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【公開録音コンサート】
《アルス・ガリカの精華 ~サンサーンス没後100周年記念》
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2021年9月2日(木)19:00開演(18:30開場)
東音ホール (JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円

〈予約/お問い合わせ〉 一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) 本部事務局 〒170-8458 東京都豊島区巣鴨1-15-1 宮田ビル3F
TEL: 03-3944-1583(平日10:00-18:00) FAX: 03-3944-8838
peatix(ウェブ申込ページ)https://pubrec210902.peatix.com


●C.フランク(1822-1890):《交響的変奏曲 嬰ヘ短調》(1885、作曲者による2台ピアノ版)  16分
  Poco allegro - Allegro - Allegretto quasi andante - Molto piu lento - Allegro non troppo - Un pochettino ritenuto - Tempo primo
●V.ダンディ(1851-1931):《フランスの山人の歌による交響曲 Op.25》(1886/2021、米沢典剛による2台ピアノ版/世界初演)  24分
  I. Assez lent / Modérément animé - II. Assez modéré, mais sans lenteur - III. Animé
  --(休憩)--
●高橋裕(1953- ):《シンフォニック・カルマ》(1990/2020、米沢典剛による2台ピアノ版/世界初演) 24分
●C.サン=サーンス(1835-1921):《交響曲第3番 ハ短調 Op.78 「オルガン付」 ~F.リストの追憶に》(1886、作曲者による2台ピアノ版)[米沢典剛校訂]  34分
  I. Adagio / Allegro moderato / Poco adagio - II. Allegro moderato / Presto / Maestoso / Allegro

(※)ウェブ申込
 ①「Peatix ピティナ公開録音コンサート」で検索。またはQRコードより検索してください。
 ② 公演日とお支払い方法(クレジットカード・コンビニ・銀行振込)をご選択の上、お客様情報をご入力ください。
 ③ お支払い後発行される電子チケットを当日スマートホン画面上で表示いただくか、印刷してお持ちください。

(※※)TEL申込:03-3944-1583 / FAX申込:03-3944-8838
 お名前・座席数・ご連絡先電話番号をお知らせください。チケット料金は当日のお支払いとなります。
キャンセルの場合は速やかにご一報下さい。


高橋裕:《シンフォニック・カルマ Symphonic Karma》(1990/2020 米沢典剛による2台ピアノ版)
 カルマとは、想いや言葉、人間の行為までの全てを表し、業(ごう)と訳す。
 宇宙や自然界の法則でもあるカルマから、何人と言えども逃れる事は出来ない。
 空(くう)を切り裂くような冒頭の響きを聴いた時、それは天から突き付けられた己のカルマと感じた。
 この曲において、旋律は重要な位置を占めているが、それは重層に絡み合い、宇宙まで広がる音響空間を構成していく。
 今回、2台ピアノ版の話しを頂いた時に、3管編成のオーケストラの15~16声部にも及ぶポリフォニックな部分を、どう編曲するのか非常に興味があった(私の能力では到底不可能に思えた)。米沢典剛氏は一つの楽器が奏でるメロディーを 1 Piano から 2 Pianos へと、又はその逆へと橋渡しをしながらも、徐々に増えていくこの至難のポリフォニーを物にしていった。4手、20本の指では到底無理な部分も存在しているが、想像を超えた《シンフォニック・カルマ》の2台ピアノ版がついに生まれた。言うに及ばず演奏は編曲のそれ以上に至難の極みに達している。どのような音宇宙が現れるのか思いも及ばない!二人のピアニストの人間業とも思えないお力にすがり、2台ピアノの神の降臨を願うばかりである。
 オーケストラ版は1990年「時の会」管弦楽作品展において、岩城宏之指揮東京フィルハーモニー交響楽団によって初演され、第1回芥川作曲賞を受賞した。(高橋裕)

高橋裕 Yutaka Takahashi
  1953年京都に生まれる。1980年東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学音楽学部作曲科を経て 同大学院作曲専攻修了。《シンフォニア・リトゥルジカ》が日本交響楽振興財団作曲賞入賞。1983年《般若理趣交響曲》が世界仏教音楽祭コンクール第1位受賞。1987年国際カール・マリア・フォン・ウェーバー室内楽コンクールにおいて《弦楽四重奏曲》が第1位受賞。藤堂音楽賞受賞。1991年《シンフォニック・カルマ》が 第1回芥川作曲賞受賞。オーケストラ・アンサンブル金沢より笙とオーケストラのための《風籟》に特別賞が与えられる。京都新人賞受賞。1997年CD「シンフォニック・カルマ/高橋裕管弦楽作品集」がDENONよりリリースされ、レコード芸術の特選盤に選ばれる。2003年、高橋裕室内楽作品展を開催する。2014年には自らの指揮により和楽とオーケストラ・アンサンブル金沢とのコラボレーションによる「和と洋の想を聴く」を開催する。CD「宇宙の相を聴く/高橋裕室内楽作品集」をCAMERATA Tokyoからリリース。また2015、2016年には、オペラ《双子の星》(東日本大震災復興応援公演)を仙台・東京・盛岡で開催する。
  これまで東京藝術大学音楽学部ソルフェージュ科講師、同附属音楽高等学校教諭として長年後進の指導にあたった他、現在は名古屋音楽大学特任教授、大阪芸術大学客員教授として活動している。アプサラス会長を務める他、日本作曲家協議会会員、日ロ音楽家協会運営委員。

高橋裕:フォルテピアノ独奏のための《濫觴》(2020)



米沢典剛 Noritake Yonezawa
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  東京都出身。6歳よりピアノを始める。指揮法を増井信貴氏に師事。慶應義塾大学在学中、ホルン奏者としてオーケストラで活動するかたわら、横山淳(作曲家)、鈴木隆太(ピアニスト/オルガニスト)らと共に音楽集団「Meta Exhibition」を結成し邦人作曲家の現代作品の公演を企画・開催。近年は管弦楽曲や弦楽四重奏曲のピアノ用編曲を多数手掛けている。
主な編曲作品:バルトーク《弦楽四重奏曲(全6曲)》、ベルク《抒情組曲(全6楽章)》、ショパン《チェロ・ソナタ》、ヒンデミット《C.M.v.ウェーバーの主題による交響的変容》、ヤナーチェク《狂詩曲「タラス・ブーリバ」》、マーラー《葬礼》、ニールセン《交響曲第4番 「不滅」》、シェーンベルク《室内交響曲第2番》、シベリウス《交響詩「タピオラ」》、R.シュトラウス《皇紀2600年奉祝音楽》、ヴァレーズ《アルカナ》(以上ピアノ独奏版)、
アンタイル《バレエ・メカニック》、バルトーク《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽》、R.シュトラウス《アルプス交響曲》、ストラヴィンスキー《結婚》、ヴァレーズ《アメリカ》(以上2台ピアノ4手版)


■サン=サーンス(L.ゴドフスキー編):《白鳥》(1886/1927)
■サン=サーンス(G.ファウル編):《白鳥》 (1886/2019) [米沢典剛によるピアノ版]
■R.シューマン(サン=サーンス編):《夕べの歌 Op.85-12》

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国民音楽協会の精華―――中西充弥

  今回のプログラムのテーマは19世紀フランスにおいて設立された「国民音楽協会」となっております。まずはその創設の経緯から振り返ってみましょう。
  国民音楽協会はフランス語表記だとSociété nationale de musiqueとなり「ナショナル(国民)」との文字が入ることから、ナショナリズムにその一端を発しています。直接的な原因は、1870年7月に勃発した普仏戦争でした。外敵の存在により国内の結束を強めることになったのはもちろんですが、この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ヴィルヘルム一世(1797-1888)がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で皇帝戴冠式を行うことでドイツ帝国が成立し、アルザス・ロレーヌ地方を割譲させられるといった屈辱的な出来事により、怨恨、復讐心がフランス人の愛国心をさらに刺激し、かき立てることとなりました。

  社会的な背景を見た上で、当時のフランス楽壇はどのような状況であったか、見ていきましょう。20世紀前半に活躍した音楽学者、ポール・ランドルミー(1869-1943)はその著書『音楽史』において「1830年から1860年ごろまで、マイアベーアとオベールが劇場音楽の運命を牛耳っていた。[中略]劇場の外でさえ、ベルリオーズは聴衆に認められることができなかった。公衆を再教育し、音楽家に対し自分の芸術への敬意を引き戻させるには、長きにわたる努力が必要であった」と述べています。つまり、グラントペラ(グランド・オペラ)を頂点とする劇音楽が全盛で、交響楽、室内楽といった純音楽、器楽は顧みられることが無く、ドイツ音楽に対しウィーン古典派、ロマン派初期の期間、後れを取っていたのでした。実際、カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)によると「当時のフランスの作曲家が器楽の分野に挑戦しようものなら、自分で演奏会を主催して作品を演奏してもらうしかなく、友人と批評家を招待するだけで、一般の聴衆が来ることなど考えられない状態」でした。また、ガブリエル・フォーレ(1845-1924)は「1870年以前、私はソナタや四重奏曲を作曲しようとは夢にも思いませんでした。当時は若い音楽家にそのような作品を聴衆に聴いてもらえる機会は全くなかったのです。1871年にサン=サーンスが国民音楽協会を創立して、その主な活動がまさに若い作曲家の作品を演奏することだったので、作品に取り掛かったのです」と回想しています。

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  サン=サーンスはバリトン歌手のロマン・ビュシーヌ(1830-1899)と共同発起人となり、サン=サーンスの音楽サロン、月曜会の常連であった友人たちの賛同を得て1871年2月25日に国民音楽協会が創設されました。アルス・ガリカ(ガリアの芸術)を標語にしましたが、ガリアとはローマ時代のフランスの呼名で、ラテン語です。このスローガンのもとに参集した音楽家は、アレクシス・ド・カスティヨン(1838-1873)、セザール・フランク(1822-1890)、エルネスト・ギロー(1837-1892)、ジュール・マスネ(1842-1912)、ジュール・ガルサン(1830-1896)、フォーレ、テオドール・デュボワ(1837-1924)、ポール・タファネル(1844-1908)、アンリ・デュパルク(1848-1933)等、錚々たるメンバーが挙げられます。入会資格はフランス国籍保持者で、存命の作曲家の作品の演奏に限定するという、作曲家の互助組織の側面も持ち合わせていました。作曲家一人でホールを借り、演奏家を雇って自作を公開するには、多くの資金と労力を要します。これ以降もフランスでは「六人組」(1920)や「若きフランス」(1936)といった作曲家グループ(運動)が起きますが、資金調達や広報戦略の面で、若手作曲家が世に出るための有効な手段であったと言えるでしょう。とはいえ、祖国が戦争に負け、将来の先行きも見えない混沌とした時期に芸術運動を興すというのは大変驚くべきことです。さらに、戦争という外患のおかげで、という言い方は不謹慎ですが、これほど多くの考え方を異にする作曲家たちが一つの旗の下に一致団結できたのは一種の奇跡でした。

  さて、こうして華々しく活動を始めた国民音楽協会、15年も経過して今回のプログラムで取り上げる1886年前後になってくると「十年一昔」ではありませんが、世の中の潮流が変わってきます。時代の流れを順に追ってみましょう。
  先ほど、国民音楽協会創設前夜がオペラ全盛の時代であったことはお伝えいたしましたが、全く器楽が演奏されなかったかというと、そうではありませんでした。ただし、一言でいうと「ベートーヴェン崇拝の時代」と言えましょう。フランスで歴史と権威のある演奏団体と言えば、まずパリ音楽院演奏協会(現パリ管弦楽団)が挙げられます。1828年、指揮者フランソワ・アントワーヌ・アブネック(1781-1849)により創立されました。その名の通り、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)の教授、卒業生、在校生からなる組織で、フランスの音楽学校の頂点である同校の水準を反映した質の高い演奏で評価を得、定期会員の席は一種のステータス・シンボルとなるほどでした。この演奏協会においてアブネックが熱心に取り上げ、パリの聴衆を啓蒙したのが、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の作品で、この伝統は後継の指揮者にも引き継がれ、フランスにおいてベートーヴェンが神格化されたのでした。次いで1861年、指揮者ジュール・パドル―(1819-1887)によりコンセール・ポピュレール(現パドル―管弦楽団)が設立されます。ただし「ポピュレール」と名がつくように、広く大衆に交響音楽を聴く機会を提供することが目的でしたので、薄利多売方式を取りました。それは、このような器楽演奏団体が一般的でなかった時代の先駆けとして、採算を取っていくためには仕方のないことであったのかもしれません。よって、パドル―のプログラミングはドイツの管弦楽曲が主になり、ベートーヴェン、フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)、カール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)が基本となりました。パドル―は、同時代のフランス人作曲家に対しては「ベートーヴェンなみの交響曲を作れば演奏してあげるよ」と言うのを口癖にしていた、というエピソードが伝わるほどです。
  そして国民音楽協会を境に、1873年、指揮者のエドゥアール・コロンヌ(1838-1910)がコンセール・ナショナル(現コロンヌ管弦楽団)を創設します。同じく「ナショナル」とあるように、同時代のフランス人作曲家の作品を紹介することに力を注ぎ、コロンヌの後を継いだ作曲家・指揮者のガブリエル・ピエルネ(1863-1937)がクロード・ドビュッシー(1862-1918)やモーリス・ラヴェル(1875-1937)らの作品を擁護し、演奏会で取り上げたことは有名です。さらに、第4の演奏団体、新演奏会協会(現ラムルー管弦楽団)を指揮者シャルル・ラムルー(1834-1899)が1881年に立ち上げます。ラムルーも当時の前衛フランス音楽をプログラムに入れましたが、それだけでなく、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の作品のフランス初演によって差別化を図りました。

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  さて、当時のフランスを代表する四大演奏団体の成立の流れを俯瞰しただけでも、フランス楽壇の変化、特に興行形態と聴衆・支持者層の変化が見て取れます。演奏会の形態に関しては、限られた富裕な音楽愛好家による閉鎖的な集まりを脱し、より開かれた大衆化が図られました。プログラミングに関しては、ベートーヴェン一辺倒だったものが、ドイツへの反発によるナショナリズムからフランスの同時代音楽の優先的導入、今度はその反動でワーグナーの受容と流行という変遷をたどります。当然ながら、この時代の変化に国民音楽協会は対応を迫られることとなりました。その結果、1872年から86年まで会長を務めたサン=サーンスがビュシーヌと共に脱退することになります。
  直接的な原因として知られるのが、ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)による演奏会プログラムへの外国作品の導入提案でした。1886年11月26日の総会におけるこの提案の可決によりサン=サーンスらが脱退し、フランクを会長に戴く新体制へと移行しました。プログラミングの変化はまさにフランス楽壇の潮流を反映したもので、創設後10年以上経過してフランス人作曲家の新作だけで質の高い演奏会プログラムを組むことが難しくなり、硬直化した国民音楽協会を立て直す結果となります。とはいえ、ダンディの本音としては、ワグネリアンの仲間と共にワーグナーの作品の演奏を意図したものであり、当時ワーグナーから距離を取りつつあったサン=サーンスとの感情的な溝が深まっていたのでした。当然ながら、この一件はサン=サーンスとダンディをはじめとするフランク派(フランキスト)との対立を決定的なものとしてしまいましたが、1919年、サン=サーンスがダンディの著作『作曲法講義』に対するパンフレット『ヴァンサン・ダンディの思想』を発表したことでようやく和解が図られました。

  さらに、興行形態と聴衆・支持者層の変化も関わっていました。協会の硬直化の原因の一つが、その閉鎖性にあったのです。もともと、設立時の母体の一つとなったのが、サン=サーンスが開いていた音楽サロン、月曜会でした。サロンとは元は宮廷や貴族の邸宅で始まった社交界ですが、共和制の時代になると、元貴族や新興ブルジョワ、そして芸術家がサロンを開くようになります。上流階級の社交界ですから、当然ながら貴族趣味、エリート趣味の閉鎖的な世界となります。その延長線上にあった国民音楽協会も閉鎖的で、演奏会のチケットは一般売りされず、メンバーとその招待客に限られていたのです。フランス人作曲家の新作が演奏されるとヤジが飛んだ時代にあって、公衆やジャーナリズムとは隔絶したところで、前衛音楽に理解のある人だけで集まって新しい芸術とその聴衆を育てていこう、という組織でした。邸宅の一室で開催されていた音楽サロンが、ホールでの開催に拡大された、ということだったのです。現在の目から見ると、確かにスノビズムが鼻につくところはありますが、世の中の流れに沿った漸進的な変化という点では、合理的なシステムでした。しかし、10年以上も経過すると、先述した他の交響演奏団体も生まれてきて広く一般大衆にもフランスの前衛音楽の演奏が提供されるようになると、音楽サロン型システムでは時代遅れとなってしまいました。そこで、ダンディとエルネスト・ショーソン(1855-1899)らを中心とした新体制では、国やパリ市に対する公的助成の申請、有力紙への招待状の送付によるメディア露出の働きかけを行い、協会を「閉じられた」サロンから「開かれた」演奏会へと変化させます。このダンディの改革は時代の変化に対応したものであり、彼は中興の祖として必要なことを行ったと言えますが、サン=サーンスは残念ながら時代の変化についていくことができなかったのかもしれません。ただ、音楽サロンの文化はこの時代に全て無くなったわけではなく、20世紀前半に活躍したパトロン、ポリニャック大公妃(ウィナレッタ・シンガー、1865-1943)のサロンは有名で、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)やフランシス・プーランク(1899-1963)らの作曲家を支援しました。

  サン=サーンスは長生きをし、新しいことにも興味を持ちましたが、根本のところでは古典的、伝統的なものを大事にしましたので、サン=サーンスが立ち止まる中、時代が横を通り過ぎて行った感があります。とはいえ、サン=サーンスが生まれたのはベートーヴェンが亡くなった8年後で、神童としてデビューした1846年にはまだフレデリック・ショパン(1810-1849)が活躍していた頃から、1918年のドビュッシーの死を見届けるという音楽史的にも激動の時代、自分を見失わずに居続けられ、その作品が現在においても演奏され続けているというのは、稀有なことではないでしょうか。そして、国民音楽協会の脱退自体はサン=サーンスに大きな変化をもたらさなかったと考えられます。というのも、サン=サーンスは独立独歩のいわば一匹狼で、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)での教職に就いたことがなく、一門を形成しなかったからです。また、1881年に音楽アカデミー(芸術院)会員となり、公的にもフランス楽壇の重鎮の仲間入りを果たしましたので、国民音楽協会にしがみつく必要もなく、自分の信念や考えに沿って行動したまで、と言えましょう。サン=サーンスの場合、もともとフランス国内よりも国外で評価され、逆輸入という形でフランス国内のキャリアを積んできました。その代表例が、1877年ドイツのヴァイマルで初演された歌劇《サムソンとダリラ》です。というわけで、サン=サーンスの場合、フランス国内で作品発表ができなければ国外に活路を見出す、という努力は若い時からずっと孤軍奮闘で行ってきたので、彼にとって国民音楽協会という存在は自分のためではなく、後輩に提供する活動の場であったのです。自分が若い時にした苦労を掛けさせたくない、という親心から発せられたものと考えられ、だからこそダンディの提案に対しては、今まで行ってきた努力を無にされたように感じ、怒って脱退ということになったと考えられます。とはいえ今回のプログラムにおいて、サン=サーンスの《交響曲 第3番 op.78》はロンドン・フィルハーモニック協会の委嘱で1886年ロンドン初演、フランクの《交響的変奏曲》は1886年国民音楽協会で初演、ダンディの《フランスの山人の歌による交響曲 op.25》は1887年コンセール・ラムルーによって初演、と多様な作品発表の場が存在したことは、それだけフランスに器楽、純粋音楽が定着したことを物語っており、サン=サーンスが設立当初目指した成果(精華)は十分に果たせたと言えるでしょう。


中西充弥 Mitsuya NAKANISHI, musicology
9/2(木)サンサーンス《オルガン付》作曲者編2台ピアノ版+高橋裕《シンフォニックカルマ》2台ピアノ版世界初演 他_c0050810_16072358.jpg
京都大学文学部フランス語学フランス文学専修卒業。京都市立芸術大学大学院音楽研究科修士課程音楽学専攻修了。フランス政府給費留学生として渡仏、パリ第四大学ソルボンヌ(現パリ=ソルボンヌ大学)大学院博士課程に留学。2016年、サン=サーンスとその日本趣味に関する論文で博士号(音楽学/パリ=ソルボンヌ大学)取得。日本音楽学会正会員。NHK Eテレ「クラシックTV」『再発見!サン=サーンス 真の魅力』(2021年6月17日放送)監修、出演。カワイ出版『サン=サーンス ピアノ曲集』(2021)校訂。ウェブ連載『旅するピアニスト、サン=サーンス』等。専門はサン=サーンスを中心とした19世紀/20世紀フランス音楽史。

【著書/論考 リンク集】

# by ooi_piano | 2021-08-28 17:36 | コンサート情報 | Comments(0)
2021/08/09(月・祝) スペイン特集リサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》第2回公演 (07/26 update)_c0050810_07101195.jpg

大井浩明ピアノリサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》
Recital de piano Hiroaki OOI "Cuando escuché la pandereta"

松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
チラシpdf(


【第2回】 2021年8月9日(月・祝)15時開演(14時45分開場)
エンリケ・グラナドス(1867-1916):組曲《ゴィエスカス(ゴヤ風に)》(1911)
  I. 愛のことば(トナディーリャ) - II. 窓ごしの語らい(コプラ) - III. ともし火のファンダンゴ(ガヤルド) - IV. 嘆き、またはマハと夜うぐいす - V. 愛と死(バラード) - VI. エピローグ「幽霊のセレナード」 - (VII.) わら人形
  [使用エディション/Henle社新訂版(2015)]
マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946):《ファンタシア・ベティカ(アンダルシア幻想曲)》(1919)
エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959):《野生の詩(ルデポエマ)》(1921/26)
クリストバル・アルフテル(1930-2021):《カデンシア(ソロ第VIII)》(1983/93)

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スペインのクラシック音楽素描(後)――野々村 禎彦

 本稿の前半では、スペインのクラシック音楽の歴史を眺める際には、歴史が特に重要になることを示した。モラーレス、ゲレーロ、ビクトリア、ロボを輩出したルネサンス後期の最初の黄金時代は、スペインが中南米ほぼ全域(ポルトガル領のブラジル以外)を植民地化し、原住民から収奪した金銀で海軍を増強してヨーロッパの覇権を握っていた時代と一致する。それ以降は国力の衰えとともにクラシック音楽も停滞するが、19世紀後半に国民楽派運動とともに再び活性化する。そこで重要なのはスペイン王国成立以前、8世紀初頭から15世紀末までイベリア半島にイスラームが勢力を持っていた時期に、元々のローマ属領ヒスパニア時代のヨーロッパ人のキリスト教文化と北アフリカ人のイスラーム文化が交わって、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽の土壌が育まれたことである。

 スペインの国民楽派運動は、ヴァイオリンのサラサーテやギターのタレガら、ロマン派の伝統に民俗音楽の素材を乗せたヴィルトゥオーゾたちから始まるが、「スペイン国民楽派の父」フェリペ・ペドレル(1841-1922) の門人たちの作品はその範疇には収まらない。ペドレルはローマ留学中に当時は全く忘れられていたスペインのルネサンス音楽の伝統を知り、その高みに匹敵する音楽に至るために民俗音楽の力を借りようとした。フランドル楽派からローマ楽派に受け継がれた精緻なポリフォニーの探求がルネサンス音楽の本流だが、スペインのルネサンス音楽ではホモフォニーの表現性の探求が重視されており、民俗音楽との食い合わせは悪くない。前回の主役イサーク・アルベニス(1860-1909) は、元「神童」のヴィルトゥオーゾ・ピアニスト=作曲家として活動を始めたが、ペドレルの薫陶を受けて徐々に深化し、作曲の腕を磨くためにパリに居を定めてからは、ピアノ曲においては終生ドビュッシーを導き続ける境地に達した。今回は彼に続くペドレルの3人の弟子:グラナドス、ファリャ、ジェラールから始めたい。

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 エンリケ・グラナドス(1867-1916) は、バルセロナのリセウ高等音楽院でペドレルに作曲を学び、1887年にパリ音楽院留学のためにパリに向かった。折悪しく腸チフスに罹患し音楽院入学は果たせなかったが、パリの2年間は同音楽院ピアノ科教授から個人指導を受け、帰国後は主に室内楽奏者として活動した。パリ繋がりでティボーやヌヴーを伴奏し、スペイン国内ではクリックボーム弦楽四重奏団(チェロはカザルス)との共演が多かった。リセウ高等音楽院でピアノを教え、ペドレルの弟弟子たちも彼に学んだ。1901年から始めたアカデミア・グラナドスは彼の死後はフランク・マーシャルが引き継ぎ、ラローチャらを輩出した。

 彼には数曲の小オペラやサルスエラ、演奏仲間のために書いた数曲の室内楽もあるが、主な創作分野はピアノ曲であり、《12のスペイン舞曲集》(1892-1900) が出世作、大規模なプログラムを持つ組曲《ゴィエスカス》(1911) が代表作なのは衆目の一致するところである。ただし生前は作曲家の顔はピアニストとしての名声に隠れており、《ゴィエスカス》のオペラ化(1915) で勝負に出た。ヨーロッパ初演は第一次世界大戦勃発で流れたが、NYのメトロポリタン歌劇場から上演の申し出があり、翌1916年1月の初演は大成功を収めた。だが、夫婦で初演に立ち会った帰国の途にドイツ軍のUボートの攻撃を受け、アルベニスと同じく49歳の誕生日を待たずに亡くなった。彼の作品は初期から晩年まで、アカデミックな表街道を歩んできた素直さが特徴的であり、経歴も虚実織り交ぜて客商売の荒波を潜ってきた若き日のアルベニスとは対照的だ。最期も一度は救命ボートに引き上げられたが、波間を漂う妻を助けようと海に飛び込み、英仏海峡の底に消えた。素直な作風は実生活の反映でもあり、ペドレルの理念を最も体現していた。

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 マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946) は、コロンブス、ベラスケス、ノーベル賞作家ヒメネスらと並んでペセタ紙幣になった唯一の音楽家であり、複数のバレエ音楽や協奏曲が国際的に知られる、スペインでは最も著名なクラシック音楽の作曲家である。アンダルシアの港町カディスで生まれた彼がマドリードで育った時期は、音楽学者として知られ始めたペドレルがマドリード王立音楽院で教えていた時期でもあり、作曲を師事して故郷の音楽フラメンコの魅力を啓発された。1900年前後の彼は多作で、年に数作のサルスエラや劇付随音楽を書いたが、紛失したものも多い。この時期の最後を飾るオペラ《はかなき人生》(1904-05/13) は、王立サン・フェルナンド美術アカデミーのコンクールで優勝した出世作であり、元々の版は古式ゆかしい番号オペラだったが、パリ初演時にドビュッシーの助言で劇場オペラに改作され、オーケストレーションにも手が加えられた。

 1907年からパリに移住し、まずデュカスと知り合って《はかなき人生》を高く評価され、上演の試みが続けられ1913年にようやく実現した。次にアルベニスにラヴェルらを紹介されて芸術家集団「アパッシュ」に加わる。メンバーは、作曲家は彼らの他にフローラン・シュミット、カプレ、セヴラックら、演奏家はドビュッシーとラヴェルの1900年代のピアノ曲の大半を初演したリカルド・ビニェスや指揮者のアンゲルブレシュトらであり、初演時には賛否が割れたドビュッシー《ペレアスとメリザンド》を天井桟敷から熱烈に支持した自称「ゴロツキ集団」である。パリ時代にはドビュッシーやストラヴィンスキーとも親交を結び、バレエ・リュスの主宰者ディアギレフとも知り合ったが、創作ペースは大きく落ちた。「本物」の作曲家たちを目の当たりにして、気楽に書き飛ばせなくなった。

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 第一次世界大戦勃発に際してマドリードに戻った時、彼の創作力は爆発した。パリ時代を通じて書き進めていた《スペインの庭の夜》(1909-15) は、「もし全盛期のドビュッシーがピアノ協奏曲を書いていたら」という夢想を形にしたような音楽であり、アルベニス由来の「スペイン風」の要素も自然に織り込まれる。元々はピアノ曲として構想されていたが、ビニェスの助言を受けてピアノ協奏曲に書き換えられた。《恋は魔術師》(1914-15/15-16/24) は、「もし原始主義期のストラヴィンスキーがフラメンコを素材にバレエ音楽を書いていたら」という、「美味しいに決まっている組み合わせ」だが、室内バレエ音楽《ヒタネリア》→演奏会用組曲《恋は魔術師》→バレエ音楽という曲折を経て現在の形になった。《三角帽子》(1916-17/18-19) は、《恋は魔術師》の世界をさらに発展させ、バレエ・リュスの第一次世界大戦後最初の新作バレエとして初演された、文字通りの代表作である。この作品も、まずパントマイム《代官と粉屋の女房》として発表された後、ディアギレフの助言で大編成化と大幅な改稿が行われている。

 ファリャ作品における民俗音楽の要素は、アルベニスやグラナドスの作品ほど音楽の本質には根ざしておらず、多分に装飾的に使われている。一般的な「国民楽派」はロマン派の土台に民俗音楽の素材をまぶしたわけだが、ファリャの場合は土台がドビュッシーやストラヴィンスキーの最新様式に入れ替わっただけで、本質は似たようなものだと言えそうだ。実際、ストラヴィンスキーが新古典主義に転換すると(バレエ・リュスの《三角帽子》の次の新作が《プルチネルラ》に他ならない)早速追随し、人形劇《ペドロ親方の人形芝居》(1919-22) や《クラヴサン協奏曲》(1923-26) を書いたが、そこでは民俗音楽の要素は目立たない。第一次際大戦後のスペインでは左右の対立が激化し、彼は不安定な政情を避けてグラナダで隠遁生活を送っていた。1936年、スペイン内戦が始まり親友ロルカが殺されると彼は亡命を決意し、フランコ軍事独裁政権成立後の1939年にアルゼンチンに亡命し、そのまま同地で亡くなった。
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 ファリャより20歳年下のジェラールの世代になると、第二共和制からスペイン内戦に至る時期を隠遁生活でやり過ごすわけにはいかない。そこで、この時期に至るスペインの歴史を簡単に振り返る。英国との連合軍でナポレオン支配を打破して独立を回復したスペインでは、2年足らずの第一共和制(1863-64) を除いて王政が続いた。絶対王政と立憲君主制の間を行きつ戻りつしながらも、近代的な中央集権国家に近づいていった。ただし第一共和制後の立憲君主制は形骸化し、保守党と自由党の二大政党(各々が旧体制と新興ブルジョアジーの利益を代表)が談合し、地方支配層を巻き込んで選挙結果を操作し、両党が交互に政権を担当する体制が長らく続いた。この構造の恩恵を受けられない労働者やカタルーニャとバスクの民族主義者の不満は蓄積され、第一次世界大戦後の不況で爆発した。ストライキやテロが頻発する中で右派のプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、議会制度が諸悪の根源だと主張して憲法を停止し、独裁権力を握った。政治的混乱を収めるショック療法として当初は支持されたが、政権が長期化すると限界が露呈し、最後はバラ撒き政策で政権維持を図ったところに世界大恐慌が直撃し、1930年1月に首相を解任された。右に振れた振り子が今度は左に振れてリベラ独裁を認めた国王の責任が問われ、1931年4月には亡命に追い込まれた。

 こうして第二共和制が成立したが、第一共和制同様なかなか機能しなかった。左派はイデオロギーごとに小党に分かれ、またカトリック教会とは対立しているため民衆の広範な支持を得られず、左右は常に均衡していた。しかし1936年2月の選挙では、人民戦線戦術(左派が主義主張の違いを棚上げにして大同団結し、ひとまず政権を取る戦術)が功を奏し、人民戦線が政権を握った。教会領の没収など急進的な政策を続ける人民戦線政権を旧体制側は恐れ、陸軍右派グループが同年7月にモロッコで蜂起するとこぞって支持し、内戦が始まった。反乱軍を支持したのはドイツ、イタリア、ポルトガルと、ファシズムの仲間が増えることを期待した国々。対して人民戦線を支持したのはソ連とメキシコ、そして共産党の呼びかけで欧米諸国から義勇軍(国際旅団)が集まった。開戦当初はソ連製兵器の性能と士気の高さで人民戦線側が優勢な局面もあったが、1年を経て戦場にも慣れてくると、訓練と組織化のノウハウを持つ職業軍人からなる反乱軍の優位が明らかになり、この流れは最後まで覆らなかった。戦況が不利になると左派の宿痾たる内ゲバが始まり、ソ連に指揮された共産党一派は戦争は二の次で、トロツキストやアナーキストの粛清に勤しんだ。このあたりは国際旅団に参加したオーウェル『カタロニア讃歌』に詳しく、この時のソ連への失望が『動物農場』や『1984』に受け継がれた。内戦は1939年4月に終結し、フランコ独裁が始まった。

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 ロベルト・ジェラール(1896-1970) はピアノをグラナドス、作曲をペドレルに学んだ。グラナドスは1916年、ペドレルは1922年に亡くなっており、次の師匠を探したが、既に隠遁生活に入っていたファリャには断られ、パリでケックランに学ぼうとしたこともあったが、最終的にウィーンとベルリンでシェーンベルクに学んだ。ペドレルの兄弟子たちは文化的に近いフランスに迷わず留学したが、彼は別な道を歩んだのは、父はドイツ系スイス人、母はアルザス人という生まれながらのコスモポリタンだったことが大きい。シェーンベルクが12音技法を使い始めたのは1921年、確立して教え始めたのは1923年であり、彼は最初期の弟子のひとりである。彼は1928年にバルセロナに戻ると現代音楽普及活動に奔走し、ISCMバルセロナ大会(1936) の実行委員長を務めた。他方、音楽学者ペドレルの遺志も継いで、スペイン古楽の校訂やスペイン民謡の収集にも携わった。

 このようなジェラールの経歴とスペイン時代の作品には齟齬があるように見えるが、それは「カタルーニャ政府芸術省音楽顧問」「共和国政府社会音楽委員」という肩書きと大いに関係がある。左派と密接に関わって音楽政策に関与するということは、既に社会主義リアリズムに転換していたソ連の音楽政策に従うということでもある。シェーンベルクやヴェーベルンをバルセロナに招いて現代音楽の現状を紹介する一方で、自作ではカタルーニャ民族主義を守るというスタンスは、彼なりの落とし所だったのだろう。多くの共和国政府関係者同様、1939年に内戦に敗れると彼もフランスに亡命したが、同年中に英国に移住したのは賢明な判断だった。ヴィシー政権下での共和国政府関係者への処遇は過酷だった。彼は英国移住後もカタルーニャ民族主義による創作を続けたが、スペインを離れたらすぐ止めたのでは渡世の手段だったと認めるようなものなので、意地でも続けたのだろう。この時期の代表作《ヴァイオリン協奏曲》(1942-43) にしても、カデンツァが無調に傾く時に音楽は俄然生気を帯び、彼が本当に書きたかったものは明白だが、オペラ《The Duenna》(1947-49) まではこの作風を貫いた。

 大作オペラが放送初演されて彼もようやく踏ん切りがつき、ピアノ独奏のための《3つの即興曲》(1950) から本格的に12音技法を使い始めた。ここからが彼の本当のキャリアの始まりであり、4曲の交響曲(1952-53/57-59/60/67)、2曲の弦楽四重奏曲(1950-55/61-62)、カンタータ《ペスト》(1963-64)、管弦楽のための協奏曲(1965)、室内交響曲《Leo》(1969) は、同時期の戦後前衛のようなテクスチュアの目新しさこそないが、シェーンベルクがカーターのように長生きして作曲を続けていればきっとこんな曲を、と思わせる密度と強度を兼ね備えている。なお、交響曲第3番は全編にわたって電子音響と管弦楽の対話で構成されており、ジェラールの進取の姿勢を伝える(電子音のみの作品も多い)。この時期のジェラール作品に「スペインらしさ」を聴くことは、同時期のダラピッコラやペトラッシの12音作品に「イタリアらしさ」を聴くのと同様に建設的ではない。この時期にようやく、スペイン音楽は「スペインらしさ」から解放された。

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 ジェラールの次の世代にあたるのが、1930年にマドリードで結成された「スペイン8人組」の作曲家たちである。エルネスト・アルフテル(1905-89)、ロドルフォ・アルフテル(1900-87) 兄弟を中心に、ファリャにならって国民楽派に新古典主義美学をブレンドした(従って、名称も6人組にあやかった)グループであり、構成員の生年は1895-1906年に広がる。1930年代にはグループで活動していたが、スペイン内戦で空中分解した。アルフテル兄弟も、エルネストは戦火を逃れてリスボンで暮らしたが、政治的にはフランコを支持していた。他方ロドルフォは共和国政府に関わり、フランスを経てメキシコに亡命した。彼に限らず、共和国側に立った構成員には、メキシコやアルゼンチンなど中南米の旧植民地に亡命した者が少なくない。

 戦後世代に移る前に、年長世代で拾い損ねた2人に簡単に触れたい。ホアキン・トゥリーナ(1882-1949) は1905-14年にパリに留学し、スコラ・カントゥルムでダンディに作曲を学んだ。同地でファリャと親交を結び、第一次世界大戦勃発時には一緒に帰国している。帰国後は民俗音楽の素材を伝統的で堅実な書法の上に乗せた「国民楽派」のサンプルのような作品を、オペラからギター独奏曲まで幅広く残した。フェデリコ・モンポウ(1893-1987) は1911-14年にパリ音楽院でピアノを学んだが、極度に内気な性格で公開演奏はできないと悟り、ドビュッシーとサティに強く影響されたピアノ曲の作曲に転じた。第一次世界大戦を避けてバルセロナに戻り、1921年に再びパリに向かうと、かつて師事したピアニストたちが積極的に取り上げたことも手伝って認知が進んだが、1930年代は私生活に困難が続いて精神の平衡を崩し、1941年にナチスのパリ占領を避けてバルセロナに戻るまで全く作曲できなかった。もっともこの空白のおかげで、スペイン内戦と無縁な平穏な生活を送ることができたわけだが。1920年生まれのピアニスト、カルメン・ブラーボと1957年に結婚すると創作に弾みがつき、代表作《ひそやかな音楽》(1959-67) が生まれた。《歌と踊り》(1921-79) のような数十年かけて書き溜めた曲集でも様式変化を殆ど感じさせない、時代を超えた独自の作風を持つ。1974年に自作の全曲録音を行い、今日でも参照されている。

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 さらにここで、フランコ独裁についても少々。フランコは非常に狡猾で、反乱が成功する確証がない内戦初期には軍の指揮はエミリオ・モラに任せ、枢軸国とのパイプ作りに専念した。優勢が固まった1937年7月に、モラは都合よく飛行機事故で亡くなり、反乱軍の全権を掌握した(反乱軍にはもうひとり、ホセ・サンジュルジョという有力な将軍がいたが、蜂起直後に飛行機事故で亡くなった)。反乱軍にとって独伊の支援は命綱で、艦船の提供がなければ初動で部隊を本国に動かすことすらできなかったが(海空軍は共和国側に立った)、第二次世界大戦が始まっても内戦による国力の消耗を理由にスペインは中立を守った。国内にも参戦を待望するナチス支持者は多かったが、独ソ戦が始まると彼らを義勇軍として送り込んで始末したのは極め付けで、大戦の推移を読み切っていたかのような立ち回りだった。戦後は非民主的な独裁体制が非難され、EECへの加盟も許されなかったが、冷戦が進めば南アフリカのアパルトヘイト体制同様、ソ連封じ込めを優先して黙認されることも見越していた(フランコを排除すれば、共和国亡命政府が復帰して親ソ国が生まれる公算が高い)。独裁はフランコ一代限り、死後は王政復帰と国民投票で可決して米国の支持を取り付け、「スペインの奇跡」と呼ばれる1960年代の高度経済成長で積年の課題だった経済も安定した。フランコは1975年に亡くなり、政権を引き継いだカルロス国王が立憲君主制を選んだことで共和国亡命政府も解散し、民主化を経て国際社会に復帰した。

 かように狡猾なフランコは、ナチスドイツのように前衛芸術を抑圧することはなく、むしろ抑圧的なソ連との違いをアピールする意味も込めて前衛芸術を推進した(ただしカタルーニャ・バスク民族主義に連なる芸術は厳しく弾圧した)。すると戦後前衛音楽も興隆し、「51年世代」という20人近い大所帯のグループが生まれた。構成員の生年は1925-37年に広がり、現代詩の「27年世代」(ロルカやノーベル賞詩人アレイクサンドレを含む)にならった名称を持ち、結成時点では多くの作曲家がセリー主義を採用していた。なかでも傑出しているのがクリストバル・アルフテル(1930-2021) とルイス・デ・パブロ(1930-) である。C.アルフテルは「8人組」のアルフテル兄弟の甥であり、1951年にマドリード王立音楽院を修了して指揮者としてのキャリアを順調に重ね、作曲家としても評価されて1961年から母校の教授として作曲を教える、エリート中のエリートである。他方パブロは作曲はほぼ独学、マドリードの名門・コンプルテンセ大学法学部を卒業した後、映画音楽で生計を立てながら(ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』(1973) の音楽が特に知られる)演奏会企画などを通じて現代音楽の普及に勤しんだ。ふたりの経歴は対照的だが、各々の管弦楽作品を集めたLPがWERGOレーベルから1969年に発売され、スペインの作曲水準を世界に知らしめた。

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 60年代のふたりは徹底的に厳しいセリー音楽の書き手だったが、前衛の時代が終わると書法に柔軟性が加わってくる。C.アルフテルの場合は、70年代半ばから90年代にかけて多くの協奏曲を書き、調性的な旋律の扱いを手に入れた。ただし《スペインの7つの歌》(1992) は前衛の時代と変わらない厳しい書法で貫かれ、調性的旋律の導入は不可逆な変化ではなく、編成や演奏機会に応じたオプションと捉えるべきだろう。パブロの場合は自作台本の最初のオペラ《Kiu》(1979-82) を契機に、音色と音響の空間性により配慮するようになった。武満徹がパブロをサントリーホール国際作曲委嘱シリーズに選んだのは、独学で映画音楽で生計を立てていたという経歴への親近感に加えて、作風にも共感するものがあったのだろう。こうして生まれた《風の道》(1987) は、武満監修時代のシリーズ最高傑作となり、パブロの代表作のひとつでもある。C.アルフテルは《ドン・キホーテ》(2000)、パブロは《クリスティーナ》(1997-99) という集大成的なオペラを同時期に書き、ともに90歳を超える長寿を全うし、ふたりは最後まで並走していた。

 「51年世代」には、ネオ・ダダを経てケージとインスタレーション作品《失われた沈黙》(1978) を共作したフアン・イダルゴ(1927-2018) のような作曲家も含まれ、全体像を知るスポークスマンを必要としていたが、その役割を担ったのは一世代下のトマス・マルコ(1942-) だった。彼の創作姿勢はヨーロッパ現代音楽のあらゆる潮流を模倣することだが、イダルゴ、ワルター・マルチェッティらが結成したネオ・ダダのグループZajにまで参加してしまうバイタリティは貴重である。彼は評論家・放送ディレクター・編集者・オーガナイザーなどの肩書きでスペイン現代音楽振興に尽力し、スペイン現代音楽を紹介した著作も多い。

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 フランシスコ・ゲレーロ(1951-97) は、音楽教師の父親や身の回りの音楽家に最初の手ほどきを受けた以外は、ほぼ独学で作曲を学んだ。1968年にパブロと知り合って強い影響を受け、翌年にあるパブロの曲を模して書いた作品でファリャ作曲賞を受賞している。1971年にマドリードに上京し、パブロが創設した電子音楽スタジオに参加した。1973年にはユネスコ国際作曲家会議・イタリア賞・ガウデアムス賞に入選している。1974年には図形楽譜研究グループを結成しており、この時期の主な関心は偶然性の探求だった。だが彼は1976年から、組み合わせ論を用いて大量の音群を操作する、新しい作曲法に取り組み始める。シェルシや裏スペクトル楽派(ラドゥレスク、ドゥミトレスクら)の研究で知られる音楽評論家ハリー・ハルブライヒやクセナキスに激賞され、彼の評価はヨーロッパで高まってゆく。1983年には代表作となる弦楽器のための連作《Zayin》シリーズ(1983-97) にも取り組み始めた。

 しかし1985年から1988年にかけて、彼は作曲を止めた。それまでの方法論に限界を感じ、新しい方法論を模索していた。彼が作曲を再開したのは、組み合わせ論とフラクタル理論を結びつけ、内部構造を自律生成する方法論を編み出したことによる。この方法論は、当時作曲を教えていたアルベルト・ポサダス(1967-) と共同で開発したが、方法論を共有してはいても、ゲレーロとポサダスの作風はあまり似ていない(高橋悠治がクセナキスに師事し作曲技法を共有していた時期でも、作風はあまり似ていなかったように)。ゲレーロの作風の本質は大量の音群を詰め込む志向にあり、方法論自体ではないということだ。この方法論はコンピュータに乗せることが可能で、そうして作られた最初の作品《Sahara》(1991) は、彼の5曲の管弦楽曲の中でも特に演奏機会が多い。《Zayin》シリーズは彼の死の直前に完成し、アルディッティ弦楽四重奏団が初演して録音も行っている。早すぎた晩年に彼が最後に取り組んだのは、アルベニス《イベリア》全曲のオーケストレーション(1994-) だった。この仕事は未完に終わったが、数学的方法論を極めたゲレーロが最後に戻ってきたのが《イベリア》だったことは、この作品のスペイン音楽史における存在感の大きさを示している。


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# by ooi_piano | 2021-08-08 00:51 | コンサート情報 | Comments(0)

「スペインもまた東洋なのである。なぜなら、スペインは半分アフリカであり、アフリカは半分アジアだからである」
"l’Espagne c’est encore l’Orient ; l’Espagne est à demi africaine, l’Afrique est à demi asiatique."
ヴィクトル・ユーゴー《東方詩集》(1829)
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大井浩明ピアノリサイタル《タンバリンが鳴り渡る時》
Recital de piano Hiroaki OOI "Cuando escuché la pandereta"

松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
チラシpdf(


【第1回】 2021年7月3日(土)15時開演(14時45分開場)
イサク・アルベニス(1860-1909):草原(ラ・ベガ)(1897)
■同:《イベリア》(1905/08、全12曲)
  I. 霊振(エボカシオン) - II. 港(カディス) - III. セビリアの聖体祭 - IV. ロンデニャ - V. アルメリア - VI. トゥリアナ - VII. エル・アルバイシン - VIII. エル・ポロ - IX. ラバピエス - X. マラガ - XI. ヘレス - XII. エリタニャ
  [使用エディション/Henle社新訂版(2007-2013)]
フランシスコ・ゲレロ(1528-1596):《聖母マリアのモテトゥス「愛でたし聖らけき処女」」》(1566)
フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、日本初演


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エンリケ・グラナドス(1867-1916):組曲《ゴィエスカス(ゴヤ風に)》(1911)
  I. 愛のことば - II. 窓ごしの語らい - III. ともし火のファンダンゴ - IV. 嘆き、またはマハと夜うぐいす - V. 愛と死(バラード) - VI. エピローグ「幽霊のセレナード」 - (VII.) わら人形
  [使用エディション/Henle社新訂版(2015)]
マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946):《ファンタシア・ベティカ(アンダルシア幻想曲)》(1919)
エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959):《野生の詩(ルデポエマ)》(1921/26)
クリストバル・アルフテル(1930-2021):《カデンシア(ソロ第VIII)》(1983/93)

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まぶしすぎるくらいのたいようのひかり。いきものがあらわれれば、まっくろなかげがうらがわにあらわれる。
いきることははげしいいとなみで、しぬことはいつもいとなみとともにある。
エスパーニャにはかすたねっとのりずむがひびく。かわいたろじょうに、ひとがひしめきあうせまいいしだたみのみちに。りずむはひとをそとへみちびく。ひとはそれぞれのがっきをもっている。りずむがっきだけではなく、げんをはじいてかきならすがっきも。それらだけではなく、てもあしもがっきになり、こえもでてくればうたになる。
そらははれわたり、ひとびとはたかいやまにむかう。よろこびにみちたひとたち。とめるものもまずしいものも、ちいさいひともおおきいひとも、のぼりきればおんちょうにみたされて。うたとおどりをくりひろげながらおりていく。
いきるときはみじかく、あまりにみじかく、またたけばおわる。しはぬすっとのようにはやくくる。われら、しをめざしてはしらん。それがいきること。いきることをよろこぶことだ。(山村雅治)



スペインのクラシック音楽素描(前)――野々村 禎彦

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 イベリア半島には、8世紀初頭から15世紀末までイスラームが勢力を持ち(アル=アンダルス)、ヨーロッパでも特異な位置を占めている。民俗音楽や食文化をはじめ、イスラーム由来で北アフリカ文化の影響を受けており、ヨーロッパではエキゾティシズムの対象になった。元々はローマ属領ヒスパニアとしてキリスト教文化が土台にあり(イスラーム支配下でも税金を払えば信仰を許された)、キリスト教徒はイスラーム支配直後からレコンキスタ(再征服)運動を開始した。アル=アンダルスはイスラーム帝国ウマイヤ朝が領土を北アフリカに拡大する過程で成立したが、革命が起こりアッバース朝に交代しても、ウマイヤ朝の残党はアル=アンダルスを拠点に後ウマイヤ朝を再興して対抗した。イスラーム帝国西方の辺境ではなく、自称「正統王朝」の中心地となったことでアル=アンダルスは発展した。首都コルドバの人口は10世紀には50万人を超え、ヨーロッパ最大の都市になった。

 だが後ウマイヤ朝は1031年に内紛で消滅し、イスラーム支配地域は小国(タイファ)に分裂してレコンキスタが進んでゆく。新たに生まれたキリスト教諸国は統合に向かい、1143年にはポルトガル王国が成立した。残る国々もカスティーリャ王国とアラゴン連合王国に集約され、イスラーム支配地域は13世紀にはグラナダ王国のみになった。1469年、カスティーリャの女王とアラゴンの国王が結婚してスペイン王国が成立し、1492年のグラナダ陥落でレコンキスタは終結した。スペインがレコンキスタの仕上げに国力を割く間に、ポルトガルはイスラームの帆船と測量の技術を受け継いで遠洋航海に乗り出し、アフリカ西岸を南下する航路を開拓しながら1488年には希望峰に到達した。地中海貿易を独占するイタリア商人を出し抜いて直接インドを目指す、大航海時代の幕開けである。

 グラナダが陥落するとスペインも早速遠洋航海に乗り出し、同1492年にコロンブスは西廻り航路でアメリカ大陸を「発見」した。コロンブス艦隊が行ったのは西インド諸島における略奪と大虐殺に過ぎないが、この「成果」を受けてローマ教皇はアメリカ大陸の大半の地域でスペインに植民地化の優先権を与えた(トルデリシャス条約:経度による分割であり、南米大陸東端のブラジルのみポルトガルの勢力圏になった)。コンキスタドールたちはコロンブスの航路を辿って中米全域・南米カリブ海沿岸・メキシコ(現在の米国中西部を含む広大な地域)を順次征服し、海上交通の要衝として発展したパナマを経て南米太平洋沿岸も征服した。コンキスタドールたちの植民地経営は、コロンブスに倣った絶滅政策だった。アステカ・マヤ・インカの古代文明を滅ぼし、原住民はこれらの文明を支えた貴金属鉱山の奴隷として使い潰した。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の流行も相まって原住民は激減し、奴隷が不足するとアフリカから黒人を連行して補った。

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 このような中世からルネサンスにかけてのスペインの歴史は、スペインのクラシック音楽を眺める上で背景として欠かせない。スペインがクラシック音楽の表舞台に現れたのは、中南米から収奪した金銀で海軍を増強し、イタリア諸都市やベネルクス三国(いずれもハプスブルク家領)からフィリピンまで広がる大帝国としてヨーロッパの覇権を握っていたルネサンス後期の百年(「黄金世紀」)と一致している。一般的なクラシック音楽史観ではルネサンス前期を代表するのはブルゴーニュ楽派、中期を代表するのはフランドル楽派であり、後期になってようやくイタリアが作曲でも中心になった(宗教音楽の演奏の中心は一貫してイタリアだった)。保守的なローマ楽派(パレストリーナ、アレグリら)、革新的なヴェネツィア楽派(ローレ、G.ガブリエーリら)、極度に半音階的で異端のジェズアルドらが代表的な作曲家であり、ヴェネツィア楽派を締め括ったモンテヴェルディがバロック音楽への扉を開いた(ベートーヴェンが古典派とロマン派を繋いだように)。

 だが、この時期のイタリアの作曲家たちは総じて、ひとつの時代の終わりの閉塞感が強すぎるように思われる。他方、この時期のスペインを代表する4人の作曲家――クリストバル・デ・モラーレス(ca.1500-53)、フランシスコ・ゲレーロ(1528-99)、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)、アロンソ・ロボ(1555-1617)――の音楽性は、ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派を代表する4人の作曲家――デュファイ、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッソ――と対応している:時代の始まりにふさわしい大らかな魅力、時代様式の可能性を突き詰めた実験性、時代様式を俯瞰する円熟した表現、時代の終わりにふさわしいマニエリズム。ただしこの対応は、音楽性に関するもので作風の類縁性を意味するものではない。ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派はポリフォニーの可能性を探求したのに対し、スペインの作曲家は複雑なポリフォニーは避け、ホモフォニーの表現性を探求した。特に実験的なゲレーロの音楽には、バロック初期を先取りした機能調性の萌芽が見られる

 それ以降で目立つのは、バロック後期の鍵盤音楽の大家ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757) が後半生をスペインで過ごし、その弟子筋のアントニオ・ソレール(1729-83) が前期古典派の鍵盤音楽で異彩を放った。古典派ではルイジ・ボッケリーニ(1743-1805) が後半生をスペインで過ごした他、ホアン・クリソストモ・アリアーガ(1806-26) とギター音楽をクラシック音楽の1ジャンルに昇華した作曲家=ギター奏者フェルナンド・ソル(1778-1839) くらいだろうか。ルネサンス後期と比べると寂しい並びだが、ひとつの理由はサルスエラというスペイン独自の音楽劇が発展し、音楽的才能がそちらに流れた(イタリアにおけるオペラのように)ことが挙げられる。

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 ただしより根本的な要因は、スペインの国力の衰えである。元々の地場産業は「メリノ羊」として知られる高品質の羊毛生産だが、大航海時代にはイスパノアメリカ植民地からの収奪が「主要産業」になった。だが、1588年のアルマダ海戦で無敵艦隊が英国海軍に敗れ、1648年には八十年戦争の末にオランダが独立し、これらの新興新教国が植民地支配のライバルになってゆく。植民地の貴金属鉱山が枯渇し始めても、植民地を結ぶネットワークに新たな可能性はあった(インドネシア香料諸島の領有を争う国々を尻目に、種子だけ持ち出して気候の近い植民地で大規模栽培した英国のように)が、コンキスタドールの後継者たちに植民地経営を任せてきたスペインではそれも難しかった。

 そして、19世紀初頭のナポレオンによるイベリア半島支配から決定的な凋落が始まった。「メリノ羊」の独占権を失い、強大な海軍力も失った宗主国に上前をはねさせるメリットはなく、イスパノアメリカ植民地では独立運動が始まった。植民地の白人(クリオーリョ)の一部の反乱に留まるうちは王党派とスペイン軍で抑えられたが、シモン・ボリバルらヨーロッパで自由主義を身につけたクリオーリョ出身のリベルタドールたちは、私財を投じて解放した奴隷たちを解放軍に組み込み、1825年までにイスパノアメリカほぼ全域の独立を勝ち取った。スペイン本国では、ナポレオンによる支配が終わると王政が復活して中産階級の形成は遅れ、産業革命も起こらなかった。例外はカタルーニャ地方の紡績業とバスク地方の鉄鋼業だが、地理的には北部の東西の辺境にあたり、むしろ今日に続く分離独立運動の火種を抱えることになった。1898年の米西戦争で残る植民地(キューバ・プエルトリコ・フィリピン)もすべて失い、工業化の遅れたヨーロッパ南端の小国のみが残された。

 だが、国力の凋落とともにクラシック音楽の伝統も衰退する一方だったわけではない。ヨーロッパの覇権を取り戻すことは不可能でも、キリスト教文化とイスラーム文化、ロマを含むヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がスペインには残っている。ロシアや東欧と同様の国民楽派運動から、スペインのクラシック音楽は再び活気を取り戻す。この動きは独奏楽器のヴィルトゥオーゾたちから始まった。ヴァイオリンではパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)、ギターではフランシスコ・タレガ(1852-1909) とその後継者たち、そしてピアノでは本公演の主役、イサーク・アルベニス(1860-1909) に他ならない。

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 ただし、アルベニスの作風は先行するヴィルトゥオーゾたちとは一線を画している。その背景は、「スペイン国民楽派の父」として知られる音楽教師=作曲家のフェリペ・ペドレル(1841-1922) と1883年に出会って薫陶を受けたことにある。ペドレル自身の作風はさておき、彼が門人たちに求めたのはロマン派の伝統に民俗音楽の素材をまぶしたような音楽ではない。彼はローマ留学中に同地の古文書館で、当時は全く忘れられていたスペインのルネサンス音楽の伝統を知り、後にビクトリア作品全集を刊行している(1902-13)。彼が求めた「スペイン国民楽派」とは、同時代の音楽とは隔絶したルネサンス時代の高みに匹敵する音楽であり、ロマン派の伝統には収まらない民俗音楽の要素がヒントになるはずだという信念だった。彼の弟子には実際、エンリケ・グラナドス(1867-1916)マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)、ロベルト・ジェラール(1896-1970) という、「国民楽派」の枠を飛び越えて近代スペイン音楽を代表する作曲家たちが並んでいる。

 ジャンルを問わず、音楽は世代論で語られがちな傾向があるが、近代クラシック音楽では特に顕著だ。端的に言えば、ドビュッシー(1862-1918)、シェーンベルク(1874-1951)、アイヴズ(1874-1954)、ラヴェル(1875-1937)、バルトーク(1881-1945)、ストラヴィンスキー(1882-1971)、ヴァレーズ(1883-1965)、ヴェーベルン(1883-1945)、ベルク(1885-1935)、ヒンデミット(1895-1963) と、音楽史を代表するとされる作曲家はことごとく10年周期の前半に生まれている。この10年周期の要因は、内在的には作曲家が修行時代を終えて個性を確立し、次世代を導き始めるまでにほぼ10年かかること(シェーンベルクとヴェーベルン&ベルクの年齢関係がまさにそうなっている)、外在的にはマスメディアの強い影響下にある資本主義社会では、流行のサイクルは10年程度であること(トレンドを10年周期で総括する呪いが創作状況にもフィードバックしてしまう)が挙げられる。各々前半に集中しているのは偶然といえば偶然だが、パリとウィーンという当時のクラシック音楽の中心都市で、ドビュッシーとシェーンベルクという主導的な作曲家が偶々このサイクルに合わせて出現したことで、その後が定まってしまったのだろう。

 ここで問題なのは、スペイン近代を代表する上記作曲家たちは、ことごとく10年周期の後半に生まれていることだ。実は彼らは10年周期前半を代表する作曲家たちに匹敵しているとまでは言わないにしても、プーランク(1899-1963) がミヨー(1892-1974) やオネゲル(1892-1955) と比べて過小評価されているのと同程度には過小評価されている。また、ルネサンス後期のスペインを代表する作曲家たちが活動したのはローマだったように、彼らが活動したのはパリだった。

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 ピアニスト=アルベニスは4歳から公開演奏を始め、1875年のプエルトリコとキューバでの演奏会は新聞記事になった。この間を繋ぐエピソードとして、「6歳でパリ音楽院入学を認められたがボール遊びで控室の鏡を割って取り消された」に始まる、世界を股にかけて家出と密航を繰り返す波乱万丈の物語が用意されているが、大半が作り話のようだ。むしろこれは、ヴィルトゥオーゾ=アルベニスの顧客がどのような物語を求めていたかを示している。「神童」の賞味期限が切れた1876年にブリュッセル王立音楽院に入学してピアノと作曲を正式に学び、首席修了後に憧れのリストに師事を願ったが叶わず、結婚してバルセロナに住み始めた時、同地歌劇場の音楽監督を務めるペドレルと出会った。

 ただしペドレルの影響は、ただちに現れたわけではない。アルベニスは1885年にマドリードに移住し、ヨーロッパ各地で演奏して「スペインのルビンシテイン」として知られるようになり、スペイン王家に出入りして作曲家や教師としても認められた。この時期の《スペイン組曲第1番》(1886) がペドレルの影響が見られる最初の作品とされるが、まだ民俗音楽の断片を用いたサロン音楽に過ぎない(彼の死後、後期作品も勝手に含めた版も出版されており紛らわしい)。とは言ってもモダニズム以前、ドビュッシーも《小組曲》(1986-89) や《2つのアラベスク》(1888-91) すら書き始めていない時期ではしかたない。1890年、銀行家マニー=カウツのお抱え作曲家としてロンドンに移住し、英語オペラを書きながら演奏活動も続けた。《スペインの歌》(1892/98) はその合間に書かれたが、その書法は後のドビュッシーの方向性を予言している。

 彼は1894年にパリに居を移すが、マニー=カウツは終生彼を援助し続けた。今回の移住の目的は、パリの優れた作曲家たちと交流して作曲の腕を磨くことであり、例えばアルハンブラ宮殿を描いた《ラ・ベガ》(1897) は《スペインの歌》からさらに踏み込んだ内容を持ち、この曲を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執っており、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。歌曲と管弦楽曲ではいち早く時代の先頭に立ったドビュッシーもピアノ曲ではなかなか壁を破れなかったが、ようやくブレイクスルーを果たした《版画》(1894-1903) の3曲は、そこでドビュッシーが参照したものを物語る。旧作リライトの〈雨の庭〉はフランス・バロック鍵盤音楽、〈塔〉はガムランなど東南アジアの民俗音楽、そして〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニスのピアノ曲に他ならない

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 1900年頃から腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、彼は教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復して療養に努めたが快方には向かわず、仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで49歳を迎える直前に亡くなった。本日のメイン曲目《イベリア》(1905-08) は、全12曲80分に及ぶ「12の新しい印象」であり、内容的にも規模的にもドビュッシー《前奏曲集》(1909-10/1911-13) が想起されるが、《前奏曲集》の作曲中(そしてその後も)、ドビュッシーのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。20世紀音楽の扉を開いたドビュッシーを、少なくともピアノ曲では生涯にわたって(個人的な関係ではなく、作品を通じて)導き続けた唯一の作曲家がアルベニスである




# by ooi_piano | 2021-06-28 17:56 | コンサート情報 | Comments(0)

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_02444486.jpg
大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って
Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
使用楽器:ハンブルク・スタインウェイ
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
後援  一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA) 
チラシpdf 第3回

・開場時間は14時45分です。開場時間より前にご入場は頂けません。
・場内では、マスクの着用をお願い致します。
・客席は安全に考慮し、使用座席数を減らしております。
・演奏中の水分補給等はご自由にどうぞ。
・キャンセルの場合は、すみやかにご一報をお願い致します。



【第3回公演】2021年3月14日(日)15時開演(14時45分開場)
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_23445230.jpg
●C.V.アルカン(1813-1888): 《全ての短調による12の練習曲 Op.39》(1857、関西初演)
Charles-Valentin Alkan : Douze études dans toutes les tons mineurs en deux suites Op.39


〈第一部〉 15分
I.風のように Comme le vent. Prestissimamente
II.モロッソス格で En rhythme molossique. Risoluto
III.悪魔的スケルツォ Scherzo diabolico. Prestissimo

〈第二部〉 27分
IV.~VII.ピアノ独奏による交響曲(全4楽章) Symphonie pour piano seul
  第1楽章 Allegro Moderato - 第2楽章 葬送行進曲 (Andantino) - 第3楽章 メヌエット - 第4楽章 Presto

〈第三部〉 55分
VIII.~X.ピアノ独奏による協奏曲(全3楽章) Concerto pour piano seul
  第1楽章 Allegro Assai - 第2楽章Adagio - 第3楽章 Allegretto alla barbaresca

〈第四部〉 22分
XI.序曲 Ouverture. Maestoso-Lentement-Allegro
XII.アイソーポスの饗宴(主題と25の変奏) Le Festin d’Ésope. Allegretto senza licenza quantunque

【アンコール】
②M.A.アムラン:《アルカンによる相似的無窮動》(「全ての短調による12の練習曲集」第4番)(2005)
③C.V.アルカン:《アレグロ・バルバロ》Op.35-5(「全ての長調による12の練習曲集」より) (1847)
④C.V.アルカン:《練習曲「鉄道」》Op.27 (1844)



Ch.-V.アルカン:人物と練習曲について――上田泰史(音楽学)

「アルカンは、ショパン、 ヘラー、リスト、タールベルクの華麗な流派のいずれにも関係してはいるものの、直接これらの模範を映し出してはいない。アルカンは彼自身で完結しており、その美点と 欠点によってのみ、ほかの誰でもない、彼なのだ。彼は固有の言語で考え、語りかける。」
"(Alkan) est lui-même et lui seul par ses qualités comme par ses défauts; il pense et parle une langue qui est sienne." (Antoine François Marmontel, 1887)

  この人物評は、パリ音楽院ピアノ科教授アントワーヌ=フランソワ・マルモンテルが、後年に同窓生のアルカンを振り返って書いたものである。独創性は、ロマン主義に与する音楽家にとって不可欠の条件だった。それは、ロマン的精神が外的世界よりも内的世界を重視するからであり、また個々の内面的差異の現れによって作品の価値を測るという新しい基準が通用するようになったからである。
  ロマン主義運動は、伝統的に認められてきた公式の慣習に背を向け、想像力が創作の主導権を奪取したときに、花開いた。音楽におけるこの運動は1820年の後半から30年代というごく短い期間に爆発し、ヨーロッパ中へと波及した。ロマン主義の素地はフランス大革命(1789年)で作られ、七月革命(1830)が起爆剤となった。19世紀前半の自由主義を求める急進的な政治運動と連動しているだけに、ロマン主義の芸術運動も、理論的基盤の整備を待たずに、創作的表出が先行した。
  創作における変化はまず文学で起こり、音楽、絵画など他ジャンルへと拡がっていった。文学青年のベルリオーズやシューマンがそれぞれフランスとドイツでロマン主義の旗振り役となったのは、偶然ではない。ベルリオーズの10歳年下で、シューマンの3歳年下のシャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)を育んだのは、ロマン主義のゆりかごとしてのパリだった。


ロマン主義×宗教

  だが、彼の芸術的素地の形成にはもう少し複雑な背景がある。一つは、モランジュ家(註1)が信仰していたユダヤ教である。ヤーウェ(ヤハウェ)に捧げられた謹厳な信仰とロマン主義は、アルカンの創作を加速させた二つの軸を成している。これらは一見相反するように見える。信仰は伝統や慣習を重んじるが、ロマン主義は旧い慣習の打破を目指すからである。しかし、宗教とロマン主義は往々にして個々の教義とは衝突するものの、永遠なるものを目指すという点で精神的な親和性がある(註2)。アルカンの場合、時に芸術(音楽)が信仰の領域を侵しているように見えることさえある。ユダヤ教徒でありながらプロテスタントの讃美歌に主題を求めたり(足鍵盤付ピアノのための《ルターのコラール〈我らの神は堅き砦〉に基づく即興曲》)、《大ソナタ》ではカトリックの聖体の祝日に歌われる聖歌を引用したりしている。アルカン伝の著者ブリジット・フランソワ=サペは、彼の創作にエキュメニズム(広義での宗教統一運動)の理想を見ている。いずれにせよ、アルカンはロマン主義×宗教という二つの内面的領域の交わる世界を生きた、典型的なロマン主義の音楽家である。

註1 アルカンという姓は、父の名アルカン・モランジュから採られている。彼の姉弟はみなアルカン姓を名乗った。姉弟全員が音楽家となったので、シャルル=ヴァランタンは終生「アルカン長男Alkan aîné」と署名した。
註2 若くして信仰篤いヴィオラ奏者・オルガン奏者のクレティアン・ユランやラムネー神父と交わり、長じてカトリックの下位聖職者となったリストの場合にも当てはまる。


パリ国立音楽院での学習時代

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  宗教とロマン主義という内なる熱源を具現するには、現実世界で駆動する機械が必要だった。その一つが、ピアノである。19世紀前半、産業革命はパリに蒸気機関車と鉄道をもたらし、ピアノには金属製のフレームをもたらした。エラール、プレイエル、パープといったピアノ製造者たちは気温や湿度変化から受ける影響を最小化する工夫を凝らし、また大きな会場での演奏に耐えるよう弦長と張力を増強するなど、楽器の改変に勤しんだ。
  ところで、アルカンの父はパリのマレ地区で私塾を営み、音楽や文法を教えていた。そこには後にパリ音楽院のピアノ教授のポストをめぐり争うこととなるマルモンテルなど、パリ音楽院の級友となる子どもたちが集まっていた。アルカンは当然、ここでピアノを始めたはずである。6歳でパリ音楽院のソルフェージュ科に登録し、翌年にはジョゼフ・ヅィメルマンの受け持つピアノ科に登録した(この年、人前でヴァイオリンも弾いている)。ピアノ科のレッスン室にはエラールがあり、週に数回、若い学生がピアノを囲んで代わる代わる演奏した。1824年の修了選抜試験で一等賞を得て、10代前半にして音楽界に華々しくデビューする。和声・伴奏科も修了したアルカンは作曲の勉強にも勤しんだ。ケルビーニの愛弟子で、かつて作曲教授資格試験に合格したことのあるヅィメルマン師には、ピアノのみならず作曲理論も師事し、学士院が主催する作曲コンクール(ローマ大賞コンクール)にも2度挑戦した。1832年に書いたカンタータ《エルマンとケティ》は選外佳作に選ばれた。さらにオルガン科では1834年に一等賞を得ている。この華々しい受賞歴は、アルカンに音楽家としての多方面での活躍を約束した。
  しかし、アルカンはピアノに専心した。それは、単にピアノの演奏やレッスンで収益が見込めたというだけではなく、ピアノこそが自らを突き動かす表出的欲求を引き受けてくれる手段だったからだろう。その内発的な力は、1828年に出会ったリストとのライバル関係によっても増幅された。
  アルカンのピアノ作品の出版は、1826年に遡る(《シュタイベルトの主題による変奏曲》作品1)。産業化が進むせわしい都会で、アルカンはスピードに対する嗜好を培った。1828年に出版されたロッシーニ風の《乗合馬車》作品2は、1844年に《鉄道》作品27へと「工業化」を遂げた。これは単なる外的事象の描写ではなく、ロマン主義的自己の表現である。技術革命がもたらした、人力をはるかに凌駕するテクノロジーは、超人たることを望んだファウストが己の魂と引き換えに手にした魔術の比喩であり、蒸気機関車のスピードと威容は、ピアニストの超越的願望に充分に応え得る主題だった。


ロマン的なものと古典的なもの

  ピアノを通して、若きアルカンは熱烈な信仰心も吐露している。《アレルヤ》作品25、《前奏曲集》作品31および《歌曲集》作品38/38bisの幾つかの曲には、ヘブライ聖書の詩編やソロモンの雅歌からの引用、あるいは「祈り」といった言葉が題名に用いられている。前述の通り、彼の宗教的関心は音楽的領域においてはキリスト教にも拡大されている。その一方で、古くから変わらぬ善きもの、真なるもの、美なるものの探究を通して、アルカンの眼差しはギリシャ古典文芸にも注がれていた(《大ソナタ》におけるアイスキュロスの悲劇、《全ての短調による12の練習曲》におけるアイソーポス[イソップ]の寓話)。
  古きものへの関心は、バッハ、ヘンデル、グルックといった音楽における古典への愛着にも通じている。1847年、アルカンは《音楽院の想い出》と題して、古典音楽の牙城として知られたパリ音楽院演奏協会のレパートリーから抜粋した6曲のトランスクリプションを刊行した。マルチェッロ、グルック、ハイドン、グレトリ、モーツァルトの作品を収めるこのトランスクリプション集の制作に当たり、アルカンは原曲の楽譜テクストを丹念に辿りながら、かつピアノの効果を損なわない「手ごろな難しさの」編曲を目指した。「全てを聴かせながらも、どのパートが際立たせられなくてはならないか、どのようにそのパートがあるべきか、さらに、それらがどのように伴われ、光が当てられ、あるは陰に残されるべきなのかということを知ること、こうしたことがこの[編曲の]技術(中略)なのである。」(楽譜序文より)出版はされなかったものの、この年にはベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第5番》の緩徐楽章やグルックのオペラ《アルセスト》より〈大司祭たちの行進〉のピアノ独奏用編曲も手がけている。
  これと対照を成すように、アルカンは33歳までのロマン主義的創作の総決算として《大ソナタ》作品33(1847刊)を発表した。20歳から50歳まで、人間の人生を10年毎に4つに区切り、これを次第に遅くなる第1楽章から第4楽章に割り当てた。第2楽章と第4楽章はそれぞれゲーテの『ファウスト』を、第4楽章はアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を題材にしている。前者はロマン主義の神話であり、後者は古代ギリシャの神話である。


練習曲

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_12241449.jpg
  1848年、アルカンの旧師ヅィメルマンは、教育における影響力の低下と同僚からの敵意を受けて、院長オベールに辞表を提出した。ヅィメルマンの後任人事が始まると、アルカンを含むヅィメルマン門下の4名が院長の指名を受けた。アルカン、ラコンブ、プリューダン、マルモンテルのうち、マルモンテルは作曲の業績が殆ど無かった。だが教育実績とおそらく人柄から、院長オベールやヴィクトル・ユゴーの後ろ盾を得ていた。一方のアルカンは比類無い実績にも拘わらず、むしろその強烈なロマン的作風からか、院長の好意を得ていなかった。彼を育てたヅィメルマン師には指名権も任命権もなかった。アルカンはジョルジュ・サンドを介して任命権を持つ大臣に接触し直訴を試みたが、おそらくマルモンテルに対する攻撃的な文面が裏目に出たのだろう、教授のポストにはマルモンテルが任命された。この年に出版された意欲作《全ての長調による12の練習曲》作品35(1848)も、結局のところパリ音楽院での教授職獲得に貢献することはなかった。
  この一件は子ども時代から続くマルモンテルとの仲を決定的に引き裂いた。さらに翌年、親友ショパンの死の報も受けて、彼は表向きの音楽活動をほぼ中止した。1851年からは出版も中断し、以後6年間、作品45以外、ピアノ曲は出版しなかった。この沈黙は、社会に対する不信感の表示であったが、同時に作曲と出版準備に捧げられた雌伏でもあった。アルカンは、打ち砕かれた栄達への期待を創作へと差し向け、創作者としての才能を世に問うことを願ったのである。

  1857年、作品37から47(43, 44は欠番)に至る作品群が沈黙を破った。1846年から書き溜められた《全ての短調による12の練習曲》作品39はアルカンの創作史上のみならず、練習曲というジャンル史上超弩級の作品である。長調による作品35と同様、この練習曲集もアルカン作品に好意的な評を寄せてきた博識の音楽史家フランソワ=ジョゼフ・フェティスに献呈された。その規模は12曲からなる練習曲としては前例がなく、ロマン主義的な題材(風、悪魔)、ならびに古典的な形式(スケルツォ、交響曲、協奏曲、序曲、変奏曲)を包摂している。「ピアノのベルリオーズ」(ハンス・フォン・ビューロー)という形容に違わず、アルカンはこの練習曲で究極の技巧と管弦楽的な効果を徹底して追究した。演奏時間は通奏するとおよそ120分前後を要する。ショパンの作品10と25が各々約30分、リストの《超絶技巧練習曲集》が約65分であることを考えれば、これが如何に長大であるかが分かるだろう。この長さの理由は練習曲というジャンルの中に交響曲、協奏曲、序曲といった、大規模な規範的ジャンルを取り込んだことが一因である。12曲が形作る大伽藍は、19世紀に「シリアスな」と形容されたアカデミックな器楽ジャンルの一覧を成している。かくてアルカンは、社会的挫折からくる憂鬱を創作へと昇華したのだった。
  作中にはベートーヴェンとショパンの回想が垣間見られる。「ある善き人物の死に寄せる葬送行進曲」と銘打たれた〈交響曲〉の第二楽章(葬送行進曲)は、ベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》の「ある偉人の思い出を記念して」という標示を喚起する。協奏曲はトゥッティ部分にも想定される楽器の指示が入念に書き込まれ、ピアノのカデンツァもすべて記譜されている(第一楽章だけで約30分を要する)。ポロネーズをフィナーレに配したこの協奏曲は、亡き友ショパンの回想とも見られるが、同時に「野蛮な(Alla barbaresca)」荒々しさが際立っている。終曲〈アイソーポス[イソップ]の饗宴〉は8小節の主題に25の変奏が続く。この主題は、アルカンが1842年に編曲したモーツァルトの《交響曲第40番》(K 550)のメヌエットに由来するとされるが(R. Smith)、近年では食事の前に歌われるユダヤ教の感謝の歌との関連も指摘されている(A. Kessous Dreyfuss)。「饗宴(festin)」は豪勢な食事のことでもあるから、これはありそうな説である。

  アルカンは1888年に74歳で没した。彼の音楽はその後、演奏と作曲の両領域に長い影を投じている。演奏の領域において、アルカン作品は第二次世界大戦まではパリ音楽院定期試験でも時折弾かれていた。父の夢を引き継いでパリ音楽院教授となった息子エリ=ミリアン・ドラボルドを中心として、イジドール・フィリップ、マルグリット・ロン、コルトーらのクラスの生徒がパリ音楽院の試験でアルカンの曲を弾いている。特にドラボルドとフィリップはコスタラ社から刊行されたアルカン作品集の校訂を担当した(もっとも、彼らの仕事は初版プレートに注釈なしに手を加えるという作業に留まっている)。同じ頃、フランス以外では、フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)が、アルカン作品をレパートリーとし、ベルリンで演奏した。彼はアルカンをショパン、シューマン、リスト、ブラームスと並ぶ、ベートーヴェン以降のピアノ音楽の大家として称揚している。ブゾーニを尊敬し、『ピアノ・ソナタ第二番』を彼に献呈した英国の作曲家兼ピアニスト、カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(1892-1988)もやはりアルカンの独自性を称揚した。
  創作の領域において、ソラブジが1940年代に作曲した100曲の《超越的練習曲》や《私一人で、オーケストラなしで演奏する、気晴らしのための協奏曲》(第3楽章はアルカンOp.39-3〈悪魔的スケルツォ〉と同表題)は、練習曲及び協奏曲というジャンルを独自の視点で捉えたアルカンの着想を継承している。やはり英国の作曲家で1946年生まれのマイケル・フィニッシーの作品にもアルカンの影が見える。《アルカン=パガニーニ》(1997)の冒頭の楽想記号「アッラ・バルバレスカ」は、アルカンの作品39-10のそれと同じである。

  第二次大戦後、アルカンの音楽が録音されラジオで流れ始めると、アルカンに熱中する音楽家や愛好家が各地に現れた。1977年には英国でアルカン協会(Alkan Society)が設立された。アルカンの祖国フランスでは8年遅れて1985年にアルカン協会(Société Alkan)が設立された。2010年以降、アテネでもアルカンとその師ヅィメルマンを記念してアルカン=ヅィメルマン国際音楽協会が設立され、アルカンとその時代への関心は拡がりを見せている。
  さてアルカンの作品39が通演されるこの貴重な機会に、一人の演奏家によるこの作品の通演記録(一回のコンサートで全12曲が演奏された記録)を整理しておきたい。

①中村攝(1959- ):1984年3月1日、石川県文教会館(金沢)
②中村攝:1984年3月12日、スタジオ・ルンデ(名古屋)
③中村攝:1984年4月6日、虎ノ門ホール(東京)
④ジャック・ギボンズ(1962- ):1995年1月18日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑤ジャック・ギボンズ:1996年2月15日、クイーン・エリザベス・ホール(ロンドン)
テッポ・コイヴィスト(1961- ):2007年(ヘルシンキ)
⑦ジャック・ギボンズ:2013年8月25日、ホーリーウェル・ミュージック・ルーム(オックスフォード)
⑧ヴィンチェンツォ・マルテンポ(1985- ):2013年11月2日、横浜みなとみらいホール(横浜)
⑨ジャック・ギボンズ:2013年12月15日、マーキン・コンサート・ホール(ニューヨーク)
Performances of the complete op. 39 by a single performer in one day
(1) Osamu Nakamura (1959- ): 01/03/1984 Ishikawa Bunkyo Kaikan (Kanazawa)
(2) Osamu Nakamura: 12/03/1984 Studio Runde (Nagoya)
(3) Osamu Nakamura: 06/04/1984 Toranomon Hall (Tokyo)
(4) Jack Gibbons (1962- ): 18/01/1995 the Holywell Music Room (Oxford)
(5) Jack Gibbons: 15/02/1996 Queen Elizabeth Hall (London)
(6) Teppo Koivisto (1961- ): 03/02/2007 (Helsinki)
(7) Jack Gibbons: 25/08/2013 the Holywell Music Room (Oxford)
(8) Vincenzo Maltempo (1985- ): 02/11/2013 Minato Mirai Hall (Yokohama)
(9) Jack Gibbons: 15/12/2013 Merkin Concert Hall (New York)
  上記9公演のうち、4公演が日本で行われていることは特筆すべきだろう。金澤(中村)攝氏の全曲演奏は、中でも抜きん出て早い時期に行われている。1983年、当時25歳の金澤氏はM.ポンティが弾く抜粋盤LPを聴いて公開演奏を決意し、全曲暗譜で3公演に臨んだ。敬愛するブゾーニを介して、かねてよりアルカンやゴドフスキーにも関心を寄せていた故・園田高弘氏は東京公演に臨席し、「初めてアルカンの真価を知った」と激賞を惜しまなかった。金澤氏はその後ほどなくして名古屋(スタジオ・ルンデ)で姉妹作《全ての長調によるエチュード》Op.35 も通演している。



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(終了)2020年9月12日(土)/13日(日)15時開演(14時45分開場)
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22125131.jpg□F.F.ショパン(1810-1849)
●3つの新しい練習曲 B.130 (1839)  7分
 I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32)  30分
  I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36)  30分
  I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
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●ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39)  24分
 I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
●ピアノソナタ第3番Op.58 (1844)  25分
 I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto

    [使用エディション:ポーランドナショナル版]



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(終了)2020年9月19日(土)/20日(日)15時開演(14時45分開場)
□F.リスト(1811-1886): 24のエチュード集
3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22123211.jpg●3つの演奏会用練習曲 S.144 (1845/48)  20分
 I. 悲しみ - II. 軽やかさ - III. ため息
●2つの演奏会用練習曲 S.145 (1862/63)  7分
 I. 森の騒めき - II. ノーム(小人)の踊り
●アブ・イーラートー(怒りに駆られて) S.143 (1840/52)  3分
●パガニーニによる大練習曲 S.141 (1838/51)  25分
  I. - II. - III. 「ラ・カンパネラ」 - IV. - V. 「狩り」 - VI. 「主題と変奏」
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●12の超絶技巧練習曲(決定稿) S.139 (1851)  60分
I. 「前奏曲」 - II. - III. 「風景」 - IV. 「マゼッパ」 - V. 「鬼火」 - VI. 「幻影」 - VII. 「英雄」 - VIII. 「荒ぶる狩り」 - IX. 「回想」 - X. - XI. 「夕暮の諧調」 - XII. 「雪嵐」

    [使用エディション:新リスト全集版]

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22315897.jpg3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_22321364.jpg


【cf.】
■シマノフスキ:ソナタ第2番ソナタ第3番+マズルカ全曲[2019/09/16 & 2020/01/18]

えてうどは かなしきかな────山村雅治

1

えてうどは かなしきかな
いとをはじく ゆびのちからの
ひといろにあらず なないろの
ひかりのいろを つむぎだす
わざは どこまで きわめれば

わざのわかれは てふてふの
はばたきのごと うたになる
ひととの わかれは せつなくも
こがらしのふく くろい いと
ひとのよをかえる ちからとは

うみにひろがる みなものしずけさ
くろも しろも 
くろだけさえも うたいだす
にじがかかれば やまいはとおのき
しょぱんも りすとも あるかんも


3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_04041585.gif ピアノの演奏を習得するには技巧の練習が必要だ。ピアノだけでなく楽器はすべて固有の音の出しかたがあり、直接楽器に触れる体の部位が楽器と一体になることが求められる。演奏者の音楽が楽器を通して十全に鳴り響かなければならない。ピアノの場合は指で鍵を打つ。単音だけでは音楽にならないから10本の指を使って和音を鳴らしたり、歌うように奏でたり、指を速く回したりする。ピアノ演奏の技術は多様にして多彩をきわめる。
 練習曲は演奏技巧を習得するための楽曲だ。一般には「技巧修得のための練習曲」は教育用の練習曲とされる。ハノンなどはそうだろう。またそれらとはちがい「演奏会用練習曲」があるとされる。ショパンやリストの練習曲は演奏会場で弾かれて聴衆の息を呑ませ感動させる。
 バッハはどうか。バルトークはどうか。純然たる技巧の練習曲とおぼしき楽曲が人を感動させる場合があり「教育用」と「演奏会用」の決然たる区別はできないだろう。リストが師事したカール・ツェルニーは偉大な音楽家だった。日本で初めて西洋音楽の列伝を書いた大田黒元雄は『バッハよりシェーンベルヒ』(音楽と文学社 1915/大正4年)でツェルニーに2頁を割いている。ベートーヴェン、ヴェーバー、ツェルニーと続く。次はシューベルト。


3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01083017.jpg<チェルニー Czerny

 世には多くの洋琴練習曲がある。けれどもチェルニー程此の方面に優れた作品を書いた人は居ない。同時に彼ぐらひ其の後進の洋琴家を悩ました人も居ない。
 此のカール、チェルニー(Karl Czerny)は千七百九十一年ウィンナに生れた。彼は先づ其の父から洋琴を習ひ、次いで千八百年から三年間ベートーヴェンに師事する幸福を得た。かうして練習につとめた彼はやがて、ウィンナで一流の洋琴教授として知られる様に成つた。
 彼は多くの練習曲の外に、多くの歌劇や聖楽を洋琴用にアレンジした。彼の作品の数は千にも及ぶが、其の中最も有名なものに、Die Schule der Gelaeufigkeit. Die Schule das Legato und Staccato 等がある。
 彼の練習曲は彼以後の殆どすべての名洋琴家に用ゐられ、リストやタルべャグ等の大家も皆喜んで此れを試みた。嘗てレシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答へたといふ話がある。
 チェルニーは其の一生をウィンナに過し、千八百五十七年其地に逝った。
 彼の偉業は華々しいものではなかつたが、最も有意義な充実したものであつたと云ふ事が出来るであらう。> (引用者注釈。洋琴はピアノ。タルべャグはジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)。ツェルニーを一流の作曲家と認めた日本人がいて、この文を書いた)。

 ツェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。ベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っていた。その願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになった。大田黒元雄の記述によればリストはもっとも忠実なツェルニーのピアノ奏法の継承者だった。


2

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01093819.jpg リストは、ショパンが亡くなってから誰よりも早く彼の伝記を書いた。2年後の1851年のことだ。
<ショパン! 霊妙にして調和に満ちた天才! 優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!>という熱烈な讃辞にはじまる。リストとショパンは陽と陰、水と油ほどの芸術の個性をもっていた。惹かれあい、反発しあいの若い時代を共有した。リストのショパンへの讃辞は続く。

<ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!>。

<彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである>。

<ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」。彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった>。

 おそらくは同時代の音楽家のなかでリストひとりがショパンの音楽を理解していた。とくにマズルカやポロネーズについて。

<マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか>。


 リストはここではショパンの和声や音楽の心について書いた。ピアノ奏法の技法については一言も触れてはいない。批評は印象批評だけではもの足りない。和声についても「陰影や光にとんだ」だけではものたりない。構造にまで踏みこんだ作曲技法やショパン生前のピアノ奏法の技術批評をしてほしかった。リストはやがて社交界をむなしく思い、孤独な音楽家として生きることになる。技術が社交界を喜ばせていたのだとしたら、技術はむなしいと感じていたのだろうか。リストはやがて無調の音楽を生みだすのだが。



3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01105506.jpg ショパンはしかし、リストに出会ったとき、リストと同じようにピアノ奏法をより熟達させる技術のことも、音楽を深めていくことと同じく深く考えていた。天才の二人は強烈な親近感を覚えただろうし、個性がちがうのだから「ここは反発」ということもあっただろう。あたりまえのことであって、ひとりが大好きな音楽が、もうひとりが大嫌いということもある。彼らはまず社会に生きる人間としての性格がちがっていた。リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをかけまわり、名声をほしいままにした。ショパンはあれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けた。

 ショパンにピアノ演奏を習った弟子のひとりはエチュード作品10-1についてこう言っている。「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンは私に勧めてくれました。『このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、音階や和音を弾くときもヴァイオリンの弓で弾くような効果が得られるでしょう。ただ残念なことに、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです』と彼は言うのです。このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合は、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすれば良かったのです」。(『弟子から見たショパン』ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治郎/中島弘二訳 音楽之友社刊)。

 エチュードのみならず全作品にピアノ奏法の習熟への課題があった。ショパンは機会を通じて「技法の練習の種類」「楽器に要求される性能」「練習の仕方と時間」「姿勢と手の位置」「手首と手の柔軟性、指の自在な動き」「タッチの習熟、耳の訓練、アタックの多様性、レガート奏法の重要性」「指の個性と独立性」、そして「運指法の原理としての、音の均等性と手の静止」などについての技術をつねに考えていた。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01122285.jpg ショパンは生まれてからの20年をすごしたワルシャワから、もっと大きな音楽の世界を知ろうとした。ウィーンへ行ってみたがそこは彼が生きる場所ではなかった。パリこそが彼の音楽が大きく花開く都会だった。1830年11月2日にワルシャワを旅立ち、11月23日にウィーンに到着。11月29日にはワルシャワでロシアへの「11月蜂起」が起こる。前年の好評はポーランド人のショパンに掌をかえした。しかしウィーンでショパンは「ワルツ」を書きはじめた。1831年7月20日にショパンはパリへ向かった。途上のシュトゥットガルトで「ワルシャワ蜂起敗北」を知る。この慟哭がエチュード作品10-12「革命」を生みだす力にもなった。

 1830年はヨーロッパ文化の歴史において「ロマン主義」が大きく羽ばたいた年だった。とくにパリにおいて。ユゴーの演劇「エルナーニ」上演は守旧の古典派とあたらしい時代をこじあけようとするロマン派の戦いの一夜だった。2月25日のことだ。ユゴーは芸術の自由を主張した。そしてフランスに7月革命が起こる。7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命である。これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。栄光の三日間が芸術家たちに惹きおこした力は測り知れない。演劇、文学、音楽、美術などすべての分野に力は及び、古典の旧秩序をのりこえて「芸術の自由」はそれまで信じられていた「世界の秩序」からではなく「個人の心の自由」から創造された。



3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01144057.jpg リストの「ショパン伝」には、次のような美しい思いでも記されている。

<私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。
 彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏アラバスタのすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。

 麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。

 と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。>

『ザル』(ZAL/ジャル)は、運命を受けいれた諦めを含んだ悔恨、望郷の心をあらわすポーランド語。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_01161253.jpg 「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにあった。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせ、やり場のない怒りを大砲のように炸裂させた。死ぬために出発するような気がすると書いた手紙は、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものだ。

 僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)

 ショパンは「エチュード ホ長調 作品10-3」を弾く弟子、グートマンに「私の一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません」と語った。そしてある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を組んで上げ、「ああ、わが祖国よ!」と叫んだのである。






えてうどにみちびかれて――――山村雅治

1

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21530903.jpg  リストは幼いころから音楽に才能を現し、10歳になる前に公開演奏会を行っていた。わずか11歳、1822年にウィーンに移りウィーン音楽院でツェルニーとサリエリに師事する。ベートーヴェンが教えたツェルニーとベートーヴェンが教えを受けたサリエリ。これ以上に幸運なことはなかった。1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこでベートーヴェンに会うことができた。そのときのベートーヴェンの耳の状態がどうだったのか。伝えられる話によれば少年リストは老ベートーヴェンから称賛をいただいたという。

  ベートーヴェンが没した1827年には父アーダムを亡くし、リストは15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。彼は貴族の生まれではなかった。ピアノを教えること、ピアノを弾いてみせることで人生を切りひらいていった。彼は作曲ができた。自作を自演して生活の糧を得た。ベルリオーズの「幻想交響曲」が初演された1830年はベートーヴェン没後わずか3年、ロマン派の芸術が音楽においても幕を開けた年。18歳のリストは感激の絶頂に達して27歳のベルリオーズにまじわり絶賛した。1831年、ポーランドから21歳のショパンがパリに来た。デビュー・コンサートは1832年に開かれ、以来リストはショパンと親交を深めていく。ロマン派の始まりにして絶頂だった時代の若者たちの音楽への情熱と個性がはげしく火花を散らしそれぞれの果実をむすんだ。同じ年、1831年にパガニーニのヴァイオリン演奏を聴いて感銘を受け、彼はピアノの超絶技巧をめざした。同時代を生きた作曲家にはシューマンもメンデルスゾーンもいた。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21532125.jpg  リストはショパン没(1849)後、まもなくショパン伝(1852)を書いたが、そのなかでこの時期を回想している。「1832年、すなわちショパンがパリに到着してまもなくのころ、文学と同じように音楽においても新しい流派がつくられていた。ロマン主義が当時の流行であり、その是非がさかんに論じられた」。ひとつは「永遠の形式――その完成が絶対美をあらわす」という古典的な考えかたであり、もうひとつは「美が固定された形式をもつことを否定し、自分の感情にあわせるために形式を選ぶ自由があることを願い」、「感情があらかじめ決定された形式では表現できない」ことを主張した。リストは後者の代表にベルリオーズとショパンを挙げている。
 
  リストはすでにパリのサロンの寵児だった。ベルリオーズやショパンの音楽に刺激された。1820年代までの彼の作品は伝統的な書法によるものだったが、1830年以降は劇的に変貌する。「超絶技巧練習曲」の初稿は「すべての長短調のための48の練習曲」。1826年、15歳のリストの作品である。じっさいには全12曲でフランスで作品6、ドイツで作品1として出版された。サリエリに作曲を習い、ツェルニーにピアノを習った少年の会心の作品だっただろう。その後、1839年に拡大とともに改訂されて「24の大練習曲」(じっさいは全12曲)になった。さらにショパン伝を書きつつあった1851年に改訂されて「超絶技巧練習曲」になった。前作と同じくツェルニーに捧げられた。イ短調とヘ短調の二曲をのぞいては曲名がつけられた。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21533382.jpg  シューマンが「超絶技巧練習曲」の前身、「すべての長短調のための48の練習曲」と「24の大練習曲」について書いた文章がある。『音楽と音楽家』吉田秀和訳(岩波文庫)から抜粋しよう。1839年に29歳のシューマンが28歳のリストについて書いた一文だ。

  「すべての長短調のための48の練習曲」と「24の大練習曲」を「今これらを比較してみると、第一にピアノの演奏法の今昔の相違がわかる。つまり、今日の演奏法は手段が豊富になり、華麗および充実という点で、昔の演奏法を全般的に凌駕しているけれども、昔の、青春の最初の噴出に内在していた素朴さが、今度の形の中ではすっかり抑圧されてしまったように思われる。つぎに新版をみると、この作家の見違えるほど進歩した思考と感情の現状の目安がわかる上に、内心の隠れた精神生活もうかがわれる。もっともその結果、僕らは、どうしても平和に到達できそうもない大人よりも、むしろ子供を羨む方が本当ではないだろうかと迷ってしまうけれども」。

  「とにもかくにも、相手は今も昔も相変わらず多彩な動きを見せている非凡な精神であることは、どこからみてもうかがわれる。リストの音楽のなかには、ほかならぬ彼自身の生活が生きている。はやくから祖国を離れて、騒々しい大都会に投げこまれ、幼少にしてすでに一世の驚異となった彼は、前にはよく、今祖国ドイツに寄せる切々たる憧憬のこめられた曲を書いたかと思うと、たちまち軽いフランス的精神を表した放恣を極めた曲を作ったりしていた。あるいは、彼にふさわしい師匠が見当たらなかったからかも知れないが、いずれにせよ、彼はおちついてじっくりと作曲を勉強する気にはならなかったらしい。元来、活発な音楽的素質を持ったものは、無味乾燥な紙の上の研究よりも、手っとりばやい音の方にひかれるものであるが、彼もまた作曲の勉強に落ちついていられなかっただけに、一層演奏の名人としての錬磨を怠らなかった。その結果、彼は演奏家として驚異的な高所に達したのに反して、作曲家としては取残されてしまった」。

  「思うに、ショパンの出現にあって初めて、彼は再び思慮をとり戻したらしい。しかしショパンには形式がある。彼の音楽の驚異的な構成の下には、旋律が薔薇色の糸のように貫いている。今となってはさすが非凡な名人といえども、作曲家としての遅れをとり戻すには遅すぎるかに見えた」。

  「彼の今後の活躍はただ推測にまつよりほかはないが、もし彼が祖国の好意をかち得ようと思ったならば、前にいった、古い練習曲にみられるような快い明朗さ、単純さに立戻らなければならない。彼は簡単にする代りに複雑化する道をとったけれど、本当は逆の道を進まなければならなかったのではあるまいか」。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21534749.jpg  そしてシューマンは若いリストの二つの練習曲集について、それぞれの「第1番」「第5番」「第9番」などの譜例を出し印象批評にとどまらない技術批評を展開する。書いた言葉の裏付けを譜面を掲げて論じている。「第6番」から「第8番」にかけての3曲については、「この三曲は、全く嵐の練習曲、恐怖の練習曲で、これを弾きこなす者は、世界中探しても十人か十二人くらいしかあるまい。へたな演奏家がひいたら、物笑いの種になるだろう。この三曲は、リストが最近ピアノ用に移そうとしているパガニーニのヴァイオリンのための練習曲の中にある曲に一番似ている」。

  シューマンはもう一度リストの演奏を聴くのを楽しみにしている。「しかし何はともあれ、来るべき冬の彼の到着は、心から待遠しい。彼は最近のヴィーン滞在の時にはこの練習曲で驚くべき効果を上げた。大なる効果は大なる原因を前提とする。公衆は決していたずらに熱狂するはずはない。だから諸君は、両方の練習曲に一通り眼を通しておいて、この芸術家を迎える準備をしたまえ。最上の批評は、リスト自身がピアノを通して与えるだろう」が文を結ぶ言葉だった。


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3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21535868.jpg  1856年に狂気のうちに没したシューマンは、1851年に出されたリストの練習曲の最終稿「超絶技巧練習曲」を聴いていただろうか。新版の楽譜に目を通していただろうか。1848年に38歳のリストはヴァイマルの宮廷楽長に赴任して、それまでの自分を棄てる。一皮むけたリストの深化は神に近づこうとする音楽を生みだした。シューマンが望んだように、技巧そのものを追求することをやめた。現代の音盤に聴くならば、老いて最盛期の技巧を失ったヴィルヘルム・ケンプのリスト・アルバムに聴く音楽は美しい。ケンプの師カール・ハインリヒ・バルトはリストの高弟であったハンス・フォン・ビューローとカール・タウジヒに師事した。ケンプと同時代に生きたヴィルヘルム・バックハウスもリストに師事したオイゲン・ダルベールだったから、リストのピアノ演奏の教育者としての功績は測り知れない。

  シューマンは若いリストの練習曲「6」-「8」について「この三曲は、リストが最近ピアノ用に移そうとしているパガニーニのヴァイオリンのための練習曲の中にある曲に一番似ている」と書いた。そんなことはやめとけよ、という心が透けて見える。シューマンは猛練習で指を傷めてピアニストとして生きることを断念せざるを得なくなった。彼はピアニストの道をあきらめ、作曲の勉強を深めていった。そしてリストは当時はモーツァルト以来の「作曲家自作自演のピアニスト」として舞台に生き、その高名に惹かれてあつまる貴族子女にピアノを教えて生きていくことが誉れにみちてできた青年音楽家だった。シューマンの当時のリストへの批評は、二人の音楽家としての「そうとしか生きてこられなかった」生き方を反映して、鋭い。そしてリストは後年、その批評を超えて当時交流した作曲家の誰よりも長く生きて、束縛されるなにものからも自由な音楽を書いた。無調の音楽さえ書いたのだ。

3/14(日) アルカン《12の短調エチュード集》関西初演  [2021/04/21 Update]_c0050810_21540883.jpg  若いリストが夢中になった作曲家は、まずベルリオーズだった。彼からは標題音楽をまなんだ。抽象的な構築体としての交響曲から脱した作品、人間の生活や感情を表現する交響曲はベートーヴェンの「第6交響曲・田園」に切りひらかれていた。ベートーヴェン没後3年の年にベルリオーズは青年の恋と破滅を描いた「幻想交響曲」を世に出した。リストがピアノを離れて管弦楽で「交響詩」を猛然と書きはじめたのは、ヴァイマルの宮廷楽長に赴任してからの時代だった。そして、ショパン。リストは性格がちがっていたショパンの音楽を理解し愛していた。「ショパンに私たちが負っているもの、それは和音の拡大であり、半音階や異名同音による紆余曲折だ」とリストはショパン伝で書いた。彼のショパンへの理解と愛はシューマンのショパンへの理解と愛ともちがう。これはあたりまえのことで、彼ら天才はそれぞれの宇宙を創造する人間だから、感じる角度がちがうし称賛をあらわす言葉もちがう。彼らが生きた時代は天才たちが熱く沸騰する坩堝のなかにいた。シューマンはショパンの「ピアノ・ソナタ第2番」の終楽章について「音楽ではない」と断じた。「不協和音をもって始まり、不協和音を通って、不協和音に終わる」音楽は1830年代のリストの音楽にも明らかだ。「詩的で宗教的な調べ」の初稿には調記号も拍子記号もなかった。当時の誰よりも先を進んだリストがそこにいた。楽式を破壊する力に関しては、リストはショパンを凌いでいた。

  パガニーニはリストの眼の前には1832年4月20日のリサイタルで現れた。そのときの感激を友人への書簡に書いている。「なんという人物! なんというヴァイオリン! なんという芸術家! 神よ! この四本の弦に、いったいどれほどの苦悩、苦痛、堪え難き苦しみが込められていることでしょうか!」。パガニーニが示したヴァイオリン演奏の技巧には度肝をぬかれた。そして、彼の技巧は芸術家パガニーニの内面に根差した自己主張をあらわしていた。技巧は技巧だけで独立するものにとどめてはならない。少年時代にツェルニーから教わったことが、パガニーニを聴いて爆発するかのように蘇ってきたのだろう。ほどなくリストは「パガニーニの鐘の主題に基づく華麗なる大幻想曲」を書いた。「パガニーニ練習曲」の「鐘」(ラ・カンパネラ)のピアノ版の原型だ。技術そのものの錬磨に励んだリストは、のちに「技術は機械的な練習からではなく、精神から生まれるべきである」と書いた。

  「パガニーニ練習曲」の作曲は1838年から1840年にかけてで、初版は1840年。シューマンのクララとの結婚を祝ってクララに捧げられた。改訂版は1851年に出された、現在知られている「パガニーニ大練習曲」。初版は13度の和音や、非常に早いパッセージで連続する10度の和音等、手の大きさそのものを要求する部分も多いが、改訂版ではそれらの大部分は削除された。
 







薄暮(くれがた)の曲―――シャルル・ボドレエル

時こそ今は水枝(みづえ)さす、こぬれに花の顫(ふる)ふころ。
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ。

花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈(くるめき)よ、
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ。

痍(きず)に悩める胸もどき、ヴィオロン楽の清掻(すががき)や、
闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)。
神輿の台をさながらの雲悲みて艶(えん)だちぬ、
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)。

闇の涅槃に、痛ましく悩まされたる優心(やさごころ)、
光の過去のあとかたを尋(と)めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝(こご)るゆふべの血潮雲(ちしほぐも)、
君が名残のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒(せいたいごう)。

(上田敏訳)




Harmonie du soir / Charles BAUDELAIRE (1821 - 1867)

Voici venir les temps où vibrant sur sa tige
Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !

Chaque fleur s'évapore ainsi qu'un encensoir ;
Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige ;
Valse mélancolique et langoureux vertige !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir.

Le violon frémit comme un coeur qu'on afflige,
Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir !
Le ciel est triste et beau comme un grand reposoir ;
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige.

Un coeur tendre, qui hait le néant vaste et noir,
Du passé lumineux recueille tout vestige !
Le soleil s'est noyé dans son sang qui se fige...
Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir !















# by ooi_piano | 2021-03-09 10:20 | Pleyel2020 | Comments(1)

6/12(日)チャイコフスキー交響曲第4・5・6番(ピアノ独奏版)


by ooi_piano