舎者・芸術家)への賛美と金持ち(貴族)への烈しい非難がいたるところに撒き散らされている。金持ちが天国の門に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい。

 おそらくリストは取り澄ました白い手の貴族に古い素性のあいまいな系図を突きつけて、貴族の祖先だった農夫の土が沁みこみひび割れだらけの赤い手を突きだしてやりたかった。カトリック成立以前の原初のキリスト教は「人間のみじめさ」がはぐくむ切ない悲願、凄まじい希望が培養した灼熱の熱さのなかでの「救済」「解放」の運動だった。



1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23410718.jpg
 「宗教音楽」の定義は何か。カトリックのラテン語典礼文に、ただ曲をつければ「宗教音楽」になるのだろうか。それらは間違いなく教会での典礼に用いられる神への信仰を告白する音楽だ。音楽がはじまったとき、用いられた楽器は人間の声だった。祈る言葉の抑揚がいつしかともに朗唱する歌になった。西洋音楽は9世紀ころにまとめられた教会で歌われた「グレゴリオ聖歌」に発祥する。「宗教音楽」はミサでの祈りの言葉や聖書からの言葉が歌われた。それが音楽だった。

 修道士たちの男声の斉唱がペロタンらによって声部がわかれる合唱になり、やがて中世・ルネサンスには50声部を超える宗教音楽が書かれた。その頃になれば、なにが目的だったのかが判らなくなった作曲家もいるだろう。一声部、二声部だけでも神と人間のことは書けるのに。いずれにせよ中世・ルネサンスの作曲家には「作曲家と宗教」が問われることがない。教会に仕え、教会の礼拝のための音楽を書くことが主な彼らの仕事だったからだ。世俗の音楽はクラウデイオ・モンテヴェルディがオペラまでも書き、宗教音楽と世俗音楽はいちだんと豊かになった。バッハまでは宗教音楽も教会で演奏された。バッハは楽譜の最後に”Soli Deo Gloria”「神のみに栄光あれ」と記した。同時代を生きたヘンデルは「メサイア」を教会から脱け出して劇場で演奏した。ロンドンの孤児院でくりかえし演奏した。ヘンデルが書いた、たったひとつの宗教的「オラトリオ」だった。

 かくして「宗教音楽」は教会に仕えた中世・ルネサンスの時代から、バロックのバッハ、ヘンデルを経て、貴族に仕えたハイドンも教会に仕えたこともあったモーツァルトも「ミサ」をたくさん書いた。教会の人ではなかったベートーヴェンのあとに勃興したロマン派作曲家では、メンデルスゾーン、グノー、ブルックナーと比肩してリストは19世紀を代表する声楽を用いた宗教音楽の作曲家だった。ローマ時代には集中的に作品を書いた。「音楽は本質において宗教的である」とリストは考えていた。ピアノ独奏曲にも書いた「聖なる言葉」がないリストの「宗教音楽」も枚挙にいとまがない。


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 19世紀に才能を持つ音楽家として認められるには「宗教音楽」を書くか、大衆を向いて喝采を博す「オペラ」を成功させることしかなかった。ショパンも学生時代の師ユゼフ・エルスネルから、そうすることを勧められた。13歳のリストは師のフェルナンド・パエールの助けを得てオペラ「ドン・サンシュ」を書いた。その根には教会に帰依し神を祝福すること(宗教音楽)と、人びとが喜ぶものは神も喜ぶだろう(オペラ)という音楽芸術の広さと深さがあったとすれば、「オペラ」が「宗教音楽」の形式を踏襲しつつ発展したことは必然だった。

 「ミサ・ソレムニス」(1823)という神と人間を結んだ祈りの音楽を書いたベートーヴェン没後、音楽の世界の中心はパリにあった。自分が死んでも残ってほしい壮大な夢を託した「第九交響曲」(1824)の巨匠の没後3年の1830年、ベルリオーズは「幻想交響曲」を書き時代を震撼させた。新しい時代が訪れたのだ。当時のパリ音楽院が定めた若い作曲家にイタリア留学の資金を賞金を与える「ローマ賞」を獲得するには「カンタータ」を書かなければならなかった。ベルリオーズは『オルフェウスの死』、『エルミニー』、『クレオパトラの死』についで『サルダナパールの死』の4度目の挑戦にして、ついに「ローマ賞」を獲得した。「カンタータ」すなわち複数の独唱者とオーケストラのための作品は、先行して「宗教音楽」に用いられた形式であり、19世紀にはオペラがもつ形式にもなっていた。

 オペラをパリ・オペラ座で上演するのが夢だった。「ベンベヌート・チェッリーニ」は受けいれられず、いのちをかけた大作「トロイアの人々」はドイツからやってきたヴァーグナーの「タンホイザー」に先を越された。フランス人の作曲家ベルリオーズはパリの音楽界の梯子を昇ろうとした。彼の才能を誰よりも認めていた19歳のリストは、ベルリオーズが初演した「幻想交響曲」に感激した。その一点にとどまって終生ベルリオーズの才能を世に知らしめようとした。「幻想交響曲」は徹頭徹尾「人間の音楽」であり、恋に狂った青年が巻き込まれた夢と幻視と絶望が展開された。そこに救いはない。

 救いのなさに「カタルシス」を得ることがある。カタルシスとは人間個人のいつわらぬ感情を解放することによって得られる精神の「浄化」を意味する。アリストテレスが『詩学』中の悲劇論に「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」として書き著して以降使われるようになった。古代アテネにも神はいた。精神を浄化すれば、人間は神に近づくことができるだろう。「カタルシス」も魂の浄化への道であり、修道士への道に迷った青年リストは、たちまちにして「幻想交響曲」に神への道を嗅ぎとった。


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1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23413022.jpg
 残虐はイエス・キリストが体現した「神に生きるもの」の現実そのものだった。新約聖書を読めばいい。ユダヤ教の律法学者たちを否定し続け弾圧され、たえず差別と迫害に遭った。漁師たちを含む世間からは低く見られた階級の弟子たちだけがイエスのもとに集まり教えを聴いたが、ユダに裏切られた。
 そののちイエスは捕えられ、処刑されるための重い十字架を背負いゴルゴダの丘までの坂道を歩かされ、処刑場に着くと衣服を剥がれて十字架に固定するために両掌を杭で打ちつけられた。民衆は隣のバラバは助けろと叫び、イエスは槍で突き刺されて死んだ。これは愚かな人間が「神の子」を殺した事実であり、新約聖書に記されて忘れてはならない「人間の劇」として歴史の下層に沁みこんでいった。

 リストは1861年にはローマに移住し、1865年にようやく少年時代から切望した聖職者になった。ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由。ここから彼の「宗教音楽」はますます増えていく。1870年代になると調性感が薄らいでいく作品が書かれるようになる1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言した。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。
 そして晩年に書いた宗教音楽の最高傑作が『十字架の道』(Via Crucis)。主にローマで作曲、1879年のブダペスト滞在中に完成された。リストの存命中には演奏されず、作曲されてから半世紀たった1929年の聖金曜日にブダペストで初演された。楽譜はさらに遅れて、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された旧リスト全集の第5シリーズ第7巻に収録、1936年に出版された。

 『十字架の道』(Via Crucis)は混声合唱と、オルガンまたはハルモニウムまたはピアノのための作品で「十字架の道行きの14留」という副題がつけられている。イエスの受難が14の場面に分けて描かれていく。前奏曲:王の御旗。1留:イエスに死刑宣告。2留:イエス、十字架を背負う。3留:イエス、初めて倒れる。4留:イエス、聖母マリアに出会う。5留:キレネのシモン、十字架を背負うイエスを手伝う。6留:聖ヴェロニカ。7留:イエス、再び倒れる。8留:エルサレムの女たち、イエスのために涙を流す。9留:イエス、三たび倒れる。10留:イエス、衣を剥がれる。11留:イエス、十字架にはりつけられる。12留:イエス、十字架上で死す。13留:イエス、十字架から降ろされる。14留:イエス、墓に安置される。

 ここには一般に知られるリストとは、まったくちがうリストがいる。予備知識なしに、この型破りな音楽を聴いて作曲家がわかる人はまずいない。人を酔わせる甘い旋律もハンガリーの土俗の力強さも、かつて得意とした超絶技巧すら、かけらもない。グレゴリオ聖歌を思わせる音楽の佇まい。調性記号があってもなきがごとくに半音階的に動く音楽が奏でられる。リストは音楽においてカトリックもプロテスタントも受け入れた。イエスは「ひとり」なのだから、そうでなければならない。バッハの『マタイ受難曲』からルター作のコラールを歌わせる。全体を通しては調性感が稀薄であり、無調の響きが支配している。
 「無調」は信仰の誠実さをあらわす音楽の姿だった。信仰をあらわす表現が人間の真実の姿から神への祈りを伝えるものとすれば、それは幼い主要三和音だけでは嘘になる。自己の罪をも告白しても「許し」は神父によるものではなく、神によるものでなければならない。人間と神のへだたりを埋めるのは人間界の安定した調性ではない。調性が破壊された音のなかでしか歌えない。




# by ooi_piano | 2024-12-31 23:32 | コンサート情報 | Comments(0)

Blog | Hiroaki Ooi


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