11/30(金)バートウィッスル《キーボード・エンジン》(2018)日本初演

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浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2018年11月30日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)

【予約/お問い合わせ】 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL:03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838



【演奏曲目】
●G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)  18分
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
●L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)  25分
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
(休憩10分)
●H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)  25分
●J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)  16分
●N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)  4分


□浦壁信二 Shinji Urakabe, piano
  1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ、’03年CD「ストラヴィンスキーピアノ作品集」'12年「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。

□大井浩明 Hiroaki Ooi, piano
  京都市出身。スイス連邦政府給費留学生ならびに文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルン芸術大学(スイス)に留学、ブルーノ・カニーノにピアノと室内楽を師事。同芸大大学院ピアノ科ソリストディプロマ課程修了。ガウデアムス国際現代音楽演奏コンクール(1996)、メシアン国際ピアノコンクール(2000)入賞。朝日現代音楽賞(1993)、アリオン賞(1994)、青山音楽賞(1995)、村松賞(1996)、出光音楽賞(2001)、文化庁芸術祭賞(2006)、日本文化藝術賞(2007)、一柳慧コンテンポラリー賞(2015)等受賞。「ヴェネツィア・ビエンナーレ」「アヴィニョン・フェスティヴァル」「MUSICA VIVA」「ハノーファー・ビエンナーレ」「パンミュージック・フェスティヴァル(韓国・ソウル)」「November Music Festival(ベルギー・オランダ)」等の音楽祭に出演。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルと共演したCD《シナファイ》はベストセラーとなり、ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック"CHOC"グランプリを受賞。2010年からは、東京で作曲家個展シリーズ「Portraits of Composers (POC)」を開始、現在までに36公演を数える。公式ブログ: http://ooipiano.exblog.jp/



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自作のシェーンベルクの肖像画の前でポーズをとるガーシュイン


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ベルクのガーシュイン宛メッセージと「抒情組曲」第2楽章冒頭が書き留められたカード



ガーシュイン~モダニズムに魅せられた放蕩児
~「アメリカのヴォツェック」としての『ポーギーとベス』(甲斐貴也)

  『ラプソディ・イン・ブルー』とスタンダードナンバーの数々により、ジャンルを超えて多くの人々を楽しませてきた作曲家ジョージ・ガーシュイン。彼はクラシック音楽を愛好し研究するなかでも、20世紀前半現代音楽界の最前衛、新ウィーン楽派の作曲家アルバン・ベルクに心酔し、その作風に影響を受け、それどころか逆に影響を与えていた


■帝政ロシアのユダヤ人ゲルショーヴィチ~革命以前のユダヤ人大移住

  帝政ロシアはほぼ一貫してユダヤ人追放政策をとってきたが、18世紀末の女帝エカテリーナのポーランド分割による領土獲得によって100万人ものユダヤ人が領内に居住することとなり、追放政策は事実上無意味になって廃止された。啓蒙思想の影響もあって世界に先駆けてユダヤ人の自由化が進んだロシアにさらにユダヤ人が流入したが、その数の多さは次第に脅威となり、エカテリーナ2世は指定した定住区域からの移動をユダヤ人に禁じる措置をとった。それでもその後19世紀末には帝政ロシアのユダヤ人口は500万を超え、世界最大に達していた。1881年の皇帝アレキサンドル2世暗殺事件にユダヤ人活動家が関わっていたことに端を発する、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害の民衆暴動の広がりは数多くの犠牲者を出した。被害者も加害者もほとんどは貧しい下層民だったが、アレキサンドル3世はこれをユダヤ人の商工業進出による有害な活動が原因として、居住地域と商業活動のさらなる制限を課す反ユダヤ法「5月法」を制定した。こうした状況からロシアのユダヤ人の多くが国外移住に希望を託し、またある者は革命運動に、またある者はパレスチナにユダヤ人国家の建国を目指すシオニスト運動に身を投じた。国外を目指したユダヤ人の7割が選んだのが、かのリンカーンが人種法を撤廃した自由の国アメリカであり、1881年から1910年にかけて実に300万ものユダヤ系ロシア人が渡米したという。

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米国移民局のあったニューヨークのエリス島に到着した移民たち。


  ジョージ・ガーシュインの祖父ヤーコフ・ゲルショーヴィチはヴィリナ(現リトアニア首都ヴィリニュス)で生まれたユダヤ人で、10歳で帝政ロシア軍に徴用されたが、25年の兵役を勤め上げたおかげで居住地や旅行の自由を得、退役後の事業の成功もあってサンクトペテルブルグ近郊に移り、比較的裕福に暮らしていた。その息子でジョージの父となるモリス・ゲルショーヴィチは若くして婦人靴の革加工で身を立てていたが、自らも25年の兵役が待っていた。その入営の期限が目前になったこと、結婚を願っていた娘ローザ・ブラスキンが一家でニューヨークに移住してしまったことで、モリスもアメリカ移住を決意する。
  先に渡米しブルックリンで仕立て屋をしている母方の叔父グリーンスティンを頼り単身船に乗ったモリスだが、ニューヨークに到着した時に自由の女神を見ようと舷側に駆け寄った際、叔父の住所を記したメモを内バンドに挟んだ帽子を風にさらわれ海に落としてしまった。しかし生来楽天的で行動的なモリスはめげずに、当時ニューヨークで一番大きいユダヤ人街のあったマンハッタンのロウアー・イーストサイドに安宿を見つけ、早速賭けビリヤードで30セント稼いだ。その金を交通費に地下鉄でブルックリンに行き、そこから足を延ばしたブラウンズヴィルでついに「仕立て屋のグリーンスティン」を探し出した。モリスは英語を一言も話せなかったが、既に多くのユダヤ系ロシア移民がいたので、イディッシュ語とロシア語で全て何とかなったのだ。

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ニューヨークに到着し、自由の女神を眺める移民たち


  そして更なる幸運が待っていた。アメリカ風にローズ・ブルースキンと名を変えたローザに再会したのだ。しかも彼女の父親は婦人靴製造の職工長で、モリスの希望していた皮革加工の職を得ることができた。1895年7月、二人は結婚した。


■ガーシュインの『イーストサイド物語』

  翌1896年に兄アイラが、1898年にジョージが生まれ、そして弟アーサーと妹フランシスが加わり4人兄弟となった。この4人は程度の差こそあれ皆が才能に恵まれていた。モリスはゲルショーヴィチからガーシュヴィンGershvinと名を変えた(のちにジョージがさらにGershwinに変えた)。家の向いがユダヤ教会だったにもかかわらず、一家は信仰心が薄く、宗教行事に重きを置かなかった。ユダヤ教の成人式バルミツヴァーを受けたのは兄弟でアイラだけだった。楽天家で行き当たりばったりの父親は、その後新しい商売を始めては投げ出して職を転々とし、いつも職場の近くに住みたがるために一家は引っ越し続きだった。当時のユダヤ家庭としては異例に自由放任と言っていい母親の元で、内向的で真面目な兄アイラが読書家の優等生だったのに対し、ジョージは自由闊達というより、いっぱしの不良少年に育っていった。学校では問題児で通っており、優等生のアイラが教師に何度も取りなす羽目になった。体格が良くて喧嘩っ早く、しょっちゅう生傷を作り、通りで仲間とホッケーやローラースケートに興じた。当時のニューヨークの街ではユダヤ系、イタリア系、アイルランド系の移民の少年たちがそれぞれの縄張りをめぐって争っており、まるでミュージカル『ウェストサイド物語』さながらだが、実際『ウェストサイド物語』の初期の構想ではまさにロウアー・イーストサイドのユダヤ人とイタリア人カトリックの抗争に設定されており、タイトルも『イーストサイド物語』だったのである。ジョージもそうした街の悪童の一人として闊歩し、さらには9歳でガールフレンドを作ったと友人に吹聴しており、その後売春宿に通うことを覚えてこれは生涯続いたという。

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ニューヨークの新聞少年たち


  音楽に関心のなかったジョージが初めて音楽に心を動かされたのは、6歳の時にゲームセンターの自動ピアノが奏でるアントン・ルビンシテインの「へ調の旋律」だったという。だがこの件は単発的に終わり、本格的に音楽に目覚めたのは、その6年後12歳の時に学校で1歳年下の、後にヴァイオリニストとして名を成したマクシー・ローゼンツヴァイクの奏でるドヴォルザーク「ユモレスク」を偶然に聞いてからだった。
  この音楽にすっかり心奪われたジョージはマクシーと友達になり、音楽談議に明け暮れるうち、マクシーの伴奏者になることを夢見て、マクシーの家や他の友達の家でピアノの練習を始めた、
  ちょうどその頃母ローズが、妹(ジョージたちの叔母)ケイトがピアノを購入したから自分もという理由で、経済的な余裕のない中無理をして、中古のアップライト・ピアノを月賦で買った。ローズは叔母にピアノを習っていたアイラに弾かせるつもりだったが、いざピアノが運び込まれると、悪童ジョージがいきなりピアノに突進し、さっさと回転椅子の高さを調節すると、その頃家族がよく歌っていた流行歌を即興の装飾をまじえて華麗に1曲弾き切った。これには家族一同腰を抜かして驚いてしまった。ジョージがピアノを練習していたことを誰も知らなかったのだ。1910年春のことだった。


■ティン・パン・アレーの売れっ子から「ラプソディ・イン・ブルー」作曲へ

  その後親の許しで何人かのピアノ教師にピアノを習い、当時既に名を成していたアーヴィング・バーリン(Irving Berlin 1888?1989)とジェローム・カーン(Jerome David Kern 1885-1945)に傾倒しながら、クラシックの演奏会にも通い始めた。1912年にヴァイオリンのエフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist 1889-1985)、ピアノのジョゼフ・レヴィン(Josef Lhevinne 1874-1944)(モスクワ音楽院で同級のスクリャービン、ラフマニノフを凌いだという伝説の名手)、そして前衛作曲家・ピアニストのレオ・オーンスタインLeo Ornstein(1893-2002)(ヘンリー・カウエルに先駆けてトーンクラスターを駆使したモダニスト)、の演奏を聞いた。上記5人の音楽家はいずれもユダヤ人で、ドイツ系のカーン以外はロシア系である。1913年にはアマチュアのベートーヴェン協会管弦楽団でピアノを弾いた。その頃に初めて試みた作曲の成果のひとつは、シューマンの「トロイメライ」にラグタイムのリズムを付けた「ラッギング・トロイメライ」だった。
  ジョージのピアノ教師の1人、ハンガリーの指揮者フォン・ツァーリは、スケール練習の代わりに、自らピアノ編曲したロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲を教え込むという風変わりな教育を施した。その次についた同じくハンガリー出身の音楽家チャールズ・ハンビッツァーは、大げさな抑揚とテンポの変化をつけたジョージのその演奏に驚き、「こんなのを教える奴の頭に弓矢を一発お見舞いしたいな、リンゴは無しでね。」と言った。ハンビッツァーはオーケストラのほとんどの楽器を演奏できたという才人で、和声法、対位法、管弦楽法を学んでおり、管弦楽曲とオペレッタの作曲と、劇場オーケストラの指揮も手掛けていた。新しい音楽にも関心があり、アメリカでシェーンベルクの「6つのピアノ小品 作品19」を演奏した初期の1人となっている。前教師と異なりハンビッツァーはジョージに音楽理論の基礎と、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、リスト、さらには当時最新のドビュッシーやラヴェルのピアノ音楽を手ほどきした。14歳のジョージは、ポピュラーソングを評価しないハンビッツァーに、アーヴィング・バーリンはアメリカのシューベルトだと力説したという。
  その後ハンビッツァーの紹介でキレニーに和声法を習い、またリュビン・ゴルトマルク(カール・ゴルトマルクの甥でアーロン・コープランドも師事している)にも教えを受けたが、3回目のレッスンで以前に作曲した弦楽四重奏のための小品「子守歌」を見せたところ、ゴルトマルクが自分のレッスンの成果に満足したと言うのでレッスンをやめてやったという話を、ジョージ自身が事あるごとに笑い話にしていたという。この頃に管弦楽法をみっちり学ばなかったことでジョージは後に苦労することになる。
  ともあれジョージの演奏会通いは更に熱心になり、ニューヨーク・フィル、ニューヨーク交響楽協会管弦楽団(後にニューヨーク・フィルと合併)、ロシア交響楽協会(ユダヤ系ロシア人の演奏家を主とする楽団で、ラフマニノフ、スクリャービン、ストラヴィンスキー、シベリウス作品などの米国初演を行った)、指揮者ではピエール・モントゥー、ピアノではユダヤ系ポーランド人の大ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキーLeopold Godowsky(1870-1938)を聴いている。

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ピエール・モントゥーと


  音楽の道に進むと心を決めたジョージに、母の希望で通っていた商業高校は煩わしいものになっていた。決定的になったのは叔母ケイトの結婚式で演奏されたジェローム・カーンの曲、”You’re Here and I’m Here” 、“They don’t belive Me”を聴いたことだった。1914年、友人から音楽出版のリミック社にソング・プラガー(ポピュラーソングの新曲の楽譜を売り込むためにピアノで弾いて聞かせる係)の空きがあると聞いて応募し合格した。ジョージは母親の反対を押し切って高校を退学し、最年少15歳のソング・プラガーが誕生した。
  それから曲折を経て、顔を黒く塗った白人歌手アル・ジョルスンが歌った「スワニー」の大ヒットにより一躍名声を得、ティン・パン・アレーの営業ピアニストからミュージカル・コメディ作家の寵児にのし上がるまでの成功物語は、いくつもの評伝を参照していただくとして、ガーシュインの音楽が米国クラシック音楽界はもとより国際的にも注目され、大きな影響を与えた作品『ラプソディー・イン・ブルー』の成立するまでに移ろう。

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1920年代のニューヨーク、ロウアー・マンハッタン



■「アフロ・アメリカン風オペラ」『ブルー・マンデイ』

  ジョージは興業主ジョージ・ホワイトのシリーズ・ショー『ジョージ・ホワイツ・スキャンダルズ』の歌を書いていたが、作詞担当のB.G.デ・シルヴァは興業主に、ショーの中の出し物として、ガーシュイン作曲の1幕物の黒人オペラを提案した。デ・シルヴァはジョージの未発表のピアノ作品「ノヴェレッテ」(1919)、弦楽四重奏のための「子守歌」(1919)を知っており、その作曲力に新しい試みを期待したのだ。ジョージ・ホワイトは当初断ったが、思案の末やらせてみることにした時には、公演が三週間後に迫っていた。ジョージとデ・シルヴァは五日間不眠不休で作詞作曲に取り組み、オーケストレーションは黒人の作編曲家兼指揮者ウィル・ヴォダリーが担当した。これがジョージ・ガーシュイン初のオペラであり、公式的には初のシリアスな音楽となる。
  物語は、一人の女性をめぐる三角関係から起きた誤解による嫉妬で女性が主人公を拳銃で撃ち、瀕死の主人公が朗々と無実の真相を歌い上げた後に死ぬという型通りの悲劇である。
  1922年8月22日の初演は黒人でなく顔を黒く塗った白人によって演じられ、演奏は当時売り出し中のポール・ホワイトマン・バンドが担当した。大方の評価は『ワールド』紙による、「ひどく馬鹿げた物語の最後に主人公を撃つ、顔を黒く塗ったソプラノは、最初に出演者全員を撃ってから自分を撃つべきだった」というものに近かったが、W.S.なる批評家は、このある意味『ポーギーとベス』を予告した作品を、ブルース、ジャズ、ラグタイムを使用した、抒情的な歌とレチタティーヴォによる、真のアメリカ民衆のオペラが誕生したと預言的に称賛した。そして伴奏の指揮をとったポール・ホワイトマンも、ジョージの作曲手腕に感銘を受けていた一人であった。興業主はその後一度再演させたものの、物語が暗すぎてショーの客の機嫌を損ねるという理由でそれっきりとなった。実際にはこの企画に興味を持ってスポンサーとなっていたアル・ジョルスンの意向とされる。


■エヴァ・ゴーティエの「古今歌曲リサイタル」でクラシックコンサートにデビュー

  翌1923年11月1日、フランス語圏カナダのメゾ・ソプラノ歌手エヴァ・ゴーティエ(Eva Gauthier 1885-1958)が、当時カーネギーホールに次いで格の高いクラシック専用ホールだったニューヨークのエオリアンホールで開いたリサイタルに出演し、ジョージはクラシック音楽界にデビューした。彼女の友人だったモーリス・ラヴェルと、ジョージの音楽を高く評価していた作家・写真家カール・ヴァン・ヴェクテン(Carl Van Vechten, 1880 - 1964)が、現代アメリカの歌曲、それも「ジャズ」を歌うようエヴァに勧め、ヴァン・ヴェクテンの紹介でジョージがアメリカ現代作品の部を伴奏した。「古今歌曲作品リサイタル」と名うたれたプログラムは「古典」「現代ハンガリーとドイツ」「オーストリア」「イギリス」「ドイツ」「アメリカ現代」の6部に分かれ、パーセル、バード、ベッリーニ、ペルッキーニ、ヒンデミット、バルトーク、ベルク編曲のシェーンベルク『グレの歌』~「山鳩の歌」(米国初演)、アーサー・ブリス、ミヨー、ドラ-ジュ、そしてアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、そしてガーシュインという盛りだくさんで大胆な演奏会である。シェーンベルク作品を取り上げていることからか、彼がウィーンで設立した国際現代音楽協会(ISCM)が資金援助をしている。
  アメリカの部のみの伴奏を担当し、ティン・パン・アレーの派手な表紙の楽譜を持ったジョージがステージに登場すると聴衆から失笑が漏れたというが、いざバーリンの「アレグサンダーズ・ラグタイム・バンド」を弾き始めると、聴衆はすぐに魅了されてしまった。リムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』の一節から始めて、自作「楽園への階段を作ろう」に巧みに移行すると、客席に感嘆のどよめきが起きた。ジョージの伴奏したアメリカの部は大好評で、アンコールに自作「もう一度愛して」が2回演奏された。当時はもちろん現代の聴衆にでさえかなり難解な同時代作品に比べて、ジョージの即興的で華麗なピアノ伴奏によるポピュラーソングが大受けしたろうことは想像に難くない。この出演はセンセーションと言って良い成功をおさめ、3か月後にボストンで再演された。なおゴーティエはわが国では今日ほとんどラヴェル、ガーシュインらと並んで写った写真のみで知られる歌手だが、1913年頃にインド、ジャワ、上海とともに日本にも来ているという。この演奏会以後ジョージは名士たちのパーティに招かれるようになり、上流社会入りするきっかけにもなった。

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「古今歌曲リサイタルのプログラム」


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ヴァン・ヴェクテン撮影のガーシュイン(1938)


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ヴァン・ヴェクテン撮影のエヴァ・ゴーティエ



■デンヴァーの放蕩息子、自称「ジャズの王」ポール・ホワイトマン

  『ブルーマンデイ』での共同作業で知り合ったポール・ホワイトマンはジョージより8歳上で、父はコロラド州デンヴァー交響楽団の指揮者とデンヴァー市公立学校の音楽教育監督官を務め、母は元オペラ歌手だった。ヴァイオリンとヴィオラを学びデンヴァー響のヴィオラ奏者になったが、若くから酒癖女癖が悪く、あまりの素行の悪さに父に勘当され、カリフォルニアに流れてサンフランシスコ交響楽団員となった。当地で飲み歩いたダンスホールで、サックスを導入した初期の白人バンド、アート・ヒックマン・バンドの演奏に感銘を受け、さらには交響楽団員のギャラよりはるかに収入が多いことに驚いて、自らもバンドリーダーを志した。バンジョー奏者マイク・ピンジドアのバンドに指揮者兼ヴァイオリン奏者として加入し、小柄で足の悪いピンジドアの代わりに見栄えのいい長身偉丈夫のホワイトマンがリーダーを務めるうち、乗っ取るような形で自らの名を冠したバンドにしてしまった。
  ヒックマンのバンドにいた若いアレンジャーがファーディ・グローフェで、彼もクラシック畑の人物だった。祖父はメトロポリタン歌劇場のチェリスト、叔父はロサンジェルス・フィルのコンサートマスター、母はセミプロの弦楽器奏者で父はコメディアン兼バリトン歌手だった。グローフェを引き抜いたホワイトマンは、奏者のアドリブを廃して譜面通りの演奏をするスタイルを確立した。
  ビクターレコードと契約して発売したレコード「ジャパニーズ・サンドマン」(1920)は250万枚売れたという。フォックストロットとレーベルマークに記されたこの曲は、ジャズとも日本とも縁がない社交ダンス音楽で、他のレパートリーも似たようなものだったが、プロのクラシック演奏家ホワイトマンの統率とグローフェの編曲手腕に加え、その後に伝説のコルネット奏者ビッグス・バイダーベックや、トロンボーンのドーシー兄弟という白人の名演奏家、さらには黒人のトロンボーン奏者ジャック・ティーガーデンらの真正ジャズの名ソリストを起用するというホワイトマンの鑑識眼により、その実態は今で言うジャズのビッグバンドではなく(いまだスイング・ジャズも出現していなかった、ディキシーランドジャズの時代である)ダンスバンドではあったが、ジャズ色濃く演奏力の高い楽団に成長していった。


■『ラプソディー・インブルー』の大成功

  1924年1月4日の夜、ジョージとデ・シルヴァがブロードウェイの店でビリヤードをしているとき、翌日の朝刊を読んでいたアイラは、2月12日にエオリアンホールで開かれるポール・ホワイトマンの『現代音楽の実験』という演奏会の広告を見つけて驚いた。ラフマニノフ(ホワイトマンを称賛していた)、ハイフェッツ、ジンバリスト、アルマ・グルック(ユダヤ系ルーマニア人の著名オペラ歌手でジンバリストの妻)らがパネリストとして出席するこの企画のための書き下ろしの作品として、アーヴィング・バーリンの交響詩、ヴィクター・ハバートの新作、そしてジョージ・ガーシュインが「ジャズ・コンチェルト」を鋭意作曲中であるという。アイラがジョージに問いただすと、驚いた様子もなく、奴は本気でやる気なのかと言う。
  ポール・ホワイトマンによれば、ライバルのバンドリーダー、ヴィンセント・ロペスが、W.C.ハンディの新作「ブルースの進化」を売り物にした同様の趣旨の演奏会を予告しており、それに先んじるため、ジャズ風の協奏曲の新作を打診していたジョージの承諾を得る前に公表したのだという。
  当初断ることも考えていたが、既に構想を巡らせていたジョージには、ジャズはリズムが一定したダンス音楽という偏見を打破したいという思いがあり、時間的制約からも古典的な協奏曲ではなく、異なる曲調を自由な構成で接続するラプソディ(狂詩曲)という形を取ることにした。2台ピアノのスコアで作曲を始めたが、オーケストレーションに不慣れであること(ミュージカルのオーケストレーションは、作曲家ではなく専業の編曲者が行うのが通例だった)、時間的制約とホワイトマン・バンドの各メンバーの能力に合わせて書く必要があることから、バンド専属の編曲者グローフェにオーケストレーションを依頼した。グローフェはガーシュインの指示した楽器編成にとらわれず自由に編曲し、部分的にはガーシュインの承認を得て音形の変更も行った。ピアノパートは演奏会当日までに完成できず、開演時間を過ぎてから控室でようやく書き上げたという。
  演奏会には各界の名士が訪れたが、音楽家では前記4名のほか、ストラヴィンスキー、クライスラー、ミッシャ・エルマン、ストコフスキー、マーチ王ジョン・フィリップ・スーザ、ストライドピアノのウィリー・ザ・ライオン・スミスらがいた。
プログラムは当時の典型的なジャズである白人バンド、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ニック・ラロッカ作曲)の曲「貸し馬ブルース」に始まり、続いて様々なジャズとクラシックの融合を試みた楽曲が演奏された。バーリンの「交響詩」は、バーリンが楽譜を書けないために実現の可能性がないのに、宣伝のためその名声を利用したホワイトマンのはったりで、バーリンの有名曲のいくつかをグローフェがオーケストレーションしたものが演奏された。盛りだくさんで長時間にわたる、平凡と言って良い曲を連ねた演奏会に聴衆が退屈しきった頃、最後から2番目にガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』が演奏された。(最後の演目はなぜかエルガーの「威風堂々」だった)
  クラリネット奏者ロス・ゴーマンが冒頭の上行グリッサンドを奏したとたんに、弛緩していた聴衆は一変して耳をそばだてた。終了後の反応は熱狂的で、ガーシュインは何度も舞台に呼び戻された。この成功はポール・ホワイトマンの目算よりもはるかに大きな反響を呼び、それまで「アルコール中毒、自殺など社会の悪弊は皆そのせいにされていた」(ポール・クレシュ『アメリカン・ラプソディ』)ジャズなるいかがわしい音楽が、一般社会でアメリカの独自の音楽として認知されるきっかけとなった。同じプログラムは3月に再演され、4月にはカーネギーホールでも再現された。
 同年6月にジョージとホワイトマン・バンドは『ラプソディ・イン・ブルー』の短縮版をビクター社に録音した。1925年からの電気録音が間に合わず、ラッパ吹込みの旧録音だが、3年後の電気録音による2度目のものより『貸し馬ブルース』的土俗性に勝る点で魅力的な演奏になっている。両者を聴き比べると、当時の「ジャズ」がどんなもので、『ラプソディ・イン・ブルー』がそこから多くを取り入れながらも、クラシック音楽の範疇に入る楽曲であることは明らかになるだろう。

  1927年、商用で訪れたニューヨークでこのレコードを購入したチャーリー・ベルクという人物がいた。3月、ウィーンに戻ったチャーリーは、弟の作曲家アルバン・ベルクに『ラプソディ・イン・ブルー』のレコードを土産に渡した。ベルクはこれを聴いて感銘し、翌1928年になってから、出版されたばかりの弦楽四重奏曲『抒情組曲』のスコアをガーシュインに贈った。同年のヨーロッパ旅行の折にガーシュインはウィーンのベルクを表敬訪問することとなる。
  『ラプソディー・イン・ブルー』初演の翌年、1925年にはニューヨーク・フィルの指揮者ウォルター・ダムロッシュから委嘱を受け、より本格的な三楽章のピアノ協奏曲「へ調の協奏曲」を発表。チャールストンのリズムを使っているが、サックスやバンジョーなどジャズ的な楽器を用いない交響楽団用の作品である。オーケストレーションも勉強し直して自ら行い、今日も交響楽団のレパートリーして残る作品となった。ジョージの次の目標はオペラだった。
  オペラ第一作の『ブルー・マンデイ』は改訂され『135番通り』と名を変えた形で、ポール・ホワイトマンが再演してくれたが、またもや興行的にはかばかしくなかった。数多くのミュージカルとレヴューを手がけ多忙な中、ジョージが構想していたのはS.アンスキーの『悪霊(ディバックThe Dybbuk)』のオペラ化だった。ユダヤの民話を元にした戯曲で、1920年にブロードウェイで上演されたのをジョージは見ていた。このオペラ化の試みは断続して続くが、結局オペラ化の権利関係で断念せざるを得なくなる。
  1928年初めにモーリス・ラヴェルが渡米し、各地で演奏会を開いたのち、3月7日の53歳の誕生日に旧知のエヴァ・ゴーティエがニューヨークで誕生パーティを開催した。ゴーティエがプレゼントの希望を尋ねたところ、ラヴェルはガーシュインに会って演奏を聴きたいと言った。喜んで参加したジョージはそれまで以上に華麗な演奏でラヴェルを驚かせた。二人はその後各所のパーティで顔を合わせ、親交を深めた。作曲法の師事を希望したガーシュインにラヴェルは独自性を保つべきと諭したというが、有名な「あなたは一流のガーシュインなのに二流のラヴェルになることはない」というセリフそのものは、ガーシュインの伝記映画の脚本家が書いた創作であるという。ともあれラヴェルは、近々ヨーロッパ旅行でパリを訪れるというガーシュインに、高名な音楽教育者ナディア・ブーランジェへの紹介状を書いてくれた。

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ニューヨークのラヴェル誕生パーティで。左からオスカー・フリート、エヴァ・ゴーティエ、ラヴェル、マノア・レイデ=テデスコ(指揮者・作曲家)、ジョージ・ガーシュイン



■ヨーロッパ旅行 

  ラヴェルの誕生パーティのわずか4日後、ガーシュインは兄アイラ、妹フランシス夫妻とともにヨーロッパ余暇旅行に旅立った。ロンドンとパリでは大歓迎で、行く先々のオーケストラがガーシュインの曲を急遽プログラムに入れて演奏した。パリでは旧知のフランシス・プーランク、ストラヴィンスキーを始め、ミヨー、オーリック、ウォルトン、ストコフスキー、ヴァーノン・デュークらが代わる代わる面会に訪れた。パーティではジョージのピアノ演奏とホロヴィッツによる「カルメン」変奏曲の対決という一幕もった。
  ラヴェルの紹介状を持ってナディア・ブーランジェを訪ねたが、ブーランジェにも、あなたに教えることは一つもない、そのまま自分の道を進みなさいと言われてしまった。ブーランジェに師事したアメリカ人は、アーロン・コープランド、ヴァージル・トムソン、ロイ・ハリス、ウォルター・ピストン、エリオット・カーター、レナード・バーンスタインと、その後米クラシック音楽界で名を成した作曲家が居並び、ジャズ界のドナルド・バード、ジジ・グライス、キース・ジャレットの名も見えるが(毒舌家のヴァージル・トムソンは、アメリカの都市には安雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしていると言った)、そんなことを言われたのはジョージ・ガーシュインただ一人であろう。
  3月27日には、ちょうどパリ楽旅中だった、現代音楽の演奏で有名なウィーンのコーリッシュ弦楽四重奏団がジョージの宿泊するホテルの部屋を訪ね、シューベルトとシェーンベルクの弦楽四重奏曲を演奏してくれた。
  パリを訪れた音楽的成果は、行く先々で往々にしてあまり出来の良くない演奏で自作を聴かされたことよりも、多忙の合間を縫って管弦楽曲『パリのアメリカ人』の作曲が進んだことだった。再びウォルター・ダムロッシュに委嘱された、このガーシュイン初のピアノ無しの管弦楽作品は帰国してから完成されたが、モダニズム的に注目されるのはストラヴィンスキーに由来する「ペトルーシュカ和音」の使用だろう。


■アルバン・ベルクとの邂逅

  パリを離れたガーシュインは、ベルリンでクルト・ワイル、レハールらと会った後ウィーンに向かった。クシェネックの「ジャズ・オペラ」『ジョニーは演奏する』を鑑賞したのち同年5月5日、ウィーンのヒーツィンクにアルバン・ベルクの家を訪ねた。そこには作曲家エメリッヒ・カールマンと、アメリカ人ピアニストのジョシーことジョゼファ・ロザンスカ(Josefa Rosanska 1904-1986)も同席した。
  カールマンはオペレッタ『チャールダーシュの女王』で名高いユダヤ系ハンガリー人の作曲家だが、作品にフォックストロットを取り入れ、ドラムセットを用いたアメリカのダンスバンド風の編成を試みている。ジョージの友人ロザンスカは13歳でフレデリック・ストック指揮シカゴ交響楽団とショパンの協奏曲を演奏した神童で、西欧・北米・中南米で高く評価されるピアニストだった。後にコーリッシュの妻となるが、ベルクのピアノソナタ作品1をレパートリーとしていたという。
  ロザンスカの発案で、既にパリで相まみえていたコーリッシュ弦楽四重奏団をベルクの家に招き、『抒情組曲』の第2楽章が演奏された。(コーリッシュのアパートでという説もある) ベルクに何か弾くよう求められたジョージは場違いに思ってか、ややためらってからスピリチュアルソングをいくつか歌った。それを称賛するベルクに戸惑うジョージに、ベルクは「音楽は音楽です」と答えたという。ベルクは自らの肖像写真カードに『抒情組曲』第2楽章冒頭と親愛のメッセージを手書きしたものと、出版されたばかりの『抒情組曲』のポケットスコアをガーシュインに贈った。

  帰国後1928年秋の「ミュージカル・アメリカ」紙による自宅でのインタビューでガーシュインは、ヨーロッパ訪問の中で音楽的に得に感銘を受けた場所はとの質問に答え、『抒情組曲』のベルクのサイン入りポケットスコアを見せて、「オーストリアの超モダンな作曲家アルバン・ベルクがこの弦楽四重奏曲を書いた地こそ、わたしの今回の訪問で最高の場所です。」「この四重奏曲は、平均的な音楽愛好家の協和音に慣れた耳には不快なことが間違いない程度に不協和ですが...この作品には真実の美質があると思います。」「その着想と技法は、言葉の最高の意味で完全に現代的です。」と述べたという。
  ガーシュインのウィーン訪問の約6週間後、1928年6月17日に妻ヘレンに宛てたベルクの手紙にも興味深い記述がある。「コーリッシュの素晴らしい手紙を紹介しよう。『ガーシュインはパリの王のように遇せられ、パーティやレセプションにおいて、毎回私たちにベルクの『抒情組曲』を演奏するよう頼みました。私はもう何度演奏したのかわからないくらいです。』」
  「パリの王」という表現から見て、ガーシュインのパリ滞在時のことと考えられるが、コーリッシュ四重奏団はホテルの部屋でシューベルト、シェーンベルクを演奏した以外に、『抒情組曲』をガーシュインのために何度も演奏していたという訳である。このエピソードを論文” Reflections upon the Gershwin-Berg Connection”で報告しているアレン・フォルテA llen Forteは、こうした話があまり知られないのは、ガーシュインに興味のある人はベルクに興味がなく、ベルクに興味のある人はガーシュインに興味がないからだとしている。ベルクは長兄ヘルマンの影響で元々アメリカ贔屓だったというが、こうしたガーシュインの自作への熱狂を知り、アメリカ人全般が自作に好意的だろうという、いささか楽観的な感触を持ったようである。
  また、ベルクの評伝を参照すると、1928年3月末に国際現代音楽協会の審査員として招かれ、ヘレーネ夫人と共にチューリヒに行った折、パリに立ち寄ってジャンヌ・デュボストのサロンで『抒情組曲』のフランス初演を聴き、ナディア・ブーランジェも臨席したとある。このことと前記の3月27日にコーリッシュ四重奏団がガーシュインのホテルの部屋で演奏した件を考え合わせると、コーリッシュ四重奏団は『抒情組曲』パリ初演のためにパリに滞在していたとわかるが、そこでベルクとガーシュインは会う機会がなかったということだろうか。更に、ガーシュインがパリでシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番の第1楽章が演奏された演奏会に出席したという話もあるが、これが『抒情組曲』のパリ初演の演奏会だったのか、あるいはホテルの部屋での演奏のことなのか。残念ながら本稿では時間の制約で調査しきれなかった。
  ガーシュインはベルクのオペラ『ヴォツェック』のヴォーカルスコアを大切にしており、『ポーギーとベス』作曲中の1931年、フィラデルフィアにおけるストコフスキー指揮によるアメリカ初演を鑑賞して強い感銘を受けた。1933年に発売されたガリミール四重奏団の『抒情組曲』世界初録音のSPレコードも所持していた。


■シェーンベルク

  ガーシュインのシェーンベルクとの交友は比較的よく知られている。しかし同じビバリーヒルズに住んで、テニスや卓球を楽しんだご近所付き合い程度の仲であると思われている節もある。シェーンベルクがアメリカに移住し、現代音楽協会を立ち上げて寄付を募った折、真っ先に資金を提供したのはガーシュインで、2番目がストコフスキーであった。そして、パリのホテルでシェーンベルクの四重奏曲を演奏してくれた、コーリッシュ四重奏団によるシェーンベルクの弦楽四重奏曲全集世界初録音という記念碑的企画のスポンサーもまた、ジョージ・ガーシュインその人であったという。ガーシュインがシェーンベルクとのテニスの試合に夢中になって、老シェーンベルクを翻弄しコートで右往左往させたという有名なエピソードについて、「そのときガーシュインを内側から突き動かしていたもの、それは音楽に『歌』を求めながら現代音楽から裏切られ続けた大衆の怨念だったのかもしれない」などという穿った解釈をした本もあるが、あまりの的外れに言葉もない。


■歌劇『ポーギーとベス』~「アメリカのヴォツェック」

  『ポーギーとベス』の原作である小説『ポーギー』の作者デュボーズ・ヘイワードは、小児麻痺の後遺症で右手が不自由だった。そのことから、たまたま新聞で見かけた、足に障害を持つため山羊車に乗っている黒人の乞食が傷害罪で逮捕されたという奇妙な記事に、体が不自由なのに勇ましいことをするものだと興味を持ち、この物語を着想する。ガーシュインが『ポーギー』に出会ったのは1925年に遡る。眠れぬ夜にふと手に取った『ポーギー』を午前4時までに読了してしまい、感動したジョージはすぐさまヘイワードにオペラ化打診の手紙を書いた。ヘイワードから快諾を得たジョージは多忙を縫って打ち合わせをしたが、ヘイワードの妻で劇作家のドロシーが『ポーギー』の舞台化を進めていたことと、当時ジョージはオペラの作曲に必要な実力が不足していると感じていたことで、この件は一旦お預けということで両者は合意した。
  1927年にドロシー・ヘイワードの脚本による舞台版『ポーギー』がブロードウェイで上演され、ガーシュインも観劇したが、この頃彼がオペラ化を構想していたのは『ディバック』だった。そしてようやく1932年初頭、ガーシュインはデュボース・ヘイワードに久々に手紙を書き、改めて『ポーギー』オペラ化を打診した。当時大恐慌の影響で困窮していたヘイワードには渡りに船のことでもあり、再び快諾を得た。その後アル・ジョルスンがミュージカル化の希望を出したり、ジョージの多忙もあって紆余曲折があったが、結局ジョルスンは『ポーギー』を放棄し、ついにジョージはオペラ『ポーギー』に着手する決心を付けた。ヘイワードはジョージに、『ポーギー』を「ミュージカルコメディー(ミュージカル)」ではなく「フォーク・オペラ」にしたいと言った。
  舞台は20世紀初頭の港町チャールストンの黒人街で、主人公ポーギーは足が不自由だが頑健な男。悪漢クラウンの情婦ベスに恋して愛し合い、クラウンに襲われるが返り討ちにして殺してしまう。逮捕されたポーギーは証拠不十分で釈放されるが、その間にベスは麻薬密売人のスポーティング・ライフにたぶらかされてニューヨークに去っていた。
  小説、戯曲、オペラではいくつかの変化がある。小説ではファムファタールではあるが単純でわき役に近かったベスが、戯曲では苦悩する内面をもつ人物に描かれた。オペラのタイトルが『ポーギーとベス』に変えられたのは、『ロミオとジュリエット』、『トリスタンとイゾルデ』、『ペレアスとメリザンド』といった名作の先例に倣ったものというが、元の小説より発展した形に全くふさわしいものだった。さらにオペラでは、ベスが元のサバンナに去った時にポーギーは落胆して老け込み、その死で終わる救いのない結末が、ニューヨークに向かったベスを追って、ポーギーが山羊車で決然と出発する場面で幕となるという、大きな変更がある。
  この結末については、肉体的ハンディキャップがある上に目的地の遠さと移動手段の非力さから、無謀な実現性のない行動と見て、絶望的なものと解釈する向きも多いようだが、遠いニューヨークに愛する娘を追っていく男といえば、本校の前半で触れたガーシュインの父親モリスが母ローズと再会したエピソードを思い起こさせる。おそらくガーシュインはそのイメージを投影し、強い意思とバイタリティによって、困難を乗り越えた末の再会を示唆する結末にしたのではないだろうか。

  『ポーギーとベス』について、ベルクの『ヴォツェック』との共通点を指摘する声は多くある。
  「ガーシュウィンの《ポーギーとベス》とベルクの《ヴォツェック》には、それぞれが置かれた社会・文化的環境を遥かに超えた、多くの類似点がある。二人とも、ある状況を描写する際に特定の音型を使っており、音楽様式の部分でも類似点が多い。子守歌やフーガもそうだ―――ガーシュウィンがこれ以前にフーガを書いたことはなかったと思う。ガーシュウィンとベルクは真の意味で心がつながっていたのだろう。」
  「ベルクとの交流が、作品の全体像、作曲技法(とりわけレチタティーヴォ)、深い意味の込められた豊富なモティーフの用法―――かなり複雑な心理まで表す、ライトモティーフと呼べそうなものもある――に影響を与えた可能性はかなり高い。2007年にアメリカ音楽協会誌に掲載された論文でクリストファー・レイノルズは、《ポーギーとベス》をずばり、“アメリカの《ヴォツェック》”と呼んでいる。ガーシュウィンの和声が、以前の作品と比べて多様化、複雑化していることに注目した研究もある。」


■急逝

  1937年7月9日、午前中自宅でピアノを弾いていたジョージ・ガーシュインは夕方仮眠をとったまま昏睡状態となる。11日脳腫瘍摘出の手術を受けた後、午前10時35分、意識を取り戻すことなく逝去した。

  「私はガーシュインを崇拝していた。『ポーギーとベス』には夢中になったものだ。1937年の夏に、私はハーヴァードの第2学年を終えて、ニューヨーク州の北部でキャンプの指導員をしていた。水泳と音楽を教えていたのだが、キャンプに集まったのはニューヨークの甘やかされた子どもたちばかりだった。週末の父兄面会日のとき、キャンプの監督から日曜日の昼食会で演奏してくれと言われた。だが、断ろうかと思った。騒々しい連中にちがいないし、フォークや皿がぶつかる音や、うるさいおしゃべりが想像できたからだ。
  ところが、日曜日の朝、起きぬけにガーシュインが死んだことを知らされた。それで、やはり演奏しようと思った。昼食会は思った通り、ひどく騒々しかった。やがて、私はピアノのところへ行き、まず和音を弾いて出席者の注意を促した。そして、ガーシュインが死んだことを告げ、これからガーシュインの作品を1曲弾くけれども、演奏が終わっても拍手しないでほしいと言った。演奏したのはプレリュードの第2番だったが、人々は静まり返っていた。重苦しい静けさだった。そのとき初めて、音楽の力をまざまざと感じた。その場を歩き去りながら、自分がガーシュインになった気がした。天国にいるような気分という意味ではなく、私がガーシュインその人で、その曲を自分で作曲したような気がしたのだ。」レナード・バーンスタイン(ジョーン・パイザー『レナード・バーンスタイン』鈴木主悦訳より)


■クラシック界の逆襲!バーンスタイン『ウェストサイド物語』
ブロードウェイで大成功したクラシックサイドのミュージカル

  レナード・バーンスタインは1918年8月25日にマサチューセッツ州ローレンスに生まれた。出生証明には祖父がつけたルイスという名が記されていたが、父サミュエルと母ジェニーはこれが気に入らず、生まれたときからレナードと呼んでいた。父はウクライナのユダヤ系ロシア人で祖父は宗教学者だったが、父はポグロムか兵役かという運命を逃れるため家出同然に出奔し、先にアメリカに移民していた叔父の助けで1908年にニューヨーク行きの船に乗り、ご多分に漏れず自由の女神が見えるエリス島の移民局に到着した。
  一文無しから身を起こして熱心に働いたおかげで、1917年にはアメリカ市民となり、花嫁を見つけて家庭を持つことができた。母は同じくロシア移民で貧しい羊毛工場労働者だったが、その境遇から抜け出すために好きでもない父と結婚したのだった。宗教に厳格な父と世俗的で享楽的な母はそりが合わず、家庭はいさかいが絶えなかったという。
  少年時代のレナードはポピュラーソングやユダヤ教の聖歌などを楽しんでいたが、特に音楽に熱心というほどではなく、楽器を習得しようという意欲もなかった。10歳の時に、ブルックリンに引っ越す叔母から譲られたアップライトピアノが家に来てから、急激にその才を現し始めた。音楽家への道に理解を持たない父との葛藤を乗り越え、近所の子供たちにピアノを教えたり、友人と結成したジャズコンボで地元のクラブに出演してこずかい稼ぎをし、ピアノの勉強を続けた。レナードがバルミツヴァーを迎えると、父親は小さなグランドピアノを買ってくれるなど、理解を示すようになっていった。ボストンの高名なピアノ教師、ハインリヒ・ゲプハルトに師事することを希望するが、高額のレッスン料が障害となり、ゲプハルトは弟子のヘレン・コーツを紹介した。コーツはバーンスタインの才能に惚れ込み、それ以前の教師による癖を修正するだけでなく、相談相手となり、以後50年に渡って彼の個人秘書を務める関係となる。 
  1933年、友人と出かけたボストン交響楽団の演奏会における、ロシア系指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーの劇的な指揮はレナードに大きな啓示を与え、後年の情熱的な指揮ぶりにその影響が見てとれる。
  1935年にハーバード大学の音楽専攻課程に入学。音楽教育としてはジュリアードやカーティスにかなり劣るが、ハーバードは知的刺激とともに、裕福な家庭の子弟とのコネクション作りに役立った。


■1937年

  ガーシュインが死んだ1937年は、バーンスタインの生涯に大きな影響を与える出来事が次々と起こった年だった。まずその年の1月にギリシャ人の指揮者ディミトリ・ミトロプーロスと「宿命的」出会いをする。ハーバード大で催された、ミトロプーロスを主賓とする会員制の茶会に潜り込んだのだ。ミトロプーロスはバーンスタインの才能を認め、作曲家・指揮者への道を励まし、音楽に理解の少ない父親に代わって経済的援助を買って出てくれた。そしてホモセクシャルのミトロプーロスにより、19歳のバーンスタインはその方面にも開眼することとなったらしい。
  その夏に実家を離れたバーンスタインはマサチューセッツ州キャンプ・オノタで音楽指導員を務めた。ここで知り合った二歳下のアドルフ・グリーンは、ミュージカル作品の歌詞を手がける協力者として、また友として生涯の関係となる。
  秋にはマサチューセッツ州ケンブリッジの州立オーケストラで、ラヴェルのピアノ協奏曲の独奏でピアニスト・デビューを飾り好評を得た。バーンスタインはその成功に気をよくして、ラヴェルの協奏曲のほかに数曲しかレパートリーがないにもかかわらず、コンサートピアニストを夢見た。その野望はのちに、カーティス音楽院の同窓、シェーラ・チェルカスキー、ホルヘ・ボレットらの演奏を聴いて断念することになるのだが。
  11月14日、バーンスタインはニューヨークの劇場で偶然アーロン・コープランドの隣の席に座り面識を得た。コープランドはバーンスタインを、これから催す自分の37歳の誕生パーティに誘った。コープランドはガーシュインと同じユダヤ系ロシア人の移民の子で、しかもブルックリン生まれという同郷人にもかかわらず、アメリカの音楽におけるガーシュインの貢献を終生黙殺していた。ポピュラー音楽界の寵児ガーシュインのクラシック音楽界進出に対して強い反感を抱いていた、アメリカのクラシック音楽界を代表する作曲家と目されていた立場があったにせよ、ショービジネス界の作曲家が真のアメリカ音楽の創始者としてもてはやされることに苛立ちを覚えていたろう事は想像に難くない。コープランドの誕生パーティでは、コープランドの讃美者の一人で、あのガーシュインに憎悪を燃やした毒舌批評家兼作曲家ヴァージル・トムソンにも会っている。
  ガーシュインの急逝した年に、同じくロシア系のユダヤ人で、コープランドらと同じく正規の教育を受けた側の、才能ある若者が現れたことは、ガーシュインを憎んだ彼らになにがしかの感慨を与えたのだろうか。それからコープランドは、バーンスタインの師として、作曲・指揮活動と人脈作りと公私にわたり 絶大な貢献をしていく。そしてバーンスタインはブロードウェイからクラシック界に進出したガーシュインと逆に、クラシック界からブロードウェイに進出して大成功を収めることになるのだ。
  ミトロプーロス、コープランドに続いてバーンスタインの力になってくれた音楽家に大指揮者フリッツ・ライナー(Fritz Reiner, 1888-1963)がいる。ジュリアード音楽院入学に失敗したバーンスタインを、コープランドがカーティス音楽院で教えていたライナーに紹介してくれたのだ。ライナーはシンシナティ響時代にガーシュインをたびたび招くなど、その才能を認めており、ガーシュインもその指揮に信頼を置いていたが、厳格と傲慢で知られるライナーが、10歳下のガーシュインにも、30歳下のバーンスタインにも、年長者への礼儀をわきまえずに「フリッツ」呼ばわりされたというエピソードがあるのが面白い。ライナーは、そのたびにバーンスタインに「こんにちは、バーンスタインさん」と皮肉に答えたという。
  同じくガーシュインを支援した指揮者ロジンスキーもバーンスタインと縁が深い。兵役不適格で職にあぶれていたバーンスタインを、ニューヨーク・フィルの副指揮者にしてくれたのである。ライナーもロジンスキーも気難しく気性の激しい指揮者として知られているが、ポピュラー音楽に偏見を持たず、アメリカ人の才能ある音楽家を育てようとした意外な一面が知れる。ただしロジンスキーとはその後関係がこじれてゆくことになる。一方、バーンスタインの最初の指揮のアイドル、改宗ユダヤ系ロシア人クーセヴィツキ―はジャズ的なものを嫌い、バーンスタインがブロードウェーで成功したことに腹を立てたという。
  その後1940年にボストンの新聞社が主催する音楽クイズに優勝し、現金150ドルと、ボストン・ポップス・オーケストラの野外演奏会で指揮する権利を得た。そこでワーグナーの『マイスタージンガー』前奏曲を振ったのが、プロ・オーケストラでの指揮デビューとなる。このころ最初の交響曲『エレミア』を作曲。1943年には、ニューヨーク・フィルに客演したブルーノ・ワルターの急病の穴を埋めて全国生放送された演奏会の指揮台に立ち、伝説的成功を収めた。これはワルターが仮病を使ってバーンスタインに振らせた美談としても知られるが、休暇中のロジンスキーが副指揮者のバーンスタインを指名したに過ぎないらしい。但しバーンスタインと親しいマネージャーがよりふさわしい代役の到着を阻止した可能性もあるという。
  この年の秋に、バレエ・シアターの振付師ジェームズ・ロビンズが、『ファンシー・フリー』という題の、一幕物のバレエの企画を持ってやってきた。これが『オン・ザ・タウン』、『ウェストサイド物語』、『ディバック』へと続く、実り豊かな協力関係の始まりとなる。1944年にはライナーのピッツバーグ響で『エレミア』初演の指揮をとる。


■「悲劇的ミュージカル・コメディ」『ウェストサイド物語』

  このミュージカル(ミュージカル・コメディの略語である)の大きな特色は、伝統的なブロードウェイのスタッフではなく、「クラシック系」のアーティストによって作られていたことだった。ジェームズ・ロビンズはバレエの振付師。アーサー・ローレンツはシリアスな脚本家、劇作家。作詞のスティーヴン・ソンダイムはプリンストン大でミルトン・バビットに学んだ。舞台デザインのオリバー・スミスは画家。そしてクラシックの作曲家バーンスタイン。ブロードウェイのミュージカル・コメディのノウハウを知らない若い才能たちが協力して作り上げた、現代の音楽劇であった。
  バーンスタインの日記には、1949年1月6日にその発端が見られる。「ジェローム・ロビンスが「復活祭と過越し祭が同時進行するスラム街で展開される現代版『ロメオとジュリエット』という案を電話で伝えてきた。ユダヤ人がキャピュレット家、カトリックがモンタギュー家だ。ジュリエットはユダヤ人。修道僧ロレンスは近所のドラッグストアの親爺。街中での喧嘩、二人の死など、すべてが重なる。しかし、ミュージカル・コメディの手法を使ってこの悲劇を演出しようというアイデアに比べれば、こうした設定は大して重要でない。ミュージカルの手法を使いながら、オペラの罠にはまるまいということだ。」
  だが企画はすぐに実現せず、機が熟すまで温めていくことになる。1955年にようやく再度話が動き出す。
  「ユダヤ人対カトリックという設定は新鮮味がないので没。その代案に思い付いたのが、血の気の多いプエルトリコ人と、アメリカ人気取りの不良少年グループの対立だ。」
  1958年8月20日ついに初公演。成功裏に終えた翌朝バーンスタインは書いている。
  「昨夜の初公演は我々が夢見ていた通りの出来栄えだった。数知れぬ苦しみ、度重なる延期、果てしない書き直しが、すべて報われた。ブロードウェイで最終的に成功するかどうかはわからないが、我々がここ何年もの間に夢見てきたことが可能だという確信を得た。愛と憎しみという深刻なテーマ、死と人種問題、若い出演者、シリアスな音楽、高度なバレエという、ミュージカル上演に危険な要素を取り入れたにもかかわらず、観客と批評家両方に意義のある上演と受け止められたのだから。」
  バーンスタインの熱狂的な自画自賛の中にあるおぼろげな危惧は的中した。『ウェストサイド物語』初演は確かに好意的に受け止められたが、興行全体としては大成功とは言えなかったのである。興行は732公演で終了したが、これは当時としては中ヒット程度の公演数で、トニー賞は装置と振り付けのみが受賞した。やはりシリアスなテーマと音楽はすぐには受け入れられなかったのだ。同年に上演された『ザ・ミュージックマン』という典型的なミュージカル・コメディこそは大ヒットとなり、『ウェストサイド物語』の10倍以上、1375回のロングランとなって、トニー賞は主要6部門を受賞した。『ウェストサイド物語』が今に至る名作の地位を得るのは、その後の映画化の大成功によるものであり、その大人気によってミュージカルも1960年代から世界各地でリバイバル上演されるようになって、今日のミュージカル史上屈指の傑作としての地位を築いていった。
  だが運命とは皮肉なものである。大指揮者であるよりも作曲家であることを望んだバーンスタインは、自らの名がシリアス・ミュージックの作曲家としてでなく、ブロードウェイのミュージカル『ウェストサイド物語』の音楽担当として名を残すことを生涯恐れることになった。晩年には超一流のオペラ歌手を揃えて自らの指揮により『ウェストサイド物語』を録音し、オペラ作品としての存在感を示そうとさえした。伝記作者のひとりポール・マイヤーズはバーンスタインが泣きながら語ったという言葉を伝えている。「わたしはもうベートーヴェンが死んだ年齢よりも2歳しか若くないのに、いまだに偉大な作品を作曲できていない。」



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【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

■2014年9月12日 http://ooipiano.exblog.jp/22474259/
 D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
 A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)
 三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

■2015年3月13日 http://ooipiano.exblog.jp/23322462/
 A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
 O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)
 P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

■2015年5月22日  http://ooipiano.exblog.jp/24126209/
 G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
 B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

■2016年9月22日 《СТРАВИНСКИЙ ОСТАЕТСЯ》 http://ooipiano.exblog.jp/25947275/
 I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
 I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》
 S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年4月28日 《Bartók Béla zenekari mesterművei két zongorára átírta Yonezawa Noritake》 http://ooipiano.exblog.jp/26516776/
 B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
    導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
 B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
    I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
 B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

■2017年9月20日 現代日本人作品2台ピアノ傑作選  https://ooipiano.exblog.jp/27397266/
 ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版)   花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
 西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
 一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
 西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
 篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
 湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
 南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)

■2018年5月25日 ストラヴィンスキー2台ピアノ作品集成 https://ooipiano.exblog.jp/29413702/
ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
  I. - II. - III. - IV. - V.


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# by ooi_piano | 2018-11-26 11:02 | POC2018 | Comments(0)

【増補】11月9日(金)19時 L.ベリオ全ピアノ作品+小内将人新作(音源リンクつき)

Portraits of Composers [POC] 第38回公演  ルチアーノ・ベリオ 全ピアノ作品
大井浩明(ピアノ)

2018年11月9日(金)19時開演(18時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp
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●P.エトヴェシュ(1944- ):《地のピアノ - 天のピアノ(L.ベリオの追憶に)》(2003/2006、日本初演) 約3分
●L.ベリオ(1925-2003)
  《小組曲》(1947) 約10分
   ~ 前奏曲 - 小エール第1 - ガヴォット - 小エール第2 - ジーグ
  《ダッラピッコラの歌劇「囚われ人」による5つの変奏》(1953/66) 約8分
  《循環(ラウンド)》(1965/67) 約4分
  《水のピアノ》(1965) 約2分
  《続唱(セクエンツァ)第4番》(1966) 約11分
  《土のピアノ - 田園曲》(1969) 約2分
●小内將人(1960- ):《ピアノ造形計画/国歌--運動と停滞による》(2018、委嘱新作初演) 約10分

 (休憩 15分)

●B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977、東京初演) 約8分
●L.ベリオ(1925-2003):《空気のピアノ》(1985) 約3分
  《火のピアノ》(1989) 約3分
  《塵》(1990) 約2分
  《葉》(1990) 約1分
  《ピアノソナタ》(2001) 約25分


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  《小組曲》(全5楽章)は1947年作曲、翌年にコモ(イタリア)で初演された。1975年に祖父エルネスト・ベリオ(1847-1942)、父アドルフォ・ベリオ(1883-1966)の作品とともにウニヴェルザル社から「ベリオ一家のアルバム」として出版。ガヴォットの中間部にミュゼットが差し挟まれるのは、シェーンベルク《組曲Op.25》(1921/23)の模倣というよりは、その元ネタであるバッハ《イギリス組曲第3番BWV808》の有名なト短調ガヴォットを直接的に参照している。
  《五つの変奏》は1952~53年に作曲、同年ミラノで作曲者自身により初演された後、出版にあたって1966年に大幅に改訂された。被献呈者であるイタリア人作曲家、ルイージ・ダッラピッコラ(1904-1975)のオペラ《囚われ人》(1948)で、看守が囚人に「兄弟よ」と呼びかけ、フェリペ2世に対するフランドル蜂起を伝える3音の動機(F-E-Cis)に基づく、5つの変奏と終結部から成る。後年ルイジ・ノーノも、打楽器アンサンブルとライヴエレクトロニクスのための《ルイジ・ダラピッコラとともに》(1979)で、このモチーフを援用した。

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  《循環(ラウンド)》は、まずモダンチェンバロ作品として1965年に作曲され、同年アントワネッテ・ヴィッシャーによりバーゼル(スイス)で初演。2年後にピアノ版へ改作され、指揮者マルチェロ・パンニに献呈、ジョエル・スピーゲルマンにより1968年ニューヨークで初演。第1部の譜面をひっくり返したものが第2部であり(変位記号はそのまま)、その後第1部がダカーポされる。「際限なく混淆され分岐する声部と音色の妙技」(ベリオ)。
  《続唱(セクエンツァ)第4番》は、ワシントン大学(セントルイス)の委嘱で、ブラジル人ピアニスト、ジョシー・デ・オリヴェイラ(カルヴァリョ)のために1965/66年作曲、同年同地で初演。1993年に改訂。《続唱》は独奏/独唱のための技巧的な作品のシリーズであり、全14曲(編曲を含めると19曲)を数える。その幾つかは協奏曲シリーズ《道(シュマン)》(全11曲)へと発展した。

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  《水のピアノ》は1965年作曲、1970年にブレシア(イタリア)でアントニオ・バリスタにより献呈初演。ブラームスのロ短調間奏曲Op.119-1やシューベルトのヘ短調幻想曲D940についてNYの友人達と雑談したことに着想を得たと云う。《土のピアノ》(1969)は米人批評家トーマス・ウィリスに献呈、1970年にベルガモでアントニオ・バリスタにより初演。《空気のピアノ》は、ピアノ協奏曲第2番《谺する曲線》(1988/89)のスケッチとして1985年作曲、翌年1月27日にフィレンツェでグレゴリオ・ナルディにより初演。当時21歳だったナルディが、《水》《土》に続く連作をベリオに手紙で問い合わせたのがきっかけらしい。《火のピアノ》は1989年作曲、同年NYでピーター・ゼルキンにより献呈初演。《塵》(1990)は、仏人ピアニスト、ミシェル・ウダル(1960-1993)に献呈。ウダル自身の録音が残っているので、早世したウダルへの追悼作品では無い。《葉》は、1989年に亡くなったロンドン・シンフォニエッタ音楽監督、マイケル・ヴァイナーの追憶に捧げられ、1990年5月6日ロンドンでポール・クロスリーにより初演。(ヴァイナー追悼作品としては、他にH.W.ヘンツェ《レクイエム》、武満徹《リタニー》《マイ・ウェイ・オブ・ライフ》、P.M.デイヴィス《単旋聖歌による葬送曲》、H.グレツキ《おやすみ》、O.ナッセン《密かな賛美歌》等がある。)1990年に『六つのアンコール曲』としてまとめて出版された際の楽章順は、《塵》-《葉》-《水》-《土》-《空気》-《火》、である。
  《ソナタ》は、チューリヒ音楽祭委嘱により2001年に作曲、ドイツ人音楽学者ラインホルト・ブリンクマンに献呈。2001年7月22日チューリヒ・トンハレにてアンドレア・ルケシーニにより初演。他界する2年前に書かれた、ベリオ最後にして最長のピアノ曲である。「古今のソナタに見られる二項対立については、統語論的に対手としていない」(ベリオ)。


■小内將人:《ピアノ造形計画  国歌~運動と停滞による》(2018)
  ピアノ造形計画とは、ピアノでどんな表現ができるのだろうかという自分なりの可能性を探ろうという取り組みのシリーズ。「国歌」で4作目だ。この作品には、日本を取り巻く国際情勢に対するアイロニーが国歌の引用という形で色々と表されている。曲は国歌のモチーフをふんだんに用いて賑やかで騒々しいカプリチオに始まり、特殊な響きを作り出そうとする中間部を経て再びカプリチオに終わる。素材はかなり自由に変容されているが、いくつの国歌が何カ所に引用されているかは皆さんの耳でご確認いただきたい。(小内將人)

●小内將人 Masato Kouchi, composer
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 1960年東京生まれ。明治学院大学文学部フランス文学科卒業。在学中より独学で作曲を始める。1983年仏ポワチエ夏期音楽大学に参加、パリ音楽院教授のM.メルレに対位法を学ぶ。 1986年第二回ヴィオラ・ダ・ガンバ作曲コンクール第一位入賞。1994年より「新しい世代の芸術祭」を主催。多くの若手リサイタルや他ジャンルとのコラボレーションを企画する。室内楽、管弦楽、オペラ、合唱、古楽、雅楽などの様々な分野に作品多数。



■B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977) 
  私は常に迷宮、迷路、カレンダー、カタログに関心を抱いてきた。私が作曲した幾つかの迷宮は、何度も出発が繰り返され、到着は錯覚に過ぎないような領域の探求である。この《カターロゴ》では、探査される領域は非常に狭く、中央Cから1オクターヴ上のCまでの13音の可能な組み合わせに限定されている。ピアニストの2本の手で、この音域で何通り(100万以上?)の異なる分配が可能か計算したことは無いし、正直なところ、反復されたかどうかもチェックしていない。
  たった今、最小限の使用音域のせいで、この曲がアメリカ・ミニマリズムと関連付けられると思い至ったが、しかしそれは本意ではない。単調さを避けるのは困難であろう。もっとも、狭い和音に加えて、不如意に加えられる低音、アクセント、平手打ちのように使われる音塊、演奏者によって控えめに歌われる二つの音、それにある種の装飾音、ペダルのノイズ等が現れる。ともあれ、この単調さは《カターロゴ》を悲しげな小品にしている。
  悲しみは私の人生とはかかわりが無く、私は幸福な人間である。そして音楽は、それが私の音楽でさえ、人生の出来事に添うものとしては深刻に過ぎる。私の忘れられた作品を大井浩明が演奏することに感謝する。(ブルーノ・カニーノ、2018年10月)




ルチアーノ・ベリオ覚え書き──野々村禎彦(音源リンク付)

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 ルチアーノ・ベリオ(1925-2003) はオルガニストを輩出した音楽家一家に生まれ、ピアニストを目指して音楽を学び始めたが、第二次世界大戦で徴兵されて銃の暴発で右手を傷め、やむなく作曲家に転じた。ピアノ演奏はその後も続け、ミラノ音楽院に留学してきたアルメニア系米国人キャシー・バーベリアン(1925-83) の伴奏を行う中で親密になり、1950年に結婚した。心ならずも作曲を選んだ彼は同世代の進歩主義には共鳴できず、新古典主義的な堅実な作風だった。だが、タングルウッドの講習会でルイジ・ダラピッコラ(1904-75) に学び、後期ヴェーベルンに傾倒していた師の影響でセリー音楽に興味を持ったことで、彼の歩みは大きく変わった。この運命の岐路にも、バーベリアンの存在は無視できない。イタリアは敗戦国とはいえ、クラシック音楽の本場ミラノからわざわざマサチューセッツ州郊外に学びに行くことは、妻の出身地でなければ有り得なかったはずだ。

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 ヨーロッパ戦後前衛の中心地ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加したベリオは、最新の流行を貪欲に吸収してゆく。総音列技法と管理された偶然性という戦後前衛の基本的な語法に加え、ブルーノ・マデルナ(1920-73) とイタリア国営放送(RAI)電子音楽スタジオを設立し(1955)、アンサンブルの空間配置なども試みた。5楽器群のための《アレルヤII》(1957-58) に至る作品群によって彼は戦後前衛を代表する作曲家のひとりに数えられるようになったが、彼が示したのはブーレーズやシュトックハウゼンのような開拓者精神ではなく、誕生後間もない語法ですら職人的洗練の対象として扱えることだった。左翼的な主題の表現のためなら調性も具体音も躊躇なく使ったルイジ・ノーノ(1924-90) とも対照的だ。なお、バーベリアンは活動初期から現代音楽に積極的に取り組んでいたわけではなく、ジョイスの詩によるベリオ《室内楽》(1953) の初演後数年は育児に専念していた。

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 バーベリアンの最初の本格的な仕事は1958年、ウンベルト・エーコとベリオが企画したラジオ番組で朗読を担当したことだった。この際のジョイス『ユリシーズ』の朗読の録音を徹底的に加工して彼の電子音楽の代表作《テーマ》(1958) が生まれた。RAIスタジオは国外の作曲家への新作委嘱も行ったが、ケージは《フォンタナ・ミックス》(1958) 制作中に《アリア》(1958) をバーベリアンのために書いた。そして「現代音楽の歌姫」は覚醒した。この曲を通じて彼女の現代音楽解釈能力は広く知られるようになり、内外から作品献呈が相次いだ。ベリオも彼女の歌唱に刺激されて声楽書法を研究し、前衛前期の代表作である《サークルス》(1960) (その1その2)や《主の顕現》(1959-61) を彼女の演奏を前提に書いた(あるいは、彼女の演奏がこれらの曲を彼の代表作に引き上げた)。

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 ベリオの電子音楽のもうひとつの代表作《顔》(1960-61) も、バーベリアンの声が素材である。シュトックハウゼンや湯浅譲二のように、正弦波発振音やホワイトノイズから未知の音響を作り出す志向は彼は持っておらず、既存の素材の精緻な加工が、彼にとっての電子音楽制作だった。この作品では特定のテキストを用いずに彼女の声のニュアンスを活かそうとした。それに応えて狂気の淵まで降りた彼女の表現は凄まじく、さすがのベリオも収録中に耐えられなくなってスタジオから逃げ出したというが、この時期の作品中でもインパクトの強さは飛び抜けている。ただし、声の魔力に目覚めてしまった彼女は、私生活のパートナーとしては強烈すぎる存在になっていた。

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 彼は1962年からオークランドのミルズ・カレッジで教え始める。当初は長期休暇を取るミヨーの代役という形だったが、その前年にはRAIスタジオを辞しており、そのまま米国移住する予定だったものと思われる。バーベリアンと距離を取って新生活を始めることが、大きな動機だったのだろう。ヨーロッパ時代の集大成《パッサジオ》(1961-62) の後、《セクエンツァII》(1963) から《見出される曲線上の点》(1974) までの、米国での音楽経験が色濃く反映された前衛後期の作品群こそが、作曲家ベリオのピークにあたる。彼は渡米後程なく、後に高名な心理学者となるスーザン・オヤマと暮らし始め、彼女と結婚するためにバーベリアンと正式に離婚するが、その年に現代音楽では屈指の人気曲となる民謡編曲集《フォーク・ソングス》(1964) をバーベリアンのために書き(彼女が採譜したアルメニア民謡も含まれる)、ふたりはその後も音楽上の重要なパートナーであり続けた。彼女のキャリアはここからが本番で、《ビートルズ・アリア》(1967)、モンテヴェルディから自作まで取り上げた《マニフィキャシー》(1971) などのアルバムでクラシック音楽界を超えて知られるようになった。なお、大井の師ブルーノ・カニーノ(1935-) は、彼女の伴奏者としても名高い。

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 彼が自ら手を動かして電子音楽制作に打ち込んだのはRAIスタジオ時代までだが、むしろスタジオを離れたことで、その経験は創作全体に広がった。器楽ソロの《セクエンツァ》シリーズでは、《サークルス》と一緒に最初のLP (WERGO, 1967) に収録された I (1958) / III (1965-66) / V (1966) が特に有名だが、各々ニコレ/バーベリアン/グロボカールが録音したことも手伝って、超絶技巧がテーマだと思われがちだ。だが、真の狙いは持続音の和声の精妙な制御にあり、テープ上で音色と残響を加工する操作の器楽曲への応用に他ならない。ソステヌート・ペダルを駆使したIV (1965-66) の実演はそれを体感する良い機会になるだろう。和声や対位法の拡張とコンテクストの置換を通じて小編成旧作を大編成に拡大する「注釈技法」は、《セクエンツァ》シリーズを《シュマン》()シリーズに発展させるところから始まったが、これもテープ加工操作の器楽曲への応用とみなせる。

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 ダンテ生誕700年記念曲《迷宮II》(1963-65) はベリオ終生の代表作になった。ダンテ作品と関連作品を再構成したテキスト+アンサンブルに大編成フリージャズ、合唱にスキャットを全面的に導入+サイケデリックな電子音の背景という構成は、ヨーロッパの伝統と米国の同時代が交錯する、前衛後期の豊かな時代様式の最良のサンプルだ。これに匹敵する作品は、B.A.ツィンマーマン(1918-70) 終生の代表作《ある若き詩人のためのレクイエム》(1967-69) くらいだろう。ミシェル・ポルタル(クラリネット)、ジャン=フランシス・ジェニー=クラーク(コントラバス)、ジャン=ピエール・ドゥルーエ(打楽器)ら、現代音楽とヨーロッパ・フリージャズ双方で活動する初演メンバーがリードする祝祭的な自演録音()も面白いが、ジョン・ゾーンとの共演歴も長いロックヴォーカリストのマイク・パットンが、あえて現代音楽的な音色の複雑さと間に焦点を合わせたIctusアンサンブルの精緻な音世界を達者な語りで引っ張る、パットンの個人レーベルからリリースされた2010年ライヴは、リーマンショック後の陰鬱な世界を反映した、今日の音楽に生まれ変わっている。

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 彼のもうひとつの終生の代表作が、NYP創立125周年記念作品として委嘱され、マーラー《復活》(当時の音楽監督バーンスタインの十八番)の第3楽章を泰西名曲の引用で装飾した第3楽章、キング牧師追悼曲《おおキング》(1968) を第2楽章として含む《シンフォニア》(1968/69) である()。レヴィ・ストロースのテキストをスウィングル・シンガーズが歌う設定は多元的文化状況を象徴しているが、音楽的には《迷宮II》よりも随分マイルドで、いまだ日本未初演の同曲とは対照的に、この曲は現在では《セクエンツァ》シリーズと並んで日本でも頻繁に演奏されている。


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 1965年からジュリアード音楽院で教え始めたベリオは教育にも力を入れ、翌年にジュリアード・アンサンブルを結成した。ミルズ・カレッジではスティーヴ・ライヒ(1936-) やフィル・レッシュ(1940-, グレイトフル・デッドのベーシスト)、同時期に欧州ではルイ・アンドリーセン(1939-) らを教えた。すなわち彼は、ある意味では「ミニマル音楽の父」にあたる。また、1972年の帰国後の代表作である、《2台ピアノのための協奏曲》(1972-73) や《見出される曲線上の点》を特徴付ける反復書法は、米国でのミニマル音楽の記憶の反映とみなせる。彼はイタリア帰国の理由を、国際的な委嘱で忙殺されホテル暮らしが常態になった中で、祖国での日常生活への郷愁が芽生えたと説明するが、その前年にはジュリアード音楽院を辞してオヤマとも別れており、米国移住時と同様のパターンと推察される。その中で1974年からはIRCAM電子音響部門ディレクターに就任し、ホテル暮らしは続いたが、1977年の最後の結婚を機にシエナ近郊の農村ラディコンドリに居を構えた。

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 合唱とオーケストラのための《合唱》(1975-76)()、チェロとアンサンブルのための《夢への回帰》(1976-77) からヴィオラ協奏曲《》(1984) に至る、彼のポスト前衛時代の最初の10年の作品群を特徴付けるのは、民謡素材への強い関心である。一般にはこの時期の代表作とされる、イタロ・カルヴィーノのテキストによる音楽劇《真実の物語》(1977-81)() と《聞き耳を立てる王》(1979-84) も、この傾向の一翼をなす。彼はIRCAMのディレクターを1980年まで務め、この間に電子音響部門では音響合成システム4Xを開発したが、クラリネットとの相互反応の実験(器楽パートのみ《セクエンツァIX》(1980) として発表し破棄)など、成果はいくつかの試作に留まった。バーベリアンは1983年に世を去り、彼は追悼音楽《レクイエス》(1984-85) を書いた。私見では、これがベリオが輝いていた最後の作品であり、彼の作曲家としての生涯はまさに彼女とともにあった。

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 その後の歩みで特筆すべきは、IRCAMディレクター時代の探求を引き継いだ、実用性を重視した音響合成システムを開発する研究所「テンポ・レアール」を1987年にフィレンツェに設立し、自作にも積極的に応用し始めたことだが、肝心の音楽の魂が抜けた状態で、オーケストラのリアルタイム音像移動を行っても… 彼の「注釈技法」は、多作な作曲家の生産性を支える秘訣としてW.リームらにも参照されたが、この時期になると《見出される曲線上の点》のオーケストラ版《協奏曲II:谺する曲線》(1988-89)、《主の顕現》のオーケストラ版《エピファニーズ》(1991-92) など、アンサンブルの代表曲まで再加工の対象にした。だがそれらは、弦楽四重奏の魅力が弦楽合奏に編曲した途端に失われる、クラシック音楽でも馴染み深い失敗の再生産にすぎなかった。なおこの時期には、シューベルトのニ長調交響曲の補筆完成版《修復》(1989-90) など、クラシック音楽の創造的編曲にも取り組んだ。戦後前衛とは一線を画した音楽職人にふさわしい終の住処だった。


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# by ooi_piano | 2018-10-25 01:53 | POC2018 | Comments(0)

10月6日(土)17時 北米ピアノアンソロジー

Portraits of Composers [POC] 第37回公演 《北米ピアノ・アンソロジー》 
大井浩明(ピアノ)
2018年10月6日(土)17時開演(16時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
【予約・お問い合わせ】essai-Ïo(エッセ・イオ) poc2018@yahoo.co.jp

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【第一部】
●M.バビット(1916-2011):《3つのピアノ曲》(1947) 8分
   《パーティションズ》(1957) 3分
   《ポスト・パーティションズ》(1966) 4分
●E.カーター(1908-2012):《夜想(ナイト・ファンタジーズ)》(1980) 22分
   《懸垂線》(2006) 3分

  〔休憩10分〕

【第二部】
●G.クラム(1929- ):《マクロコスモス》第1巻(1972)+第2巻(1973)〔黄道十二宮による24の幻想小曲集〕 65分
  1. 原初に響あり(創世1) [巨蟹宮] - 2. 海神プローテウス [双魚宮] - 3. 牧歌~紀元前1万年のアトランティス王国より [金牛宮] - 4. 十字架 [磨蝎宮] - 5. 輕舸乗りの幻 [天蝎宮] - 6. 夜の咒1 [人馬宮] - 7. 蔭の音楽~エオリアン・ハープのための [天秤宮] - 8. 果てしなき魔法円(無窮動) [獅子宮] - 9. 時の深淵 [処女宮] - 10. 春の焔 [白洋宮] - 11. 夢の面影(愛の死) [双子宮] - 12. 渦巻く天の川 [宝瓶宮] - 13. 暁の音楽(創世2) [巨蟹宮] - 14. 神秘和音 [人馬宮] - 15. 死雨変奏曲 [双魚宮] - 16. 幻日(永遠の影法師) [双子宮] - 17. 幽遊夜曲~ストーンヘンジの道士達へ(夜の咒2) [処女宮] - 18. 石像鬼 [金牛宮] - 19. トラ・トラ・トラ!(ワレ奇襲ニ成功セリ)~黙示録的カデンツァ [天蝎宮] - 20. ノストラダムスの大予言 [白洋宮] - 21. 宇宙風 [天秤宮] - 22. 竈星からの呼び声 [宝瓶宮] - 23. 銀河の鐘の連禱 [獅子宮] - 24. 神羊誦 [磨蝎宮]

  〔休憩10分〕

【第三部】
●C.ヴィヴィエ(1948-1983):《シーラーズ》(1977) 13分
●J.C.アダムズ(1947- ):《中国ゲート》(1977) 5分
    《フリュギアのゲート》(1977) 24分
●J.ゾーン(1953- ):《雑技団巡業(カーニー)》(1989) 12分

  〔休憩10分〕

【第四部】
●D.ゼミソン(1980-):《霞を抜けて》(2018、委嘱新作初演) 7分
●J.C.アダムズ(1947- ):《アメリカン・バーセルク》(2001、日本初演) 6分
●J.ゾーン(1953- ):《爾の懷ふを爲せ》(2005、日本初演) 22分



ダリル・ゼミソン:《霞を抜けて Through the mist, empty sky》(2018、委嘱新作)
  霞のような三層の音楽素材が厚くなり、次第に消散していく。バスのクラスターは、次第に個々の音符になっていく。旋律が鍵盤の上に大きく広がり、だんだん早くなり、そして遅くなっていく。鍵盤中央部の倍音は、あるときは複雑な、またあるときは簡素なニュアンスの微分音の和音を伴なって、本曲のサウンドスケープを彩っていく。(ダリル・ゼミソン)

ダリル・ゼミソン Daryl Jamieson, composer
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  1980年、カナダ・ハリファックス生。ウィルフリッド・ローリエ大、英ギルドホール音楽演劇学校、ヨーク大を経て、文部科学省奨学生として来日、東京藝大で近藤譲に作曲を師事。代表作にモノオペラ《松虫》(2014年)、和楽器五重奏のための《憂きこと聞かぬところありや》(2017年)、大野一雄に献呈された声・琵琶・笙のための《スペクトル》、尺八協奏曲《鎖されし闇》等。作品はボッツィーニ弦楽四重奏団やMusiques Nouvelles、Orchestre National de Lorraine、アンサンブル室町、井上郷子(ピアノ)、上田純子(琵琶)、アルノルト・シェーンベルク室内楽団、ヨーク大学室内楽団などによって演奏されている。2018年、第3回一柳慧コンテンポラリー賞受賞。現在、ミュージック・シアター「工房・寂」アーティスティック・ディレクター、作曲家集団「Music Without Borders」メンバー、昭和音大非常勤講師。 http://daryljamieson.com/



POC流・北米「アカデミズム」小史──野々村 禎彦

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 POCシリーズで取り上げた北米の作曲家はアイヴズケージフェルドマンと、広義の実験主義の作曲家に限られ、今回がそれ以外の潮流をまとめて紹介する機会になる。とは言っても、ピストン、ロイ・ハリス、コープランド、ウィリアム・シューマン、バーバーら、パリに留学してブーランジェに学んだ新古典主義者たちやその周辺までは取り上げない。作品の質や企画意図との整合性以前に、彼らは第二次世界大戦後の米国アカデミズムの主流ですらない。米国発の抽象表現主義を現代美術の主役に押し上げた以上、音楽は旧態依然では格好がつかないという事情もあろうが、ナチスの伸張に伴ってストラヴィンスキー、ヒンデミット、ミヨーらヨーロッパの新古典主義を代表する作曲家たちも「米国の作曲家」になっており、そのエピゴーネンなど用済みということだったのだろう。

c0050810_21304477.gif まずはミルトン・バビット(1916-2011)。米国発の「総音列技法」の出発点になったのは、彼が博士論文’(1946) で原型を提出した「ピッチクラスセット理論」であり、《3つのピアノ曲》(1947) は最初の適用例だった。音楽要素を音響と切り離して数学的に操作する以上、総ての音楽要素に適用するのが自然な流れで、この独自理論はヨーロッパ戦後前衛の「総音列技法」に数年先行している。セッションズに師事した学生時代から新ウィーン楽派の音楽を研究してきた彼は生粋のセリー主義者だが、シェーンベルクとは直接の接点はない。米国亡命後の弟子で後世に名を残したのはケージら実験主義者であり、シェーンベルクは米国のアカデミズムから切り離されている。「現代音楽」の理論は米国独自のものであるべきだった。抽象絵画の歴史はカンディンスキー、マレーヴィチ、モンドリアン、クレーらヨーロッパの大家たちに始まり、アンフォルメルの画家たちに継承されたが、彼らとは独立な米国の抽象表現主義や色面抽象の画家たちが、彼らを差し置いて戦後の「現代美術」の主流になる過程で、美術評論家グリーンバーグによる独自の理論が大きな役割を果たしたように。

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 ピッチクラスセット理論は、創始者バビットの手を離れて音楽学者たちの手中で発展し、次世代を代表するチャールズ・ウォーリネン(1938-) は既にバビットと直接の接点はない。濃密な師弟関係の中で育まれた新ウィーン楽派の12音技法や、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習という共通の場で育まれたヨーロッパ戦後前衛の総音列技法とは成り立ちが違う。このようなプラグマティックな標準化志向と、貴族的な真理探究よりも短期的な資金獲得を重視して流行のテーマに集中する米国の学問的体質が相まって、前衛の時代の米国のアカデミズムはピッチクラスセット理論一色になった。平明な米国流新古典主義で一世を風靡したコープランドや、バビットの師だったセッションズすら、この流れの中でセリー主義者になった。ただしこの「総音列技法」は、英語圏の現代音楽史ではヨーロッパ戦後前衛のものと同列に扱われるが、それ以外の地域ではほぼ無視されている。複雑な迷宮を志向するヨーロッパ流とは対照的な、聴取可能な構造への志向も特徴的だが、この技法を使い始めて20年近く経た《ポスト・パーティションズ》(1966) も音楽的には殆ど差がないのが一番の問題だ。これはバビットに限った話ではなく、「伝統を墨守するアカデミズム」の証に他ならない。

c0050810_21315109.gif 米国のアカデミックなセリー主義者の頭数の主力は新古典主義からの転向組だったが、その中でもエリオット・カーター(1908-2012) は傑出している。ピアノソナタ(1945-46) や《ミノタウロス》(1947) までの作風はブーランジェに学びコープランドの影響を強く受けた平明な新古典主義だったが、チェロソナタ(1948) や弦楽四重奏曲第1番(1951) で複雑な半音階書法に転じた。作曲技法的には全音程テトラコードとメトリック・モジュレーションを組み合わせ、セリー書法は意図的に避けている。この独自路線を突き詰めた弦楽四重奏曲第2番(1959) でピューリッツァー賞を受賞するとピッチクラスセット理論を導入したが、全音程テトラコードに代わる原理という位置付けで、セリー生成手段としての標準的な用法ではない。そして作品はさらに複雑化し、ピアノ協奏曲(1964-65)、管弦楽のための協奏曲(1969)、弦楽四重奏曲第3番(1971)、3群の管弦楽のための交響曲(1976) などの中期代表作群は、英国発の潮流に先行する「新しい複雑性」のルーツと看做されている。

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 《交響曲》はブーレーズがNYPの首席客演指揮者を務めていた時期に献呈され初演された。ケージとの決裂以来米国音楽には辛辣だったブーレーズも、ヨーロッパ的な迷宮志向の彼は唯一高く評価しており、以後ヨーロッパからも多くの委嘱を受けるようになる。カーターが国際的評価を確立する中で、彼の作品を自前できちんと演奏しようとする機運も高まり、米国の演奏水準への絶望から作曲の中心をシンセサイザーに移していたバビットが、再び器楽曲を作曲の中心に据えるようになるような波及効果もあった。ただし80年代に入ると、カーターは「複雑性」からは距離を取り始める。既に70歳を越えた年齢も大きな要因だろうが、結果的に最晩年までコンスタントに委嘱を得られたのはこの路線変更の賜物である。《ナイト・ファンタジーズ》(1980) はその端緒になった。

c0050810_21351851.gif 米国における「新ロマン主義」の代表とされているジョージ・ロックバーグ(1918-2005) 、デイヴィッド・デル・トレディチ(1937-) 、エレン・ターフェ・ツヴィリチ(1939-) も軒並みセリー主義を経て伝統回帰した。理由は人それぞれだが、モダニズムを音楽的必然性から内発的に選んだのでなければ、自分を納得させる言い訳が見つかった時が転向する時だ。ジョージ・クラム(1929-) も「新ロマン主義」の作曲家に含まれるが、彼は元々教条的なセリー主義者ではない。《子供達の古の声》(1970) などで声と特殊奏法が織りなす幻想的な世界を求め、《ブラック・エンジェルス》(1970) などで電気増幅の効果を探求した。《マクロコスモス》シリーズは、バルトーク《ミクロコスモス》を意識している時点で明白にヨーロッパの伝統を志向している。彼は第1巻(1972)第2巻(1973) の間で「新ロマン主義」の川を渡り(2巻24曲構成はドビュッシー《前奏曲集》も意識している)、IIIにあたる《夏の夜の音楽》(1974) は2台ピアノと2打楽器奏者という編成でバルトークを参照し、IVにあたる《天体のメカニクス》(1979) は《ミクロコスモス》を締め括る連弾曲を参照している。これで音楽的にやり尽くしたタイミングで、新自由主義とともに押し寄せた「新ロマン主義」の大波は通俗的かつ大味で、ヴェーベルン的な音世界を持ち味にしていた彼の音楽は埋もれていった。

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 ミニマル音楽はニューヨーク楽派以降の米国実験主義で最も影響力を持った潮流である。インド音楽とフルクサスの強い影響から出発したラ=モンテ・ヤング(1935-) やテリー・ライリー(1935-) と、よりアカデミックな発想から出発したスティーヴ・ライヒ(1936-、ベリオに師事してセリー主義を見限る) やフィリップ・グラス(1937-、実験主義に向かう前はブーランジェに師事) がサイケデリック・ムーヴメントの中で反復と電気増幅の魅力に目覚め、協同歩調を取って始まったわけだが、次世代になるとアカデミズムに取り込まれてゆく。ジョン・クーリッジ・アダムズ(1947-) はその代表である(米国実験主義の「素朴派」にあたるジョン・ルーサー・アダムズ(1953-) と区別するためにミドルネームも表記される)。グラスとライヒは、オペラや管弦楽曲の委嘱を受ける中で機能和声を用いた「マキシマル」な書法に移行してゆくが、その方向性ではアカデミックな手堅い基礎を持つJ.C.アダムズに優位性があり、表舞台の主役になってゆく。オペラ《中国のニクソン》(1987) は、ニクソンと毛沢東の和平会談という題材も手伝って内外で再演が相次ぎ、グラス《浜辺のアインシュタイン》(1975) と並ぶ米国現代オペラの代表作と看做されるようになった。音楽も台本も現在でも評価は割れているが、舞台芸術では炎上商法が特に有効という確信を得て、金融自由化に支えられたバブル下でのブームに乗って現時点で8作を数え、すっかりオペラ作曲家と認知されている。ただし彼の本領はピアノ曲や小編成作品にあり、このような受容は果たして幸福だったのだろうか。ミニマル音楽第一世代の作曲家たちも完全に取って代わられたわけではなく、グラスはポップカルチャーとの折衷、ライヒはメディアミックス、ライリーとヤングは純正律探求と棲み分ける形になった。

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 クロード・ヴィヴィエ(1948-83) は70年代前半にケルン音大でシュトックハウゼンに学び、フォルメル技法を使い始めた時期の師の関心を受け継いだ。彼は70年代半ばにバリ島や日本に滞在して民俗音楽を深く身に着け、《サマルカンド》(1976) からオリエンタルな旋律素材を使い始めたが、構成手法は依然師の影響下にあった。60年代半ばに「世界音楽」を提唱したシュトックハウゼンのもとには主に非ヨーロッパの作曲家が集まり、彼の民俗音楽志向もその流れの中で育まれた。オペラ《コペルニクス:死の祭祀》(1979) と《オリオン》(1979) で旋法的な旋律の儀式的なユニゾンを基調とするヘテロフォニックな独自語法がほぼ確立されたが、前者では器楽奏者も歌手と同等に動き回る舞台構成、後者では生々しい声で音楽を異化する所作に、まだ同時期の師の面影が残っている。翌年の《孤独な子供》(1980) と《ジパング》(1980) で遂に独自語法のみで勝負する態勢が整ったが、その3年後にパリで男娼を装った19歳の強盗と同宿し数日後に刺殺体で発見された。エキゾティシズムをはるかに超えた「想像上の民俗音楽」に至った彼は、東海岸/西海岸、アカデミズム/実験主義といった表層的な二項対立に収斂しがちな北米の音楽状況の中で、第三極として機能したカナダを象徴する作曲家である。実験主義をアカデミックに精査したジェームス・テニー(1934-2006) も長らくカナダを拠点にしていた。日本の民俗音楽に魅せられて移り住み、日本の風土に即した音楽を探求している委嘱作曲家のゼミソン・ダリル(1980-) も、このカナダの「伝統」に連なっている。

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 最後にジョン・ゾーン(1953-)。音楽家として総合的に判断すると今回取り上げる中で最も重要な存在であり、「現代作曲家」としての側面は彼のごく一部に過ぎない。彼は70年代後半、NYダウンタウンの即興音楽を牽引するサックス奏者として頭角を現した。当時の即興音楽を代表する潮流は、デレク・ベイリー(1930-2005)、エヴァン・パーカー(1944-) ら英国の音楽家が牽引するヨーロッパ自由即興だったが、後期ヴェーベルンをモデルに録音を聴き返しつつ反復練習して「いかなる既存語法の痕跡も排除」する即興のあり方は、同質的なコミュニティだからこそ可能な姿勢で、この時点で既に新たな伝統語法と化しつつあった。ワールドミュージックやポップ音楽寄りの音楽家も多く、複数のターンテーブルを操って既存の録音のカットアップを「音楽」として提示するクリスチャン・マークレイ(1955-) のような音楽家(近年は映像を同様の手法で処理する美術作家としての活動の方が中心)も含む、NYダウンタウンのコミュニティにはそぐわない。そこでゾーンが考案したのは、即興の細部を指定せず音楽の成り行きを決めるルールのみ定めた、一連の「ゲームピース」だった。このような音楽のあり方はシュトックハウゼンのケルン・アンサンブルやNew Phonic Artのような60年代の現代音楽側の集団即興で既に試みられていたが、同質的な固定メンバーのアンサンブルと多様な背景を持つ不定メンバーのアンサンブルでは土台が違い、さらにパンクやハードコアを偏愛する彼の「速度」フェチの嗜好も相まって、NYダウンタウン即興を特徴付ける傾向が固まってゆく。特に《コブラ》(1984) は、具体的な音楽様式を一切指定せずに指揮者役の嗜好の表出も排除した、音響のサンプリングや指揮者への反逆まで含む柔軟なシステムであり、広範な影響を与えた。彼が80年代後半から90年代初頭まで高円寺で暮らしていたこともあり、日本では巻上公一を中心とする定期公演が現在まで続き、山本裕之らは音楽教育に取り入れている。多様式の混淆で特徴付けられるNYダウンタウン即興の傾向はゲームピースに留まらず一般化され、相性を意識した慎重な人選よりも意外な出会いを重視する方向に、即興音楽のあり方も変えた。

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 だが流行には終わりがある。ヘンリー・カウとアート・ベアーズに参加し、70年代英国の実験的ロックを代表するギタリストだったフレッド・フリス(1949-) が1979年にNYに移住すると、その知名度ゆえにNYダウンタウン即興はヨーロッパの即興フェスティヴァルの注目を集め、ゾーンらの音楽は徐々に世界に広まっていったが、「意外な出会い」も日常化すると新鮮さは薄れ、相性の良い組み合わせでなければ共演を繰り返しても深化は起こらない。90年代に入ると、素材を限定し相性を重視する(ヨーロッパ自由即興との差異化は持続音志向とエレクトロニクス志向で行う)「音響的即興」が世界各地で勃興し始め、数年後にはヨーロッパ自由即興の大家たちが彼らの志向を意識した方向転換を行ったことも手伝って、再び主役は入れ替わった。ゾーンはこの変化をいち早く察知しており、90年代に入ると活動の中心をユダヤ音楽と古典的作曲に移し始める。そのような作品は日本のDIWレーベル内に立ち上げたサブレーベルAvantでリリースし、NYダウンタウン即興の仲間たちの発表場所も確保した。1995年にはAvantレーベルの担当者杉山和紀と共にNYでTzadikレーベルを立ち上げ、プロデュース活動もさらに拡大した。彼は元々初期カーゲル作品に衝撃を受けて音楽を始め、〈九尾の猫〉(1988) や〈カーニー〉(1989) などの初期作曲作品ではNYダウンタウン即興の音楽様式を確定譜面に移植していたが、その後のより構築的な作曲作品では私淑するウォーリネンの書法を参照しており、この意味で米国アカデミズムの継承者でもある。彼の作曲作品はアカデミックにも評価されており、コロンビア大学による米国の作曲家の生涯業績賞であるウィリアム・シューマン賞は、最初の20年は専らアカデミックな作曲家の中で回されていたが、00年代以降は2000年のライヒを皮切りに、2007年のゾーン、2009年のポーリン・オリヴェロス(1932-2016)、2015年のJ.L.アダムズと、専ら実験音楽の作曲家に与えられている。ゾーンの早期受賞には、Tzadikレーベルからウォーリネンやバビットらの作品集をリリースした貢献も考慮されたのかもしれない。





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# by ooi_piano | 2018-09-19 13:49 | POC2018 | Comments(0)