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(※)公演は予定通り開催致します

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大井浩明(ピアノ独奏)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ(essai-Ïo) poc2019@yahoo.co.jp


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【ポック(POC)#42】 「戦後前衛音楽の濫觴」 2019年10月14日(月・祝)17時開演 松涛サロン(渋谷区)

●R.シュトラウス(1864-1949):皇紀2600年奉祝音楽(1940/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演) 14分
  海景 - 櫻花祭 - 噴火山 - もののふ蹶起 - おほきみは神にしませば
成田為三(1893-1945):「君が代」変奏曲(1942)  15分
  主題 Largo - 変奏1 - 変奏2 Poco più mosso - 変奏3 Animato - 変奏4 Andante - 変奏5 Allegro moderato ma non troppo - 変奏6 Tempo di Thema - 変奏7 Più mosso - 変奏8 Allegretto agitato - 変奏9 Scherzando - 変奏10 Lento ad libitum - 変奏11 Con moto - 変奏12 Con forza - 終結部 Allegro con fuoco
M.グルリット(1890-1972):信時潔海ゆかば」による変奏曲(1944、全曲による世界初演)  30分
  主題 - I.導入 - II.前奏曲 - III.夜想曲1 - IV.幻想曲1 - V.夜想曲2 - VI.急迫曲1 - VII.綺想曲 - VIII.挽歌1 - IX.譚詩1 - X.幻想曲2 - XI.夜想曲3 - XII.譚詩2 - XIII.間奏曲 - XIV.急迫曲2 - XV.挽歌2 - XVI.急迫曲3 - XVII.葬送行進曲 - XVIII.牧歌 - XIX.闘諍 - XX.終曲

(休憩)

黛敏郎(1929-1997):オール・デウーヴル(オードブル)(1947)  8分
  I. 導入部とブギウギ - II. ルンバ/フォックストロット
松平頼則(1907-2001):盤渉調音取(1988) + 盤渉調越天楽による主題と変奏(1951/1983)  20分
  主題 - 変奏I Andante - 変奏II Allegro - 変奏III Allegro(ルンバ) - 変奏IV Lento - 変奏V(ブギウギ) - 変奏VI(トッカータ・メカニコ) - 終結部 Lento
しばてつ(1959- ) :「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019、委嘱改訂初演) 10分
  主題(君が代逆行形) - 変奏1(順行と逆行) - 変奏2(逆行カノン) - 変奏3(和声1) - 変奏4(和声2) - 変奏5(和声3) - 変奏6(ジャズ/2声のインヴェンション) - 変奏7(和声4/エッケルト) - 変奏8(拡大縮小音価) - 終曲
  
(休憩)

●李聖賢(1995- ):君が代-遺聞(ユムン)(2019、委嘱初演) 7分
諸井誠(1930-2013):α(小ソナタ)とβ(主題と12の変奏)(1954)、ピアノ曲(1956) 14分
入野義朗(1921-1980):三つのピアノ曲(1958) 8分
  I. トッカータ - II. コラール - III. スケルツォ
松下眞一(1922-1990):ピアノのための三楽章〈可測な時間と位相的時間 Temps mesurable et temps topologique〉(1957/60) 10分
  I. - IIa. - IIb. - III


c0050810_00421798.jpg  2010年9月に松下眞一歿後20周年追悼公演で開始されたPOC (Portraits of Composers)のシリーズは、既に40プログラムを超えました。10月公演では、今まで取り上げてこなかった、戦中・戦後のミッシング・リンクにあたる作品群を特集致します。
  第一部で演奏する戦中(1940年~44年)に書かれた3作品は、まごうことなき正調ドイツ音楽です。没後70周年のリヒャルト・シュトラウス《皇紀2600年奉祝音楽》(1940/2019、米沢典剛による独奏版)は、現在の相場で1000万円を超える日本政府からの高額の委嘱料に見合った、まさに垂訓的お手本の如き和声と対位法の贅を尽くした豪華絢爛な音絵巻ですが、戦後は「皇紀」というネーミングに無頓着な来日外国人指揮者が取り上げるのが関の山で、演奏頻度としては同じ日本ネタのメシアン《七つの俳諧》さえ下回っています。(一方、21世紀になっても邦人オケ作品で「リヒャルト・シュトラウスが後ろを通り過ぎる」(柴田南雄)のは相変わらずです。)

c0050810_00441255.jpg  若書きの歌曲《浜辺の歌》(1916)や《かなりや》(1918)で広く知られる成田為三(1893-1945)は、1922年~26年のベルリン留学時はロベルト・カーンに作曲理論を師事しており、スカルコッタス・ライトナー・ケンプ・ルービンシュタインの同門にあたります。日本人作曲家による変奏曲の最高峰と言うべき《君が代変奏曲》(1942)は、師・山田耕筰の《御大典奉祝前奏曲―君が代を主題とせる》(1915、大正天皇即位礼のための)の綿密な動機労作を意識しながらも、ブラームスからレーガー、新ウィーン派に継がれた重厚な変奏技法が真摯かつ入念に展開される力作です。
  そもそも、19世紀中欧軍歌を模した様式の「国歌」がアジア・中南米を含め圧倒的多数を占める中にあって、アイルランド人楽隊長ウィリアム・フェントンの「君が代」初稿(1869)は即座に却下され、宮内庁雅楽部の林廣守による「君が代」の旋法や構成は西洋音楽の変奏技法には不向きでもあり、プロイセン人楽隊長フランツ・エッケルトの和声付け(1880)も当時から違和感があったのか、山田耕筰・溝部国光・平井康三郎らは「君が代に最高のハーモニーを付ける」ことを何年かかけた課題として競ったそうです。
  国歌を自由に裁断してパラフレーズ化するのは「不敬」だから作品例が少ない・・・、というわけではなく、例えばイギリス国歌《女王陛下万歳(ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン)》などは、古来ベートーヴェン・クレメンティ・ハイドン・クリスチャンバッハ・フンメル・パガニーニ・リスト・タールベルクから、ドビュッシー・レーガー・アイヴズを経てビートルズ・ジミヘン・ピストルズ・クイーンに至る、多彩なヴァージョンが存在しています。プロイセン王フリードリヒ2世が(ベルリン近郊で)作曲した主題を、おかかえ楽士の父親が「反行」させたり半音階的に歪めたりしても(バッハ「音楽の捧げ物」)、大王自身が激怒するわけもありません。
  これらの「歴史」に則り、音楽素材としての君が代の扱いは、戦後よりもむしろ戦前戦中のほうが自由であり、前記の山田耕筰・成田為三作品はもとより、吉本光蔵《君が代行進曲》(1902)や(かもめの水兵さんの)河村光陽《君が代踊り》(1941)の奔放さに比べると、勤務先の高校卒業式で演奏して分限免職処分となった小弥信一郎《君が代ジャズ風》(1979)や、「むかしのわるいうた」として恐る恐る断片的に君が代を引用した林光:交響曲第2番《さまざまな歌》(1983)などは、全く腰が引けています。戦後でも国歌継ぎ接ぎコラージュの大作、シュトックハウゼン《ヒュムネン》(1967、君が代の引用あり)に各国から苦情が殺到した、などという話は聞いたことがありません。

c0050810_00451839.jpg  《海ゆかば》(1937)の作者、信時潔(1887-1965)はベルリン留学時(1920-22)に、リヒャルト・シュトラウスの盟友ゲオルク・シューマンに師事、同氏には箕作秋吉(1921-24)や諸井三郎(1932-34)も薫陶を受けています。ベルリン生まれのマンフレート・グルリット(1890-1972)は同地にてE.フンパーディンクに作曲を学び、1939年に日本に亡命、そのまま東京で後半生を過ごしました。グルリットにより日本初演が行われた多数の作品には、R.シュトラウス《ばらの騎士》(1957)や《サロメ》(1962)も含まれています。
  グルリット《海ゆかばによる20の変奏曲 Nobutoki-Variationen》は1944年5月に作曲、四管編成オーケストラ版が作曲者指揮東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)によって放送初演されています(1944年10月&1945年2月)。グルリット邸で作曲中の試演に接した信時潔の感想は、「グルリット氏は(…)、大衆、否、音楽者を含めて、聴者の理解気に入る入らぬを顧慮せず、オカマヒ無しに作れるらしきこと愉快なり」、というものでした。歌曲「海ゆかば」は2005年頃まで出版も演奏も忌避され続けていた事情もあり、今回演奏するピアノ独奏版は作曲から75年目にして初の全曲世界初演となります。

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c0050810_00465545.jpg  第二部では、黛敏郎《オール・デウーヴル》(1947)松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951)を、新旧2世代(18歳と44歳)の(戦後直後の新しい息吹の表象たる)ブギウギとルンバへのアプローチを共通項として対比させつつ、さらにフリージャズ演奏家しばてつ氏(生誕60周年)による君が代インプロヴィゼーション(平成/令和)へとつなげます。
  黛敏郎といえば、平成初期(1989年~90年頃)に京大西部講堂で黛作品を取り上げようとしたところ、管轄団体である「西部連絡協議会」から演奏禁止を言い渡されたことがありました。まさに「表現の不自由展」を地で行く、不当な検閲行為にほかなりません。当時、譜面提供などでご協力頂いていた黛氏にお伝えしたところ、「大変でしたね、無理しないで下さい」との暖かい御返信、御慰労を頂きました。今年で生誕90周年、没後22周年を迎えながら、カンタータ《なぜ憲法は改正されなければならないか》(1981)は、初演どころか譜面の所在さえ不明だそうで、令和の世でも余り状況は変わってないのかもしれません。
   松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/1983)は懐かしい作品です。盤渉調越天楽は笙で嗜んでいたこともあり、全音楽譜から公刊直後(1991年)に、西部講堂南隣の関西日仏学館ホールで鼻息荒く演奏した際は、中川真氏親子に引率されて故ホセ・マセダ、カール・ストーン各氏らが七福神のようにお見えになっていたのを思い出します。同じ雅楽由来のテーマでも、9年前の成田為三の変奏曲とは驚くべき隔絶があります。
  POCシリーズ第2回公演(2010年10月)で演奏した松平頼則:ピアノ組曲《美しい日本》 (1969)は、戦後日本ピアノ音楽を代表する傑作であり、全音のあらゆるピアノ楽譜の巻末にそのタイトルがクレジットされながら、なぜ「作曲以来41年ぶりの公開全曲初演」になったかと言えば、「ジャンルの違う幾つかの日本の伝統音楽が前衛風に加工されている」という、ピアノ奏者にとって二重の〈表現の不自由さ〉があり、また、川端康成のノーベル賞講演に由来する「美しい日本」という言葉が、後期武満の頽廃性を揶揄する際に使われるなど(浅田彰)、昭和末期には余り良いイメージでは無かったせいもあるかと思われます。(どうせ誰も作品そのものは知らない。)

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c0050810_00481669.jpg  第三部では、1950年代に日本で十二音技法を模索していた代表的な三人、諸井誠・入野義朗・松下眞一の巧緻な佳品を演奏します。松平頼則《盤渉調越天楽による主題と変奏》(1951/44歳)と諸井誠《αとβ》(1954/24歳)は、どちらも当時の国際現代音楽協会(ISCM)入選作の「変奏曲」でもあります。
  既にPOCの第1回~第41回公演では、ブーレーズケージシュトックハウゼンから実験工房に至る、1950年代に書かれた代表的なピアノ作品群は縷々取り上げて来ました。そこで思い返されるのは一柳慧氏の述懐、「1950年代は作曲のしにくい時代だった」です。確かに、1960年代に入って急激に開花した人、失速した人、さらに雌伏し続けた人などさまざまなケースがありました。作品そのもののクオリティと、現在「いかに忘れられているか」は直接関連はなく、〈調性がない〉〈ロマンチックな演奏効果がない〉〈遺族が根気よくプロモーションしない〉という程度で演奏頻度は決まるようです。

   1953年(26歳)時点のフランコ・ドナトーニは、「自分が変わらなければならない自覚はあった」が、「音列作法などまるで知らなかった」し、「ラジオで耳にしたシェーンベルグなど耳障りで切ってしまった」ほどで、この年に知り合ったマデルナの話は理解の範疇を超えており、翌1954年初めて参加したダルムシュタット夏季講習会では、クシェネックやレイボヴィッツのセミナーで12音作法を学び、「何ヶ月も家で4色の色鉛筆片手にシェーンベルグの作品31を分析」したそうです。最初期のピアノ曲、《四楽章の作品 Composizione in quattro movimenti》(1955年作曲/1957年ショット社刊)と《3つの即興 Tre improvvisazioni》(1957年作曲/1958年ショット社刊)について、晩年のドナトニ自身の回想では、前者は「ダラピッコラから借りた擬似ウェーベルン」であり、後者は「ブーレーズ第2ソナタの醜悪なコピー」と評されています。
  地続きの中央ヨーロッパでさえこの体たらくなので、講習会もチュートリアルもない戦後直後の日本で新たな潮流を試行するのは難儀だったことでしょう。諸井誠は1955年5月16日~1956年1月9日にかけて渡欧し、リンダウでのジュネースミュジカール・ドイツ支部総会と国際音楽教育教会(ISME)総会に日本代表として出席、(5月29日~6月6日開催のダルムシュタット講習会は不参加)、続けて《αとβ》が演奏されたISCM(バーデンバーデン)に参加(6月17日~21日開催、18日にハンス・ロスバウトによって《マルトーサンメートル》世界初演)、8月にバイロイト音楽祭へ行き、9月から三週間ほどシュトックハウゼンのいた北西ドイツ放送局の電子音楽スタジオに滞在、10月にドナウエッシンゲン音楽祭に出席、そして11月にはパリでブーレーズと面会したそうです。外遊の成果として帰国後に書かれたのが《ピアノ曲》(1956)ということになります。

  第三部では併せて、陳銀淑の秘蔵っ子であり国際的に注目を浴びる韓国人作曲家、李聖賢(イ・ソンヒョン)氏(24歳)による、フェントン初稿「君が代」(1869)を韓国伝統音楽の打令(タリョン)としてパラフレーズ化した新作も初演します。外国人作曲家による「日本ネタ」として、「日本には行ったことが無く伝聞情報だけで仕上げた豪奢な一品」(リヒャルト・シュトラウス)、「かねてよりオペラの題材にしていた遠い異国に実際に亡命して、当地で最もポピュラーな歌曲を主題に大管弦楽用に完成した長大な変奏曲のピアノ版」(マンフレート・グルリット)、「軍楽長として来日したアイルランド人が急遽あり合わせで作った暫定的国歌初案を、そのジャスト150年後に韓国人が韓国伝統音楽風にギタギタにした新作」(李聖賢)の三種三様をお楽しみ頂きます。
  「ルツィファー発言」後のシュトックハウゼンさながら、なぜ松下眞一氏が没後20年間追悼演奏会がなかったか等の「表現の不自由」状況を含めて、白石知雄氏・野々村禎彦氏他の論考(リンク)が、下記(この投稿末尾)にて御覧頂けます。



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しばてつ(1959- ) :「君が代」逆行形による変奏曲(2007/2019、委嘱改訂初演)
  日本の法律に五線紙が記されているのは、国旗国歌法だけだろう。テンポもコードネームもないが、歌詞は明記されている。作曲者名は林廣守で和声をつけたエッケルトの名はない。この11小節の曲は、遥か昔、子供の頃から実効国歌で、最後が突然ユニゾンになるのが変と思ってた。更に昔、私が生まれる14年前以前の大日本帝国憲法下でも国歌として実効していた。かなり長い期間、多くの様々な人々が歌い聴いた有名曲である。12年ほど前、特に志なしに、エッケルト和声もろとも逆行で弾いてみるとなかなか良いので、変奏曲を書いた。それを今回、大井浩明の委嘱で1.5倍ほどに増補加筆した。(しばてつ)


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しばてつ Shiba Tetsu, composer
  ピアノ/ピアニカ奏者、作曲家、即興家。1984年よりスティーブ・レイシーのソプラノサックスsoloに感銘し、ピアニカsoloの即興を始める。書かれた作曲作品として、ピアニカ5重奏「5chサラウンドサウンド ハイドン変奏曲」、「リトルネロ練馬」、オンド・マルトノとピアニカのための「電波梅」、ピアノ曲「フリードリッヒ・タンゴ・バッハ」、jazz曲「ビネール」「土木」などなど。2016年ピアニカ生音soloのCD「Plastic Pneuma」をFtarriよりリリース。2019年還暦達成。



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李聖賢:君が代遺聞(ユムン)(2019、委嘱新作初演)
  アイルランド人楽隊長ジョン・フェントン(1831-1890)による「君が代」の暫定的な初稿(1869)に接した際、その厳粛なコラールは同時に哀調も感じさせ、祖国の擾乱の世に忘却された魂に思いを馳せた。フェントンの素材に準拠しつつ、伝統音楽の打令(タリョン)調の朗詠され繰り返される身振りによって、より内省的なピアノ作品へと昇華させた。終わり近くでシューベルト《影法師 D957》(1828)、グレゴリオ聖歌《怒りの日》、尹龍河(1922-1965)光復節歌》(1949)が引用される。(李聖賢)


c0050810_08062798.jpg李聖賢(イ・ソンヒョン) Sunghyun Lee, composer
  1995年ソウル生まれ。2009年~2017年、ソウル市響「アルス・ノヴァ」講習会にて陳銀淑(チン・ウンスク)に師事。ソウル大学音楽学部で崔宇晸(チェ・ウジョン)に師事。ジュネーヴ国際コンクール第3位(3つの特別賞、2015)、音楽ジャーナルコンクール第1位(主催/音楽ジャーナル社)、韓国音楽協会コンクール第2位(1位なし)(主催/韓国音楽協会)、中央音楽コンクール第1位(主催/中央日報)、2016年韓国音楽賞新人賞(主催/韓国音楽協会)。作品は、フリクション四重奏団(サンフランシスコ、2013)、ヴォーチェ四重奏団(パリ、2015)、シャルフェルト・アンサンブル(グラーツ、2017)、ミザン・アンサンブル(ニューヨーク、2018)等によって演奏されている。


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●M.グルリット(1890-1972):信時潔「海ゆかば」による変奏曲
c0050810_15550835.jpg  マンフレート・グルリット(1890-1972)はベルリン生まれの作曲家・指揮者。ピアノ初学者向けの小品で名高いコルネリウス・グルリットは大叔父にあたる。同地にてE.フンパーディンクに作曲を学ぶ。1914年、ブレーメン歌劇場首席指揮者に就任。1920年、平家物語「祗王」に基づく最初の歌劇《聖女》初演。1924年同歌劇場総監督(27年まで)。1926年歌劇《ヴォツェック》初演(ベルクの同名作の4ヵ月後)。同《兵士たち》(1930)、《ナナ》(1932)等創作活動に邁進しながら、ナチスとの軋轢を経て1939年に日本に亡命。東京フィル初代常任指揮者(1940-1945)他を歴任。グルリットにより日本初演が行われた作品は、R.シュトラウス《ばらの騎士》(1957)、同《サロメ》(1962)、モーツァルト《魔笛》(1953)、同《後宮からの誘拐》(1956)、マスネ《ウェルテル》(1955)、ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(1960)、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》(1949)等、多数に及ぶ。ドイツ連邦共和国功労勲章(1958)、ザルツブルク国際モーツァルト協会賞(1959)、勲四等旭日章(1959)他受章。
c0050810_15552858.jpg  信時潔(1887-1965)作曲の国民唱歌《海ゆかば》(1937)による20の変奏曲は、1944年5月に作曲され、四管編成管弦楽版がグルリット指揮東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)によって放送初演された(1944年10月22日/第一部、1945年2月5日/第二部・第三部)。作品名は「Nobutoki-Variationen」から後に「20 Orchesterstücke」へと改名された。そのピアノ独奏版は、今回の演奏が作曲から75年目にして初の全曲世界初演となる。グルリットによる作曲中の試演を聴いた信時潔の感想は、「Gur[litt]氏は別段東洋的たるを企図せず、欧州人的に作れる由なり、大衆 否音楽者を含めて聴者の理解気に入る入らぬを顧慮せずオカマヒ無しに作れるらしきこと愉快なり」。



●松平頼則:盤渉調音取(1988) + 盤渉調越天楽による主題と変奏(1951/1983)
c0050810_07320609.jpg  盤渉調音取は雅楽の演奏会で、その日に演奏される6調子の中の或調子―例えば盤渉調の曲ばかり演奏する場合、昔は各楽器に調べのために短い断片を演奏していたのが、次第に或る一定の短い形式となって(各調はそれぞれ、その形は異なる)所属調の雰囲気を喚起するような役目をになっている。
  このピアノのための盤渉調音取は雅楽の原曲を殆どそのままピアノに移したもので最後の所だけ箏の連(れん)という奏法を採り入れてある。
  盤渉調「越天楽」の原曲はピアノと管弦楽のための作品で1951年作曲、1952年ザルツブルクのS.I.M.Cの音楽祭で初演、同年カラヤンの指揮によりウィーンで再演、1953年カラヤンの初来日の際、同氏指揮N響定期で東京初演、その後山田一雄指揮、高良芳枝のピアノで十回東京で演奏されている。外国では初演及び再演の後イボンヌ・ロリオがドイツその他で数回演奏、ローマのピアニストがローマでも演奏している。
  1981年佐々木弥栄子さんからの委嘱でピアノ・ソロに編曲、翌年彼女のリサイタルで初演、彼女はその後私の新古典派時代の作品展と彼女との共同企画によるピアノ曲作品による個展で演奏している。猶ほ第6変奏曲には彼女の編曲した部分がある。
  曲は主題と6つの変奏曲そして主題の再現となっている。〔主題:A + A' + B + A + A' + coda〕
  変奏曲 Ⅰ: 華麗な装飾楽句のちりばめられたピアニスティックな曲。
  変奏曲 Ⅱ: 低音部と中音部と高音部がそれぞれ異る調性(又は旋法)によって対立、中間部の笙の和音(合竹)のアルペヂオの中に主題の影が散見する。
  変奏曲 Ⅲ: 私が初めて試みた12音技法にもとずいている。
  変奏曲 Ⅳ: 「無言歌」という副題をもつ最も旋律的で静謐な曲。
  変奏曲 Ⅴ: 当時巷に溢れていたブギ・ウギ(ジャズの一種)のリズムによっている。
  変奏曲 Ⅵ: 左右の腕の交錯する肉体的運動によるトッカータ・メカニコ、その中間部は演奏者自身の発想による6連音符によって飾られている。
  Coda : 変奏曲Ⅵのクライマックスが過ぎると直ちに主題の再現となり、“連(れん)”という箏の奏法を模し乍ら静かに終る。(1991年1月10日 松平頼則)



●黛敏郎:〈Hors-d'œuvre オール・デウーヴル〉(1947)
c0050810_07324584.jpg  1947年、東京音楽学校在学中の作品である。当時、私は、ジャズに非常な興味を持ち、学校には内緒で、ジャズ・バンドのピアノを弾いていた。そのジャズ・バンドが現在“ブルー・コーツ”と云つているバンドの前身であつたが……。
  この作品は、そうしたジャズの溌剌たる躍動感、生命力に溢れたヴァイタリティを、純音楽的に表現しようと試みたものである。
  第1楽章は、短いイントロダクションとブーギー・ウーギー――これはニグロのラグ・タイムに源を発する1940年代にアメリカで流行したジャズのリズムで、低音部の8分音符の動きが特徴である。『東京ブギ・ウギ』という歌謡曲が一世を風靡したのは、私のこの作品が書かれてから約1年後のことだつた。
  第2楽章はルンバ。この曲は後に、オーケストレーションされ、“シンフォニック・ムード”として発表された。
  なお、この作品は、作曲者の自演によって東京音楽学校の演奏会で初演されたほか、公開されていない。(1957年5月 黛敏郎)
  〔音楽之友社編集註 “オール・デウーヴル”は、今日では日本語化されてしまつて、“オードブル”などと云われている。これは料理の“前菜”のことである。(1957年)〕


●松下眞一:可測な時間と位相的時間(1957/60)
c0050810_07322207.jpg  この曲は、1957年夏に初稿が、そして1959年春に改訂が出来上がったが、作曲者の意志によって1960年にふたたび手が加えられ、それが現在の形になった。そして
  国内初演 1959年3月31日(大阪) 演奏者; 横井和子
  国外初演 1965年10月11日(ベルリン) 演奏者; ヘルムート・ロロフ
  初演者の横井さんは何度かこの曲を演奏および放送されており、したがって曲の終りには「ヨコイ」の文字が音符でもって表され(ベルクの“音名象徴”とも言うべきであろうか)、曲自身も彼女も献呈されている。と言っても、ほかの誰がひいても勿論構わないわけで、その際は、そんな“音形象徴”など見逃してひいていただいても音楽的には少しも差しつかえないのである。
  ラジカルな生命感が強調されている部分(すなわち可測な部分)と、在来のビートの観念に支配されない部分(位相的な部分)とから成っていて、この曲での作曲者の主要課題は、ピアノと言う楽器を通しての“音楽時間”の問題への挑戦であった。(松下眞一)



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大政翼賛と万博の間 - 戦後作曲家の同人会とは何だったのか?―――白石知雄

「日本の作曲家たちが得たのは、好きなように作品を書き、それを好きな時に自分たちの資金と手間で発表する権利になるだろう。[…中略…]戦後、作品発表を目的とする作曲家たちの自主的なグループが次々と生まれるが、その理由はつまりそのへんにあったと言える。」(片山杜秀「戦前・戦中・戦後 -- その連続と不連続 1945-1951」佐野光司他編『日本戦後音楽史』上、平凡社、2007年、86頁)

c0050810_07535463.jpg  大日本帝国の大政翼賛を強いられた作曲家たちは、敗戦後に芸術音楽の再建・復興に取り組んだ。セリエリズムに代表される国際的で合理的な創作技法(世界標準の「ゲームの規則」)に準拠した前衛・実験音楽は、戦後立憲民主主義ニッポンの音楽芸術におけるシンボルだったとひとまず言うことができるのだろう。
  音楽における「戦後」は、敗戦の1945年から、復興・成長の総仕上げとして日本万国博覧会に前衛・実験音楽が再び「総動員」される1970年までの四半世紀25年と考えるのがわかりやすい。
  片山杜秀が指摘するように、この復興・成長の四半世紀は作曲家同人会の時代でもあった。大政(=国家)礼賛へのアンチとしての、個人の自由意志による作曲家の連帯・グループ活動である。橋本國彦は東京音楽学校教授、マンフレート・グルリットは同校講師にして藤原歌劇団常任指揮者の肩書きを背負ったが、黛敏郎といえば團伊玖磨、芥川也寸志との「三人の会」、入野義朗は第1回毎日音楽賞を得た柴田南雄らの「新声会」、松平頼則は戦前からの「新作曲派協会」、松下眞一はやや遅れて大阪で「現代音楽研究所」や「えらん」名義のグループ作品発表会を開いた。
  そして1970年大阪万博が戦後の終わりに見えるのは、彼らが個人/同人の趣旨とは別次元の「構造と力」(という名の本を1983年に書いた浅田彰は丹下健三の腹心というべき都市プランナー浅田孝の甥なわけだが)によって、再び国家(ならびに協賛企業)の巨大プロジェクトに組み込まれたからである。
  どうしてこうなったのか?


●同人会の世俗性

c0050810_07552761.jpg  同人活動は、個人の自由意志によるが、俗世から浮いた無重力空間ではない(無調・セリー音楽は無重力な宇宙というSF的なイメージと親和しがちだが)。
  レイボヴィッツ『シェーンベルクとその楽派』をサイゴン(現ホーチミン)で入手して入野や柴田とむさぼり読んだ戸田邦雄は外務官僚だったのだから、十二音技法の日本上陸は国家外交の副産物。非転向の十二音主義者、入野義朗が(短命に終わった本家シェーンベルクの「私的演奏会」と違って)長く同人活動を維持できたのは、彼が経済学部出身で財務に長けていたのと無関係ではないだろう。同人会は公権力の外部というより隙間に花開き、手弁当ゆえに、地味だが膨大で、決して効率的とは言えない雑務を発生させる。
  そして戦後はマス・メディアの時代だった。オーケストラを雇って華やかだった團・黛・芥川の「3人の会」は、それぞれが映画の仕事で滞在していた京都の旅館で結成されたと伝えられる。ケルンのシュトックハウゼンと同じく日本の電子音楽はラジオ放送で発表されたが、柴田南雄や芥川也寸志は音楽番組の有能なパーソナリティでもあった。黛敏郎はテレビ番組「題名のない音楽会」で和製バーンスタイン(ニューヨーク・フィル/CBSの「ヤング・ピープルズ・コンサーツ」におけるような)を演じ、柴田はのちに放送大学の音楽史初代教授に就任する。
  「日本前衛音楽のウッドストック」というべき20世紀音楽研究所の軽井沢での現代音楽祭(1957-1959)には、このように俗世の才に長けた人材が集まっていた。「記録魔」柴田の自伝『わが音楽わが人生』(岩波書店、1995年)に詳しいが、人脈を頼ってNHKやドイツ大使館等の協力を取り付けて、第2回音楽祭(1958)では音楽之友社協賛の作曲コンクールが開催された。かつて大政翼賛のメディアだった放送局、出版統制下で生まれた国策出版社が新時代の旗振り役を演じたわけだ。

c0050810_07572194.jpg  音楽之友社は1959年から1973年まで『音楽芸術』別冊として『日本の作曲』という年鑑を出し、当初は柴田と吉田が編集人に名を連ねた。そして『音楽芸術』自体が1960年から大判横書きの判型に変わる。2000年代にオタク文化が出版物のデザインを一変させたように、作曲家たちの同人活動は1960年代「文化の最前線」として晴れやかな表舞台に出た。(『音楽芸術』の判型はわずか3年で元に戻るのだけれど。)
  作曲コンクールで順位なしの入選、音楽之友社賞を得たのが武満徹(「ソン・カリグラフィ」)と松下眞一(「八人の奏者のための室内コンポジション」)である。やり手の同人たちとはやや距離のあった2人は、その後、前衛運動を広い文脈に開く役割を果たすことになる。
  「実験工房」で詩人や美術家とつきあっていた武満はメディア・ミックスに強い、彼が手がけた映画を通じて、不定形のサウンドを切り裂く邦楽器の一打一吹きが「現代日本の音」としてブランディングされる経緯は今さら詳述するまでもないだろう。
 一方、松下眞一は関西、大阪北部の丘陵地帯、茨木在住の数学者。第4回現代音楽祭(1961)が大阪、第5回(1963)が京都で開かれたのは、松下の地元というより別の事情によるが、松下は東京の作曲家たちの動きに対抗しつつ「ワルシャワの秋」(1956-)の向こうを張る意気込みで、現代音楽祭がなかった1962年に「大阪の秋」国際現代音楽祭なるものを開催した。(ちなみに「可測な時間と位相的時間」を1959年に初演した「現代音楽研究所」は計4回公演した関西の団体で、発足時は大栗裕や評論家の上野晃、指揮者の岩城宏之らが同人に名を連ねた。団体名はこれも「20世紀音楽研究所」のモジリだろう。)「大阪の秋」は、大阪フィルの経営母体、関西交響楽協会が主催を引き継ぎ、1963年に第1回のカウントで再出発して1973年まで続いた。
  ただし結局のところ、武満や松下にとって、国内の同人活動は海外へ出るための通過点に過ぎなかったかに見える。武満は当時バーンスタインのもとにいた小澤征爾の推薦を得て、ニューヨーク・フィルハーモニック125周年記念委嘱作として書いた「ノヴェンバー・ステップス」(1967)以後、海外の仕事が増える。数学論文が物理学者パスカル・ヨルダンの目にとまり、松下は1965年ハンブルク大学客員研究員となりドイツに拠点を得る。1970年万博の開催地は奇しくも松下の生まれ故郷の茨木から吹田にまたがる千里丘陵だが、彼が期間中の内外作曲家のシンポジウムに呼ばれたのは、地元代表というより、ヨーロッパ事情に詳しい国際派としてであった。


●万博、「普通の国」へ

c0050810_07584521.jpg  そして1970年日本万国博覧会である。
  堺屋太一のアイデアとされる「プロデューサー・システム」で、作曲家たち(実は案外世辞に長けた)が「一本釣り」される。京大人文研の中堅学者たちがイベントの立案実働部隊として動き、跡地の一角、西ベルリンのフィルハーモニー周辺を思わせる広大な造成地にダーレム博物館風の国立民族学博物館が建ち、梅棹忠夫が館長になった。
  三波春夫が「こんにちは、世界の国から」と歌った万博は、ヨーロッパもアメリカもアジアも、西も東も北半球も南半球も、経済大国も新興AA諸国も、あらゆる国(と企業)を横並びで参加させるフラットな世界像(「丸い(=global)」地球像)を実感させるイベントであり、文化人類学時代の到来を印象づけたと言えるだろう。科学的客観性(実態はフランシス・ベーコン流の比較と計量)に固執していた柴田南雄は1970年代のシアターピースで「農村」を発見して、民間フランス派の武満徹は1980年代に「海」「水」「島」(日本の人類学は南洋に強い!)を発想の拠り所にする。かつて都会の一室で日々顔を付き合わせていた同人たちが、山や海で身心を癒やす中高年になった。
  世界規模で見れば、「戦後」と呼ばれる25年は、1930年代にはじまる金本位制ブロック経済/鉄鋼と石炭・石油の重工業/映画・放送等のニューメディアがタッグを組んだ大衆動員の時代から、1970年代以後のブレトンウッズ体制による信用通貨/半導体産業/情報ネットワーク・システムで世界がフラットにつながるグローバルでパーソナルな時代への過渡期だった。日本の戦後作曲家たちの振る舞い、時代の各局面における行動・選択は、偉大なアートに期待される冒険・挑戦・投企というより、事態の推移へのドメスティックな反応の集積に見える。未來への旅というより、直近の対処に追われる日々。同人活動と切っても切れない無数のやりくり、そこで鍛えられた終わりなき日常のエートスこそが、当時さかんに言われた「コンテンポラリー/同時代性」の正体ではなかったか。
  こうして日本は、「帝国」から「普通の国」へと軟着陸した。


●「つながり」の日本前衛音楽史?

c0050810_07593853.jpg  携帯通信器機によるSNSが急速に普及した2000年代には、歴史学が社会学化して、国家や企業と個人の中間、テンニース流に言えば機能集団(Gesellschaft)でも血縁集団(Gemeinschaft)でもない社交(「つながり」)の意義が様々に検証・称揚された。ひょっとすると、労音の盛衰を追う長崎励朗『「つながり」の戦後文化誌』(河出書房新社、2013年)の姉妹編として、作曲家同人会をめぐる「つながりの日本前衛音楽史」が書かれていいのかもしれない。
  高潔なアヴァンギャルドを俗世に引きずりおろすと、往年の諸先輩から不謹慎だと怒られてしまうだろうか?
  万博の年に5歳で大阪に越して来た私よりも若い世代の音楽学者は、第33回京都賞を得たリチャード・タラスキン (Oxford History of Western Music, 2010) など北米の「新しい音楽学 New Musicology」(カルチュラル・スタディーズ、ポスト植民地主義と軌を一にするニュー・レフト)を見習って、音楽史のあらゆる領域を日常のコモン・センスで語り直す作業を着々と進めているように見えるのだけれど。



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【関連記事リンク】
●白石知雄 松下眞一歿後20年追悼演奏会に寄せて(2010年1月) https://ooipiano.exblog.jp/13519884/
●白石知雄 松下眞一歿後20周年追悼演奏会を聴いて(2010年3月) http://tsiraisi.hatenablog.com/entry/20100227/p1
●白石知雄 松下眞一の肖像(2010年9月) https://ooipiano.exblog.jp/15145179/
●松井卓 数学者としての松下眞一  http://ooipiano.exblog.jp/13734324/
●野々村禎彦 日本の戦後前衛第一世代について  https://ooipiano.exblog.jp/19277696/
●石塚潤一 松平頼則が遺したもの  http://ooipiano.exblog.jp/15280570/
●石塚潤一 松平頼則「美しい日本」について http://ooipiano.exblog.jp/15304150/
●西田博至 一柳慧のピアノ音楽から(その1) https://ooipiano.exblog.jp/25169504/
●伊藤謙一郎 韓国作曲界の「河」の流れ  https://ooipiano.exblog.jp/17209183/


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【関連作品の演奏動画】
■R.シュトラウス(1864-1949):《メタモルフォーゼン》(1945/2017)(米沢典剛によるピアノ独奏版)https://youtu.be/narUgmlcnD4
■吉本光蔵(1863-1907):《君が代行進曲》(ca.1902) https://youtu.be/IDIWRZPTtro
■山田耕筰(1886-1965):《御大典奉祝前奏曲 ~「君が代」を主題とせる》1915/2019)(米沢典剛によるピアノ独奏版)https://youtu.be/fbn5gCN0imk
■H.ビュッセル(1872-1973):《日本の歌による即興曲(君が代)Op.58》(1915) https://youtu.be/QSB3i-UpDRg
■河村光陽(1897-1946):《君が代踊り》(1941) https://youtu.be/qMVos6KSO-o
■小弥信一郎(1950- ):《君が代ジャズ風》(1979) https://youtu.be/6YgKq2-J4pA(※勤務先の高校卒業式で演奏して分限免職処分)
■冬木透(蒔田尚昊)(1935- ):《君が代パラフレーズ》(1880/2007) https://youtu.be/UQU4G5mYXMI
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■松下眞一(1922-1990):《スペクトラ第4番》(1971) https://www.youtube.com/watch?v=Z9jdxLpcK7Q
■松平頼則(1907-2001): 組曲《美しい日本》(1969)より第1曲「前奏曲」・第2曲「朗詠的な幻想(七夕)」・第3曲「わらべ唄(手まり唄)https://www.youtube.com/watch?v=a4WMVhE1Dw8
同:第4曲「草刈り唄」・第5曲「平曲のパラフレーズ(横笛)」・第6曲「箏曲風の終曲(茶音頭)」 https://www.youtube.com/watch?v=8YNwJwFLa18
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■武満徹(1930-1996):《二つのメロディ》(1948) https://youtu.be/kL77G__Ha98
同:《二つの作品》(1949) https://youtu.be/FNQBXlSWw-w
同:《二つのレント》(1950) https://www.youtube.com/watch?v=H8fpdTCaRd0
■黛敏郎(1929-1997):《スポーツ行進曲》(1953)  https://youtu.be/THTIXCqCOz8
同:《「天地創造」のテーマ》(1966)  https://youtu.be/GiAiInq-LR4
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■姜碩煕(カン・スキ)(1934- ):《ゲット・バック》(1989)  https://youtu.be/RaoI6rrEY58
■陳銀淑(1961- ): 《ピアノのためのエチュード集 第2番「連鎖」・第3番「自由なスケルツォ」・第4番「音階」(オリジナル版)》(1994) https://www.youtube.com/watch?v=FmUIdRBlc5A
■西村朗(1953- ): 《アリラン幻想曲》(2002) https://www.youtube.com/watch?v=Bn2QpbdGS3Q




# by ooi_piano | 2019-10-11 15:20 | POC2019 | Comments(0)


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日時: 2019年9月16日(月・祝)14時開演 (13時30分開場)
会場: マルシャリンホール (飯野病院 7F 京王線調布駅東口駅前)
会費: 協会会員 1,000円 一般 2,000円 学生 1,000円
出演: ピアノ/大井浩明  お話/新田ユリ(指揮者、日本シベリウス協会会長)
お申込み方法: 日本シベリウス協会アドレス info@sib-jp.org 宛に、件名を「ピアノで紡ぐシベリウスの管弦楽の世界参加希望」として、参加者のお名前とご連絡先を記載の上、メールにてお申し込み下さい。(Facebookのコメント欄、メッセンジャーでは受け付けません)
申込み締切り: 2019年9月15日(日)



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●K.シマノフスキ:ピアノソナタ第2番 Op.21 イ長調 (1910) 約24分
  I. Allegro assai (Molto appassionato) - II. 主題、8つの変奏とフーガ
  [使用エディション:ポーランド・ナショナル新訂版(1998)]

●J.シベリウス:交響曲第3番 ハ長調 Op.52 (1907/2018)(米沢典剛編独奏版、世界初演) 約29分
  I. Allegro moderato - II. Andantino con moto, quasi allegretto - III. Moderato

 (休憩15分)

●J.シベリウス:交響曲第2番 ニ長調 Op.43 (1901/2017)(マイケル・グラント編独奏版、世界初演) 約42分
  I. Allegretto - II.Tempo andante, ma rubato - III. Vivacissimo - IV. Finale: Allegro moderato


新田ユリ Yuri NITTA 指揮者(お話)
  日本シベリウス協会会長。国立音楽大学卒業、桐朋学園大学ディプロマコース指揮科入学。指揮を尾高忠明、小澤征爾、秋山和慶、小松一彦各氏に、室内楽を三善晃氏に師事。1990年第40回ブザンソン国際青年指揮者コンクールファイナリスト。1991年東京国際音楽コンクール指揮部門第2位。1991年に東京交響楽団を指揮してデビュー。その後も東京都交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団、広島交響楽団、札幌交響楽団、京都市交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、大阪センチュリー交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、オーケストラアンサンブル金沢、愛知室内オーケストラ、京都フィルハーモニー室内合奏団などを指揮。
  2000年秋より1年間文化庁芸術家在外研修員としてフィンランドに派遣され、音楽監督オスモ・ヴァンスカ氏のもとラハティ交響楽団で研修。同交響楽団での公演、リハーサルを指揮するほか、フィンランド国立歌劇場とサヴォンリンナ音楽祭においても、オスモ・ヴァンスカ氏のアシスタントを務める。クオピオ交響楽団、ミッケリ市管弦楽団、ヨエンスー市管弦楽団、フィンランド海軍吹奏楽団、フィンランド国防軍吹奏楽団、ラ・テンペスタ、クリスチャンサン交響楽団などフィンランドはじめ北欧諸国へ客演を続けている。日本においてもフィンランドを初めとする北欧5カ国の作品の演奏に力を注ぎ、その叙情的な感性は高く評価されている。現在国立音楽大学、桐朋学園大学、相愛大学、同志社女子大学で後進の指導に当たる。http://www.yuri-muusikko.com/


大井浩明 Hiroaki OOI  ピアノ
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996/ロッテルダム)、メシアン国際ピアノコンクール(2000/パリ)に入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。
  これまでにN響、新日フィル、都響、シティ・フィル、仙台フィル、京都市響等のほか、ヨーロッパではバイエルン放送響、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(パリ)、ASKOアンサンブル(アムステルダム)、ドイツ・カンマーオーケストラ(ベルリン)、シュトゥットガルト室内管、ベルン響等と共演。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSICA VIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival(ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック“CHOC”グランプリを受賞した。
  近年は交響曲のピアノ版演奏にも力を入れ、モーツァルト:第23~第41番(A.ホルン編)、1846年製J.B.シュトライヒャー/1846年製プレイエル/1852年製エラールによるベートーヴェン:第1番~第9番(F.リスト編)(NHK-BS『クラシック倶楽部』で放映)、ベルリオーズ:《幻想交響曲》(F.リスト編)、ブラームス:第1~第4番(O.ジンガー編)、ブルックナー:第7番(作曲者+C.ヒュナイス編)、マーラー:第1番《巨人》(P.ステルヌ編)、同:第5番(O.ジンガー編)、同:第9番(A.ブライアー編、世界初演)、同:第10番《アダージョ》(R.スティーヴンソン編)、シベリウス:第4番~第7番(米沢典剛+K.エクマン編)等を取り上げている。 公式ブログ http://ooipiano.exblog.jp/


米沢典剛 Noritake YONEZAWA 編曲
  6歳よりピアノを始める。指揮法を増井信貴氏に師事。慶應義塾大学在学中、ホルン奏者としてオーケストラで活動するかたわら、作曲家の横山淳らと共に音楽集団「Meta Exhibition」を結成し邦人作曲家の現代作品の公演を企画・開催。近年は管弦楽曲や弦楽四重奏曲のピアノ用編曲を多数手掛けている。
  主な編曲作品: ベルク《抒情組曲(全6楽章)》、ヤナーチェク《弦楽四重奏曲(全2曲)》、ヴァレーズ《アルカナ》、R.シュトラウス《皇紀2600年奉祝音楽》、シェーンベルク《室内交響曲第2番》(以上ピアノ独奏版)、R.シュトラウス《アルプス交響曲》、ストラヴィンスキー《結婚》、バルトーク《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》(以上2台ピアノ版)

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# by ooi_piano | 2019-08-20 15:53 | コンサート情報 | Comments(0)

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大井浩明ピアノリサイタル
《盤涉(ばんしき)の調(しらべ)にのせて In Moll besingend》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分 ( GoogleMap https://bit.ly/2FdmuZP )
各回 3000円(全自由席)
【お問い合わせ】松山庵 banshiki2019@hotmail.com (要予約)
後援/一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)


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【第1回】 2019年7月6日(土) 15時開演(14時45分開場)
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R.シューマン(1810-1856)  ピアノソナタ全3曲
   I. Un poco Adagio - Allegro vivace - II. Senza passione, ma espressivo - III. Scherzo e Intermezzo - IV. Allegro und poco maestoso
   I. So rasch wie möglich - II. Andantino. Getragen - III. Scherzo. Sehr rasch und markiert - IV. Passionato
   I. Allegro brillante - II. Scherzo Primo. Vivacissimo - III. <Promenade> Scherzo Secondo / Intermezzo. Molto commodo - IV. Quasi variazioni. Andantino de Clara Wieck(主題と6つの変奏) - V. Prestissimo possibile
  [使用エディション:新シューマン全集版(2012/2018)]


【第2回公演】2019年7月20日(土) 15時開演(14時45分開場)
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●A.スクリャービン(1872-1915):
   I. Andante - II. Presto
   I. Drammatico - II. Allegretto - III. Andante - IV. Presto con fuoco /Maestoso

●T.ミュライユ(1947- ):《水に映える礫(つぶて)》(2018、日本初演)

   I. Andante - II. Prestissimo volando

(休憩15分)

●A.スクリャービン ピアノソナタ第5番 Op.57 (1907)
  [以上、使用エディション:Bärenreiter新訂版(2013)]

●S.ラフマニノフ(1873-1943):
  I.Allegro agitato - II. Non allegro /Lento - III. Allegro molto
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Ich weiß ―― ロベルト・シューマンはクララに歌った   山村雅治

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 ロベルト・シューマン(1810-1856)は18歳になる1828年、9歳の少女クララ・ヴィーク(1819-1896)のピアノ演奏を聴いて衝撃を受けた。フンメルの三重奏曲のピアノパートを見事に弾いた彼女は、名高いピアノ教師フリートリヒ・ヴィークの娘だった。
 このときシューマンは故郷のツヴィカウから出てきてライプツィヒ大学法科に入学したばかりで、しかも音楽家としては出遅れていた。同年からヴィークに師事して2年がたち、1930年。その年にはすでにショパンはピアニストとして作曲家として新しい星として仰がれていた。一歳年少のリストがパリの社交界の偶像になっていたとき、シューマンはようやくライプツィヒからハイデルベルクの大学生活に別れを告げて音楽に打ち込んだ。 

 音楽家として立つ決意を固めるためには大きな迂回が必要だった。子供のころからの音楽の天才児ではなかったロベルトは書籍商アウグスト・シューマンの息子であり、本に囲まれて成長した。文学には早熟だった。ギムナジウムへ進む前からギリシア語、ラテン語、フランス語を学びはじめ、入学後の10歳代前半には詩の創作を試みているほどだ。バイロン、シラー、ジャン・パウル、E.T.A.ホフマンなどを耽読した。
 『詩と音楽』は17歳のときの詩だ。ここにシューマンが終生にわたって追求したテーマが簡潔に語られていた。「詩の韻律の器をやさしく そよかぜの拍子がゆらすとき 音と音、ことばとことばが競い 音は感じ、詩句は息づき ついにやさしくひとつの調和に ふたつの芸術が誠実に愛に満ちて抱きあうのだ」。

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 1830年、作品1『アベッグ変奏曲』から1939年の作品28『3つのロマンス』にいたるまで、彼はピアノ独奏曲ばかりを書いていた。そして執筆活動に力を注いでいた。
 シューマンは1832年、ライプツィヒの「一般音楽新聞」に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」としてショパン(1809 - 1849)を紹介する論文を投稿した。そして当時の音楽批評に不満を感じていた。1833年に準備を始めて翌1834年に刊行した音楽紙「音楽新報」の執筆者たちのなかにもフロレスタンとオイゼビウスがいる。彼の二人の分身だけではなくラロー楽長という名に変わったとされるヴィーク先生、キアリーナに変わったクララもそのなかにいる。
 シューマンは「芸術について対照的な考え方を表現するために、正反対の芸術的人格を創るのも悪くないと考えた。中でもフロレスタン、オイゼビウスと中庸を取る人物としてのラロ楽長はもっとも重要であった」と語っている。自分のなかに対照的な二人の人物がいる。シューマンにはジャン・パウルの小説からの影響が深く根を下ろしていたようだ。「対位法を音楽教師たちよりむしろジャン・パウルから学んだ」とも語っていた。

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 ピアノソナタ第1番 嬰ヘ短調 作品11の献辞に、シューマンは自分の名前を書かず「クララに捧ぐ フロレスタンとオイゼビウスより」と記した。作品5『クララ・ヴィークの主題による即興曲』、作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』についで書かれた作品9『謝肉祭』にもフロレスタン、オイゼヴィウス、クララは登場した。しかしこの年1834年はシューマンにとってはヴィーク家に住み込みの弟子になったエルネスティーネ・フォン・フリッケンに首ったけになり婚約して婚約を解消した。それまでは兄と妹のような関係だったクララは成長し、翌1835年にシューマンは求愛した。1837年に互いに結婚の意志を確かめあう仲になった。その年に完成した作品6『ダヴィッド同盟舞曲集』は重要な作品だ。ダヴィッド同盟はシューマンの空想と現実が織りまぜられた音楽の革命をめざす多様な人間の集団であり、この曲の主役はシューマン自身の二人の分身であるフロレスタンとオイゼヴィウスだ。フロレスタンは現実に生きて前へと進む勇者であり、オイゼヴィウスは深みへ沈み黙考する瞑想者。

 しかしながらロベルトとクララの結婚へ至るまでには大きな困難を乗り越えなければならなかった。クララの父、ヴィークが執拗に妨害したのだ。ロベルトとクララの関係に気づいたヴィークは、1836年1月にクララをライプツィヒからドレスデンに移らせシューマンから遠ざけた。シューマンはクララの後を追ってドレスデンに向かい、2月7日から10日まで二人で過ごした。このことを知ったヴィークは、クララをライプツィヒに連れ戻し、二人に罵言雑言を浴びせた。シューマンはヴィーク家への出入りを禁じられ、クララは手紙の検閲や一人での外出禁止など、ヴィークの厳しい監視のもとに置かれた。ヴィークはライプツィヒでシューマンに出会えば罵り、顔につばを吐きかけた。ヴィークの妨害に疲れたクララは、一度はシューマンと別れることを承知し、彼のすべての手紙を送り返したこともあった。しかし1837年8月、クララはライプツィヒで開いたリサイタルでシューマンから献呈されたピアノソナタ第1番を弾いてシューマンに応え、8月14日、シューマンに宛てた手紙で結婚を承諾した。
 ソナタ第1番第2楽章アリアには旧作の歌曲『アンナに寄す』があらわれる。ケルナーの詩には「ぼくはきみをおもう、かわいいひとよ」の一行がある。そして第3楽章と第4楽章には明らかに自分の意志をうたう「ファンダンゴ」が変転しながら繰りかえされている。

 クララとの結婚をめぐるヴィークとの争いの間、シューマンは彼の代表的なピアノ曲を相次いで作曲している。もはやヴィークとの和解は不可能と考えたシューマンは、1839年6月15日、クララの同意を得て弁護士に訴訟手続きを依頼した。その後もすったもんだが繰りかえされて、やっとのことで1840年8月12日にシューマンとクララの結婚を許可する判決が下された。9月12日にライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会で結婚式を挙げた。翌9月13日はクララの21歳の誕生日だった。

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 ロベルト・シューマンは少年時代には読書家だった。愛し、のめりこんだのはジャン・パウル、E.T.A.ホフマン、バイロンなど狂気をはらんだ作品を書いた作家や詩人であり、当時のノートには狂気への憧れを記した言葉もある。いまや、かつてあこがれた狂気が大波のように容赦なく襲いかかってくる。彼が驚くべき音楽家だったのは、こうした晩年にあっても作品の姿は支離滅裂ではなく、むしろ大きな構築力が必要な大作を書き続けたことだ。17歳の12月の日記には詩的な創作について「なにごとにも縛られず自由に動く資質を持つ人は、もっとすばらしく詩作していた。そこに理論がなかったからだ」と書いた彼は、まさに初期のピアノ曲に少年時に抱いた理想を実現させていた。
 1840年は「歌の年」。クララとの結婚を機にシューマンは歌曲を次々と書き、120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている。それまで書いていたピアノ曲は姿を消した。「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」としたシューマンはこの年、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と宣言した。1840年3月から7月にかけて二つの『リーダークライス』(作品24と作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)を書きあげたことには驚嘆を禁じ得ない。
 歌曲はクララとの結婚の1840年「歌の年」以来、ほぼその後の生涯にわたってつくられた。音楽をつくりだす少年の時間には、すでに本を読み魅入られた言葉が全身に渦巻いていた。1839年までの『ピアノ・ソナタ』3曲を含む名作ぞろいのピアノ独奏曲には言葉を音に結びつけて時空に放った「詩」があった。「歌の年」から歌われた作品には、暗誦できるほどのおびただしい数の詩人の言葉があった。どれもシューマンの感性に合う精選された詩だった。

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 ピアノソナタ第3番 ヘ短調作品14は、「第1番」に先立ち1835年に完成されていた。ロベルトはしばしばクララが書いた旋律を自作のなかに引用した。すでに1833年の『クララ・ヴィークの<ロマンス>による即興曲集』に自作を作る重要な音楽の素材としてつかっていた。のちにも枚挙のいとまもないほどだが「ソナタ第3番」の第3楽章には隠れもなく「クララ・ヴィークのアンダンティーノによる変奏曲」と記されている。全体の構成については変転がある。1836年9月に出版された時のタイトルは『管弦楽のない協奏曲』(Concert sans orchestre)であって、1853年10月にスケルツォが挿入され、大幅な改訂が施された際に、『ピアノソナタ第3番』(原題は『大ソナタ』 Große Sonate - 『グランドソナタ』)になった。いずれにせよ「クララの主題による変奏曲」は中心にある楽章だ。単純な旋律にこめられた音楽は意外に深い。青春のときめきの初々しさを表すことができれば、葬送行進曲の響きがきこえたこともある。
 ピアノソナタ第2番 ト短調 作品22は、1833年に着手して1838年に完成し、翌1839年に出版された労作だ。「第1番」と同じく、快速な第1楽章―緩徐楽章―スケルツォ楽章―急速な終楽章。第2楽章は作品1『アベッグ変奏曲』(1829‐30)より前につくられた1828年の歌曲『秋に』(Im Herbste、ユスティヌス・ケルナー詞) が素材になっている。ここにもクララへの思いが語られていなかったはずがない。




アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

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  ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951) とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
  1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
  ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

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  スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。

  スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。

「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

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  もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年、森松晧子氏による訳が2014年に出ている)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。

  サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家であるある。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60」を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

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  一方でサバネーエフはピアニストとしてのスクリャービンがいかに卓越した演奏技術をもっていたかを絶賛している。とくにそのペダリングによる音色の変化は彼独自のもので、弾きだされた音の響きは即興性も含めて変幻していった。スクリャービンは、「ラフマーニノフの弾く音はマテリアーリヌィ、即物的・唯物的なものに過ぎず、打鍵のあとの音色の変化で人を酔わすところがない。そういうピアニストにとってペダルは単なる足の乗せ場でしかない。」と批判した。しかしスクリャービンはそれがペダリングという技術によるものではなく、自分から発せられるアストラル(「星幽」とも訳される一種のオカルト用語)が響きに作用するのだと思いこんでいたので、サバネーエフはそれ以上にマトモな話を展開できなかったという。(20世紀末には、オウム真理教が「アストラル音楽」なるものを考案している。)スクリャービンのピアノ演奏の音色の変化は絶妙であったが、音量は当時のラフマーニノフ他ロシア・ピアニズムの代表者たちに比べると小さく、鋼鉄の楽器をホール一杯に響かせるというものではなかった。彼の作風が大きく変化する時期の代表的な作品であるピアノ・ソナタ第5番 作品53(1907年)は、なぜか交響曲第3番と第4番「法悦の詩」のモスクワ初演演奏会で2作品の合間に作曲家によって披露されたのだが、あまりにデリケートな音量であったため、聴衆には印象が薄く、曲が終わったのか単に作曲家が舞台から姿を消したのかわからなかった、とサバネーエフは回想している。

  「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。
  「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

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  スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
  最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
  二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。

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  ところでヴャチェスラフ・モーロトフ(1890 – 1986)というソ連時代の政治家を覚えておられる方はいるだろうか。彼は本名をヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービンといった。モーロトフというのはレーニンやスターリンと同じくペンネームであり、ロシア語の「モーロト(ハンマー)」からとっている。戦中から戦後にかけてスターリンの片腕、ソ連邦外務大臣として活躍した。作曲家のスクリャービンとの直接の血縁関係はないようだが、幼少時にはヴァイオリンを弾き、兄のひとりは作曲家(ニコライ・ノリンスキー、1886 – 1966)であった。スターリンの没後は共産党から除名されたが、1984年に名誉回復がされ、96歳の長寿を全うしている。





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(※)スクリャービン第5ソナタのエピグラフ(自作詩)

Я к жизни призываю вас, скрытые стремленья!
Вы, утонувшие в темных глубинах
Духа творящего, вы, боязливые
Жизни зародыши, вам дерзновенье приношу!

Je vous appelle à la vie, ô forces mystérieuses !
Noyées dans les obscures profondeurs
De l’esprit créateur, craintives
Ébauches de vie, à vous j’apporte l’audace !

吾は爾を生命(いのち)へと喚ぶ
噫、秘鑰の勁(ちから)よ!
造化の靈の朧朧たる深淵(ふかみ)に溺れし
怯懦なる生命の胚子、
爾に吾は驍悍を齎す! (安田毅・訳)






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【艷なる讌樂】
君の心は 奇らかの貴なる風景、
假面假裝の人の群 窈窕として行き通ひ、
竪琴をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪の衣裳の下に 仄仄と心悲しく、

誇りかの戀 意のままのありのすさびを
盤涉の調にのせて 口遊み 口遊めども、
人世の快樂に涵る風情なく
歌の聲 月の光に 入り亂れ、

悲しく美しき月魂の光 和みて、
樹樹に 小鳥の夢まどか、
噴上げの水 恍惚と咽び泣き、
大理石の像の央に 水の煙の姿たをやか。

# by ooi_piano | 2019-07-08 22:17 | POC2019 | Comments(0)

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浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2019年5月31日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)

【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838


●G.フォーレ:《幻想曲 ト長調 Op.111》(1919、アルフレッド・コルトーに献呈)  15分  
  I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Allegro moderato
●K.シマノフスキ:《交響曲第4番 Op.60 「協奏的交響曲」》 (1932、アルトゥール・ルービンシュタインに献呈) [グジェゴシュ・フィテルベルクによる2台ピアノ版] 25分
  I. Moderato - tempo commodo - II. Andante molto sostenuto - III. Allegro non troppo, ma agitato ed ansioso
  (休憩 10分)
  I. Allegro Moderato - II. Andante - III. Allegro

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浦壁信二/Shinji Urakabe(Pf.)
  1969 年生まれ。4 才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981 年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985 年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987 年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1 等賞を得て卒業、対位法で2 等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994 年オルレアン20 世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ'12 年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集Ⅰ」'14 年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集 II」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

大井浩明/Hiroaki Ooi(Pf.)
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSI CAVIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival (ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010 年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers( POC)」を開始、現在までに41 公演を数える。 公式ブログ http://ooipiano.exblog.jp/

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アレクサンドル・スクリャービン ~その時代と作曲家を取巻くひとたち───大塚健夫

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ロシア中部を滔々と流れカスピ海に注ぐ大河、母なるヴォルガを大型の客船がくだってゆく。1910年4月、指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874 – 1951)とオーケストラの楽員を乗せ沿岸11箇所の街でコンサートを催すというロシア始まって以来の大規模なプロジェクト・ツアーだった。ソロ・ピアニストとして同行し自作のピアノ協奏曲嬰へ短調を披露したのはアレクサンドル・スクリャービン(1872 – 1915) 、当時38歳、あと数年で終わる自分の生涯をこのときは予感もしていなかっただろう。
  1910年代はロシアに資本主義と呼んでよい景色が現れる短い期間だった。学校で教わる世界史では日露戦争、2月革命、レーニン率いる10月革命、そして社会主義政権の樹立ということがハイライトされているが、農業や鉱工業も発展し自由で大胆な資本家や経済人が出たそれなりにきらびやかな時代でもあった。たとえば、ロシア(ウクライナを含む)の家畜の頭数は1913年がピークであり、ソ連邦崩壊(1991年)までこの記録を超えることがなかった。革命後の農業集団化で絶望した富農(クラーク)たちが自らの財産であった家畜たちをことごとく処分してしまったからである。(ソ連崩壊後も集団農場の後遺症は一向に癒えず、2014年になってウクライナをめぐって米欧がロシアに経済制裁を課し多くの農産物が禁輸となるに至り、ようやく自国での農業生産に目覚めたプーチンのロシアにおいて、ロシアの近代的農業は発展をみた。)
  ロシアの片田舎の決して豊かではない家庭に生まれたクーセヴィツキーが、茶葉の輸入と販売流通で億万長者となったウシュコーフの一人娘ナターリアと結婚し、自分の才能プラス圧倒的な財力で前述のようなツアー企画を実現させたことは、19世紀の貴族出身のパトロンと一線を画している。彼は露欧米を市場とする出版社を起業し、有望な作曲家を独占的に支配し、版権と演奏というソフトでカネを稼ぐという、いまの言葉でいうプラットフォーム・ビジネスみたいなことを始めたのだ。しかも彼は資本家専業ではなく名コントラバス奏者、そして大指揮者でもあり、革命後は欧州を経てボストン交響楽団の音楽監督まで登りつめた。スクリャービンにはそれまでミトロファン・ベリャーエフ(1836 -1903、材木商で財をなした実業家かつペテルブルグ音楽界のリーダー)、マルガリータ・モローゾヴァ(莫大な遺産を相続した未亡人)といった彼の芸術を支援する19世紀タイプのパトロンがいたが、いずれも縁が切れ、経済的な窮地に陥っていた。その矢先、1908年のクーセヴィツキーとの出会いは渡りに舟だったであろう。ところ3年続けたヴォルガ・ツアーのあと、この資本家型パトロンとは主として金銭的な揉め事から仲違いしてしまう。ツアー中11回のコンサートのソリストとしての出演料を全部で1,000ルーブルと言われ、スクリャービンがキレたらしい。当時のルーブルの価値を現代に置き換えるのは難しいが今の日本でおよそ100万円から150万円、つまり1回の出演につき11万円程度、演奏旅行の足代や食事は込みだったのかという細かいことはわからないが、当時の流行ピアニスト、スクリャービンとしては屈辱的な額であったのだろう。クーセヴィツキーも「億万長者の婿」のわりに採算にはセコかったようだ。一方、全生涯を通じてスクリャービンという人には経済感覚がなかったことも、多くの知人が認めている。

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  スクリャービンも上級貴族の出身ではなかったが、彼を生んですぐに死んだ母親はピアニストだった。彼を育てた叔母は、彼の音楽の才能を早くに見抜き、良い教師につけさせた。モスクワ音楽院小ホールの入口を入ったところにある歴代の最優秀卒業生の名を金文字で刻んだプレートの中にはセルゲイ・ラフマーニノフ(1873 – 1943) と並んでスクリャービンの名前がある。二人の音楽院在学中の作曲(楽理)の教授はアントン・アレンスキー(1861 – 1906)。大酒飲みで遊び人という師の性格は生真面目なラフマーニノフよりスクリャービンに近かったのだが、なぜかスクリャービンには厳しく評価も低くかった(当時、彼がピアノの曲しか書かなかった、というのも理由らしい)。結局スクリャービンはピアノ科のみ優秀な成績で卒業し「小金メダル」、ピアノ科に加えて作曲科でも最優秀だったラフマーニノフが「大金メダル」という差がついてしまった。若きスクリャービンの代表作のひとつであるピアノ協奏曲嬰へ短調、作品20のオーケストレーションを、完成前に管弦楽法の大御所リムスキー=コルサコフに見せた時は酷評されたようだ。しかし、その後の特に後期のオーケストラ作品を聴くと、あの独特な和声進行は当時最先端を行っていたワグナーやドビュッシーなどを徹底して解析したことに加えての独創性であり、彼も「大金メダル」に値する才能と筆者は思う。スクリャービンは時に右手が自由に動かなくなるというハンディを抱えつつも高度な演奏技術をもち、ラフマーニノフ、ニコライ・メットネル(1880 – 1951)とともに花形のピアニストであった。音楽院時代はショパンの譜面を枕にして寝たという逸話もあり、これはピアノ協奏曲や初期のソナタを聴けば全く自然に受け入れられる。もっとも1906年のアメリカ旅行において、当時まだ現地ではロシア音楽・演奏家の認知度が低く、「コサックのショパンが来る」という見出しが新聞等に出たとき、スクリャービンは憤慨したという。

  スクリャービンはその後半の作品において神秘主義に大きな影響を受け、「スクリャービンの神秘和音」と言われる独創的な和声を考え出していったことがよく知られている。スクリャービン一家と家族ぐるみで親交のあったボリス・パステルナーク(「ドクトル・ジバゴ」の著者)の自伝にある以下の記述にひとつのヒントがあるかもしれない(またパステルナークの父は画家で、スクリャービンのコンサートの絵などをいくつか残している)。

「超人についてのスクリャービンの議論は、異常であることを願うロシア人固有の考えであった。(中略)音楽は全てを意味する超音楽でなければならず、世の中の全てのものはその存在を超えて秀でていなければならない」(藤野幸雄訳)。

  もっとも「スクリャービンが雷雨を呼び寄せることができると言ったのを聞いた」等々の当時の周辺の人たちの話を読むと、かなり危ないところまで来ていた人、という気になる。一方、死の3年前に締結したモスクワの住まいの賃貸契約が、彼が死んだ日(1915年4月14日、旧露歴)をもって切れたという証言に接すると、「神がかった人」いう感も抱かざるをえない。筆者の知る最も詳細なスクリャービン伝である「スクリャービンの思い出」(モスクワ、1925年/日本語訳、2014年)の著者であるレオニード・サバネーエフ(1881 – 1968)はこういったことを極めて淡々と書いている。
   サバネーエフは純粋数学や動物学でも論文を書くというマルチの才能を持った作曲家/ピアニスト/音楽評論家である。1896年にスクリャービンがまだ二つの楽章しかできていないピアノ協奏曲を自ら弾いて聴かせたときは「薄められたショパンもどき」の音楽に聴こえたという。スクリャービンが1910年に交響曲第5番「プロメテ(火の詩)」作品60を作曲した後、サバネーエフはピアノ2台(4手)による編曲を引き受けた。その理由のひとつはスクリャービンがこの曲のピアノ版には少なくとも4人(8手)のピアニストが必要だとして悩んでいたこと。もう一つは初演指揮者のクーセヴィツキーがオーケストラの総譜の理解がいまひとつで、スクリャービン(ピアノ・パート)とサバネーエフ(オケ・パート)による曲想の提示が必要だったからだ。ひと月足らずで完成したピアノ編曲に作曲者本人はおおいに驚き、こういうことができる奴がいるということに気を悪くさえした。そして、スクリャービンという作曲家はオーケストラの作曲家ではなく、生来のピアノ曲の作曲家であるということを理解するに至ったという。

  「プロメテ(火の詩)」は後期スクリャービンの集大成ともいうべき作品である。音を特定の色のイメージでとらえ、ホールにその色彩を映し出しながら演奏するという構想で、その彼の「哲学」は当時では斬新なものだったはずだ。ただし、ある音から特定の色が見えるというのは現在の精神医学で「共感覚 」と言われるもので、この感覚を表明する現代の音楽家は結構存在する(イツァーク・パールマン、エレーヌ・グリモーなど)。ここではスクリャービンがイメージしていた音と色の説明は下記の図にとどめておく。

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  「プロメテ(火の詩)」はピアノ協奏曲と言ってよいくらいピアノ・パートの目立つ作品で、初演は作曲家自身がピアノ・パートを弾き、1911年モスクワでクーセヴィツキーの指揮で行われた。ロシア音楽出版(指揮者の所有する出版社, 1947年Boosey & Hawkes社によって買収)から出された初版のスコアの表紙は、竪琴の内部に両性具有者の顔が大きく描かれた、いわくありげな意匠になっている。Clavier à lumières(色光鍵盤)と呼ばれる音ごとに色を投影する鍵盤楽器、3管編成のオーケストラ、それにヴォカリーズ(歌詞を伴わない母音のみでの歌唱)のコーラス、オルガンも入った贅沢な編成で、これもクーセヴィツキーの財力ゆえに受け入れられたものであろう。前述のサバネーエフによれば、指揮者は初演に際し光の演出には関心を示さずにClavier à lumièresの使用をきっぱりと断わり、スクリャービンはやむなくこれに同意したという(この装置を準備したがうまく機能しなかったという記録もあるが)。初版スコアに「Clavier à lumièresは無しでも演奏可」と書かれていることからも、クーセヴィツキーのクールな態度がうかがわれる。色の投影を伴った演奏が初めて行われたのは1915年、ニューヨークにおける演奏会の場であった。

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  スクリャービンは音楽院の女子生徒やロシア以外も含めてあらゆる階層の女性たちとスキャンダラスな交際をいくつも重ねた男であったようだが、パートナーとして彼の生涯を支えた二人の女性がいた。
  最初の妻、ヴェラ・イサコーヴィチ(1875 - 1920)はモスクワ音楽院でピアノを学んだ女性であり、ピアノ協奏曲の2台ピアノ版を試みたりしている。二番目の妻(正式に籍は入れていない)のタチアナ・シュレッツェル(1876 – 1920) はヴェラのピアノの師であったシュレッツェル教授の娘であり、「サーシャ(スクリャービン)はワグナーのさらに上を行っている」と言って憚らなかったというスクリャービンの熱烈な崇拝者。ロシア正教は離婚を原則認めないので二人の女性には多くの葛藤があったはずだ。両者ともそれぞれスクリャービンとの間に子供を儲け、タチアナの娘、マリーナは作曲家、音楽学者として1998年まで生きた。ロシアの文献は宗教的に厳密なのかタチアナのことを夫人とは書いていないものが多い。筆者はスクリャービンの母代わりだった叔母のリュボーフィ(愛称リューバ)がかくあるべきと言ったという「市民結婚」という言葉が最も合っているように思う。(市民結婚による夫、妻はロシア語でгражданский муж, гражданская жена といい、現代でも頻繁に使われる、いわゆる籍を入れていない夫婦のこと。「愛人」とか「内縁の妻」とか訳すとなにか艶めかしく、あるいは湿っぽく響いてしまうので。)
  二人のパートナーの共通点は、いずれも音楽院で本格的な教育を受けた教養の高い女性であり、ユダヤ系であるということだ。彼女たちは相当ハイレベルな生徒であったのだろうが、当時のモスクワやペテルブルグの音楽院は、いわゆる縁故で入ってくる貴族や上流家庭のお嬢さんが多かったという。花嫁修業の一部として、あるいはちょっとアップグレードして売り込むために腰掛け的な入学をさせたのだろう。チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父」(1899年)に、初老のやたらと気難しい教授と彼に従順に付き合う若い妻、エレーナという美人が登場する。閑人のワーニャは彼女を口説こうとするが相手にされない。聞くと彼女はコンセルヴァトアールを出ておりピアノも弾いたりする・・・。エレーナのような職業音楽家ではないが音楽の素養のある魅力的な女性が当時のロシアの都会には多くいたのであろう。



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【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選  https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
 ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版) 花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
 一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
 西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
 篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
 湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
 南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)

■2018年5月25日 ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成 https://ooipiano.exblog.jp/29413702/
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
  I. - II. - III. - IV. - V.

■2018年11月30日 米英近現代作品コンピレーション https://ooipiano.exblog.jp/29850225/
G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)  18分
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)  25分
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)  25分
J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)  16分
N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)  4分
(アンコール)メシアン:《星の血の喜び》(1948)(米沢典剛による2台ピアノ版)





# by ooi_piano | 2019-05-28 17:33 | コンサート情報 | Comments(0)