人気ブログランキング |

c0050810_22283618.jpg
c0050810_22585339.jpg
大井浩明ピアノリサイタル
《盤涉(ばんしき)の調(しらべ)にのせて In Moll besingend》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分 ( GoogleMap https://bit.ly/2FdmuZP )
各回 3000円(全自由席)
【お問い合わせ】松山庵 banshiki2019@hotmail.com (要予約)
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)


─────────────────────────
【第1回】 2019年7月6日(土) 15時開演(14時45分開場)
c0050810_17273913.jpg
R.シューマン(1810-1856)  ピアノソナタ全3曲
   I. Un poco Adagio - Allegro vivace - II. Senza passione, ma espressivo - III. Scherzo e Intermezzo - IV. Allegro und poco maestoso
   I. So rasch wie möglich - II. Andantino. Getragen - III. Scherzo. Sehr rasch und markiert - IV. Passionato
   I. Allegro brillante - II. Scherzo Primo. Vivacissimo - III. <Promenade> Scherzo Secondo / Intermezzo. Molto commodo - IV. Quasi variazioni. Andantino de Clara Wieck(主題と6つの変奏) - V. Prestissimo possibile
  [使用エディション:新シューマン全集版(2012/2018)]


【第2回公演】2019年7月20日(土) 15時開演(14時45分開場)
c0050810_17482218.jpg
●A.スクリャービン(1872-1915):
   I. Andante - II. Presto
   I. Drammatico - II. Allegretto - III. Andante - IV. Presto con fuoco /Maestoso

●T.ミュライユ(1947- ):《水に映える礫(つぶて)》(2018、日本初演)

   I. Andante - II. Prestissimo volando

(休憩15分)

●A.スクリャービン ピアノソナタ第5番 Op.57 (1907)
  [以上、使用エディション:Bärenreiter新訂版(2013)]

●S.ラフマニノフ(1873-1943):
  I.Allegro agitato - II. Non allegro /Lento - III. Allegro molto
c0050810_22540697.jpg
Ich weiß ―― ロベルト・シューマンはクララに歌った   山村雅治

c0050810_17570146.jpg
 ロベルト・シューマン(1810-1856)は18歳になる1828年、9歳の少女クララ・ヴィーク(1819-1896)のピアノ演奏を聴いて衝撃を受けた。フンメルの三重奏曲のピアノパートを見事に弾いた彼女は、名高いピアノ教師フリートリヒ・ヴィークの娘だった。
 このときシューマンは故郷のツヴィカウから出てきてライプツィヒ大学法科に入学したばかりで、しかも音楽家としては出遅れていた。同年からヴィークに師事して2年がたち、1930年。その年にはすでにショパンはピアニストとして作曲家として新しい星として仰がれていた。一歳年少のリストがパリの社交界の偶像になっていたとき、シューマンはようやくライプツィヒからハイデルベルクの大学生活に別れを告げて音楽に打ち込んだ。 

 音楽家として立つ決意を固めるためには大きな迂回が必要だった。子供のころからの音楽の天才児ではなかったロベルトは書籍商アウグスト・シューマンの息子であり、本に囲まれて成長した。文学には早熟だった。ギムナジウムへ進む前からギリシア語、ラテン語、フランス語を学びはじめ、入学後の10歳代前半には詩の創作を試みているほどだ。バイロン、シラー、ジャン・パウル、E.T.A.ホフマンなどを耽読した。
 『詩と音楽』は17歳のときの詩だ。ここにシューマンが終生にわたって追求したテーマが簡潔に語られていた。「詩の韻律の器をやさしく そよかぜの拍子がゆらすとき 音と音、ことばとことばが競い 音は感じ、詩句は息づき ついにやさしくひとつの調和に ふたつの芸術が誠実に愛に満ちて抱きあうのだ」。

c0050810_17582956.jpg
 1830年、作品1『アベッグ変奏曲』から1939年の作品28『3つのロマンス』にいたるまで、彼はピアノ独奏曲ばかりを書いていた。そして執筆活動に力を注いでいた。
 シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809 - 1849)を紹介する論文を投稿した。そして当時の音楽批評に不満を感じていた。1833年に準備を始めて翌1834年に刊行した音楽紙「音楽新報」の執筆者たちのなかにもフロレスタンとオイゼビウスがいる。彼の二人の分身だけではなくラロー楽長という名に変わったとされるヴィーク先生、キアリーナに変わったクララもそのなかにいる。
 シューマンは「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」と語っている。自分のなかに対照的な二人の人物がいる。シューマンにはジャン・パウルの小説からの影響が深く根を下ろしていたようだ。「対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだ」とも語っていた。

c0050810_17593294.jpg
 ピアノソナタ第1番 嬰ヘ短調 作品11の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。作品5『クララ・ヴィークの主題による即興曲』、作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』についで書かれた作品9『謝肉祭』にもフロレスタン、オイゼヴィウス、クララは登場した。しかしこの年1834年はシューマンにとってはヴィーク家に住み込みの弟子になったエルネスティーネ・フォン・フリッケンに首ったけになり婚約して婚約を解消した。それまでは兄と妹のような関係だったクララは成長し、翌1835年にシューマンは求愛した。1837年に互いに結婚の意志を確かめあう仲になった。その年に完成した作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』は重要な作品だ。ダヴィッド同盟はシューマンの空想と現実が織りまぜられた音楽の革命をめざす多様な人間の集団であり、この曲の主役はシューマン自身の二人の分身であるフロレスタンとオイゼヴィウスだ。フロレスタンは現実に生きて前へと進む勇者であり、オイゼヴィウスは深みへ沈み黙考する瞑想者。

 しかしながらロベルトとクララの結婚へ至るまでには大きな困難を乗り越えなければならなかった。クララの父、ヴィークが執拗に妨害したのだ。ロベルトとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移らせシューマンから遠ざけた。シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵言雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視のもとに置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会えば罵り、顔につばを吐きかけた。ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。
 ソナタ第1番第2楽章アリアには旧作の歌曲『アンナに寄す』があらわれる。ケルナーの詩には「ぼくはきみをおもう、かわいいひとよ」の一行がある。そして第3楽章と第4楽章には明らかに自分の意志をうたう「ファンダンゴ」が変転しながら繰りかえされている。

 クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。その後もすったもんだが繰りかえされて、やっとのことで1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下された。9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。

c0050810_18014980.jpg
 ロベルト・シューマンは少年時代には読書家だった。愛し、のめりこんだのはジャン・パウル、E.T.A.ホフマン、バイロンなど狂気をはらんだ作品を書いた作家や詩人であり、当時のノートには狂気への憧れを記した言葉もある。いまや、かつてあこがれた狂気が大波のように容赦なく襲いかかってくる。彼が驚くべき音楽家だったのは、こうした晩年にあっても作品の姿は支離滅裂ではなく、むしろ大きな構築力が必要な大作を書き続けたことだ。17歳の12月の日記には詩的な創作について「なにごとにも縛られず自由に動く資質を持つ人は、もっとすばらしく詩作していた。そこに理論がなかったからだ」と書いた彼は、まさに初期のピアノ曲に少年時に抱いた理想を実現させていた。
 1840年は「歌の年」。クララとの結婚を機にシューマンは歌曲を次々と書き、120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。それまで書いていたピアノ曲は姿を消した。「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」としたシューマンはこの年、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と宣言した。1840年3月から7月にかけて二つの『リーダークライス』(作品24と作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)を書きあげたことには驚嘆を禁じ得ない。
 歌曲はクララとの結婚の1840年「歌の年」以来、ほぼその後の生涯にわたってつくられた。音楽をつくりだす少年の時間には、すでに本を読み魅入られた言葉が全身に渦巻いていた。1839年までの『ピアノ・ソナタ』3曲を含む名作ぞろいのピアノ独奏曲には言葉を音に結びつけて時空に放った「詩」があった。「歌の年」から歌われた作品には、暗誦できるほどのおびただしい数の詩人の言葉があった。どれもシューマンの感性に合う精選された詩だった。

c0050810_18024632.jpg
 ピアノソナタ第3番 ヘ短調作品14は、「第1番」に先立ち1835年に完成されていた。ロベルトはしばしばクララが書いた旋律を自作のなかに引用した。すでに1833年の『クララ・ヴィークの<ロマンス>による即興曲集』に自作を作る重要な音楽の素材としてつかっていた。のちにも枚挙のいとまもないほどだが「ソナタ第3番」の第3楽章には隠れもなく「クララ・ヴィークのアンダンティーノによる変奏曲」と記されている。全体の構成については変転がある。1836年9月に出版された時のタイトルは『管弦楽のない協奏曲』(Concert sans orchestre)であって、1853年10月にスケルツォが挿入され、大幅な改訂が施された際に、『ピアノソナタ第3番』(原題は『大ソナタ』 Große Sonate - 『グランドソナタ』)になった。いずれにせよ「クララの主題による変奏曲」は中心にある楽章だ。単純な旋律にこめられた音楽は意外に深い。青春のときめきの初々しさを表すことができれば、葬送行進曲の響きがきこえたこともある。
 ピアノソナタ第2番 ト短調 作品22は、1833年に着手して1838年に完成し、翌1839年に出版された労作だ。「第1番」と同じく、快速な第1楽章―緩徐楽章―スケルツォ楽章―急速な終楽章。第2楽章は作品1『アベッグ変奏曲』(1829‐30)より前につくられた1828年の歌曲『秋に』(Im Herbste、ユスティヌス・ケルナー詞) が素材になっている。ここにもクララへの思いが語られていなかったはずがない。




アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

c0050810_17330477.jpg
  ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951) とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
  1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
  ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

c0050810_17344760.jpg
  スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。

  スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。

「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

c0050810_17363870.jpg
  もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年、森松晧子氏による訳が2014年に出ている)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。

  サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家であるある。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60」を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

c0050810_17374402.jpg
  一方でサバネーエフはピアニストとしてのスクリャービンがいかに卓越した演奏技術をもっていたかを絶賛している。とくにそのペダリングによる音色の変化は彼独自のもので、弾きだされた音の響きは即興性も含めて変幻していった。スクリャービンは、「ラフマーニノフの弾く音はマテリアーリヌィ、即物的・唯物的なものに過ぎず、打鍵のあとの音色の変化で人を酔わすところがない。そういうピアニストにとってペダルは単なる足の乗せ場でしかない。」と批判した。しかしスクリャービンはそれがペダリングという技術によるものではなく、自分から発せられるアストラル(「星幽」とも訳される一種のオカルト用語)が響きに作用するのだと思いこんでいたので、サバネーエフはそれ以上にマトモな話を展開できなかったという。(20世紀末には、オウム真理教が「アストラル音楽」なるものを考案している。)スクリャービンのピアノ演奏の音色の変化は絶妙であったが、音量は当時のラフマーニノフ他ロシア・ピアニズムの代表者たちに比べると小さく、鋼鉄の楽器をホール一杯に響かせるというものではなかった。彼の作風が大きく変化する時期の代表的な作品であるピアノ・ソナタ第5番 作品53(1907年)は、なぜか交響曲第3番と第4番「法悦の詩」のモスクワ初演演奏会で2作品の合間に作曲家によって披露されたのだが、あまりにデリケートな音量であったため、聴衆には印象が薄く、曲が終わったのか単に作曲家が舞台から姿を消したのかわからなかった、とサバネーエフは回想している。

  「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。
  「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

c0050810_17385374.png
  スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
  最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
  二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。

c0050810_17395750.jpg
  ところでヴャチェスラフ・モーロトフ(1890 – 1986)というソ連時代の政治家を覚えておられる方はいるだろうか。彼は本名をヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンといった。モーロトフというのはレーニンやスターリンと同じくペンネームであり、ロシア語の「モーロト(ハンマー)」からとっている。戦中から戦後にかけてスターリンの片腕、ソ連邦外務大臣として活躍した。作曲家のスクリャービンとの直接の血縁関係はないようだが、幼少時にはヴァイオリンを弾き、兄のひとりは作曲家(ニコライ・ノリンスキー、1886 – 1966)であった。スターリンの没後は共産党から除名されたが、1984年に名誉回復がされ、96歳の長寿を全うしている。





c0050810_17323434.jpg
(※)スクリャービン第5ソナタのエピグラフ(自作詩)

Я к жизни призываю вас, скрытые стремленья!
Вы, утонувшие в темных глубинах
Духа творящего, вы, боязливые
Жизни зародыши, вам дерзновенье приношу!

Je vous appelle à la vie, ô forces mystérieuses !
Noyées dans les obscures profondeurs
De l’esprit créateur, craintives
Ébauches de vie, à vous j’apporte l’audace !

吾は爾を生命(いのち)へと喚ぶ
噫、秘鑰の勁(ちから)よ!
造化の靈の朧朧たる深淵(ふかみ)に溺れし
怯懦なる生命の胚子、
爾に吾は驍悍を齎す! (安田毅・訳)






c0050810_22472576.jpg
【艷なる讌樂】
君の心は 奇らかの貴なる風景、
假面假裝の人の群 窈窕として行き通ひ、
竪琴をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪の衣裳の下に 仄仄と心悲しく、

誇りかの戀 意のままのありのすさびを
盤涉の調にのせて 口遊み 口遊めども、
人世の快樂に涵る風情なく
歌の聲 月の光に 入り亂れ、

悲しく美しき月魂の光 和みて、
樹樹に 小鳥の夢まどか、
噴上げの水 恍惚と咽び泣き、
大理石の像の央に 水の煙の姿たをやか。

# by ooi_piano | 2019-07-08 22:17 | POC2019 | Comments(0)

c0050810_04210571.jpg

c0050810_08333620.jpg
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2019年5月31日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)

【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838


●G.フォーレ:《幻想曲 ト長調 Op.111》(1919、アルフレッド・コルトーに献呈)  15分  
  I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Allegro moderato
●K.シマノフスキ:《交響曲第4番 Op.60 「協奏的交響曲」》 (1932、アルトゥール・ルービンシュタインに献呈) [グジェゴシュ・フィテルベルクによる2台ピアノ版] 25分
  I. Moderato - tempo commodo - II. Andante molto sostenuto - III. Allegro non troppo, ma agitato ed ansioso
  (休憩 10分)
  I. Allegro Moderato - II. Andante - III. Allegro

c0050810_04214803.jpg



浦壁信二/Shinji Urakabe(Pf.)
  1969 年生まれ。4 才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981 年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985 年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987 年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1 等賞を得て卒業、対位法で2 等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994 年オルレアン20 世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ'12 年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集Ⅰ」'14 年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集 II」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

大井浩明/Hiroaki Ooi(Pf.)
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSI CAVIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival (ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010 年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers( POC)」を開始、現在までに41 公演を数える。 公式ブログ http://ooipiano.exblog.jp/

c0050810_04221415.jpg




アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

c0050810_08345730.jpg
ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951)とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
  1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
  ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

c0050810_08373092.jpg
  スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。

  スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。

「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

  もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年/日本語訳、2014年)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。
   サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家である。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

  「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。ここではスクリャービンがイメージしていた音と色の説明は下記の図にとどめておく。

c0050810_08363525.jpg
  「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

c0050810_08385590.jpg
  スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
  最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
  二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。



――――――――――――――――――――
【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選  https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
 ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版) 花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
 一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
 西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
 篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
 湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
 南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)

■2018年5月25日 ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成 https://ooipiano.exblog.jp/29413702/
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
  I. - II. - III. - IV. - V.

■2018年11月30日 米英近現代作品コンピレーション https://ooipiano.exblog.jp/29850225/
G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)  18分
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)  25分
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)  25分
J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)  16分
N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)  4分
(アンコール)メシアン:《星の血の喜び》(1948)(米沢典剛による2台ピアノ版)





# by ooi_piano | 2019-05-28 17:33 | コンサート情報 | Comments(0)

Portraits of Composers [POC] 第41回公演
権代敦彦・自選ピアノ代表作集
大井浩明(ピアノ)

2019年2月23日(土)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


○R.シュトラウス(1864-1949)/川島素晴編:歌劇「サロメ」より《七つのヴェールの踊り》(1905/2019、委嘱初演) 10分
●権代敦彦(1965- ):《十字架の道/光への道 op.48》(1999) 15分
□川島素晴(1972- ):《複数弦によるホケット》(2019、委嘱初演) 3分
●権代敦彦:《青の刻 op.97》(2005) 13分
□川島素晴:《手移り》(2019、委嘱初演) 4分
●権代敦彦:《耀く灰 op.111》(2008) 13分

 (休憩15分)

□川島素晴:《ジャンプ》(2019、委嘱初演) 2分
●権代敦彦:《無常の鐘 op.121》(2009) 7分
□川島素晴:《ポリル》(2019、委嘱初演) 3分
●権代敦彦:《カイロス―その時 op.128》(2011) 11分
□川島素晴:《マルシュ・リュネール》(2019、委嘱初演) 4分
●権代敦彦:《時の暗礁 op.146》(2015) 13分



権代敦彦 Atsuhiko Gondai, composer
c0050810_10593815.jpg
  1965年9月6日東京都生まれ。少年期にメシアンとバッハの音楽の強い影響のもとに作曲を始める。また、この頃欧米のキリスト教文化に触れ、高校卒業後にカトリックの洗礼を受ける。桐朋学園大学音楽学部作曲科を経て、90年同大学研究科修了後、DAAD奨学生として、フライブルク音楽大学現代音楽研究所に留学。91年よりIRCAMでコンピュータ音楽を研究。94年よりイタリア・カステロ市の芸術奨学金を得て同地にて研修。作曲を末吉保雄、K.フーバー、S.シャリーノに、コンピュータ音楽をP.マヌリに、オルガンをZ.サットマリーに師事。95年~99年渋谷ジァン・ジァンにおいて原田敬子と「東京20世紀末音楽集団演奏シリーズ/→2001」を、97年~99年横浜県立音楽堂において「権代敦彦シリーズ・21世紀への音楽」を制作。カトリック教会のオルガニスト、桐朋学園大学作曲科非常勤講師(95年~)もつとめている。日本音楽コンクール作曲部門第1位(1987)、V.ブッキ国際作曲コンクール第1位(1991)、セロツキ記念国際作曲家コンペティション第2位(1992)、バーロウ基金作曲賞(1993)、芥川作曲賞(1996)、出光音楽賞(1996)、中島健蔵音楽賞(1999)、芸術選奨文部科学大臣新人賞(2002)、尾高賞(2016)等。近作に、大教大附池田小無差別殺傷事件を鎮魂するメゾソプラノと管弦楽のための《子守歌》(2005)、東日本大震災を追悼する5奏者のための《クロノス ―時の裂け目―》(2011)/ピアノのための《カイロス―その時》(2011)/ピアノのための《指の呪文 Op.135》(2013)/児童合唱とオルガンのための《iki・iki》(2017)、セウォル号沈没事故を追悼するヴィブラフォン協奏曲《セウォル~海から》(2018)等。




川島素晴 Motoharu Kawashima, composer
c0050810_11011615.jpg
  1972年東京生れ。東京芸術大学および同大学院修了。1992年秋吉台国際作曲賞、1996年ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞、1997年芥川作曲賞、2009年中島健蔵音楽賞、2017年一柳慧コンテンポラリー賞等を受賞。1999年ハノーファービエンナーレ、2006年ニューヨーク「Music From Japan」等、作品は国内外で演奏されている。1994年以来「そもそも音楽とは『音』の連接である前に『演奏行為』の連接である」との観点から「演じる音楽(Action Music)」を基本コンセプトとして作曲活動を展開。自作の演奏を中心に、指揮やパフォーマンス等の演奏活動も行う。いずみシンフォニエッタ大阪プログラムアドバイザー等、現代音楽の企画・解説に数多く携わり、2016年9月にはテレビ朝日「タモリ倶楽部」の現代音楽特集にて解説者として登壇、タモリとシュネーベル作品で共演した。また執筆活動も多く、自作論、現代音楽、新ウィーン楽派、トリスタン和音等、多岐にわたる論考のほか、曲目解説、コラム、エッセイ等も多数発表している。日本作曲家協議会副会長。国立音楽大学准教授、東京音楽大学および尚美学園大学講師。






「アカデミズム」の終焉――川島素晴

c0050810_15410343.jpg
 日本の作曲界に於いて「アカデミズム」という語を字義通り解釈するなら、大学での教育(その大半は師匠が弟子に継承していくものとしてある)を通じて形成される音楽書法の伝統、といった意味合いになるだろうか。少なくとも、1980年代末に大学受験を控えていた頃の私にとってはそのような認識であり、入学前から「いかにして自分自身の表現、全く新しい音楽様式を形成するか」という理想を追い求めていた私としては、それは鬱陶しく、忌み嫌うべき対象だった。そしてその想いは、1991年に実際に東京藝術大学に入ってみてもさほど変わらなかった。
 当時の東京藝術大学作曲科は3つの講座に分かれていて、入学後のカリキュラムも微妙に異なっていた。主としてフランス仕込みの先生方(あるいはそういった先生の直弟子筋)が担当していた第1講座では、入学してからも和声、対位法、フーガ等の勉強を継続し、それらの試験も課せられていた。受験勉強で強いられるエクリチュールの修練に必要悪以上の意味を見出していなかった自分としては、そういう学習を乗り越えてせっかく大学に入ったにも関わらず、そのようなエクリチュールの学習から逃れられない第1講座になど死んでも入るものか、と心に決めて入学した。その点、第2講座、第3講座にはどちらもそのような習慣は無かったが、松村禎三等が所属していた第3講座では、古式ゆかしい日本の現代音楽が放つ抹香臭さを浴び続け、それを是と思い込むための洗脳を受けねばならないことに辟易することは明白で、もちろん敬遠させて頂いた。
c0050810_15425259.jpg
 かくして、外野からは、最も自由度が高く、在学生や卒業生も先進的な人物を多数輩出しているように見えた(実際には佐藤眞らによる放任主義の賜物なわけだが…)第2講座を希望した。(というよりは、担当教員の希望欄には講座名ではなく教員名を書くので、実のところ近藤譲、松下功という名前を記しただけである。)その結果、入学当初は松下功に師事することとなる。その後、途中で(当時は非常勤だった松下功が担当できる学生数に限りがあったため)近藤譲に移ることとなるのだが、そういった経緯の中、第2講座のはずが、教員ごと第3講座に飛ばされたり、また戻ったりということがあった。松下功、近藤譲はともに南弘明の弟子筋である。電子音楽を主たる領域として活動していた南弘明にしてみれば、そもそも第2も第3もない。そしてもちろん、松下功や近藤譲のような人だって、そういったカテゴライズの外側にいたわけだ。ようは大学の数合わせの都合で時折第3講座の一員となったわけだが、その頃には最早(というよりは当初から)、講座の概念などどうでもいいと思うに至っていた。むしろ、そうやって流浪の民として講座を横断するくらいが健全である。そういえば、第3講座で義務付けられていた定期的な試演会に参加して《孤島のヴァイオリン》という、ヴァイオリンを孤島に漂着したオブジェと見立て打楽器として演奏する作品の自作自演を行ったことがあったが、試演会の後にはお歴々勢揃いの批評会というのがあって、そこで松村禎三と議論したことも、今となっては良い思い出である。
 その後、衰退の一途を辿った第3講座に、従来なら第1講座の先生であるはずの人物が入り込む。つまり第3講座は、事実上の吸収合併が進むのである。そして遂には、全ての教員がフランス仕込み、即ちかつての第1講座系の教員になってしまった。その、まるでどこぞの国の政界再編のような顛末は卒業後のことなので、私としては他人事ではあったが、しかし、東京藝大作曲科が「アカデミズム」を脱するどころか、最もアカデミックな系統の牙城として長らく定着している現状を全く憂えないと言えば嘘になる。もちろん、私が学生時代だった1990年代とは「アカデミズム」の範囲は著しく異なっている。かつてのようにエクリチュール修練の延長で20世紀前半の書法までがキャパシティだった時代からは格段の進歩である。野平一郎をはじめとする最先端のフランス音楽を識る人物が、ヨーロッパ前衛の書法を余すことなく施すようになってはいるのだろう。しかしその一本道のみを是とする画一的な教育システムには、空恐ろしい想いを禁じざるを得ない。かつては同じ作曲科学生にも様々な個性が集った。今は、そういう機能を音楽環境創造科等の新しい学科が担っているともいえるが、作曲を専門に学ぶ意識で集う学生に向けた環境やカリキュラムにも、多様性は不可欠なのではあるまいか。

c0050810_15442666.jpg
 …等とのたまう私自身も、いつの間にやら教員の側に立ち、「アカデミズム」の端くれを担うようになってしまった。私が現在所属している国立音楽大学は、昔は長らく「全員が」入学後2年間、エクリチュール「しか」勉強しないカリキュラムになっていた。福士則夫が主任となって以後、その悪しき伝統は改善され、現在では全学年で作曲作品の提出とその実演審査が実行されている。オリジナル作品を次々書かせる方向は、その後を継承した私が更にドラスティックに改革し、現在のカリキュラムは、とにかく書いて音にするということを徹底するものになった。それも、様々なジャンル、編成を4年間で一通り経験できるようになっている。実験音楽を含む現代音楽の様々な側面を学ぶのみならず演奏実践も経験する。毎年たくさんの講師を招いて最先端の創作、演奏実践を学べる。一方で映画音楽方面、エクリチュール方面の各スペシャリストを志向する向きにも手厚いカリキュラムが組まれ、多様な指向性にも対応している。そう、これぞ作曲科のあるべき姿!というべき理想像を体現しつつあるのだ。

 …と、ここまで書いて気付く。これぞまさしく「アカデミズム」じゃないか。

 ここで、POCシリーズ第39回公演「日本アカデミズムの帰趨」に寄せられた野々村禎彦が寄稿した『POC流・日本「アカデミズム」小史』の一部を振り返ろう。

アカデミズムの対象は徐々に広がってゆくもので、(中略)前衛志向が強いと見做されてきた八村義夫(1938-85)、甲斐説宗(1938-78)、川島素晴(1972-)らも、そろそろアカデミズムに分類されても良い時期かもしれない。(中略)教職に就くことが作曲家には普通になっており、それだけではアカデミズムの要件にはならない。自らの作風ないし美学を受け継いだ弟子が楽壇で評価されるサイクルの当事者のみが、アカデミズムと呼ぶにふさわしい。(中略)川島は「演じる音楽」のコンセプトを真摯に受け止めて、極端なコンセプトの重要性を理解する弟子を育てつつあることで、アカデミズムの要件を満たす。

c0050810_15452238.jpg
 どうやら私は、自分自身が忌み嫌っていた「アカデミズム」の中の人に成り下がってしまったわけだ。例えば、野々村の指摘する「極端なコンセプトの重要性」というのも、それを創作上の必須要件などと諭しているようでは「旧世代のアカデミスト」なのかもしれないから気をつけねば…。
 このように、中の人になってみて痛感するのは、より良くしようともがけばもがくほど、強固なアカデミズムが構築されてしまうということである。それが完璧であればあるほど、危険でもある。ここで強調しておきたいことは、私は、学生各人の示す多様な方向性を、その方向を延ばすことにのみ専心するのであり、画一的な美学や教育システムを押し付けることだけはしないようにしているつもりである。そのような教育姿勢は、アカデミーに於けるカリキュラムの充実とは異なる地平の問題である。野々村の指摘は、野々村の目に映じる人物のみがたまたまそう見えているだけなのではないかと思う。クセナキスにとってのメシアンが、「アカデミズム」の軸を通して連なる存在ではないのと同様、私は私の「アカデミズム」を継承させたいと考えたことは無い。(例えば、私と同じ考えに基づく「演じる音楽」を実践したがる学生がいれば、それはむしろ止めに入るであろう。)

c0050810_15464247.jpg
 話は変わるが、ここ最近の教員経験で気付かされたことがある。アメリカからの留学生やタイからの留学生を担当していると、伝統的な音感からみたら特殊と思える音感を共有している現象が見られるのである。そしてそれは、比較的エクリチュールの修練の浅い(あるいはそれと実作とを完全に切り離すタイプの)日本人学生にも共通していることがある。
 例えば、フレーズの終止部分にやたらと完全4度が置かれる、といった、いわゆる伝統的な和声教育を受けると生理的レヴェルで忌避するように刷り込まれた運びを、全く厭わない音感である。そこで気付いたのは、古いゲーム機を通じて経験されるゲーム音楽の特性への親和性である。12平均律によるシンプルな電子音で、少ない声部数でできた音楽では、長3度を奏でると第5倍音との微妙な音程の差に由来する「うなり」が生じてしまうため、生理的にそういった音程を終止に置きたがらない傾向がある。楽音によって生じるうなりは心地良い範囲なのだが、電子音同士によるうなりは耳障りが悪い。一方、完全5度は調和し過ぎてしまい、声部の隠蔽が著しい。すると必然的に、終止部分には完全4度を選ぶことが多くなる。伝統的な音楽教育を受けた「アカデミック」な者であれば、どうしてもその先入観から、そのような終止は避けようとする。しかし、音楽教育と無縁な者でも参入できたゲーム音楽の世界では、自らの聴感覚に従って選んだ自由な音運びが行われ、伝統的な耳では忌避したくなる音程の運びが自然に行われるようになる。そのようなゲームが世界的にヒットすれば、それは世界中の若者の耳に感覚的に定着する。ゲーム機の再生音源が進化し、オーケストラサウンド等が自在に再生されるようになった現在でも、その感覚だけは継承され、その方向で発展していった部分もある。そのような方向で形成された音感覚を持ってしまった人口は、クラシック音楽の聴取経験によって育まれる音感覚がベースである人口の比ではないであろう。そしてそのような新しく定着してしまった音感覚を、我々はどういう権限で否定でき得るであろうか。
c0050810_15480633.jpg
 このような傾向を見るだに、作曲媒体が異なることによって生じた、新しい音楽理論体系が世界レヴェルで生じてしまったことを認めざるを得ない。圧倒的な数の力の前には、伝統教育は屈するしかないし、そもそも、その音響特性を鑑みるなら、ゲーム音楽としては、そのような音感こそを是と言うべきである。
 今、欧米やアジア諸国の多くの音楽大学では、日本の作曲学生が学ぶような伝統的な和声教育を課していない。であるから、先に示した留学生たちの音感覚は、クラシック音楽の伝統によって育まれたそれではない、全く別の感性の延長にあり、そしてそれが伝統教育によって矯正されることなく自然に育まれたものなのであろう。である以上、それを矯正してまでして、ガラパゴス化した日本的和声教育を施す意味など皆無である。それどころか、今我々は、このような世界の現実を直視し、各世代、個人が経験したそれぞれの世界に偏在する音から導かれる感覚を前提とした、それぞれなりの音楽理論体系を導くことをこそ求められている。国籍すらボーダーレスな時代、各人の生きた環境、ライフスタイル等により、それは全く異なっていくであろう。画一的なメソッド(=アカデミズム)など、存在し得る道理が無いのである。
 つまるところ、私が今、「アカデミズム」の中の人として言い得ることは、こうである。
 画一的「アカデミズム」の終焉こそ、アカデミーが導くべき至上命題なのである。

c0050810_15475244.jpg




# by ooi_piano | 2019-01-28 10:52 | POC2018 | Comments(0)