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松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
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【ポック(POC)#51】2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉

●G.リゲティ(1923-2006):《練習曲第15番「白の上の白」》(1995) 3分
N.A.ロスラヴェツ(1881-1944):《3つの練習曲》(1914) 14分
  I. Affettamente - II. Pianissimo. Con dolce maniera - III. Burlando
■同:《ピアノソナタ第2番》(1916) 12分
  Moderato con moto, Allegro moderato - Lento - Moderato - Lento - Allegro moderato
A.V.スタンチンスキー(1888-1914):《ピアノソナタ第2番》(1912) 14分
  I. Fuga. Lento expressivo - II. Presto
S.Y.フェインベルク(1890-1962):《ピアノソナタ第3番 Op.3》 (1917) 25分
  I. Prelude - II. Funeral March: Lugubre e maestoso - III. Sonata: Allegro appassionato
●J.パウエル(1969- ):《茶トラ猫写本》(2023、委嘱初演) 10分

  (休憩10分)

S.S.プロコフィエフ(1891-1953):《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分
N.B.オブーホフ(1892-1954):《2つの喚起》(1916) 12分
  I. - II.
A.-V.ルリエー(1892-1966):《2つの詩曲 Op.8》(1912) 10分
  I.「飛翔」- II. 「蹣跚」
■同:《統合 Op.16》(1914) 8分
  I. Lent - II. Modérément animé - III. Vite (aigu) - IV. Assez vite, mais toujours mesuré - V. Mesuré
■同:《架空のフォルム》(1915) 9分
  I. - II. - III.
B.M.リャトシンスキー(1895-1968):《ピアノソナタ第1番 Op.13》(1924) 13分
  Concentrato e sostenuto - Poco più tranquillo - Pesante (Meno mosso) - Tempestoso - Lugubre - Maestoso pesante
A.V.モソロフ(1900-1973):《2つの夜想曲 Op.15》(1926) 7分
  I. Elegiaco, poco stentato - II. Adagio
■同:《交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 》(1927/2021) [米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演] 4分

3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]_c0050810_13101142.png
(上段左から)ロスラヴェツ/スタンチンスキー/フェインベルク/オブーホフ
(下段左から)ルリエー/リャトシンスキー/モソロフ


ジョナサン・パウエル Jonathan POWELL, composer
3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]_c0050810_03545377.png
  20歳でパーセルホールにデビューしたパウエルは、その後10年間、主に作曲活動(アルディッティ弦楽四重奏団、ロンドン・シンフォニエッタ、ニコラス・ホッジスが彼の作品を演奏している)と音楽学に専念する。ケンブリッジ大学でスクリャービンの後続世代への影響についての学位論文を執筆。その後、スラミタ・アロノフスキーにピアノを師事し、演奏活動に重点を置くようになる。ニューグローヴ音楽・音楽家辞典第2版に、スクリャービンをはじめとする様々なソ連・ロシアの作曲家に関する記事を寄稿した。フィニッシー、デュフール、アンブロジーニ、シュタウト他の多数の新作を初演している。
  カイホスルー・ソラブジ作品の最も熱烈な演奏者であり、《オプス・クラウィケンバリスティクム》の現在までの全曲演奏・計22回のうち10回はパウエルによるものである。2020年5月、ソラブジ《 「怒りの日」によるセクエンツィア・シクリカ》の7枚組CD(8時間半)でドイツ・レコード批評家賞を受賞した。近年では、カトヴィツェ、ブルノ、オックスフォード、ロンドン、デンマーク、シアトル、ダルムシュタット等でマスタークラスを開催している。





ロシア・アヴァンギャルド音楽に関するメモ――野々村 禎彦

3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]_c0050810_13141053.jpg
 19世紀末の美学が一段落した20世紀初頭、世界各国(とは言ってもヨーロッパとその文化的影響下にある一部の国々だけだが)で同時多発的に芸術の前衛運動が起こった。ロシア・アヴァンギャルドはそのロシア版であるが、特殊な点がいくつかある。まず、運動の発展期にロシア革命が起こったこと。他国の前衛運動も第一次世界大戦に大きく阻害されたが、大戦は数年で終結し、その結果生じた政治体制の変化は総じて運動の追い風になったのに対し、ロシア革命から生まれたソ連は運動に干渉し続け、最終的には運動を葬った。次に、運動の前段階にあたる象徴主義・原始主義・未来派などの諸傾向が、他国では19世紀後半から数世代かけて進行したのに対し、ロシアではこれらが20世紀初頭の数年間に集約され、一世代で完結したこと。最後に、他国の前衛運動はインターナショナルな性格が強かったのに対し、ロシアではヨーロッパの動向は意識しつつも、自国の固有性への拘りが強かったこと。これらの特徴は、ロシア・アヴァンギャルドの各ジャンルの温度差に繋がった。本稿では、まずそのあたりを眺めてゆく。

 芸術の前衛運動は伝統を否定して新たな芸術を創造しようとするものであり、ロシア革命本来の理念との相性は悪くなさそうに思える。多くのジャンルの芸術家たちはそう考えて革命を歓迎し、レーニン時代のソ連共産党もこの運動を擁護した。その時期に国際的に目覚ましい成果を挙げたのが美術だが、これは人的交流にも現れている。モスクワで生まれたワシリー・カンディンスキー(1866-1944) は、1896年にドイツに移住して絵画を学んだ。当初は象徴主義的な作風だったが、年代とともに風景画の輪郭線が曖昧になる一方で色彩は華やかになってゆき、やがて地平線が消えてナメクジのような不定形の形象が現れ(この無意識下での変化を自覚して『即興』シリーズを開始)、1910年には抽象に移行した(創作の中心にあたる『構成』シリーズを開始)。1911年には芸術家集団「青騎士」を結成し、抽象絵画の創始者として国際的に認知された。第一次世界大戦を避けてモスクワに戻り、ソ連成立後は教育人民委員を務めた。マルク・シャガール(1887-1985) は、ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ・ヴィーチェブスク)で育って美術を学び、1910年にパリに移住して幻想的な作風で人気画家になった。第一次世界大戦を避けてヴィテブスクに戻り、ソ連成立後は同地で美術学校を始めた。作風的にはおよそ相性が良くなさそうなシャガールもソ連に残って運動に貢献しようとするほど、美術ではロシア・アヴァンギャルドは期待されていた。

3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]_c0050810_13141915.jpg
 近代芸術を特徴付ける諸傾向が一時期に圧縮されると、それに乗って爆発的に開花する才能が現れる。美術ではカジミール・マレーヴィチ(1879-1935) がそうだった。ロシア領キエフ(現ウクライナ・キーウ)に生まれ、モスクワで美術を学んだ彼は、ロシア・アヴァンギャルド以前の作品は全く知られていないが、1910年代初頭にまず農民を題材にした原始主義絵画で頭角を現し、次いでこの題材をキュビズムで処理し、さらにそこに未来派の題材を合流させた立体未来派を提唱し…とほぼ1年ごとに新たなコンセプトを打ち出し、しかし以前のコンセプトでも創作を続け、ロシア近代美術の諸潮流の結節点として自らを進化させてゆく。そして1915年に提唱した絶対主義(シュプレマティズム)では、抽象化を徹底させて『黒い正方形』(1915) や『白の上の白』(1918) に代表される、1960年代以降の色面抽象絵画の最も禁欲的な部分を半世紀近く前に先取りした境地に達した。20世紀前半の抽象絵画の大物としてはカンディンスキーの他にピート・モンドリアンやパウル・クレーが挙げられるが、この時期のマレーヴィチの徹底度には誰も及ばない。

 ヴィテブスクで美術学校を始めたシャガールは、ロシア・アヴァンギャルドの美術作家たちを講師として招き、その中にはマレーヴィチもいた。すると数ヶ月後には、シャガールに心酔していた学生たちもみなマレーヴィチ流の作風に宗旨替えしてしまった。シャガールは美術学校を1922年まで続けたが、もはやソ連では自分の作風は求められていないと見切りをつけ、1923年からはパリで活動を再開した。カンディンスキーが大戦終結後もソ連に残ったのは、抽象移行後の作風が飽和して新たな方向性を模索していたことに加え、「芸術先進国」の前衛運動を牽引してきた経験を祖国の後進に伝えたいという思いもあった。だがカンディンスキーは、少なくとも美術ではソ連の方が先を行っており、その最先端には自分も付いていけないことに気付いた。ただしマレーヴィチは、『シュプレマティズム』をタイトルに含むシリーズでは、カラフルな四角形・三角形・円・直線などをデザイン的に組み合わせ、シュプレマティズムの代表作よりは幾分親しみやすい方向性を打ち出していた。これは、工業製品のような単純な形象を組み合わせて創作を行う、「構成主義」と総称される傾向との相互浸透から派生したスタイルであり、バウハウスの教授に招聘されて1922年にドイツに戻ったカンディンスキーは、この方向性を自己流にアレンジして新たな創作を始め、講義でも最新の芸術動向として紹介したロシア構成主義は、その後のバウハウスの基盤になった。

3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]_c0050810_13142997.jpg
 ヴィテブスクに大勢現れたマレーヴィチのエピゴーネンたちは、結局誰も画家にはならず、その経験を工業デザインなどに生かした。カンディンスキーでも付いていけなかったものを一般人が身に付けられるはずもなく、同じことはキエフの美術学校やモスクワのヴフテマス(国立高等美術工芸工房)でも繰り返された。スターリンがソ連共産党の指導者になり、ロシア・アヴァンギャルドへの風当たりが強まると、ロシア構成主義の成果を工業デザインなどに応用する生産主義に向かう者が増えたが、マレーヴィチはこの方向性には向かわず、初期の農民画に回帰した。マレーヴィチの凄さは、この方向転換が生き残りのための妥協にはならず作品の強度は落ちなかったことで、一度覚醒した才能には様式は副次的なものなのだと感じさせられる。

 以上、ロシア・アヴァンギャルド美術の動向をマレーヴィチを中心に駆け足で振り返ったが、ロシア・アヴァンギャルド音楽では事情が異なる。まず、クラシック音楽の基盤は伝統的レパートリーの演奏による再現であり、それらは教会~王侯貴族~ブルジョアジーのために書かれた作品ばかりで、文学のように虐げられた民衆の苦悩に寄り添ってきたわけではない。新作では伝統を否定しているとはいっても言い訳でしかなく、ロシア革命との相性は最悪。ジャンルごと抹消されてもおかしくない。多くの演奏家たちはそう考え、海外でも生計を立てられる技術と実績を持っている者は我れ先に亡命した。実際にはロシア・アヴァンギャルド音楽すら美術と同じ理屈で擁護されたわけだが、それは砂上の楼閣に過ぎないと亡命し損ねた人々は考え、前衛運動を生贄にして安寧を図ろうとした。ブルジョアジーの断末魔の悲鳴を自ら葬るくらい、我々は革命精神を理解しているというわけだ。ニコライ・ロスラヴェツ(1881-1944) は前衛音楽振興のためにソ連現代音楽協会(ACM) を1923年に設立したが、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM) も同年に設立され、ACMの「ブルジョア的」な「形式主義」の非難を活動の主目的とした。芸術家同士で足を引っ張る音楽に特有の構造には、このような背景がある。スターリン時代のソ連共産党はRAPMの主張を汲む形で1932年にすべての作曲家組織を解散させ、ソ連作曲家同盟に一元化した。

3/17(金)〈ロシア・アヴァンギャルド類聚〉[2023/03/07 update]_c0050810_13144091.jpg
 マレーヴィチのように爆発的に開花した才能は、同世代の音楽にも存在した。言うまでもなく、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) である。彼はロシア国内ではなくパリで才能を開花させ、第一次世界大戦に際してもスイスに逃れてロシアには戻らなかった。芸術は統計的には例外的な特異点に過ぎない突出した才能が総取りする分野であり、ロシア・アヴァンギャルド美術と音楽の最大の違いはこれに尽きるのかもしれない。この時期ではストラヴィンスキーに次ぐ才能であるセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953) も、活動初期にはロシア・アヴァンギャルドに関わったが、幅広いレパートリーを持つピアニストでもあったため、1918年には日本を経て米国に亡命した。ただし米国社会とは水が合わず、1920年にはパリに移っている。

 今回取り上げる作曲家にも、亡命組は少なくない。ニコライ・オブーホフ(1892-1954) はロシア革命直後の1918年にパリに、アルトゥール・ルリエー(1892-1966) も1921年にベルリンに亡命し、翌年からパリに定住した。彼らが亡命後も本領を発揮できていれば、ロシア・アヴァンギャルド音楽の成果であることに変わりはないが、ここで固有性への拘りが問題になってくる。彼らの霊感は自国の外では発揮されないのである。オブーホフの場合は作曲家として知名度が足らず、肉体労働で日銭を稼ぐ必要があったこともあるが、ルリエーはストラヴィンスキーとの交流を通じて新古典主義に転じてからは、ロシア時代の奔放さが影を潜めてしまった。プロコフィエフも亡命後は作曲ペースが落ち、1927年の一時帰国後は帰国を繰り返してソ連からの作品委嘱も受けるようになり(むしろソ連とヨーロッパの親善大使のような役割を果たし)、結局1936年以降はモスクワに定住することになる。亡命組で亡命後も一定の成果を挙げたのはイワン・ヴィシネグラツキー(1893-1979) だけかもしれない。後期スクリャービンの強い影響下にロシア・アヴァンギャルドに加わったが、微分音程の組織的探求を通じて固有性の問題を乗り越えた。ただし微分音に対応した楽器が必要なため、今回の選曲には含まれない。

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 このような背景もあり、今回の大井セレクションは、ロシア革命以前の作品が中心になっている。作風的には後期スクリャービンの延長線上にある作品が多く、「無調」的な音響をスクリャービンの神秘和音に代わるどのような音組織で得るかが個性のポイントになっている。以下は個々の作曲家への簡単なコメントである(プロコフィエフの知名度は飛び抜けているので省略)。

 ロスラヴェツは駅員などを経てモスクワ音楽院に1902年に入学し、1912年に修了した。苦学したため運動関係者の中では年長なこともあり、ACM代表や運動のスポークスマンを務めた。彼をシェーンベルクに喩えた紹介が多いのはこのような役回りに加え、後期スクリャービンに倣った作曲家たちの中では構築感が強いことも理由だろう。ACM設立後はRAPMによる批判の矢面に立たされて消耗し、作風は穏当なものになってゆく。1930年には公職を追放されて自己批判を強いられ、ACM解散後はソ連作曲家同盟加入も認められず、不遇なまま亡くなった。アレクセイ・スタンチンスキー(1888-1914) はモスクワ音楽院でタネーエフに作曲を学び、将来を嘱望されていたが、父の死に接して精神の平衡を崩し、若くして事故死した。良き理解者であるサムイル・フェインベルク(1890-1962) 同様、中期スクリャービン風の濃密な書法から出発したが、ムソルグスキーの影響で平明な全音階書法に移行して個性を確立した。フェインベルクはソ連を代表するピアニストのひとりで、J.S.バッハとスクリャービンを特に得意としていた。作曲家としての作風はピアニストとしての得意レパートリーに由来し、中期スクリャービンを伝統的な対位法で書き直したかのようである。

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 モスクワ音楽院とペテルブルク音楽院で作曲を学んだオブーホフは後期スクリャービンから出発し、スクリャービン以上の神秘主義者になった。オクターブの12音を均等に出現させる独自のシステム、「音響十字架」というテルミンのような電子楽器の制作、宗教的法悦を表現する非声楽的な発声(叫び、囁き、呻き、口笛等)の探求…そして作曲家人生の大半の時間は《人生の書》という2000ページを超える大作(個人的信仰の対象であり、演奏可能性は副次的と割り切っている)に費やされた。ペテルブルク音楽院でグラズノフに作曲を学んだルリエーも後期スクリャービンから出発し、ロシア時代はさまざまな書法を試みた。今回の選曲では《2つの詩曲》(1912) が原型・《統合》(1914) がオクターブの12音を均等に出現させるシステムの試み・《架空のフォルム》(1915) が小節線も拍節も持たない多くの断片から奏者が音楽を組み立てる試みである。アカデミックな評価を受けて民衆教育省音楽部門人民委員を務めたが、公務に従事するうちにソ連の実態に失望し、ベルリン出張の機会に亡命した。

 ボリス・リャトシンスキー(1895-1968) はキエフ(現キーウ)音楽院でグリエールに作曲を学び、ロシア国民楽派の伝統から出発したが、ヨーロッパ前衛の語法を取り入れてロシア・アヴァンギャルドに加わった。社会主義リアリズムの時代を生き延びてソ連国家賞も3回受賞できたのは、初期スクリャービンの無調化という迂遠なスタイルを採用した分、後期スクリャービンから出発した先人たちとは違って巻き戻しが容易だったのだろう。弟子にはヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-) がおり、ある意味師と同じ道を歩んでいる。アレクサンドル・モソロフ(1900-73) はロシア革命に従軍し、モスクワ音楽院に入学してグリエールとミャスコフスキーに作曲を学んだ。徹底したオスティナートに彩られた《鉄工場》(1928) は、同年から始まる第一次五カ年計画で重工業推進に舵を切ったソ連を象徴する音楽として国際的に広く知られるが、ソ連当局はこの暴力的な作風には否定的で、濡れ衣の罪状で白海運河建設の強制労働に送り込まれた。社会主義リアリズムの時代を代表する師ふたりの奔走で辛うじて生還できたが、その後は不遇なまま亡くなった。

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 ロシア・アヴァンギャルド音楽の作曲家たちの運命を眺めていると鬱々としてくるが、他ジャンルには生前から脚光を浴びた芸術家も少なくない。ロシア未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1930) は1923年に芸術左翼戦線(LEF) を結成し、詩・文学・美術・映画にまたがる交流を生んだ。若くして自殺したが、葬儀にはレーニンに匹敵する15万人が参列し、モスクワの凱旋広場はマヤコフスキー広場と改称された。ただし生前の彼は秘密警察に常時監視されており、自殺の背景にはロシア・プロレタリア作家協会(RAPP) の激しい中傷があった。RAPPは1925年に結成されたが、このような対抗組織を作る手法はACMに対するRAPMが悪しき先例となっている。LEFにはセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948) も参加しており、彼への生前からの国際的評価は周知の通り。また映画界からはジガ・ヴェルトフ(1896-1954) も参加しており、『カメラを持った男』(1929) のような尖鋭的な作品がロシア・アヴァンギャルド末期にも作られていた。おそらく、ロシア・アヴァンギャルドは音楽には早すぎたのだろう。その精神が十分な形で音楽に反映されるには、ロシア・フォルマリズム~構造主義~《構造》(ブーレーズ)、ロシア構成主義~バウハウス~『形式化された音楽』(クセナキス)という壮大な迂回路を経る必要があったのかもしれない。


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[cf.] 連続リサイタル《をろしや夢寤 Сны о России》
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【演奏動画】
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〇チャイコフスキー:《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版]  交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版]  歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版) 《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873) 《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876) 《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版] 《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版] 《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]
〇A.アレクサンドロフ:《ボリシェヴィキ党歌》(1938)
〇ショスタコーヴィチ:《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918)  オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より第2幕間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版]  《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版]  オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版)  映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版] [+浦壁信二(pf)]  交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版] [浦壁信二(pf)]  交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版] 《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]
〇P. ドゥゲートゥル(A.ゴリデンヴェイゼル編):《インターナショナル Op.15-1》(1933)
〇P. ドゥゲートゥル(武満徹編):《インターナショナル》(1974)
〇M.スコリク:《メロディ》(1981)
〇V.シルヴェストロフ:《ウクライナへの祈り》(2014)

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# by ooi_piano | 2023-03-07 13:14 | POC2022 | Comments(0)
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【ポック(POC)#50】 2023年2月18日(土)19時開演(18時半開場)〈ラヴェル傑作撰〉

モーリス・ラヴェル(1875-1937)《鐘の鳴る中で》(1897/2023) [米沢典剛による独奏版、初演] 3分
《水の戯れ》(1901) 6分
《鏡》(1904/05) 27分
  I.夜蛾 - II.悲しい鳥たち - III.海原の小舟 - IV.道化師の朝の歌 - V.鐘の谷
《夜のガスパール - アロイジュス・ベルトランによるピアノのための三つの詩(1908) 23分
  I.水の精 - II.絞首台 - III.スカルボ

  (休憩10分)

浦壁信二(1969- ):《断想 - 墓》(2023、委嘱新作初演) 7分
■M.ラヴェル:《高雅で感傷的なワルツ》(1911) 15分
  I.中庸に - II.かなり緩やかに - III.中庸に - IV.生き生きと - V.ほとんど緩やかに - VI.活発に - VII.やや落ち着いて - VIII.終曲
《クープランの墓》(1914-17) 25分
  I.前奏曲 - II.フーガ - III.フォルラーヌ - IV.リゴードン - V.メヌエット - VI.トッカータ
《ドビュッシーの墓》(1920/2020) [米沢典剛による独奏版、初演] 4分
《ロンサールの墓》(1924) 2分
《スペイン狂詩曲》(1908/1923) [カイホスルー・ソラブジによる独奏版、初演]  17分
  I. 夜への前奏曲 - II. マラゲーニャ - III. ハバネラ - IV. 祭り

  〔使用エディション: ロジャー・ニコルス校訂による原典版(Edition Peters, 1991/2008)〕



浦壁信二:《断想 - 墓》(2023、委嘱初演) 
2/18(土)ラヴェル傑作集+浦壁信二新作初演 [2023/02/11 update]_c0050810_06551120.jpg
  大井浩明氏と2台ピアノをご一緒させて頂くようになって、もう10年近くになる。大井氏は常に膨大な情報を頭の中に携えていて私のような少ない情報を何とか回して目の前の予定を乗り切ろうとし続ける人間にはない発想があり、ここ数回のピアノ弾きに作曲の依頼をするというアイディアもその中の一つ。何故自分にお話しを頂いた時に99%の困惑の中で僅かばかり"面白がって"しまったのか…未だに自分でも分からない。高校生の頃は曲がりなりにも作曲科に在籍しながら、その後わずかな例外を除いて創作から身を退こうと決意した頃の記憶が新鮮味を持って蘇ってきた。時間の経過は苦い想い出も懐しさにすり替える…。(浦壁信二)

浦壁信二 Shinji URAKABE, composer
2/18(土)ラヴェル傑作集+浦壁信二新作初演 [2023/02/11 update]_c0050810_09384710.jpg
  1969年生まれ。4才の時にヤマハ音楽教室に入会、1981年国連総会議場でのJOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)に参加し自作曲をロストロポーヴィッチ指揮ワシントンナショナル交響楽団と共演。1985年から都立芸術高校音楽科、作曲科に在籍後、1987年パリ国立高等音楽院に留学。和声・フーガ・伴奏科で1等賞を得て卒業、対位法で2等賞を得る。ピアノをテオドール・パラスキヴェスコ、伴奏をジャン・ケルネルに師事、その他ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームス等のマスタークラスにも参加。1994年オルレアン20世紀音楽ピアノコンクールで特別賞ブランシュ・セルヴァを得て優勝。ヨーロッパでの演奏活動を開始。その後拠点を日本に移し室内楽・伴奏を中心に活動を展開、国内外の多くのアーティストとの共演を果たしている。近年ソロでも活動の幅を拡げ'12年CD「水の戯れ~ラヴェルピアノ作品全集~」'14年「クープランの墓~ラヴェルピアノ作品全集~」をリリース、それぞれレコード芸術誌に於て特選、準特選を得るなど好評を得ている。EIT(アンサンブル・インタラクティブ・トキオ)メンバー。現在、洗足学園音楽大学客員教授、ヤマハマスタークラス講師として後進の指導にも当たっている。






モーリス・ラヴェル素描――野々村 禎彦

2/18(土)ラヴェル傑作集+浦壁信二新作初演 [2023/02/11 update]_c0050810_10035158.png
 モーリス・ラヴェル(1875-1937) の創作歴は、《マ・メール・ロワ》(1908-10/11-12) とオペラ《子供と魔法》(1917-25) で大きく3つに区切られる。どちらも子供の夢の世界を描いた作品なのは偶然ではないだろう。《マ・メール・ロワ》以前はクロード・ドビュッシー(1862-1918) と競い合って「印象主義」の語法を発展させた時期、《子供と魔法》以降はイゴーリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) が「スイスの時計職人」と評した管弦楽法の技術それ自体が音楽の主目的になる時期であり、彼らしさが最も表れているのは両者の中間の時期である。だが、彼の代表作と広く看做されている作品は専らその前後の時期に書かれており、このような受容のあり方が彼の素顔が見えにくくなっている大きな要因と言えるだろう。

 彼はドビュッシー同様、まずパリ音楽院のピアノ科に入学した。ドビュッシーは一等賞は取れそうにないと早々に諦めて作曲科に移り、作風が固まる前の22歳でローマ賞を受賞したが、彼はなまじ一等賞を取ったため、同世代のリカルド・ビニェス(1875-1943) やアルフレッド・コルトー(1877-1962) に演奏では敵わないと見切りをつけるまでピアノを学び続けた。後に管弦楽化する《古風なメヌエット》(1895) や《ハバネラ》(1895) を書いた時点でも彼はまだピアノ科に在籍しており、結局1897年に作曲科に入り直してガブリエル・フォーレ(1845-1924) に師事した。2台ピアノのための《ハバネラ》と《鐘が鳴る中で》(1897)(組曲《耳で聴く風景》として出版)で作曲家デビュー、管弦楽のための《シェヘラザード序曲》(1898) を自ら指揮して国民音楽協会デビューと、滑り出しは順調。また、《ハバネラ》の書法に興味を示したドビュッシーに譜面を貸したのが、長い因縁の始まりになった。

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 しかし、1900年から応募し始めたローマ賞には縁がなかった。1905年まで5回応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリ音楽院入学以前から親交を結んでいたスペイン人ピアニスト、ビニェスが「アパッシュ(=ごろつき)」と名付けた芸術家集団の中心人物だったことも、審査員の心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェヘラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査体制が誤っている証拠だという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれた(ラヴェル事件)。フォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現した。彼にとっても受賞以上の「実績」になった。

 当時のパリで「進歩的」なピアノ曲が演奏される機会は、国民音楽協会で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《水の戯れ》はドビュッシー《ピアノのために》(1901) の3ヶ月後に初演され、ドビュッシーが10年余り慣れ親しんできた書法を過去のものにした。《映像第1集》初稿(1901) の〈水の反映〉では《水の戯れ》の流動するフォルムに太刀打ちできないので撤回し、新たなピアノ書法を模索した結果が《版画》(1903) だった。アルベニス作品を中心に手持ちの素材を寄せ集めており、その中には彼から借りた《ハバネラ》の、このキューバ生まれの舞曲の本質は固定音の使用だと捉えた着想も含まれる。だが、彼はこれを参照ではなく盗用だと受け取り、ドビュッシーは仰ぎ見る先輩から乗り越えるべきライバルになった。

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 《水の戯れ》は《亡き王女のためのパヴァーヌ》(1899) と同じ演奏会で初演され、大半の批評家や聴衆は聴きやすい《パヴァーヌ》の方を支持した。この時《水の戯れ》を称賛した数少ない批評家が、ドビュッシーを熱烈に支持してきたピエール・ラロ(1866-1943, 《スペイン交響曲》のエドゥアール・ラロの息子) だった。しかし彼は、ラロが《版画》の書法の新しさを絶賛した時、「私は《水の戯れ》を1901年に書いたが、ドビュッシーが同年に書いた《ピアノのために》にはそのような新しさは何もなく、先駆者は私だ」という書簡を送って抗議した。この一件以来、ラロは彼を敵視して執拗に批判するようになる。なお、ここで問題になっている「新しさ」とはあくまで「印象主義的」な書法のことで、レイヤー書法のことではない。伝統的な対位法では処理できない不均質な素材も、複数のレイヤーに配置して時間軸上で重ね合わせれば処理できる、というアルベニスの民俗音楽素材の処理手法を拡張したこの書法が《版画》以降のドビュッシーの本質だが、あまりに斬新で同時代には理解されなかった(ラヴェルにも、その後の大半の演奏家にも)。

 この後もビニェスがふたりの作品を交互に初演する状況は続き、彼はドビュッシーに粘着し続けた《鏡》(1904-05) の5曲はそれぞれ「アパッシュ」のメンバーに捧げられているが、《ピアノのために》以降にドビュッシーが書いた《版画》・《仮面》(1904)・《喜びの島》(1904) の5曲に対応し、特に固定音を参照した〈グラナダの夕暮れ〉と〈道化師の朝の歌〉・この5曲中で最も華やかな《喜びの島》と〈海原の小舟〉の対応は明確で、この2曲は後に管弦楽化されている。また《版画》・《映像第1集》(1901-05)・《映像第2集》(1907) で繰り返された3曲セットの性格対比(エキゾティックな旋法で特徴付けられる第1曲・アルカイックで内省的な第2曲・名技的な反復運動で特徴付けられる第3曲)《夜のガスパール》(1908) でも踏襲され、因縁の固定音の魅力を生かした〈絞首台〉をはじめ、コンサートピースとしてのポピュラリティではドビュッシーを乗り越えた。他方、この時期の彼のピアノ曲で最も彼らしいのは擬古典的な《ソナチネ》(1903-05) であり、ドビュッシーを強く意識した創作は彼のピアノ曲の質も大幅に引き上げた。

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 《夜のガスパール》の前年には初のオペラ《スペインの時》(1907) と初の本格的な管弦楽曲《スペイン狂詩曲》(1907, 因縁の《ハバネラ》の管弦楽版を含む) も書き上げており、彼は波に乗っていた。そんな時、バレエ・リュスを立ち上げたばかりのセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929) から委嘱が舞い込む。振付師ミハイル・フォーキン(1880-1942) の台本による《ダフニスとクロエ》である。バレエ・リュスの総力を注ぎ込み、1910年シーズン最大の呼び物になるはずだった。いよいよ管弦楽曲でもドビュッシーを乗り越える時が訪れたと見て、彼は《夜想曲》(1897-99) の2台ピアノ編曲を1909年、《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) の連弾編曲を1910年に行い、その管弦楽法を身に付けようとした。さらに彼は1910年に、設立者フランクの死後はダンディらが仕切って保守化した国民音楽協会に反旗を翻して独立音楽協会を設立し、フランスにおける「進歩派代表」の地歩を固めてゆく。

 だが、《ダフニス》の作曲は予定通りには進まなかった。彼とフォーキンの思い入れを乗せて、4管編成に合唱も加わった編成で1時間近い大曲になり、完成は1912年シーズンにずれ込んだ。この2年は決定的で、《ダフニス》に代わってストラヴィンスキーの《火の鳥》(1909-10) が1910年シーズンの話題をさらい、翌シーズンも《ペトルーシュカ》(1910-11) が好評で、このロシアの新進作曲家はたちまち時代の寵児になった。ドビュッシーもストラヴィンスキーの才能に魅せられて親交を結び、バレエ・リュスとの距離も縮まった。《ダフニスとクロエ》(1909-12) がようやく初演された1912年シーズンにはディアギレフはこの作品に興味を失っており、公演の目玉はドビュッシーの旧作を用いた《牧神の午後》になっていた。ニジンスキーのスキャンダラスな振付で完売した《牧神》の追加公演のために《ダフニス》の上演回数は削られ、憤慨したフォーキンはこの公演を最後にバレエ・リュスを去った。

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 バレエ音楽としての《ダフニス》は幸福な運命を辿らなかったが、したたかなラヴェルは第1組曲(1911)・第2組曲(1912) という抜粋管弦楽曲もまとめており、特に第2組曲は今日でも演奏機会が多い。ともあれ、「旋律と伴奏」として理解できて古典的楽曲分析に収まる、様式化・標準化が可能な範囲の(すなわち、《海》(1903-05) 以前の)ドビュッシーの管弦楽法を集大成して乗り越えるという目論見は《ダフニス》で果たされ、今日の商業音楽教程の最終段階にあたる映画音楽の管弦楽法で「印象主義」とされるのは、この時に完成されたラヴェルの管弦楽法に他ならない。《ダフニス》の作曲の遅れのために時系列は前後しているが、彼にとって「ドビュッシーを乗り越えた」ことで因縁は一段落し、彼の創作歴は新しいフェーズに入る。

 《マ・メール・ロワ》連弾版(1908-10) は、独立音楽協会第1回演奏会で初演された。ドビュッシー《子供の領分》(1906-08) は幼い娘に捧げたわかりやすいピアノ曲集というコンセプトだったが、さらに徹底して子供でも弾ける技術水準でまとめた曲集であり、実際に子供ふたりが初演した(当初の予定では幼児ふたりによる初演だったが、さすがに無理で急遽交替)。この曲には管弦楽版(1911)・バレエ音楽版(1911-12) もあり、極めてシンプルな原曲が管弦楽法の妙で味わいを増すところまでコンセプトになっている。チェリビダッケやブーレーズのようなうるさ方も好んで取り上げているのは、連弾版で素材を絞り込む過程で彼の音楽の核になる要素だけが抽出され、広大な余白が管弦楽法の技術の格好の展示場になった相乗効果の結果である。

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 《高雅で感傷的なワルツ》ピアノ版(1911) は、独立音楽協会の作曲者当てクイズ企画のために書かれた。企画意図に沿って個性を隠した書法は、玄人の多い客層の受けはいまひとつだったが、管弦楽版(1912) で個性が見えてくるあたりもコンセプトのうちだろう。《マ・メール・ロワ》同様、管弦楽化を前提にしたピアノ曲というあり方は、《前奏曲集》(1909-10/11-13) でピアノでなければ表現できない音世界に向かったドビュッシーとは対照的で、この後もふたりの距離はさらに開いてゆく。ただし《マラルメの3つの詩》(1913) は、シェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) の影響下に書かれたストラヴィンスキー《日本の3つの抒情詩》(1912-13) の影響下に書かれ、独自ルートでヴェーベルンを思わせる境地に達したドビュッシー《マラルメの3つの詩》(1913) の音世界と再び交錯した。全く独立に選んだ詩も3曲目以外は一致しており、実はふたりの芸術嗜好は近いことを窺わせる。

 《ピアノ三重奏曲》(1914) は、古典的形式にモダンな和声を盛り込む彼らしさ全開の代表作。その路線で《ソナチネ》の水準に留まらなかったのは、ドビュッシーと競い合った数年間で彼の音楽が底上げされた賜物である。作曲中に第一次世界大戦が始まり、志願するために短期間で集中して書き上げたことも、作品の質に寄与しているかもしれない。空軍のパイロットに志願したが叶わず、翌1915年から陸軍のトラック輸送兵として従軍した。塹壕戦移行後の戦線は膠着し、主な攻撃対象は輸送部隊という状況下で心身は消耗し、アメーバ赤痢や凍傷にも苦しみ、従軍中は作曲は全くできなかった。健康を損ねた彼は手術を受けるために1916年秋にパリに移送されたが、術後療養中の1917年1月に母を亡くすと深い悲しみに沈み、春には除隊した。

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 同年末に、従軍前に書き溜めた素材をまとめたのが《クープランの墓》ピアノ版(1914-17) である。フランス・バロック鍵盤音楽に立ち返った方向性は新古典主義期のドビュッシーと共通する。「墓」なのは6曲それぞれが大戦で戦死した友人たちに捧げられているからである。管弦楽版(1919) が作られたのは4曲に留まり、この曲集は管弦楽化を前提に書かれたわけではなさそうだ。彼が母の死から立ち直るにはさらに数年を要した。本格的復帰作となったのは、「ウィンナ・ワルツによるバレエ音楽」という1917年のディアギレフの委嘱にようやく応えた《ラ・ヴァルス》(1919-20) である。だがディアギレフは「バレエ向きの音楽ではない」として受け取りを拒否し、ふたりは決裂した。以後は会っても握手も交わさない間柄になったという。

 彼はこの頃から急速に半音階的書法に傾斜した。例えば2台ピアノ5手のための《口絵》(1918) は、調性感の希薄なカオスの提示に終始し、同時期のロシア・アヴァンギャルド作品と言われた方がしっくり来る(ただし新ウィーン楽派の影響を間接的に受けた《マラルメの3つの詩》という先行作がある)。彼のこの変化の由来は、師フォーレが《ヴァイオリンソナタ第2番》(1916-17) 以降、一貫して半音階的書法を用い続けたことである。師を終生リスペクトし続けた弟子が、70歳を過ぎて荒波に漕ぎ出した師の挑戦の影響を受けないはずがない。しかもこの方向性はモダニズムの時代様式とも合致している。《ラ・ヴァルス》冒頭、カオスの中からウィンナ・ワルツが生まれてくるような表現にもこの書法は応用されており、彼の音楽の幅は大きく広がった。

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 この半音階的書法は《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》(1920-22) で頂点に達した。元々《ドビュッシーの墓》(1920) として書かれた小品を第1楽章とし、残る3楽章を書き足した。この編成はコダーイ・ゾルターン(1882-1967)の《ヴァイオリンとチェロのためのデュオ》(1914) を意識しており、ハンガリー民謡を思わせる主題を持つが、コダーイ作品にはない半音階的な軋みがこの編成に適合し、古典的対位法にぎりぎり収まる綱渡りがスリリングである。当時の批評家には全く理解されなかった厳しい書法はこれ以降影を潜めるが、ジプシー・ヴァイオリンの妙技をフィーチャーした《ツィガーヌ》(1922-24)・名技的なパッセージが連続し中間楽章ではジャズ・ブルースをフィーチャーする《ヴァイオリンソナタ》(1923-27) と、平均律に収まらない旋律線が魅力になっているポピュラー音楽を参照する際に、その経験は活かされている。いずれもこの編成を代表する名作である。

 この時期には管弦楽編曲にも、ムソルグスキー/ラヴェル《展覧会の絵》(1874/1922) という代表作がある。「ドビュッシーが歌曲を偏愛した、ロシア五人組の謎の素人作曲家」が19世紀後半を代表する作曲家のひとりまで上り詰めるのに、この編曲が果たした役割は大きい。ニジンスキーが企画したオペラ《ホヴァーンシチナ》(1872-80) の蘇演(1913) に際し、アイヴズ並みに上演までの距離があった未完の譜面をストラヴィンスキーと共同で整備した経験も生かされている。今日では、彼の編曲は性格付けが西欧的で原曲のロシア的魅力を生かしきれていないという批判もあり、さまざまな管弦楽編曲も行われているが、そのような議論を可能にする「標準的解釈」を提示したのも、原曲をクラシック音楽屈指の人気レパートリーまで引き上げたのも、みな彼の編曲である。実はアルベニス《イベリア》(1905-08) にも彼による管弦楽編曲が企画されたことがあり、実現しなかったのが惜しまれる。

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 そして、これらの要素をすべて詰め込んだこの時期の代表作が、オペラ《子供と魔法》(1917-25) である。与えられたミッションを素早くこなし、過去の仕事には拘らない職人肌の作曲を信条にしていた彼が、ひとつの作品にこれだけ長期間取り組んだ例は他になく、並々ならぬ拘りがまず窺える。《マ・メール・ロワ》は美しい夢の世界だけを描いていたが、この作品ではそこにも厳しい現実があることまで描かれ、半音階的書法がそのためのアクセントとして大いに活用されている。この時期を締め括るのが《マダガスカル島民の歌》(1925-26) である。フルート・チェロ・ピアノ伴奏歌曲という編成は委嘱者クーリッジ夫人(モダニズム作曲家への多くの委嘱で知られる米国のパトロン)の要望だが、それを島民の生活を想像したパルニーのエキゾティックな詩と合わせたのは彼の発想である。声を器楽と対等な一声部として扱う姿勢は《マラルメの3つの詩》を受け継ぎ、半音階的書法にふさわしい。

 彼の作風はここで大きく変わる。《ボレロ》(1928) のコンセプトは周知の通り特殊なので措くとしても、《左手のためのピアノ協奏曲》(1929-30) と《ピアノ協奏曲》(1929-31) が問題だ。どちらも外面的効果に終始し、常套句と自己模倣の塊のような楽想を管弦楽法の技術だけで形にしている。時期的には、4ヶ月で25都市を巡演し記録的成功を収めた1928年の北米演奏旅行後の出来事であり、米国の物質文化に接して音楽性まで変わったという穿った見方もできる。だが明らかな影響は、本場のジャズやラグタイムを聴いてこれらの要素の扱いが格段に進歩したことだけで、本命なのは1927年頃から失語症の兆候が現れ始めたという脳機能障害の影響だろう。1932年に交通事故に遭ってから症状は急速に進行し、自分の名前すら書けなくなってしまうが、彼の場合は失語症に留まらず、脳内で音楽は鳴っているが音符にはできないという症状もあった。音楽性のような高度な部分には、さらに早くから影響が出ていてもおかしくない。むしろ問題なのは、この変化は一般的人気にはプラスに働き、これ以前の真の代表作を覆い隠してしまったことである。



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Aloysius Bertrand (1807-1841): "Gaspard de la nuit" -- Fantaisies à la manière de Rembrandt et de Callot (1836)
夜のガスパール [1842年初版ファクシミリ]
《オンディーヌ》(p.143)、《絞首台》(p.307)、《スカルボ》(p.311)



夜のガスパアル     (ベルトラン・詩)


I オンヂイヌ
  ・・・朧朧(おぼおぼ)しき調べ吾が仮寝(うたたね)を惑はし、
  哀しく嫋(なよよ)かに途絶へし歌聲(うたごへ)と聞き紛ふ囁(さゝめ)き、
  吾が枕邊に飄(たゞよ)ひたる心地こそせしか。
                   シアルル・ブリユノー ― 二人精(みたま)

―いで―  ―聽かれてよ―
其(そ)は妾(わ)ぞ、 オンヂイヌぞ、
欝(いぶ)せき月影映す汝(なれ)が窓をしも
玉の水滴(しづく)もて音(ね)を鳴かしむるは。

瞻(み)よ、館宇(しろ)の御令室(おんかた)は波文様(なみあや)の裳裾曳き
星辰(ほしぼし)抱く麗はしの夜と
熟睡(うまゐ)する瀛湖(うみ)をぞ凝眸(まも)りおはしたる。

波てふ波は 流(せ)に游(およ)ぐオンヂイヌぞ、
流てふ流は 妾が幽宮(おくつき)へ迂(くね)り導(ゆ)く小径(みち)、
妾が幽宮こそは 火と土(ち)と氣(け)のなす三角(みすみ)なれ
水底(みなそこ)揺蕩(たゆた)ふ陽炎の如(ごと)。

―いで―  ―聽かれてよ―
妾が御父(おんちゝ)は瑞枝(みづえ)もて擲(う)ち 飛沫(しぶき)揚げ給ふ。
妾が姉妹(はらから)は 若草萌え睡蓮(はちす)咲き 唐菖蒲(とうせうぶ)寓(やど)る島嶼(しまじま)を
泡沫(うたかた)の臀(かひな)もて愛撫(め)で 漁(いざ)り釣る髭長の絲柳をぞ戯(あざ)けたる。

妓(をんな)は囁(さゝめ)き歌ひつ。妓は指環を褒寶(かづけ)にて乞ふ、
吾が夫(せ)となりて
彼(か)の幽宮にて瀛湖の王(あるじ)たらんことを。

然(さ)るを吾が現身(うつそみ)の女(をんな)を愛するを聞きて
魍魎(あやかし)の妓  ―あな憂(う)たて―  と、
暫時(つと) 涕(なんだ)垂れ
・・・忽焉(たちまち) 哄(わら)ひさざめき
蒼冴(あをざ)めし吾が窓邊に雨と流れて消えにけり。



II 絞縊架(くびつりだい)
  彼(か)の絞縊架が邊(あた)りを蠕(うごめ)けるを何とぞ見る (フアウスト)

そも 何の音ぞも。
終夜(よただ) 咆吼(ほ)ゆる凩(こがらし)か、
将(は)た 吊られたる者の洩らす愁息(ためいき)か。

樹(たちき)の憫(あは)れを頼みて纏はりたる 石女(うまずめ)の蔦蘿(つたかづら)と
苔の中(うち)なる蟋蟀(こおろぎ)の挽歌(うたごえ)か。

聾(しひ)たる耳の邊(へ)を
勝鬨擧げ 獲物(さち)漁り飛ぶ羽蟲が角聲(つのぶえ)か。

あくがれ翔びて 禿頭(かむろ)より
血に塗(まみ)れし髪(くし)抜く甲蟲か。

将たは二尺なる毛氈(かも)を刺繍(かが)り
縊(くく)られたる首に飾らんとする土蜘蛛か。

其(そ)は 地の涯の都城(みやこ)の塁壁(ついぢ)より來たる
梵鐘(かね)の音なり。
夕さりて殷紅(あか)みゆく縊れたる者の骸(なきがら)。



III スカルボ
  牀(とこ)の下、爐(ひをけ)の中(うち)、厨子の中にも、見えざりき―誰(たれ)も。
  何處(いづこ)より入りて、何處よりか出(い)でたりつる。  (ホフマン―夜話)

嗟呼(あゝ)、吾(われ) 幾度(いくたび)か邂逅(まみ)えし、スカルボと。
月影鮮(さや)かなる 彼(か)の夜半(よは)ぞ、
黄金(こがね)の群蜂(むらばち)鏤(ちりば)めし碧(あを)き旛(はたもの)の上なる
白銀(しろがね)の貨(ぜに)の如(ごと)。

吾 幾度か聞きし、
吾が冥(をぐら)き閨房(ねや)に戰(そよ)ぎわたる 彼(か)の嗤(わら)ひを
吾が羅(きぬ)の几帳(とばり)を引き掻く 彼の爪を。

吾 幾度か見し、
彼の者 牀下(ゆか)に降り立ち片脚(かたし)にて
仙女(まこ)の紡錘(をだまき)さながら
吾が寝齋(むろ)に旋廻(くるめ)き渡るを。

彼(か)の時 吾 彼の者消ゆと思ひたりしか。
彼の侏儒(こびと) 月影浴び吾が眼前(まへ)に
巨(おほ)きに成り成りて
伽藍(みてら)の鐘楼(たかどの)と見ゆ、
其の尖帽(かうぶり)に黄金の鈴揺れて。

須臾(やがて) その體(からだ) かの貌(かほばせ) 倶(とも)に蒼冴め
燭(そく)の涙と透けゆき 色喪(う)せゆき、

然(さ)りて 彼の者 突如(うちつけ)に 見えずなりたりけり。

                   (安田 毅 ・ 譯)


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ロンサアル 彼の魂に 

魂緒(たまのお)や ロンサアルや
愛(め)ぐしきや 優なりや
斯くもいとほし我が身の宿主(あるじ)
汝(なれ)は降り往く、幽(かそ)けくも
蒼(あ)をく 窶(やつ)れて 亡骸(なきもの)の
凍てつく國へと 唯獨(ひと)り
まこと慎(つま)しく 殺生や
毒や 怨みの悔やみなく
ひとの羨望(うら)やむ世の覚え
また蓄えを侮(あなど)りて
身罷る我は告げたりし
汝の宿世(さだめ)に從へと
我が憩い禦(さまた)ぐなかれ
われこそ眠れ

[訳・安田毅]


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Ronsard à son âme

Amelette Ronsardelette,
Mignonnelette doucelette,
Treschere hostesse de mon corps,
Tu descens là bas foiblelette,
Pasle, maigrelette, seulette,
Dans le froid Royaume des mors :
Toutesfois simple, sans remors
De meurtre, poison, et rancune,
Mesprisant faveurs et tresors
Tant enviez par la commune.
Passant, j'ay dit, suy ta fortune
Ne trouble mon repos, je dors.

[Pierre de Ronsard (1524-1585)]


# by ooi_piano | 2023-02-11 15:08 | POC2022 | Comments(0)

POC 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》(2022/03/02 update)_c0050810_23191058.jpg
大井浩明 POC [Portraits of Composers] 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7)
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
チラシpdf(




POC 第47~第51回公演 《先駆者たち Les prédécesseurs III》(2022/03/02 update)_c0050810_23305443.jpg
ジョナサン・パウエル(1969- ):《茶トラ猫写本》(2023、委嘱新作初演)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]



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平野弦(1968- ):委嘱新作初演(2022)
ルーク・ヴァース(1965- ):委嘱新作初演(2022)
●フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演)
イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリアーー12の新しい「印象」》(1905/08、全12曲)




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永野英樹(1968- ):《瞬(めまじろき)》(委嘱初演、2022)
ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番(怒りの日?) 》(委嘱初演、2022)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905)、《同 第2集》(1907)、《24の前奏曲集》(1909/13)



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2022年12月15日(木)19時開演(18時半開場) 東音ホール(「巣鴨駅」南口徒歩1分)
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
電話予約 03-3944-1538(全日本ピアノ指導者協会)ウェブ予約
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《交響的素描「」》(1905/09) [A.カプレによる2台ピアノ版]、《映像 第3集(ジーグ/イベリア/春のロンド)》 [A.カプレによる2台ピアノ版]、《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005) [J.E.バヴゼによる2台ピアノ版/日本初演]、《白と黒で》(1915)





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野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「ジャズの彼方へ》(2008/2023、改訂版初演
ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタなB》(1973、日本初演
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903)、《仮面》(1904)、《喜びの島》(1904)、《子供の領分》(1906/08)、《12のエテュード集》(1913/15)





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浦壁信二(1969- ):《断想 - 墓》(2023、委嘱新作初演)
モーリス・ラヴェル(1875-1937):《水の戯れ》(1901)、《鏡》(1904/05)、《夜のガスパール》(1908)、《高雅で感傷的なワルツ》(1911)、《クープランの墓》(1914-17)、《スペイン狂詩曲》(1908/1923)[K.ソラブジ編独奏版、世界初演]



POC [Portraits of Composers] 演奏曲目一覧



POC2022:戦後前衛の「源流の源流」と向き合う―――野々村禎彦

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  POCシリーズも今年度で12期目。直近2期はロマン派まで遡った選曲であり、もう20世紀以降で取り上げるべき曲はなくなったと思われた方もいるかもしれないが、もちろんそうではない。少なくとも20世紀初頭には最重要のゴッドファーザーがいる。ドビュッシーである。彼の音楽を要素に切り刻むと、19世紀までに音楽史に登場しなかったものは何ひとつなく、これが彼の位置付けを難しくしている。それに乗じて彼を「最後のロマン派」に祀り上げて、その後音楽史は誤った方向に進んだと称する言説すらある。このような皮相な見方を網羅的な作品演奏で打ち砕いてゆくのがPOCシリーズの基本スタンスであり、今期は彼がピアノ独奏曲の作曲家として自己を確立した《版画》以降の主要作品全曲に加えて、作品を通じて彼を生涯にわたって導き続けたアルベニスの《イベリア》全曲と、「印象主義」の作曲家として彼と並走していたラヴェルの主要作品を取り上げる。POC第6期で扱った「戦後前衛の源流」アイヴズ、バルトーク、ストラヴィンスキーを導いた「源流の源流」に、いよいよ正面から挑む時が来た。また大井は、ウクライナ戦争以降ロシア音楽を忌避する風潮に抗して積極的に演奏会企画を行っており、その一環として今期の作品群と同時代のロシア・アヴァンギャルドも取り上げる。

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  まずは、イサーク・アルベニス(1860-1909) とドビュッシーの関係について。スペインの国力は、中南米の植民地からの貴金属の収奪が「主要産業」になった16世紀にピークに達し、強大な海軍力でヨーロッパの覇権を握ったが、この時期はモラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボという後期ルネサンスを代表する作曲家を輩出した最初のクラシック音楽黄金時代でもあった。その後、新興新教国との競争の中で国力が衰えてゆくにつれてクラシック音楽も下火になったが、キリスト教文化とイスラーム文化、ヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っていた。19世紀後半、スペインはこの資産を使って国民楽派運動の波に乗る。ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽のエキゾティックな衣を被せたヴィルトゥオーゾたちがこの運動を牽引したが、ピアノのアルベニスもそのひとりとして登場した。
  しかしアルベニスは、先人たちの枠には収まらなかった。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家ペドレルと1883年に出会って薫陶を受けた。ホモフォニーの表現性を重視するスペインのルネサンス音楽と民俗音楽との相性は悪くない。ペドレルが求めた「国民楽派」は、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。アルベニスの作品に師の意図が反映されるまでには時間を要したが、作曲の腕を磨くためにウィーンと並ぶクラシック音楽の中心地パリに1894年に居を移すと成果が現れ始めた。アルハンブラ宮殿を描写した《ラ・ベガ》(1897) を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。
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  ピアノ伴奏付き歌曲《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) と、ドビュッシーは19世紀末には既にさまざまな編成で時代の先端を行っていたが、ピアノ独奏曲だけは進むべき道を見出せなかった。1901年になってもまだ、《ピアノのために》の水準に留まっていた。時代の中心にして最前衛だったショパンの影から抜け出せずにもがいていた時、ドビュッシーはアルベニスと出会った。その音楽の核心は「古楽と民俗音楽の融合」であり、ドビュッシーも「古楽」としてはクープランやラモーを研究し、「民俗音楽」としては1889年パリ万博でジャワのガムランと出会って音階を用いていたが、まだ本質を捉えていなかった。その後アルベニスの音楽を知り、1900年パリ万博で再びガムランを聴き、オペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) 初演を経てようやく、《版画》(1903) でピアノ独奏曲の新たな道に踏み出す。
  《版画》の第1曲〈パゴダ〉はガムラン、第2曲〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニス、第3曲〈雨の庭〉(《忘れられた映像》(1894) の1曲のリライト)はフランスバロック鍵盤音楽と、各曲の参照点は明白だが、問題は何を参照しているかである。20世紀初頭にガムランを真摯に参照する時点で十分進歩的だが、参照点が音階に留まる限りは全音音階や教会旋法など、同時代にドビュッシーの特徴とみなされてきたリストに新たな1頁が加わったに過ぎない。だが1900年のドビュッシーはガムランに、「それと比べればパレストリーナすら児戯に過ぎない精妙な対位法」を聴き取った。この拡張された対位法の感覚こそが、ドビュッシーが見出したアルベニスの音楽の真髄であり、〈グラナダの夕暮れ〉では参照点を明示して敬意を表している。
  その後のドビュッシーは、ラヴェルと競い合いながらピアノ独奏曲の書法を発展させてゆくが、アルベニスは腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復する療養生活の中で、アルベニスは《イベリア》(1905-08)を書き上げた。全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」は20世紀スペイン音楽の金字塔だが、ドビュッシーにも新たな啓示を与え、《前奏曲集》第1巻(1909-10)・第2巻(1911-13) が生まれた。《前奏曲集》の作曲中もその後も、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。アルベニスは仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで1909年に亡くなったが、ドビュッシーを生涯にわたって導き続けた「戦後前衛の源流の源流の源流」なのである。

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  続いて、モーリス・ラヴェル(1875-1937) とドビュッシーの関係について。ラヴェルは「旋律と伴奏」からなる伝統的な音楽様式を終生保ち続けたが、フランスでは長らく「進歩派代表」を務める巡り合わせになった。パリ音楽院でフォーレに師事したラヴェルは、1900年から1905年にかけて5回ローマ賞に応募したが、2回目の3位入選以外はすべて落選した。パリで活躍したスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェスが「アパッシュ」と名付けた芸術家集団の中心人物としてドビュッシーを強く支持していたことも、審査員たちの心証を悪くしたのだろう。だが、《水の戯れ》(1901) 、《弦楽四重奏曲》(1902-03)、歌曲集《シェラザード》(1903) で既に評価を確立していた作曲家が若手登竜門の賞を年齢制限で逃したのは、審査の方が誤っていたという世論が強まり、パリ音楽院の院長は辞任に追い込まれてフォーレが後任の院長となり、オペラ専門学校から器楽中心のカリキュラムへの改革が実現する。さらにそれまで「進歩派代表」だったドビュッシーは1904年に銀行家バルダックの妻エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。拳銃自殺を図り一命を取り留めたリリーに世論は同情し、多くの友人を失ったドビュッシーは「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。
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  当時のパリで「進歩的」なピアノ独奏曲が演奏される機会は、国民音楽協会で散発的に行われるビニェスのリサイタルだけだった。《ピアノのために》ー《水の戯れ》ー《版画》・《喜びの島》(1903-04) ー《鏡》(1904-05) ー《映像》第1集(1901-05)・第2集(1907) ー《夜のガスパール》(1908) と、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。《ピアノのために》の3ヶ月後に《水の戯れ》で先を行かれたことは、《版画》でドビュッシーが飛躍する契機になった。ラヴェルはさらに明確に意識している。内省的な曲が多い《鏡》に〈海原の小舟〉のようなコンサートピースが混じっているのは、この曲集で《喜びの島》も参照したからだし、《映像》で繰り返された3曲の性格対比を《夜のガスパール》は完全に踏襲している。ドビュッシーが愛娘クロード=エンマに捧げた《子供の領分》(1906-08) は、平易な書法の範囲でもピアノ独奏曲の本質は保たれると示した野心作だが、ラヴェルはこの方向性にも敏感に反応し、子供でも弾ける水準の書法のみを用いた連弾組曲《マ・メール・ロワ》(1908-10) で応えた。
  《マ・メール・ロワ》は、ラヴェルが中心になって立ち上げた独立音楽協会の第1回演奏会で初演された。国民音楽協会はフランクが中心になって立ち上げた由緒ある団体だが、フランク没後はダンディら保守派が牛耳り、進歩派は冷遇されていた。ビニェスのリサイタルを後援していたのは、ピアノ独奏曲は当時の花形ジャンルではなく、費用もかからなかったからにすぎない。進歩派の管弦楽曲が取り上げられる機会は稀で、ドビュッシーの主要作品でも《牧神》だけだった。シェーンベルクが無調に向かい、ストラヴィンスキーが鮮烈にデビューした機を捉え、彼らも評議委員に名を連ねる進歩的な団体として出発した。《マ・メール・ロワ》も《高雅で感傷的なワルツ》(1911) も《クープランの墓》(1914-17) も、その後のラヴェルの主要ピアノ曲は専ら管弦楽編曲を前提に書かれており、ピアノでなければ表現し得ない領域を探求するドビュッシーとの距離は開いてゆくばかりだった。

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  最後に、あらためてクロード・ドビュッシー(1862-1918) について。彼とラヴェルの音楽は大雑把に「印象主義」と括られてきた。この分類は、商業音楽教程の最終段階に相当する、映画音楽の管弦楽法で特に重要になるが、その実体はラヴェルの管弦楽法に他ならない。これに限らず、ドビュッシーの音楽で様式化・標準化が可能な部分は、軒並みラヴェルが形にしてきた。だが、そこから零れ落ちたものは決して少なくない。アイヴズの深い淵のような無調ポリフォニーも、バルトークの「夜の音楽」も、ストラヴィンスキーの批評的な新古典主義も、みなドビュッシーに由来する。超一流の作曲家たちが彼の音楽に向き合った時、各々全く違うものを持ち帰っているのは驚くべきことだ。
  しかもドビュッシーの影響は直下の世代に留まらない。《チェロソナタ》(1915) は彼が度々参照してきたミュージック・ホールの音楽の集大成だが、彼の想像力は遠く時代を飛び越えてビバップのアンサンブルを予見している。シュトックハウゼンの「モメンテ形式」の発想の源泉を、後期ドビュッシーの音楽の不連続性に見る向きは多い。調性的な旋律はホワイトノイズや正弦波発振音のような非和声的なテクスチュアの中で本領を発揮するという発見は90年代の「音響派」の核心だが、その起源を遡ると《前奏曲集》第2巻の〈霧〉に辿り着く。もちろんこれらは一例にすぎない。ドビュッシーの音楽は、その後の音楽の可能性をすべて含んだ混沌のスープだった。その可能性は、今日でもまだ汲み尽くされていないのかもしれない。




# by ooi_piano | 2023-02-06 04:19 | POC2022 | Comments(0)

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
チラシpdf(



【ポック(POC)#49】2023年1月27日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その2〉

ベツィ・ジョラス(1926- ):《ソナタなB》(1973、日本初演) 17分
クロード・ドビュッシー(1862-1918):《版画》(1903) 14分
  I.仏塔 - II.グラナダの夕べ… - III.雨の庭
■《仮面》(1904) 5分
■《喜びの島》(1904) 4分
■《子供の領分》(1906/08) 16分
  I.グラドゥス・アド・パルナッスム博士 - II.象の子守唄 - III.人形のセレナード - IV.雪は踊っている - V.小さな羊飼い - VI.ゴリウォーグのケークウォーク

  (休憩10分)

野平一郎(1953- ):《間奏曲第6番「Jazzの彼方へ」》(2008/2023、改訂版初演) 6分
C.ドビュッシー:《12のエテュード集》(1913/15)   44分
  I.両手の「五本指」で(チェルニー氏に倣って) - II.三度で - III.四度で - IV.六度で - V.八度で - VI.八本指で - VII.半音階で - VIII.装飾音で - IX.連打音で - X.対比した音響で - XI.組み合わせた分散和音で - XII.和音で
  [使用エディション/デュラン社新全集版(2005/07)]

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ベツィ・ジョラス:《ソナタなB》(1973、日本初演)
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  ジョラスにとってピアノ曲を書く事は、作曲家としての真価が問われる「審判の時」であり、出来るだけ遅く、理性の成熟を期する50歳の頃(1976年)を心積もりしていたと云う。オルガンと小オーケストラのための《冬の音楽》(1971)、ピアノ独奏のための《準備のうた》(1972)、チェンバロ独奏のための《周りに》(1972)といった鍵盤作品の経験を経て、マリー=フランソワーズ・ビュケのNYでの「ソナタ・プログラム」の委嘱をきっかけに、本作は1973年7月に完成した。
  《B for Sonata》という英語タイトルについて、〈『Sonata』という言葉は、もちろん古典的な意味合いではなく、多くの現代作曲家がある種の厳密な構想を示すために使っている用語である。『B』については、私自身の秘密を明かすことなく、分析から逃れる得るもの全て、すなわち幻想、自由、もしかして魔法、としか言えない。〉と作曲当時は口を濁していたが、遅くとも1998年のインタビューで、Bとはベツィ(Betsy)でも音高(B音)でも「Before (= B for)」でもなく、バリ島(Bali)の事であると告白している。
  1972年12月から翌年1月にかけて2週間のインドネシア訪問は、モーリス・フルーレ(音楽評論家)とアンリ=ルイ・ドラグランジュ(音楽学者)によって企画され、ジョラスの夫(アルジェリア人リウマチ専門医)武満徹、クセナキスの夫妻も参加し、彼らに大きな作風の変革を及ぼした。武満徹《フォー・アウェイ》は1973年5月6日にロンドンでロジャー・ウッドワードが献呈初演、1973年7月2日に完成したクセナキス《エヴリアリ》は同年10月23日にNYでマリー=フランソワーズ・ビュケが献呈初演、ジョラス《ソナタなB》は1974年1月5日にNYでビュケが初演している。


ベツィ・ジョラス Betsy JOLAS, composer
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  1926年8月5日パリ生まれのアメリカ系仏人作曲家であるエリザベス(ベツィ)・ジョラスは、6か月年長のジェルジ・クルタークと並んで、現役最長老の現代作曲家である。1940年の年末にアメリカに移住し、ベニントン大学を卒業。1946年にパリに戻り、パリ音楽院でミヨーやメシアンに師事。1971年に同音楽院のメシアンの楽曲分析科を受け継ぎ、75年に正式に同クラスの教授に任命、78年に同校作曲科教授に就任。イェール大学、ハーバード大学、南カリフォルニア大学、ミルズ大学(ダリウス・ミヨー講座)等でも教鞭を執った。アメリカ芸術文化アカデミー会員(1983)、アメリカ芸術科学アカデミー会員(1995)、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(2022)等。近作に《夏の小組曲》(2015、サイモン・ラトル/ベルリン・フィル委嘱)、《バッハ市からの手紙》(ライプツィヒ・ゲヴァントハウスとボストン響の共同委嘱)、弦楽四重奏曲第8番《トペン》(2019、アルディッティSQ初演)、i-Tunesをもじったピアノ協奏曲《b-Tunes》(2021、BBCプロムス初演)、《最新作 Latest》(2021、パリ管弦楽団・バイエルン放送・サンフランシスコ響・コンセルトヘボウ共同委嘱)等。




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野平一郎:《間奏曲第6番「Jazzの彼方へ」》(2008/2023、改訂版初演)
  《Jazzの彼方へ》は想像上のさまざまなジャズの即興演奏が連なっていく。その連なりには理論はなく、テンポやスタイルの全く異なる断片が、記憶の縁を洗い流い出すように続いていくことで、再び間奏曲第1番《ある原風景》の衝動が作る虚無へと回帰する。一瞬夢から目覚めたように調性のはっきりしたスタンダードなフレーズが現れるが、また混沌の中に消え去る。(野平一郎)

野平一郎 Ichiro NODAIRA, composer
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  1953年生まれ。東京藝術大学、同大学院修士課程作曲科を修了後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に学ぶ。間宮芳生、永富正之、アンリエット・ピュイグ=ロジェ、ベツィ・ジョラス、セルジュ・ニグ、ミシェル・フィリッポ他に師事。80曲以上に及ぶ作品の中にはフランス文化省、アンサンブル・アンテルコンタンポラン、IRCAM、ベルリンドイツ交響楽団、国立劇場、サントリー音楽財団、NHKその他からの委嘱作品がある。尾高賞(1996、2013)、サントリー音楽賞(2004)、紫綬褒章(2012)、日本芸術院賞(2018)他受賞。現在、東京文化会館音楽監督、静岡音楽館AOI芸術監督、東京藝術大学名誉教授、東京音楽大学教授。日本フォーレ協会会長、東京藝術大学附属高等学校同窓会会長。 https://ichironodaira.jp/




野平一郎:《間奏曲集 Interludes pour piano》(1992- ) 初演データ
第1番「ある原風景 (Un paysage d’origine)」1992年9月12日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
第2番「イン・メモリアム・T (In memoriam T.)」 1998年2月13日 越谷サンシティホール(野平一郎) [H.ルモワーヌ社刊]
第3番「半音階の波 (La vague de la gamme chromatique)」 2006年2月23日 東京オペラシティ(中嶋香、委嘱初演) [H.ルモワーヌ社刊]
●第4番「2つの和音 (Deux accords)」 2008年10月25日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
●第5番「1つのラインとその影 (Résonance de l’ombre)」 2008年10月25日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
●第6番「Jazzの彼方へ (Au delà du jazz)」 2008年10月25日 東京文化会館(野平一郎) [未出版〕
第7番 2014年11月25日 ロシア作曲家連盟ホール(「モスクワの秋」現代音楽祭)(関屋まき) [未出版] (※)初演に関するロシア語記事(
>Пожалуй, из иностранной части наиболее интересен японско-русский проект. Наши композиторы – Диляра Габитова и Мераб Гагнидзе – писали сочинения специально для Маки Секия и так или иначе в них отразилась японская традиция. В «Японской сюите» Габитовой это обработки японских песен, в Сонате № 37 Гагнидзе – широкое использование пентатоники. Зато в произведениях японских композиторов Ичиро Нодайры (Интерлюдия № 7) и Сомея Сато («Incarnation II»), наоборот, нет никакой прямой связи с японской традиционной музыкой, скорее, это видение музыки Запада с точки зрения Востока. В опусе Нодайры много природной стихийности; у Сато интересный эффект – быстрые репетиции и фигурации сливаются в сплошной звуковой поток, и форма этому потоку стопроцентно соответствует. Вообще для Маки не существует технических сложностей.



  《林の中の散歩道》(1985)、《日本古謡によるパラフレーズ》(さくらさくら/ずいずいずっころばし)(1987)、間奏曲第2番「イン・メモリアム・T (武満徹の追憶に)」(1998)、《響きの歩み》(1999/2000)、 《間奏曲第3番「半音階の波」》(2006)、《間奏曲第7番》(2014)


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《版画》以降のドビュッシー:ピアノ曲を中心に―――野々村 禎彦

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 クロード・ドビュッシー(1862-1918) の創作の中心だった歌曲と管弦楽曲はオペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) で集大成され、それを境に彼の作風は大きく変わった。この変化の核心は創作の中心がピアノ曲に移ったことで、イサーク・アルベニス(1860-1909) の成熟したピアノ曲を特徴付ける、「民俗音楽に由来する不均質な素材を異なったレイヤーに置いて多層的に組み合わせる」という発想を機能和声の制約を外して取り入れたことがその背景にある。この発想以前は声という特権的なパートや管弦楽の豊かな音色のパレットが彼の作曲には必要だったが、この発想を得てピアノ曲の無色で脱中心的な特徴を積極的に作曲に活かせるようになった。

 第一歩にあたる《版画》(1903) で、彼は当時の手持ち素材にこの発想を適用した。まずは、お蔵入りにしていた《忘れられた映像》(1894) の第3曲。フランスの童謡〈嫌な天気だから、もう森へは行かない〉をフランス・バロック鍵盤音楽風の変奏曲に仕立てようとしてうまくいかなかった曲だが、単層処理には向かない楽想は多層処理すればよいというのがこの発想。バロック音楽風素材が鳴り続ける中に、別レイヤーに置かれた童謡の素材が透かし彫りのように浮かんでは消える〈雨の庭〉に書き換えられた。この発想を知った後は民俗音楽の聴き方も変わる。1889年パリ万博でジャワのガムラン音楽を初めて聴いた彼は、早速《ピアノと管弦楽のための幻想曲》(1889-90) などでその音階を用いたが、1900年パリ万博で再びガムラン音楽を聴き、記憶が鮮明なうちにこの発想を得た彼は、「その側に寄るとパレストリーナさえ幼く見えるような対位法」こそがガムラン音楽の本質だと気付き、〈パゴダ〉が生まれた。レイヤー構造にマップされる音現象を広く「対位法」と捉える、拡張された対位法の感覚がこの発想を通じて得られたのである。

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 そして、発想の源泉であるアルベニスへのリスペクトは〈グラナダの夕暮れ〉で明示された。この曲を聴いたマヌエル・デ・ファリャ(1876-1946) は「アンダルシアの情景を最も正確に表現した音楽を、スペインを訪れたことのないフランス人が書くとは!」と感嘆したが、ドビュッシーはそれをアルベニスの作品を通じて聴き取っていた。グリーグの弦楽四重奏曲の特徴を抽出して自身の弦楽四重奏曲に生かしたように、彼の能力で最も突出していたのは他の作曲家の作品の本質を抽出する眼力だが、この曲で対象になったのはアルベニス作品だけではない。モーリス・ラヴェル(1875-1937) のデビュー曲《耳で聴く風景》の第1曲〈ハバネラ〉(1895) は、このキューバ生まれのスペイン舞曲の本質をリズムよりも固定音の使用に見たのが慧眼で、この着想も取り入れている。だが、ラヴェルはこれを参照ではなく盗用だとみなし、ドビュッシーは仰ぎ見る先輩から乗り越えるべきライバルになった。

 《版画》で殻を破った彼は、塩漬けにしていた《映像》に立ち返って第1集(1901-05)・第2集(1907)・《管弦楽のための映像》(1905-12) を含む大型契約をデュラン社と結び、ピアノ曲に積極的に取り組み始める。《仮面》(1904) 《喜びの島》(1904) はともに、エンマと駆け落ちを始めた時期に英国で書かれた。《喜びの島》は新生活の喜びをストレートに表現しており、彼の作品では例外的にスケールが大きく演奏効果も高い。他方《仮面》は、操り人形テーマ系列の歌曲の曲想を踏襲しているが、彼自身は「実存の悲劇の表現」だと述べている。作曲時期などを総合的に考えると、《喜びの島》は恋人エンマ、《仮面》は前妻リリーに仮託した音楽だと捉えてよいだろう。想いの深さの差が音楽の深さの差に直結しているのは残酷だ。

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 その後もラヴェルは彼に粘着し続けた。《鏡》(1904-05) の〈海原の小舟〉は《喜びの島》、〈道化師の朝の歌〉は〈グラナダの夕暮れ〉を明確に意識している。《版画》の完成から《映像第1集》の最終稿に着手するまでの間に彼は《海》(1903-05) を書き上げており、この経験を経て《映像第1集》は複雑な音楽に仕上がったが、美学的には多分に1901年の初稿(初演者ビニェスの回想で言及されているだけで、残ってはいない)に引きずられており、アルベニス由来のレイヤー書法の斬新な発想がストレートに出ているのは《版画》の方である。両者を統合した完成形が《映像第2集》だが、こうして性格小品の3曲セットという「様式」が確立すると、様式化・標準化された世界が得意なラヴェルが《夜のガスパール》(1908) で本領を発揮した。特に第2曲〈絞首台〉では、因縁の固定音の魅力が最大限に活かされており、コンサートピースとしてのポピュラリティではドビュッシーを乗り越えた。

 するとラヴェルは嵩にかかり、管弦楽曲でも彼を乗り越えようとする。《夜想曲》の2台ピアノ編曲を1909年、《牧神の午後への前奏曲》の連弾編曲を1910年に行っているのは、ドビュッシーの管弦楽法の本質を身に付けようとしたのだろう。《海》以降の「気の迷い」には目もくれないのもラヴェルらしい。「旋律と伴奏」では捉えられない、様式化・標準化を拒む音楽は相手にしなかった。バレエ音楽《ダフニスとクロエ》(1909-12) でその目論見は果たされ、今日の商業音楽教程の最終段階にあたる映画音楽の管弦楽法で「印象主義」とされるのは、この時完成されたラヴェルの管弦楽法に他ならない。他方ドビュッシーはもはや世評からは超然として、次世代を代表する作曲家に自分の音楽の真髄を伝えられればよいと割り切っていた。イゴーリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) の《火の鳥》(1909-10) がバレエ・リュスで初演された時、それにふさわしい作曲家を見出した彼は楽屋を訪れ、新作の進捗や作曲の秘密まで共有する親密な間柄になった。同じ年、ラヴェルは国民音楽協会に反旗を翻して独立音楽協会を設立し、ストラヴィンスキーもシェーンベルクやバルトークと並んで評議委員に名を連ねたが、名実ともに「進歩派代表」になった「スイスの時計職人」に心を許すことはなかった。

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 彼は《管弦楽のための映像》の〈イベリア〉(1905-08) を書き始めるにあたって、アルベニスの師ペドレルが編纂したスペイン民俗歌曲集とアルベニス《イベリア》第1巻(1905) を入手した。英国・スペイン・フランス民謡に基づく三幅対というコンセプトがこの曲集の出発点だったからだが、リスペクトする作曲家の久々の新作を読み込むにつれて構想は変化した。このピアノ曲集では同時代の彼と同じ段階までレイヤー書法が発展しており、単にスペイン民謡を素材にするだけではアルベニスを超えられない。そこで彼は、スペインの民俗音楽の本質を抽出してオリジナルな旋律を作り、それを用いて昼から翌朝までの時間経過を描くという大掛かりな構想に至った。全3曲に膨らんだ〈イベリア〉を書き上げた時点で彼は満足し、残る〈ジーグ〉(1909-12) と〈春のロンド〉(1905-09) は民謡に基づく2台ピアノ譜を「ドビュッシーらしい」管弦楽法で彩色するいう、実は彼らしからぬ「お仕事」になった。特に最後に完成した〈ジーグ〉では、管弦楽化を友人のアンドレ・カプレ(1878-1925) に委ねている。

 アルベニス《イベリア》を最後の第4巻(1907-08) まで購入した彼の関心は、《前奏曲集》(1909-10/11-13) として結実した「その先」のピアノ曲に向かった。アルベニス作品は依然機能和声の枠内で書かれ、ヴィルトゥオーゾ風の展開の残滓もあり、まだ発展の余地は大いにある。そこで、エンマとの間に生まれた娘クロード=エンマの誕生に際して書き始めた《子供の領分》(1906-08) を試行の場にした。〈象の子守唄〉と〈人形のためのセレナード〉は、途切れなく続く旋律で人形遊びの情景を素直に描いた曲、〈小さな羊飼い〉も単旋律の三部形式の平易な曲想を持つ。しかし〈ゴリウォーグのケークウォーク〉は、人形遊びとは言っても黒人人形を操るミュージック・ホールの音楽であり(この路線の端緒)、《トリスタンとイゾルデ》前奏曲の一節も引用される。そして〈グラドゥス・アド・パルナッスム博士〉と〈雪は踊っている〉は、各々クレメンティの練習曲を嫌々弾く子供の様子と雪が降り積もる様子の描写だが、最小限の要素の展開に絞ってすぱっと終わる潔さが《前奏曲集》の語り口に直結している。コンサートピースに求められる「スケール感」の大半は夾雑物であり、レイヤー書法を用いてしかるべく圧縮すれば、序奏も経過句もコーダも必要ない。

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 《前奏曲集》に関しては前回の解説で十分に触れたので今回は繰り返さない。アルベニス《イベリア》にならってヨーロッパ各地の民俗音楽素材を収集し、2ヶ月で一気に書いた第1巻(1909-10) に続き、より尖鋭的で抽象的な発想を2年かけて形にした第2巻(1911-13) の途中で書いたバレエ音楽《遊戯》(1912) が、《前奏曲集》の影響下に書かれた、議論に値する唯一の管弦楽曲である。彼とエンマは浪費家どうしの結婚で、1908年に《海》の再演を指揮して以来、自作指揮で生活費を稼いできたが、そのお座敷も減ってきたこの時期には、生活のための「お仕事」作品が増えていた。かのバレエ・リュスの委嘱である《遊戯》も、彼の意識では当初はそんな「お仕事」のひとつだった。だが、1人の青年と2人の少女がテニスを介した恋のゲームに興じるという取り留めのない筋書きに沿って音楽を付けてゆくだけで、抽象度が高く流れの方向の変化のみを純粋に結晶化した音楽が実現できることに気付き、真剣に取り組んだ。いまや彼は、音楽を自在に伸び縮みさせて舞台上のいかなる動きにも合わせる術を会得していた。

 初演の評判は、大きな批判もないが話題にもならない、ある意味最悪のものだった。《海》の時のように批判という形でもリアクションがあれば、後で挽回も可能なのだが。2週間後に初演されたストラヴィンスキー《春の祭典》(1911-13) のスキャンダルの陰で、《遊戯》は完全に忘れられてしまった。ただし、《春の祭典》の初演前に作曲者と連弾して試演していた彼は、この日が来るのは予期していた。むしろ彼は《春の祭典》を、《海》や《管弦楽のための映像》を発展させた音楽だと冷静に受け止めていた。一度は忘れられた《遊戯》は前衛の時代に、総音列技法の推進者たちが夢見た「形式の自由」を体現する音楽として再評価された。4管編成なのに室内楽的なテクスチュアの薄さも当時の時代様式に合っていた。シュトックハウゼンはその不連続性から「モメンテ形式」を着想し、ブーレーズは指揮者としても積極的に取り上げた。

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 《前奏曲集第2巻》の完成でピアノ曲では行くところまで行き、《映像第2集》でピアノ書法を完成させて以来休みなく作曲してきたモードは終わった。第一次世界大戦勃発後の1年弱は、全く作曲ができなかった。連続作曲モードに入って慢性化した痔が悪化して直腸癌に移行したことによる、体調の悪化と死への恐怖が原因だという見方もある。大戦が塹壕戦に移行して戦線が膠着すると、デュラン社は伝統的レパートリーの新校訂版を企画し、物資不足で大曲の委嘱がなくなった契約作曲家たちに校訂を依頼した(生活費を貸すよりも仕事を作った方がよい)。彼はショパン作品の校訂に取り組み、作曲への意欲を取り戻してゆく。1915年6月にノルマンディー地方の避暑地プールヴィルに移ると創作力は爆発し、夏の数ヶ月に一挙に4作を書き上げた。

 最初に書いたのが2台ピアノのための《白と黒で》(1915) だった。彼は無調は独墺系音楽に固有の傾向だと考え、戦時下の「フランスの音楽家」としてバロック時代の軽やかな調性に戻ろうとした。普仏戦争以来の独墺系音楽の優位への、第一次世界大戦を背景にしたラテン諸国の反発として大戦後の一大潮流になった新古典主義はこの作品が先駆だった。レイヤー書法を自在に扱えるようになり、調性の曖昧さに頼る必要がなくなったということでもある。特に第3曲はストラヴィンスキーに献呈されており、「自分の音楽の後継者に進むべき道を示す」という意図も込めていたのかもしれない。当時のストラヴィンスキーは、大戦勃発直前に里帰りした時に買い集めた民衆詩集にアンサンブル伴奏を付ける方向性に専念しており、しばしば目にする「ストラヴィンスキーの新古典主義に接近しすぎたので献呈した」という解説は全くの誤解だが、そのような誤解が生じるほど彼は時代を先取りしていた。

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 彼は次に「さまざまな楽器のための6つのソナタ」の企画書をディラン社に送る。《チェロとピアノのためのソナタ》(1915) は彼が偏愛したミュージック・ホールの音楽の総括(彼が耳にしたのはミンストレル・ショーや操り人形の音楽程度のはずだが、第2楽章は遠い未来のビバップのベースソロを思わせる音楽なのが、彼の想像力の凄いところ)、《フルート・ヴィオラ・ハープのためのソナタ》(1915) は《牧神》の最小編成による管弦楽法の総括(管弦の掛け合いプラス倍音奏法を多用したハープという「特殊楽器」が彼の管弦楽法には必要)だが、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》の本来の意図は旋律楽器の王者を用いた歌曲の総括で、残る《オーボエ・ホルン・チェンバロのためのソナタ》は彼のもうひとつの偏愛対象である古代ギリシャ風のアルカイックな音楽の総括、《トランペット・クラリネット・ファゴット・ピアノのためのソナタ》は管楽器の音色対比の総括、それまでに登場した全楽器とコントラバスによる合奏協奏曲で最後を飾る、迫り来る死を意識して「ドビュッシーのすべて」を書き遺そうとした企画だったのではないか。

 上記の推測は、この時期のもうひとつの作品《練習曲集》(1915) が、彼のピアノ曲の総括だったことに由来する。「四度」「六度」「装飾音」「反復音」などが集中的に現れる曲は音楽史上に殆ど存在せず、技術的練習曲としては奇妙なコンセプトだが、「ドビュッシーのピアノ曲の練習曲」と捉えると腑に落ちる。すなわち、〈5本の指のために〉は「チェルニー氏に倣って」という副題から想像される通り、型にはまった調性音楽のパロディの練習曲・〈三度のために〉は明確な調性を持っていた初期作品の練習曲・〈四度のために〉は五音音階などのエキゾティックな音組織の練習曲(小泉文夫の民俗音楽理論では、五音音階は四度のトリコードを重ねて生成される)・〈六度のために〉は「印象主義」を象徴する音組織の練習曲・〈オクターヴのために〉は祝祭的なトッカータの練習曲・〈8本の指のために〉はフランス・バロック鍵盤音楽風の軽やかな動きの練習曲・〈半音階のために〉は不規則に跳躍する半音進行で「無調」を表現する書法の練習曲・〈装飾音のために〉は装飾音をリズムのゆらぎと捉える練習曲・〈反復音のために〉は反復音で調性感を曖昧にする書法の練習曲・〈対比音のために〉は彼の内省的な作品を特徴付ける固定音の彩色という奥儀の練習曲・〈複合アルペジオのために〉は彼流の名技性を特徴付ける書法の練習曲・〈和音のために〉は新古典主義に移行して新たに加わった打楽器的な和音の扱いの練習曲である。

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 この4作を書き終えてパリに戻ると直腸癌は急速に進行し、年末に行われた手術はもはや手遅れであることを確認するだけのものだった。翌年は妻子の病気のために避暑に出かけることも叶わず、パリの自宅でうずくまっていた。《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》(1916-17) はそのような日々の中で秋から春にかけて書き進められ、初演では自らピアノを弾いた。飛翔するヴァイオリンをピアノが支え続ける、絶望的な日々から喜びの歌を絞り出した音楽はもはや「歌曲の総括」では全くない。アンヴィヴァレントな感情が吐露された、本来の意味で「ロマン主義的」な音楽には、シゲティ&バルトークからファウスト&メルニコフまで、その機微を汲んだ名演も少なくないが、生存証明のために書いた本来の音楽性とはかけ離れた作品に、彼自身は厳しい評価を下していた。このソナタは長らく彼の遺作とされていたが、2001年に《燃える炭火に照らされた夕べ》(1917) が発見された。上記ソナタ作曲中、石炭の入手に苦労していた彼に便宜を図った炭屋に謝礼として書いた小品だが、旧作ピアノ曲の断片を平明な経過句で結んだだけの曲で、この時期の彼はここまで衰えていたのかと暗然とする。調性に戻った最晩年が彼の本来の姿だなどと主張するのは、彼が積み重ねた創作への侮辱である。

 彼は道半ばで病に倒れた。もし彼が奇跡的に回復し、あと数年生きていたらと想像するのは虚しくもあるが、《ビリティスの3つの歌》(1897-98) 以後の歌曲は数年後の創作を予言する実験ジャンルになっており、全くの妄想というわけでもない。実際、《二人の恋人の散歩道》(1904-10) や《ヴィヨンの3つのバラード》(1910) は、新古典主義期の創作を予言する曲想を持つ。しかし《マラルメの3つの詩》(1913) は、跳躍を繰り返す旋律線と半音階的なピアノ書法が特徴的な、全く新しい道に踏み出している。もし共通する音楽を挙げるとしたら、フランスではブーレーズの声楽曲、同時代では中期ヴェーベルンのアンサンブル伴奏歌曲ということになる。この時期のヴェーベルンはストラヴィンスキーのアンサンブル伴奏歌曲を聴き、自身と共通する簡潔さに共感していた。大戦後のフランス新古典主義は六人組主導の享楽主義に向かった。彼はそれを見限って、新たな道に進んでいたかもしれない。




# by ooi_piano | 2023-01-10 05:58 | POC2022 | Comments(0)

3/22(金) シューベルト:ソナタ第21番/楽興の時 + M.フィニッシー献呈作/近藤譲初演


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