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2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09110745.jpg2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09111682.jpg



《ウィーン体制のシューベルト Schubert im Metternichschen System》

2023年10月19日(木)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明 [4手連弾]
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円
FBイベントページ https://fb.me/e/8GE9tpBUK


F.シューベルト(1797-1828)

《F.エロルドの歌劇「マリー」(1826)の主題による8つの変奏曲 ハ長調 D 908》 (1827) 12分
  Thema (Allegretto) - Var.I - Var.II - Var.III - Var.IV - Var.V (Un poco più lento) - Var.VI (Tempo I) - Var.VII (Andantino) - Var.VIII (Allegro vivace ma non più)

《ピアノ五重奏曲 イ長調 D 667「鱒」》 (1819/1870、全5楽章) [H.ウルリッヒ編連弾版] 35分
  I. Allegro vivace - II. Andante - III. Scherzo / Presto - IV. Tema con variazione / Andantino - V. Finale / Allegro giusto

  (休憩)

《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] 50分
  I. Adagio / Allegro / Più allegro - II. Adagio - III. Scherzo / Allegro vivace - IV. Andante / Un poco più mosso / Più lento - V. Menuetto / Allegretto - VI. Andante molto / Allegro / Andante molto / Allegro molto


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総て燐火の戯れゆゑに Alles eines Irrlichts Spiel》――本郷健一

 フランツ・シューベルトが死んだとき、遺品は衣類・雑貨55点と古い楽譜(誰の作品かは分からない)2,3点、総額63フローリン(1フローリン5,000円とみても31万5千円)分で全部だった。これは、彼が最期を迎えた次兄フェルディナントの家の一室へ、死後13日目に管財人が立ち入って見積もったものだ。この遺品目録には、検閲局に届けるべき書籍があったか・・・なかった、との報告が含まれている。検閲局云々がされているところ、メッテルニヒ体制のもと、革命思想の浸透防止に厳しい目線がウィーンの市井隅々にまで向けられていたことがうかがわれる。
 シューベルトの創作活動期間は、ビーダーマイヤー文化の時代(1815~1848)の前半に、ほぼ包含される。
 1814年9月、ナポレオンの敗北をうけてヨーロッパの秩序回復を目的にウィーン会議が開催されたが、おもに各国の領土をめぐり10か月にもわたって紛糾し、それに伴い、主催したオーストリア外相メッテルニヒは秘密警察による諜報活動を大幅に増強した。この諜報活動はウィーン会議終了後も緩められることがなかった。
 これにより、張り巡らされた監視網は市井の隅々までを覆い、文化活動も委縮の度を強めることとなった。
 ビーダー(実直な)マイヤー(マイヤーさん~ドイツでもっともありふれた姓)なる語は、1853年になって、とある裁判官兼詩人が友人のエッセイ中の架空人物をこの名前で前時代的な滑稽詩の作者に擬したところから普及し、「お上のご政道に対しては口を閉ざして背を向け、お勤めでは黙々と義務を果たすが、あとは我が家とせいぜい隣近所との交際という小さな世界に閉じ籠って文学や芸術の世界に遊」ぶ、ウィーン会議後のドイツ圏の人々を、後付けで象徴することとなったものだ。
 シューベルティアーデの絵画で友人に囲まれたシューベルトの像は、このような象徴によく当てはまる。生前および死の直後に出版された作品も、作曲者と出版社の直接の合意で付された作品番号108までのうち、購入者の享受しやすいリートを集めたものが、半数超の58を占めている。その死後10年ほどを経て、シューマンはシューベルトのイ短調ピアノソナタD845につき書いた記事で、この作曲家のことを「いまだにただ歌曲しか作らなかったと思っている人が多い」と述べている。

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 1828年11月19日に腸チフスで死んだシューベルトは、遺言書を書かなかった。ほんの一週間前には、兄の家に来る直前まで居候させてくれていた友人ショーバー宛に読み物をいくつか送ってくれるよう催促の手紙を送っている。同じく17日には、見舞いに訪ねた指揮者ラハナーに、自分が作曲する新しいオペラの台本を要求したほどだから、死への予感はまったくなかったのだろう。
 31歳での死が、シューベルトの悲劇的なイメージをもたらすものとなったようだ。
 9歳年下のシューベルトの庇護者的存在だったシュパウンが、歌曲集『冬の旅』(D911、1827年)について述べた回想も、このことに一役かっている。
 「『今日ショーバーのところへ来てくれ。僕は君たちに一組の恐ろしいリートを歌って聞かせたいんだ。・・・これには、他のどんなリートよりも苦しめられたんだ。』彼は我々に感動した声で『冬の旅』全曲[このときは最初に完成した前半12曲]を通して歌って聞かせてくれた。私たちはこのリート集の暗い気分に全く当惑してしまい・・・シューベルトはただ「(略)君たちもいずれは気に入ってくれるだろう」と言っただけであった。」
 ベートーヴェンと縁の深かったシュパンツィヒの四重奏団が、全曲短調という異例の弦楽四重奏曲『死と乙女』(D810、1824年)の公開を拒んだというエピソードも、それに重なる。1826年初のリハーサルでこの曲の第一楽章をさんざんミスしながら弾いたシュパンツィヒは、途中でやめると、こう言った。
 「兄弟、これは駄目だね、もう止めたほうがいい。君は君のリートだけに専念しなさい。」
 日本で最近書かれたクラシック音楽入門書は述べている。
 「シューベルトはそれまでになく暗い音楽を書いた人です。/こんな音楽を書く人が30歳を超えたあたりで世を去るのもあまりにも当然でしょう。」
 この本があげてるシューベルトの代表作は、『未完成』交響曲、バラード『魔王』、そして上の『冬の旅』、四重奏曲『死と乙女』である。

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 とりあえず、しかし付き合いのあった人々からは、シューベルトはあくまでその突然の早逝によって惜しまれたのであって、生きていたシューベルトを悲劇的にとらえる向きはほとんどなかった。シュパウンの、上の回想の続き。
 「シューベルトは何事にも苦しむことのない鈍感な男だと信じていた者は大勢いたし、あるいはいまだにいるかも知れない。」
 こう述べたシュパウン自身は、シューベルトは苦しんで創作活動をしていた、そのため内面に閉じこもることを愛していた、と続けてはいる。それでも多くの人たちにとって、シューベルトは明るい思い出の中の存在だった。
 「[シューベルトを含む]数人の愉快な仲間が(略)夜パーティーから帰宅するところだった。彼らは、ようやく建物の外壁が出来上がったかどうかの段階にある建築工事現場に差しかかった。すると彼らはそこに並んで立ち、出来かけの建物の未来の住人に向かって、情のこもったセレナーデを歌いだしたのである。」
 シューベルトは友人と共にピアノ四手で演奏していたとの回想も見受けられる。
 他の人によってシューベルトがいつも彼と一緒でなければ四手用の作品を弾かなかったとまで報告されているヨゼフ・フォン・ガヒーの回想。
 「私がシューベルトと一緒に演奏をして過ごした時間は、私の生涯の一番の楽しさにあふれた時間のひとつに数えられるものです。」
 『未完成』交響曲を長いこと引き出しにしまいっぱなしにしていたアンゼルム・ヒュッテンブルンナーの回想。こちらは弦楽器で演奏を楽しんだのかも知れない。
 「ある日シューベルトが私のところへ来て、モーツァルトのヘ長調の『坑夫音楽』(「音楽の冗談」K.522のこと)の自筆楽譜を見せてくれました。・・・彼はこの作品を、当時まだ生きていたあるモーツァルトの友人から贈られたのです。私たちはヴァイオリン二挺、ヴィオラ、この交響曲を全部通して弾いてみて、モーツァルトがそこで意識的に犯した作曲上の間違いの混乱状態を大いに楽しみました。」
 ヒュッテンブルンナーは後年これをピアノ四手用に編曲したという。

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 そもそもシューベルトの最初の作品は四手ピアノのための幻想曲D1(1810年)だった。富裕層を中心に急速に家庭内へピアノが普及したことを背景に、四手用の曲は18世紀後半から、師匠が手本を示し弟子が真似る(例:ハイドン Hob.XVII a:1)・師匠が弟子を支えて演奏するものとして流行しはじめ、19世紀には演奏会用に作られるようになった。シューベルトはその時流に乗って、モーツァルトやベートーヴェンを大きく超える数の四手用作品を作った。
 世間を見渡すと、ピアノの普及と反比例するように、ピアノ・ソナタの楽譜には需要が薄れた。1818年のウィーンのピアノ楽譜出版はまだ35%がソナタだったが、1823年には15%にまで落ち込む。代わりに台頭したのは出版の50%を占めるようになった変奏曲だったという。
 シューベルトにはピアノの変奏曲作品も若干あるが、同時期の出版リストに見られだす幻想曲ジャンルにも代表作の一つとなる『さすらい人幻想曲』D760など数作がみとめられ、2年後の四手用作品D940も優れた幻想曲である。
 アルフレート・アインシュタインは、シューベルトは四手用の作品を「本来はオーケストラ用に構想した作品の代用として利用」したと見ており、エステルハージ伯爵家で音楽教師をした1818年と1824年に高い集中度で作られたものは、伯爵令嬢たちの教育のためだったかとも考えている。上流家庭に浸透したピアノによるサロンでの効果的な演奏もシューベルトは想定していたかも知れない。24年の大二重奏曲(四手用作品である)D812はジェリズ(エステルハージ家の所在地)で客人たちの前で披露されている。加えて、最後の年に書かれた四手用作品には「社交的なもの」が多く現れる、とアインシュタインは言っている。通称「子供の行進曲」D928は、1827年にグラーツのバハラー夫人が夫の命名祝日に7歳の息子と連弾するため注文したものだ。同じ年の「『マリー』の主題による変奏曲」D908は、詳しい経緯は不明だが、リンツ大学の哲学教授ノイハウスに献呈されている。モーツァルト(6作+断片2)やベートーヴェン(4作)にはほとんどなかった四手用ピアノ曲ジャンルに、より立ち入ったシューベルトの場合、独奏用ピアノ曲が生前あまり出版へと結実しなかったのに対し、四手用は33作中17作と、半数が出版されている。

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 シューベルトと交流のあった人々の回想は、それでもリートを含む声楽作品にまつわっているものが圧倒的に多い。
 創作の数が突然に減り、器楽曲が中途で放棄された稿ばかり残された、研究者の間で「クリーゼ(危機 Krise)」と呼ばれている1818年から1823年ごろには、「器楽は当時のシューベルトにとってまったく関心の中心にはなかった」。
 だが、それはシューベルトがこのとき器楽を諦めたことを示すのではない、と、近年の研究が明らかにしている。この期間は「音楽劇への取り組みが頂点を迎える。たいへんな時間を必要とするこのジャンルは、部分的には大いなる実りをもたらすものでもあった」(し、この期間にシューベルトは3作ものオペラを完成させている)。そうしたうちにあって、実は断片だとされている器楽曲も、ピアノソナタ数曲は再現部の開始直前で中断されていて完成のめどが立っている点が共通しており、変ホ長調の交響曲D729の場合はシューベルトが最終部分に「Fin」と書き込んでおり、一応できたと思ったものの浄書するに至らなかっただけだと考えられる。



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 オペラは、残念ながら、書いても書いても水の泡だった。1823年に成った『陰謀者たち Die Verschworenen』D787は、検閲局の意向に沿うようタイトルを『家庭争議 Der häusliche Kreig』と改めたにもかかわらず、検閲で時間をとられているうちにベルリンで別の作曲者による同台本のオペラが好評を博してしまい、上演に至らなかった。
 同じ年に出来た『フィエラブラス』D796は、台本作者クーペルヴィーザーが色恋沙汰で劇場秘書の地位を降りてしまったため、結局上演されずじまいとなった。
 生涯に10作を完成させたオペラも、運と台本に恵まれず、1820年に2作が劇場にかかりながら短期間で打ち切られたのが関の山だった。この1823年の『フィエラブラス』上演不可をもって、オペラへの邁進を、シューベルトはいったん断念する。寿命が許せばまたこちらを向いただろうことは、彼が死の数日前に訪ねてきたラハナーに頼んだことを思い出せばうなずけよう。
 『フィエラブラス』台本作者の弟宛、1824年3月31日に出した手紙から。
 「君の兄さんのオペラは(舞台を離れてしまったのがよくなかった)、使い物にならないと宣告されて、そのおかげで、僕の音楽は不採用となってしまった。・・・僕はまたしても、オペラを二つ無駄に作曲したことになる。」
 こうして、シューベルトは器楽への注力を決心する。
 同じ手紙から。
 「リートのほうではあまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲を2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切拓いていこうと思っている。」

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 その後、シューベルト自身がブライトコップフ&ヘルテル社とライプツィヒのプロースト社に送った、日付も同じ1826年8月12日で内容もほぼ同じ書簡がある。
 「私はドイツ全土で、できるかぎり名を知られたく思っておりますので、下記のうちより貴殿のご選択にお任せ致し[て出版したいと思い]ます。ピアノ伴奏つきのリート・弦楽四重奏曲とピアノソナタ・四手用ピアノ曲等々、そのほか八重奏曲も一曲作りました。」
 最初こそ自費出版(実態は友人たちの出資)だったシューベルトの楽譜だが、クリーゼの時期までには、そのリート集が出版社にとって収益の上がるものとなっていたようだ。
 58に上る歌曲群(ドイッチュ番号が与えられた600弱の完成作のうち136作、22%)が出版され世に問われているのは、彼がビーダーマイヤー的に親しい隣近所ばかりを念頭に作曲をしていたのではないことを意味している。完成作品総数の5分の1程度しか出版できていないことは、そんな状況にもかかわらず、主要ジャンル次位であるピアノ曲が完成300作弱に対する37作出版(出版単位としては32)、12%程度であることも勘案すると、決して低い数字ではない。
 友人たちの助力による『魔王』Op.1、『糸をつむぐグレートヒェン』Op.2と単独歌曲の自費出版で出発したシューベルトの楽譜出版は、24歳になった1821年から軌道に乗り始める。自信を得たシューベルトは、それまで出版を担っていたカッピ&ディアベリ社が自分の作品を安く買いたたいているのではないか、との疑念を発し、他の幾つかの出版社に販路を拡げていった。1823年にはザイアー&ライデスドルフ社、25年にペナウアー、26年にアルタリア、以後ヴァイグル、ハスリンガー等々と、シューベルト作品を続々と引き受けている。
 歌曲に限らず、多様な器楽曲をアピールしたシューベルトは、器楽でも着々と成功を収めていく。
 1823年2月に出版した器楽、ハ長調の大幻想曲D760(「さすらい人幻想曲」)はウィーン新聞の出版広告で「最上の作曲家による似たような作品と同列にならべるにふさわしい」と紹介された。
 シューベルトは、出版に関してまた別に、1828年2月ショット社から打診を受けて返信をしている。このときは手元にある作品としてピアノ三重奏曲・弦楽四重奏曲(ト長調とニ短調)・ピアノ独奏のための四つの即興曲・ピアノ連弾の幻想曲(エステルハージ伯令嬢カロリーネに献呈したもの)・ピアノとヴァイオリンのための幻想曲・声楽曲数作を列挙し、
 「このほかにまだ3曲のオペラ、1曲のミサ、1曲のシンフォニーがあります」
 とわざわざ付記した。付記に関しては、なお
 「これらの最後の作曲群に言及したのは、貴殿に私が芸術における最高のジャンルを目指す努力の一端を知っていただきたい、という気持ちだけで、他意はありません。」
 とことわっていて、自分がこの年のうちに死んでしまうことなど思いもよらなかったシューベルトの、胸に描いていた音楽人生プランを垣間見させてくれる。

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 ミサ曲は、シューベルトが最初に公的な成功を得たジャンルだった。17歳のとき作曲したヘ長調ミサ曲は、その年のうちに2つの教会で演奏され、生涯で6作書かれることになるラテン語通常文ミサ曲のうち4作までは演奏の記録ないし形跡がある。ただ、上のリストにある、おそらく最後の変ホ長調ミサ曲は、そこまでたどりつけなかった。
 シューベルトのミサ曲は、グローリアとクレドに一貫した詞句省略があり、とくにクレドにおいて「一にして聖かつ公の使途継承の教会を[我は信ず] Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam」に付曲されていないことは、他の詞句の省略とあいまって、シューベルトの信仰における非カトリック性を示すのではないか、と、研究者の間で議論され続けている。シューベルトの教会への皮肉な見方は、1818年10月29日にジェリズから家族宛に送った手紙で窺える。
 「兄さんには想像もつかないだろうな。ここの坊さんときた日には、老いぼれた駄馬みたいに偽善者で、ロバの親方みたいにバカで、水牛みたいにガサツな連中ばかりなのだ。お説教を聞いていると、あの悪徳に骨まで染まったネポムツェーネ神父でもまったく顔色なしというくらいひどいものだ。祭壇の上には道楽者や非行少年どもがわんさかとひしめいていて、この連中に思い知らせてやろうとするなら、死人の頭蓋骨を持ってきて祭壇の上に突き出して、こう言ってやるしかない。この罰当たりのチンピラめ、おまえたちもいつかはこういう風になるんだよってネ。」(ネポムツェーネ神父については具体的なことは分からない。)

 ショット社への手紙で言っているシンフォニーが「グレイト」を指すことはいうまでもないが、弦楽四重奏曲は少年期のシューベルトにとって家庭で父や兄と一緒に演奏するために作るジャンルだったことに目を向けておかなくてはならない。
 次兄フェルディナントの回想には、幼少のフランツ・シューベルトと一緒に弦楽四重奏を演奏するのは父と兄たちにとってこの上ない楽しみだった、とあり、家族にとってはその思いが持続していたようだが、ジェリズへ二度目の赴任をしていた1824年7月16~18日の手紙で、フランツは
  「[兄さんたちの四重奏演奏会は、兄さんの手元に残っている昔の]僕の作った曲より誰かほかの人の曲でやればよかったのに。僕のはそんなにたいした曲じゃない。」
 と、子供時代の自作にマイナス評価を下している。実際には、長く中断していた弦楽四重奏曲創作はこの年から再開、内容も精巧となって、産まれた名作、通称「ロザムンデ」D804は上の手紙を書いたよりも前の3月に公開演奏され、「死と乙女」D810は2年後に試演されているのである。
 作曲や出版をめぐって、シューベルトは相当にプロフェッショナルな意識を持って臨んでいたことが、以上のような行動や発言から明確に窺われる。シューベルト作品の評価の際には、この点が今後いっそう注意されるべきだろう。

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 ところで、シューベルトの作品自体は、暗いものが主流なのか。
 内面的なもの云々は措いて、さしあたり短調が暗いものと前提し、前後の世代と比較しよう。誰もがわりと数を作っている弦楽四重奏曲・ピアノソナタの総数で、長調との作品比率を見てみよう。ハイドンは、総数121に対して短調作品19、約16%。モーツァルトは同じく40に対し4で10%。ベートーヴェンは48に対し14で29%。シューマンは絶対数が少なく総数8だが半分の4が短調である。シューベルトは、35の総数に対し短調は11。31%であって、ベートーヴェンに近い。このことから見る限り、シューベルトが暗い作品でとびぬけた作曲家であるとは言えないだろう。
 ともあれ、『死と乙女』は拒んだシュパンツィヒだが、それ以前の1824年3月にイ短調の弦楽四重奏曲D804(「ロザムンデ」)は公開演奏に応じており、八重奏曲D803も1827年4月のコンサートシリーズにとりあげている。
 五重奏曲『ます』は作曲年次(1819? 23?)、公開演奏の有無が不明ながら、こちらも早くに知られたものと推測される。
 「彼はこの曲を、この珠玉のリート[歌曲「ます」D550 1816-17または20]に心から魅せられていた私[回想者アルベルト・シュタードラー]の友人ジルヴェスター・パウムガルトナーの特別の要望によって書いたのでした。」
 このほか、弦楽五重奏曲、ヴァイオリンのための幻想曲なども出来上がり、とくにピアノ三重奏曲変ホ長調D929はライプツィヒの出版社プローストから出されることになった。1828年7月、プローストからの照会に対し、シューベルトは
 「拝啓! トリオの作品番号は100です。(略)この作品は誰に献呈したものでもなく、気に入ってくれる人なら誰にでも捧げます。」
 と陽気に返事している。
 期待に胸を膨らませて待っていただろうこの三重奏曲の印刷譜を、しかしシューベルトは生きて目にすることが叶わなかった。届いたのは、死の数日後だったという。
 自分でも予期しなかった死を迎えなかったなら、シューベルトのその後は順風満帆だったかも知れない。
 彼を病弱にし、その短命を導いたのは、1822年と思われる梅毒への感染との推測が確実視されている。その感染の原因をつくったのは、作曲家から最も親近感を抱かれ、最初のシューベルティアーデを開催もし、シューベルトにオペラ『アルフォンソとエストレッラ』D732(1822)の台本も提供したショーバーが、シューベルトを悪所に入り込ませたことだと疑われている。最も親しい間柄だったとみなされていたにも関わらず、ショーバーはシューベルトについての回想を書き残さず、人にもあまり語らなかった。
 「どんなにその気になろうとしても果たすことが出来ないのだ」
 と、ショーバーは言っている。
 「誰一人知らないだろうと思うシューベルトの一種の恋物語があって、これを・・・どんな風に、またそのどこまでを公表していいか・・・いまではもう遅すぎる。」
 ショーバーと1858年から短期間夫婦だったテークラ・フォン・グンベルトは、元夫がシューベルトの臨終に立ち会ったときの様子を伝えている。「ショーバーは、いつもよく知っていた目が彼をよそよそしく狂ったように見つめたときに」痛ましい印象を受けたのだ、と、それだけなのだが。

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# by ooi_piano | 2023-10-17 05:07 | Schubertiade vonZzuZ | Comments(0)
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Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》


松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ(

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〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)

F.F.ショパン(1810-1849)

●3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)  2分
 第1番 ニ長調 - 第2番 ト長調 - 第3番 変ニ長調

■アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834) 13分

■2つのポロネーズ Op.26 (1835) 13分
 第1番 嬰ハ短調 - 第2番 変ホ短調

■2つのポロネーズ Op.40 (1838) 14分
 第1番 イ長調「軍隊」 - 第2番 ハ短調

  (休憩15分)

●序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833) 10分

●ボレロ Op.19 (1833) 7分

■ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841) 10分

■ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842) 7分

■ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846) 12分


[使用エディション:ポーランドナショナル版]

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《アッラ・ポラッカ――ショパンの肉と皮膚》(山村雅治)

――生きているうち一度でも天国に足を踏み入れし者は、
 死んで後、すぐには天国へ行けるものではないと。(アダム・ミツキェーヴィチ)

1

 ショパンの人間像は「ロマンス」のなかの人間が、血が通った現実の人間にとってかわってしまっていた。現実をゆがめるレンズを通して彼とその芸術を眺める過程は、ほとんど彼の直後からはじまった。19世紀後半のあいだに速度を速め、20世紀の前半には絶頂に達していた。リストが語るショパン像は歴史の上では重要な史料だし、コルトーが自ら校訂した楽譜につけた解説も同じだが、あまりにもロマンティックなショパン解釈だった。彼の生涯と性格は夢と想像にあふれた伝記になり、作品にも本人がつけていない呼び名をつけられたものがある。ショパンを語ろうとする人間はショパンの音楽に酔った体験から言葉をあふれさせる。かくして個人の気まぐれと幻想のなかをさまよってしまう。

 たしかにショパンは謎めいた人物だった。サロンという小さな空間で少数の人たちだけに知られ、作品も演奏も少数の人たちだけが聴いた。彼らにはショパンの全体を語るには、あまりに言葉が足りなかった。残ったのは感傷的な逸話と不正確な総論が事実にとってかわった。ショパンが短命だったことも肖像をロマンティックにゆがめてしまった。それに加えて、迫害された国からの亡命者であるフランス系ポーランド人として、彼はきまって関心の対象になっていた。彼はパリの音楽界に特色ある奇才として登場した。

 彼の作品とピアノ演奏は、それまでには聴いたことがない新しいものだ。社交界が求める情緒的欲求をみたしていたことも確かだろう。彼が存在するという衝撃は、彼自身が私生活を覆い隠したヴェールによって、むしろ強められた。ジョルジュ・サンドとの恋愛と同居と39歳のときに訪れた肺病による死とは、ショパンが「ロマンスの人物」であることを裏書きするものだった。

 自作に対する彼の態度はまさに「閉じた本」のように知られざるものだった。親友は数少なく、しかも音楽家ではなかったが、彼らにたいしても心の奥底にあるもの、音楽の動機になるものを明かしたことがなかった。自分の作品が文学や絵画を背景にもっていることを、彼は憤然として否定した。シューマンの評言を嘲笑ったように。曲に後から他人につけられた「標題」にも同じ態度をとっただろう。若かったワルシャワ時代から国外に出ると、心の扉をおずおずと開いて見せることはやめてしまった。

 外の世界へのショパンの極度に控えめな態度は「書簡」に見られる言葉の表現に見られる顕著な特徴だ。しかし時が経つにつれて、これを病的なまでに育てあげていったことは彼の「音楽」には聴くことができる。ショパンが自己の魂を覗いて、そこに見出されるものを肯定していたことは、ポーランドの親友だったフォンタナへの書簡には暗示されている。自己を語っている。あるいは自作について語っている。
「もしもぼくが、見たところは食べられそうなので、ほかのものと間違えて摘み取り、食べてみたら中毒を起こしてしまう茸のようであっても、それはぼくが悪いのではないのだ」(1839年3月2日)。

 またショパンは自分を「おそらくぼくよりも魂のなかに激しい焔を燃やしながら、それを無理にもみ消して消滅させてしまった修道士」(1938年12月14日)に喩えている。 
 生涯の終わり近くには「われわれはある有名な製作者の創造物、まあ一種のストラディヴァリウスのような存在で、もはや修理してくれる人はいないのだ。不器用な手にかかっては新しい音を出すこともできず、だれもわれわれから引き出してくれることのないすべてのものを、自分の内部で窒息させてしまうことになる――しかもこれはすべて、われわれを修理する者がいないために起こることなのだ」(1848年8月18日)。

 これらの書簡に見られる「もみ消して」や「窒息させて」は、感情の「抑圧」を意味している。情緒のあらわな表現を抑える自制が必要だというショパンの言葉は、ショパンの音楽をとりわけ感傷的な気分を誇示するだけの音楽とみなす人たちにとっては、奇妙な言葉に響くだろう。

 ひとつのことは明らかだ。彼の音楽はやさしさと親しみやすさとともに、かくも激しい情熱と獣の獰猛さを含んでいる。伝説によって語り伝えられた温厚で悪気がない病気がちの人間が生みだした作品ではなかった。時代の音楽のしきたりに反抗し、その反抗は傲慢でさえあり、パリのサロンの貴族たちのしきたりに対する大げさな敬意とは相反するものがあった。ショパンは矛盾に満ちた不可解な複雑な人間であり、異国に出てからはいつも仮面をかぶっていた。

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 ショパンの体内にはふたつの国の血が混ざりあって流れていた。父ニコラ・ショパンは純粋に農夫のフランス人の家系をつぎ、16歳のときにポーランド人の領主の家令にやとわれてから立身出世をとげ高校のフランス語教師になった。父からは秩序と正確さへの好みを受け継いだ。母ユスティナはポーランド人でピアノを弾いた。温和で信心深く控えめで夢見がちな性格は、男らしい積極的な父親と均衡がとれていたようだ。

 フレデリック・ショパンが生まれたポーランドは強烈な国民意識があった。ポーランド人は愛国心と独立心と文化の自由という主題にたえず心を奪われていた。それらが近隣の大国によって奪われていたからだ。ショパンの少年時代にはポーランドの社会はヨーロッパの時代の思潮には目覚めきっていた。ワルシャワは独立への気概があふれる街だった。

 国家消滅という危機に襲われた時代、ポーランド文化史上もっとも重要なロマン主義が開花する。それは国家が存在しない時代だったからこそ、民族の伝統と深く結びついて誕生し、燦然と輝いた。ポーランド・ロマン主義は、ミツキェーヴィチの最初ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民楽派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」。その詩集「バラードとロマンス」が出された1822年に幕を開けた。この時代には詩が異常なまでの力をもってあらゆる芸術を支配した。

 早熟な少年ショパンは音楽の才能がなかったら上流階級に知られることはなかった。幼年期を過ぎて社交界の寵児になってからは困難ではあったが、ときに若いリストの身の上に起こったような冷遇の寂しさは経験しなくてすんだ。若いリストはときに冷遇され、劣等感の重荷に苦しまされたが、少年のショパンは慎み深い家族の出である神童が過ごしていた社会の欲求と、根強い生まれつきの傾向を両立させていた。

 18歳になった1828年、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。フェリクス・ヤロツキに同行して、ベルリンに赴く。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニの指揮する馴染みのないオペラを鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルターやメンデルスゾーンなどの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いた。

 その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダもピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲した 。7歳のときにト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキの印刷工房で刷られ出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。「ポロネーズ」は小さなころからからだにしみ込んだリズムだったのだ。
 
 1829年、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニの演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメルに出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーンで華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21』を初演した。また1830年3月17日にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11』を初演した。この頃には『練習曲集』の作曲に着手していた。

 演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年11月2日、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った。ヤヒメツキはこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない」。ショパンはオーストリアに向かったが、その次にはイタリア行きを希望していた。

 その後、1830年11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。
 その後、1830年11月蜂起が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家・芸術家のパトロンとなる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーンで音楽活動をするが活躍できなかった。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。
 1831年9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。

 〈彼は母語のポーランド語で「コンラッド」の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番』『革命のエチュード』などにぶつけられた〉。
 という通説も「ものがたり」ではなかったかと疑ってしまう。周りに起きる具体的な事件や読んだ文学を「そのまま」音楽にうつしたことなどショパンになかったからだ。

 また、こういう「はやわかり」のものがたりもある。
 〈ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民楽派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである」〉。

 それにしても祖国へは帰れなくなったショパンは、少年のころにはむしろ偽古典的な曲を書いていたのが「裸のポーランド」をむきだしにするようになった。

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3

 ショパンのむきだしのポーランド語で書かれた書簡には、彼の不死身の外面と並行して存在し続けた力強い内面の力と激しい気質が露出しているものがある。うっかりしたはずみに、彼は激しい高まりをみせる怒りや軽蔑の感情に押し流されることがあったが、これを口に出したときの言葉は、彼がワルシャワやパリの優雅なサロンで用いていた言葉とはひどく縁遠いものだった。荒々しい激情は抑制されず解き放たれていた。

 広範囲にわたるショパンの作品の背後にひそむ国民主義・愛国主義的動機には異論を挟むつもりはない。しかし、彼はこの無類の霊感の泉から湧き出したものでなければ、たったひとつの音符も書けなかったとするのは暴論だろう。フランス人の名前を持っていた事実のために、ポーランドを永久に去ってから、より生まれた国を意識することになった。彼は生誕の地に対して熱烈な態度で、しかし盲目的にではなく、心をささげていた。実在の国としてかどうかは判らない。二度と帰れない浄化された概念としての「ポーランド」であればそれは確かなことだろう。彼の本質はワルシャワにあった。フランス人を「自国民」として見なすようになったというのは嘘だ。作品についてもポーランドの人たちがどう思うかを気にしたし、彼が最も親密な関係を結んだのはフランスにいる亡命ポーランド人たちだった。

 ショパンは子どものころから体の奥深くにまで沁みこんだポーランドの舞曲に耳を澄ます。7歳のときにポロネーズを2曲書いたことから、ポロネーズは幼いころから親しんでいたものだ。ショパンのポロネーズ第1番嬰ハ短調と同第2番は1836年作曲、翌年出版された。1938-39年には第3番(軍隊)と第4番。1840年に第5番。1842-43年に第6番(英雄)。1846年に第7番「幻想ポロネーズ」。第8番から10番までの3曲は1827-29年に作っていた作品を遺作として出版された。ショパン自身が作品番号をつけて出したのは7曲だが、少年時代の習作を含めれば16曲にも及ぶ。

 ポーランドの舞曲にはマズルカもある。ショパンは1830-32年に書きはじめて1849年、死の年まで50曲以上を書きつづけた。

 またクラコヴィアクは、クラクフやマウォポルスカ県の民族舞曲で、ポロネーズやマズルカ、オベレクと並んでポーランドの主要な舞曲となっている。ショパンは、非常に華麗な演奏会用クラコヴィアク(ピアノと管弦楽のための《クラコヴィアク風ロンドヘ長調》作品14)を1828年に作曲した。同年の作品に「ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調」がある。ここではポーランド民謡「もう月は沈み」や同郷の作曲家カロル・クルピニスキの主題が扱われ、フィナーレはクラコヴィアク(ヴィヴァーチェ イ長調 3/4拍子)で結ばれる。

 1810年にポーランドに生まれたフレデリック・ショパンは、1832年(22歳)でパリに出た。1838年、ジョルジュ・サンドに出会いマヨルカ島に滞在。その後も冬はパリで暮らし、1847年(37歳)サンドと別れる。1848年(38歳)2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。1849年 (39歳)10月17日、永眠した。ショパンが奏で続けた音楽はいまも人びととともにある。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ちなみにポロネーズ(仏: polonaise、波: polonez、伊: polacca)は、フランス語で「ポーランド風」の意。「もとは民俗的なものでなく貴族の行進から始まったといわれ、16世紀後半にポーランド王国の宮廷で行われたという」という解説がどの本を読んでも現われる。伝聞であって物証はない。ポーランドの音楽学者クシシュトフ・ピェガンスキによれば「王宮内の実用舞踊についてはごくわずかなことが分かっているだけである。年代記作者たちは、舞踊会の始まりを飾った凱旋行進のようなものに言及している。ことによると、それはポロネーズの原型であったかもしれないが、しかしこの仮説を裏付ける十分な史料はない」(Muzyka Polska)。

 「フランス宮廷からポロネーズの名が広まった」のは、その名がフランス語だから確かだろう。バロック時代に至ってテレマンが「ポーランド・ソナタ」を書き、ポーランドのフォークロアを書いた。ポロネーズはその名の曲をバッハがブランデンブルク協奏曲、フランス組曲、管弦楽組曲などに書いた。ヘンデルの合奏協奏曲集作品6の3の第4曲も魅力ある音楽だ。

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# by ooi_piano | 2023-09-30 15:50 | ショパンの轍 | Comments(0)
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Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ


〈第2回公演〉2023年8月5日(土)15時開演(14時45分開場)

F.F.ショパン(1810-1849)

ソナタ第1番 Op.4 (1828) 23分
I. Allegro maestoso - II. Minuetto / Allegretto
- III. Larghetto - IV. Finale / Presto
--
スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20 (1832) 9分
バラード第1番 ト短調 Op.23 (1835) 9分
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31 (1837) 10分
バラード第2番 ヘ長調 Op.38 (1839) 7分

 (休憩15分)

ロンド ハ長調 Op.73 (1826、作曲者編独奏版) 9分
歌曲《私のいとしい人 Op.74-12》(1837/1860、リスト編独奏版) 4分
--
スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839) 7分
バラード第3番 変イ長調 Op.47 (1841) 8分
バラード第4番 ヘ短調 Op.52 (1842) 11分
スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54 (1842) 11分


[使用エディション:ポーランドナショナル版]


〔アンコール〕A.N.スクリャービン(1872-1915):《ソナタ第1番 ヘ短調 Op.6》(1892)[全4楽章]、
A.G.ルビンシテイン(1829-1894):《9つの雑曲集 Op.93》より
「ヤンキー・ドゥードゥル(アルプス一万尺)の主題による42の変奏曲」(1872/73)

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アダム・ミツキェーヴィチがいた――山村雅治

1

  ポーランド共和国(Rzeczpospolita Polsk)は、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国であり、ロシアからの侵略戦争を仕掛けられて応戦するウクライナからの避難民を受け入れている。
  ポーランドの歴史は「分割と統合」を幾度も繰り返されてきた。10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけポーランド・リトアニア共和国を形成、ヨーロッパで有数の大国となった。18世紀、3度にわたって他国に分割された末に消滅(ポーランド分割)、123年間にわたり他国の支配下ないし影響下に置かれ続けた。
  ショパン(1810-1849)が生まれる少し前、ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。これはフランス帝国の衛星国にすぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体されることになる。その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。

  そしてショパンが20歳を迎える1830年、「十一月蜂起」が起きる。
  ポーランド立憲王国における憲法は、ロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入しようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。しかし翌年には鎮圧されてしまった。
  ショパンが没した1849年以降にもポーランド人はその後にも抑圧に対してポーランド文化をもって抵抗した。ロシアに鎮圧された一月蜂起やビスマルクによるポーランド人抑圧政策に苦しめられた。強大な力をもって押しかぶさってきた大国の抑圧政策によって、反発する力はより強靭に鍛え上げられてポーランド人の連帯とカトリック信仰は確固たるものになった。抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあとも続けられたが、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了する。共和制のポーランド国家が再生した。
  その後、ポーランドが舐めさせられた辛酸はスターリンとヒトラーがもたらした。1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、ポーランドの国土はドイツとソ連の2か国に東西分割され、ポーランドは消滅することになる。独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていった。1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。

  ポーランドの人びとの耳には、心の底にはショパンの音楽があった。
  言葉があれば切れ端をとりあげられて反権力の重罪に問われて粛清されることもある。直接的な政治イデオロギーがわからない音楽は、かえって直接に人びとを励ました。勇ましいポロネーズのほかにもショパンには華やかなワルツも慰めの夜想曲もあった。
  フレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールは第一次世界大戦の終結を経てポーランドが一国家として独立してから9年後にあたる1927年に第1回大会を開催。ワルシャワ音楽院のイェジ・ジュラヴレフ教授は、第一次世界大戦で荒廃した人々の心を癒し、当時フランス音楽と考えられていたショパンの音楽をポーランドに取り戻して愛国心を鼓舞しようと考え、コンクールの創設を思い立った。

  そしてショパンとともにポーランドの人々の心には、ミツキェーヴィチの文学が奥底に滾る炎の波としてあった。
  アダム・ベルナルト・ミツキェーヴィチ(1798-1855)は、ポーランドの国民的ロマン派詩人であり、政治活動家だった。
  彼はスラブ、ヨーロッパのもっとも偉大な詩人のひとりとされ、ポーランドや西ヨーロッパではゲーテ、バイロンに比肩する詩人とみなされている。『コンラット・ヴァレンロット』『祖霊祭』『パン・タデウシュ』などの劇詩、「バラードとロマンス」などの詩など文学作品のすべてがポーランド・リトアニア共和国を壊滅させた大国に対する蜂起の狼煙になった。

  「霊感と感情の爆発のおもむくままに生き、風俗的、美学的規律を越え、同時に孤独で不幸で周囲に背き、世界に自分の場所を見つけられない、そうした己の独自性を意識した、非凡な個人としてのロマン主義詩人」。

  『祖霊祭』『パン・タデウシュ』が執筆された1832年から34年までの2年間は創造力は最高潮に達した。政治パンフレット『ポーランド民族とその亡命の書』を匿名で刊行し、それは即座に各国語に翻訳された。「豪然たる評判を呼んだ扇動と祈祷の書である」。
  アンジェイ・ワイダ監督が映画化した『パン・タデウシュ物語』はソビエト連邦崩壊の1991年から7年を経た1998年に公開された。
  ナポレオンのモスクワ遠征を目前に控えた1811年から1812年のリトアニアの農村を舞台に、対立する小貴族(シュラフタ)ソプリツァ家とホレシュコ家に生まれた若い男女の愛が、ロシア帝国の支配下にあった当時のリトアニアの歴史を背景に描かれる。原作者であるミツキェーヴィチがパリでポーランド人亡命者らを前に原作を朗読する形式で物語が構成されている。

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2

  ロベルト・シューマンは、ショパンは「バラードはミツキェーヴィチのいくつかの詩に刺激されたものだとも言った」と1841年の『音楽新報』に書いている。
  彼らがライプチィヒで会ったのは5年も前の1836年9月のことだった。そのときにショパンは「バラード2番」を引いて聴かせ、献呈している。この日のことをシューマンは「ショパンが自分の作品について語るのを好まない」と日記に書いている。
  シューマンの『音楽と音楽家』が出版された1854年以来、ショパンのバラードを引くピアニストにはもちろんのこと、研究者にも重い課題がのしかかった。

  日本で「バラード」全曲のSPレコードが発売されたのは1933年録音のアルフレッド・コルトーが演奏したものだった。日本ビクターは野村光一による解説冊子をつけていた。野村光一は「ショパンは4曲の物語の筋を彼と同郷の詩人ミッキーヴィッツに拠ったと謂われている。そのことは、ロバート・シューマンが作曲者自身から聞いたといって確認している。けれども、これらの楽曲を創作する場合、彼はミッキーヴィッツの詩のプログラムを写実的に描写しただろうか。左様なことは絶対にあり得ない。第一、表題にこれらのプログラムは少しも規定されていないし、また、ショパンの音楽それ自体がかくの如き客観的描写を行うには甚だ縁が遠い素質のものだからである」と断じている。コルトー自身が校訂した楽譜には、冒頭にミツキェーヴィチの詩が掲げられているにもかかわらず。

  『アルフレッド・コルトー版 ショパン バラード』の前書きにコルトーは書いた。「ショパンがミツキェーヴィチの悲劇的な詩句から引き出したものは物語やイメージというよりも、むしろその詩を生き生きさせている強烈な愛国的な精神である」「私が1924年に行った一連のコンサートの解説の中で、ローラン・セイリエが書いてくれた解釈に従って4つの詩の要約をここに載せることによって、演奏者の貴重な助けになると考える」

バラード第1番 “コンラット・ヴァレンロット”
  この作品の発想の源となっている散文のバラードは、リトアニアやプロシャ(1828年)の年代記による歴史上の伝説であるコンラット・ヴァレンロットの第4部の中の最後のエピソードとなっている。その中のエピソードでヴァレンロットは宴会が終わった時、酔いのために非常に興奮して、ムーア人の制圧者であるスペイン人に、前もってわざとペストやハンセン病など最も恐るべき病気に罹って、見せかけの善意で接触して復讐をしたムーア人の偉業を誉めそやしている。そしてあきれて驚いているお客さんに、ポーランド人である彼自身も死に至る抱擁で敵に死を吹き込むであろうと話して聞かせた。

バラード第2番 “シフィテジ湖”(即ちヴィリの湖)
  “夜には星の光を映す鏡を張って広がっているような波一つ立たない”この湖は、嘗てロシア人の一団によって包囲された村の跡である。若いポーランドの娘達は彼女らを脅かす恥辱から逃れるために神に祈って、征服者達の手にかからずに、彼女らの足元に突然わずかに裂けた地の中に身を投げた。
 神秘的な花に変わった娘達はその後、湖の岸辺を飾っている。その花に触れる者に禍あれ!

バラード第3番 “水の精”(ヴィリ湖)
  この曲は女性が誘惑する描写である。若い青年が湖の岸辺で出会った少女に愛を誓った。男の変わらない愛なんか信じていない少女は、青年の愛の誓いにもかかわらず離れていき、そして人を魅了する“水の精”の姿になって再び現れてきた。彼女がその青年を誘惑するとたちまち、彼は水の精に魔法をかけられたように虜になってしまった。そこで罰を受けた彼は水の底深く引きずり込まれ、そして苦しげに呻きながら、決してつかまえることのできない滑りやすい水の精を追いかけるように運命づけられた。

バラード第4番 “ブドゥリ家の3人”(リトアニアの物語)
  ブドゥリ家の3人-すなわち3人の兄弟-は彼らの父の命を受けて、最も素晴らしい財宝を見つけるために、はるばる遠征に出かけた。秋が過ぎて、そして冬になった。父は息子たちが戦争で死んだと考えた…。ところが吹雪の中をめいめいが順次戻ってきた。しかも3人とも唯一の戦利品として許嫁を連れて…。


  コルトーの示唆を受けて、まじめに受け取ったピアニストはもちろんいる。コルトーは世紀の大ピアニストであり、エコール・ノルマルを創設した教授にして校長。ヴァーグナーを勉強しにバイロイトへ泊まり込み、「神々の黄昏」のフランス初演を果たした彼はピアニストを超えた大音楽家だった。
  園田高弘はマルグリット・ロンらに師事した国際的な活動をしたピアニストだった。「園田高弘 諸井誠 往復書簡 ロマン派のピアノ曲 分析と演奏」(音楽之友社)には、バラードを演奏するにさいして「幸いなことに、ショパンのコルトー版にはミッケヴィッチの詩の大意が記述してあるので、それを参考にすることは、暗中模索で音符だけをたどることに較べて、どれほど有益でしょうか」と書き、「コルトー自身は、ショパンの作品の中に一つの、具体的な反映を探すことは意味がないことだし、空しい努力である、としています。しかし、われわれ演奏家が、とくに遠く離れた日本の状態を考えれば、それについて全く無知であるということは、もっと危険なことではないかと思います」と結んでいる。続けて詩句と楽想を並べて挙げている。

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3

  ミツキェーヴィチ『バラードとロマンス』(未知谷)には以下の諸編が収められている。「プリムラ」「浪漫性 バラード」「シフィテシ バラード」「シフィテジャンカ バラード」「魚 バラード」「父さんのお帰り バラード」「マリラの小塚 ロマンス」「友たちに」「こいつは気に入った バラード」「手袋」「トファルドフスキの奥方 バラード」「トゥカイ、あるいは信義の試練 バラード」「百合の花 バラード」「ドゥダシュ ロマンス」「アダム・ミツキェーヴィチ詩集 第一巻 序」。
  1822年はミツキェーヴィチがこれらの詩を「アダム・ミツキェーヴィチ詩集」として発表した年だ。「バラードとロマンス」が収録された本は年内には売り切れて、翌年版は重ねられた。彼は古典主義を打倒し「ロマン主義」を高く掲げた。人びとにはその民衆性が衝撃だった。俗謡を芸術としての詩に昇華させた作品は同時代のポーランド詩人の中でも群を抜いたものだった。その年、フレデリク・ショパンは12歳。少年時代から「バラード」はポーランドじゅうに広まっていた。「詩こそが最高の芸術と考えられ、音楽はより低いランクに甘んじていた」ロマン主義の時代がはじまっていた。

  ショパンは作品にジャンル以外の題をつけなかった。ダンテやゲーテにインスピレーションを受けて作品を書いたリストとシューマンとちがって、ショパンは文学には関心がなく「標題」がついた音楽を書かなかった。「バラード」はほかの作曲家は歌詞がついた「歌曲」として書いたが、ショパンはピアノ一台で「バラード」を4曲書いた。
  1832年、22歳のショパンははじめてパーティの席で12歳上のミツキェーヴィチに会った。その後も親交をかさねていた。1839年3月27日の書簡で、ジョルジュ・サンドが「ゲーテ、バイロン、ミツキェーヴィチ」を高く評価する記事を書いたから読むべきだ、とグジマワに書いた。また1839年4月15-16日のグジマワ宛の書簡には『祖霊祭』への言及がある。ショパンは1836年26歳から1847年37歳まで同伴したサンドから話を聞き、その作品も読んではいた。没後の1857年にユリアン・フォンタナにより出版された(遺作)「17のポーランドの歌 作品74」はショパンが作曲したポーランド語の歌曲集である。

第1曲 - 願い Życzenie (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第2曲 - 春 Wiosna (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第3曲 - 悲しみの川 Smutna rzeka (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第4曲 - 酒宴 Hulanka (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第5曲 - 彼女の好きな Gdzie lubi (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第6曲 - 私の目の前から消えてPrecz z moich oczu (アダム・ミツキェーヴィチ)
第7曲 - 使者 Poseł (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第8曲 - かわいい若者 Śliczny Chłopiec (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第9曲 - メロディ Melodia(ジグムント・クラシンスキ)
第10曲 - 闘士 Wojak (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第11曲 - 二人の死 Dwojaki koniec (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第12曲 -僕の愛しい人 Moja pieszczotka (アダム・ミツキェーヴィチ)
第13曲 - 望みはない Nie ma czego trzeba (ヨゼフ・ボーダン・ザレスキ)
第14曲 - 指環 Pierścień (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第15曲 - 花婿 Narzeczony (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第16曲 - リトアニアの歌 Piosenka litewska (ステファン・ヴィトヴィツキ)
第17曲 - 舞い落ちる木の葉 Śpiew z mogiłky (ヴィンチェンティ・ポル)

  ここにミツキェーヴィチの詩を歌曲にした作品が2曲ある。「私の目の前から消えて」と「僕の愛しい人」。
  松尾梨沙『ショパンの詩学』には「私の目の前から消えて」の全文が訳されている。4行が10連に並ぶ長い詩だ。

 私の目の前から消えて!…すぐに聞くよ、
 私の心から消えて!…心が聞くよ、
 私の記憶から消えて!…いや、その命には
 僕ときみの記憶は従わない。(以下略)

「僕の愛しい人」として。6行が2連。

 僕の愛しい人は、陽気な一時には
 チュンチュン、ツピツピ、クークーさえずり始める、
 こんなにも愛らしくクークー、ツピツピ、チュンチュン鳴くので、
 どんな一言も漏らしたくなくて、
 僕は敢えて止めず、敢えて返事もせず、
 そしてただ聴いて、聴いて、聴いていられたら。(以下略)

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4

<ミツキェーヴィチ小伝>

  ミツキェーヴィチは旧ポーランド東部のノヴォグルデク(現ベラルーシ、ナヴァフルダク)で、弁護士の子として生まれる。学生時代には、ポーランド立憲王国としてポーランドを支配するロシア帝国からの独立を目指す若者による政治・教育地下組織の共同設立者の一人となった。
  1823年にロシアによって逮捕され、1824年にロシア領内への追放刑を受けたが、首都サンクトペテルブルクで文芸サークルに所属し詩作の才能を伸ばした。1828年には14世紀のリトアニア大公国で活躍したドイツ騎士団、コンラード・フォン・ヴァレンロットについての叙事詩を発表し、その後にポーランドで続いた民族蜂起に思想的な影響を与えた。
  1829年にロシア出国を認められ、ドイツのヴァイマルでゲーテに会った後にイタリアに向かい、最終的にはローマで創作活動を行った。ここでミツキェーヴィチの代表作ともされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆。
  1832年にはフランス(七月王政期)のパリに移り、1834年6月に「パン・タデウシュ」の初版を発行。1840年にはコレージュ・ド・フランスに新設されたスラヴ語・スラヴ文学のトップとなったが、1844年に辞任した。1848年から1849年にかけての冬にはフレデリック・ショパンが病気だったミツキェーヴィチを訪れ、ピアノ演奏によって彼の心を癒した。ショパンは12年前にミツキェーヴィチの詩2編に旋律を付けた事があった。
  1855年、妻のセリナが亡くなると、ミツキェーヴィチはクリミア戦争にポーランド人部隊を派遣してロシアと戦うため、パリに未成年の子ども達を残してオスマン帝国のコンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)に移動して準備を進めたが、その最中に同地で病没。死因はコレラと推測される。
  死後、彼の遺体はコンスタンティノープルで仮埋葬された後にフランスに移されたが、1890年にポーランドに移され、クラクフのヴァヴェル大聖堂の地下室に安置された。
  1998年にはアンジェイ・ワイダによって「パン・タデウシュ」が映画化(邦題『パン・タデウシュ物語』)された。

  ミツキェーヴィチの母語はポーランド語だった。基本的にポーランド語で創作活動を行ったが、血筋はリトアニア人の家系で、住んでいたのはベラルーシだった。彼はポーランド・リトアニア共和国として一体性を持っていたこの地域の複雑で豊かな文化的土壌によって育まれた。ポーランドでは「国民的詩人」としての評価が与えられ、クラクフのヴェヴァル大聖堂に埋葬された。首都ワルシャワにあるポーランド大統領府の北側にはミツキェーヴィチの銅像が建てられ、ポズナニではアダム・ミツキェーヴィチ大学が設置されている。
  一方、リトアニアでも敬意が捧げられている。首都ヴィリニュスに博物館が置かれ、1998年には生誕200周年の記念硬貨が発行された。この他、ベラルーシの首都ミンスクやグロドノ、ウクライナのリヴィウなど、かつてのポーランド・リトアニア領の各地に銅像が残っている。また、ミツキェーヴィチが長年居住したパリや死没地のイスタンブールでも博物館があり、現在でも彼は多くの国の人々に慕われている。


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【公演予告】

〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)
序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833)
ボレロ Op.19 (1833)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834)
2つのポロネーズ Op.26 (1835)
2つのポロネーズ Op.40 (1838)
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841)
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842)
ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846)

〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
華麗なる変奏曲 Op.12 (1833)
タランテラ Op.43 (1841)
演奏会用アレグロ Op.46 (1841)
舟歌 Op.60 (1846)
ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831)
3つの華麗なるワルツ Op.34 (1838)
ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840)
3つのワルツ Op.64 (1847)
2つのワルツOp.69 (1829/35)
3つのワルツOp.70 (1829/41)
ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. (1830)




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大井浩明リサイタル 《ショパンの轍、その捷路と迂路》(全4回)
Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ

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【第1回】2023年6月4日(日)15時開演(14時45分開場)

F.F.ショパン(1810-1849)
前奏曲 変イ長調 Op.Posth. (1834) 1分
ロンド ハ短調 Op.1 (1825) 8分
--
前奏曲 変ホ短調 Op.Posth. (1838/2002、J.カルバーグ補筆) 1分
即興曲第1番 変イ長調 Op.29 (1837) 4分
即興曲第2番 嬰ヘ長調 Op.36 (1839) 6分
即興曲第3番 変ト長調 Op.51 (1842) 4分
--
前奏曲 嬰ハ短調 Op.45 (1841) 5分
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66 (最終稿、1835) 5分
幻想曲 ヘ短調 Op.49 (1841) 13分

  (休憩15分)

24の前奏曲集 Op.28 (1839)  38分
 I. ハ長調 - II. イ短調 - III. ト長調 - IV. ホ短調
- V. ニ長調 - VI. ロ短調 - VII. イ長調 - VIII. 嬰へ短調
- IX. ホ長調 - X. 嬰ハ短調 - XI. ロ長調 - XII. 嬰ト短調
- XIII. 嬰ヘ長調 - XIV. 変ホ短調 - XV. 変ニ長調「霤」 - XVI. 変ロ短調
- XVII. 変イ長調 - XVIII. ヘ短調 - XIX. 変ホ長調 - XX. ハ短調
- XXI. 変ロ長調 - XXII. ト短調 - XXIII. ヘ長調 - XXIV. ニ短調

[使用エディション:ポーランドナショナル版]


〔アンコール〕
A.スクリャービン(1872-1915):《幻想曲 ロ短調 Op.28》(1900)

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ポーランド・アラベスク――山村雅治

1.

 SPレコードが発明されて、音楽が刻まれた音盤が発売された1900年代初頭には、パデレフスキはピアノの帝王だった。イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860- 1941)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家。当時の偉大なピアニストであり、第1次大戦後に独立を果たしたポーランドの初代首相を務めた。
 20世紀初頭に「パリのショパン」から「ポーランドのショパン」に奪還したのがパデレフスキだった。その時代にはショパンはフランス音楽だったし、ドイツ音楽を至上のものとする人たちからは歯牙にもかけられていなかった。

 ショパンの音楽に秘められていた天才が世界に広まったのは、パデレフスキとパハマンらが録音したSPレコードの功績が大きい。ドイツ・グラモフォンが1898年、イギリス・コロンビアが1897年、アメリカ・ビクターが1901年に設立されたころからの録音が鑑賞にたえる音源として残された。SPレコードは片面盤が最初期に売りだされた。片面には4分半ほどしか音を刻むことができない。メルバやカルーソーらの声楽とクライスラーやカザルスらの弦楽器の小品、そしてパデレフスキやパハマン、コルトーらのピアノ演奏の音盤はそれらの片面盤にショパンの作品をたくさん刻んだ。パデレフスキのは1920年代の録音から手元にある。

 パデレフスキはポーランドの独立のために力を尽くした闘士でもあった。ポーランドは17世紀なかばからすでにロシア、オーストリア、プロイセンに分割統治されていた。1795年に独立を求めての戦いに敗れてワルシャワはプロイセン領になった。ところが1807年にフランス軍がプロイセン軍をしりぞけて、ナポレオンはワルシャワ公国をつくる。しかし1812年にフランス軍はロシア軍に粉砕される。ワルシャワもロシア軍が占領した。ウィーン会議が開かれたのは1815年。ワルシャワ公国が「ポーランド立憲王国」として再建されることが決まった。王はロシア皇帝アレクサンドル一世だった。ワルシャワの中心部の建物はロシア軍が駐留した。多くのポーランド人がフランスへ亡命した。

 このときすでにフリデリク・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin 1810-1849)は5歳。彼は1810年、ワルシャワから西に46kmはなれたジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人だった。ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにしてミコワイとなのった。彼は自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった。フランス語が堪能だったミコワイは貴族の家庭教師をするようになった。そのつながりでユスティナ・クシジャノフスカと出会った。彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘だったが、家が没落して貴族の家で住み込みの侍女をしていた。ミコワイとユスティナは1806年に結ばれた。 
 ショパンは6歳でピアノを習いはじめた。そして一年半後には演奏会を開いている。はじめからピアノが弾けた。7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。ポロネーズはフランス語で「ポーランド風」の意味をもち、マズルカと並んでポーランド起源の舞曲である。4分の3拍子で、もとはポーランドの民族舞踊だった。幼いショパンにはからだに浸み込むほどに親しい音楽だった。
 
 ポーランドはその後、独立運動の時代をむかえる。1830年ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こった。青年に成長したショパンは「ピアノ協奏曲第2番」、「同第1番」を自ら初演し成功をおさめ、西ヨーロッパに活動の場を広げようとして到着したばかりのウィーンに滞在していたときだった。旅の仲間だった親友は蜂起に加わるために帰国したが、ショパンはウィーンにとどまった。蜂起はつぶされた。ショパンはウィーンに冷遇された。
 ポーランドは、最後の作品がマズルカだったショパンの没後にもくりかえし蜂起する。1856年の「一月蜂起」またしても敗れ、数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアに流刑になった。

 プロイセン王国内の旧ポーランド王国領では、1871年からはビスマルクにより、ポーランド人に対する抑圧政策が敷かれた。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任したあともドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年まで続けられた。1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。翌1919年1月、イグナツィ・パデレフスキ首相/外務相による内閣発足。1920年のポーランド・ソビエト戦争ではフランス軍の協力により勝利をおさめた。

 パデレフスキは1922年に政界を引退してカーネギーホールで復帰リサイタルを開いた。大成功をおさめてアメリカ・ビクター社と契約を結び、たくさんの音盤を世に出すことになった。そして1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土はドイツとソビエトの2か国に分割され、ポーランドは消滅することになる。この年の「ポーランド祖国防衛戦争」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年にはロンドンにおけるポーランド亡命政府「ポーランド国家評議会」の指導者になった。80歳のピアニストがポーランド回復基金を発足させ財源確保のために何度も演奏活動を行なった。この演奏旅行の中でパデレフスキは1941年6月29日の午後11時にニューヨーク市で客死した。
 彼こそがポーランドだ。ショパンこそがポーランドだったように。
 
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2.

 パデレフスキが没したとき、ポーランドはナチス・ドイツ、スロバキア、ソビエト連邦、リトアニアの4か国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ、次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外でさまざまな反独闘争を展開した。ユダヤ人収容所で何が行われていたかは当時の誰もが知らなかった。ドイツ人さえも。苛烈をきわめた独ソ戦でソ連が反撃に転ずると、ドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていく。1944年8月、レジスタンス・ポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起きた。それはパデレフスキの後をつぐ亡命政府の武装蜂起であったためにソ連軍が加勢せず約20万人が命を落として失敗に終わった。1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれた。

 1945年5月8日、ドイツ降伏によりポーランドは復活、その国の形はアメリカ・イギリス・ソ連のヤルタ会談によって定められた。ナチス・ドイツの悪夢からは解放されたものの戦後はスターリンの圧政と、それを継ぐ後継者たちのソビエト連邦に圧しつぶされていくままになる。1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。レフ・ワレサが第三共和国初代大統領だった。1989年は雪崩を打ってヨーロッパの共産主義政権国家が崩壊した年だった。

 ナチス・ドイツとソビエト連邦に圧しひしがれていた時代にもポーランドにはショパンがいた。パデレフスキはショパン生誕100年の1910年、彼の政治演説のはじめにショパンの天才をポーランドの象徴として語った。1918年に独立をかちえるとワジェンキ公園にショパン像を建て、ショパンが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラに庭園モニュメントをつくった。そしてピアニストたちが競いあう「ショパン国際ピアノコンクール」と「フリデリク・ショパン研究所」(のちの「フリデリク・ショパン協会」)設立への動きを起こした。

 ショパンコンクールは1927年に第1回が開催された。8か国26名が参加した。優勝は19歳のレフ・オボーリン。20歳のドミトリー・ショスタコーヴィチが本選入選名誉ディプロマを得た。コンクールは5年ごとに開くということで第2回は1932年、第3回は1937年に開かれた。1939年から終戦の1945年にワルシャワは戦闘と空爆により焦土に瓦礫が散乱する街になった。その期間には第2次大戦の当事国は国際大会を断念せざるを得なかった。再開されたのは1949年の第4回。その後、第5回を1955年に開いて、以後は5年に一度の催しとして世界の若者が腕を競っている。


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3.

 ポーランドの人びとは長く続いた苦難の時間を生きてきた。ポーランドには多民族の人びとが暮らす。西スラブ人系原ポーランド人(レフ人)、シレジア人、リトアニア人、ロシア人、ルーシ人・ルーシ族(ヴァリャーグ、ルシン人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、サルマタイ人、タタール人、ラトビア人、バルト人、スウェーデン人、チェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ハンガリー人、ロマ人、アルメニア人、モンゴル系民族やトルコ系民族などの人びとが生きてきた。言語はポーランド語。文学はポーランド語だけではなくイディッシュ語で書かれたり英語で書かれたりした。ザメンホフが創造した人工言語のエスペラント語はワルシャワで発祥した。世界共通語をつくりたかったのだろう。

 文化は民族をひとつに結いあげる。民族の文化の表現が他民族にも訴えるものがあるとき、文化は国境をこえて世界の人のものになる。文学ではシェンキェヴィチが日本では戦前から知られていた。太宰治はシェンキェヴィチの長編小説『クオ・ヴァディス』をほめていた。だからそれを読んだ。おもしろかった。息をつかせずに一気に読んだ。人を楽しませる「おはなし」の書き手として太宰治ほどの作家はいない。『ろまん燈篭』がその面での白眉であり『斜陽』『人間失格』は別の文脈での大傑作だ。ポーランドには太宰治がほめたヘンリク・シェンキェヴィチ、『農民』の作者ヴワディスワフ・レイモント、詩人のチェスワフ・ミウォシュと、そして同じく詩人でヴィスワヴァ・シンボルスカのノーベル文学賞受賞者がいる。そういえばスタニスワフ・レムもポーランド人だった。『ソラリスの陽のもとに』は『惑星ソラリス』としてソ連でアンドレイ・タルコフスキーよって映画化されたことで世界に知られている。ポーランド文学は英訳や独訳からではなく原語からの翻訳書がたくさん出てほしい。

 地動説を唱えた天文学者コペルニクスや、物理学者のキュリー夫人、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はいずれも世界の誰もが知っているポーランド人だ。そしてフリデリク・ショパン。彼がいなければ日本ではポーランドの音楽は民謡「森へ行きましょう」と「ポーレチケ」にとどまっていたかもしれない。彼の前にはポーランド固有のリズムと旋律を書いて人々の心に訴える音楽を創造する作曲家はいなかった。だからこそショパンが12歳から師事した作曲の先生、エルスネル自身は古典音楽を目指していたが若いショパンの古典から自由にはばたく独創性を認めていた。1829年、音楽院の卒業試験に与えたエルスネエルの評価は「稀有な才能―音楽の天才」という言葉だった。

 エルスネルは若いショパンに将来は宗教曲や歌劇を書くことを求めていた。しかしショパンの才能はそうした大曲を書くことには向いていなかった。少年時代から病弱だったこともあるかもしれない。音楽を創造することができる時間のかぎりを直感していたかもしれない。ショパンはモーツァルトに似た神童とされたけれども、モーツァルトは生来の歌劇作家だったが、ショパンは生来の叙情詩人だった。劇の作家は他者を書くことが得意だ。シェイクスピアもモーツァルトもその作品に端役はなく、どんなに出番が少なくてもどの役も生きていた。ヴェルディも彼らの劇を継いだ天才だった。ヴァーグナーは知らない。あれは劇だろうか。ヴァーグナーの音楽は大好きだけれども。歌劇としては「主人公歌劇」はつまらない。ヴァーグナーは歌劇を模して自分自身を表現する偉大な音楽を書いた。歌劇を書くには魅力ある主人公を立たせるとともに、その周りの人間のすべてを生かさなければならない。ショパンがそうした仕事をするには健康も生きる時間も足りなかった。宗教曲にしても同じようなことが言える。生涯の多くの時間に咳きこみ喀血を繰り返したショパンは、一度ならず「深き淵より、主よ」と祈りを捧げたことがあったにちがいないと思うけれども。彼が切実に作品に生かしたいのはイエス・キリストではなく自分自身だった。

 音楽が流れ、爆発する一瞬にショパンはすべてをかけた。少ない音符にきりつめられた短い時間に語りつくす音楽に彼の天才は輝く。1829年、ベートーヴェンの死後わずか2年の年にショパンは「ピアノ協奏曲第2番」作品21を書きはじめ翌1930年に初演した。同年夏には「ピアノ協奏曲第1番」作品11を仕上げて自宅で試演会をして10月にウィーンへ旅立つ前の告別演奏会で公開初演した。曲そのものは絶讃された。しかしピアノ演奏については「音が小さい」と難癖をつけられた。当時の聴衆にはショパンの音楽も演奏技術もそれまでに聴いたことがなかったものだったけれども、この批評には応えることができない。以後、ショパンは大きなホールでの演奏が苦手なものになり、サロンでの少人数の集まりで作品を聴いてもらうことに音楽家としての喜びを見出していくことになった。かつてウィーンで冷遇され、晩年にロンドンで無視されても、彼はパリへ戻った。サロンでの演奏では<つぶやき>や<ささやき>をピアノで歌うことが少ない聴衆の底にまで届いた。人間はほんとうのことを洩らすときにはそうした声になる。自分の内密を明かすときには、ことに。

 ジョルジュ・サンドとの出会いと喜びと失望と別れについては、ここでは触れない。書いていけば一冊の本になる分量になるだろう。彼女がいたからショパンの創作は豊かになった。作品はピアノ独奏曲がほとんどを占める。曲集といえるのはエチュード。プレリュード。バラード。スケルツォ。ワルツ。ノクターン。即興曲。ノクターン。そしてポロネーズとマズルカだ。ショパンの傑作はマズルカに多い。外に向けての飾りつけは作品を表に出すときには、芸術家は誰もそれをすることはわかりきったことだが、マズルカには飾りを排した曲がある。裸のショパン。ポーランドについて語るつもりだった。しかし、それはショパンを語ることにほかならなかった。

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【公演予告】

〈第2回公演〉2023年8月5日(土)15時開演(14時45分開場)
ロンド ハ長調 Op.73 (1826、独奏版)
ソナタ第1番 Op.4 (1828)
バラード第1番 ト短調 Op.23 (1835)
バラード第2番 ヘ長調 Op.38 (1839)
バラード第3番 変イ長調 Op.47 (1841)
バラード第4番 ヘ短調 Op.52 (1842)
スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20 (1832)
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31 (1837)
スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839)
スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54 (1842)

〈第3回公演〉2023年10月14日(土)15時開演(14時45分開場)
3つのエコセーズ Op.72-3 (1826)
序奏とロンド 変ホ長調 Op.16 (1833)
ボレロ Op.19 (1833)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 Op.22 (1834)
2つのポロネーズ Op.26 (1835)
2つのポロネーズ Op.40 (1838)
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44 (1841)
ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53 「英雄」 (1842)
ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61 「幻想」 (1846)

〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)
華麗なる変奏曲 Op.12 (1833)
タランテラ Op.43 (1841)
演奏会用アレグロ Op.46 (1841)
舟歌 Op.60 (1846)
ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831)
3つの華麗なるワルツ Op.34 (1838)
ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840)
3つのワルツ Op.64 (1847)
2つのワルツOp.69 (1829/35)
3つのワルツOp.70 (1829/41)
ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. (1830)

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