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2022/01/14(金)G.フォーレ後期全ピアノ曲+桒形亜樹子新作 [2022/01/10 update]_c0050810_21084079.jpg

大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


【第4回公演】 2022年1月14日(金)19時開演(18時30分開場)〈フォーレ後期全ピアノ曲〉 L'intégrale des œuvres pour piano des dernières années de Gabriel Fauré (Opp. 96-119)

使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


●G.フォーレ(1845-1924):《舟歌第8番 変ニ長調 Op.96》(1908) 3分
《夜想曲第9番 ロ短調 Op.97》(1908) 4分
《夜想曲第10番 ホ短調 Op.99》(1908) 4分

◇桒形亜樹子:《紅石(ルビー)》(2021、委嘱初演) 3分

●G.フォーレ:《舟歌第9番 イ短調 Op.101》(1908/09) 4分
《即興曲第5番 嬰へ短調 Op.102》(1909) 3分
《9つの前奏曲集 Op.103》(1909/10) 22分
  I. Andante molto moderato - II. Allegro - III. Andante - IV. Allegretto moderato - V. Allegro - VI. Andante - VII. Andante moderato - VIII. Allegro - IX. Adagio

  (休憩 10分)

●G.フォーレ:歌劇《ペネロペ》第2幕前奏曲(1912) [作曲者編独奏版] 3分
《夜想曲第11番 嬰へ短調 Op.104-1》(1913) 4分
《舟歌第10番 イ短調 Op.104-2》(1913) 3分

◇桒形亜樹子:《紫水晶(アメシスト)》(2021、委嘱初演) 3分

●G.フォーレ:《舟歌第11番 ト短調 Op.105》(1914) 4分
《舟歌第12番 変ホ長調 Op.106b》(1915) 3分
《夜想曲第12番 ホ短調 Op.107》(1915) 6分

◇桒形亜樹子:《黒尖晶石(ブラック・スピネル)》(2021、委嘱初演) 2分

●G.フォーレ:《天守夫人(塔の奥方) Op.110》(1918) 5分
《舟歌第13番 ハ長調 Op.116》(1921) 3分
《夜想曲第13番 ロ短調 Op.119》(1921) 7分



G.フォーレ:《弦楽四重奏曲 Op.121》(1924)(サマズイユ編独奏版)、《幻想曲 Op.111》(1918)(作曲者編2台ピアノ版)、《ピアノ三重奏曲 Op.120》(1923)(米沢典剛編独奏版)、組曲《マスクとベルガマスク Op.112》 (1919/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版]、歌劇《ペネロープ》第1幕への前奏曲 (1913、作曲者編)、《平和が来た Op.114》(1919/2021) [横島浩によるピアノ独奏版]、《ディアーヌよ、セレネよ Op.118-3》(1921) 、《チェロソナタ第1番 Op.109》(1917)、《チェロソナタ第2番 Op.117》(1921)他


【cf.】
●フォーレ:ヴァイオリン作品全曲(千々岩英一(vn)) ヴァイオリンソナタ第1番イ長調Op.13 (1875/76)、子守唄 Op.16 (1879)、ロマンス Op.28 (1883)、初見試奏曲(1903)、アンダンテ Op.75 (1897)、ヴァイオリンソナタ第2番ホ短調Op.108 (1916/17) [2013.11.2]
●フォーレ:チェロ作品全曲(上森祥平(vc)) 子守唄 Op.16 (1878/79)、エレジー Op.24 (1883)、蝶々 Op.77 (1885)、シシリエンヌ Op.78 (1893)、ロマンス Op.69 (1894)、セレナーデ Op.98 (1908)、チェロ・ソナタ第1番ニ短調 Op.109 (1917)、チェロ・ソナタ第2番ト短調 Op.117 (1921) [2014.12.23]
●フォーレ:ピアノ五重奏曲全2曲(長原幸太/佐久間聡一(vn)、中島悦子(va)、上森祥平(vc)) ピアノ五重奏曲 第1 番 ニ短調 Op.89 (1895)、ピアノ五重奏曲 第2 番 ハ短調 Op.115(1921) [2014.7.15]
●フォーレ:後期歌曲集他(鎌田直純(artiste lyrique)) リディア Op.4-2 (1870)、月の光 Op.46-2 (1887)、ひそやかに Op.58-2 (1891)、消え去らぬ香り Op.76-1 (1897)、アルペジオ Op.76-2 (1897)、歌曲集《蜃気楼(ミラージュ) Op.113》 (1919) 、歌曲集《幻想の水平線 Op.118》 (1921) [2015.04.03]

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桒形亜樹子:《輝石 3 Stones》(2021)
   I. 紅石 Ruby - II. 紫水晶 Amethyst - III. 黒尖晶石 Black Spinel

 減衰の早い歴史的鍵盤楽器のために書き、曲の成立後に好きな石を選んで命名したところ、期せずして硬い石ばかりとなった。
 第1曲「ルビー(紅石)」は硬度9とダイヤモンドの次に硬い。ラテン語のルフス(赤)から来た名前の通り、その赤い色(消えない火、などとも言われる)に秘められたパワーが古今信じられて来た。最古の記述としては2500年前、スリランカが原産地といわれている。
 第2曲「アメシスト(紫水晶)」は硬度7、ギリシア神話に登場する娘の名前。ディオニュソスの蛮行を見た女神ダイアナが彼女の姿をクオーツに変え、自分の行いを恥じたワインの神の涙がその上に落ちて出来たという逸話が起源である。その紫色が高貴なものの象徴である他、アメシストには酩酊を防ぐ、禁欲、思考能力の増大など多くの効果があると伝えられており、今日でもカトリック司教の指輪に使われている。18世紀になってヨーロッパに輸出され大人気を博した。
 第3曲「ブラック・スピネル(黒尖晶石)」は硬度8、魔除けとして特に有名だが、潜在能力を引き出す効果もあると言われている。八面体の結晶が尖っている事から、ラテン語のスピナ(とげ)が語源である。大きな原石がほとんどないこの貴重な天然の漆黒の石は、高い技術のカットの下で美しい反射光を放ち、ブラックダイヤモンドに匹敵する輝きを持つ。(桒形亜樹子)


桒形亜樹子 Akiko KUWAGATA, composer
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 東京藝術大学附属高校、同大学作曲科を経てDAAD給費留学生としてドイツへ留学。北西ドイツ・デトモルト音楽院、シュトゥットガルト芸術大学でチェンバロ専攻。国家ソリスト・ディプロム取得。1990年よりフランス、パリへ移りセルジー・ポントワーズ国立音楽院、ショーモン市立音楽院でチェンバロ、通奏低音の講師を務める。日本文化庁在外派遣研修員としてイタリア、スペインでも研鑽を積む。2000年に17年間の欧州滞在の後帰国、現在東京を中心に自由で多様な活動を行っている。
 W.デューリンク、K.ギルバート、R.アレッサンドリーニにチェンバロを、O.バイユー、J.L.ゴンサレス=ウリオルにオルガンを師事。1986年ブリュージュ国際コンクール1位なし2位、その他パリ、ライプツィヒの国際チェンバロ・コンクールで上位入賞。
 2018年フランソワ・クープラン『クラヴサン奏法』新訳を全音楽譜出版社より刊行。音律に関する論文も執筆。A.コレッリなどの通奏低音のレアリゼーション譜面なども出版している。東京藝術大学非常勤講師などを歴任し、現在松本市音楽文化ホール講師。
 深田晃氏の自主レーベルDream Window Inc.よりフローベルガー、J.S.バッハ、ルイ・クープランのソロアルバムを2017年以降ハイレゾ世界配信開始、他にもコジマ録音、マイスターミュージックより室内楽で参加しているCDも発売されている。[photo/ (C)林喜代種]




《ペネロープ》とフォーレ晩年の様式――中西充弥

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  ガブリエル・フォーレ(1845-1924)の晩年の音楽は歌劇《ペネロープ》(1913年初演)に代表され、作品が作曲され始めた1907年以降を創作人生における区切りの一つとしてよいでしょう。フォーレの人生の多くの部分で音楽的にもキャリア的にもその師であり友人であったカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)の影響を受けていますが、おそらく《ペネロープ》の企画を思い立ったのもサン=サーンスの《エレーヌ》(1904年初演)の後を受けたからと考えられます。

  古代ギリシア・ローマの西洋古典古代への関心はサン=サーンスが以前から抱いていたものですが、時代的な背景と大きな関係があります。ハインリヒ・シュリーマン(1822-1890)のトロイア発掘による考古学熱の高まりは直接的な影響でしょう。現代の我々が古代の遺跡のロマンにかき立てられるように、19世紀の人々も興味を持つどころか、ちょうど発掘ブームの中で1873年のトロイアの「プリアモスの財宝」発見に続き、1922年のツタンカーメン王の墓の発見へと、まさに世紀の発見に現在進行形で立ち会い、固唾を呑んで見守っていたのです。そして、日本から見るとフランスとギリシャはヨーロッパの近い国々と一括りにしてしまいがちですが、交通機関の発達していない当時、フランス人から見てギリシャも「オリエント(東)」であり、異国情緒を抱く対象の国でした。

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  もちろんこの熱狂は芸術運動にも影響を与えます。かつて、ルネサンスにより西洋古典古代の文化が「復興」されましたが、爛熟した19世紀末から20世紀初頭の文化においては多様なベクトルの内の一つとして取り上げられます。フランス文学、特に詩においてはヴィクトル・ユゴー(1802-1885)らのロマン派とポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)らの象徴派の陰に隠れてあまり注目されませんが、この二つの世代をつなぐ高踏派という芸術様式がありました。この高踏派において重視された考えがテオフィル・ゴーティエ(1811-1872)の「芸術のための芸術」であり、象牙の塔に籠るかのように、いわば藤原定家が「紅旗征戎吾が事に非ず」としたためたように、社会問題や政治には関心を示さず、もっぱら芸術に身を捧げる活動でした。その中で理想とされたものの一つが、古代ギリシア・ローマの大理石の彫像の美、感情を超越した形式美だったのです。大理石の均整の取れた人物像は美しい半面、冷たい印象を受けることがありますが、まさにその世俗の塵芥から超然とした姿に高踏派の芸術家たちは憧れたのでした。サン=サーンスの音楽も形式的で感情がないと生前から非難され、現在においてもその評価が尾を引いていますが、ある意味それはサン=サーンスが目指した理想を具現化したものであったのです。フォーレはヴェルレーヌの詩に作曲した歌曲集《優しい歌》等が有名なため、象徴派の美学との関係に注目されがちですが、高踏派の代表的な詩人、ルコント・ド・リール(1818-1894)や先述のゴーティエの詩にも多く音楽を付しており、その思想に共鳴していたことが窺われます。

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  さて、「発掘」ブームは考古学だけにとどまりません。古代ギリシアの文化、すなわち当時の人々の生活が明らかになるにつれ、当然古代ギリシア人たちが奏でた音楽にも目が向けられるようになり、古代ギリシア音楽の研究が進められ「発掘・復興」が図られました。代表的なものが、ルイ=アルベール・ブルゴー=デュクドレー(1840-1910)によるギリシャ民謡の調査に基づく1878年パリ万博での講演「ギリシア音楽における旋法」です。ここから古今東西の旋法性の研究が進められ、20世紀音楽の扉を開く原動力の一つとなってクロード・ドビュッシー(1862-1918)やモーリス・ラヴェル(1875-1937)らの活躍を生み出したのです。もちろん、サン=サーンスやフォーレらはこの古代ギリシア旋法の研究と同時代に生きましたので、不十分とはいえ最新の研究成果に触れ、それに刺激を受けて創作活動を行い、後の世代を準備することとなりました。それが《エレーヌ》であり、《ペネロープ》であったのです。

  また、サン=サーンスは南仏のベジエにおいて闘牛場を利用した音楽祭の企画に参加し、1898年の第一回目の公演においては演劇版《デジャニール》が初演されました。南仏の野外円形劇場というアイデアは、当然古代ギリシアやローマの劇場の復活が意図され、サン=サーンスにとってはまさに「ラテン精神」の発揚の場として、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)のバイロイト音楽祭に体現される「ゲルマン精神」に対抗する意識が明らかに感じられます。ただ、さすがに自作だけでは音楽祭を継続するのが難しく、1900年の公演に当たってはサン=サーンスの勧めによりフォーレに作品が委嘱され、《プロメテ》が初演されます。というわけで、サン=サーンスとフォーレはもちろん当時の潮流の影響もありますが、西洋古典古代への興味関心を共有していたのでした。

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  さらに、エレーヌ(ヘレネー)とペネロープ(ペーネロペー)には、どちらもトロイア戦争にまつわる美女という共通点があります。しかし非常に対照的で、方やトロイア戦争のきっかけとなった傾国の美女に対し、方や貞淑な妻の模範なのです。しかも、ヘレネーを取り上げたのが堅物のサン=サーンスで、ペーネロペーを取り上げたのが浮名を流したフォーレというのも大変興味深いところです。互いに「ないものねだり」と言ったところでしょうか。サン=サーンスの方は《エレーヌ》に対する思い入れが大変強く、小規模な作品であるものの、他人の台本では納得できないので、それでは自分で書けばよいということで台本まで執筆するほどでした。フォーレの方も忙しい公職の合間を縫って足掛け7年かけ作曲することになったのですが、なぜそこまで《ペネロープ》にこだわったのでしょうか。フォーレはその理由を「良い台本に中々巡り合えなかったから」と説明していますが、そこにフォーレの慎重で控えめな創作態度が見られます。ただ、1905年にフォーレはパリ音楽院の院長に就任しており、院長としての代表作、そして難聴の始まった60代の老いを迎えて未だに大作がないということへのプレッシャー、焦りがあったのかもしれません。フォーレが育てた生徒たちは器楽分野で活躍していきますが、フォーレを育てた世代の作曲家の成功モデルは劇場、それもオペラ座でのグランド・オペラ(グラントペラ)の成功でしたので、サン=サーンスもオペラを量産しました。フォーレは世間の評価にはどちらかというと無頓着で、自分の書きたいものを作曲するあまり、ピアノ曲、声楽曲、室内楽曲という小規模で親密な編成を好み、その結果世俗的な大きな成功とは無縁でしたが、もちろんこのままでよいのか、という葛藤があったのでしょう。また19世紀当時はフランス楽壇におけるワーグナーの影響が大変大きく、フォーレ自身バイロイト詣でをしたこともある程ですから、オペラに興味が無かったと言えば嘘になるでしょう。だからこそ、フォーレなりの「オペラ」という解答を提出するのに逡巡したのだと考えられます。それはベートーヴェンの壁に対する解答である《弦楽四重奏曲》が人生の最後まで後回しにされ、絶筆になったのと同じ理由でしょう。

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  さて、《ペネロープ》の様式はというと、オペラと思って聴くと肩透かしを食らうほど音数が少なく、盛り上がりに欠け、五線譜を音符で埋めるというより、音を削ってそぎ落としていく印象があります。なぜこのような語法になったかというと、当然老境の作曲家に共通する、淡白な志向、枯淡の境地というものがあり、ブラームスの後期作品などがその典型でしょう。ただ、フォーレの場合はそれだけではない、もっと切実な理由がありました。それが難聴でした。彼の難聴は1903年頃に既に始まっていたのですが、ただ聞こえなくなるのとは異なり、高い音が低めに、低い音が高めに、という風に音程が歪んで聞こえたため、音楽家にとっては非常に苦痛を伴う状態だったのです。そのため、フォーレは聞き取りやすい中音域や密集配置の和音を好んで用いるようになり、ダイナミクスの抑揚も小さくなります。当然、彼は職業作曲家ですから、頭の中では作品のイメージを作り、鳴らすことができたでしょうが、やはり実際の演奏を聴くことができないことは大きなダメージでした。それでも、この逆境にめげずに、逆手に取って晩年のフォーレ独自の語法を生み出したことは人生の皮肉というべきでしょうか。

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  そして、《ペネロープ》によって確立された語法によって、歌曲集《閉ざされた庭》、《幻影》や《幻想の水平線》、《ヴァイオリン・ソナタ 第2番》、2曲の《チェロ・ソナタ》、《ピアノ五重奏曲 第2番》、《ピアノ三重奏曲》、白鳥の歌の《弦楽四重奏曲》といった晩年の傑作群が生みだされ、今回演奏される後期ピアノ作品も含まれます。しかし、この表現を切り詰めていく語法は、《ペネロープ》初演の同年にパリでイゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)の《春の祭典》が初演された時代に、よく言えば斬新ですが、悪く言うと当時の聴衆は面食らってしまい、《春の祭典》とは違う意味での独創性についていけなかったと考えられます。確かに、この音をそぎ落とす語法は峻厳で人を寄せ付けない面がありますが、これは先述の大理石を彫琢する職人仕事を礼賛した高踏派に通じるものがあります。また老境の孤独な立場で内省的になり、難聴により頭の中の観念的な音楽に没頭するということは、象牙の塔という点でも高踏派らしいと言えますが、フォーレは子ども時代「物思いにふける口数の少ない」少年であったことから、ある意味で原点回帰と言えるかもしれません。さらに、大理石の彫像の冷たい美しさは、表現をそぎ落として作り出される日本の能面の美に通じるものがあり、見る角度によって表情を変えるその微妙な味わいがやはり共通しています。大理石のヴィーナスの顔と能面の小面を比較するとその純白で均整の取れた美しさに、時代と距離を超えた普遍的な美を感じ取れずにはいられません。このようにして、フォーレはその晩年において孤高の音楽性を確立したのでした。



中西充弥 Mitsuya NAKANISHI, musicology
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京都大学文学部フランス語学フランス文学専修卒業。京都市立芸術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了。フランス政府給費留学生として渡仏、パリ第四大学ソルボンヌ(現パリ=ソルボンヌ大学)大学院博士課程に留学。2016年、サン=サーンスとその日本趣味に関する論文で博士号(音楽学/パリ=ソルボンヌ大学)取得。日本音楽学会正会員。NHK Eテレ「クラシックTV」『再発見!サン=サーンス 真の魅力』(2021年6月17日放送)監修、出演。カワイ出版『サン=サーンス ピアノ曲集』(2021)校訂。ウェブ連載『旅するピアニスト、サン=サーンス』等。専門はサン=サーンスを中心とした19世紀/20世紀フランス音楽史。

【著書/論考 リンク集】




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# by ooi_piano | 2022-01-07 18:24 | Rosewood2021 | Comments(0)
12/3(金)ブラームス後期全ピアノ曲+三宅榛名新作初演 (2021/11/26 update)_c0050810_19264726.jpg

大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
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【第3回公演】2021年12月3日(金)19時開演(18時30分開場)〈ブラームス後期全ピアノ曲〉
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


■J.ブラームス:《7つの幻想曲 Op.116》(1892) 25分
  I. 奇想曲 - II. 間奏曲 - III. 奇想曲 - IV. 間奏曲 - V. 間奏曲 - VI. 間奏曲 - VII. 奇想曲

●三宅榛名:《捨て子エレジー》(1974)  7分

■ブラームス:《3つの間奏曲 Op.117》(1892)  16分

  (休憩 10分)

■ブラームス:《6つの小品 Op.118》(1893)  22分
  I. 間奏曲 - II. 間奏曲 - III. バラード - IV. 間奏曲 - V. ロマンス - VI. 間奏曲

●三宅榛名:《Come back to music 異聞》(2021、委嘱初演) 5分

■ブラームス:《4つの小品 Op.119》(1893)  14分
  I. 間奏曲 - II. 間奏曲 - III. 間奏曲 - IV. 狂詩曲



12/3(金)ブラームス後期全ピアノ曲+三宅榛名新作初演 (2021/11/26 update)_c0050810_06480838.jpg
三宅榛名:《捨て子エレジー》(1974)
  ピアノ弾き語り。現代音楽の語法と、演歌とが、互に相対物として存在している。演歌は現代音楽の中でパロディーであり、現代音楽もまた、その逆である。(三宅榛名)

  昔 桃太郎 今捨子
  流れ流れて 三途の川を
  渡りゃうらめし 親子石

  ピンクの産衣は 女の子
  白い産衣は 男の子
  お宮まいりの親子連れ
  見るも うらめし 親子石

  わびし三途の 川岸で
  一人積む石 親のため
  けむるメザシの かほりさえ
  嬉し恨めし 親子石


三宅榛名:《Come back to music 異聞》(2021)
  音のひびきが、次の音をつむぎ出し、その危ういひびきから繰り出される音楽が、次第に姿をあらわす。曲は、ただよいつつ揺れ動くテンポや微妙な音色の多様性が込められているため、演奏者には自発的なアプローチがより求められる。(三宅榛名)


12/3(金)ブラームス後期全ピアノ曲+三宅榛名新作初演 (2021/11/26 update)_c0050810_19313948.png
三宅榛名 Haruna Miyake, composer
  作曲家・ピアニスト。ジュリアード音楽院作曲科卒。リンカーン・センター<新ホール>こけら落しに作品を委嘱される。オーケストラから邦楽器におよぶ作品を書き、ピアニストとしてはクラシックから即興演奏に至る広分野で活動を続ける。作品に<弦楽オーケストラの詩曲>(ベンジャミン賞)、<滅びた世界から>(国立劇場委嘱)など。CDに<空気の音楽>(コジマ録音)など。



 
ブラームス:《クラリネット五重奏曲 Op.115》(1891/1904)[P.クレンゲルによるピアノ独奏版]


〇三宅榛名:《鉄道唱歌ビッグ変奏曲 大人用》(1981) https://youtu.be/dIHImi4yXZA
〇三宅榛名:《鳥の影》(1984)  https://www.youtube.com/watch?v=wEKrnq1sC7w
〇三宅榛名:《イェスタディ》(1990)  https://www.youtube.com/watch?v=3pab6MfFwas
〇三宅榛名:《御業を待ち望む》(2001)  https://www.youtube.com/watch?v=9YQJJFafEqs



ブラームスの場合――本郷健一

12/3(金)ブラームス後期全ピアノ曲+三宅榛名新作初演 (2021/11/26 update)_c0050810_06572863.jpg
  1908年にパリから日本へ帰国した永井荷風は、ヨーロッパの音楽事情を精力的にレポートした。中心はパリで見たオペラだった。ベルリオーズ、グノー、ドビュッシーと並べられたフランスの作曲家たちの中に、ドイツのワーグナーの名が頻りに登場するのが目につく。しかるに、反ワーグナーの代表格と見なされていたはずのブラームスは、なぜか、まったく登場しない。荷風の関心がほとんどオペラだったせいなのか。ブラームスにはオペラ作品がひとつもない。
  それならこちらはどうか、と、同時期に活発な評論活動をしていたドビュッシーの文章を覗いてみる。もちろん自国のフランク、サン=サーンス、ダンディらの作品がぞろぞろ登場する。そしてその狭間に、やはりワーグナーについて、少なからぬ言及がある。いっぽう、ブラームスには、こちらも一切触れていない。

  どうやらブラームスは、フランスではほとんど認知されていなかったらしい。すでに没後十年である。独仏の政治的関係も影響していたのだろうか。40年前の普仏戦争以来、二国間には常によそよそしい空気が流れていた。親ビスマルクだったブラームスが独仏交流の埒外にいても、何の不思議もない。しかし、それだけで説明がつくのだろうか。

  普仏戦争敗戦後の1870年代、フランスの国民意識の高揚の中で、象徴派の若い詩人たちが、かつて『タンホイザー』上演でパリに賛否両論の渦を巻き起こしボードレールやマラルメに称揚されたワーグナーを、敵国人であるにもかかわらず自派の巨匠とする。これが同年代の音楽家にも波及した。結果、1920年にパリ音楽院の聴講生だった日本人作曲家、小松耕輔の表現によれば、フランスの大多数の作曲家が、二度音程や半音階的進行、装飾音の組織立てた使用で、音調を霧で被うようになっていた(『現代フランス音楽』昭和25年)。おそらく、このような潮流に乗っていない音楽は、フランス人には用がなかったのだ。

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  音調を霧で被う志向は、フランツ・リストに遡る。かつ、リストは、詩的想念が形式を決定する、と主張もしていた。エドゥアルト・ハンスリックは、1854年に著した『音楽美論』で、このリストに代表されワーグナーが『未来の芸術』で展開した新ドイツ派的な思潮に激しく反発し、音楽作品の美は音楽以外の何物にも関係なく、音の結合に内在している、と主張した。つまり、音楽美に詩的想念など持ち込む余地はない、というわけだ。
  たまたま、ブラームスは1860年、ヨアヒムら友人と共に、新ドイツ派を糾弾する声明文を発表した。曰く、彼らは新奇で前代未聞の理論を打ち立てることに無理して努めていて、音楽の最も奥深い本質に逆らっている、と。
  声明の三年後、ブラームスはハンスリックと初めて交流をもった。以後ハンスリックは、ブラームスの音楽を、音楽そのものによる形式美の典型と喧伝する。ブラームスが反ワーグナーの代表格と見なされるようになったのは、このことによる。
  1892年には、珍しくフランスからブラームスへ「私は、私が反ブラームスだという謂われのない汚名に反駁しました」と書いた手紙がきた。サン=サーンスからだった。フランス古典の形式を復興した、と後に評価された彼は、ちょうど20年前、ブラームスとミュンヘンの同じ会場で『ワルキューレ』他を観ている。その際面識を持ったのかも知れない。


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  ブラームスは、しかし、反ワーグナーなのではなかった
  先の新ドイツ派糾弾声明にも拘らず、ワーグナーへの反感はなかった。1863年には友人タウジヒからワーグナーのウィーンでの演奏会に協力を求められ、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のパート譜作成に従事して心を躍らせている。そのうちタウジヒの仲介で、『タンホイザー』の自筆譜を、所有していた人物から入手さえした。これはのちに求められてワーグナーに返却し、代わりに感謝の金文字自筆献辞入り『ラインの黄金』の初版譜をせしめることになる。
  さらにブラームスは、ハンスリックは寄る年波でワーグナー作品に対する耳もセンスもない、とも言い放っている(1887年。後出の評論家ホイベルガーによる「ブラームスは語る」)。
  ワーグナーの作ったキャラクターの中で、ブラームスのいちばんのお気に入りは、『マイスタージンガー』のベックメッサーだったらしい。ブラームスはワーグナーと交流のあることをハンスリックには内緒にしていた(同)。

  オペラを書きたくなかった訳ではないが、ブラームス作品は結局カンタータ『リナルド』(1868年、作品50)だけがドラマ的で、これは男声独唱男声合唱ゆえに聴き映えがせず、こんにち殆んど忘れられている。主戦場は、「器楽ができないことについては音楽ができるとは断じていえない」(『美論』)とハンスリックが言っていたその器楽、加えて歌曲や合唱曲だった。
  創作方針は、唯一の作曲の弟子グスタフ・イェンナーへの教え、歌曲作曲のアドバイスを乞うたイギリスの歌手ジョージ・ヘンシェルへの示唆、いずれも同じで、旋律よりも低音が大事とし、ある程度出来上がったらしばらく放置する、だった。
  しかし、思いつき自体は旋律からだったようだ。晩年の『四つの厳粛な歌』の出来立て草稿を目の当たりにしたホイベルガーは、それが旋律から書かれ、他は後からたくさん手直しされているのを見てとった。掘り下げ型の作曲手法をとっていたブラームスには、旋律を楽劇に仕立てる方向性が持てなかったのだろう。

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  まずは旋律から、の作曲手順だったかと推測されるにもかかわらず、ブラームスの旋律は許容されにくかった。
  ほぼ毎年イギリスへ演奏旅行をしたクララ・シューマン、無二の友人ヨアヒムの盛んな紹介のお陰で、自身は渡ることがなかったにもかかわらず、ブラームスの音楽はドーバー海峡を越えた名声を得た。が、一方で酷評も免れなかった。
  バーナード・ショーは、こう書いた。「ブラームスは本質的に陳腐な主題を用い、それをかなり精巧にこじつけたハーモニーで飾ることによって一風変わった雰囲気を醸し出させている」(1890年)。ブラームスの作曲法の急所を突いた評言かも知れない。
  チャイコフスキーなどは、ブラームスの音楽を「混乱していて全くくだらない」(1886年の日記)と貶めた。このころブラームスへの弟子入りに迷っていたイェンナーは、しかし、翌年ハンブルクへ自作演奏会準備のために訪問したチャイコフスキーに紹介されて作品を見せに行き、その口数の多さと話す内容の曖昧さに戸惑い、同時にブラームスの思慮深さの魅力を認識し直した。

  作曲の師としてのブラームスは、容赦がなかった。イェンナーは「これからも褒められることはない」と宣言され、安易なアイディアや和声、対位法の不備を徹底的に突かれて、しばしば涙にくれた。
  これは、セザール・フランクが弟子の拙い作品にも「私はこういうの好きだよ」と誉めた逸話と正反対である。フランクが弟子からデュパルク、ショーソン、ダンディら多くの有名作曲家を輩出したのと、ブラームスの周囲にはそれがなかったこととの差は、弟子への接し方の違いから生まれたものだったのだろうか。

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  ブラームスにはイェンナー以外に直弟子はいなかった。
  ピアノ演奏ならば、クララ・シューマンの弟子を預かって教えることがあった。1871年に面倒を見たフローレンス・メイへの教授の様子は、メイ自身の書き残したものから少し分かる。それによると、ブラームスはメイの指の動きの悪いところを根気よく指摘し、自分の手の動きを見せて是正させた。すると、それまで固く出っ張っていたメイの指関節が、たった二週間で滑らかになり、出っ張りが消えた。これには、付き添っていた彼女の父も仰天した。曲はメイが弾けなければ「難しいから仕方ない、そのうちなんとかなる」として突き放さず、仕上がってくれば「それでよし」の他は余計なコメントをせずに次へと進ませた。
  ブラームス自身の演奏については、やはりクララの弟子で、それを間近に見たファニー・デイヴィスが、「書き表すことは作品を作っていく過程を論じるようなもの」で難しいと言いつつ、彼が「内声部のハーモニーを聴かせようとし」・「低音部をがっちり強調」していたと伝えている(1929年記)。

  厳しい細やかさの反動か、ふだんは「短く細切れにしゃべる」(イェンナー談)ブラームスが、パーティーでは甲高い声でジョークを放つことが多かった、と、何人もが報告している。声が高いのはコンプレックスだったようで、若い頃には、矯正のため、と、わざとガラガラ声で喋って耳障りだった、と、親友だったディートリッヒは述べている(『ヨハネス・ブラームスの思い出』)。
  そんなブラームスのセンスも、うまく活きるときがある。1889年、イェンナーと面会した二年後再び、第5交響曲初演への立ち会いでハンブルクに来たチャイコフスキーは、ブラームスと同宿になり、自作をブラームスと並んで聴く羽目に陥った。事後、「終楽章以外は気に入った」というブラームスに連れ出され、二人でしこたま飲み食いした。こちらもキンキン声だったチャイコフスキー、「実は私も終楽章だけは気に入らないので」と、すっかりブラームスと話が合ってしまった。周りは二人のキンキン声にさぞ迷惑を被っただろう。

  こんなエピソードで拙稿を締め括ろう。1876年7月、ブラームスは行動を共にしていたヘンシェルを誘って湿地帯を歩き、寂しい池にたどり着くと、ウシガエルの声に長いこと聴き入った。ウシガエルの低い声は、どうやらCesを根音とする減三和音で響いていたらしい。ブラームスは、つぶやいた。「この何とも言えない音楽よりも悲しくてメランコリックなものなんか、あると思うかい?」

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(1892)
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Dabei bemerkte Brahms, daß er von Saint-Saens einen Brief bekommen habe, worin dieser den Gerüchten, daß er Brahms nicht schätze, deutlich entgegentrat. „Ich erinnere mich doch eines vor Jahren in den Blättern veröffentlichten Ausspruches von Saint-Saens, daß er stets bereit sei, für Wagner gegen Brahms Stellung zu nehmen. Sie erinnern sich doch auch daran?" befragte mich Brahms. Er sagte ferner, daß er Saint-Saens höflich antworten werde, ohne das jedoch zu übersehen.

最近サンサーンスから「アンチ・ブラームスという、いわれのない汚名に反駁しました」という手紙を受け取ったそうだ。「サン=サーンスは数年前に、自分はワーグナー派で、反ブラームスだということを公にしていたはずだが君も覚えているだろう」。サン=サーンスには、そのことをちゃんと書きそえ、丁重に返事するそうだ。

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4. November. Abends mit Brahms im „Igel", wo wir über jüdische Originalgesänge sprachen. Jemand fragte Brahms: „Was halten Sie von Saint-Saens, Herr Doktor?" „O, sehr viel", war die Antwort. Wir alle, die Brahms besser kennen, mußten herzlich lachen über diese Naivität, Brahms so geradezu zu fragen.

夕方ブラームスと『はりねずみ』で、ユダヤ古謡について話していた。すると誰かが『先生、サン=サーンスのどの辺を評価なさいますか』とブラームスに話しかけた。『そりゃ、いっぱいありますよ』 ”こんなずけずけと質問して”と、ブラームスをよく知るわれわれは、その軽率さを笑ったものだ。


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(1905)
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11. 12. 05. Gestern nach dem Konzerte Max Regers mit ihm und einer Anzahl Herren und Damen bei Klomser zu abend ... — Brahms redete nie von seinen Sachen (oder doch nur höchst selten) — Reger spricht immer von seinen Sachen.



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In the afternoon we resolved to go on an expedition to find 'his' bullfrog pond, of which he had spoken to me for some days. His sense of locality not being very great, we walked on and on across long stretches of waste moorland. Often we heard the weird call of bullfrogs in the distance, but he would say: "No, that's not 'my' pond yet, " and on we walked. At last we found it, a tiny little pool in the midst of a wide plain grown with heather. We had not met a human being the whole way, and this solitary spot seemed out of the world altogether.
"Can you imagine, " Brahms began, "anything more sad and melancholy than this music, the undefinable sounds of which for ever and ever move within the pitiable compass of a diminished third?
"Here we can realize how fairy tales of enchanted princes and princesses have originated .... Listen! There he is again, the poor King's-son with his yearning, mournful C flat!"

  午後は、ここ数日聞かされていた「ブラームスのウシガエル池」探検に決まった。ブラームスの方向感覚はお世辞にも良いとはいえず、われわれはどこまでも続く湿地帯を横切り、延々と歩かされた。時折遠くから、へんてこなウシガエルの鳴き声が聞こえると、ブラームスは「ありゃ”僕の”池じゃないな」――さらに歩き続ける。そしてついに、ヒースの茂る広い平原の真ん中にある小さな水たまりを発見。ここに至る道中、人類に遭遇しておらず、この寂しい場所は世界から孤立しているように見えた。

  語り始めるブラームス。「哀れを誘う減三和音の音域の中で永遠にうごめく、このいわく言い難い音楽よりも、悲しくメランコリックなものがあると思うかい?」「魔法をかけられし王子と王女のおとぎ話、かくして誕生――哀れ、王の子は胸を焦がし、悲しみに暮れる。ほらまた――ド♭(ツェス)――どう、聞こえるだろう?」


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Die Erklärung gegen die Neudeutschen (1860)

"Die Unterzeichneten haben längst mit Bedauern das Treiben einer gewissen Partei verfolgt, deren Organ die Brendelsche Zeitschrift für Musik ist.
Die genannte Zeitschrift verbreitet fortwährend die Meinung, es stimmten im Grunde die ernster strebenden Musiker mit der von ihr vertretenen Richtung überein, erkennten in den Kompositionen der Führer eben dieser Richtung Werke von künstlerischem Wert, und es wäre überhaupt, namentlich in Norddeutschland, der Streit für und wider die sogenannte Zukunftsmusik, und zwar zu Gunsten derselben, ausgefochten.
Gegen eine solche Entstellung der Tatsachen zu protestieren halten die Unterzeichneten für ihre Pflicht und erklären wenigstens ihrerseits, daß sie die Grundsätze, welche die Brendelsche Zeitschrift ausspricht, nicht anerkennen, und daß sie die Produkte der Führer und Schüler der sogenannten ›Neudeutschen‹ Schule, welche teils jene Grundsätze praktisch zur Anwendung bringen und teils zur Aufstellung immer neuer, unerhörter Theorien zwingen, als dem innersten Wesen der Musik zuwider, nur beklagen oder verdammen können."

Johannes Brahms, Otto Grimm, Bernhard Scholz, Joseph Joachim


 次に署名する者たちは、ブレンデルの主筆をつとめる音楽雑誌をその機関誌とするある党派の活動を、かねがね遺憾の念をもって見守ってきた。上記の雑誌は、真摯につとめている音楽家たちはけっきょくはこの雑誌の主張する方向と意見をひとつにし、この方向の指導者たちの作品の中に芸術的な価値のある作品を認識し、あまねく、とくに北ドイツにおいていわゆる未来音楽の賛否をめぐる論争が、しかもこの未来音楽に利するかたちで戦わされるであろうという見解をたえず広めている
 こうした事実をゆがめた見解にたいして抗議するのは、署名者たちの義務と考え、少なくとも署名者の側としては、そのブレンデルの雑誌の述べている原則を認めない。しかも「新ドイツ派」の指導者たちや生徒たちの作品は、一部は件の原則を実際に応用したり、また一部はたえず新奇で前代未聞の理論を打ち立てることに無理してつとめており、彼らの作品は音楽のもっとも奥深い本質に逆らうものとして、非難もしくは批判されてしかるべきであると認識する。

 ヨハネス・ブラームス/ヨーゼフ・ヨアヒム/ユーリウス・グリム/ベルンハルト・ショルツ


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Gustav Jenner "Johannes Brahms als Mensch, Lehrer und Künstler" (1903)

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Brahms' Art zu sprechen hatte etwas kurzes, abgerissenes. Es war nicht seine Sache, sich breit und behaglich über eine Sache auszulassen. Im Gegensatz zu sogenannt beredten Leuten, die im Sprechen eine Freude an ihren eigenen Worten zu erkennen geben, hatte man bei ihm den Eindruck, dass er nur ungern spreche und nur das allernotwendigste. Seine Sätze stellte er präcise und scharf hin und traf hier jedesmal den nagel auf den Kopf: aber er verschwieg weit mehr, ja oft die Hauptsache, ohne die seine Worte gar nicht rightig verstanden werden konnten. Alles das steigerte sich, wenn er in die lage kam, von sich sebst sprechen zu müssen. Jeder, der Brahms näher gestanden hat, weiss, wie kurz wegwerfend, fast verletzend er von seinen eigenen Werken sprechen konnte: gerade auf diesem Gebiet war es schwerer als sonst, ihn richtig zu verstehen. Er war sich des Wertes seiner Werke durchaus bewusst, aber seine männlich-keische Natur machte es ihm unendlich schwer, von sich zu sprechen. Oft versuchte er, sich mit einem Witz zu helfen, der unmoglich immer richtig aufgefasst werden konnte, woraus sich dann wieder leicht eine unbehagliche Stimmung entwickelte. Meistens war er, wenn er im Ernste von sich sprach, in einer Art von Verlegenheit, zu der sich auch wohl ein Zorn gesellte, wenn jemand, dem er eine Berechtigung hierzu nicht einräumte, ihn drängte.

ブラームスは短く細切れにしゃべる。ひとつの話題を楽しく広げてゆくのはブラームス流ではない。雄弁な人は自分の言葉に酔うことがあるけれど、彼は正反対で、必要となったとき仕方なく口を開くといった印象だった。彼の言葉は鋭く正確でつねに核心を衝いていた。しかし肝心なことをぼかしてしまい、何を言っているのか見当がつかないことも多かった。とりわけ自分自身について語るはめになると、わかりにくさは極まった。ブラームスが自分の作品について話すとき、ぶっきらぼうに不機嫌になるのは有名で、話の真意を正しく理解するのは、まず不可能だった。巨匠が己の作品の価値を理解していたのは当然である。しかし男気のある純真な気質のため、それを他人にわからせることが億劫だったのだ。そんな事態におちいると、冗談で切りぬけようとする。ところが、そんなものがうまく伝わるなど土台無理な話で、さらに気まずくなってしまう。真剣に何かを話そうとするとなんだか戸惑った様子になり、周りが無理強いしようものなら、それが怒りの表情に変わるのであった。







# by ooi_piano | 2021-11-13 03:39 | Rosewood2021 | Comments(0)


大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


【第2回公演】2021年11月11日(木)19時開演(18時30分開場)〈セザール・フランク ピアノ主要作品〉
使用楽器: 1887年製NYスタインウェイ「ローズウッド」


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●塩見允枝子(1938- ): 《素描:A-214》(2021、委嘱初演) 4分

■セザール・フランク(1822-1890) :《前奏曲、フーガと変奏曲 Op.18》(1862/1910) [H.バウアー編] 10分

●塩見允枝子: 《素描:R-215》(2021、委嘱初演) 4分

■フランク:《前奏曲、コラールとフーガ》(1884) 17分

●塩見允枝子: 《素描:P-216》(2021、委嘱初演) 5分

■フランク:《前奏曲、アリアと終曲》(1887)  21分

  (休憩)

■フランク:《弦楽四重奏曲(全4楽章)》(1890/2018) [米沢典剛編ピアノ独奏版、世界初演]  40分
  I. Poco lento / Allegro - II. Scherzo, Vivace - III. Larghetto - IV. Final, Allegro molto




フランク:《交響的変奏曲》(1885/1932) [G.サマズイユによるピアノ独奏版]


塩見允枝子:《素描 A-214 / R-215 / P-216 (Dessin for a Moment Unknown)》(2021)
  楽譜とは、未来の或る特定の時に、演奏家が鳴り響く音として具体化するためのデッサン(構図)であるという意味で「素描」をタイトルとした。
  このシリーズでは、各作品が互いに関係の無い短いことばを含んでいるが、それらは曲のイメージから派生した光景であったり、曲の構造と原理を共にする出来事であったり、発想の源であったりする。
  演奏にあたってピアニストはそれらを呟いたり、はっきりと発音したり、無視したりというように、多様な対応をするよう指示されているが、その通りに行わなくても構わない。
 タイトル番号のA、R、Pなどは、それらの文中の主要な英単語の頭文字であり、数字、例えば214は2021年4月に完成したという意味である。(塩見允枝子)


塩見允枝子 Mieko SHIOMI, composer
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  1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成。即興演奏やテープ音楽の制作を試みる。グループ・インプロヴィゼーションは、次第にアクション・ミュージックやイヴェントへと移行し、それは図らずも世界的な傾向と一致していた。1964年ニューヨークへ渡り、フルクサスの活動に参加。同年10月ワシントン・スクエアー・ギャラリーでイヴェント作品によるソロ・リサイタルを開催。65年、郵便によって地球をステージとした遠隔共同パフォーマンス「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始。75年までに9つのイヴェントを行う。一方、イヴェントを舞台上のパフォーマンスとしても発展させ、インターメディア作品へと至る。70年に結婚して大阪へ移住。以後しばらくは、関西を中心に音と詞による室内楽作品を多数発表。
  90年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことを契機に、フルクサスの仲間たちとの交流が再開し、90年代は欧米の数々のフェスティヴァルやグループ展に参加。95年パリ、98年ケルンで個展。同時に国内では、電子テクノロジーに興味を持ち、藤枝守・佐近田展康氏らの協力の下、神戸ジーベックで「メディア・オペラ」、「フルクサス・メディア・オペラ」などのコンサートを企画・演奏。96年には、<東京の夏>音楽祭「世界の女性作曲家」に推薦され、高橋アキ氏の委嘱による「時の戯れ Part II」を自選作として再演。97年神戸国際現代音楽祭では、ブック・オブジェクトから平面作品やパフォーマンスを経て50分の室内楽として作曲した「日蝕の昼間の偶発的物語#1~#3」を初演。1999年北上市で開催された「日独ヴィジュアル・ポエトリー展」に参加。以後このジャンルの国内外の展覧会に出品。
  2001年5月国立国際美術館で裁判形式による複合パフォーマンス「フルクサス裁判」を構成・共演。同年11月「日本の作曲・21世紀へのあゆみ:前衛の時代1~ジョン・ケージ上陸」で過去のイヴェント作品を舞台音楽に作曲初演。2004年3月ジーベックにピアニスト井上郷子氏を招き、近藤譲氏との二人展「線の音楽・形の音楽」を企画。同年5月フルクサスの友人ベン・パターソンの来日公演をマネージメント・共演。2005年には、自伝的著書「フルクサスとは何か」をフィルムアート社から出版。一方、うらわ美術館でのフルクサス展を初め、大学などでフルクサスのレクチャーやワークショップを行う。2008年豊田市美術館でのグループ展「不協和音」には、音楽的コンセプトを持つ多数のヴィジュアルな作品を展示。
  2009年より再び作曲に戻り、ピアノ曲や、イヴェント性のあるチェロ、ハープのためのソロ作品を作曲。2012年舘野泉氏からの委嘱で書いた「アステリクスの肖像」や献呈曲「架空庭園」全3曲が「舘野泉--左手の音楽祭」で初演される。2013年4~7月国立国際美術館がコレクション展「塩見允枝子とフルクサス」を開催。2014年4月東京都現代美術館で行なわれた「Fluxus in Japan 2014」に参加。同年より京都市立芸術大学芸術資源研究センターの特別招聘研究員として、学内でワークショップや公開授業を行ない、現在に至る。なお、過去の出版物やオブジェクトなどは、ニューヨーク近代美術館を始め、国内外の多数の美術館やアーカイヴに収蔵されている。


【主要音楽作品】
「ファントーム」1978
「鳥の辞典」1979
「もし我々が五角形の記憶装置であったなら」1979
「午後に 又は 夢の構造」1979
「草原に夕陽は沈む」1981
「パラセリー二」1981
「時の戯れ」1984
「グロビュールの詩」1988
「時の戯れ Part Ⅱ」1989
「ジョージ・マチューナスへの鎮魂曲」1990
「ピアニストのための方向の音楽」1990
「グランド・ピアノのためのフォーリング・イヴェント」1991
「ピアノの上のビリヤード」1991
「そして夜鶯は翔んだ」1992
「時の思索」1992
「日食の昼間の偶発的物語」1997
「カスケード」1997
「アンコールの伝言」1998
「鏡の回廊」1998
「パラボリック」1998
「月食の夜の偶話 ・第一話」1999
「彩られた影」2002
「架空庭園No.1 – No.3」2009
「チェロのための6つの小品」2010
「ハーピストのための方向の音楽」2010
「アステリスクの肖像」2012
「ソリトン 薄明の大気の中で」2013
「ジュピターの環」2014
「カシオペアからの黙示」2017
「無限の箱から――京都版」2019
シリーズ「素描」2021


【cf.】
〈ポック[POC]第3回公演〉 2010年11月13日(土)
塩見允枝子(1938- ):《シャドウ・ピース》+《バウンダリー・ミュージック》(1963/2010、改訂版初演)
同:《午後に又は夢の構造~ピアノと朗読のための》(1979)
同:《フラクタル・フリーク》(1997/2002、全曲通奏による東京初演) [I. カスケード - II. 鏡の回廊 - III. パラボリック - IV. 彩どられた影]
【感想ツイート集】 https://togetter.com/li/69064


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■Art Week Tokyo Online Talk https://www.artweektokyo.com/
「時間と空間を越えて:塩見允枝子の世界」(2021年)
Interview - Beyong Time and Space : Inside the World of Mieko Shiomi
橋本梓(国立国際美術館 主任研究員)によるインタビュー https://www.youtube.com/watch?v=hj9kD5LJuBc

■塩見允枝子《フルクサスとは何か? - 日常とアートを結びつけた人々》(フィルムアート社、255頁、2005年)
■塩見允枝子《パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年》(2017年、60頁)

■塩見允枝子エッセイ「フルクサスの回想」(2020年)
 第1回 マチューナスとマルチプル http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53437534.html
 第2回 閉ざされた楽園からスペイシャル・ポエムへ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442084.html
 第3回 北イタリーのコレクター達 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442085.html
 第4回 90年代はフルクサス・ルネッサンス  http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442183.html
 第5回 日本でのプロジェクト http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442184.html
 第6回(最終回) フルクサスの美学と手法 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53442185.html

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A FLUXATLAS (フルックスアトラス)(1992年)

ギャラリー「ときの忘れもの」取り扱い作品(写真付き) http://www.tokinowasuremono.com/artist-e47-shiomi/

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●京都市立芸術大学 芸術資源研究センター 塩見允枝子オーラル・ヒストリー (柿沼敏江、竹内直によるインタビュー、2014年) http://www.kcua.ac.jp/arc/ar/shiomi_jp_1/

●後藤美波によるインタビュー映像(2019年) https://creators.yahoo.co.jp/gotominami/0200058884
ジェンダー差別「考えたことがない」―― 世界的”女性アーティスト”が背負ってきたもの

●ルイジ・ボノット財団(イタリア)のコレクション (73点)
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フランクのことが羨ましいサン=サーンス――中西充弥

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  筆者はカミーユ・サン=サーンス(1835-1921)を専門に研究しているので、論点がどうしてもサン=サーンスから見える世界に偏りがちになりますが、特にサン=サーンスとフランク「派」(フランキスト)との対立が激しかっただけに、サン=サーンスから見たフランク像を提供することで、よりセザール・フランク(1822-1890)の人となりを浮き彫りにできるのではないかと思います。
  サン=サーンスから見たフランクの羨ましい点、それは「親離れができた」こと、「世俗的な成功に固執しなかった」こと、「シンフォニックなオルガン作品というジャンルを構築した」こと、そして何より「ワーグナーの影響を受け、それを支持する多くの熱狂的な弟子を持ち一派を成した」ことなど、様々です。そしてその一つ一つがサン=サーンスとは対照的で、つまりサン=サーンスにないものをフランクが持っていた、ということになります。有り体に書くと「ないものねだり」となりますが、この比較が両者の本質を表しており、フランクの音楽や人生を読み解く上でのヒントとなるでしょう。

  まず、「親離れができた」点、フランクもサン=サーンスもピアノの神童として「売り出された」のですが、フランクの場合は父親、サン=サーンスの場合はピアノの師、カミーユ・スタマティ(1811-1870)によるものでした。フランクの父親はステージ・パパとしてフランクを支配したのに対し、サン=サーンスの母親は拙速な成功には懐疑的で十分な教育を受けさせたいとして結果スタマティと決別しますが、教育方針は違えども束縛する親には違いありませんでした。フランクの場合、恋人となったデムソー嬢との結婚を父親に反対されたものの、1848年に強行することで父親との決別を果たし、自立への一歩を踏み出しました。一方、サン=サーンスの結婚に関しては謎が多く、特に恋仲と噂されたこともない相手と唐突に結婚し、おそらく母親の束縛を逃れるための方便として結婚を利用したと考えられるのですが、一人親を置いておくわけにもいかず、姑と新婚夫婦3人同居の生活となってしまいました。よって当初から上手くいく気配がなく、息子の相次ぐ死という悲劇によって夫婦仲は冷めて別居となり、結局サン=サーンスは親子二人暮らしに戻ってしまうのでした。特にサン=サーンスの場合、父親を生後間もなく失い、母親の庇護という名の束縛が彼女の死までずっと続くことになりますので、サン=サーンスの精神形成に多大な影響を与え、母親の死は作曲家に自由と自立をもたらす代わりに精神的危機を引き起こしました。

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  さて、フランクは父親の反対を押し切りましたが、それは結婚だけではありませんでした。聖書による牧歌《ルツ》の1846年の公開初演の失敗により、公的な活動から身を引き、プライヴェート教師や伴奏者としてキャリアを進めるという、華やかな成功を期待できない生活となります。サン=サーンスの場合もローマ大賞コンクールに失敗し、作曲家としては順風満帆な船出とはなりませんでしたが、それでも彼は自宅で「月曜会」という音楽サロンを開催するなど社交界の付き合いを大事にして人脈作りに励み、当時の作曲家のステータスであった劇場での成功を夢見てオペラ作品の売込みに奔走しました。ただし、フランクは結婚式を挙げたノートルダム・ド・ロレット教会を皮切りにオルガニストとしてのキャリアをスタートさせます。教会オルガニストとしての「勤め」は安定した収入を求めて始められたものではありましたが、そこでアリスティド・カヴァイエ=コル(1811-1899)と彼が製作したオルガンに出会い、1858年より亡くなるまで務めたサント・クロチルド聖堂のオルガニストとしての活動は、フランクの名声を高め、1873年のパリ音楽院(コンセルヴァトワール)のオルガン科教授の任用につながり、彼の作曲活動にも大きな影響を与えました。
  その影響の一つは当然ながら彼のオルガン作品に現れます。《大オルガンのための6つの作品集》の中の第2曲〈交響的大曲〉(1863)がその代表です。オルガンによってシンフォニックな世界を作り出す、ということはフランクの後任としてコンセルヴァトワールのオルガン科教授を引き継いだシャルル=マリー・ヴィドール(1844-1937)のオルガン交響曲の嚆矢とも言えるでしょう。そして、この鍵盤楽器による交響曲のアイディアは1857年に出版されたシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813-1888)の《全ての短調による12の練習曲 op.39》(1857)に含まれる〈ピアノ独奏のための交響曲〉や〈ピアノ独奏のための協奏曲〉に由来していると考えられます。実際、この〈交響曲的大曲〉はアルカンに献呈されており、フランクに対するアルカンの影響の大きさが窺われます。音楽的な部分だけでなく、アルカンの厭世的な生き方も、慎み深いフランクに共鳴するところがあったのでしょう。サン=サーンスもマドレーヌ教会のオルガニストとしてその即興演奏にて名声を轟かせますが、フランスの即興演奏の伝統に軸足を置くあまり、オルガン独奏曲として重厚な構成感のある作品を生み出す発想が出てこなかったのは、サン=サーンスの後任オルガニストとなったガブリエル・フォーレ(1845-1924)がオルガン独奏曲を作曲しなかったことと共通しています。
  このようにオルガンの大家となったフランクのもとには多くの弟子が集まりました。ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)、エルネスト・ショーソン(1855-1899)、アンリ・デュパルク(1848-1933)らなどがその代表で、フランク派(フランキスト)と呼ばれました。先述したように、フランスのオルガン演奏においては即興演奏が重視されるため、作曲理論の素養が必須となり、またフランク自身がそうであったように、教会での勤務が安定収入をもたらすことから、「オルガン科」と言っても作曲家の卵が多くまれます。よってフランクは惜しみなく作曲指導も行い、その慎み深い性格から多くの弟子に慕われ、「ペール(父)・フランク」と呼ばれたのですが、そのカリスマ的な人気にはサン=サーンスも内心嫉妬していたことでしょう。サン=サーンスは対照的に一匹狼を貫き、フォーレなどの弟子を育てたとはいえ、派閥を形成するほどには至りませんでした。それにはサン=サーンス自身の猜疑心や神経質な性格も関係していたでしょう。サン=サーンスはよく皮肉屋で性格が悪かったと伝えられ、多少誇張されている部分もありますが、確かに敵対する勢力に対しては辛辣でした。そしてその敵対する勢力というのが、何を隠そう「フランキスト」だったのです。

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  1871年、普仏戦争における降伏の後に「アルス・ガリカ(フランスの芸術)」を標榜してサン=サーンスが発起人となり、フランクも賛同して「国民音楽協会」が創設されます。当然ナショナリズムの高まりとも関係があり、入会資格はフランス国籍保持者で、存命の作曲家の作品の演奏に限定するという、作曲家の互助組織の側面も持ち合わせていました。しかし、1872年から86年まで会長を務めたサン=サーンスが脱退する騒動が起きます。この直接的な原因として知られるのが、ダンディによる演奏会プログラムへの外国作品の導入提案でした。1886年11月26日の総会におけるこの提案の可決によりサン=サーンスが脱退し、フランクを会長に戴く新体制へと移行しました。プログラミングの変化はまさにフランス楽壇の潮流を反映したもので、創設後10年以上経過してフランス人作曲家の新作だけで質の高い演奏会プログラムを組むことが難しくなり、硬直化した国民音楽協会を立て直す結果となります。とはいえ、ダンディの本音としては、ワグネリアンの仲間と共にリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の作品の演奏を意図したものであり、当時ワーグナーから距離を取りつつあったサン=サーンスとの感情的な溝が深まっていたのでした。当然ながら、この一件はサン=サーンスとフランキストとの対立を決定的なものとしてしまいました。しかし、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」であり、「嫌い」ということは実は「好き」と表裏一体で「気になってしょうがない」ことの表れでもあります。サン=サーンスも結局ワーグナーの呪縛からは逃れられなかったのでした。その点、ワーグナーの影響を素直に認め受け入れられるフランクとその一派が羨ましかったのでしょう。

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  さて、それではサン=サーンスとフランクの両人自身は仲が悪かったのでしょうか、というと、必ずしもそうではないと考えられます。なぜなら、国民音楽協会の演奏会において、サン=サーンスはしばしばフランクの作品の演奏者を務めており、1880年の《ピアノ五重奏曲 へ短調》の初演に参加し、献呈を受けています。ただし、サン=サーンスはこの演奏の終了時、献辞の入った自筆譜をそのままに退出してしまいました。この五重奏曲には当時フランクの弟子となっていたオーギュスタ・オルメス(1847-1903)への思いが込められているというゴシップ的な説もあり、もしそれが本当ならば、かつてオルメスに恋心を抱いていたサン=サーンスは不愉快であったでしょうし、フランクとオルメスに特別な関係が無くとも、オルメスが自分ではなくフランクに師事していること自体面白くなかったのかもしれません。とはいえ、私怨は公門に入らず、フォーレ宛の書簡においてサン=サーンスは率直にフランクのオルガン科教授としての業績を評価しており、フランクが亡くなった際、葬式に参列しないなど手のひらを返したように冷たい態度を取る人がいる中、サン=サーンスは葬列の柩の付添人の四人の内の一人を務めるなど義理堅かったのです。逆にフランクの方も、亡くなる直前、病床の中でサン=サーンスの歌劇《サムソンとダリラ》のパリ初演の様子を門人から聞かされると、非常に関心を示し、うれしそうに「すばらしい!すばらしい!」と言ったと伝えられています。方向性は異なれども、真摯に音楽に向き合う姿勢に対し、互いに敬意を払っていた二人の芸術家の姿がそこにはありました。



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  Chez C. Franck, c’est une dévotion constante à la musique, et c’est à prendre ou à laisser ; nulle puissance au monde ne pouvait lui commander d’interrompre une période qu’il croit juste et nécessaire ; si longue soit-elle, il faut en passer par là. Ceci est bien la marque d’une rêverie désintéressée qui s’interdit tout sanglot dont elle n’aurait pas éprouvé auparavant la véracité.
  En cela C. Franck s’apparente aux grands musiciens pour qui les sons ont un sens exact dans leur acception sonore ; ils en usent en leur précision sans jamais leur demander autre chose que ce qu’ils contiennent. Et c’est toute la différence entre l’art de Wagner, beau et singulier, impur et séduisant, et l’art de Franck qui sert la musique sans presque lui demander de gloire. Ce qu’il emprunte à la vie, il le restitue à l’art avec une modestie qui va jusqu’à l’anonymat. Quand Wagner emprunte à la vie, il la domine, met le pied dessus et la force à crier le nom de Wagner plus haut que les trompettes de la Renommée. — J’aurais voulu mieux fixer l’image de C. Franck afin que chaque lecteur en emportât dans sa mémoire un souvenir précis. Il est juste de songer, parmi de trop pressantes préoccupations, aux grands musiciens et surtout d’y faire songer. (Claude Debussy)

  セザール・フランクにあっては、不断の信仰が音楽に献げられる。そしてすべてをとるか、とらぬかだ。この世のどんな権力も、彼が正当で必要とみた楽節を中断するように命じることはできなかった。いかに長かろうと、耐えなければならない。これこそ、誠実さがあらかじめ感じられない一切のすすり泣きを禁じる、欲得をはなれた夢想の、しるしである。
  この点でC.フランクは、大音楽家たちの同類である。彼らにとっては音というものが、それらの音響的な意義のなかに、ひとつの正確な意味をもつ。彼らは音に、それらが含んでいる以外の何ものもけっして要求しないで、それらをきっちりと用いる。しかもここが、美しく奇矯であり、不純で気をそそるヴァーグナーの芸術と、ほとんど栄光をもとめずに音楽に奉仕するフランクの芸術の、まるで違うところである。フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす。ヴァーグナーが人生から借りるときは、彼は人生を支配し、踏みしだき力をかけて、ファーマのトランペットよりなお高らかに、ヴァーグナーの名を呼号させる。――私は、諸者がそれぞれはっきりした印象を記憶のなかにくみいれてくださるよう、セザール・フランクの心象(イマージュ)をもっと確固としたものにしたいと、考えたのだった。あまりにも切実な気苦労が数あればこそ、ときには大音楽家たちにおもいを馳せ、とりわけそれをひとにすすめるのは、正当なことである。(クロード・ドビュッシー)


# by ooi_piano | 2021-11-10 06:43 | Rosewood2021 | Comments(0)
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ジークフリート牧歌(G.グールド編独奏版)、ヴェーゼンドンク歌曲集(シュトラダル編独奏版)、パルジファル前奏曲、ローエングリン前奏曲、フォーレ「バイロイトの思い出」、G.ペッソン「水夫の歌」、米沢典剛「デビルマンの黄昏」他




大井浩明(ピアノ独奏)
松濤サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)地図pdf
全自由席 5000円
【要予約】 pleyel2020@yahoo.co.jp (エッセ・イオ)
チラシpdf 


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第1回公演〈ピアノで聴くワーグナー〉
2021年10月8日(金)19時開演(18時30分開場) 

●R.ワーグナー(1813-1883):
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲(1867) [H.v.ビューロー編(1868)]  9分
『タンホイザー』序曲(1845) [F.リスト編(1849)]  15分
『ローエングリン』より「第3幕への前奏曲と結婚行進曲」(1848) [F.リスト編(1854)]  10分
『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」(1859) [E.シェリング編(1932)/F.リスト編(1868)]  16分

--休憩--

落晃子:ピアノ独奏のための《八犬伝》(2021、委嘱新作初演) 4分

R.ワーグナー/L.マゼール:《言葉のない指環》(1848-74/1987) [米沢典剛編(2021)、世界初演]  65分
  楽劇『ニーベルングの指環/ラインの黄金』(1854)より 〈斯てラインの「緑色の黄昏」が始まる〉〈ヴァルハラ城への神々の入城〉〈地底の国ニーベルハイムの侏儒〉〈槌を打つ雷神ドンナー〉
  『ワルキューレ』(1856)より 〈我らはジークムントの愛の眼差しを見る〉〈二人の逃走(第2幕前奏曲)〉〈ヴォータンの憤激〉〈ワルキューレの騎行〉〈ヴォータンの告別〉
  『ジークフリート』(1871)より 〈ミーメの恐れ〉〈魔法の剣を鍛えるジークフリート〉〈森のささやき〉〈ドラゴン退治〉〈ファーフナーの嘆きの歌〉
  『神々の黄昏』(1874)より 〈ジークフリートとブリュンヒルデを包む朝焼け〉〈ジークフリートのラインへの旅〉〈ハーゲンの呼びかけ〉〈ジークフリートとラインの娘たち〉〈ジークフリートの死と葬送行進曲〉〈ブリュンヒルデの自己犠牲 - 神々の滅亡〉




落晃子:ピアノ独奏のための《八犬伝》(2021、委嘱新作)
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  〈現代では小説は他人を交えずひとりで黙読するものと考えられているが、たまたま高齢の老人が一種異様な節廻しで新聞を音読する光景に接したりすると、この黙読による読書の習慣が一般化したのは、ごく近年、それも二世代か三世代の間に過ぎないのではないかと思われてくる。〉(前田愛『近代読者の成立』)
  幼少期を思い返してみると、夜寝る前に幾度となく祖父母に昔話をせがみ、枕元で桃太郎や浦島太郎などを語ってもらいながら夢路についたものであった。子供といえども話の筋は全て覚えてしまっているのに、なぜあんなに何度も聞きたいと思ったのだろうか。祖父母の語りがことさら上手かったわけではなかったと思う。話の筋が完全にわかっている物語を、大好きな祖父母の語りにより聞くことで、安心して眠ることができたのだろう。
  〈文字にされた作品が物語なのではない。すべて、物語られたその瞬間に、物語は存する。(中略)読み手たる女房によっていかに生命を吹き込まれ、享受者たる姫君の胸をいかに踊らしめたことであったろう。〉(玉上琢彌『源氏物語音読論』)
  このように「物語」は、語りの上手い人によって時にはアレンジされながら、テンポよく演じられることで、その世界観やイメージを伝えられ受け継がれていった。YouTubeや電子書籍、音楽や動画のサブスクリプションサービスなどにより大量の情報にいくらでもアクセスできる今、わたしたちは音楽や物語からイメージを汲み取る想像力を失っているのではないか、とふと思うことがある。
  今回は、曲亭馬琴原作「南総里見八犬伝」(1814-1842)のテキストから着想を得た。五七五調のテンポよい文体で書かれた冒険活劇であり、読み上げて音にすることにより登場人物に命が吹き込まれる、まさに音読にふさわしい物語と考えた。この原文テキストを音読したサウンドファイルをコンピュータにより音程に変換したデータを元に、ピアノ曲としての構築を試みた。語り手の口調や、八犬士が立ち回るさまを感じていただければ幸いである。(落晃子)


落晃子 Akiko OCHI, composer
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  広島大学教育学部卒業、同大学院学校教育研究科修了。長年に渡り専門学校や高等学校で教鞭をとる傍ら、活動名「RAKASU PROJECT.」として電子音響音楽から商業音楽制作まで、幅広い活動を行う。 2005年土佐正道、九十九清美とともにバンド「前明和電機社長土佐正道とThe広島グッドデザイン」(現『明和電機会長土佐正道とThe広島グッドデザイン』)を結成。06年、有馬純寿とラップトップデュオユニット「RPSA」を結成、全国各地でライブ活動を行う。そのほか、実験音楽、即興音楽アーティストとの共演、ダンスや伝統音楽とのコラボなど、ジャンルを超えた幅広い活動を展開している。
  近年では、コンピュータに内蔵された各種センサーを使用したフィジカルコンピューティングパフォーマンスや、サウンドインスタレーション制作なども手がけており、国内外でのメディアアート関連フェスティバルでの出演・講演も多い。共著に「音楽が終わる時 産業/テクノロジー/言説 (日本記号学会 叢書セミオトポス)」(新曜社)「教室がインターネットにつながる日」(北大路書房)、共訳に「ジャパノイズ サーキュレーション終端の音楽」(水声社)等。
  現在、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部/メディア表現学部教授、同志社女子大学嘱託講師。日本音楽即興学会理事。




「毒親」フランツ・リストと「生まれながらの孤児」コジマ ――甲斐貴也


■フランツ・リストとマリー・ダグー
  1833年、22歳のフランツ・リストは、マリー・ダグー伯爵夫人と知り合った。6歳上で独仏混血の彼女は、音楽と文学に精通した類まれな美女であり、パリの自宅は芸術家と貴族のサロンとなっていた。宮廷官吏の夫と、豪壮な邸宅で優雅に暮らしていた彼女は、美貌の天才ピアニストに魅了され、リストもまた彼女に夢中になった。だがフランス上流階級の一員としての彼女の高いプライドは情熱を制した。その平穏を覆したのが、1834年12月マリーの長女ルイーズの、わずか6歳での病死であった。
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  マリーがルイーズの喪に服す間、リストは別の既婚女性との恋の冒険に勤しんでいた。お相手はフェルディナント・ヒラーの元恋人にして元ベルリオーズの婚約者、当時は著名なピアノ製造業者カミーユ・プレイエルの夫人であり、かのクララ・シューマンの好敵手であった美貌の名ピアニスト、マリー・プレイエルである。逢引の場所は、なんとリストが親友として鍵をもらっていたフレデリック・ショパンのアパートで、もちろんショパンにも秘密であった。事後に知ったショパンは、自室に勝手に女性を引き入れたリストに、プレイエルへの恩義もあって、強い不快感を持ったという。
  リストのマリー・プレイエルとの情事を知ってか知らずか、ルイーズの喪が明けてリストと再会したマリーは、愛のためにすべてを捨てる決心をした。1835年6月、リストの子をみごもった彼女は夫も子も上流社会も捨て、スイス、バーゼルのリストのもとに走った。二人はジュネーブに居を構え、リストはピアノと作曲に励んだ。二人の開いたサロンには当地やパリからの文化人が集まった。この年の12月に長女ブランディーネが生まれ、24歳の父親リストは初めての娘に夢中になったが、マリーは自らが育児に向いていないことを思い知らされるのであった。
  翌年にジュネーブ音楽院が開校し、リストはピアノ科教授を無報酬で引き受けたが、天才ピアニスト、ジギスムント・タールベルクのパリ楽壇デビューと絶賛の報を知り、第一線への復帰の意欲は抑え難くなった。リストがパリに戻って開いたリサイタルは大成功を収め、ベルリオーズによる絶賛の批評もあり、リストの名声は更に高まることとなった。
  その年の9月には、友人のジョルジュ・サンドことデュドバン伯爵夫人がリスト宅を訪れた。マリーとリストは、サンドとともにジュネーブを引き揚げパリに戻り、文化人と上流階級のサロンを開いた。そこに招待された一人がショパンで、後に同棲関係となるサンドとの初対面の場となった。


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■コジマ・リスト
  それから二人はイタリアのコモ湖畔、上流階級の保養地ベッラージョのアンジェロ・ホテルに居を置いた。ここでリストはソナタ風幻想曲『ダンテを読んで』、『ペトラルカのソネット』などを作曲しているが、1837年12月24日、クリスマスの夜にこの地で生まれたのが、次女フランチェスカ・ガエターナ・コジマ・リストである。その珍しい名は、当地の聖コズマとダミアーノ教会(コズマとダミアーノは中世の双子の殉教者)にちなんだものという。
  だが父親似の大きな鼻のコジマにリストは愛情を持てなかったのか、まもなくミラノに演奏旅行にでかけた。1839年2月には一家はヴェニスに移り、5月には長男ダニエルが生まれたが、今やリストにとって嫉妬深く浪費家のマリー、子どもたちとの世俗的生活は苦痛になっていた。マリーもまた、サロンで文化人に持てはやされる喜びを取り戻したかった。二人は話し合いの末、それぞれの道を歩むことを決めた。こうなると宙に浮いてしまうのが子供たちである。
  リストは子供たちを引き取る気はなかったが、マリーに預けるのも嫌だった。そこでパリに住むリストの母アンナに子供たちの面倒を見させることにした。リストは子供たちがマリーと会うことを禁じたが、かといって子供たちを大切にするどころか、母の家には全く顔を見せなかった。
  この満たされないが表面的には穏やかな暮らしを急変させたのが、1847年にリストが出会った新しい恋人、カロリーネ・ヴィットゲンシュタイン伯爵夫人であった。彼女はリストの最大の理解者であったが、一方リストのすべてを管理しなければ気が済まない質で、その「すべて」には子供たちも含まれていた。躾が甘いアンナのもとに、カロリーネはかつて自らの家庭教師を務めた厳格な老婦人、パテルシ夫人を送り込んだ。
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  コジマはパテルシ夫人に、上流貴婦人としての立ち居振る舞いを叩きこまれた。夫人はまたコジマに歴史と文学を教え、フランス語を話す彼女にドイツ語、英語を習わせた。元々サンドを愛読する文学少女であったコジマはラシーヌ、シェイクスピアを読み、ラ・フォンテーヌの翻訳を試みるなど目覚ましい上達を見せた。また8歳で自ら進んでピアノを習い始め、父リスト編曲によるウェーバー作曲『舞踏への勧誘』を弾きこなしたという。
  父リストの訪問を待ちくたびれた姉妹弟は、母ダグーの家を密かに訪れることが多くなった。これに危機感を持ったリストは1853年、ようやくパリの子供たちに会うことにした。実に9年ぶりのことである。子供たちの大きな期待に反し、子供たちに何の愛情も持っていない父との再会は実に気まずいものとなった。カロリーネが子供たちにやさしい言葉をかけたのと対照的に、父はほとんどまともに話すこともせず、型にはまった説教じみた事を言うばかりだった。
  この会合に、リストが連れてきた、元ドレスデン宮廷楽長で作曲家、急進的左翼活動家のリヒャルト・ワーグナーがおり、『神々の黄昏』の一部を朗読した。自作の台本に作曲するオペラ作曲家というものを知り、コジマは強く感銘を受けたが、少女のはにかみからそれをワーグナーに伝えることもなく、ワーグナーも初対面の彼女に特別な印象を持つこともなかった。
  後日コジマは父に礼状を書いたが、その返信も、音楽を勉強しなさいというだけの素っ気ないものであった。年頃のコジマは、大きな失望となった父との再会に思うところがあったようである。その後ベルリオーズの演奏会に出かけて偶然再会した母ダグーと楽しいひと時を過ごしたことについて、わざわざ事細かに報告する手紙を父に書いたのだ。
  この手紙は予想以上に深刻な結果をもたらした。リストとカロリーネは、子供たちを母ダグーから距離的にも引き離すことを決めたのだった。しかし子供たちとの同居という面倒は引き受けたくないリストは、ある名案を思い付いた。母親と二人でベルリンに暮らす、愛弟子ハンス・フォン・ビューローの家に、子供たちを押し付けようというのである。
  その計画はダグーがパリを離れている時を見計らって遂行され、激怒したダグーだが、父親の親権が優先される当時の世で抗うすべもなかった。長年孫たちを世話してきた祖母アンナの抗議にも耳を貸す息子ではなかった。もちろん最大の被害者は、親の勝手な都合で、見知らぬ土地の見知らぬ人物の家に追いやられる子供たちである。「表向きの理由がどうであれ、この計画はほとんど婦女誘拐にひとしいものだった」(マレック『ワーグナーの妻コジマ』)


■ハンス・フォン・ビューロー
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  ビューローはコジマより7歳上で1830年1月8日ドレスデン生まれ。12歳の時ワーグナーの『リエンツィ』に感激して音楽家を志し、16歳でワーグナーに音楽の才を認められ、チューリヒ歌劇場で指揮法を伝授された。1850年ワーグナーの推挙により弱冠20歳で同歌劇場の指揮者となるが、妥協を知らない完全主義者のビューローは、歌手たちの反発から年内に解任されてしまう。続いてチューリヒ近郊のザンクト・ガレンで音楽監督を翌年夏まで務める。ピアノ演奏の才にも恵まれていたビューローは、その後リストの本拠地ワイマールに移り、ピアノ演奏と指揮法を学んだ。
  ビューローにとって、リストは師以上の父親代わりの存在でもあった。そのリストによく似た、文学と音楽の才あるコジマに、若きビューローはすぐに惚れ込んでしまった。神経質、情緒不安定気味の彼には安らぎを与えてくれる女性が必要であった。一方、自分を親に捨てられた孤児同然と感じていたコジマは、頼るべき拠り所を求めていた。コジマはビューローにユゴー、ミュッセ、サンドを読み聞かせ、ビューローは彼女にドイツロマン派の音楽、ワーグナーの諸作について語り、理解を深めた。二人の間が近づくのに時間はかからなかった。
  同年9月、ビューローはベルリンで開いた演奏会のプログラムにワーグナーの『タンホイザー』序曲と「ヴェーヌスブルグの音楽」を組み入れた。リストも臨席したこの演奏会はしかし、ベルリンの聴衆に受け入れられず、会場は非難の声や口笛、ブーイングの嵐となった。ビューローは落胆のあまり楽屋で気を失った。リストは娘たちを先にビューロー宅に返し、深夜2時までビューローを慰めた後馬車で送り届けたが、コジマだけが彼を待って起きていた。打ちひしがれたビューローをコジマは抱きしめ、この夜二人は結婚の約束をしたという。
  ビューローがリストに送った結婚の許しを願う手紙に対し、リストは気乗りしないようであった。娘はもっと格の高い貴族と結婚させたいなどと、勝手なことを考えていたようである。だが実の娘よりも、才能ある若い音楽家たちを愛したリストのこと、ビューローの熱意に負け、またこの結婚を打算的なものと睨んだ母ダグーの反対表明が、今や彼女を憎むリストには承諾への追い風となった。1857年8月、27歳のビューローと19歳のコジマは結婚した。リスト父娘はカトリックだったが、式はビューロー家の信仰するプロテスタント教会で行われた。母ダグーは来なかった。

■コジマ・ビューロー
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  新婚旅行はまず父リストの本拠地ワイマール、次にチューリヒの資産家ヴェーゼンドンク家に滞在するワーグナーを訪ねることとなった。ワーグナーはこの地で妻ミンナと共に庇護者の元で快適に暮らし、その妻マティルデ夫人との不義の愛を味わいながらも、作曲中の大作『ジークフリート』第2幕を理解する話し相手が欠けていた。そこでワーグナーは以前からビューローを当地に誘う手紙を書いていたのである。
  やって来たビューローは『ジークフリート』の各部を易々とピアノで弾きこなし、その音楽を絶賛して、ワーグナーを大いに満足させたのであった。ワーグナーは同席する人々の感想を求めたが、コジマはビューローにもまして感激していたものの、巨匠を前に口ごもるばかりであった。
  ワーグナーは新作『トリスタンとイゾルデ』の台本を得意の朗読で披露した。感激したビューローはその台本を筆写し、それを受け取ったコジマは夜遅くまで一人何度も読み返した。コジマは当地で過ごす間、情緒不安定気味にはしゃぐかと思えば、ワーグナーに対してはかたくなに言葉を交わさず、ワーグナーが不審に思うほどであった。
  ベルリンでコジマは一流音楽家の妻としての役割を、パテルシ夫人仕込みで難なくこなし、夫ビューローの声望を高めた。ビューロー家はベルリン上流人士の集うサロンとなった。ドイツ文学者との交流によりその文学の才を更に磨いたコジマは、ドイツ文学の優れたフランス語訳をものし、匿名で出版するほどであった。だがコジマには飽き足らぬ思いがあった。彼女の願いは、ビューローがワーグナーのような偉大な創作家になることであった。作曲家としてもワーグナーにも認められていたビューローだが、演奏活動の多忙が創作の妨げとなっていた。
  ビューローはアーサー王伝説の魔法使いマーリンに興味を持っていたが、コジマは内緒でその台本草案を書き上げ、クリスマスのプレゼントとしてビューローに贈った。ビューローは喜び、コジマに作曲を約束した。だがこの約束は果たされず、コジマはその草案を破棄してしまった。その次にコジマは、古代ギリシャのアイスキュロスによるトロイア戦争をめぐる悲劇『オレスティア』の台本も手掛けたが、これも作曲は実現しなかった。これはコジマを幻滅させたようである。
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  1858年、ビューロー夫妻はヴェーゼンドンク家に二度目の訪問をするが、この時は前回のように快適というわけにいかなかった。ワーグナーとマティルデ夫人との密通が露見し、妻ミンナとの三角関係の修羅場を見せつけられることになったのだ。それでも寛大なヴェーゼンドンク氏の計らいでワーグナーの滞在は続き、多くの文化人が出入りしたが、その中にはコジマの新郎に会いに来た母マリー・ダグーもいた。コジマと母は、その後名士と結婚してジュネーブに住む長女ブランディーヌに会うため、ビューローをヴェーゼンドンク家に残して旅だったが、コジマはその地で驚くような行動をとる。偶然再会したビューローの親友、カール・リッターと心中しかけたというのだ。
  コジマはリッターと愛のない結婚による不幸で意気投合し、二人は湖にボートで漕ぎ出し、そこでコジマはリッターに、自分を湖に突き落としてくれと頼んだ。驚いたリッターは自分も後を追うならばと申し出たが、コジマはそれを断って思いとどまり、危うく死の危機を逃れたのであった。この事件はおそらくコジマにある決断をさせるきっかけとなった。
  結局マティルデ夫人への嫉妬に狂ったミンナが起こした騒動がもとで、ワーグナーのヴェーゼンドンク家での暮らしは終止符を打たれた。ビューローと共にヴェーゼンドンク家を辞去する日、それまでワーグナーに対し不自然によそよそしい態度をとり続けていたコジマは、ひとりヴェネツィアに旅立つワーグナーの手を取り、涙を流して口づけして彼を驚かせたのである。

■コジマ・ワーグナー
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  その後紆余曲折を経て、夫ビューローを捨て、世間の非難と苦難を乗り越えワーグナーと結ばれたコジマの、音楽史上類を見ない内助の功により、偉大な創作の多くが生み出され、またワーグナー死後のバイロイト音楽祭の運営によりその名声をさらに高めたことは周知の通りである。偉大な音楽家の父に愛されずに育ったコジマは、父を上回る偉大な総合芸術家ワーグナーを愛し、自己犠牲と献身によりその才能と名声を死後までも育てあげたのであった。

  ワーグナー没後の1886年7月31日、老リストは滞在していたバイロイトで肺炎のため急死した。父の健康悪化にかまわずコジマが連日楽劇や夜会に出席させ、床に臥してからも容態を心配する弟子達を近寄せずに放置したことが死期を早めたとも言われ、弟子たちはコジマの父への冷たさに驚かされた。カトリック聖職者を気取ったリストの遺体を祝福させるためコジマが呼んだのはプロテスタント牧師であった。そこがプロテスタントの地であるからというヴィトゲンシュタイン夫人の反対にもかかわらず、コジマの希望によりバイロイトの地に埋葬された。埋葬式では、リストの遺書に書かれた死者のためのミサとフランシスコ修道会式の埋葬もなされず、参列者は興味本位に集ったワーグナー信者ばかりであった。
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  コジマの要請で、当地に滞在していた作曲家アントン・ブルックナーが追悼のオルガン演奏をしている。ワーグナーに高く評価され、リストとも交友のあったブルックナーだが、即興演奏の主題に選んだのはなぜかリストの作品ではなく、ワーグナー『パルジファル』の「契約の言葉と信仰の主題」であった。その理由を弟子に問われて、いささか浮世離れした変わり者のブルックナーは、演奏前に誰もリストの主題を教えてくれなかったからだと答えた。コジマとワーグナーの結婚に、実の娘コジマより弟子ビューローを愛するがため、土壇場まで反対し続けたという父リストの葬儀に演奏されるワーグナーの音楽。それを聴くコジマの胸中はどのようなものであったろうか。
  その後90歳まで永らえ、晩年認知症を患ったコジマが口にしつづけたのは、前夫ビューローへの詫びの言葉であったという。
 


# by ooi_piano | 2021-09-30 21:27 | Rosewood2021 | Comments(0)

6/12(日)チャイコフスキー交響曲第4・5・6番(ピアノ独奏版)


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