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POC2018 第37~第41回公演

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Portraits of Composers [POC] 第37~第41回公演
大井浩明(ピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円 5公演パスポート12000円]
〈予約・お問い合わせ〉エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp





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【ポック[POC]#41】 権代敦彦・自選ピアノ代表作集  2019年2月23日(土)18時開演(17時半開場)
●権代敦彦(1965- ): 《十字架の道/光への道 op.48》(1999)、《青の刻 op.97》(2005)、《耀く灰 op.111》(2008)、《無常の鐘 op.121》(2009)、《カイロス―その時 op.128》(2011)、《時の暗礁 op.146》(2015)
●川島素晴(1972- ):《複数弦によるホケット/手移り/ジャンプ/ポリル/マルシュ・リュネール》(2019、委嘱新作初演)
●R.シュトラウス(1864-1949)/川島素晴編:歌劇「サロメ」より《七つのヴェールの踊り》(1905/2019、委嘱初演)




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(終了)【ポック[POC]#37】 北米ピアノ・アンソロジー 2018年10月6日(土)17時開演(16時半開場)
●E.カーター(1908-2012):《夜想(ナイト・ファンタジーズ)》(1980)、《懸垂線》(2006)
●M.バビット(1916-2011):《3つのピアノ曲》(1947)、《パーティションズ》(1957)、《ポスト・パーティションズ》(1966)
●G.クラム(1929- ):《マクロコスモス》第1巻(1972)&第2巻(1973)
●J.C.アダムズ(1947- ):《中国ゲート》(1977)、《フリュギアのゲート》(1977)、《アメリカン・バーセルク》(2001、日本初演)
●C.ヴィヴィエ(1948-1983):《シーラーズ》(1977)
●J.ゾーン(1953- ):《雑技団巡業(カーニー)》(1989)、《爾の懷ふを爲せ》(2005、日本初演)
●D.ゼミソン(1980-):《霞を抜けて》(2018、委嘱新作初演)



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(終了)【ポック[POC]#38】 ルチアーノ・ベリオ 全ピアノ作品  2018年11月9日(金)19時開演(18時半開場)
●L.ベリオ(1925-2003):《小組曲》(1947)[全5曲]、《ダッラピッコラの歌劇「囚われ人」による5つの変奏》(1953/66)、《循環(ラウンド)》(1965/67)、《水のピアノ》(1965)、《続唱(セクエンツァ)第4番》(1966)、《土のピアノ - 田園曲》(1969)、《空気のピアノ》(1985)、《火のピアノ》(1989)、《塵》(1990)、《葉》(1990)、《ソナタ》(2001)
●B.カニーノ(1935- ):《カターロゴ》(1977、東京初演)
●P.エトヴェシュ(1944- ):《地のピアノ - 天のピアノ(L.ベリオの追憶に)》(2003/2006、日本初演)
●小内將人(1960- ):《ピアノ造形計画/国歌--運動と停滞による》(2018、委嘱新作初演)


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浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2018年11月30日(金)19時開演(18時半開演) 入場無料(後払い方式)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
●G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃないIt Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
●L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)
 I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
●J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)
●N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)
●H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン》(2017/18、日本初演) 


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(終了)【ポック[POC]#39】 日本アカデミズムの帰趨  2018年12月14日(金)19時開演(18時半開場)
●松村禎三(1929-2007):《ギリシャに寄せる二つの子守唄》(1969)、《巡禮 I/II/III》(1999/2000)
●三善晃(1933 - 2013):《ピアノソナタ》(1958)、《前奏曲「シェーヌ」》(1973)、《アン・ヴェール》(1980)、《円環と交差Ⅰ・Ⅱ》(1995/98)
●野平一郎(1953- ):《アラベスク第2番》(1979/89/91)、《間奏曲第1番「ある原風景」》(1992)、《間奏曲第2番「イン・メモリアム・T」》(1998)、《響きの歩み》(2001)、《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006)、《間奏曲第7番》(2014)
●棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/2018、改訂版初演)





c0050810_17360340.jpg(終了)【ポック[POC]#40】 ハリソン・バートウィッスル全ピアノ作品  2019年1月26日(土)18時開演(17時半開場)
●H.バートウィッスル(1934- ): 《約言》(1960)、《悲しい歌》(1971)、《ジャンヌの子守歌》(1984)、《夜明けのヘクトール》(1987)、《ハリソンの時計》(1998)、《メロディとオスティナート》(2000)、《ベティ・フリーマン - 彼女のタンゴ》(2000)、《サラバンド:王の拝辞》(2001、日本初演)、《メトロノームの精の踊り》(2006、日本初演)、《ジーグ・マシーン》(2011、日本初演)、《ゴールドマウンテン変奏曲》(2014、日本初演)
●なかにしあかね:《Knot Garden》(2018、委嘱新作初演)
●金澤攝(1959- ):《Toilette Music》(2018、委嘱新作初演)



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POC2018:アカデミズム再考──野々村 禎彦

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 POCシリーズも今年度で8期目。戦後前衛の枠組みをひっくり返した異能者たちも昨年度に取り上げ、もはや残るはアカデミズムくらい…なのだが、「アカデミズム=保守の牙城」という図式は、戦後前衛の時代にはむしろ例外的だった。枢軸国側のドイツとイタリアの戦後処理では、「元々は都市国家の連合体だった両国は、統一が遅れた分中央集権を過度に指向しファシズムに至った」という判断から、特に文化面では徹底的な地方分権が行われた。統一国家における教育機関の序列化こそが「アカデミズムらしさ」の源泉であり、一国一城の主の集合体ではそうはならない。ファシスト党支配からの自力解放を果たしたイタリアではアカデミズムの大きな入れ替わりはなかったが、ドイツでは戦時体制の一翼を担った保守派は教育の場から追放され、アカデミズムはむしろ進歩派(ただし、尖鋭化した戦後前衛の主流派からは微温的とみなされた)の巣窟になった。前衛の時代が終わる頃には、リゲティ、クラウス・フーバー、シュトックハウゼン、シュネーベル、カーゲル、ラッヘンマンら、戦後前衛を代表する作曲家たちがアカデミズムの中枢を占めることになる。

 連合国側の米国でも、ブーランジェ門下の新古典主義者たちに代わって、米国独自のセリー主義者たちがアカデミズムの中心になった。文化面で米国のプレゼンスを示すために、米国発の潮流を現代美術の主役に押し上げた以上、音楽は旧態依然では格好がつかなかったのだろう。英国では伝統的なアカデミズムが保たれたが、行き過ぎた保守性ゆえに再生産は行われず、前衛の時代の終わりとともに保守化したかつての進歩派たちに取って代わられた。結局、伝統的なアカデミズムが戦後前衛を経た後も保たれたのは、ドイツ占領下で冷凍保存されていたフランスだけだった。日本においてもそのようなアカデミズムのイメージが保たれているのは、ドイツ系の作曲家たちは公職から追放されたがフランス系の作曲家たちは追放を免れ、戦後のアカデミズムの中心になったことに由来する。

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 以下では各回の特集作曲家を紹介するが、演奏会の順序とは少々変えて、まずはベリオ。ノーノと並ぶイタリア戦後前衛第一世代を代表する作曲家と一般にはみなされているが、表現したい題材に応じて前衛語法もそれ以外も使い倒すノーノとは対照的に、前衛語法を所与の前提として職人的に仕上げるベリオの姿勢は、伝統的なアカデミズムに極めて近い。彼の作風は1962年の米国移住、1972年のイタリア帰国、1983年のキャシー・バーベリアンの死という私的な出来事を境に、若干のタイムラグを伴って大きく変わる。妻バーベリアンの歌唱と電子音楽制作からインスピレーションを得て「前衛職人」道を邁進していた最初のイタリア時代。私生活ではバーベリアンと別れ(音楽生活では彼女はミューズであり続けた)、ポピュラー音楽やクラシック音楽との様式混淆を通じて才能が開花した米国時代。ミルズ・カレッジとジュリアード音楽院で教鞭を執り、ライヒやアンドリーセンらを教えて最も「アカデミック」に活動した時代でもある。米国時代のミニマル音楽の思い出と民謡への関心が前面に出てきた二度目のイタリア時代。そして、ミューズを失った後の抜け殻の時代。

 次はバートウィッスル。P.M.デイヴィスと並ぶ「マンチェスター楽派」を代表する作曲家であり、英国の戦後前衛第二世代のアカデミズム側を代表する。前衛の時代の終わりとともに急速に保守化し、古典的形式に則った「新・新古典主義」に落ち着いたP.M.デイヴィスとは違い、70年代まではベリオの歩みを参照して一歩遅れて追随していたが、80年代半ば以降はオペラを中心に、無調だがクラシック音楽の伝統的な様式感に沿った「進歩的アカデミズム」の見本になった。POCシリーズでは、英国のポスト戦後前衛の中心的潮流「新しい複雑性」を代表するファーニホウ(英国の保守性を早々に見限って、ドイツと米国の前衛アカデミズムを牽引した)とフィニッシー(状況の漸進的な改良を目指して英国に留まり、実験主義にも目配りしつつ作曲・演奏の両面で貢献した)を既に紹介しており、これで英国戦後前衛の主な流れを俯瞰する最後のピースが埋まったことになる。

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 そして、北米(ほぼ米国)アンソロジー。バビットは米国発の「総音列技法」の祖であり、総ての音楽要素を音列で管理するという点ではヨーロッパ戦後前衛に数年先行している。ただしヨーロッパ流とは対照的に、容易に聴き分けられる明晰さを目指した。シンセサイザーをいち早く取り入れた点でも彼は先駆者である。彼の路線はウォーリネンらに継承されたが、このような純粋培養組だけではセリー主義がアカデミズムの中心になるはずはなく、頭数は新古典主義からの転向組が主力である。かのコープランドすらその一人だが、その中でもカーターは飛び抜けた存在だった。バビットらとは対照的にヨーロッパ的な複雑さを志向し、英国発の潮流に先行する「新しい複雑性」のルーツとみなされている。米国音楽には辛辣なブーレーズも、カーターは唯一高く評価していた。ただし80年代に入ると「複雑性」からは距離を取り始め、《ナイト・ファンタジーズ》はその端緒である。

 セリー主義の主力は転向組なので、何らかの契機でそこから離れて伝統回帰する例は珍しくない。米国における「新ロマン主義」を代表するロックバーグ、デル=トレディチ、ツヴィリチは、60-80年代にそれぞれの理由で伝統回帰した。クラムもその中に含まれるが、彼は元々教条的なセリー主義者ではなく、声ならではの幻想的な世界を求め(《子供達の古の声》が特に名高い)、ロックに触発されて電気増幅を探求した(《ブラック・エンジェルス》が特に名高い)。このような志向は、直接の接点はないがベリオと軌を一にしており、ベリオが米国アカデミズムに溶け込めた背景でもある。《マクロコスモス》シリーズは、バルトーク《ミクロコスモス》を意識している時点でヨーロッパの伝統を志向していることは明白だが、彼は第1集と第2集の間で「新ロマン主義」の川を渡った。

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 ミニマル音楽はニューヨーク楽派以降の米国実験主義で最も影響力を持った潮流である。インド音楽とフルクサスの強い影響から出発したヤングやライリーと、よりアカデミックな発想から出発したライヒやグラスがサイケデリック・ムーヴメントの中で反復と電気増幅の魅力に目覚め、協同歩調を取って始まったわけだが、次世代になるとアカデミズムに取り込まれてゆく。ジョン・クーリッジ・アダムズはその代表である(米国実験主義の「素朴派」にあたるジョン・ルーサー・アダムズと区別するためにミドルネームも表記される)。グラスとライヒは、オペラや管弦楽曲の委嘱を受ける中で機能和声を用いた「マキシマル」な書法に移行してゆくが、その方向性ならばアカデミックな基礎が堅いJ.C.アダムズに優位性があり、表舞台の主役になってゆく。結局グラスはポップカルチャーとの折衷、ライヒはメディアミックス、ライリーとヤングは純正律探求と棲み分けることになる。

 ヴィヴィエは今回の特集作曲家では唯一のカナダ人。70年代前半、シュトックハウゼンがケルン音大で数年間教鞭を執っていた時期の学生として、W.リームと並んで後世に名を残した。彼が本領を発揮したのは70年代半ばに日本やバリ島に滞在し民俗音楽を深く身に着けてからだが(なお、委嘱作曲家のゼミソン・ダリルもカナダ出身。日本の民俗音楽に魅せられて移り住み、日本の風土の中での音楽のあり方を探求している)、フォルメル技法を使い始めた時期のシュトックハウゼンの関心を受け継いだ初期作品も、その後の展開の基礎として興味深い。「アカデミック実験主義」の孤高の作曲家テニーも長らくカナダに拠点を置いており、東海岸/西海岸、アカデミズム/実験主義といった表層的な二項対立に収斂しがちな北米の音楽状況の中で、カナダは第三極として機能している。

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 最後にゾーン。初期カーゲルに衝撃を受けて音楽を始め、ヨーロッパ自由即興に続く実験的ポピュラー音楽の潮流、NYダウンタウン即興をフレッド・フリスとともに牽引したサックス奏者であり、また様式混淆志向の一環として80年代後半から90年代初頭まで高円寺で暮らし、太田裕美を自作で起用し矢野顕子を米国市場に紹介した日本音楽マニアでもある(彼が主宰するTzadikレーベルは、日本のアンダーグラウンド音楽を紹介し続けている)。だが彼は、ウォーリネンに私淑し、その書法を作曲作品で用いた米国アカデミズムの継承者でもある。コロンビア大学による米国の作曲家の生涯業績賞であるウィリアム・シューマン賞を、彼はライヒとオリヴェロスの間という象徴的な順序で受賞しているが、Tzadikレーベルでウォーリネンやバビットらの作品を取り上げたことも無視できない貢献である。なお2000年以降の同賞の受賞者は、現時点でこの3人とJ.L.アダムズの4人のみ。

 旅の終わりは日本のアカデミズム。三善、松村、野平は日本の戦後前衛第一世代とポスト戦後前衛世代の一員としてシリーズ解説で既に触れており、池内友次郎門下の桐朋学園大と東京藝大の重鎮としてあらためて紹介するまでもないが、若くして将来を嘱望されていた三善はパリ音楽院留学を前提に音大には進まず、松村は結核療養のため音大受験を断念し、野平は大学院修了後にパリ音楽院留学を経てスペクトル楽派に加わり、アンサンブル・イティネレールのピアニストとして長期滞在した。みな日本のアカデミズムの典型的なレールからは逸脱しており、そこが彼らの個性の源泉になった。権代の音楽はしばしば奇矯さにおいて語られるが、アカデミズムの強固な基礎を土台にした逸脱は、中川俊郎や伊左治直と比べられる。その逸脱がメルツバウとの共同作業まで振れてしまうところが、彼の凄さだが… 彼が最も打ち込んできたピアノ独奏曲の特集は、彼の個性を確認する好機だ。


# by ooi_piano | 2019-01-26 08:17 | POC2018 | Comments(0)

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2005年クリスマスディナー、バートウィッスル邸で七面鳥に取り組むサー・ハリーとなかにしあかね氏


Portraits of Composers [POC] 第40回公演
ハリソン・バートウィッスル全ピアノ作品 The complete piano works by Sir Harrison Birtwistle
大井浩明(ピアノ)

2019年1月26日(土)18時開演(17時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席)
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


○小林純生(1982- ):《フーガ》(2016、委嘱作東京初演) 7分
■H.バートウィッスル(1934- ):
 《ウックウ鳥 Oockooing Bird》(1950、日本初演) 3分
 《約言 (J.オグドンのために) Précis》(1960) 3分
 《悲しい歌 Sad Song》(1971) 2分
 《ジャンヌの子守歌 Berceuse de Jeanne》(1984) 3分
 《ヘクターの薄明 Hector's Dawn》(1987) 1分
○なかにしあかね(1964- ):《Dialogue》(2018、委嘱新作初演) 9分
  I. In the Knot Garden - II. In the Water - III. From Both Sides of the River - IV. Into the Deep Forest - V. At Home, Sweet Home
■H.バートウィッスル:《ハリソンの時計 Harrison's Clocks》(全5楽章、1998) 25分
  I. - II. - III. - IV. - V.

 (休憩15分)

■H.バートウィッスル:《メロディとオスティナート (P.ブーレーズのために) Ostinato with Melody》(2000) 5分
 《ベティ・フリーマン - 彼女のタンゴ Betty Freeman: Her Tango》(2000) 2分
 《サラバンド:王の拝辞 Saraband: The King's Farewell》(2001、日本初演) 3分
 《メトロノームの精の踊り Dance of the metro-gnome》(2006、日本初演) 1分
○金澤攝(1959- ):《烏枢沙摩 Ususama, Toilet Music》(2018、委嘱新作初演) 9分
■H.バートウィッスル:《ジーグ・マシーン Gigue Machine》(2011、日本初演) 16分
 《ゴールドマウンテン変奏曲 Variations from the Golden Mountain》(2014、日本初演) 10分




なかにしあかね:《Dialogue (Series 1)》(2018)
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  Dialogueには様々な種類があります。表面的な言葉のやり取りに過ぎない会話、むなしくすれ違う会話、深く相手を受け止める対話、第三者の意志が働いているかのような言葉の受け渡し・・・言葉の使い方は民族によっても異なりますし、どこで、どのような背景や感情をもって言葉が交わされるかによっても、色合いも温度も深度も異なります。私達の生きている世界は、個人レベルから国家レベルまで、対話のさまざまなルートや方向性を豊かに持つことが、切実に必要とされています。ひとつの対話が機能しなくても、別の方法を試みることはできるはず。このDialogue for piano soloシリーズは、短くシチュエイションを切り取った小品群を提示することにより、対話の様々な可能性を立体的に組み上げて行ければと願うものです。
  本日大井浩明さんに初演して頂きます第1シリーズの5曲は、「place=場所」がテーマとなっております。発想の出発点となった第1曲「In the Knot Garden」は、英国の16世紀エリザベス1世時代に流行した庭園スタイルで、「knot=結び目」を特徴とする幾何学模様の庭で近づいたり離れたりしながら対話が進みます。第2曲「In the Water」は深海の中で、発される言葉はあぶくとなって立ち昇って行きます。第3曲「From Both Sides of the River」は河の両岸から呼びかけ、併走する言葉。第4曲「Into the Deep Forest」は深い森の中。こだまする音、乾いて消えて行く音などが響き合い存在し合います。第5曲「At Home, Sweet Home」は、イギリスで愛唱されている歌の題名の通り、愛しい我が家での語らいです。ささやかな不協和音があることが日常の穏やかさであり、不協和は何も傷つけません。
  Dialogueは、今回の第1シリーズ「place」以外に「time」「with」「emotion」・・・などのシリーズを構想しております。数を頼んで大きなひとつのメッセージになろうという、ほぼ妄想に近い計画ですが、いつの日か、どこかでお聴き頂くこともあるかも知れません。
  本日、第1シリーズを初演して下さる大井浩明さんに心から感謝申し上げます。敬愛するサー・ハリーの作品群と共に皆様にお聴き頂けますことは、この上ない光栄です。(なかにしあかね)


なかにしあかね Akane Nakanishi, composer
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  東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ大学院にて作曲修士号、キングスカレッジ大学院にて作曲博士号を修める。作曲をサー・ハリソン・バートウィスル氏、声楽伴奏法を故ジェフリー・パーソンズ氏に師事。第66回日本音楽コンクール作曲部門第1位及び安田賞受賞、国際フランツ・シューベルト作曲コンクール入賞ほか、入選・入賞多数。作曲と演奏の双方向から「言葉と音楽」を多角的に研究し実践し続け、国内外の演奏家から委嘱を受けている。歌曲、合唱曲の他、室内楽作品やピアノ独奏、連弾作品、こどものためのソングブックなどが多数出版されている他、「合唱エクササイズ~作曲家編」執筆、歌曲や合唱のコンクール審査員や講習会講師など、多角的に活動している。作品CD『なかにしあかね歌曲作品集~歌が生まれる』(ALCD7211音楽現代推薦盤)ほか。平成17年度文化庁在外研修員。現在、宮城学院女子大学教授。 https://soundinternationaljapan.com/


金澤攝:《烏枢沙摩》(2018)
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  今回書き下ろした新曲は、トイレの守護神・烏枢沙摩(うすさま)明王からインスパイアされた、謂わば「音の仏像」である。元より大井氏の持つピアニズム - 色合いを想定して作曲したものだが、同時に彼の新たな表現性に挑む内容でもありたいと考えた。このところ19世紀の作曲家の発掘調査や実演に明け暮れている中で、5年振りの新作となったこの作品は、私にとっても大井氏にとっても、新機軸を拓く契機となる予感がする。
  ところで人間の生活に不可欠のトイレを扱った音楽作品は極めて少ない。常識で考える「美」のイメージとは正反対であれが故に取り合わないのだろう。しかし、正面から取り組むと、これは相当重いテーマとなる。トイレは単なる排泄の場ではない。汚せば魔が入り、磨けば神光が射す。唾を吐くと目を患い、倒れると命が危ういとされるように、人間の命運を左右する、極めて深秘な霊域である。誰もが他者との関わりを謝絶して、自分と神の摂理と向き合う。
   そしてこの場を司るのが烏枢沙摩(うすさま)明王である。不浄を払うと共に財運に大きく関わる神と伝えられる。新曲はこの神名をメインタイトルに据え、その威徳を讃えると同時に、その姿を音として写し取ったものである。その尊影は作曲中、常に私の傍らにあった。人には「気線」というものがあり、この明王と大井氏を結ぶ何らかのそれが、私を介して働いている可能性も考えられる。いづれにしても大井氏は今宵、"烏枢沙摩"の使徒を務めることになる。願わくばその威神力を開顕されんことを。(金澤攝)


金澤攝 Osamu N. Kanazawa, composer
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  作曲家、ピアニスト、研究家。1959年石川県金沢生まれ(旧名:中村攝)。70年から74年までピアノを宮沢明子氏に師事。15歳で渡仏、パリに学ぶ。1979年メシアン・コンクール第2位(1位なし)。1985年第1回日本現代音楽コンクール審査委員長(園田高弘)奨励賞。エピックソニーより『アルカン選集』(全8集)リリース、アルカンブームの火付け役となる。第3回村松賞大賞、金沢市文化活動賞、石川テレビ賞ほかを受賞。知られざる名作を日本に紹介すべく、現在千名の音楽家を対象として研究・演奏を行っている。著作に『失われた音楽 秘曲の封印を解く』『表紙の音楽史 ―楽譜の密林を拓く―(近代フランス篇 1860-1909年生まれの作曲家たち)』『同 資料集』(龜鳴屋・刊)。ウェブ連載《音楽における九星》《演奏とコンクール》、ライヴ音源リスト  




小林純生:《フーガ ~モーリス・ラヴェルを頌して》(2016)
  この曲はラヴェルのフーガ、特にその構造を模して作曲されている。極めて幾何学的なその構造は楽曲の基盤として作品のバランスを整える。安定した土台の上に、ラヴェルのフーガは均整のとれた形で構築されているが、この曲では曖昧にぼかされた線が曲を形作る。音の交差や声部数の多さ、リズムの不安定さ、ヘテロフォニックな書法が線を、そして作品自体を霞ませる。
  フーガの体を成している限り、特に鍵盤楽器のソロ曲の場合、複雑すぎるフーガはおそらくただ無秩序な音の連続に聞こえるだろう。この曲のなかではその不安定な音の集合に秩序を与えるものとして、安定した形式に加えて、ラヴェル的な和声が重要な役割を果たしている。調性という規則によって、雲散しそうな線に形が与えられるが、この和声法は楽曲を締め付け過ぎはしない。
  上記の配慮があってもバランス次第で楽曲は極めて難解なものにも簡明なものにもなりうるが、理解と不理解のはざまで、平衡がとられている。(小林純生)


小林純生 Sumio KOBAYASHI, composer
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  1982年三重県菰野町生まれ。作曲を伊藤弘之と湯浅譲二に師事。日本音楽コンクール (2009)、 国際尹伊桑作曲賞 (2011)、 インターナショナル・ミュージック・トーナメント (2010)、 ICOMS国際作曲コンクール (2011)、 シンテルミア国際作曲コンクール (2012)、 アルヴァレズ室内オーケストラ作曲コンクール (2012)、 武満徹作曲賞 (2013)、 パブロ・カザルス国際作曲コンクール (2015)、サン・リバー賞(2015)、 ワイマール春の音楽祭作曲コンクール (2016)、欧州文化首都ブロツワフ国際作曲コンクール等に入賞・入選。ルーマニアのアイコン・アーツ現代音楽際 (2013) 、武生国際音楽祭 (2010、 2013、 2014)、韓国の統営市国際音楽祭 (2015) 、スロバキアのメロス・エトス国際現代音楽祭(2015)等で、アンサンブル・カリオペ、アンサンブルTIMF、イデー・フィクス・アンサンブル、東京シンフォニエッタ、東京フィルハーモニー交響楽団、ネクスト・マッシュルーム・プロモーション、アンサンブル・ミセーエン等により作品が演奏されている。現在は英国ケント大学博士課程で韻律論の研究に従事する一方で、東京にて日本大学芸術学部音楽学科助教を務める。 http://sumiokobayashi.com/




サー・ハリソン・バートウィスルと私――小林純生

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  サー・ハリソン・バートウィスルと出会った時に思い浮かんだ言葉は「純朴さ」だった。コンクールの審査員と審査されるファイナリストという立場での出会いはそれなりに気まずいものではあったが、巨匠である彼自身が「審査前に会うというのも気まずいよね」と、なんとなくバツが悪そうに話しているのを見てその純朴さを強く感じた。その時私が同時に考えていたのは、三島由紀夫がトーマス・マンやゲーテを「したたか」と発言していたことで、彼はそういったしたたかさとは無縁の、純粋に自分の美学を追求する芸術家であるように思え、それと同時に自分にあるやも知れぬしたたかさを恥じた。
  審査結果を発表したあとも、自分が下した結果に関して「君が満足していてくれたら良いのだけど」と私のことを気遣ってくださり、私としてはファイナリストになって曲が演奏されただけで満足だったので、そのことを伝えたら気恥ずかしくも嬉しそうな顔を見せてくれた。
  私にとっては他にも十分に満足できることがあり、それは彼が私の音楽を「詩的な極端主義」と形容したことだった。曲目解説にも楽譜にも書いてはいなかったが、ここ数年の私の作曲における目標は言語的な詩を音楽で表現することだった。そのことに気づいてくれたこと、つまり自分の目的が達成できたことで、思いがけない贈り物をいただけたような気持になれた。
  私の作曲の師である湯浅譲二先生は、時の構造に着目した作品を書き、その曲を聞いたメシアンがその曲の時間軸を高く評価し、それがとても励みになったと語っていたが、それと同じような印象を、サー・ハリソン・バートウィスルの「詩的な極端主義」とう表現にもった。
  私はイギリスかアメリカで言語学を学ぶ予定だったのでそのことを話すと、「イギリスに来るなら是非イギリスの自宅に遊びに来てくれ」と連絡先を教えて下さった。結局私はイギリスに滞在し博士課程をもうすぐ終えようとしているが、一度も連絡はしなかった。彼に会うことで何かあさましい感情が芽生え、そういったあさましさが彼の純朴さに対して汚らわしいようにも思え、結局は会わないことがお互いにとって一番良いように感じたからだ。願わくば彼のような純朴さをもって、また再会出来れば。


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サー・ハリーが教えてくれたこと――なかにしあかね

  1990年代ある日の『タイムズ』紙に、こんな時事漫画が載ったことがある。国鉄BRが民営化されてからストライキ続きで(民営化される前もスト続きだったが)、暴動を起こしそうな乗客達を必死に抑えながら、駅長が放送係に叫ぶ。
「ディーリアスじゃ生ぬるい。バートウィスルをかけろ!!」

  サー・ハリソン・バートウィスルの「サー」の称号は、ナイトに叙任された男性の肩書で、サー・ハリーは1988年に叙勲され、その後2001年にはCompanion of Honour (名誉勲爵士)にも叙されている。”最も偉大な作曲家”という大見出しと共に『ガーディアン』紙の一面にサー・ハリーの顔が全面アップになり、ウィルトシャーの自宅シルクハウスの庭は、造成された当時ガーデニング雑誌で特集を組まれていた。押しも押されもせぬセレブリティである。

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  私がロンドン大学キングスカレッジ大学院博士課程でバートウィスル門下であったのは1995年から1999年までで、彼は1995年から2001年まで、ヘンリー・パーセル・プロフェッサーという冠つきの教授であった。
  バートウィスルがキングスで教える、というニュースは当時相当なセンセーションを巻き起こし、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸からも入学希望者が殺到した。私はそれ以前からキングスに在籍していて、別の大学へ移籍するか迷っていたところに、降って湧いた幸運だった。
  最初の面会で気に入られなければ門下に採ってもらえない、と言われていた。私はそれまでのロンドンでの苦闘の歴史である自作品のスコアを持って、サー・ハリーの待つ部屋へと入った。
  メディアの作り上げるイメージが、これほど現実と合致している人も珍しいと思うくらい、ニコリともしない無愛想なサー・ハリソン・バートウィスルが部屋の中をうろうろしていた。
「ハロー。サー」
  サー・ハリーは私の顔をちらっと見ただけで、不本意に檻に入れられた熊のようにいらいらと動き回った。
  私がバッグからスコアを出そうとすると
「待て待て。そう慌てるな。楽譜なんか俺に見せるな。まあ座れ。俺はここ、おまえはここだ」
  明らかに選択が逆の、サー・ハリーは小さ過ぎる椅子、私は大き過ぎる椅子に、私達はようやく落ち着いた。
「おまえのことをしゃべれ。」
「は?」
「おまえ自身のことを聞きたい」
  サー・ハリーは私の迷走の歴史を我慢強く聞いた後、言った。
「しかし、無駄じゃなかっただろう?」
「無駄ではありませんでした。いっぱい考えましたから」
「ならいい・・・それは何だ?おまえの曲か?」
  こうしてようやくサー・ハリーは、私のスコアを手に取ってくれたのだった。

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  レッスンは、最初のうちは当時サー・ハリーがテムズ河畔に持っていたフラットに伺い、やがてフランスの家もロンドンのフラットも手放してウィルトシャーのシルクハウスに腰を据えられると、ロンドンから車で3時間の道のりを泊りがけで伺うようになった。緑の丘陵に浮かぶホワイトホース(白い馬の地上絵)、ストーンヘンジなどを通り過ぎ、元は絹の工房だった建物を改築したという邸宅シルクハウスへと至る。立体的に造形された庭にはコンクリートで四角く切った池があり、夏だけ姿を見せる鯉が泳いでいて、その奥に、サー・ハリーの仕事用のコテージがあった。

  サー・ハリーのレッスンは、まるで禅問答のようだった。
「ネイチャーとはなんだ?」
  自然?天然?何を指しているのだろう?それがこの曲とどういう関係があるのだろう?・・・私はじっと考える。
「どうだ?」
「考えてます(I’m thinking.)」
「いや、おまえは沈んでいる(No, you are sinking.)」
  こんな冗談ともつかない会話から、私はサー・ハリーが、楽器にはそれぞれ特有の個性と特質があり、それを生かすということをおまえ自身はどう考えるか明確にせよと言っているのだと、ようやく理解する。
  他の学生には最初からぺらぺらと説明しているように見えるのに、なぜか私には禅問答をふっかけて楽しんでいる節があった。しかしそうやって、考えに考えて意味をつかんだひとつひとつが、その時々の私の作品に必要なものを教え、いらざる些末なもやもやしたものをふっ切らせた。私は、肩が凝るほど虚飾やこだわりを着込むのではなく、裸で自分の音楽と向き合って、最もふさわしい着物だけを選んで着ることを、次第に覚えて行った。

  彼は私に「作曲」は教えなかった。作品以前の、根源的な部分を常に問題にした。読むべき本。見るべき絵や映画。私にとって音楽を創るとはどういうことか。考え抜くとはどういうことか。それぞれの楽器について一般論ではなく私自身の考えをどう確立するか。音を楽譜に移すとはどういうことか。・・・私が何に引っかかっているか、どこでもたもたしているか、サー・ハリーには手に取るようにわかるらしかった。
「俺は方法を知っているぞ」
  サー・ハリーはよく言った。
「でも教えない。自分で考えろ」
「おまえは、何かは考えたかも知れない。だが、まだ考え抜かれていない。」
「一番簡単な道を探すんじゃない。一番いい道を探せ」

  たったひとつの音符の記譜をめぐって何時間でも議論した。サー・ハリーはもっと的確に表す方法があると主張し、デモンストレーションまでして見せてくれたが、私はその記譜によって失われるものがあると主張した。議論は平行線のまま終わり、サー・ハリーは私を「頑固者」と呼んだ。
  ある日「ちょうどロンドンでダニーとリハーサルしているからBBCのスタジオに来い。」と言われて行ってみると、「ダニー」はダニエル・バレンボイムで、BBCシンフォニーの新曲リハーサルをまるまる聴かせてくれようと言うのだった。
  阪神大震災で私の実家が被災した時、サー・ハリーは慰めのような言葉は一切言わず、私を、当時貧乏留学生には高嶺の花だった日本食レストランに連れて行き、なんでも好きなものを頼めと言った。うどんの汁をすすりながら(今思えばもっと高いものを頼めばよかった!)私の心は温められ、サー・ハリーが「俺はこれが好きだ」と薬味の生姜ばかりを何皿も注文するのを見て、心が緩んだ。
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  サー・ハリーと過ごした時間がゆっくりと私の中で実を結んでいく実感を得た頃から、レッスンは少しずつ変わって行った。サー・ハリーが私の作品を見て根源的な何かを指摘したり、記譜について延々とやり合うこともなくなった。
「私はこの部分の音楽はこういう風に鳴って欲しいと思っているんですが、この記譜は有効だと思いますか?」
「おまえが書いた通りに鳴るだろう」
  私は自分で検証せざるをえなくなった。
  少しずつ、少しずつ、サー・ハリーは私を突き放した。判断を仰ぎたい私を素っ気なく振り払い、助けを求めてもヒントも与えてくれなくなった。問題は自分で解決するしかなかった。すべてが自分の力で考え抜かれなければならなかった。

  そしてついにある日のレッスンで、サー・ハリーはこう宣言した。
「俺はもう教えてやらないぞ。おまえはもう俺の生徒じゃない」
  大学院博士課程の指導教官という立場もシステムも完全無視の宣言だった。私は数か月じっと考えて、ある日、ウィルトシャーへ車を飛ばした。

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  私達は大学の話も作曲の話もしなかった。ただ、ハリーご自慢の庭を散歩し、息子さんの作ったセラミックの置物をどこにどう置くのがよいかでもめた。作曲する上での確信に近いものをつかみつつありながら、心のどこかでハリーに頼りたがっていた私の弱さを、見抜かれていたのだと思った。教え教わる関係が、自立した者同士のそれに変わらなければならないことを、私は意識的に自覚していた。ハリーはそれを感じ取ったのか、安心したように音楽の話を始めた。奥様のシーラに、私が日本のコンクールで賞をもらったことや、委嘱作品が演奏されたことを得々と話した。
「あら。よかったわねえ」
「あたりまえだ。何しろ彼女はいい先生についているんだからな」
  はぁぁぁ?! 呆れるのを通り越して私は爆笑した。その夜は私が和食らしきものを作り(もちろん生姜も大量にすりおろし)、翌朝はハリーが特製のブレックファースト・シリアルを怪しげなうんちくと共に創作した。奥様と競い合うように息子たちや孫たちの話をし、料理してくれるんならなぜヒロ(夫・テノール歌手辻裕久)を連れてこなかったかと責めた。夫は料理がうまく浮世離れしたのどかな人で、夫妻のお気に入りだった。近くの街で市が立つと言うので3人で出かけ、私が夫のためにミニチュア・モデルの旧型ロンドンバスの模型を買うと、帰りの車の中で見せろ見せろと包みを開けさせた。
  私は書きかけの作品を持っていたのだが、あえてハリーには見せず、別室を借りて一人で作業した。1時間も経たないうちにハリーの方から痺れを切らせてやってきて、横からのぞいていった。未解決の問題がいくつかあったが、まだ自分で十分よく考えていなかったのでハリーには聞かず、彼も何も言わなかった。
「また遊びに来い。今度は必ずヒロも連れて来いよ」
  私がサー・ハリーから”卒業”した日だった。

  日本に帰って大学教員になると報告した時、ハリーは言った。
「教えるのはいい。だがフルタイムは避けろ。」
  恩師の言葉を尊重せず、私は専任教員として仙台に赴任した。マネージできると思った。東日本大震災の後、数百人に及ぶ被災学生を抱える大学の担当教員として、また現地に関わる音楽家として、心のエネルギーを絞り尽くしてなお絞り出すような日常が続いた。心の中で何度ハリーに「はいそうです。私はあなたの言いつけを守りませんでした。」と呟いたことだろう。
  しかし。
  サー・ハリーに鍛えられた人間が、ただ打ちのめされ、ただ消耗している訳にもいくまい。『音楽の力』が空疎なスローガンに成り下がっていないか。変化し続ける状況の中で、私が音楽を創るとはどういうことか・・・。今も私は、じっと考え続けている。そして自分に問いかける。おまえは本当に考え抜いているか。
  サー・ハリーが教えてくれたことは、確かに「作曲」ではなかった。[初出:東京オペラシティ文化財団「コンポージアム2013」]
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# by ooi_piano | 2019-01-22 09:32 | POC2018 | Comments(0)

Portraits of Composers [POC] 第39回公演  日本アカデミズムの帰趨
大井浩明(ピアノ)

2018年12月14日(金)19時開演(18時半開場)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4) Google Map
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【予約・お問い合わせ】 エッセ・イオ essai-Ïo poc2018@yahoo.co.jp


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●アンリ・デュティユー(1916-2013):《コラールと変奏》(1948) 10分
●三善晃(1933 - 2013):《ピアノソナタ》(1958) 20分
  I. Allegro - II. Andante - III. Presto
●松村禎三(1929-2007):《ギリシャに寄せる二つの子守唄》(1969) 9分
●三善晃:《24の前奏曲集「シェーヌ(鎖)」》(1973) 17分
  第一部 〈A〉〈B〉〈C〉〈B'〉〈C'〉〈B"〉〈C"〉〈Aへの復帰〉-小さな鎖〈I〉〈II〉
  第二部 〈A〉〈B〉〈C〉〈D〉〈短い綜合〉-小さな鎖〈III〉 (ABCB'D)
  第三部 小さな鎖〈IV (C.H.A in Es)〉〈A〉〈B〉〈C〉〈D〉-復帰と応照〈A〉〈B〉〈C〉

 (休憩10分)

●野平一郎(1953- ):《アラベスク第2番》(1979/89/91) 10分
●三善晃:《アン・ヴェール》(1980) 7分
●野平一郎:《間奏曲第1番「ある原風景」》(1992) 6分
●三善晃:《円環と交差Ⅰ・Ⅱ》(1995/98) 8分
●野平一郎:《間奏曲第2番「イン・メモリアム・T」》(1998) 4分
●松村禎三:《巡禮 I/II/III》(1999/2000) 10分

 (休憩10分)

●野平一郎:《響きの歩み》(2001) 8分
●野平一郎:《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006) 11分
●棚田文紀(1961- ):《前奏曲》(2007/2018、改訂版初演) 3分
●野平一郎:《間奏曲第7番》(2014) 7分





棚田文紀 Fuminori Tanada, composer
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  1961年岡山市生。河田文忠氏に作曲、和声法、対位法を学ぶ。1979年東京藝術大学音楽学部作曲科入学。作曲を北村昭、南弘明、八村義夫の各氏に、ピアノ伴奏方をアンリエット・ピュイグ・ロジェ女史に師事。1984年、フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ国立高等音楽院に入学。作曲科、管弦楽法科、ピアノ伴奏科の全科でプルミエプリ(一等賞)を得て卒業。その間、クロード・バリーフ、ポール・メファーノ、ベティ・ジョラス、ジャン・ケルネール、ソランジュ・キャパランの各氏に師事。以降、作曲家、ピアニストとしてフランスを中心に活動を続けている。1991年よりパリ国立高等音楽院のフルート科伴奏者を務める。また現代音楽のアンサンブル、イティネレールのピアニストとして数多くの現代作品の初演にたずさわる一方、2014年よりパリ国立高等音楽院室内楽科の教授として後進の指導にも当たっている。作曲家としては、エマニュエル・パユの為に書かれたフルート四重奏曲、レ・ヴァン・フランセの為の六重奏曲、サクソフォーン四重奏曲、ギターとアンサンブルの為の作品、フルート協奏曲、二本のフルートとフルートオーケストラの為の作品、Lancelot国際コンクールの為に書かれたクラリネット協奏曲などがある。現在はレ・シエクル(Les Siècles)の為のオーケストラ作品を作曲中。作品の多くはÉditions Henry Lemoineから出版されている。




POC流・日本「アカデミズム」小史──野々村 禎彦

c0050810_21232292.jpg 今年度のPOCにおける米国アカデミズムの総説では、伝統的アカデミズムは自明なものとして扱ったが、日本の場合はそれほど単純ではない。ただし戦前のアカデミズムは、米国と同程度に自明である。ヨーロッパの伝統音楽(日本固有の音楽ではない)を教える機関として東京音楽学校が設立され(明治維新後に作られた「日本画」という擬似伝統の比重が大きい東京美術学校とは対照的)、ドイツ人と独語圏留学組が教授陣を占めた。作曲は大学院修士課程に相当する研究科の片隅で細々と教えられてはいたが、本科で演奏を専攻した後、海外留学で学ぶのが通例だった。例えば山田耕筰(1886-1965) は声楽部を卒業後ドイツで作曲を学び、信時潔(1887-1965) は器楽部でチェロを専攻した後ドイツで作曲を学んだ。山田は指揮活動に時間を割き、文化学院などで教鞭を執ったが専門教育には関わらなかったのに対し、信時は東京音楽学校教授として本科作曲部の創設(1932) に尽力し、下総皖一(1898-1962)、橋本國彦(1904-49)、細川碧(1906-50)、長谷川良夫(1907-81)、髙田三郎(1913-2000)、大中恩(1924-) らを育てた。戦後の日本合唱界で活躍した髙田や大中の世代になると、作曲部で学んで海外留学は経ていない。

c0050810_21244512.jpg このようにして日本でも作曲におけるアカデミズムが確立し、アカデミックな様式に忠実な作風が楽壇で評価されて教職に結びつき、公的行事でもアカデミックな様式に沿ったオリジナルな音楽が用いられるようになる。ただしこのアカデミズムは米国と同様に、極めて内向きなものだった。1934-37年に日本に滞在し、教育や日本人作品の海外への紹介に尽力したロシア生まれフランス育ちの作曲家=ピアニスト、アレクサンドル・チェレプニン(1899-1977) は、日本人が対象の作曲コンクールを1935年に主催したが、ルーセルらフランスのアカデミックな作曲家たちが審査した結果は、1位は伊福部昭(1914-2006)、2位は松平頼則(1907-2001) と、ほぼ独学でフランス新古典主義を研究していた在野の作曲家たちが上位を占めたのは象徴的である。公的行事のためのアカデミックな作品の比重は、日本が戦争に向かう中で高まったが、戦後には「戦争責任」を問われて東京音楽学校作曲部の多くの教員が職を解かれた。理論書の執筆や童謡・文部省唱歌に関わり教授職への昇進は遅かった下総や長谷川は戦後も藝大教授を続けたのに対し、ウィーン留学を経て早々に東京音楽学校教授に就任し旺盛な創作を行った橋本や細川は失職し、失意の中で早逝した。特に橋本は、作曲部創設に際して教授に着任する以前はバレエ音楽や歌謡曲にも取り組み、留学の帰途にロサンゼルスでシェーンベルクから12音技法を学び、フランス近代音楽も独自に研究して学生たちにも薦めるなど、作曲家としても教師としても進歩的で懐の広い人物だった。

c0050810_21251637.jpg 彼らと入れ替わる形で1947年に着任し、アカデミズムの中心人物になってゆくのが池内友次郎(1906-91) である。池内は戦前には稀少なフランス留学組で、帰国後の活動も作曲よりも音楽理論や教育が中心で「戦争責任」を問われる余地はなかった。他方1946年には伊福部が着任した。実作に精通した彼は学生に慕われ、芥川也寸志(1925-89) や黛敏郎(1929-97) の初期の作風には強い影響が見られる。ただし、1949年に東京美術学校と合併し東京藝術大学に改組される中で、芥川も黛もアカデミーには残らず、伊福部も主著『管絃楽法』上巻(1953) 出版に先立って藝大を辞している。彼らが教職に頼らない道を選んだ背景には、商業的なピークに向かいつつあった日本映画の音楽を担当すれば、生活には困らなかったという時代状況が大きい。アカデミズムからも国際的な戦後前衛の潮流からも距離を置いた、早坂文雄(1914-55) や武満徹(1930-96) のような作曲家が主導的な役割を果たした日本作曲界の特殊性は、映画音楽が商業音楽教程の最終段階としてシステムに組み込まれている米国とは対照的な、当時の日本映画のあり方に多くを負っている。

c0050810_21254505.jpg 1951年、旧制東京音楽学校研究科を修了した黛と矢代秋雄(1929-76) は、パリ音楽院に留学した。伊福部の影響を受け在学中からジャズバンドでも活動していた黛は、保守的なパリ音楽院では学ぶものなしとして1年で帰国したが、池内の影響を受けた矢代は1956年まで在学し、後に留学してきた三善晃(1933-2013) と親交を結んだ。この時点で、戦後日本のアカデミズムの骨格は作られたとも言える。ただし、フランスのアカデミズムを範とすることには矛盾がある。現地に馴染んだら、もはや日本に戻る理由はない。矢代の場合は作曲で一等賞を取れなかったのが帰国の理由だが、丹波明(1932-)、平義久(1937-2005)、今回改作初演が行われる棚田文紀(1961-) らは現地で職を得て音楽活動を続けている。また、藝大に飽き足らず中退して1954年からパリ音楽院に留学した篠原眞(1931-) はさらに意識が高く、一等賞で卒業しても満足できずGRMでミュジック・コンクレートを学び、師メシアンに助言されてダルムシュタット国際現代音楽夏期講習に参加し、ケルンでB.A.ツィンマーマンとケーニヒに学び、シュトックハウゼンの助手を経てユトレヒトのソノロジー研究所に職を得た。アカデミズムを極めたら、戦後前衛に目覚めてしまったわけだ。

c0050810_21301327.jpg 帰国後の矢代は国内で受賞を重ね、野田暉行(1940-)、池辺晋一郎(1943-)、北爪道夫(1948-)、西村朗(1953-) ら、海外留学を経ずに藝大や東京音大の教授陣の中核になった作曲家たちを門下から輩出した。アカデミズムが完成すれば海外留学の必要はなくなり、むしろポスト前衛の時代には「前衛」側が、国際的潮流の中での立ち位置を海外留学で確認するようになった。西村や権代敦彦(1965-) は日本のアカデミズム内では異色だが(権代は留学先だけ見れば「前衛」側のようだ)、旋法性で特徴付けられる彼らの作風は、比較的早くからアカデミズムに分類されていた。アカデミズムの対象は徐々に広がってゆくもので、結成当初はフランスの「アカデミズムの反逆者」だったスペクトル楽派も、近年は世界各地でアカデミズムの一部になりつつある。前衛志向が強いと見做されてきた八村義夫(1938-85)、甲斐説宗(1938-78)、川島素晴(1972-) らも、そろそろアカデミズムに分類されても良い時期かもしれない。「娯楽の王様」が映画からテレビに移り、高度経済成長も曲がり角を迎えた後は、映画音楽が作曲家のキャリアの抜け道として機能する状況ではなくなった。委嘱のみで生計を立てられる作曲家は国際的にも数えるほど、演奏家とは違って個人レッスンは生計を立てる手段には成り得ない以上、何らかの形で教職に就くことが作曲家には普通になっており、それだけではアカデミズムの要件にはならない。自らの作風ないし美学を受け継いだ弟子が楽壇で評価されるサイクルの当事者のみが、アカデミズムと呼ぶにふさわしい。

c0050810_21265471.jpg 八村は棚田、野川晴義(1962-)、藤家渓子(1963-) ら、美学の一端を受け継いだ弟子を輩出したことで、甲斐は禁欲の美学を受け継いだ嶋津武仁(1949-) や伊藤祐二(1956-) を育て、また作曲指導を通じてピアニスト井上郷子(1958-) を創造的な選曲・委嘱活動に導いたことで、川島は「演じる音楽」のコンセプトを真摯に受け止めて、極端なコンセプトの重要性を理解する弟子を育てつつあることで、アカデミズムの要件を満たす。逆に日本における12音作曲の草分けである柴田南雄(1916-96) や入野義朗(1921-80) は、音楽史観や音楽理論の後継者は育てたものの、作曲美学は自分限りと割り切っており、アカデミズムには分類しにくい。ただし柴田は、藝大教授と作曲家の両立は困難と気付いて教職を辞した後、民謡を素材とするシアターピースという独自の鉱脈を探り当てた。アカデミーでの地位が上がると雑用に追われて作曲ができなくなる(最悪の場合は矢代のように過労死する)という日本のアカデミズムの問題点を、柴田は身をもって実証した。

c0050810_21281350.jpg 前置きが長くなったが、これでようやく今回の主役である松村禎三(1929-2007)、三善、野平一郎(1953-) の位置付けに入る準備が整った。3人とも池内の弟子ないし孫弟子だが、池内や矢代のような典型的な日本のアカデミズムからは逸脱しており、そこに彼らをPOCシリーズで取り上げたポイントがある。彼らは戦後前衛の宿敵ではなく、少なくとも前衛の時代には同じ山に反対側から挑むライバルだった。また、日本においては前衛とアカデミズムの対立構造は、八村、池辺、毛利蔵人(1950-97, 三善に師事)、柿沼唯(1961-, 松村に師事) らアカデミズムの有望若手を積極的に助手(主に大編成作品の浄書を担当)として採用した武満の政治的センスによってあらかじめ無化されていた。このあたりも音楽プロデューサーとしての武満の才覚である。

 松村は旧制三高(現京大教養部)卒業後上京し、清瀬保二(1900-81) の知遇を得て池内に紹介されて作曲を学んだ。音大受験前に未来の指導教官に私的に学んでおくのは日本のアカデミズムの常道だが、松村は結核を発症して受験に失敗し、5年間の療養に入る。結局受験は諦めて作曲を再開し、退院年の《序奏と協奏的アレグロ》(1955) で日本音楽コンクール作曲部門管弦楽の部1位となり楽壇デビューした。この時、伊福部が審査員として松村作品を高く評価した縁で作曲を師事する。石井眞木(1936-2003) も同年、ベルリン留学に備えてかねてから知遇のあった伊福部に師事しており、前衛の時代にオスティナートを基調とする音群音楽で一世を風靡したふたりは伊福部の影響下に語法を育んだ。1958-61年にベルリンで学んだ石井は、帰国後は日独文化交流の企画を通じて華々しく活動したが、松村は映画音楽で生計を立てながらストラヴィンスキーと伊福部に由来する管弦楽書法を同時代のリゲティに匹敵する強度まで磨き上げ、《交響曲第1番》(1965) と《管弦楽のための前奏曲》(1968) で楽壇に衝撃を与えた。《ギリシャに寄せる二つの子守唄》は代表作2曲とは対照的な、ラヴェルを範とする簡潔なピアノ曲だが、全盛期の彼は素材のインパクトに頼った一発屋ではなく、強靭な持続を生む地力の持ち主だったことを伝える。

c0050810_21350076.jpg 《前奏曲》は翌年の尾高賞を受賞し、大阪万博のために書いた《飛天》(1969)・《祖霊祈祷》(1969)・《詩曲1番》(1969) もそれぞれに味わい深く、松村は創作歴の頂点にあった1970年にアカデミックなキャリアを経ずに藝大助教授に着任した(1978年より教授)。だが、その後の彼はアカデミズムの環境に過剰適応し、創造力の源泉だった進取の気性まで失ってしまったのではないか。多くの弟子を育てたものの、自身の全盛期の音楽性を受け継ぐ方向に導いたわけではない。実験工房参加以前の武満は清瀬に師事しており、松村とは藝大受験以前から親交を結んでいた。その武満が藝大着任以降の松村の作風の変化を心配し、たびたび退官を薦めていたというのも宜なるかな。ただしこれは、音楽観の根本的変化というよりは、作曲に集中できる時間を削るアカデミズムの弊害の結果だったのかもしれない。《子守唄》と同じ編成で30年後に書かれた《巡禮I-III》を聴けば、彼の全盛期と晩年では何が変わり、何が変わらなかったのかを見極められるだろう。

c0050810_21361179.jpg 三善は小学生時代から平井康三郎(1910-2002) に作曲を学んで将来を嘱望され、橋本、細川と共に教壇を去った彼から池内に交代した頃には、既に日本の音大で学ぶことは残っていなかった。来たるべきフランス留学に備えて1951年には東大に入学して仏文科に進み、在学中の1953年に日本音楽コンクール初参加で作曲部門1位、1955年には最初の尾高賞受賞と、実力を実証した上で同年からパリ音楽院に留学した。だが、当時のパリ音楽院は彼の期待に沿う場所ではなかった。1952年時点で黛は学ぶものなしと見切り、1958年時点での篠原の疑義にメシアンも「新しい音楽を学ぶには良い場所ではない」と認めた状況は、三善にとっても満足できる環境ではなかった。結局彼は1958年に中退し帰国するが、唯一の収穫は、この時にはラジオ・フランス音楽部門長を務めていたデュティユー(1916-2013) を、師にふさわしい美学の持ち主として見出したことだった。デュティユーは交響曲第2番(1957-59) で評価を確立し、1961年からエコール・ノルマル音楽院で教え始めており、もし三善が藝大に進んで修士課程まで修了してから留学するアカデミズムの通常ルートを歩んでいたならば、デュティユーに師事してフランスに残り、日本のアカデミズムの歴史は大きく変わっていたかもしれない。これは平義久が歩んだ道に他ならないが、秀才として鳴らした平が日本には戻らない覚悟で渡仏したのは、国内には三善という高峰がそびえ立っていたからでもあり、三善と平が入れ替わっただけの、よく似た歴史が続いていたのかもしれないが。

c0050810_21382160.jpg 帰国した三善はまずピアノソナタを発表した。デュティユーのピアノソナタ(1947-48) よりも半音階的で凝縮されており、まだ伝統的だが10年のタイムラグに見合う進歩は刻印されている。《交響三章》(1960) とピアノ協奏曲(1962, 尾高賞) を受けて1963年に藝大講師、《管弦楽のための協奏曲》(1964, 尾高賞) とヴァイオリン協奏曲(1965) を受けて1966年に桐朋学園大教授に着任し、順調な創作にアカデミー内の地位も自然と伴った。だがその地位を意識して守りに入ることはなく、弦楽四重奏曲第2番(1967) 以降、三善の作風はますます無調的で尖ったものになってゆく。その背景としては、私淑するデュティユーが《メタボール》(1963-64) 以降一作ごとに尖鋭化し、最初の曲がり角を過ぎて柔和化しつつある戦後前衛に追いついたことと、日本でも戦後前衛のプレイヤーが交代し、黛と諸井誠(1930-2013) に代わって武満が同世代のライバルとして浮上してきたことが挙げられる。その後長らく武満と三善を両極とする日本の現代音楽の記述が音楽マスコミでは一般化する。楽壇での影響力を考慮すれば妥当だが、前衛側では湯浅譲二(1929-)、篠原、松平頼暁(1931-)、アカデミズム側では松村、間宮芳生(1929-) をはじめとする日本の戦後前衛第一世代の国際的にも稀な豊かさが、結果的に矮小化されがちだったことも否めない。

c0050810_21401751.jpg 《レクイエム》(1971) は、武満にとっての《ノヴェンバー・ステップス》(1967) のような、作品自体の価値すら超えた代表作になった。クライマックスに近づくほどに合唱と管弦楽が互いをマスクするこの曲は、太平洋戦争の本質を音楽で描こうとすると、西洋音楽としては破綻したカオスこそが説得力を持つという逆説を体現している。《詩篇》(1979)・《響紋》(1984) と続く、戦争体験を題材とする「三部作」は、1974年の桐朋学園大学長就任後も創作のモチベーションを維持する原動力になった。ただし、同時期のデュティユー作品が持つ密度や完成度に比肩し得るのはむしろ、チェロ協奏曲第1番(1974)・《変化嘆詠》(1975)・《レオス》(1976) などの作品群である。この時期の三善作品の充実を支えたのは不確定書法の導入であり、相対的に古典的な佇まいを持つピアノ独奏曲《シェーヌ》《アン・ヴェール》でも控え目に使用している。確定譜面に回帰した80年代半ば以降は創作ペースも落ちていたが、桐朋学園大学長を辞した90年代後半には、再び戦争体験を題材に《夏の散乱》(1995)・《谺つり星》(1996)・《霧の果実》(1997)・《焉歌・波摘み》(1998) の「四部作」及びオペラ《遠い帆》(1999) を書き上げた。《円環と交差I・II》もこの時期の作品である。

c0050810_21421056.jpg 90年代に入ってポスト前衛の諸潮流が一挙に紹介されて音楽評論家の世代交代も進む中、武満と三善に「日本の現代音楽」を代表させる風潮も変わり始めた。「前衛」側の評論家には、三善を過小評価して音楽史記述に含めない者すら珍しくないが、これに反発するアカデミズム側関係者は三善を神格化し、「四部作」は「三部作」に匹敵する作品と位置付ける。だが筆者はいずれの極論にも与しない。少なくとも60年代半ばから《響紋》までの三善作品は、デュティユーの同時期の作品同様、戦後前衛のトップクラスに劣らぬ前向きな姿勢に貫かれていたが、その後の作品は同列には論じられないと判断している。70年代後半には「調性の海」などと唱えて迷走していた武満が、80年代前半にまず室内楽、後半には管弦楽でも輝きを取り戻したのとも開きがある。ただしこの時期の両者の対比には、運命の皮肉が付きまとう。80年代武満の充実には、70年代後半から80年代末まで助手を務めた毛利蔵人の貢献が大きいが、そもそも毛利は三善に憧れて作曲を独学し、高校卒業後は桐朋学園大図書館で働いて1971年から師事し、僅か2年で日本音楽コンクールに入選してデビューした、アカデミックな経歴とは全く無縁な三善の秘蔵っ子だった。だが、彼が人生を捧げたのは師ではなく武満であり、武満の後を追うように師よりも先に早逝した。

c0050810_21425997.jpg 野平は藝大付属高から藝大作曲科に進み、池内門下の理論家永冨正之(1932-) に作曲理論を、同じく池内門下の間宮芳生に作曲実践を学んだ。バルトークにならった民謡研究を通じて声楽書法を発展させた間宮の《合唱のためのコンポジション》シリーズ(1958-) は、ヨーロッパ戦後前衛の探求に比肩する達成であり、管弦楽曲でも《オーケストラのためのタブロー’65》とピアノ協奏曲第2番(1970) で尾高賞を2回受賞し、藝大や桐朋学園大で教鞭を執ったが常勤職には就かなかった。民謡のフィールドワークが重要な作曲スタンスの持ち主には常勤職の制約は窮屈だったのだろう。同期の矢代の急逝を補う形で黛は藝大で教え始め、松下功(1951-2018)、南聡(1955-) ら門下生を輩出したが、藝大着任の年に自由国民会議(自民党党友組織)代表、後には日本を守る国民会議(日本会議の源流となる右派政治団体)議長にも就任し、常勤職には就かなかった。黛の門下生たちと同じく、野平も師の作曲美学を受け継いでいるわけではない。野平の場合は副専攻でピアノも学んでおり、アカデミックな書法の習得以上の美学に構っている余裕はなかったのだろう。

c0050810_21441063.jpg 野平は1978年からパリ音楽院に留学する。彼はスペクトル楽派第二世代を代表する作曲家のひとりになるが、この時点ではIRCAMの研究プログラムに指定されてアカデミズムの対象になるどころか、まだ「スペクトル楽派」という呼称自体が存在していなかった。彼が師事したのはブーレーズバラケと並ぶフランスの戦後前衛第一世代のセリアリスト、ベッツィ・ジョラス(1926-) らであり、確立された書法を磨く場になった。ピアノも引き続き副専攻として学んだが、彼はピアノ演奏を武器に新しい道を自力で切り開く。卒業後に彼が選んだのは、アンサンブル・イティネレールのピアニストとしてパリに留まることだった。スペクトル書法の作品の演奏には特殊調律が求められるため、広く認知される以前は一般的なアンサンブルは演奏を忌避した。そこで、自作を音にするために楽派第一世代の作曲家が中心になって結成したのがこの団体だった。野平はこの楽派が「アカデミズムの反逆者」としてDIY精神で活動していた時期を知る最後の世代なのである。異国で伝統を持たない団体に参加する以上、作曲家の視点で楽派を十分に調べたはずで、参加直後からこの楽派の様式に基づいた《錯乱のテクスチュア》シリーズ(1982-) を書き始めている。

c0050810_21453475.jpg そもそもこの楽派の出発点は、パリ音楽院の優等生ミュライユとグリゼーが、ローマ賞を得てメディチ荘滞在中にシェルシの音楽を知って衝撃を受け、その本質を科学的に再構築しようとした試みであり、伝統的エクリチュールとの親和性は元々高かった。また野平が活動を続ける上で特に参考にしたのは、楽派第一世代最後の作曲家でアンサンブルの先輩ピアニストでもある、ミカエル・レヴィナス(1949-) だったことは疑いない。楽派第一世代では最もノイズ志向の強い彼に倣って、野平の代表作にはエレキギター協奏曲《炎の弦》(1990/2002) や、MIDIピアノ、アンサンブルと電子音響のための《挑戦への14の逸脱》(1990-91/93) などが並ぶ。また独奏ピアニストとしての活動でも、フランス近現代作品に加えてベートーヴェンのソナタ全曲をレパートリーにし、優先的に全曲録音を行った方向性も一致している。しかし90年代に入ると、ノイズ志向だったレヴィナスの曲にも伝統的なフレーズや形式感が目立ち始める。この傾向は彼に限った話ではなく、楽派第二世代の多くの作曲家たちにも並行して起こった出来事だった。このあたりの事情はミュライユ特集回の解説で書いたので繰り返さないが、日本のアカデミズムに飽き足らずフランスに留学したのに、結局彼地も伝統回帰したのではもはや留まる理由はない、という判断は合理的だ。

c0050810_21465162.jpg 帰国後の野平は室内協奏曲第1番(1995) で尾高賞を受賞し、東京シンフォニエッタ初代代表として現代音楽普及にも積極的に取り組みながら藝大で教え始めた。その後の作風はレヴィナス同様伝統回帰で特徴付けられるが、内外の情勢を把握した上での自覚的な選択であり、ある種の風格は感じられる。スペクトル楽派第二世代以降の調性回帰の少なからぬ部分が、スペクトル和声を使い続けていることを言い訳に、音楽の内実は限りなくムード音楽に近づいていることから目を逸らすレベルなのとは対照的ではある。今回の曲目は出版譜ないし公認自筆譜が存在する演奏会用ピアノ独奏曲全曲=パリ音楽院時代の《アラベスク第2番》、スペクトル楽派の一員だった時代の《間奏曲第1番》、帰国しアカデミーの一員となってからの《間奏曲第2番》以降と、彼の歩みをコンパクトに辿るものになっている。《間奏曲》シリーズの番号が飛ぶのは、自演が前提の曲も通し番号に含めているためで、このシリーズは演奏家の生理から自然体で生まれた曲集だと伝えている。


# by ooi_piano | 2018-12-12 09:13 | POC2018 | Comments(0)