松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)
【ポック(POC)#49】2023年1月27日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その2〉
●ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタなB》(1973、日本初演) 17分
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903) 14分
I.仏塔 - II.グラナダの夕べ… - III.雨の庭
■《仮面》(1904) 5分
■《喜びの島》(1904) 4分
■《子供の領分》(1906/08) 16分
I.グラドゥス・アド・パルナッスム博士 - II.象の子守唄 - III.人形のセレナード - IV.雪は踊っている - V.小さな羊飼い - VI.ゴリウォーグのケークウォーク
(休憩10分)
●野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「Jazzの彼方へ」》(2008/2023、改訂版初演) 6分
■C.ドビュッシー:《12のエテュード集》(1913/15) 44分
I.両手の「五本指」で(チェルニー氏に倣って) - II.三度で - III.四度で - IV.六度で - V.八度で - VI.八本指で - VII.半音階で - VIII.装飾音で - IX.連打音で - X.対比した音響で - XI.組み合わせた分散和音で - XII.和音で
[使用エディション/デュラン社新全集版(2005/07)]

ベツィ・ジョラス:《ソナタなB》(1973、日本初演)

ジョラスにとってピアノ曲を書く事は、作曲家としての真価が問われる「審判の時」であり、出来るだけ遅く、理性の成熟を期する50歳の頃(1976年)を心積もりしていたと云う。オルガンと小オーケストラのための《冬の音楽》(1971)、ピアノ独奏のための《準備のうた》(1972)、チェンバロ独奏のための《周りに》(1972)といった鍵盤作品の経験を経て、マリー=フランソワーズ・ビュケのNYでの「ソナタ・プログラム」の委嘱をきっかけに、本作は1973年7月に完成した。
《B for Sonata》という英語タイトルについて、〈『Sonata』という言葉は、もちろん古典的な意味合いではなく、多くの現代作曲家がある種の厳密な構想を示すために使っている用語である。『B』については、私自身の秘密を明かすことなく、分析から逃れる得るもの全て、すなわち幻想、自由、もしかして魔法、としか言えない。〉と作曲当時は口を濁していたが、遅くとも1998年のインタビューで、Bとはベツィ(Betsy)でも音高(B音)でも「Before (= B for)」でもなく、バリ島(Bali)の事であると告白している。
1972年12月から翌年1月にかけて2週間のインドネシア訪問は、モーリス・フルーレ(音楽評論家)とアンリ=ルイ・ドラグランジュ(音楽学者)によって企画され、ジョラスの夫(アルジェリア人リウマチ専門医)や武満徹、クセナキスの夫妻も参加し、彼らに大きな作風の変革を及ぼした。武満徹《フォー・アウェイ》は1973年5月6日にロンドンでロジャー・ウッドワードが献呈初演、1973年7月2日に完成したクセナキス《エヴリアリ》は同年10月23日にNYでマリー=フランソワーズ・ビュケが献呈初演、ジョラス《ソナタなB》は1974年1月5日にNYでビュケが初演している。
ベツィ・ジョラス Betsy JOLAS, composer

1926年8月5日パリ生まれのアメリカ系仏人作曲家であるエリザベス(ベツィ)・ジョラスは、6か月年長のジェルジ・クルタークと並んで、現役最長老の現代作曲家である。1940年の年末にアメリカに移住し、ベニントン大学を卒業。1946年にパリに戻り、パリ音楽院でミヨーやメシアンに師事。1971年に同音楽院のメシアンの楽曲分析科を受け継ぎ、75年に正式に同クラスの教授に任命、78年に同校作曲科教授に就任。イェール大学、ハーバード大学、南カリフォルニア大学、ミルズ大学(ダリウス・ミヨー講座)等でも教鞭を執った。アメリカ芸術文化アカデミー会員(1983)、アメリカ芸術科学アカデミー会員(1995)、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(2022)等。近作に《夏の小組曲》(2015、サイモン・ラトル/ベルリン・フィル委嘱)、《バッハ市からの手紙》(ライプツィヒ・ゲヴァントハウスとボストン響の共同委嘱)、弦楽四重奏曲第8番《トペン》(2019、アルディッティSQ初演)、i-Tunesをもじったピアノ協奏曲《b-Tunes》(2021、BBCプロムス初演)、《最新作 Latest》(2021、パリ管弦楽団・バイエルン放送・サンフランシスコ響・コンセルトヘボウ共同委嘱)等。
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野平一郎:《間奏曲第6番「Jazzの彼方へ」》(2008/2023、改訂版初演)
《Jazzの彼方へ》は想像上のさまざまなジャズの即興演奏が連なっていく。その連なりには理論はなく、テンポやスタイルの全く異なる断片が、記憶の縁を洗い流い出すように続いていくことで、再び間奏曲第1番《ある原風景》の衝動が作る虚無へと回帰する。一瞬夢から目覚めたように調性のはっきりしたスタンダードなフレーズが現れるが、また混沌の中に消え去る。(野平一郎)
野平一郎 Ichiro NODAIRA, composer

1953年生まれ。東京藝術大学、同大学院修士課程作曲科を修了後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に学ぶ。間宮芳生、永富正之、アンリエット・ピュイグ=ロジェ、ベツィ・ジョラス、セルジュ・ニグ、ミシェル・フィリッポ他に師事。80曲以上に及ぶ作品の中にはフランス文化省、アンサンブル・アンテルコンタンポラン、IRCAM、ベルリンドイツ交響楽団、国立劇場、サントリー音楽財団、NHKその他からの委嘱作品がある。尾高賞(1996、2013)、サントリー音楽賞(2004)、紫綬褒章(2012)、日本芸術院賞(2018)他受賞。現在、東京文化会館音楽監督、静岡音楽館AOI芸術監督、東京藝術大学名誉教授、東京音楽大学教授。日本フォーレ協会会長、東京藝術大学附属高等学校同窓会会長。 https://ichironodaira.jp/
野平一郎:《間奏曲集 Interludes pour piano》(1992- ) 初演データ
●第1番「ある原風景 (Un paysage d’origine)」1992年9月12日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
●第2番「イン・メモリアム・T (In memoriam T.)」 1998年2月13日 越谷サンシティホール(野平一郎) [H.ルモワーヌ社刊]
●第3番「半音階の波 (La vague de la gamme chromatique)」 2006年2月23日 東京オペラシティ(中嶋香、委嘱初演) [H.ルモワーヌ社刊]
●第4番「2つの和音 (Deux accords)」 2008年10月25日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
●第5番「1つのラインとその影 (Résonance de l’ombre)」 2008年10月25日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
●第6番「Jazzの彼方へ (Au delà du jazz)」 2008年10月25日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
>Пожалуй, из иностранной части наиболее интересен японско-русский проект. Наши композиторы – Диляра Габитова и Мераб Гагнидзе – писали сочинения специально для Маки Секия и так или иначе в них отразилась японская традиция. В «Японской сюите» Габитовой это обработки японских песен, в Сонате № 37 Гагнидзе – широкое использование пентатоники. Зато в произведениях японских композиторов Ичиро Нодайры (Интерлюдия № 7) и Сомея Сато («Incarnation II»), наоборот, нет никакой прямой связи с японской традиционной музыкой, скорее, это видение музыки Запада с точки зрения Востока. В опусе Нодайры много природной стихийности; у Сато интересный эффект – быстрые репетиции и фигурации сливаются в сплошной звуковой поток, и форма этому потоку стопроцентно соответствует. Вообще для Маки не существует технических сложностей.
《林の中の散歩道》(1985)、《日本古謡によるパラフレーズ》(さくらさくら/ずいずいずっころばし)(1987)、間奏曲第2番「イン・メモリアム・T (武満徹の追憶に)」(1998)、《響きの歩み》(1999/2000)、 《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006)、《間奏曲第7番》(2014)

《版画》以降のドビュッシー:ピアノ曲を中心に―――野々村 禎彦

クロード・ドビュッシー(1862-1918) の創作の中心だった歌曲と管弦楽曲はオペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) で集大成され、それを境に彼の作風は大きく変わった。この変化の核心は創作の中心がピアノ曲に移ったことで、イサーク・アルベニス(1860-1909) の成熟したピアノ曲を特徴付ける、「民俗音楽に由来する不均質な素材を異なったレイヤーに置いて多層的に組み合わせる」という発想を機能和声の制約を外して取り入れたことがその背景にある。この発想以前は声という特権的なパートや管弦楽の豊かな音色のパレットが彼の作曲には必要だったが、この発想を得てピアノ曲の無色で脱中心的な特徴を積極的に作曲に活かせるようになった。
第一歩にあたる《版画》(1903) で、彼は当時の手持ち素材にこの発想を適用した。まずは、お蔵入りにしていた《忘れられた映像》(1894) の第3曲。フランスの童謡〈嫌な天気だから、もう森へは行かない〉をフランス・バロック鍵盤音楽風の変奏曲に仕立てようとしてうまくいかなかった曲だが、単層処理には向かない楽想は多層処理すればよいというのがこの発想。バロック音楽風素材が鳴り続ける中に、別レイヤーに置かれた童謡の素材が透かし彫りのように浮かんでは消える〈雨の庭〉に書き換えられた。この発想を知った後は民俗音楽の聴き方も変わる。1889年パリ万博でジャワのガムラン音楽を初めて聴いた彼は、早速《ピアノと管弦楽のための幻想曲》(1889-90) などでその音階を用いたが、1900年パリ万博で再びガムラン音楽を聴き、記憶が鮮明なうちにこの発想を得た彼は、「その側に寄るとパレストリーナさえ幼く見えるような対位法」こそがガムラン音楽の本質だと気付き、〈パゴダ〉が生まれた。レイヤー構造にマップされる音現象を広く「対位法」と捉える、拡張された対位法の感覚がこの発想を通じて得られたのである。

そして、発想の源泉であるアルベニスへのリスペクトは〈グラナダの夕暮れ〉で明示された。この曲を聴いたマヌエル・デ・ファリャ(1876-1946) は「アンダルシアの情景を最も正確に表現した音楽を、スペインを訪れたことのないフランス人が書くとは!」と感嘆したが、ドビュッシーはそれをアルベニスの作品を通じて聴き取っていた。グリーグの弦楽四重奏曲の特徴を抽出して自身の弦楽四重奏曲に生かしたように、彼の能力で最も突出していたのは他の作曲家の作品の本質を抽出する眼力だが、この曲で対象になったのはアルベニス作品だけではない。モーリス・ラヴェル(1875-1937) のデビュー曲《耳で聴く風景》の第1曲〈ハバネラ〉(1895) は、このキューバ生まれのスペイン舞曲の本質をリズムよりも固定音の使用に見たのが慧眼で、この着想も取り入れている。だが、ラヴェルはこれを参照ではなく盗用だとみなし、ドビュッシーは仰ぎ見る先輩から乗り越えるべきライバルになった。
《版画》で殻を破った彼は、塩漬けにしていた《映像》に立ち返って第1集(1901-05)・第2集(1907)・《管弦楽のための映像》(1905-12) を含む大型契約をデュラン社と結び、ピアノ曲に積極的に取り組み始める。《仮面》(1904) と《喜びの島》(1904) はともに、エンマと駆け落ちを始めた時期に英国で書かれた。《喜びの島》は新生活の喜びをストレートに表現しており、彼の作品では例外的にスケールが大きく演奏効果も高い。他方《仮面》は、操り人形テーマ系列の歌曲の曲想を踏襲しているが、彼自身は「実存の悲劇の表現」だと述べている。作曲時期などを総合的に考えると、《喜びの島》は恋人エンマ、《仮面》は前妻リリーに仮託した音楽だと捉えてよいだろう。想いの深さの差が音楽の深さの差に直結しているのは残酷だ。

その後もラヴェルは彼に粘着し続けた。《鏡》(1904-05) の〈海原の小舟〉は《喜びの島》、〈道化師の朝の歌〉は〈グラナダの夕暮れ〉を明確に意識している。《版画》の完成から《映像第1集》の最終稿に着手するまでの間に彼は《海》(1903-05) を書き上げており、この経験を経て《映像第1集》は複雑な音楽に仕上がったが、美学的には多分に1901年の初稿(初演者ビニェスの回想で言及されているだけで、残ってはいない)に引きずられており、アルベニス由来のレイヤー書法の斬新な発想がストレートに出ているのは《版画》の方である。両者を統合した完成形が《映像第2集》だが、こうして性格小品の3曲セットという「様式」が確立すると、様式化・標準化された世界が得意なラヴェルが《夜のガスパール》(1908) で本領を発揮した。特に第2曲〈絞首台〉では、因縁の固定音の魅力が最大限に活かされており、コンサートピースとしてのポピュラリティではドビュッシーを乗り越えた。
するとラヴェルは嵩にかかり、管弦楽曲でも彼を乗り越えようとする。《夜想曲》の2台ピアノ編曲を1909年、《牧神の午後への前奏曲》の連弾編曲を1910年に行っているのは、ドビュッシーの管弦楽法の本質を身に付けようとしたのだろう。《海》以降の「気の迷い」には目もくれないのもラヴェルらしい。「旋律と伴奏」では捉えられない、様式化・標準化を拒む音楽は相手にしなかった。バレエ音楽《ダフニスとクロエ》(1909-12) でその目論見は果たされ、今日の商業音楽教程の最終段階にあたる映画音楽の管弦楽法で「印象主義」とされるのは、この時完成されたラヴェルの管弦楽法に他ならない。他方ドビュッシーはもはや世評からは超然として、次世代を代表する作曲家に自分の音楽の真髄を伝えられればよいと割り切っていた。イゴーリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) の《火の鳥》(1909-10) がバレエ・リュスで初演された時、それにふさわしい作曲家を見出した彼は楽屋を訪れ、新作の進捗や作曲の秘密まで共有する親密な間柄になった。同じ年、ラヴェルは国民音楽協会に反旗を翻して独立音楽協会を設立し、ストラヴィンスキーもシェーンベルクやバルトークと並んで評議委員に名を連ねたが、名実ともに「進歩派代表」になった「スイスの時計職人」に心を許すことはなかった。

彼は《管弦楽のための映像》の〈イベリア〉(1905-08) を書き始めるにあたって、アルベニスの師ペドレルが編纂したスペイン民俗歌曲集とアルベニス《イベリア》第1巻(1905) を入手した。英国・スペイン・フランス民謡に基づく三幅対というコンセプトがこの曲集の出発点だったからだが、リスペクトする作曲家の久々の新作を読み込むにつれて構想は変化した。このピアノ曲集では同時代の彼と同じ段階までレイヤー書法が発展しており、単にスペイン民謡を素材にするだけではアルベニスを超えられない。そこで彼は、スペインの民俗音楽の本質を抽出してオリジナルな旋律を作り、それを用いて昼から翌朝までの時間経過を描くという大掛かりな構想に至った。全3曲に膨らんだ〈イベリア〉を書き上げた時点で彼は満足し、残る〈ジーグ〉(1909-12) と〈春のロンド〉(1905-09) は民謡に基づく2台ピアノ譜を「ドビュッシーらしい」管弦楽法で彩色するいう、実は彼らしからぬ「お仕事」になった。特に最後に完成した〈ジーグ〉では、管弦楽化を友人のアンドレ・カプレ(1878-1925) に委ねている。
アルベニス《イベリア》を最後の第4巻(1907-08) まで購入した彼の関心は、《前奏曲集》(1909-10/11-13) として結実した「その先」のピアノ曲に向かった。アルベニス作品は依然機能和声の枠内で書かれ、ヴィルトゥオーゾ風の展開の残滓もあり、まだ発展の余地は大いにある。そこで、エンマとの間に生まれた娘クロード=エンマの誕生に際して書き始めた《子供の領分》(1906-08) を試行の場にした。〈象の子守唄〉と〈人形のためのセレナード〉は、途切れなく続く旋律で人形遊びの情景を素直に描いた曲、〈小さな羊飼い〉も単旋律の三部形式の平易な曲想を持つ。しかし〈ゴリウォーグのケークウォーク〉は、人形遊びとは言っても黒人人形を操るミュージック・ホールの音楽であり(この路線の端緒)、《トリスタンとイゾルデ》前奏曲の一節も引用される。そして〈グラドゥス・アド・パルナッスム博士〉と〈雪は踊っている〉は、各々クレメンティの練習曲を嫌々弾く子供の様子と雪が降り積もる様子の描写だが、最小限の要素の展開に絞ってすぱっと終わる潔さが《前奏曲集》の語り口に直結している。コンサートピースに求められる「スケール感」の大半は夾雑物であり、レイヤー書法を用いてしかるべく圧縮すれば、序奏も経過句もコーダも必要ない。

《前奏曲集》に関しては前回の解説で十分に触れたので今回は繰り返さない。アルベニス《イベリア》にならってヨーロッパ各地の民俗音楽素材を収集し、2ヶ月で一気に書いた第1巻(1909-10) に続き、より尖鋭的で抽象的な発想を2年かけて形にした第2巻(1911-13) の途中で書いたバレエ音楽《遊戯》(1912) が、《前奏曲集》の影響下に書かれた、議論に値する唯一の管弦楽曲である。彼とエンマは浪費家どうしの結婚で、1908年に《海》の再演を指揮して以来、自作指揮で生活費を稼いできたが、そのお座敷も減ってきたこの時期には、生活のための「お仕事」作品が増えていた。かのバレエ・リュスの委嘱である《遊戯》も、彼の意識では当初はそんな「お仕事」のひとつだった。だが、1人の青年と2人の少女がテニスを介した恋のゲームに興じるという取り留めのない筋書きに沿って音楽を付けてゆくだけで、抽象度が高く流れの方向の変化のみを純粋に結晶化した音楽が実現できることに気付き、真剣に取り組んだ。いまや彼は、音楽を自在に伸び縮みさせて舞台上のいかなる動きにも合わせる術を会得していた。
初演の評判は、大きな批判もないが話題にもならない、ある意味最悪のものだった。《海》の時のように批判という形でもリアクションがあれば、後で挽回も可能なのだが。2週間後に初演されたストラヴィンスキー《春の祭典》(1911-13) のスキャンダルの陰で、《遊戯》は完全に忘れられてしまった。ただし、《春の祭典》の初演前に作曲者と連弾して試演していた彼は、この日が来るのは予期していた。むしろ彼は《春の祭典》を、《海》や《管弦楽のための映像》を発展させた音楽だと冷静に受け止めていた。一度は忘れられた《遊戯》は前衛の時代に、総音列技法の推進者たちが夢見た「形式の自由」を体現する音楽として再評価された。4管編成なのに室内楽的なテクスチュアの薄さも当時の時代様式に合っていた。シュトックハウゼンはその不連続性から「モメンテ形式」を着想し、ブーレーズは指揮者としても積極的に取り上げた。

《前奏曲集第2巻》の完成でピアノ曲では行くところまで行き、《映像第2集》でピアノ書法を完成させて以来休みなく作曲してきたモードは終わった。第一次世界大戦勃発後の1年弱は、全く作曲ができなかった。連続作曲モードに入って慢性化した痔が悪化して直腸癌に移行したことによる、体調の悪化と死への恐怖が原因だという見方もある。大戦が塹壕戦に移行して戦線が膠着すると、デュラン社は伝統的レパートリーの新校訂版を企画し、物資不足で大曲の委嘱がなくなった契約作曲家たちに校訂を依頼した(生活費を貸すよりも仕事を作った方がよい)。彼はショパン作品の校訂に取り組み、作曲への意欲を取り戻してゆく。1915年6月にノルマンディー地方の避暑地プールヴィルに移ると創作力は爆発し、夏の数ヶ月に一挙に4作を書き上げた。
最初に書いたのが2台ピアノのための《白と黒で》(1915) だった。彼は無調は独墺系音楽に固有の傾向だと考え、戦時下の「フランスの音楽家」としてバロック時代の軽やかな調性に戻ろうとした。普仏戦争以来の独墺系音楽の優位への、第一次世界大戦を背景にしたラテン諸国の反発として大戦後の一大潮流になった新古典主義はこの作品が先駆だった。レイヤー書法を自在に扱えるようになり、調性の曖昧さに頼る必要がなくなったということでもある。特に第3曲はストラヴィンスキーに献呈されており、「自分の音楽の後継者に進むべき道を示す」という意図も込めていたのかもしれない。当時のストラヴィンスキーは、大戦勃発直前に里帰りした時に買い集めた民衆詩集にアンサンブル伴奏を付ける方向性に専念しており、しばしば目にする「ストラヴィンスキーの新古典主義に接近しすぎたので献呈した」という解説は全くの誤解だが、そのような誤解が生じるほど彼は時代を先取りしていた。

彼は次に「さまざまな楽器のための6つのソナタ」の企画書をディラン社に送る。《チェロとピアノのためのソナタ》(1915) は彼が偏愛したミュージック・ホールの音楽の総括(彼が耳にしたのはミンストレル・ショーや操り人形の音楽程度のはずだが、第2楽章は遠い未来のビバップのベースソロを思わせる音楽なのが、彼の想像力の凄いところ)、《フルート・ヴィオラ・ハープのためのソナタ》(1915) は《牧神》の最小編成による管弦楽法の総括(管弦の掛け合いプラス倍音奏法を多用したハープという「特殊楽器」が彼の管弦楽法には必要)だが、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》の本来の意図は旋律楽器の王者を用いた歌曲の総括で、残る《オーボエ・ホルン・チェンバロのためのソナタ》は彼のもうひとつの偏愛対象である古代ギリシャ風のアルカイックな音楽の総括、《トランペット・クラリネット・ファゴット・ピアノのためのソナタ》は管楽器の音色対比の総括、それまでに登場した全楽器とコントラバスによる合奏協奏曲で最後を飾る、迫り来る死を意識して「ドビュッシーのすべて」を書き遺そうとした企画だったのではないか。
上記の推測は、この時期のもうひとつの作品《練習曲集》(1915) が、彼のピアノ曲の総括だったことに由来する。「四度」「六度」「装飾音」「反復音」などが集中的に現れる曲は音楽史上に殆ど存在せず、技術的練習曲としては奇妙なコンセプトだが、「ドビュッシーのピアノ曲の練習曲」と捉えると腑に落ちる。すなわち、〈5本の指のために〉は「チェルニー氏に倣って」という副題から想像される通り、型にはまった調性音楽のパロディの練習曲・〈三度のために〉は明確な調性を持っていた初期作品の練習曲・〈四度のために〉は五音音階などのエキゾティックな音組織の練習曲(小泉文夫の民俗音楽理論では、五音音階は四度のトリコードを重ねて生成される)・〈六度のために〉は「印象主義」を象徴する音組織の練習曲・〈オクターヴのために〉は祝祭的なトッカータの練習曲・〈8本の指のために〉はフランス・バロック鍵盤音楽風の軽やかな動きの練習曲・〈半音階のために〉は不規則に跳躍する半音進行で「無調」を表現する書法の練習曲・〈装飾音のために〉は装飾音をリズムのゆらぎと捉える練習曲・〈反復音のために〉は反復音で調性感を曖昧にする書法の練習曲・〈対比音のために〉は彼の内省的な作品を特徴付ける固定音の彩色という奥儀の練習曲・〈複合アルペジオのために〉は彼流の名技性を特徴付ける書法の練習曲・〈和音のために〉は新古典主義に移行して新たに加わった打楽器的な和音の扱いの練習曲である。

この4作を書き終えてパリに戻ると直腸癌は急速に進行し、年末に行われた手術はもはや手遅れであることを確認するだけのものだった。翌年は妻子の病気のために避暑に出かけることも叶わず、パリの自宅でうずくまっていた。《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》(1916-17) はそのような日々の中で秋から春にかけて書き進められ、初演では自らピアノを弾いた。飛翔するヴァイオリンをピアノが支え続ける、絶望的な日々から喜びの歌を絞り出した音楽はもはや「歌曲の総括」では全くない。アンヴィヴァレントな感情が吐露された、本来の意味で「ロマン主義的」な音楽には、シゲティ&バルトークからファウスト&メルニコフまで、その機微を汲んだ名演も少なくないが、生存証明のために書いた本来の音楽性とはかけ離れた作品に、彼自身は厳しい評価を下していた。このソナタは長らく彼の遺作とされていたが、2001年に《燃える炭火に照らされた夕べ》(1917) が発見された。上記ソナタ作曲中、石炭の入手に苦労していた彼に便宜を図った炭屋に謝礼として書いた小品だが、旧作ピアノ曲の断片を平明な経過句で結んだだけの曲で、この時期の彼はここまで衰えていたのかと暗然とする。調性に戻った最晩年が彼の本来の姿だなどと主張するのは、彼が積み重ねた創作への侮辱である。
彼は道半ばで病に倒れた。もし彼が奇跡的に回復し、あと数年生きていたらと想像するのは虚しくもあるが、《ビリティスの3つの歌》(1897-98) 以後の歌曲は数年後の創作を予言する実験ジャンルになっており、全くの妄想というわけでもない。実際、《二人の恋人の散歩道》(1904-10) や《ヴィヨンの3つのバラード》(1910) は、新古典主義期の創作を予言する曲想を持つ。しかし《マラルメの3つの詩》(1913) は、跳躍を繰り返す旋律線と半音階的なピアノ書法が特徴的な、全く新しい道に踏み出している。もし共通する音楽を挙げるとしたら、フランスではブーレーズの声楽曲、同時代では中期ヴェーベルンのアンサンブル伴奏歌曲ということになる。この時期のヴェーベルンはストラヴィンスキーのアンサンブル伴奏歌曲を聴き、自身と共通する簡潔さに共感していた。大戦後のフランス新古典主義は六人組主導の享楽主義に向かった。彼はそれを見限って、新たな道に進んでいたかもしれない。