人気ブログランキング | 話題のタグを見る

《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_02100186.png

【POC第54回公演】 2025年1月31日(金)19時開演(18時半開場)
〈地誌的ヴィラ=ロボス Villa-Lobos em Viridian

H.ヴィラ=ロボス(1887-1959):
《赤ちゃんの眷属》第1組曲「人形たち」(全8曲、1918) 15分
 1. 白皙の娘(陶器の人形) - 2. 褐色の肌の娘(張り子の人形) - 3. カボークロの娘(粘土の人形) - 4. ムラートの娘(ゴムの人形) - 5. 黒人の娘(木の人形) - 6. 貧しい娘(ぼろ切れの人形) - 7. 道化人形(プルチネッラ) - 8.魔女(布の人形)

《赤ちゃんの眷属》第2組曲「小さい動物たち」(全9曲、1921) 28分
 1. 紙の蜚蠊 - 2. ボール紙の仔猫 - 3. 張り子のネズミ - 4. ゴムの仔犬 - 5. 木の仔馬 - 6. 鉛の仔牛 - 7. 布の小鳥 - 8. 木綿の仔熊 - 9. ガラスの仔狼

《ショーロス第5番「ブラジルの魂」》(1925) 5分

川上統(1979- ):《鬼大嘴 Tucano》(2025、委嘱初演) 7分

 (休憩)

H.ヴィラ=ロボス:
《野生の詩》(1926) 19分

《ブラジル風連作》(1936) 20分
 1. カボークロの苗植え歌 - 2. セレナード弾きの印象 - 3. 原野の祭り - 4.白色インディオの踊り

《バッハ風そしてブラジル風の音楽 [ブラジル風バッハ] 第4番》(1930/41) 15分
 1. 前奏曲(序奏) - 2. コラール(荒野の歌) - 3. アリア(頌歌) - 4. 踊り(ミウジーニョ)



<A música de Villa Lobos, ligada às suas raízes no Brasil>
Fri, 31 January 2025, 7 pm start
Hiroaki OOI, piano
Shōtō Salon [1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo]

Osamu Kawakami (1979- ): "Tucano" (2025, commissioned work, world premiere)
Heitor Villa-Lobos (1887-1959) :A próle do bébé "As Bonecas" (1920) / A próle do bébé "Os Bichinhos" (1921) / Choro Nº 5 para piano (1925) "Alma brasileira" / Rudepoêma (1926) / Bachianas Brasileiras Nº 4 para piano (1930) / Ciclo brasileiro (1937)



川上統:《鬼大嘴 Tucano》(2025) 
 ブラジルの国鳥であるオニオオハシは、大きい嘴を持つキツツキ目の鳥である。「鬼」は様々な生物名でもよく使われる通り「大きい」という意味合いであり、恐ろしさはあまり感じられない。嘴が体長の大部分を占めているものの、その重さは非常に軽く、風貌のコミカルさとその重さ感が少しバグを生じさせる。もっとも、腕に乗せるとやはりずっしりとしていて、果実を器用に嘴から食べる姿は面白い異様さがある。ビビッドなカラーリングも、この軽いのか重いのかよく分からない雰囲気を謎に包んでおり、そのような風体をグルーヴ感に乗せて描きたいと思った。(川上統)

川上統 Osamu Kawakami, composer
2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_08070800.jpg
 1979年生まれ。東京生まれ、広島在住。東京音楽大学音楽学部音楽学科作曲専攻卒業、同大学院修了。作曲を湯浅譲二、池辺晋一郎、細川俊夫、久田典子、山本裕之の各氏に師事。2003年、第20回現音新人作曲賞受賞。2009、2012、2015年に武生国際音楽祭招待作曲家として参加。2018年秋吉台の夏現代音楽セミナーにて作曲講師を務める。2021年ピアノトリオ組曲「甲殻」のCDがコジマ録音より発売され、雑誌「音楽現代」において推薦版に選ばれる。作曲作品は200曲以上にのぼり、曲名は生物の名が多い。現在、エリザベト音楽大学准教授、国立音楽大学非常勤講師。






ヴィラ=ロボスと向き合う――野々村 禎彦

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_06491341.jpg
 ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)は、ブラジル音楽と西洋音楽の融合を終生旗印にしていたのは広く知られるところであり、この方向性を前面に打ち出した《ショーロス》シリーズと《ブラジル風バッハ》シリーズが代表作とみなされることが多い。だが、そこで問題になるのは「ブラジル音楽」とは何か、ということである。

 彼はリオ・デ・ジャネイロで生まれ育ち、アマチュア音楽家の図書館員(音楽家を集めたパーティを自宅で定期的に開く名士)の父からチェロとクラリネットを学び、12歳で父を亡くした後は民衆音楽ショーロのグループに出入りしてギターの腕を磨き、映画館や劇場のオーケストラで演奏して家族の生計を助けた。大都市の民衆音楽と日常生活の一部になったクラシック音楽の現場で音楽を身に付け、アカデミックな音楽教育はほとんど受けていない(何度か試みたが水が合わなかった)。1905年からたびたびアマゾン奥地や中米を放浪して原住民や黒人の民謡を採集し、それを素材に作曲を始めた。このような生活は1912年にピアニストのルシリア・ギマランイスと出会って終わりを告げる。ふたりはチェロとピアノで共演を重ねるうちに意気投合し、翌年には結婚した。ルシリアは家族とともにヴィラ=ロボスを献身的に支え、彼も彼女からピアノを本格的に学んでこの楽器のための作品が増えてゆく。

 その後しばらくの作風は交響曲や弦楽四重奏曲のような「絶対音楽」ジャンルではアカデミックな方向性、交響詩のようなジャンルでは神話などを題材にして民俗音楽を素材にする方向性(《アマゾナス》(1917)、《ウイラブルー》(1917) など:ただし両曲とも初演は10年以上後で相当改作されている)を試みた。一般に旧植民地の文化は独立後も旧宗主国の影響下にあり、南欧のクラシック音楽はフランスを参照していることから、アカデミックな書法の手本はダンディだった。そんな彼はダリウス・ミヨー(1892-1974)を通じて近代フランス音楽(特にドビュッシー)を知る。フランスの劇作家=詩人ポール・クローデルの生業は外交官だが、1917-18年にブラジル全権公使を務めた際にミヨーは秘書官として同行し、ブラジルの民衆音楽を収集しながらフランスの同時代音楽を紹介する演奏会を企画した。また1918年にはアルトゥール・ルービンシュタイン(1887-1982)がブラジルを初訪問して多くの演奏会を行い、連日違うプログラムはドビュッシーやシマノフスキなどの同時代音楽も豊富に含んでいた。

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_06492457.jpg
 その影響はピアノ独奏曲《赤ちゃんの眷属第1集》(1918) に如実に表れている。赤ちゃんのマスコットのさまざまな人形を題材にした組曲という発想が既に《子供の領分》を想起させるが、その書法は《版画》から《前奏曲集第2巻》までのドビュッシーのピアノ書法のリミックスに他ならない。ただし、旋律素材は人形のキャラクターに合わせてブラジル民謡などから選ばれており、単なる丸パクリではない。他方、彼はアカデミックな作曲でもこの時期に大きな仕事をしている。ブラジルは第一次世界大戦に連合国側で参戦し、戦闘には参加せずに「勝利」してパリ講和会議にも代表を送った。この「戦勝」を記念する交響曲の仕事をアカデミズム側の作曲家が降り、急遽お鉢が回ってきた。こうして書かれた交響曲第3番《戦争》(1919) は国内で評判になったが、ベルギー国王夫妻を迎えて初演された続編の第4番《勝利》(1919) は不評で、三部作の最後にあたる第5番《平和》(1920) は演奏されないまま紛失した。この経験を経て、国内の政治的な立ち回りで仕事を得るよりも、本場のパリで勝負したいという気持ちが膨らんでゆく。

 そこで彼は、民俗音楽素材により真剣に取り組み、ギター独奏曲《ショーロス第1番》(1920) を書いた。民衆音楽ショーロを素材にしたギター独奏曲としては、後に《ブラジル民謡組曲》(1908-23) として出版された5曲の小品があるが、これは民謡やクラシック音楽(第4曲〈ガヴォッタ・ショーロ〉の素材はJ.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲第6番》第4曲)の旋律をショーロ風に処理したサンプルなのに対し、《ショーロス第1番》ではこの民衆音楽の本質である、直線的に進まない音楽的時間(この曲の場合はルバートの伸縮)に正面から向き合っている。同1920年にはルービンシュタインが再度ブラジルを演奏旅行したが、彼は今度はルービンシュタインのホテルの客室に楽士たちと訪れて自作を披露するという大胆な方法でコンタクトを取り、親密な関係を築いた。この時特にインパクトを与えたのは《ショーロス第2番》(1924) の原型と思しきフルートとクラリネットの小品だった。両者が同じ曲ならば、シンコペーションの位置がずれた2本の線の絡み合いが、やがて片方が三連符系になってさらにずれてゆく、ポリリズム由来のより進んだ非直線性が鮮烈な印象を与えたことになる。ルービンシュタインは次の1922年のブラジル演奏旅行では、《赤ちゃんの眷属第1集》の世界初演を担当した。

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_06493730.jpg
 ヴィラ=ロボスはリオ・デ・ジャネイロで芸術を幅広く援助する資産家たちに加え、新興都市サンパウロの前衛芸術愛好家たちも新たなパトロンとして獲得し、1923-24年にパリに初めて滞在した。到着早々のサロンでの即興演奏をコクトーに「ドビュッシーやラヴェルの物真似に過ぎない」と酷評され、赤ちゃんのマスコットの動物の玩具を題材に非直線的な音楽的時間を掘り下げた《赤ちゃんの眷属第2集》(1921) もあまり注目を集めることはなかったが、ルービンシュタインの助力もあってマックス・エシッグ社と出版契約を結び、ルービンシュタインによる《赤ちゃんの眷属第1集》のフランス初演と共に初演された《ノネット:ブラジル全土の簡潔な印象》(1923) は、サックスを含む木管五重奏のエキゾティックな旋律をハープ、ピアノ、チェレスタ、打楽器が補強し、混声合唱が母音唱法のグリッサンドやオノマトペで色彩を添える趣向が注目された。このパリ滞在は、資金が続かず1年余りでいったん切り上げたが、パリといえども結局受けるのは〝未開の土人の音楽〟なのだと学んだ。

 ブラジルに戻った彼は、《ショーロス》シリーズの路線をエキゾティシズム寄りに修正して書き進め、ルービンシュタインのためのピアノ独奏曲の新作もエキゾティシズムと名技性増し増しの《野生の詩》(1921-26) としてまとめて捲土重来を期した。ルービンシュタインも彼のパトロンたちに彼の将来性を増し増しで語り、1926年からの2回目のパリ滞在が始まった。1回目は最初に用意した資金が尽きたところで帰国せざるを得なかったが、今回はマックス・エシッグ社からの本格的な作品出版にこぎ着け、パリで稼いだ金で滞在を続けられるようにしたい。そのためには大規模な作品個展を成功させる必要がある。というわけで1927年の10月と12月にマックス・エシッグ社主催で2回の個展を伝統ある室内楽ホールのサル・ガヴォーで行い、その評判にすべてを委ねることが決まった。10月はルービンシュタインによる《野生の詩》の世界初演と《ショーロス》シリーズの2・4・7・8番(3ホルンとトロンボーンのための4番、2台ピアノと室内管弦楽のための8番が世界初演)、12月は《野生の詩》の代わりに合唱入りの《ショーロス》3・10番が加わった。

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_06494989.jpg
 結果は大成功。1回目はルービンシュタインのための大作(〝世界一難しいピアノ曲〟という触れ込みでルービンシュタインのレパートリーに定着)目当てで集まった客に《ショーロス》シリーズのエキゾティシズムがアピールし、2回目はその再演に〝土人の合唱〟をフィーチャーしたさらに強烈な2曲が加わるという流れの演出だった。特に《ショーロス第10番》(1926) のアンサンブルと混声合唱のインパクトは強く、《ショーロス》シリーズの最高傑作と特筆されることが多い。この成果を受けてまず15曲の出版が決まり、出版曲リストが増えるにつれてその収入で滞在を延長するサイクルが始まった。今回は妻も同行しているので長期滞在でも支障はないが、今度は本国で忘れられないように定期的に帰国しての新作披露が求められる。1929年8月に最初の凱旋帰国、1930年6月にもパリに荷物を置いて一時帰国したが……

 ブラジルの政局は世界大恐慌を背景に混乱し、1930年3月の大統領選挙の不正が囁かれる中、対立側の副大統領候補が7月に暗殺されて火に油を注ぎ、10月には対立側が軍事クーデターを起こしてヴァルガス独裁政権が成立した。資本流出を防ぐために海外送金は停止され、ヴィラ=ロボスのアパルトマンは家賃未納で差し押さえられ、置いてきた《赤ちゃんの眷属第3集》や《ショーロス》13番・14番などの譜面を失った。この状況下で彼のパトロンたちも資金援助どころではなくなった。そこで彼は、地方へのクラシック音楽普及活動への資金援助という新政権の提案に乗り、チェリストとして妻ルシリアらと演奏旅行を重ね、新政権との距離を縮めた。1933年には音楽芸術庁初代長官に就任し、今度は政府をパトロンにして音楽活動を続けてゆく。

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_06495712.jpg
 《ショーロス》シリーズのエキゾティシズム路線はパリの需要に合わせたもので、ブラジルを〝土人が跋扈する未開の地〟扱いする路線はもちろん国内では評判が良くない。そこで新たに《ブラジル風バッハ》シリーズを始め、民俗音楽素材を新古典主義的に扱って西洋音楽と融合する路線へと転換した。《ショーロス第1番》は民衆音楽での自身の楽器ギターの独奏で始まるのに対して、《ブラジル風バッハ第1番》(1930/38) はクラシック音楽での自身の楽器チェロの八重奏で始まるのは必然性がある。このシリーズは《ショーロス》シリーズよりも穏当で、ブラジルの団体でも演奏しやすく書かれている。このような「合理性」は、作曲以外の主な活動が演奏から音楽行政や音楽教育に移るとピアニストの糟糠の妻ルシリアを1936年に捨て、活動の中心を米国に移す将来の秘書にふさわしい、英語が堪能で社交的なアルミンダ・ダウメイダと再婚した「合理性」に通じるものがあり、およそ芸術的とは言い難い(アルミンダとは親子ほど歳が離れているのも、自身の死後も長らくヴィラ=ロボス博物館館長を務められるので「合理的」だからではないか)。

 ここで終わるとなんとも後味の悪い総説になってしまうが、「ブラジル音楽」の見方を変えると、新たなものが見えてくる。クラシック音楽で言うところの「ブラジル音楽」はいわゆる民俗音楽に限られ、エキゾティシズムか新古典主義的民族主義かの二択になってしまいがちで、これがヴィラ=ロボス観の閉塞につながっていた。だが、《ショーロス》シリーズで〈ブラジルの魂〉という大仰な副題を与えられているのは、ピアノ独奏曲《ショーロス第5番》(1925)、わずか5分の小品である。世評の高い10番や1時間を超えるピアノ協奏曲の11番(1928) ではなくこの曲、というところに意味があるのではないか。この曲は先に触れた2番のようなシンコペートする旋律と三連符系の旋律の絡み合いで始まるが、そこに基本のビートの単純な繰り返しが加わると、直線的に進まず不規則なゆらぎに満ちた、層状の音楽的時間が浮かび上がる。これこそが「ブラジルの魂」=ブラジル音楽の本質だと、ヴィラ=ロボスは言いたかったのではないか。このような音楽的時間を把握できる彼は、《赤ちゃんの眷属第1集》でもドビュッシーの本質であるレイヤー構造を把握してリミックスを行っており(録音を聴く限り、ルービンシュタインはそのような側面は把握せずに単なるヴィルトゥオーゾ・ピースとして弾いているが)、《赤ちゃんの眷属第2集》を続けて聴くと、ドビュッシー的多層性から歩みを進めてブラジル的多層性に至った道筋を追体験できる。

 この「ブラジルの魂」は抽象的かつ普遍的な概念なので、民俗音楽やヴィラ=ロボス作品に対象を限る必要もない。むしろ基本は民衆音楽にあり、この3声部の関係性は、管楽器の主旋律・ギターの対旋律・カヴァキーニョ(小型4弦ギター)のリズムというショーロの基本形に由来する。音源ならまず聴くべきはボサノヴァ、特にジョアン・ジルベルトのギター弾き語りだろう(作曲者のアントニオ・カルロス・ジョビンは西洋ポピュラー音楽風のアレンジで商品性を高めて「魂」は隠してしまいがち)。なかでも《三月の水》(1973) は、弾き語りに極めてインテンポの打楽器(西洋ポピュラー音楽的なセンスでは凡庸と断じられそうな)が加わって同様の3声部の関係性(ただしポリリズムではなく直接的に操作されたゆらぎ)が生じており、この音源で「魂」の何たるかを把握してからヴィラ=ロボスに向き合う方が良いかもしれない。再び彼の音楽に戻ると、《ブラジル風バッハ第4番》(1930/35/41) はこのシリーズでは例外的に、ブラジル風(=民俗音楽的)な素材をバッハ風(=対位法的)に処理するのではなく、バッハ風な素材(特に第1楽章は《音楽の捧げもの》の「王の主題」そのもの)をブラジル風に処理しており、このシリーズでは「ブラジルの魂」が聴ける唯一の曲と言えるだろう。《ブラジル風連作》(1936-37) はこの意味では、素材も手法もブラジル風にして至った境地ということになる。

2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_06500940.jpg
 ヴィラ=ロボスの「ブラジルの魂」が聴けるのは本日のピアノ独奏曲プログラムだけであるかのような書き方になってしまったが、少なくともあとふたつのジャンルがある。ひとつはギター独奏曲。先に触れた《ブラジル民謡組曲》と《ショーロス第1番》に加えて、《12の練習曲》(1928-29) と《5つの前奏曲》(1940) があり、《練習曲》に関しては初演者セゴビアの序文の「スカルラッティやショパンの練習曲のギター版」という位置付け以上に適切な表現はないだろう。ギター音楽の歴史にはそれに相当するものはなかったので、マイスターの責任として書いたということだ。《前奏曲》も「ショパンの前奏曲のギター版」でよいのかもしれないが、彼の創作史に即して言えば、《ブラジル風連作》のギター版という位置付けになる。もうひとつは弦楽四重奏曲。彼にとっては交響曲と弦楽四重奏曲はパラレルな位置付け(民俗音楽的な素材に依らない「絶対音楽」であり、創作時期も共通する)だと先に示唆したが、初期から一貫して彼の交響曲はつまらないのに弦楽四重奏曲は面白いのは、交響曲では「ブラジル性」を民族打楽器の使用のような外面的な部分に求めているのに対し、弦楽四重奏曲では展開手法に求めているからである。また、管弦楽作品は演奏されないと始まらないので妥協せざるを得ないが、室内楽作品や器楽作品は未来の演奏家に期待して妥協しない譜面を残すことが可能だから、という違いもあるのかもしれない。


2025年1月31日 POC第54回公演「地誌的ヴィラロボス」 (2025/01/26 update)_c0050810_02102710.jpg




# by ooi_piano | 2025-01-26 18:40 | POC2024 | Comments(0)
POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17253604.jpg
大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演
《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17260628.jpg
【POC第52回公演】 2024年10月31日(木)19時開演(18時半開場)
A.ウェーべルン(1883-1945):《ピアノのための楽章》(1906)、《ソナタ楽章(ロンド)》(1906)、《パッサカリア Op.1》(1908/2013) [杉山洋一編独奏版]、《5つの歌曲 Op.3》(1907/08)、《5つの歌曲 Op.4》 (1908/09)、《4つの歌曲 Op.12》(1915/17)、《4つの歌 Op.13》 (1914/18) [作曲者編ピアノ伴奏版] 、《子供のための小品》(1924)、《ピアノのための小品》(1925)、《3つの歌 Op.23》 (1934)、《協奏曲 Op.24》 (1934/2024) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《3つの歌曲 Op.25》 (1934/35)、《ピアノのための変奏曲 Op.27》 (1936)、《管弦楽のための変奏曲 Op.30》(1940/2016) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《カンタータ第1番 Op.29》(1939)より第2曲/《カンタータ第2番 Op.31》(1943)より第4曲 [作曲者編ピアノ伴奏版]



【POC第53回公演】 2024年12月7日(土)18時開演(17時半開場)
若松聡史(1983- ):《暈色 "Iridescence" for extended piano》(2024)
A.ベルク(1885-1935):《ピアノソナタ》(1908)、《弦楽四重奏曲 Op.3》(全2楽章、1911/2017)[米沢典剛編曲独奏版、世界初演]、《抒情組曲》 (全6楽章、1926/2016)[米沢編独奏版、東京初演]、オペラ《ヴォツェック》第1幕第3場より「マリーの子守唄」(1922/1985)[R.スティーヴンソン編]、オペラ《ヴォツェック》第2幕第4場より「居酒屋のワルツ」(1922/1987)[Y.ミカショフ編]、オペラ《ルル》に基づく幻想曲 (1935/2008)[M.ウォルフサル編]

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17255427.jpg
【POC第54回公演】 2025年1月31日(金)19時開演(18時半開場)
川上統(1979- ):《鬼大嘴 Tucano》(2025、委嘱初演)
H.ヴィラ=ロボス(1887-1959):《赤ちゃんの眷属》第1組曲「お人形たち」(全8曲、1918)/第2組曲「小さい動物たち」(全9曲、1921)、《ショーロス第5番》(1925)、《野生の詩》(1926)、《ブラジル風バッハ第4番》(1930/41)、《ブラジル風連作》(1936)

【POC第55回公演】 2025年2月22日(土)18時開演(17時半開場)
〈投機者Ⅰ ヒンデミット〉
根本卓也(1980- ):《歩哨兵の一日 Ein Tag von einer Schildwache》(2024)
P.ヒンデミット(1895-1963):《3章の練習曲 Op.37-1》(1924/25)、《自動ピアノのためのトッカータ》(1925/2023)[米沢典剛編独奏版、世界初演]、交響曲《画家マティス》(1934/2016) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《C.M.v.ウェーバーの主題による交響的変容》より「トゥーランドット」(1943/2020) [米沢典剛編独奏版、世界初演]、《ルードゥス・トナーリス(調の手習い) ~対位法・調性およびピアノ奏法の演習(全25曲)》(1943)

【POC第56回公演】 2025年3月29日(土)17時開演(16時半開場)
〈投機者Ⅱ ショスタコーヴィチ〉
鈴木悦久(1975- ):《ドミニサイド・ダンス Dominicide Dance》(2024、委嘱初演)
P.I.チャイコフスキー(1840-1893):《管弦楽組曲第1番 ニ短調 Op.43》より「フーガ」(1879/1886) [G.L.カトワール(1861-1926)による独奏版、日本初演]
D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975):《24の前奏曲とフーガ Op.87》 (1952)




POC2024:戦後前衛の源流はまだ尽きない――野々村 禎彦

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17592478.jpg
 近年のPOCシリーズは戦後前衛の源流の精査に比重を移しており、一昨年の前シリーズではついに「源流の源流」のドビュッシーまで遡った。この路線もようやく一段落……ではない。むしろ今期の顔ぶれこそが、POCシリーズの真骨頂だ。まず、ピアノソロが中心だが連弾や他楽器とのデュオも含む姿勢と、編曲ものも取り上げる姿勢。ヴェーベルンとベルクはシェーンベルクに劣らず重要だが、いかんせん扱える曲は少な……くはない。通常のフォーマットの演奏会では編成によらず見えないふたりの作曲家の全貌がこの各1回で俯瞰できる。また、実際に戦後前衛の源流だったかどうかも絶対的な基準ではない。その可能性は持っていたが、何らかの理由でそうならなかった作曲家も取り上げて良いはずだ。むしろ戦後前衛の先を目指すならば、「なり損ねた人々」の方が検討に値する。ヴィラ=ロボスとヒンデミットは、まさにそういう人選である。特にヴィラ=ロボスは、従来のモダニズム史観ではあまりに軽視されてきた。代表作を網羅的に取り上げるPOC流アプローチで真価が明らかになるだろう。そしてショスタコーヴィチ。演奏機会は多いが、モダニズム史観での扱いはかなり微妙……ならばピアノソロの代表作《24の前奏曲とフーガ》の全曲演奏で検証しよう、という姿勢がPOCなのだ。ウクライナ戦争も終わりが見え、この頃にはロシア文化忌避も収まっているだろうが、それが最高潮だった昨年初春のロシア・アヴァンギャルド特集の続編でもある。

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17593248.jpg
 アントン・ヴェーベルン(1883-1945)アルバン・ベルク(1885-1935)アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)の高弟だが、無調に向かったのも12音技法を採用したのも師の導き……という単純な関係ではない。シェーンベルクは弦楽四重奏曲第1番(1904-05) や室内交響曲第1番(1906) で後期ロマン派の対位法の複雑化を進めたが、なかなか無調への最後の一歩が踏み出せなかった。他方彼は1904年から自宅で音楽の私塾を始め、そこから台頭したヴェーベルンとベルクは、「卒業制作」にあたる作品を1908年に書き上げた。ヴェーベルンの《パッサカリアop.1》はシェーンベルクの歩みに忠実な管弦楽曲だが、ベルクのピアノソナタはその域を超えて、「後期ロマン派の本質」の客体化に成功した。伝統の中心で独学で叩き上げたシェーンベルクには伝統は血肉化し過ぎて客観視できなかったが、音楽を本格的に学んだのはこの時がほぼ最初というベルクの距離感がちょうど良かったのだろう。後期ロマン派的な素材を新古典主義的に扱うスタンスはベルクの音楽の核心になる。弟子の達成からヒントを掴んだシェーンベルクは弦楽四重奏曲第2番(1907-08) 終楽章で無調への第一歩を踏み出すと、《5つの管弦楽曲》やモノオペラ《期待》を含む、1909年の無調表現主義作品ラッシュに突き進む。近年の研究では、ベルクのピアノソナタの完成は1909年中頃だと推測されているが、その時期にこの段階だと、次の弦楽四重奏曲(1910) とのギャップが大きすぎるのではないか。前年に師に草稿を見せたものの、単一楽章で終えるか他の楽章も書くかを延々と悩み、師が自分を踏み台にして無調の新作を続々と生み出すのを横目で見ながらようやく決断したのがこの時期、と考えるのがその後のベルクの筆の遅さと見比べても妥当だと思われる。
 無調の大作である弦楽四重奏曲をベルクが書き上げた頃には、シェーンベルクはこの方向性では書き尽くして次の道を模索していた。他方ヴェーベルンは師の歩みに沿って、1曲2分前後に凝縮された無調表現主義の《弦楽四重奏のための5楽章op.5》(1909) や《管弦楽のための6つの小品op.6》(1909) を書いたが、《ヴァイオリンとピアノのための4つの小品op.7》(1910) ではさらに先に進み、もはや表現主義の前提になる文学的コンテクストも切り捨てた1曲1分前後の「極小様式」に至った。シェーンベルクは早速この路線を取り入れ、《6つのピアノ小品》(1911) はヴェーベルンが乗り移ったかのようだし(6曲5分)、終生の代表作《月に憑かれたピエロ》(1912) の凝縮された構成(21曲35分)もヴェーベルン体験抜きには有り得なかっただろう。小アンサンブル伴奏歌曲という新しい方向性はブームになり、ストラヴィンスキーやラヴェルも追随した。シェーンベルクの創作力はここで燃え尽き、12音技法を開発するまで長い沈黙に入るが、ヴェーベルンは地道に極小様式の探究を進めて、初期代表作の《弦楽四重奏のための6つのバガテルop.9》(1911-13) と《管弦楽のための5つの小品op.10》(1911-13) に至る。ベルクも兄弟子の路線に影響されて、《クラリネットとピアノのための4つの小品》(1913) を書いた。無調初期における新ウィーン楽派の3人の間の密接な交流はこれで一段落し、以後は各々独自の道を歩むことになる。

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_18021720.jpg
 ヴェーベルンの歩みを器楽曲のみで辿ると、素直な後期ロマン派の書法~彼の代名詞の極小様式~12音技法採用直後の複雑な作品群~《交響曲op.21》(1928) 以降の点描化と戦後前衛への直接的影響、という馴染み深い飛び飛びのイメージになる。だが、歌曲を視野に入れると後期ロマン派と地続きで無調に向かう過程(op.3, op.4)極小様式を切り上げて複雑な無調書法に向かう過程(op.12)、《交響曲》の前後で音楽様式が断絶したわけではないことの実例(op.23, op.25)も聴けることになり、より包括的なヴェーベルン像が結ばれる。これも「他楽器とのデュオ」に変わりはない。一流の奏者を起用するのもPOCの矜持で、本公演では近代ドイツ歌曲の第一人者森川栄子である。そこにピアノ独奏曲も加わると、後期ロマン派時代の2曲、12音技法採用直後の2曲、《交響曲》以降のスタイルの到達点である《ピアノのための変奏曲op.27》(1935-36) も一緒に聴ける。 さらにPOC独自の編曲ものまで加えると、《パッサカリア》、独唱とアンサンブルのための《4つの歌曲op.13》(1914-18)、《交響曲》と並ぶ12音技法後期の代表作《9楽器のための協奏曲op.24》(1931-34)、最晩年の複雑かつ豊穣な新境地《管弦楽のための変奏曲op.30》(1940) 2曲のカンタータop.29/31 (1938-39/1941-43) と、この作曲家のほぼ全貌が掴めることになる(特にop.24とop.30は、米沢典剛による新編曲の世界初演)。すなわち、カヴァーされていないのは極小様式の作品群とop.14-19の小アンサンブル伴奏歌曲群のみ、いずれも音色が本質的な意味を持ち、他楽器への置き換えができない作品群である。
 ベルクは今回取り上げられる作曲家の中ではショスタコーヴィチに次いで広く知られており、多言は不要だろう。彼の全体像を掴むには、まずはふたつのオペラ(各々無調時代と12音技法時代の最後を締めくくる)、続いてふたつの弦楽四重奏曲(各々無調時代と12音技法時代の最初に位置する)という見立ても共有されているはずだ。これを一夜で聴くことは普通には有り得ないが、編曲ものを駆使するPOCならば可能になる(もちろんオペラ2曲はごく一部の抜粋になるが)。ここでも弦楽四重奏曲2曲は、米沢典剛の新編曲に依っている(世界初演と東京初演)。ここにピアノソナタが加われば、残る主要作は室内協奏曲(1923-25) とヴァイオリン協奏曲(1935) のみだが、これら2曲もピアノソロ編曲とは極めて相性が悪いことは言うまでもない。

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17594474.jpg
 ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)は、1923-24年と1926-30年の2回にわたってパリで活動したが、最初の滞在では表面的なフランス音楽趣味をコクトーに酷評された。そこで彼は、ギタリストとして民衆音楽ショーロのグループに出入りし、国内各地を放浪して民俗音楽を収集した青年時代に立ち返り、ブラジルのさまざまな民俗音楽を戦略的に導入した《ショーロス》シリーズの作曲に集中し、2回目の滞在で成功を収めた。だが、一時帰国中に祖国でクーデターが起こり、政情不安でパトロンたちの支援も途絶え、パリのアパルトマンに置いてきた多くの譜面を失った。そこで彼は、クラシック音楽普及活動への資金援助という新政権の提案に乗り、チェリストとしてピアニストの妻ルシリアらと演奏旅行を重ね、新政権との距離を縮めた。1933年には音楽芸術庁初代長官に就任し、政府をパトロンにして音楽活動を続けてゆく。《ショーロス》を発展させた《ブラジル風バッハ》シリーズは、このような状況下で書かれた。ブラジル音楽と西洋音楽の融合を旗印にした両シリーズ(その中のピアノ独奏曲も今回の曲目に含まれる)を彼の代表作と見做す向きは多い。しかし彼の音楽を真に代表するのは、エキゾティシズムに還元されないブラジル音楽の本質(音楽的時間が直線的に進まず、不規則なゆらぎを含む層状の時間の上で一見単純な旋律が多彩な陰影をまとう)を抽象的なフォルムの中に浮かび上がらせた、弦楽四重奏曲とギター独奏曲だろう。どちらも自身の楽器であるチェロとギターを含む編成なのも示唆的だ。他方ピアノは、最初の妻ルシリアの楽器であり、親密な関係を築いてパリ滞在の足がかりになったアルトゥール・ルービンシュタイン(《赤ちゃんの一族》《野生の詩》の初演者)の楽器でもあるが、因襲的なピアニズムが作品の真価を覆い隠してきたことも否定できない。その真価は、《ブラジル風連作》まで代表作を網羅した今回のプログラムで明らかになる。

POC [Portraits of Composers] 第52~第56回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs IV》 [2025/01/25 update]_c0050810_17595669.jpg
 パウル・ヒンデミット(1895-1963)は戦間期ドイツを代表する作曲家=ヴィオラ奏者である。フランクフルトでヴァイオリン/ヴィオラ奏者として音楽活動を始め、第一次世界大戦後はアマール弦楽四重奏団のヴィオラ奏者として自作を含む同時代音楽を積極的に取り上げるとともに、まず表現主義的な小オペラに集中的に取り組んだ。やがて新即物主義に作風を転換し、《室内音楽》シリーズ(1922-27) が最初の代表作になった。《3章の練習曲》《自動ピアノのためのトッカータ》はこの時期に書かれた。ただし、表現主義路線・新即物主義路線とも時流に合わせた背伸びの部分はあり、過渡期に書かれた歌曲集《マリアの生涯》(1922-23) の穏やかな対位法表現が彼の本領だろう。1927年にベルリン音楽大学作曲科教授に任命されて活動の中心を移すと、まず時事オペラ《今日のニュース》(1928-29) を書いたが、作風は徐々に穏当になり、ナチス政権下でも交響曲《画家マティス》(1934)は初演時には高く評価された。他方ヴィオラ奏者としては、ヴォルフスタール(後にゴールドベルクに交代)、フォイアーマンとの弦楽三重奏団が評判になった。だが、《画家マティス》のオペラ化(1934-35) が告知されると状況は一変する。《今日のニュース》のヌードシーンやユダヤ人音楽家との弦楽三重奏団が問題視されて批判が始まり、オペラの上演は禁止された。交響曲版の初演も指揮したベルリン国立歌劇場音楽監督フルトヴェングラーの抗議文が火に油を注ぎ、結局フルトヴェングラーは解任され、ヒンデミットも大学を追われてトルコに移住し、スイスを経て1940年に米国に亡命した。彼の音楽理論の集大成でもある《ルードゥス・トナーリス》(1942) は、オラトリオ《遅咲きのライラックが前庭に咲いたとき》(1946) と並ぶ米国時代の代表作である。



# by ooi_piano | 2025-01-25 16:30 | POC2024 | Comments(0)


Hiroaki Ooi Matinékoncertek
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

後援 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) []

チラシ 



【第3回公演】2025年1月12日(日) 15時開演(14時45分開場)

1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23404471.jpg
マイアベーア《悪魔のロベール》の回想 S.413 (1841) 10分
 [第3幕「地獄のワルツ」 - 「黒い悪魔たちよ、亡霊たちよ、天を忘れよ」(合唱)/「私の栄光は消え去り」(ベルトラン)/「喇叭を鳴らせ、旗を讃えよ」(騎士団の合唱)]

ハンガリー狂詩曲第14番 S.244-14 (1846) 12分
 [Lento quasi marcia funebre - Allegro eroico - Allegretto alla Zingarese - Vivace assai]

ギャロップ S.218 (1841、遺作) 6分
 
ベルリオーズの叙情的モノドラマ《レリオ、あるいは生への回帰》の主題による交響的大幻想曲 S.120 (1834/2021) [D.ドスサントス編独奏版] 23分
 [漁夫のバラード(第1楽章) - 山賊の情景(第3楽章)]
 
 ---
J.S.バッハのカンタータ第12番《泣き 歎き 憂い 慄き》の通奏低音と《ロ短調ミサ》の「十字架に釘けられ」による変奏曲 S.180 (1862) 16分
 [主題と43の変奏 - コラール「神の御業は全て善し」]
 
ハンガリー狂詩曲第6番 S.244-6 (1847) 7分
 [Tempo giusto – Presto - Lassan (Andante) - Friska (Allegro)]
 
モーツァルト《フィガロの結婚》と《ドン・ジョヴァンニ》の動機による幻想曲 S.697 (1842/1993) [L.ハワード補筆版] 20分
 [第1幕フィガロ「もう飛ぶまいぞ、この色気の蝶々」 - 第2幕ケルビーノ「恋の悩み知る君は」 - 《ドン・ジョヴァンニ》第1幕終結部(メヌエット+コントルダンス+ワルツ)]

 ---
ベッリーニ《清教徒》の回想 S.390 (1836) 18分
 [アルトゥーロのカヴァティーナ「いとしい乙女よ、あなたに愛を」(第1幕第3場) - エルヴィーラのポロネーズ「私は愛らしい乙女」]

スケルツォと行進曲 S.177 (1851) 12分
 [Allegro vivace, spiritoso (Scherzo) - Allegro moderato, marciale]

パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 (初版、1838) [全6曲] 28分
 第1番 ト短調「トレモロ」 Andante - Non troppo Lento (カプリス第5番+第6番)
 第2番 変ホ長調「オクターヴ」 Andante - Andantino, capricciosamente (カプリス第17番)
 第3番 変イ短調「ラ・カンパネラ」 Allegro moderato - Tempo giusto (協奏曲第2番第3楽章+協奏曲第1番第3楽章)
 第4番 ホ長調「アルペジオ」 Andante quasi Allegretto (カプリス第1番)
 第5番 ホ長調「狩り」 Allegretto (カプリス第9番)
 第6番 イ短調「主題と変奏」 Quasi Presto (a Capriccio) (カプリス第24番)





リストと宗教音楽――山村雅治

1

1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23405710.jpg
 現実は残虐だ。リスト父子が息子フランツの音楽の勉強のために、ハンガリーからパリに到着したのは1823年12月11日。翌日、ピアノ製造のエラールとともに、メッテルニヒ侯爵の推薦状を携えてケルビーニを訪ねた。彼が楽長であるパリ音楽院への入学を希望したからだ。しかし、拒否された。音楽院の授業に外国人が存在することが許されない規則があったからだ。12歳にしてリストはすでにピアニストとして名が知れていたが、彼はこのとき「私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした」と書いている。そこで音楽の勉強は個人教授を頼むことしした。作曲をパエールに、音楽理論をレイハに師事した。ピアニストとしての生活は続き、1824年3月7日にパリ・デビューを果たして、5月に渡英して6月5日にイギリス・デビューをした。イギリスではさらに1825年と27年に長期滞在し、さらなる悲劇が1827年8月に起こる。8月28日に父アダムが腸チフスで急死したのだ。父子の二人三脚で音楽で身を立てる歩みをしてきたのが、ここで止まった。15歳の少年リストはひとりになった。オーストリアにいた母をパリに呼び寄せて、彼女を抱えながら自らの生計を立てなければならなくなった。

 ピアノ教師としてリストは生きた。生徒として出会ったサン=クリック伯爵の令嬢カロリーヌは一つ年下だった。たちまちリストとカロリーヌは恋しあった。見守ってくれたカロリーヌの母親が1828年6月30日に亡くなると、父親であるサン=クリック伯爵は、娘が社会的身分が低い音楽家に嫁ぐことなどは許せず、レッスンを打ち切ってリストに出入り禁止を言い渡した。ヨーロッパの辺鄙な田舎に平民として生まれたリストに身分差別も襲いかかった。

 この時期のことをリストは1837年1月に公開書簡としてジョルジュ・サンドに書き送っている。
「パリの社交界に進んだことで、芸術家が使用人としての立場を甘受することを、嫌悪感をもってひたすらに我慢した」。またピアノを弾いて生活費を稼ぐことなった彼は「芸術が金儲けのための職業に成り下がり、上流階級の娯楽になっている」ことに嫌悪感を抱く。「この頃、二年間病気になり、その間、信仰と献身への激しい欲求を満たすためには、カトリックの厳格な信心行為に没頭する以外に道はありませんでした」。

 パリから見れば田舎生まれの身の民族・国籍差別、どんなときにも庇護してくれた頼るべき父の死、身分差別による失恋。モーツァルトの時代となんら変わらない芸術家の立場。すなわち人間である貴族の前で芸をする猿にすぎなかった。彼は神経衰弱による鬱になり演奏活動からも遠ざかってしまう。1828年4月30日に閉じられた演奏会は翌1829年3月22日まで再開されなかった。ふたたびリストは毎日のように教会へ通い、ついに聖職者になることを考えた。しかし、母と近くに住んでいたバルダン神父に説得されて思いとどまった。しかし、思いはその後も続いた。

 少年リストに聖書を通して、イエスは語りかけた。その言葉のすべてが彼の渇いた心に慈雨として沁みこみ、現実の残虐から彼を救い出した。ルター訳のドイツ語聖書を通じてならば、いっそう生々しくイエスの肉声が響いただろう。リストの時代にカトリックは「権威」だったが、その発祥の時代には数世紀の間、ローマ帝国のいたるところで、それは邪教として厳しい迫害を受けた。闘技場でキリスト教徒がライオンに食われるさまを、貴族たちは娯楽として楽しんでいた。

 イエスの生きた時代とその後のキリスト教の出発点は、紀元30年から40年頃ユダヤのエルサレムにいたガリレヤ地方の無知文盲の田舎者の群れだった。彼らはイエスが十字架にかけられて死んだのち「復活」して天国に昇り神の右に座しているが、やがて今にも救世主として再臨し、この世に正義と希望の国をもたらし不幸や不正を一掃してくれる、と熱望した。イエスの言葉が記された新約聖書のギリシア語はコイネーと呼ばれる田舎の方言で示されている。原典は後世ローマ教会によって定められたウルガタ、つまり格調高いラテン語の荘重体からは遠い、田舎言葉で書かれていたのだ。新約聖書には、貧しき者(田舎者・芸術家)への賛美と金持ち(貴族)への烈しい非難がいたるところに撒き散らされている。金持ちが天国の門に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい。

 おそらくリストは取り澄ました白い手の貴族に古い素性のあいまいな系図を突きつけて、貴族の祖先だった農夫の土が沁みこみひび割れだらけの赤い手を突きだしてやりたかった。カトリック成立以前の原初のキリスト教は「人間のみじめさ」がはぐくむ切ない悲願、凄まじい希望が培養した灼熱の熱さのなかでの「救済」「解放」の運動だった。



1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23410718.jpg
 「宗教音楽」の定義は何か。カトリックのラテン語典礼文に、ただ曲をつければ「宗教音楽」になるのだろうか。それらは間違いなく教会での典礼に用いられる神への信仰を告白する音楽だ。音楽がはじまったとき、用いられた楽器は人間の声だった。祈る言葉の抑揚がいつしかともに朗唱する歌になった。西洋音楽は9世紀ころにまとめられた教会で歌われた「グレゴリオ聖歌」に発祥する。「宗教音楽」はミサでの祈りの言葉や聖書からの言葉が歌われた。それが音楽だった。

 修道士たちの男声の斉唱がペロタンらによって声部がわかれる合唱になり、やがて中世・ルネサンスには50声部を超える宗教音楽が書かれた。その頃になれば、なにが目的だったのかが判らなくなった作曲家もいるだろう。一声部、二声部だけでも神と人間のことは書けるのに。いずれにせよ中世・ルネサンスの作曲家には「作曲家と宗教」が問われることがない。教会に仕え、教会の礼拝のための音楽を書くことが主な彼らの仕事だったからだ。世俗の音楽はクラウデイオ・モンテヴェルディがオペラまでも書き、宗教音楽と世俗音楽はいちだんと豊かになった。バッハまでは宗教音楽も教会で演奏された。バッハは楽譜の最後に”Soli Deo Gloria”「神のみに栄光あれ」と記した。同時代を生きたヘンデルは「メサイア」を教会から脱け出して劇場で演奏した。ロンドンの孤児院でくりかえし演奏した。ヘンデルが書いた、たったひとつの宗教的「オラトリオ」だった。

 かくして「宗教音楽」は教会に仕えた中世・ルネサンスの時代から、バロックのバッハ、ヘンデルを経て、貴族に仕えたハイドンも教会に仕えたこともあったモーツァルトも「ミサ」をたくさん書いた。教会の人ではなかったベートーヴェンのあとに勃興したロマン派作曲家では、メンデルスゾーン、グノー、ブルックナーと比肩してリストは19世紀を代表する声楽を用いた宗教音楽の作曲家だった。ローマ時代には集中的に作品を書いた。「音楽は本質において宗教的である」とリストは考えていた。ピアノ独奏曲にも書いた「聖なる言葉」がないリストの「宗教音楽」も枚挙にいとまがない。


3

1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23411870.jpg
 19世紀に才能を持つ音楽家として認められるには「宗教音楽」を書くか、大衆を向いて喝采を博す「オペラ」を成功させることしかなかった。ショパンも学生時代の師ユゼフ・エルスネルから、そうすることを勧められた。13歳のリストは師のフェルナンド・パエールの助けを得てオペラ「ドン・サンシュ」を書いた。その根には教会に帰依し神を祝福すること(宗教音楽)と、人びとが喜ぶものは神も喜ぶだろう(オペラ)という音楽芸術の広さと深さがあったとすれば、「オペラ」が「宗教音楽」の形式を踏襲しつつ発展したことは必然だった。

 「ミサ・ソレムニス」(1823)という神と人間を結んだ祈りの音楽を書いたベートーヴェン没後、音楽の世界の中心はパリにあった。自分が死んでも残ってほしい壮大な夢を託した「第九交響曲」(1824)の巨匠の没後3年の1830年、ベルリオーズは「幻想交響曲」を書き時代を震撼させた。新しい時代が訪れたのだ。当時のパリ音楽院が定めた若い作曲家にイタリア留学の資金を賞金を与える「ローマ賞」を獲得するには「カンタータ」を書かなければならなかった。ベルリオーズは『オルフェウスの死』、『エルミニー』、『クレオパトラの死』についで『サルダナパールの死』の4度目の挑戦にして、ついに「ローマ賞」を獲得した。「カンタータ」すなわち複数の独唱者とオーケストラのための作品は、先行して「宗教音楽」に用いられた形式であり、19世紀にはオペラがもつ形式にもなっていた。

 オペラをパリ・オペラ座で上演するのが夢だった。「ベンベヌート・チェッリーニ」は受けいれられず、いのちをかけた大作「トロイアの人々」はドイツからやってきたヴァーグナーの「タンホイザー」に先を越された。フランス人の作曲家ベルリオーズはパリの音楽界の梯子を昇ろうとした。彼の才能を誰よりも認めていた19歳のリストは、ベルリオーズが初演した「幻想交響曲」に感激した。その一点にとどまって終生ベルリオーズの才能を世に知らしめようとした。「幻想交響曲」は徹頭徹尾「人間の音楽」であり、恋に狂った青年が巻き込まれた夢と幻視と絶望が展開された。そこに救いはない。

 救いのなさに「カタルシス」を得ることがある。カタルシスとは人間個人のいつわらぬ感情を解放することによって得られる精神の「浄化」を意味する。アリストテレスが『詩学』中の悲劇論に「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」として書き著して以降使われるようになった。古代アテネにも神はいた。精神を浄化すれば、人間は神に近づくことができるだろう。「カタルシス」も魂の浄化への道であり、修道士への道に迷った青年リストは、たちまちにして「幻想交響曲」に神への道を嗅ぎとった。


4

1月12日(日)《フランツ・リストの轍》第3回公演 (2024/12/31 update)_c0050810_23413022.jpg
 残虐はイエス・キリストが体現した「神に生きるもの」の現実そのものだった。新約聖書を読めばいい。ユダヤ教の律法学者たちを否定し続け弾圧され、たえず差別と迫害に遭った。漁師たちを含む世間からは低く見られた階級の弟子たちだけがイエスのもとに集まり教えを聴いたが、ユダに裏切られた。
 そののちイエスは捕えられ、処刑されるための重い十字架を背負いゴルゴダの丘までの坂道を歩かされ、処刑場に着くと衣服を剥がれて十字架に固定するために両掌を杭で打ちつけられた。民衆は隣のバラバは助けろと叫び、イエスは槍で突き刺されて死んだ。これは愚かな人間が「神の子」を殺した事実であり、新約聖書に記されて忘れてはならない「人間の劇」として歴史の下層に沁みこんでいった。

 リストは1861年にはローマに移住し、1865年にようやく少年時代から切望した聖職者になった。ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由。ここから彼の「宗教音楽」はますます増えていく。1870年代になると調性感が薄らいでいく作品が書かれるようになる1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言した。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。
 そして晩年に書いた宗教音楽の最高傑作が『十字架の道』(Via Crucis)。主にローマで作曲、1879年のブダペスト滞在中に完成された。リストの存命中には演奏されず、作曲されてから半世紀たった1929年の聖金曜日にブダペストで初演された。楽譜はさらに遅れて、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版された旧リスト全集の第5シリーズ第7巻に収録、1936年に出版された。

 『十字架の道』(Via Crucis)は混声合唱と、オルガンまたはハルモニウムまたはピアノのための作品で「十字架の道行きの14留」という副題がつけられている。イエスの受難が14の場面に分けて描かれていく。前奏曲:王の御旗。1留:イエスに死刑宣告。2留:イエス、十字架を背負う。3留:イエス、初めて倒れる。4留:イエス、聖母マリアに出会う。5留:キレネのシモン、十字架を背負うイエスを手伝う。6留:聖ヴェロニカ。7留:イエス、再び倒れる。8留:エルサレムの女たち、イエスのために涙を流す。9留:イエス、三たび倒れる。10留:イエス、衣を剥がれる。11留:イエス、十字架にはりつけられる。12留:イエス、十字架上で死す。13留:イエス、十字架から降ろされる。14留:イエス、墓に安置される。

 ここには一般に知られるリストとは、まったくちがうリストがいる。予備知識なしに、この型破りな音楽を聴いて作曲家がわかる人はまずいない。人を酔わせる甘い旋律もハンガリーの土俗の力強さも、かつて得意とした超絶技巧すら、かけらもない。グレゴリオ聖歌を思わせる音楽の佇まい。調性記号があってもなきがごとくに半音階的に動く音楽が奏でられる。リストは音楽においてカトリックもプロテスタントも受け入れた。イエスは「ひとり」なのだから、そうでなければならない。バッハの『マタイ受難曲』からルター作のコラールを歌わせる。全体を通しては調性感が稀薄であり、無調の響きが支配している。
 「無調」は信仰の誠実さをあらわす音楽の姿だった。信仰をあらわす表現が人間の真実の姿から神への祈りを伝えるものとすれば、それは幼い主要三和音だけでは嘘になる。自己の罪をも告白しても「許し」は神父によるものではなく、神によるものでなければならない。人間と神のへだたりを埋めるのは人間界の安定した調性ではない。調性が破壊された音のなかでしか歌えない。




# by ooi_piano | 2024-12-31 23:32 | コンサート情報 | Comments(0)
POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14001825.jpg

《先駆者たち Les prédécesseurs IV》
4,000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.com (アートアンドメディア株式会社)



【POC第53回公演】 2024年12月7日(土)18時開演(17時半開場)
〈Albtraum auf dem (Alban) Berg - 暴(あら)ぶるアルバン・ベルク〉

アルバン・ベルク(1883-1935):

《ソナタ断章 ニ短調》(1908、日本初演) 3分

《ピアノソナタ ロ短調 Op.1》(1908) 10分

《弦楽四重奏曲 Op.3》(1911/2017、ピアノ独奏版・世界初演) [米沢典剛(1959- )編] 22分
  I. Langsam - II. Mäßige Viertel

オペラ《ヴォツェック》第1幕第3場より「マリーの子守唄」(1922/1985) [R.スティーヴンソン(1928-2015)編] 3分

オペラ《ヴォツェック》第2幕第4場より「居酒屋のワルツ」(1922/1987) [Y.ミカショフ(1941-1993)編] 3分

オペラ《ヴォツェック》第3幕第4番より間奏曲「ひとつの調性(ニ短調)によるインヴェンション」(1922/2024、世界初演) [米沢典剛(1959- )編] 3分

若松聡史(1983- ):《暈色 "Iridescence" for extended piano》(2024、委嘱初演) 7分

 (休憩15分)

《抒情組曲》(1926/2016、ピアノ独奏版・東京初演) [米沢典剛(1959- )編] 30分
  I. Allegretto gioviale - II. Andante amoroso - III. Allegro misterioso / Trio estatico - IV. Adagio appassionato - V. Presto delirando / Tenebroso - VI. Largo desolato
  
《オペラ「ルル」に基づく幻想曲》 (1935/2008) [M.ウォルフサル(1947- )編] 14分
  ルルとアルヴァ二重唱(第2幕1場) - ラグタイムその1(第1幕3場) - 切り裂きジャックと死の絶叫(第3幕2場) - サイレント映画の音楽(第2幕間奏曲) - メロドラマ(第2幕2場) - ルルとアルヴァ二重唱(第2幕2場) - ラグタイムその2(第1幕3場) - アルヴァのルル賛歌(第2幕2場) - ルルのアリア(第2幕1場)



"Albtraum auf dem (Alban) Berg"
Sat, 7 December 2024, 6 pm start
Hiroaki OOI, piano
Shōtō Salon (1-26-4, Shōtō, Sibuya-ku, Tokyo)
4,000 yen
reservation: poc@artandmedia.com(Art & Media Inc.)

Satoshi Wakamatsu (1983- ) : "Iridescence" for extended piano (2024, commissioned work, world premiere)
Alban Berg (1885-1935) : Sonata fragment in d-moll (1908, Japan premiere), Piano Sonata Op. 1 (1908), String Quartet Op.3 (1911/2017) [piano solo version by Noritake Yonezawa (1959- ), world premiere], Lyric Suite (1926/2016) [piano solo version by Noritake Yonezawa, Tokyo premiere], "Cradle Song" from 'Wozzeck' (1922/1985) [piano solo version by Ronald Stevenson (1928-2015)], "Tavern Garden Waltz" from 'Wozzeck' (1922/1987) [piano solo version by Yvar Mikhashoff (1941-1993)], "Interlude (Invention on a Key)" from 'Wozzeck' (1922/2024) [piano solo version by Noritake Yonezawa, world premiere], "Lulu Fantasy" (1935/2008) [transcribed by Marvin Wolfthal (1947- )]




若松聡史:《暈色 Iridescence》(2024、委嘱初演)
 この作品では、複数の音の焦点が同時並行で展開される。それぞれが独立した運動を持ちながら時間の中で交差することで、多層的な響きを生成する。音の焦点は流動的で、各音が対比的な関係で相互に作用し合うことにより、全体として不均衡な波長があらわれる構造になっている。(若松聡史)


若松聡史 Satoshi Wakamatsu, composer
POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_12571185.jpg
 2014年パリ・エコール・ノルマル音楽院作曲科高等ディプロマ課程修了、2016年パリ地方音楽院作曲科専門課程修了。エディト・カナドシジー(Édith Canat de Chizy)に師事。第19回東京国際室内楽作曲コンクール第3位(2014)、第2回“Appassionato Ensemble”国際作曲賞入選(イタリア・コモ)(2018)、第11回JFC作曲賞コンクール入選(2022)、第41回ヴァレンティーノ・ブッキ国際作曲コンクール入選(イタリア・ローマ)(2022)等。近作に、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ハープのための《プリズム》(2023)、ピアノ弦のための《星彩現象》(2022)、ディレクションを伴う弦楽三重奏曲《プレグナンツ》(2021)、11弦楽器のための《スペクトル》(2017)等。






アルバン・ベルクの勘所――野々村 禎彦

POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14050376.jpg
 アルバン・ベルク(1885-1935)の音楽の核心はきわめて明確で、「後期ロマン派的な素材の新古典主義的な取り扱い」がすべてである。この一言で、ピアノソナタ(1907-08)からオペラ《ルル》(1929-35)まで、例外なく把握できる。ただし現時点ではこのような言説は一般的ではない。その理由は明白で、文献として真っ先に参照されるアドルノによるベルクの評伝にはそのようなことは一切書かれていないからだが、そこにはふたつの背景がある。ひとつは、ここで言う「新古典主義的」は、音楽における新古典主義の一般的な定義をかなり拡大解釈していること。もうひとつは、たとえこの拡大解釈を認めたとしても、アドルノにはベルクの核心が新古典主義だとは書けない時代的・歴史的背景があったことである。

 まず、音楽における新古典主義について。この用語の起源は美術史にあり、18世紀半ばから19世紀初頭にかけての、バロック/ロココ芸術への反発から生まれた、ギリシア・ローマ(美術史における「古典」)芸術を範とする非装飾的な芸術様式を指す。クラシック音楽史における同時代はウィーン古典派の時代であり、バロック音楽への反発から生まれた点は共通しているが、ギリシア・ローマ時代の音楽は後世には残らなかったのでズレが生じたわけだ。ブゾーニは20世紀初頭のドイツで、後期ロマン派の限界は古典派回帰で打破すべきだと主張したが、新ウィーン楽派はそれを機能和声の限界だと捉えて、無調表現主義に向かった。第一次世界大戦が始まると、ドビュッシーは敵国の新音楽=無調表現主義への反発から平明な古典音楽への回帰を実践したが、フランスにはウィーン古典派の同時代に適切なモデルはなく、ラモーやクープランのバロック音楽が範になった。ドビュッシーと親交を結んでいたストラヴィンスキーはこの時期はスイスに避難していたが、第一次世界大戦後にパリに戻ると、当時ペルゴレージ作と伝えられていたイタリアのバロック音楽に現代の和声を加えて再構成した《プルチネルラ》(1919-20)を発表し、これが音楽における新古典主義の始まりとされる。ドビュッシー同様にバロック音楽を選んだことで「新古典主義=古典派回帰」という図式も崩れたわけだが、《プルチネルラ》はバレエ・リュスが第一次世界大戦中に始めたイタリア音楽編曲シリーズのひとつでシリーズ内にはロッシーニ原曲もあり、この選択は多分に偶然である。だが、それが規範として定着するくらいインパクトのある作品だった。フランス六人組もこの路線に追随して独墺の後期ロマン派/無調表現主義を仮想敵とする点は継承したが、「単純で深刻ぶらない音楽」全般を規範とする拡大解釈で独自性を主張した。米国からパリを経てヨーロッパ中に広がったジャズは、その象徴になった。

POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14051047.jpg
 このような一般的な定義を踏まえると、「後期ロマン派的な素材の新古典主義的な取り扱い」という総括は殆ど語義矛盾に見えるかもしれないが、その意味するところは以下でベルク作品を具体的に眺める中で明らかになるだろう。そこでもうひとつの、アドルノに固有の背景に移る。彼はフランクフルト大学社会研究所がナチス支配下で米国コロンビア大学に組織ごと「亡命」していた時期に所長ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』で注目され、戦後に社会研究所がフランクフルト大学に復帰するとホルクハイマーと共同所長を務め、西ドイツで共産主義者扱いされることを恐れて積極的な活動を控えるようになったホルクハイマーに代わって、フランクフルト学派の中心人物になった。音楽に造詣の深い高名な思想家の音楽批評として強い影響力を持ったが、そもそも彼は作曲を志してベルクに師事した経歴も持つ音楽批評の本職で、社会研究所でも長らく音楽文化担当という扱いだった。音楽素材それ自体が自律的に――すなわち弁証法的に――発展する状況を実現するセリー技法は特権的な存在であり、既存の形式を鋳型として利用する新古典主義は反動的で論外だ、という思想的信念を持つ彼にとって、恩師ベルクの音楽を新古典主義と形容することはあり得ない。一見既存の形式を援用している箇所も少なくないが、音楽素材を弁証法的に発展させた結果をそこに導く「極微なる移行の巨匠」なので問題ない、というのが評伝の副題の意味である。

 以下ではまず、新ウィーン楽派内でのベルクの位置を眺める。シェーンベルクは弦楽四重奏曲第1番(1904-05) や室内交響曲第1番(1906) で後期ロマン派の対位法の複雑化を進めたが、なかなか無調への最後の一歩が踏み出せなかった。ヴェーベルンとベルクは彼が1904年から自宅で始めた音楽の私塾で頭角を現し、「卒業制作」にあたる作品を1908年に書き上げた。ヴェーベルンの《パッサカリア》op.1は師の歩みに忠実な管弦楽曲だが、ベルクのピアノソナタはその域を超えて「後期ロマン派の本質」の客体化に成功した。冒頭の主題がゆっくり変容してゆく過程の中に、「後期ロマン派を特徴付ける感情の動き」が微分化されて埋め込まれている。音楽を本格的に学んだのはこの私塾がほぼ初めてという伝統との距離感が、その中心で独学で叩き上げた師には血肉化し過ぎて客観視できなかったものの結晶化を可能にした。本来は内から溢れ出るはずの「感情」のようなものを客観的操作の対象にする能力をここでは「新古典主義的な取り扱い」と呼んでいる。一般的な新古典主義では既存の素材や形式に限られていた操作対象を、不定形の感情まで拡大できる作曲家がベルクなのである。むしろ年代的には新古典主義よりも先んじているが、普遍的な音楽の捉え方の話なので歴史的年代とは関係ない。ともあれ、いったん結晶化できれば最後の一歩にもはや困難はない。弟子の達成からヒントを掴んだシェーンベルクは、弦楽四重奏曲第2番(1907-08) 終楽章で無調への第一歩を踏み出すと、《5つの管弦楽曲》やモノオペラ《期待》を含む、1909年の無調表現主義作品ラッシュに突き進む。

POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14051819.jpg
 師が自分を踏み台にして無調の新作を続々と生み出すのを横目で見ながら、ベルクは弦楽四重奏曲を1910年に書き上げた。今度は20分を超える無調の大作で、元々はピアノソナタ同様ソナタ形式の単一楽章だったが、「極微なる移行」の手腕がさらに洗練され、展開部を省いても音楽として十分成り立つ密度になったので、展開部を第2楽章として独立させた。ピアノソナタを単一楽章にするか書き足すかを延々と悩んでいるうちに師に先を越されてしまったトラウマを、変則的な形で乗り越えたのだろう。だが筆の速い師はこの方向性でも書き尽くして、次の道を模索していた。ヴェーベルンが《ヴァイオリンとピアノのための4つの小品》op.7(1910)で極小様式に踏み込むと、師は早速この路線を取り入れて《6つのピアノ小品》(1911)を書いた。無調表現主義ラッシュの作品群にはまだ調性感が残っており、それをいかに消すかを師は模索していたので、さらに濃密に調性感が残るこの弦楽四重奏曲への評価は芳しいものではなかった。だがベルクはそもそも調性感を消すつもりはなかった。無調の浮遊感と調性のドライヴ感はどちらも興味深く、いかにブレンドして音楽を豊かにするかが焦点だった。《アルテンベルク歌曲集》(1911-12)、《3つの管弦楽曲》(1914-15)と同様の方向性を管弦楽で追求し、師の反応は相変わらず芳しくなかったが、1914年にビュヒナー『ヴォイツェック(Woyzeck)』の舞台に接し、彼の運命は大きく変わる。

 この演劇をオペラ化するには自分の音楽が最適だと確信したベルクは、自ら台本を書いて早速作曲を始めた。《ヴォツェック(Wozzeck)》というタイトルになったのは単なる誤記らしいが、気付いても修正しなかったのでその方が好みだったようだ。上演のあてもなくグランドオペラを書き始める(しかも管弦楽曲の作曲経験は《アルテンベルク歌曲集》のみ、合唱曲の作曲経験もない状態で)のは常軌を逸しているが、書かずにいられなかったのだろう。第一次世界大戦中も出征中以外は作曲を続け、1922年に完成した。今度は協奏曲を書いてみてはどうかという師の助言に従って、ヴァイオリン、ピアノ、13管楽器のための室内協奏曲(1923-25)に取り組む。シェーンベルクは1921年に12音技法を開発し、ベルクも弟子たちへの講義に参加したがこの曲では採用せず、新ウィーン楽派の3人の名前の音名表象を音列的に扱い、J.S.バッハのような数の表象も随所に取り入れた技巧的な書法で特徴付けられる。第2楽章後半が前半を完全に逆行させたものであることはその象徴として広く語られるが、この構造をまず作った上でそれにふさわしい音を前半で選んでいるわけで、「極微なる移行」と大域構造を並行して構想し、両者を擦り合わせるのが彼の作曲だった。グランドオペラという大舞台はこの資質を活かすこの上ない舞台であり、《ヴォツェック》は終生の代表作になるべくしてなった。このような作曲スタイルは、霊感に身を委ねて一気呵成に書き上げる師のようなスタイルよりもはるかに時間を要し、寡作は運命付けられていた。室内協奏曲も、当初は師の50歳の誕生日プレゼントとして構想されたが、結局1年余分に要している(40歳の誕生日プレゼントとして構想された《3つの管弦楽曲》と同じパターン)。

POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14053124.jpg
 指揮者ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)は晩年にクセナキスの才能を見出し、名声を得るまでプロモートし続けたことで知られるが、新ウィーン楽派とも深く関わった。ベルクに関しては室内協奏曲の初演の他、《ヴォツェック》のプロモーションのために抜粋編曲を提案し、《ヴォツェックからの3つの断章》を初演している。その甲斐あって、《ヴォツェック》はベルリン国立歌劇場音楽監督エーリッヒ・クライバー(1890-1956)の目に留まり、1925年12月に初演されることになった。E.クライバーは1923年に着任後、《ヴォツェック》の前にヤナーチェク《イェヌーファ》のドイツ初演とクシェネックの最初のオペラの初演を行っており、新レパートリー開拓には積極的だった。137回のリハーサル(ただし話を盛るために分奏も合算した数字で、オーケストラ練習とアンサンブル練習を合わせると50回弱)を経た初演は賛否半ばするスキャンダルになったが、これは実験的な新作としてはこの上ない成功で、程なく独墺の歌劇場で相次いで上演され、数年後には東欧や英米でも初演されて、R.シュトラウスやプッチーニのような同時代のスタンダード・レパートリーに加わった。リハーサル回数の多さは、もっぱらこの作品の難解さ・演奏困難さを伝えるエピソードとされてきたが、ベルリン国立歌劇場よりも演奏技術・新作演奏経験とも下回る場でも数多く上演されてきたからこそスタンダードたり得ているわけで、初演者が作品の重要性を共有し、それにふさわしい舞台に仕上げようとしたことを示すものと捉えるべきだろう。非人間的な社会システムによる人間疎外という現代的なテーマと痴情のもつれの刃傷沙汰という伝統的なテーマを組み合わせ、全3幕の各場面を性格小品集・交響曲・インヴェンション集の1曲ないし1楽章に割り当てた構成も、演奏家にとっても聴衆にとっても敷居を下げている。このように、一見後期ロマン派/表現主義的な題材を客観的に突き放して(すなわち非ロマン主義的に)扱える資質を「新古典主義的」と呼んでいるのであり、「古典的形式を援用しているから新古典主義的」という水準のナイーヴな議論ではない。

 《ヴォツェック》が国際的な話題作となり、一過性ではないレパートリーとして定着したことは、ベルクとは全く作風の異なる20世紀を代表するオペラ作曲家たちの反応からも窺える。シェーンベルクの作曲姿勢には懐疑的だったヤナーチェクも《ヴォツェック》は絶賛し、ガーシュウィンは《ポーギーとベス》を作曲する際にこのオペラをモデルにした。こうしてベルクは継続的な印税収入で安定した生活を送れるようになった。すると若き日々の享楽的な生活が戻ってくる。15歳で父を亡くすと17歳の時には女中との間に子供が生まれており、19歳の時に兄が彼をシェーンベルクのもとに連れてきたのは、厳しい教師のもとで生活を立て直させる方が目的だったのかもしれない。1906年にはウィーン国立音楽院に入学したが、早速同い年で声楽を学ぶヘレーネ・ナホフスキを口説いて付き合い始め、1911年には先方の両親の反対を押し切って結婚した。彼女の実家が裕福なのは母が皇帝の愛人で、へレーネと弟は皇帝の庶子だったからで、別れた後も格別の口止め料が支払われていた。寡作で生業を持たなくても生活に困らなかったのは妻の実家の援助のおかげで、私生活ではおとなしくしていたが、収入面での気後れがなくなれば元に戻る。《ヴォツェック》の初演が決まった頃、彼はひとまわり年下の人妻ハンナ・フックスと出会い、深い関係になった。弦楽四重奏のための《抒情組曲》(1925-26)では、室内協奏曲と同様の音名表象をハンナと自分の名前で行っている。この曲の一部の楽章では12音技法が用いられており(タイトルの由来である、ツェムリンスキー《抒情交響曲》(1922-23)の引用を行うために自由な無調と併用)、彼が最初に12音技法を用いた歌曲《私の両眼を閉じてください》(1925)の総音程音列(短2度から長7度までの全音程を含む)が流用されている。全音程を含むということは協和音程も一通り含まれているということで、無調と調性の混淆は音列自体に組み込まれている。室内協奏曲に始まる遊戯的な性格をこの曲も受け継いでおり、ふたつの弦楽四重奏曲を続けて聴くと、ベルクの作風の変化を追体験できるだろう。

POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14053917.jpg
 ベルクはヴェーデキントのルル連作第二部『パンドラの箱』の舞台のウィーン初演(1905)に接しているが、第一部『地霊』と合わせたオペラ化に至るには《ヴォツェック》や室内協奏曲の経験が必要だった。『地霊』と『パンドラの箱』の間のエピソードを無声映画として挿入し、前半でルルが死に追いやった3人の夫は第3幕で娼婦に落ちぶれたルルの客として再登場し、ルルに射殺されたシェーン博士は切り裂きジャックとしてルルを刺殺する、鏡像形の台本を自ら書き上げて作曲を始めた。基本的に12音技法に基づいているが、基本音列から主要登場人物の音列を派生させてライトモティーフ的に用いる、室内協奏曲の音名表象の扱いに通じる独自の書法である。第2幕中央の無声映画の場面の前後で音楽が逆行する構成も室内協奏曲第2楽章を踏襲している。他方、随所で《ヴォツェック》の自己引用も行っており、この2作を核にして創作歴の集大成を図った作品とみなせる。《ヴォツェック》の名声の絶頂で作曲を始めたが、作曲終盤にナチスがドイツの政権を掌握し、初演の見通しは立たなくなった。1934年にはプロモーションのために《ルル組曲》をまとめたが、ヒンデミット事件でフルトヴェングラーがベルリンフィル常任指揮者を解任された直後の同年11月末にE.クライバーは組曲の初演を強行し、その4日後にベルリン国立歌劇場音楽監督を辞してドイツを去った。政権も両輪を欠いた状態ではベルリンの音楽界は保たないと判断し、フルトヴェングラーの解任を取り消している。ベルクはE.クライバーの《ヴォツェック》解釈を別格視していたというが、その強い思いを伝える逸話である。

 1935年2月、彼は米国のヴァイオリン奏者ルイス・クラスナーから協奏曲の委嘱を受け、しばらくは《ルル》の作曲を優先していたが、同年4月にアルマ・マーラーとバウハウスを創立した建築家ヴァルター・グロピウスの娘マノン(アルマの浮気が原因でふたりは1920年に離婚)が18歳で亡くなると、追悼曲として完成を急いだ(独墺圏で演奏が禁止されて家計は急速に悪化しており、これで委嘱料を優先する気持ちの整理がついた)。ベルク夫妻には子供がなく、マノンを娘のように可愛がっていた。ヴァイオリン協奏曲の基礎音列はきわめて調性的で、最初の9音は短三和音と長三和音の交替、最後の4音は全音音階を構成する。最初の4和音の根音はヴァイオリンの開放弦に相当し、曲もそこから始まる。第1楽章はマノンの肖像、第2楽章は闘病と死による浄化というプログラム音楽として進行し、基礎音列最後の4音で始まるコラール〈もう十分です〉が現れるJ.S.バッハのカンタータ第60番の該当箇所を安らかな死の象徴として引用している。この基本構造を決めた後は直線的に書き進め、同年8月に完成した。彼の作品を特徴付ける、細部と全体を往復する中から生まれる複雑な構造は持たないが、むしろそのおかげで随一の人気曲になった。彼は《ルル》の作曲を再開したが、ヴァイオリン協奏曲作曲中から体調は思わしくなく、同年11月には背中の虫刺されに由来するできものが悪化し、翌月には敗血症で世を去った。《ルル組曲》は同年12月にウィーンでオーストリア初演されており、死の直前のベルクも臨席している。《ルル》は第2幕まで完成し、第3幕は冒頭268小節の後はショートスコアとして、組曲に現れる間奏曲と第2場終結部を完成見本とする形で残された。シェーンベルクが補筆依頼を断った後はへレーネ未亡人は補筆を禁じ、第2幕までと組曲の第3幕相当部分を組み合わせた上演が定着していたが、出版元のウニヴェルザール社は秘密裏に作業を進めてオーストリアの作曲家ツェルハが1963年から補筆を始め、1976年に未亡人が亡くなると補筆作業の進捗を公表し、1979年に全3幕版がブーレーズの指揮で初演された。

 ベルクの音楽を「新古典主義的」と表現するのが適切かどうかは自明ではない。少なくとも彼の音楽は、ストラヴィンスキーともフランス六人組とも、ヒンデミットやオルフとも明確に異質である。だがそれは、後期ロマン派的な素材という厄介なものを対象にした結果だろう。ストラヴィンスキーがチャイコフスキーを素材にした作品は軒並み悲惨で、歴史的な「新古典主義」にとってロマン派は鬼門である。ベルクの成功は、無調という方向性や12音技法という手段を活用できたことに多くを依っている。そもそも新古典主義は、対象とする素材をより広いパレットの中に置いて異化することが基本である。バロック音楽や古典派が素材ならばロマン派以降の拡張された和声や複調程度で足りるが、後期ロマン派を素材にする場合は、無調までパレットを広げる必要があった。無調は調性を否定するものではなく、12音技法は調性を消すための手段でもない。無調は調性を一部分として含む拡張された概念であり、セリー技法は素材を組織化する一手法であって無調とは関係がない(12音技法はオクターブ内の12音を均等に扱うことが前提なので、平均律ベースの無調と無関係ではないが)。ベルクが調性的な素材に向き合う姿勢はそのようなことを教えてくれる。むしろ彼の音楽を「新古典主義的」と捉えてその概念を拡張すると、その先には豊かな未来が広がっている。彼にならって対象を後期ロマン派に限る必要はなく、対象はいくらでも広げられるのだから。ただしその対象の「外の世界」も知っている必要はあるが。このような新古典主義的アプローチの限界も既に知られており、異化が異化として機能しなくなった時が終わりだということだが、ベルクの場合はそこに組織化の装置も取り込んでおり、さらに先まで行けるはずだ。



POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14002709.jpg


POC第53回公演「暴(あら)ぶるアルバン・ベルク」 (2024/12/03 update)_c0050810_14004080.jpg

# by ooi_piano | 2024-11-30 06:50 | POC2024 | Comments(0)


Hiroaki Ooi Matinékoncertek
Liszt Ferenc nyomában, látomásai és vívódásai

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)

後援 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) []

チラシ 



【第2回公演】2024年11月10日(日) 15時開演(14時45分開場)

演奏会用大独奏曲 S.176 (1849) 18分
 Allegro energico / Grandioso - Andante sostenuto - Allegro agitato assai - Andante, quasi marziale funebre / Allegro con bravura

ハンガリー狂詩曲第2番 S.244-2 (1847) 10分
 Lento e capriccio - Lassan, Andante mesto - Friska, Vivace

マイアベーア《ユグノー教徒》の主題による大幻想曲 S.412 (1836/1842、第2版) 16分
  ラウルとヴァランティーヌの二重唱「ああ!どこへ行かれるのですか? Ô ciel! où courez-vous ?」(第4幕) - コラール「神は我がやぐら Ein feste Burg ist unser Gott」

 ---
スペインの歌による演奏会用大幻想曲 S.253 (1845) 14分
  ファンダンゴ - カチューチャ(19世紀アンダルシア地方のボレロ) - アラゴンのホタ

バラード第2番 S.170a (1853、初稿) 14分

死の舞踏 S.525 (1853/65) [作曲者編独奏版] 16分
  序奏 - グレゴリオ聖歌「怒りの日」主題 - 変奏1 Allegro moderato - 変奏2 L'istesso tempo - 変奏3 Molto vivace - 変奏4 (Canonique) Lento - 変奏5 (Fugato) Vivace - Cadenza - 変奏6 Sempre allegro, ma non troppo

 ---
ドニゼッティ《ルクレツィア・ボルジア》の回想 S.400 (1840) 23分
  I. アルフォンソ公、ルクレツィア、ジェンナーロの三重唱「侯爵夫人の嘆願により Della Duchessa ai prieghi」(第1幕終曲) - II. オルシーニ「幸せになる秘訣は(乾杯の歌) Il segreto per esser fellici」 / ルクレツィアとジェンナーロの二重唱「ああ、あなたのお母様を愛して Ama tua madre」 / 終結部

半音階的大ギャロップ S.219 (1838) 3分

モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》の回想 S.418 (1841) 16分
  石像「貴様の笑いも夜明けまでには終わろうぞ」「もはや必要ないのだ、人間の食べ物は」(第2幕) - ジョヴァンニとツェルリーナの二重唱「お手をどうぞ」(第1幕) - 石像「お前はわしを夕食に招いた」(第2幕) - 「シャンパンの歌」(第1幕)

[使用エディション:新リスト全集 (1972/2019、ミュジカ・ブダペシュト社)]



リストとフランスオペラ――山村雅治

1

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20112812.jpg
 1885年6月20日土曜日、ヴァイマールにおいてリストは8人の弟子のピアノ・レッスンをした。ブルメスターが弾くマイアベーアのオペラ《悪魔のロベールの回想》(リスト編曲、S.413)について、リストは改善すべき点や変えるべき点をいくつか挙げた。揺れ動くワルツの部分は、少し気取りながら、いたってクールな感じで弾くべきとのこと。313小節で2つのテーマが同時に現れるが、この箇所について、以前にパリでこれを弾いたときのエピソードを引き合いに出した。10回も拍手で演奏を中断させられたそうだ。「30年前は、まったく新しい、聞いたこともないような音楽だったんだよ」とリストはいった。そしてほとんどのパッセージを弾いてみせた。

 リストの高弟アウグスト・ゲレリヒは1884年5月31日のヴァイマールから、ローマ、ブタペストを経て、再びヴァイマール1886年6月26日までの弟子たちへのレッスンの記録を詳細に書き留めている。採りあげられた曲は師リストの作品だけではなく、ショパン、シューマン、バッハ、ベートーヴェンなどピアニストがレパートリーに持つ曲が並んでいるが、もちろんリストの曲が多く、リストが編曲した作品も弟子たちは好んで演奏した。

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20113697.jpg
 オペラに限って挙げれば、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》、ヴァーグナー《さまよえるオランダ人》《ワルキューレ》《タンホイザー》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《トリスタンとイゾルデ》《パルジファル》、オーベール《ボルティナの物言わぬ娘》、マイアベーア《アフリカの女》《悪魔のロベール》《ユグノー教徒》《預言者》、ベッリーニ《夢遊病の女》《ノルマ》、ドニゼッティ《ルチア》《バリジーナ》《ルクレツィア・ボルジア》、ベルリオーズ《ベンヴェヌート・チェッリーニ》《ファウストの劫罰》、ヴェルディ《トロヴァトーレ》《エルナーニ》《リゴレット》、グノー《ロメオとジュリエット》。リストが書いたオペラ編曲作品は、もちろんこれらだけではない。

 リストはまぎれもなくオペラを愛していた。「30年前は、まったく新しい、聞いたこともないような音楽だったんだよ」と明かしたマイアベーアの音楽に新しい音楽を切り拓こうとしていたリストは魅せられた。「30年前」とは1855年前後の月日をいうのだろう。マイアベーアは1791年に生まれて1864年に没したオペラ作曲家で、イタリア歌劇もドイツ歌劇も消化してフランスのグランド・オペラの様式を確立した。ヴァーグナーにも影響を与えている。《悪魔のロベール》は1831年、《ユグノー教徒》は1836年、《預言者》は1849年の作品で、1849年といえばリストがヴァイマールで2月16日にヴァーグナーの歌劇《タンホイザー》を上演した。1850年には《ローエングリン》の世界初演をリストがした。
 リストがヴァーグナーに出会ったのは1840年代の初めにパリでだったと伝えられる。以来、互いの作品の楽譜を贈りあったり、直接に考えることをぶつけあったりして二人は近づいた。


2

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20114391.jpg
 1811年10月22日、フランツ・リストはハンガリーの寒村ドボルヤーンで生まれた。6歳で父親からピアノの手ほどきを受け、すぐに才能を輝かせた。デビュー演奏会は9歳になったばかりの1820年秋。11月にはブラティスラヴァで演奏会を開いて6人の貴族からの奨学金を得た。1822年、リスト一家はウィーンへ引っ越し、リストはピアノをチェルニーに、作曲理論をサリエリに無料で学んだ。
 そしてリスト一家は1823年12月11日にパリに到着した。紹介状を携えてケルビーニに会った。フランツをパリ音楽院に入学させるためだった。院長だったケルビーニの答えは拒否。後年リストは書いている。
「私の音楽院への入学許可にはいくらか障害があるだろうとは予期していましたが、授業に外国人が参加することを禁じる規則があるとは、そのときまで知りませんでした。私の涙と嘆きはとどまるところを知りませんでした」。

 12歳のリストは個人指導で音楽の勉強を続けることになった。作曲をパエールに、音楽理論をレイハに。ピアニストとしては活躍を続ける。貴族や王族の前でも、サロンで私的に演奏した回数はパリへ来た翌年3月までに36回。パリでの公開デビューコンサートは3月7日にイタリア劇場で開かれて大成功だった。それを受けてリストはさらにパリで音楽家として成功するにはオペラを書くことが求められた。
 リストが完成させた唯一のオペラ《ドン・サンシュ、あるいは愛の館》は13歳の作品。リストによれば「ほかの誰でもなく、作曲の先生パエールがかなり私を助けてくれた」。

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20115181.jpg
 イギリスにも渡った。3度目のイギリスツアーの1827年8月28日、父親が腸チフスで急死した。15歳のリストは母を抱えながら一家の生計を立てなくてはいけなくなった。定期的な収入を確保するためにパリでピアノ教師として生活していくことになった。
 19世紀のヨーロッパには時代を変える風が吹き荒れていた。7月革命で復古王政を打倒したフランスは1830年以後、ヨーロッパでもっとも自由な活気に満ちた年だった。ドイツやポーランドの政治亡命者たちがなだれ込み、芸術家たちもパリにあつまった。ハイネ、ミツキエヴィチ、ショパンもそのなかにいた。私的なサロン文化が盛んになり、ショパンとリストは寵児だった。
 
 劇場に進出した外国からの音楽家も枚挙にいとまがない。パリ音楽院院長のケルビーニがそうだったし、ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、マイアベーア、オッフェンバック、ヴァーグナーのオペラに若いリストは胸をときめかせて見入っただろう。


3

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20115814.jpg
 1830年12月4日、リストは《幻想交響曲》初演前夜にベルリオーズに会った。19歳のリストと27歳のベルリオーズの出会いは、ゲーテの《ファウスト》を通じて同じ書物に情熱を抱き、その後互いに鮮烈な共感を抱き固く結ばれた。《幻想交響曲》の初演ではリストは会場の熱狂を最高潮に盛り上げた。ベルリオーズは三度目の挑戦でローマ賞を得て3年の留学ののちパリへ戻った。しかし1832年12月の《幻想交響曲》と続編《レリオあるいは生への回帰》上演は失敗した。リストは自分のピアニストとしての目覚ましい成功がベルリオーズを助けられると考え、それを自分の義務でもあるとした。
 1834年、リストは《幻想交響曲》のピアノ版を完成させ出版した。その楽譜でシューマンはベルリオーズを知った。その後も《レリオ》に基づく幻想曲を書き、その後もベルリオーズの作品には献身的といえるほどにピアノ版をつくりつづけた。

 しかし、ベルリオーズはリストのような人種的な排斥ではなく、書法の過激さにおいてパリ音楽院から除け者にされていた。パリ音楽院のアカデミズムの書法に則った音楽もベルリオーズはその気になれば書けた。《キリストの幼時》は彼らも認める美しい音楽だった。ベルリオーズはそれだけではものたりず冒険をかさねていった。オペラを書いてパリ・オペラ座で成功させたい。それがベルリオーズの宿願であるにもかかわらず、1838年オペラ座での《ベンヴェヌート・チェッリーニ》は惨憺たる失敗に終わった。リストがフランス・オペラの分厚い「壁」を感じたのはそのときだったかもしれない。リストはベルリオーズを世に認めさせるためにはどんなに面倒なことでも厭わなかった。ベルリオーズの晩年の大作《トロイアの人びと》もヴァイマールで上演にこぎつけている。存命中にはついにオペラ座ではついに上演されなかった執念の作品だった。

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20120512.jpg
 《ベンヴェヌート・チェッリーニ》の不評は「フランスの舞台作品の伝統にしたがって」オペラにおいても台本がまず重要視された。音楽は脆弱な詩を支えることはできない、と切って捨てられた。リストは不成功の知らせをきいて友人のドゥニに書き送った。「かわいそうな友よ!運命は彼にとても邪険です!批判や無礼がどんなものであっても、ベルリオーズはフランス音楽界のもっとも強靭な頭の持ち主であることに変わりありません」。リストは充分にフランス・オペラを聴きこんでいた。その伝統とはどういうものだっただろう。

 フランス・オペラは、1643年即位した太陽王ルイ14世を中心に、ヴェルサイユ宮殿で貴族たちが華々しいバレエを踊り、豪華絢爛なオペラが上演されたことに始まる。ただし、それらはただの「娯楽」ではなかった。この宮殿は人々を魅了する「魔法の宮殿」でなくてはならない。魅了することが支配者にとって、秩序の完成にとって不可欠で、喜びを与える魔術には歌が必要であった。そのとき、どのような音楽が奏でられるべきなのか。フランス・バロック・オペラの形成過程は、この課題をめぐっての様々な模索であった。つねに政治の監視の目にさらされていたといえるだろう。

 「パリ・オペラ座」は作曲家ロベール・カンベールと組んで宮廷用オペラを作っていた詩人ピエール・ペランの請願が、ルイ14世に認められ、1669年に設立された。最終的に「王立音楽アカデミー」の音楽監督に就任し、オペラ上演の独占権を獲得したのは作曲家ジャン゠バティスト・リュリだった。王政を裏切らないオペラが書き継がれて、1789年のフランス革命を経て時代は進む。リストとベルリオーズが出会った1830年代にはマイアベーアが全盛だった。フランス・グランドオペラの様式の第一人者だった。
 フランス・グランドオペラは「大規模」なオペラ。歴史のできごとを扱った台本、数多くの登場人物、大規模なオーケストラ編成、豪華な舞台衣装、スペクタクル的な舞台効果などに加えて、多くの場合バレエを含む。


4

11月10日(日)《フランツ・リストの轍》第2回公演 [2024/10/28 update]_c0050810_20121279.jpg
 1860年、ヴァーグナー《タンホイザー》のパリ・オペラ座での上演が決定した。ドイツの作曲家として名誉なことだった。パリ上演にはバレエのための音楽が必要だったので、急遽書き加えることになった。ベルリオーズの落胆と嫉妬には想像するに余りある。最後の命運をかけた彼の《トロイアの人びと》は1858年の完成以来、上演のために奔走しても延期になり憔悴しきっていた。
 ヴァーグナーはベルリオーズに会い、リストにも会っていた。ベルリオーズとヴァーグナーは互いに相いれなかったが、当時のリストはヴァーグナーの音楽と理想に共感し、互いに認め合っていた。ヴァーグナーは「音楽、文学、舞踊、彫刻、絵画、建築などあらゆる種類の芸術がドラマの表現のために統一、融合されるべき」という総合芸術論を訴えていた。ベルリオーズはおもしろくなかった。その後、友情は破綻した。

 オペラをめぐって、リストはパリで二人の作曲家とともにあった。ベルリオーズもヴァーグナーもそのオペラは「フランス・グランドオペラ」とはいえなかった。リストが書いたオペラは13歳の時に書き上げた《ドン・サンシュ》と、もう一作、2017年に蘇演された《サルダナパラス》がある。ヴァイマールのアーカイブから草稿が発見された作品で、バイロンの戯曲がもとになっている。1849年にとりかかって未完のままになっていた。イタリア語だったから、「フランス・グランドオペラ」はおろか「フランスオペラ」にもならない。



# by ooi_piano | 2024-11-01 19:35 | コンサート情報 | Comments(0)

3/22(日)《ロベルト・シューマンの轍》第4回公演


by ooi_piano