12/22(金)18時 フェルドマン(没後30周年)ピアノ曲総攬+由雄正恒新作

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ポック[POC]#34】 2017年12月22日(金)18時開演(17時半開場) フェルドマン(没後30周年)ピアノ曲総攬
大井浩明(ピアノ独奏)

JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分
3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]

【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html
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●シュテファン・ヴォルペ(1902-1972):《闘争曲(バトル・ピース) I~VII》 (1942/47、日本初演) 23分  [シュテファン・ヴォルペ協会版(デヴィッド・テュードア校閲)]
  I. Quasi presto - II. Molto sostenuto - III. Con moto ma non troppo, Risoluto - IV. Vivo - V. Moderato - VI. Con Brio - VII. Allegro non troppo
●モートン・フェルドマン (1926-1987):《天然曲(ネイチャー・ピース) I~V》(1951)  15分
 《変奏曲》(1951)  6分
 《交点 2》(1951)  8分
 《ピアノ曲》(1952)  3分
 《外延 3》(1952)  6分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《合間 1~6》(1950/53)  15分
 《交点 3》(1953)  2分
 《三つの小曲》(1954)  5分
 《ピアノ曲》(1955)  1分
 《ピアノ曲A(シンシアに)/B》(1956)  4分
 《当近曲(ラスト・ピース) I~IV》(1959)  10分
 《ピアノ曲(フィリップ・ガストンに)》(1963)  4分
 《垂直の思考 4》(1963)  2分
 《ピアノ曲》(1964)  7分
●由雄正恒(1972- ):《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作初演) 12分

  (休憩10分)

●モートン・フェルドマン:《ピアノ》(1977)  27分
 《マリの宮殿》(1986)  20分


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【公演予告】 POCフェルドマン完結編 大井浩明(pf)
2018年4月15日(日)午後2時半開演(午後2時開場) 全自由席3000円 
えびらホール (品川区/東急旗の台駅より徒歩6分)
[要・事前予約] feldman2018@yahoo.co.jp (tel. 090-2474-9951)
(※プライベートホールの為、詳しい場所はチケット予約されたお客様のみにお知らせします)
モートン・フェルドマン (1926-1987):《三和音の記憶(トライアディック・メモリーズ)》(1981) 80分
同:《バニタ・マーカスのために》(1985) 70分
上野耕路(1960- ):《Volga Nights(たらこたらこたらこパラフレーズ)》(2018、委嘱新作初演)10分

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由雄正恒:ピアノ独奏のための《セクシー・プライムズ》(2017、委嘱新作) 

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東北での大きな地震の影響で、昨年とは違い浮きだった様子もないゴールデンウィークも明けて間もない水曜日。
珍しく仕事が早く終えたこともあり、無意識のまま帰路とは逆の都心に向かうホームに立つ。
とりわけ急ぐ理由もないのだが次に来る特急の空席が目に入り、券売機で特急券を購入してロマンスカーに乗り込んだ。
車内は閑散としていて隣の席に座る者もいない。
悠然と体を広げ、足を伸ばす。
終点まではたった数十分ほどの乗車ではあるが、疲れもあったのかついウトウトと眠りについてしまった。

感覚としてはほんの一瞬の眠りで夢か現実か朦朧としていたかと思う。
耳元で艶かしい声が聞こえる。
駅員は男性であると思い込んでいたためか、意外なサウンドによる短い睡眠からの目覚めは多少気分が良いものだ。
ここからどこに向かうかも決めてはいないが、自然と歓楽街のある東口へと足を進める。
兎角何時に来ても人の多さに翻弄されてしまうが、今日は週の中日で足元も悪くまだ時間も早いのか幾分往来する人は少ないように感じた。
それにしても、まだ夕方の早い時間にもかかわらず、普段より増して調子の良い兄さんからの客引きが目立つものだ。
目的がないまま歩いていると、以前通った時は目に入らなかった店の看板に引き寄せられていく。

“Bar セルゲー -今宵あなた様を生と死の審判に誘います- Dies irae”
この時代に到底つけることはないであろう、胡散臭げなキャッチコピーに釣られる客の顔が見てみたいと自ずと扉を開ける。
カウンターにはナチュラル・マスタッシュが印象的なバーテンと見る限り三十路に入ったばかりかと思われる女の客がいるのみ。
離れて座るにも客は他におらず、せっかくなので声をかけ女の隣に座る。
女の名は“エリコ”、数年前に上京してからというもの毎週通っている常連客だ。
関西訛りがあるので聞いたところ関西でも但馬地方の出身で、同じ兵庫県同郷とあってすぐに意気投合することができた。
彼女からの包容的な空気感が漂うがためか、六甲山から見る夜景、ハチ北高原でのスキー(彼女にはハチ北はダメらしい)など同郷話、日々の喧騒の愚痴からどうでも良いアホな話まで、何故か色々と話が進む。

そんな中、彼女の村にだけにある、習わしやしきたりの不思議な話を聞いた。
一つに、とある年に生まれた者は、男女問わず親族間や村で行われる催事は決められた年の月日で行うこととされ、他の年生まれの者とは別格な扱いをされるそうだ。
例えば誕生日は毎年来るものではなく、限られた年に年齢が一つ進む。
聞くところ、彼女の現年齢は5歳でありそれ以上の歳は取らないという。
また、結婚できる相手の生まれ年も限られていて、僕が後1年遅く生まれていたらエリコの相手候補者になれたらしい。
ただ、生まれ年が合っていても、特別な“愛の言葉 - Los requiebros - ”を共に歌いあって互いに感情を共感して同調させる儀式のようなものを成功させることが必要になるという。


その特別な歌は、数あそびのような歌で、100までの中の特別な数字を選び、選ばれた数字の中からさらに特定された2つの組み、3つの組み、4つの組み、5つの組みとグループを作り、その数字に可能な音域内で音程と緩急の調子をつけ、それらを連結することで一つの歌になるという。
また、求愛の儀式以外においては、この歌の旋律とリズムを混合させて編曲し、いろんな楽器で演奏しても良いとなっているそうだ。
説明を聞いただけでは難解で、どんなものなのか歌って聞かせて欲しいとお願いはしたが、特別な歌のため容易に人前で歌うことは出来ないという。
あっという間に時間は過ぎ、終電の時間も近づき、つい明日の仕事の現実が脳裏によぎり、また会う約束をしてその日は別れた。

それ以来、時間に余裕もない日々が続き、この日のことはすっかり記憶から失われていた。
ここ数年ゴールデンウィークもなく連日出勤が続いていたが、明けた今日は久しぶりに早く仕事を切り上げることができた。
今日は偶然にも同じ日で、ふと、6年前の出来事を想い出し、早々に店があった通りに足を向ける。
都会というものは入れ替わりが激しい。
すでに、あの日訪れたBarは別のものに変わっていた。
そういえば、今度会う時には例の歌のピアノ編曲版を一緒に聴こうと、約束していたのだが。
(由雄正恒)

由雄正恒 Masatsune YOSHIO, composer
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  神戸出身。作曲家、メディアマスターNo.75。コンピュータによる芸術作品の創作を専門とし、アルゴリズミック・コンポジション、音響合成、ライブエレクトロニクス、メディア表現を題材にした創作研究を行っている。電子音響作品は、国内外(ICMC-国際コンピュータ音楽会議、Contemporary Computer Music Concert, FUJI acousmatic music festival, MUSICACOUSTICA-BEIJIN, Festival FUTURA等)において演奏される。
  昭和音楽大学作曲学科、IAMASアートアンドメディア・ラボ科を卒業。三輪眞弘に師事。MOTUS夏期アトリエ・パリ2006にてドゥニ・デュフール氏などからアクースマティック音楽作曲法とアクースモニウム演奏法の指導を受ける。日本作曲家協議会、日本音楽即興学会、情報処理学会音楽情報科学研究会会員、先端芸術音楽創作学会運営委員、日本電子音楽協会理事、昭和音楽大学准教授。 http://masatsu.net




ニューヨーク楽派の中のフェルドマン―――野々村 禎彦

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 モートン・フェルドマン(1926-87) の創作歴は、二つの大きな出来事を境に大きく3つに分かれる。1950年、ケージと出会い抽象表現主義の画家たちと親交を結ぶ中で、音楽史上最初に図形楽譜を提唱し、ケージを中心とする「ニューヨーク楽派」の一員として、広く不確定性を導入した作曲を行う。1970年、抽象表現主義の画家たちとの別れと生活環境の変化を契機に、以後は不確定性を排除した作曲を行った。ただし、譜面の各ページのグリッド(ないし小節線)の数はその中の記号(ないし音符)の数によらず常に一定、という譜面の根本的な構造は、不確定性の採否によらず変わっていない。

 1950-69年の「前期」は専ら図形楽譜の使用で知られるが、このタイプの譜面を用いた曲は実はあまり多くなく、それ以外の曲の作曲様式でさらに二つに分かれる。1956年までの図形楽譜によらない曲は伝統的な確定譜面で書かれ、ピアノ独奏曲で図形楽譜を用いているのは《Intersection 2》(1951)、《Intersection 3》(1953) の2曲のみ、いずれもチューダーの演奏を前提に書かれた。1957年以降は「グリッド内の音符の音高のみ指定する」記譜法が作曲の中心になり、ピアノ独奏曲はすべてこの書法で書かれている。

 1970年以降、確定譜面に戻ってからの時期は、「楽器編成=タイトル」でストイックに統一し、自ら「ベケットの時代」と称する「中期」と、少数の素材を不規則に反復し、規格外の長時間曲が多い「後期」に分かれる。中期は大編成の曲が多く、無調的な音色の精妙な変化に焦点を絞るが、後期は小編成の曲が多く、記憶に引っ掛かりやすい調性的な素材が中心、と特徴を箇条書きにすると対照的に見えるが、変化は連続的で行きつ戻りつしていた。あえて境界を決めるならば、代表作のひとつ《Violin and Orchestra》(1979) は管弦楽は中期、独奏ヴァイオリンは後期の特徴を強く持ち、分水嶺にふさわしい。

 中期のクライマックスはベケットに台本を依頼したオペラ《Neither》(1977) であり、この直後に唯一のピアノ独奏曲《PIano》(1977) を書いた。後期で特に重要な楽器は弦楽四重奏とピアノであり、大半の曲はどちらかを含む編成を持つ。弦楽四重奏はアタックのない平滑な表面を得るために多用され、ピアノを含む曲は高橋アキの解釈を基準に書かれている。ピアノ独奏曲としては長大な《三和音の記憶》(1981) と《バニータ・マーカスのために》(1985) の2曲と、最晩年の境地を伝える《マリの宮殿》(1986) がある。

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 ニューヨークのユダヤ系服職人の家庭に生まれたフェルドマンは、9歳で作曲、12歳でピアノを始めたが、最も関心があるのは読書で、近視の進行も厭わず終生の趣味にした。作曲は学校ではなく個人教授で学び、最初の教師はWallingford Riegger(1885-1961)、シェーンベルクに学んだ米国セリー主義の草分けの一人だが、彼が教わったのは西洋古典音楽の伝統的な書法までだった。大学受験生の雰囲気に嫌気がさして入試は棄権し、父が独立して始めた子供服会社でフルタイム事務員として働いた。1970年に音楽大学で教え始めるまではこれが生業だった。余暇に作曲のレッスンも再開し、シュテファン・ヴォルぺ(1902-72) に師事した。門下生にはフェルドマンやチューダーの他に、米国セリー主義を代表するウォーリネン(1938-)、ジャズ界の理論派ギル・エヴァンズやジョージ・ラッセルもおり、音楽教師としてはフランスにおけるメシアンに相当する重要人物である。

 ベルリン時代のヴォルペは12音技法を身に付ける一方、社会主義者として実用音楽の理念にも共鳴し、大衆音楽を積極的に取り入れてアイスラー(1898-1962) と並び称された。ユダヤ人=左翼=「頽廃音楽家」だけにナチスが権力を掌握すると真っ先に亡命し、まずオーストリアに潜んでヴェーベルンに学び、翌年にはパレスチナのキブツに脱出して実用音楽を実践した。芸術的欲求との齟齬が大きくなると1938年にはニューヨークに渡り、音楽教師として生計を立てながら12音技法による創作を続け、後にダルムシュタット国際現代音楽夏季講習でも教えている。フェルドマンはヴォルペを「どんな書法も受け入れ、どんな書法も押し付けない良い教師」と回想しているが、ヴォルペから見たフェルドマンは「さまざまな書法を試みては否定するばかりで、5年間何の進歩もなかった」。結局この時期で後世に残ったのは、《Only》(1947) のような素朴な旋律を持つ曲だけだった。やがてレッスンは芸術談義の時間になり、ある日フェルドマンが「もうレッスン料はいらないのでは?」と切り出すと、ヴォルペはヴァレーズを紹介した。ただし芸術談義を交わす友人としての関係は、フェルドマンがニューヨークを離れるまで20年以上続いた。

 ヴァレーズは彼を作曲の生徒とは認めなかったが、1949年中は彼をたびたび自宅に招いて作曲家としての心得を伝えた。この経験がなければ私は作曲家にはなっていなかった、と彼は語っている。なかでも強い影響を与えたのは、「音楽は音響現象であり、音が舞台から客席に達し再び舞台に戻るまでに要する時間を織り込んで作曲を行うべき」という教えだった。極端に少ない音数と遅いテンポで特徴付けられる特異な作風は、この教えの彼なりの解釈に他ならない。また、米国の作曲界に絶望していたヴァレーズは、「この国で本物の作曲家になるためには、音楽で生計を立てようとしてはいけない」が持論だった。以後の彼は、家業で暮らすアマチュア作曲家と謗られても意に介さなくなった。

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 翌1950年1月、ミトロプーロス/NYPによるヴェーベルン《交響曲》の米国初演を聴きに行った際に、彼はケージと出会った。当時のケージはブーレーズと文通を始めており、第2ソナタの米国初演を企画していたが適当なピアニストが見当たらなかった。彼は同門のチューダーを紹介し、同じアパートに夫婦で移って親密な関係が始まった。やがてケージは、ピアニストの友人グレート・サルタン(30年近く後に、《南のエチュード》を初演することになる)から、当時16歳のクリスチャン・ウォルフ(1934-) に作曲を教えるよう頼まれ、「ニューヨーク楽派」の創立メンバーが揃った。ユダヤ系出版社の家庭に生まれたウォルフは最初のレッスンで、新刊の『易経』の英訳をケージにプレゼントした。

 この4人は行動を共にすることが多かった。1950年暮れ、チューダーによるブーレーズ第2ソナタの米国初演後にケージのアパートに集まり、ケージの料理を待っていた時に、フェルドマンに図形楽譜のアイディアが降ってきた。紙切れに引いた4本の横線の隙間を高音域・中音域・低音域とみなし、縦線でグリッドに区切ってところどころを塗り潰すと、五線譜を使わず音高も指定しなくても音楽的持続が生まれるではないか! ケージの料理ができるまで3人が代わる代わるピアノで弾いたこのスケッチが、音楽史上最初の図形楽譜作品、チェロ独奏のための《Projection 1》(1950) の原型になった。

 ただし、何から何まで彼の独創というわけではない。後に五線譜化することを前提に、グラフでスケッチを行う手法はシリンガー・システム(後にバークリー音楽大学になる、シリンガー・ハウスで教えられた作曲手法)の一部であり、ケージが楽派に伝えていた。グリッドを切ってリズム構造を決め、そこに音符をはめ込む作曲法はケージが1930年代末に打楽器作品のために開発し、この時期にも魔法陣に基づく作曲で使っていた。だが、旋律楽器でも音高を確定せずに「作曲」が可能だと示したことは彼の独創である。

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 彼がこの発想に至った背景として、ケージに導かれて美術へも関心を広げていたことは見逃せない。翌1951年1月に、ケージは彼を抽象表現主義の画家たちの交流会に誘った。チューダーとウォルフは美術には全く興味を示さず、ケージ自身も社交目的で時々顔を出すだけだったが、フェルドマンはこの会合に欠かさず参加し、特にフィリップ・ガストンと親しくなった。またケージは、彼の図形楽譜では不確定な音高や音価を易経で決めればこの発想を五線譜に引き戻せると気付いて《易の音楽》(1950-51) のスケッチを始めた。ウォルフもこの流れに沿って作曲を行い、チューダーは不確定性を含む譜面を読み解いて演奏譜を作る作業を、作曲を学んだキャリアを演奏に生かす行為として歓迎した。

 1951年秋からウォルフはハーヴァード大学文学部に進み、代わって翌1952年からボストン出身のアール・ブラウン(1926-2002) が加わった。元々は電子回路技師だった彼は第二次世界大戦末期に空軍に召集され、基地のジャズバンドに加わって音楽に目覚めた。除隊後はシリンガー・ハウスでジャズを学び、デンバーでポピュラー音楽理論を教えた。彼は、妻キャロラインがマース・カニンガム舞踏団に入団したのを契機に楽派に加わったが、ケージの興味は彼の音楽歴よりも電子回路技師としての技術にあり、ケージ《ウィリアムズ・ミックス》(1951-53) など、楽派初期の電子音楽は彼に多くを負っている。

 《易の音楽》以降、ケージは専ら「偶然性の音楽」の理念に基づいた作曲を行ったが、フェルドマンにとって図形楽譜はアイデンティティではなくイディオムであり、複数の記譜法を並行して使う姿勢を、絵画と彫刻を並行して制作する美術作家に喩えている。彼の前期前半の図形楽譜作品は、《Projection》シリーズ5曲(1950-51) と《Intersection》シリーズ4+1曲(1951/53) で出版曲は尽くされる。最初のスケッチからの進展は、グリッド内に数字を書き込むようになったこと。《Projection》シリーズではグリッドは発音の最初と最後、数字は同時に鳴らす音の数を示すが、《Intersection》シリーズでは「あるグリッドの時間枠内でこの数の音を出す」というより自由度の高い指定になった。

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 また、グリッドと数字で構成される彼のストイックな図形楽譜は、この記譜法の一般的なイメージ――特徴的な図形を何らかの手続きで読み解き、伝統的な譜面に変換する――とは様相を異にするが、このイメージはブラウンの《Folio》(1952-53) に由来する。シリンガー・システムを学んだ彼はグラフ記譜法も知っており、自ら図形楽譜に到達した。60年代までヨーロッパを訪ねたことがなかったフェルドマンとは対照的に、ブラウンは50年代半ばから度々ヨーロッパに赴き、ダルムシュタットでの講義等を通じて自身の図形楽譜を伝えた。ケージとチューダーのヨーロッパ演奏旅行では「偶然性の音楽」の一種としてブラウンの図形楽譜も注目され、模倣された。ブソッティやロゴスティスらの「即興演奏にインスピレーションを与える絵画」としての図形楽譜も、ここから派生した。

 先に述べた通り、図形楽譜2曲以外の1956年までのピアノ独奏曲は確定譜面で書かれ、自演が前提のこれらの曲の方が彼の素の姿だ。チューダーを想定した《Intersection》2曲は彼には例外的に音数が多い。チューダーの解釈では読譜に基づいて伝統的記譜法による演奏譜を作るが、図形楽譜をリアルタイムで読んで「音高に囚われず自由に動き回る」演奏を望んでいたフェルドマンの理念とは必ずしも相容れない(ただしチューダーの録音ほど「自由に動き回る」演奏はその後も現れていない)。彼の理念と演奏実態の齟齬は、当初から大きかった。なお1956年は、最初の結婚が破綻し、二番目の妻シンシアと再婚した年であり、抽象表現主義最大のスターだったポロックが交通事故死した年でもある。彼の創作史では、私生活の転機と作風の転機がシンクロしていることが多い。

 1957年、彼はピアノ連弾や複数のピアノのための作品に集中的に取り組み、「グリッド内の音符の音高のみ厳密に指定する」新しい書法を試みた。以後60年代末まで、この書法が彼の作曲の中心になった(ピアノ独奏曲も全てこの書法)。同様の書法はヨーロッパの「管理された偶然性」でも見られ、演奏実態にも即していた。クラシック畑の演奏家には音高は特権的で、それが不確定であることは大きなストレスになる。ある者は苦し紛れ、ある者はサボタージュとして既存の旋律の切り貼りで音高選択を処理し、音楽が台無しになる経験を経て、彼は現実的な書法に至った。翌1958年からグリッドと数字の図形楽譜作品も再び書き始めたが、アンサンブルはトゥッティと沈黙が交代する進行、グリッド内の数字は殆ど1にして、「旋律的なソロ」がなるべく生じないように工夫した。緩やかな偶然性で特徴付けられる新しい書法は軌道に乗り、ピアノ独奏曲《Last Pieces》(1959) や《Durations》シリーズ(1960-61) は、彼の最初のピークになった。

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 この時期にニューヨーク楽派の状況は大きく変わった。ケージとチューダーの1958年のヨーロッパ演奏旅行は熱狂的に受け入れられ、米国実験主義のヨーロッパにおける受容は新たな段階を迎えた。ペータース社は1960年からケージ、1962年からフェルドマンとウォルフの作品を網羅的に出版した。だがこの頃からチューダーは、自作電子回路の即興的操作に基づいた活動に軸足を移し、ケージもチューダーに追随して、マルチメディア・パフォーマンスに移行する。ハーヴァード大学で学んでいたウォルフは、西洋古典学で博士号を取得し、1970年までは同大学、以後はダートマス大学という東海岸の名門大学で西洋古典学と文学の教鞭を執り、音楽と無関係に安定した生活を手に入れた。すると彼は音楽では、自身のピアノ即興や政治参加を中心に据えた自由な活動を展開する。

 このようにケージ、チューダー、ウォルフは1960年頃から、クラシックに通じる「現代音楽」の世界から離れる方向で活動を展開した。すると相対的に、この世界ではフェルドマンの存在がクローズアップされることになる。作品集もいくつかリリースされ、管弦楽のための図形楽譜作品《…Out of Last Pieces》(1961) は1964年に、バーンスタイン/NYPの定期演奏会で取り上げられた。だが、彼の上り調子もここまで。新奇なコンセプトの提唱よりも、漸進的な改良で質を高めてゆく彼の姿勢は、「現代音楽」が決して根付いてはいない米国では十分には受け入れられなかった。この頃から服飾業界の寡占化のために家業は傾き、生計も苦しくなっていった。図形楽譜による最後の作品《オーケストレーションを探して》(1967) は自信作だったが、演奏には恵まれなかった。

 生計の悪化とともに二度目の結婚生活も冷え込み、1970年には破綻した。この年は、抽象表現主義の生き残りのマーク・ロスコとバーネット・ニューマンが相次いで逝去し、フィリップ・ガストンとの親交も、毒々しい具象画に作風を急転換したことで終わった。彼にとって、不確定性を内包した作曲と抽象表現主義の絵画は切り離せないもので、この界隈との交流が失われた結果、恣意的な解釈に悩まされながら不確定性を含む作品を書き続ける気力も失われた。楽譜出版社をウニヴェルザール社に変更したタイミングで、彼は再び伝統的な確定譜面に戻ることに決めた。この様式による最初の代表作《The Viola in My Life》シリーズ(1970-71) は、新恋人カレン・フィリップスを独奏者に想定した(従ってViolaには定冠詞が付く)連作である(女性関係はマメな人だ)。ロスコ作品で埋め尽くされた私設美術館の開館記念作として委嘱され、追悼作になった《ロスコ・チャペル》(1970-71) の初演でも、ソリスト的な扱いのヴィオラはフィリップスが担当した。

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 ヴィオラへの偏愛は、フィリップスとの関係とともに終わったが、独奏楽器とアンサンブルという編成への偏愛は、70年代にわたって続いた。トゥッティと沈黙が交代する展開で、トゥッティの音色変化に焦点を絞ったアンサンブル書法は、50年代末に再び図形楽譜を使い始めた時期から受け継いできた方向性だが(不確定性を排除したことで音色のコントロールはより繊細になり、この側面が近藤譲の音楽に最も影響を与えた部分である)、そこに旋律的な独奏楽器が加わったのがこの時期の特徴である。図形楽譜作品では既存の旋律の引用を防ぐため、不確定性を含む作品でも自己顕示欲の強い奏者の暴走を防ぐために、アンサンブル作品では旋律的なソロは極力控えてきたが、確定譜面になればその心配はなく、むしろ不確定性を含む時期との差別化のために積極的に導入したのだろう。

 この時期を代表する作品群は、《Cello and Orchestra》(1972) に始まる、独奏楽器とオーケストラのための連作である。この種の曲の演奏機会が得られるのは米国ではなくヨーロッパ、特に制度的に現代音楽に取り組むドイツの放送オーケストラであり、この連作でもチェロ、ピアノ(1975)、オーボエ(1976)、フルート(1977-78) のための4曲はみなツェンダー/ザールブリュッケン州立放送響が初演している。オーストリアのウニヴェルザール社に出版社を代えたのも、そのあたりの事情を見越していたのだろう。1970年に家業を諦めて教職を探し始めた彼は、ニューヨーク州立大学バッファロー校に常勤職を得て(彼の要望通り「エドガー・ヴァレーズ記念教授」として)同地に移住した。

 読書家としてベケットに親しんできた彼が「ベケットの時代」の総決算としてベケットに台本を依頼してオペラを書くのは、自然な成り行きではある。《Orchestra》(1976)、《初歩的手法》(1976)、《型通りの探求》(1976) という音響プロトタイプ3曲を経て、彼は《Neither》(1977) に臨んだ。彼がこの曲で「出し尽くした」ことは、ハイペースで書いていた声とアンサンブルのための作品を、この曲の後は殆ど書かなくなったことにも表れている。中期のその後は、やり残したことを探すモードに入る。《PIano》(1977) もそのひとつ。ピアノ独奏曲は小品か組曲ばかりだった彼とっては初の大曲であり、素材の多彩さでも表現の振れ幅の大きさでも、期待に違わぬ内容を持っている。

 《Violin and Orchestra》(1979) が中期と後期の分水嶺にあたる理由をもう少し説明すると、この曲は中期を代表する独奏楽器とオーケストラの連作の最後に位置する一方、独奏パートに現れる旋律素材は、以後の曲で使われているものが多いことが挙げられる。中期作品としても後期作品としても「総集編」なのである。この次に書かれたのが弦楽四重奏曲第1番(1979)、少数の素材を不規則に反復して演奏時間は1時間半を超える、後期作品のプロトタイプである。彼の弦楽四重奏曲はもう1曲、5時間を超える第2番(1983) だけだが、それ以外にも独奏楽器と弦楽四重奏という編成で3曲ある。すなわち、中期におけるオーケストラが後期では弦楽四重奏に入れ替わった格好になっている。長時間作品に見合う練習時間をオーケストラに期待するのは非現実的という実際的な理由に加えて、この時期の彼が重視したのは音色の変化よりも旋律断片の記憶の中での変容なので、アタックが目立たない弦楽四重奏の滑らかな音表面は、理想的な表現媒体だった。

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 また後期作品では、ピアノも弦楽四重奏と並ぶ大きな位置を占めている。ピアノは彼が自分で弾ける楽器として、前期作品では大きな役割を担っていたが、中期は独奏曲自体が少ない上、アンサンブル曲の中での役割も限られている。これは前期のチューダーに匹敵するピアニストに出会えなかったことが大きいが、1980年に知り合った高橋アキの真摯なアプローチに接して、《三和音の記憶》(1981) を彼女に献呈した。彼女の「絶対的に静止した」タッチは、後期作品には理想的だと彼は感じ、以後の作曲も彼女の演奏が基準になった。弦楽四重奏を含まない後期アンサンブル作品は、フルート、弦楽四重奏の構成楽器、打楽器のいくつかとピアノという編成を持ち、ピアノは不可欠な存在である。

 既に触れた《三和音の記憶》と《For Bunita Marcus》は、いずれも演奏時間1時間半前後の典型的な後期作品だが、最後のピアノ独奏曲《マリの宮殿》(1986) の演奏時間は30分を切っており、後期としては凝縮された部類の作品。長時間作品では数種類の素材の登場周期を変えて不規則に繰り返すのが基本戦略だったが、この曲では本質的に1種類の素材を、反復ごとに扱い方(どの箇所を切り取るか、和音かアルペジオか)と音価の配分を微妙に変え、モノトーンと多様性を両立させている。このような書法は《コプトの光》(1985) や《For Samuel Beckett》(1987) でも見られ、最晩年の新境地である。

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 作曲家バニータ・マーカス(1952-) は1976年に大学院生として彼の研究室に加わり、彼女が博士号を取得した1981年に彼は結婚を申し込んだ。彼女は拒絶してニューヨークに移ったが、その後も彼との関係は続き、《For Bunita Marcus》を献呈された。《マリの宮殿》を委嘱したのも彼女である。ネット上の彼女の曲を聴く限りは、彼が惚れ込んだのは果たして彼女の才能なのかは疑わしいが、ミニマル音楽第一世代以外の調性的な現代音楽に付きまとう、復古主義的な重苦しさとは確かに無縁で、調性的素材の導入を躊躇していた彼の背中を、彼女の音楽が押したことは想像に難くない。1987年9月、彼は61歳で膵臓癌で亡くなった。同年6月には生徒のバーバラ・モンクと三度目の結婚をしたが、葬儀で弔辞を読んだのは長年親密な関係にあったバニータ・マーカスだった。

 彼の音楽はW.ツィンマーマンらを中心に特にドイツで深く研究され、ヨーロッパでの名声はケージに勝るとも劣らなかった。しかし米国では総じて冷遇され、《コプトの光》のシュラー/NYPによる米国初演の新聞評は、「音楽史上最も退屈な作曲家」という惨憺たる扱いだったという。彼は、ニューヨーク楽派の作曲家の中では最初に亡くなった。現在はウォルフ以外は世を去り、大半のメンバーは晩年に大きく作風を変えることはなかったが、ケージは彼の死に合わせたかのように作風を大きく変え、彼の前期後半の書法によく似た「タイムブラケット書法」を導入した。この最晩年の試みによってケージのヨーロッパでの評価はさらに上がり、ヴァンデルヴァイザー楽派の結成にも結びついたが、「ケージの弟子」と見做されることを嫌ってあえて批判的姿勢を取ることもあった彼にとって、死後にケージに影響を与えたことは大きな誇りだろう。死の直前に病室を訪れたケージに彼は「私たちは良い人生を送った、思い残すことはない」と語ったという。






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# by ooi_piano | 2017-12-03 20:59 | POC2017 | Comments(0)

12/4(月)J.S.バッハ:クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ 全6曲 BWV1014-1019

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2017年12月4日(月) 18時30分開演(18時開場)
東京オペラシティ 近江楽堂 一般5000円/学生4000円

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685 – 1750) : クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ BWV1014 - 1019
第1番 ロ短調 BWV1014 [全4楽章] 約15分
  Adagio - Allegro - Andante - Allegro
第2番 イ長調 BWV1015 [全4楽章] 約13分
  (Dolce) - Allegro - Andante un poco - Presto
第3番 ホ長調 BWV1016 [全4楽章] 約17分
  Adagio - Allegro - Adagio ma non tanto - Allegro
 (休憩 15分)
第4番 ハ短調 BWV1017 [全4楽章] 約15分
  Largo - Allegro - Adagio - Allegro
第5番 ヘ短調 BWV1018 [全4楽章] 約16分
  (Lamento) - Allegro - Adagio - Vivace
第6番 ト長調 BWV1019 (最終版) [全5楽章] 約17分
  Allegro - Largo - Allegro - Adagio - Allegro


c0050810_13170294.jpg【お問い合わせ】 yurikaviolin@kvj.biglobe.ne.jp tel 03-6411-1977(辻) 
matsukiart@nifty.com tel 03-5353-6937(松木アートオフィス、火~日/10~17時)




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阿部千春  (バロックヴァイオリン)
  塩川庸子氏、尾島綾子氏、前澤均氏、金倉英男氏、村上和邦氏、菊地俊一氏に師事。武蔵野音楽大学卒業後、ドイツ・シュツットガルト国立音楽大学でスザンネ・ラウテンバッハー氏に師事。在日中より菊地俊一氏、永田仁氏を通して古楽に関心を持っており、1994年トロッシンゲン国立音楽大学古楽科に入学、バロックヴァイオリンをジョルジオ・ファヴァ氏に師事。ディプロム終了後、同大学院にてフランソワ・フェルナンデス、エンリコ・ガッティ、ジョン・ホロウェイ各氏のもとで研鑽を積む。
  1999年、ドイツ産業連盟・ドイツ財界文化部主催の”古楽・弦楽器コンクール”にて特別奨励賞を受賞。大学院修了後、スコラカントルム・バジリエンスィス(バロックヴァイオリン、ヴィオラ・ダモーレ)、ケルン国立音楽大学(古楽科室内楽専攻)に在籍。在学中より、オーケストラ/室内楽奏者、ソリストとして数多くの演奏会、CD、各地放送局の録音に参加、ヨーロッパ各国に活動範囲を広げる。現在、ドイツ・ケルンに在住。ヴィオラ・ダモーレ奏者としても活動。コンチェルトケルンでは演奏の他、資料研究も担当。国内においては2009年から2012年にかけて大井浩明氏とのモーツァルト・ヴァイオリンソナタ全曲シリーズを完結。2013年にはバッハのヴァイオリン無伴奏全曲演奏会を開催する。 公式サイト http://chiharu.de/ (ブログ随時更新中)






バッハのヴァイオリンソナタ集について―――阿部千春


曲集の成立・出典

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 Johann Sebastian Bach ヨハン・セバスティアン・バッハ( 1685 – 1750 ) の " クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ " 6曲は、ケーテン時代 ( 1717 – 1723 ) の終わり頃、1720年以降にチクルスとしてまとめられたと考えられています。ヴァイマール時代から少しずつ書き溜めていたと見られ、ライプツィヒに移ってからも ( 1723 - )手を加えていったようです。宮廷での演奏、ライプツィヒではコレギウム・ムジクムでも活用されていたかと思われます。
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001 - 1006 には自筆譜が残っており1720年という年代が記されていますが、このソナタ集 BWV1014 - 1019 には自筆譜が残っていません。バッハ自身、また彼の相続者が管理に疎かったこともあり、19世紀半ばまでに室内楽のかなりの自筆譜が紛失しました。
 1802年に出版されたJohann Nicolaus Forkel ヨハン・ニコラウス・フォルケル ( 1749 – 1817 ) による最初のバッハ伝にはこのような記述があります。 「 この6曲はケーテン時代に完成された。彼のこの分野における最初のマイスター作品と言えるだろう。作品集を通してフーガ的技法が使われており、クラヴィーアとヴァイオリンとの間でのカノンは歌唱的で性格に富んでいる。ヴァイオリンパートにはプロ的技術が要求される。バッハはこの両方の楽器の技術的・音楽的可能性を熟知していた。」
 ヴァイマール ( 1708 – 1717 ) では1714年からコンサートマスターとして任命されたこともあるバッハは、当時オルガンの大家として有名でしたが、ヴァイオリン / ヴィオラの演奏にも精通していました。当時、通奏低音のレッスンでは先生がヴァイオリンで旋律を担当し生徒が伴奏していくという形がスタンダードだったと言われています。バッハがこの6曲の演奏に際して、ヴァイオリンパートを受け持ったことも十分考えられます。

 現存するもっとも古い出典は、1725年頃のバッハ本人と当時ライプツィヒ・トマス学校で学んでいた甥のJohann Heinrich Bach ヨハン・ハインリヒ・バッハ の手で書かれたチェンバロ譜で、ベルリン国立図書館に保管されています。この楽譜と一緒に保管されているヴァイオリンパート譜は、その数年後にブラウンシュヴァイクの宮廷音楽家Georg Heinrich Ludwig Schwaberg ゲオルク・ハインリヒ・ルードヴィヒ・シュヴァーベルク ( 1696 – 1772 ) がライプツィヒ滞在の折に紛失した譜の代わりとして書いたものです。

 バッハの次男Carl Philipp Emanuel Bach カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ ( 1714 – 1788 ) が1774年に記しています。「 6曲のこのクラヴィーアトリオは敬愛なる父の作品の中でも特筆に値する仕事である。50年を隔ててなお素晴らしい作品と言える。」
彼は、父ヨハン・セバスティアンがこのチクルスを作曲した当時非常に斬新な手法だったチェンバロのオブリガート楽器としての室内楽での使用 ( チェンバロはそれまでは室内楽において通奏低音楽器としての扱いが普通だった )、音楽的内容の質、そして緩徐楽章における歌唱的な技法を高く評価しています。自身このスタイルを「旋律楽器とチェンバロのためのトリオ」と分類、同じ手法での作品を残しています。
 この手法は伝統的なトリオソナタの編成 ( 2つの上声と通奏低音 ) をヴァイオリンとチェンバロに振り分けたもので、6曲のソナタの大半がこの形をとっています。この手法には経済的効果もあり、腕の立つ2人の奏者によっての演奏は、同じ演奏効果をより少ないリハーサルによって可能にするものでした。また、バッハが活躍したドイツ・チューリンゲン / ザクセン / ベルリン地方で作られていたチェンバロは特に高音において音の伸びがよく、ヴァイオリンとの旋律的掛け合いの効果を狙うことができたと見られます。マニュアル指定が後の版にもないため、1段鍵盤の比較的小さい楽器を使ったことも考えられます。

 さらにこの編成での利点は、通奏低音の和声的なぶ厚い層が削減されることを通して全体の響きが軽くなり、対位法の構造がよりはっきりする点にあります。また、一つの旋律をチェンバロが担当することで、2 つの旋律楽器を用いた伝統的なトリオソナタ形式よりも旋律が絡み合い、より軽快さ、リズム / 構成の明確さを生み出します。


バロック時代におけるソナタの誕生と発展

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 器楽曲という分野は17世紀を通して大きな発展を遂げました。ルネサンス時代、主に声楽ポリフォニーが教会・宮廷において芸術音楽として演奏され、高い水準の対位法技法が確立させます。1600年頃、その複雑な構造とは違う、歌詞を簡潔な形で聞き手に伝えるモノディーの運動がイタリア・フィレンツェで興り、通奏低音という演奏習慣が確立されます。この頃機能が改良され性能が向上してきた楽器を用いての楽曲にも、このモノディー様式・通奏低音の習慣の影響が見られるようになりました。Michael Praetorius ミヒャエル・プレトリウス ( 1571 – 1621 ) の著書、Syntagma musicum 音楽大全 ( 1619 ) にソナタについての記述が見られます。「Sonata ソナタという語はCanzonen カンツォーネと同様、人の声ではなく、楽器を用いて演奏される曲に使われる。ただしこの二つの語には違いがある : ソナタは重々しく荘厳なモテットの様式で作曲される。一方カンツォーネは細かい音を用いた、新鮮で軽快、そして速い楽曲である。」
 特にヴァイオリンという楽器はその音域の広さと自由な表現の可能性とで、器楽の歴史上、大きな役割を担いました。器楽という意味で使われていたソナタという語は、次第に決まった形式を指すようになります。1700年に出版されたArcangelo Corelli アルカンジェロ・コレルリ ( 1653 – 1713 ) のヴァイオリンソナタ集作品5は18世紀を通して全ヨーロッパに大流行した作品集です。この作品5は前半6曲が教会ソナタ、後半5曲 ( 最後の12番はラ・フォリアの主題による変奏曲 ) は室内ソナタの形式が用いられています。
 教会ソナタ・室内ソナタの概念が定着したのは18世紀に入ってからです。Sébastien de Brossard セバスティアン・ド・ブロサール ( 1655 – 1730 ) の音楽辞典 ( 1703 ) には次のようにあります。「教会ソナタは教会という場にふさわしく荘厳な楽章で始まり、フーガを用いた速く生き生きとした楽章が続く。その後1楽章よりさらに厳然な楽章が奏され、最後は再び速い曲で締めくくられる。この最後の楽章は2番目のものよりさらに軽く流れるような曲で、フーガはあまり用いられない。」「室内ソナタは室内で奏されるのにふさわしく、小さな舞曲を集めたものである。プレリュードまたは小さなソナタ ( ソナティネ ) で始まり、同じ調性の舞曲が次々と演奏される。」
 アルカンジェロ・コレルリは教会ソナタ形式によるトリオソナタ集作品1、作品3において4楽章形式を用いました。作品5では教会ソナタ形式による前半6曲に5楽章形式を用いていますが、4楽章形式に速い楽章を挿入した拡張版と言えるでしょう。


バッハのソナタにおけるイタリア様式の影響

 バッハは "クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ " 6曲のうち、1番から5番 ( BWV 1014 – 1018 ) に緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタ形式を使っています。第6番は他の5曲とは違い、室内ソナタ的な構造になっています。コレルリの作品5における5楽章形式の教会ソナタを前提にした可能性もあります。

 バッハが先達の作品を写譜し勉強していたことはよく知られていますが、ヴァイマール滞在中の1713-1714年頃、イタリアの最新の音楽に触れるチャンスがありました。当時のヴァイマール - ザクセン候Ernst August Iエルンスト・アウグスト1世 ( 1688 – 1748 ) の甥、Johann Ernst IVヨハン・エルンスト4世 ( 1696 – 1715 ) は音楽的才能に非常に恵まれており、1713年夏アムステルダム滞在の際、最新の出版譜を大量に購入し持ち帰ります。その中に1711年に出版されたAntonio Vivaldi アントニオ・ヴィヴァルディ ( 1678 – 1741 ) の協奏曲集 ”調和の霊感” 作品3がありました。ちょうどこの頃バッハの作風に顕著な変化が現れます。他の作曲家からの編曲のうち6曲は、ヴィヴァルディ・作品3からのものです。
 次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが、1754年に出版された追悼文の中で触れているのが、父ヨハン・セバスティアンがヴィヴァルディから学んだ „musikalich denken“ ( 音楽的に考える: 音楽的思考 ) という新しいメソードです。バッハはヴィヴァルディの作品3を研究し、そのメソードを理解、発展させ、伝統的作曲技法の限界を超えた可能性を開拓、18世紀初頭に急速に発展した作曲法に大きな貢献を果たしました。ヴィヴァルディが作品3で導入した "Ordnung, Zusammenhang, Verhältnis“ ( 秩序 / 規律、連結、繋がり ) による音楽の組み立ては、簡潔明快さ・その単純さからくる自然のエレガンスと、知的に計算された複雑さ・多様性からのインテリゲンスという、美学的に両極端の2つの見地の組み合わせを可能にしました。アイデア / モチーフの組み立ての秩序を認識し、そのアイデア / モチーフの間を連携させ、全体の構築していく方法は、それまでの伝統的な作曲技法になかった可能性を広げます。バッハはこのヴィヴァルディが提示した新しい方法に、伝統的・厳格な対位法技法、内声部の旋律的な流れ ( これはバッハの通奏低音におけるレアリゼーションに典型的に示されています )、和声の緻密さを加え、これらを機能的、本質的に統括しました。
 ヴィヴァルディが提示した天才的な作曲システムと、それをさらに発展させたバッハの統括的なシステムはこの後18世紀の音楽史に大きな影響を与えていきます。

 バッハはクラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ6曲において、トリオソナタの書法による二重奏ソナタの形式をベースに、イタリアの新しい作曲のメソードを取り入れ、リトルネロ形式やコンチェルト形式を加えたチクルスを完成させたのでした。


ソナタ6番の成立にまつわる経過

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 第6番にはバッハ本人による3つの版が残されています。この3つの版に共通して使われているのが、第1楽章に置かれているアレグロ ( 初版ではヴィヴァーチェ、第2版ではプレスト )、ラルゴ、
アダージオの3つの楽章です。音楽学者Hans Eppsteinハンス・エップシュタインは、この3つの楽章は紛失したフルートとヴァイオリンと通奏低音のためのトリオソナタが元となっているのではとの仮定を提唱しています。音域、音型から、これはフルートとヴァイオリンではなく、2台のヴァイオリンのためのトリオソナタだったのではという意見もあります。

初版 : 1725年までに完成
Vivace
Largo
Cembalo Solo
Adagio
Violino solo è Basso
[Vivace ] Repetatur ab initio

 初版のCembalo Solo とviolino solo è Bassoは、同じ1725年に出版されたパルティータロ短調BWV830にCorrente 、Tempo di Gavottaとしてチェンバロソロ用に書き換えられています。その出版のためか、バッハはこの2曲の代わりにヴァイオリンとチェンバロによるカンタービレを入れ、第2版としました。

第2版 : 1725年 ( 又は1728年 ) 以降
Presto ( 初版の第1楽章と同じ )
Largo
Cantabile ma un poco adagio
Adagio
[Presto] ad Initio repetat(ur)

 Cantabile ma un poco adagio は結婚カンタータ „Herr Gott, Beherrscher aller Dinge"「主なる神、万物の支配者よ」BWV120a ( 1729年 ) のソプラノとヴァイオリンによるアリア"Leit, o Gott, durch deine Liebe" 「神よ、あなたの愛によってお導きください」から器楽ヴァージョンとして引用されました。ヴァイオリンパートはそのまま、ソプラノのパートはチェンバロの右手が担当します。ちなみにこのカンタータには別の版があります。( 1730年にアウグスブルク信仰告白で使われた版„Gott, man lobet dich in der Stille“ 「神よ、讃美はシオンにて静けく汝に上がり」BWV120bは紛失。1742年に市参事会員交代式で再演された版はBWV120として残っている)

最終版 : 1740年代 ?
Allegro ( 初版の第1楽章と同じ )
Largo
Allegro ( Cembalo solo )
Adagio
Allegro
 最終版でバッハはチェンバロソロを復活、新しく作曲してCantabileの代わりに付け加えます。最終楽章のアレグロは1731年以前に作曲されたと考えられる結婚カンタータ "Weichet nur, betrübte Schatten“ 「しりぞけ、もの悲しき影」BWV202のアリア "Phöbus eilt mit schnellen Pferden“「フェーブスは駿馬を駆り」の、通奏低音が担当する駿馬の足音の模倣音型を用いた楽章です。


クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ BWV1014 - 1019

第1番 ロ短調 BWV1014
 6曲中で唯一リトルネロ形式を用いておらず、このソナタ集の中で成立が一番古い可能性があります。

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1楽章 アダージョ 6/4拍子 ロ短調                           
 独唱アリアの形を取り、オーケストラの前奏のようなチェンバロの3度音型で始まり、ヴァイオリンがその上でアリア的旋律を奏でます。後半はチェンバロとヴァイオリンの掛け合いになり、二重奏曲としての様相となります。ヨハネ受難曲、そしてロ短調ミサの冒頭と同じ調性での、哀愁に満ちたアリア。

2楽章 アレグロ 2/2拍子 ロ短調
 三部構成 ( 第6番の1楽章と同じく、ダ・カーポ形式 ) による、3声のフーガ。中間部は長調となり、主題が動機分解され展開。後の時代のソナタ形式を思い起こさせるスケールの大きな楽章です。

3楽章 アンダンテ 4/4拍子 ニ長調
 伸びやかなトリオソナタ形式のデュエット。ため息の音型も使われ、メランコリーな情感が漂います。

4楽章 アレグロ 3/4拍子 ロ短調
 二部構成の3声によるフーガ。8分音符の反復音型による強い性格の主題、16分音符のなめらかな対旋律がコントラストを成す楽章です。


第2番 イ長調 BWV1015

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1楽章 ( 速度表示なし ) 6/8拍子 イ長調
 3声による模倣対位法。ヴァイオリンパートにはDolceドルチェと書かれています。牧歌的な穏やかな楽章。

2楽章 アレグロ ( 1725年頃とされる原典、また他の18世紀の写譜にはアレグロ・アッサイとある )  3/4拍子 イ長調
 三部形式によるフーガの技法を用いたリトルネロ形式。中間部に協奏的な効果が用いられている、華やかな楽章です。

3楽章 アンダンテ・ウン・ポーコ ( 1725年頃の原典にはアンダンテ・センプレ ) 4/4拍子 嬰ヘ短調
 オスティナートとしての分散和音の伴奏による、2声の厳格なカノン。版によってはStaccato sempreとの記述があるリュートのような伴奏の上に、もの悲しげな旋律がカノンとして展開します。

4楽章 プレスト 4/4拍子 ( 1725年頃の原典、また他の多くの版で2、またはアラ・ブレーヴェ ) イ長調
 3声のフーガによる二部形式の楽章。3楽章とは打って変わり、朗らかな曲想。


第3番 ホ長調 BWV1016

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1楽章 アダージョ 4/4拍子 ホ長調
 分厚いオーケストラの響きを思い起こさせるチェンバロの5声の伴奏音型に、ヴァイオリンが堂々とアリアを奏でる、スケールの大きな楽章。音楽学者エッピシュタインは、1714年に作曲されたカンタータ " Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen"「泣き、嘆き、憂い、怯え 」BWV 12のシンフォニアとの関連を指摘しています。チェンバロによる伴奏は、このカンタータにおけるヴァイオリンの伴奏音型からの転用と見られます。一種のオスティナートと解釈できます。

2楽章 アレグロ 2/2拍子 ホ長調
 1楽章とは一転してラフな感じのフーガの技法を用いたリトルネロ形式。三部からなります。

3楽章 アダージョ・マ・ノン・タント 3/4拍子 嬰ハ短調 
 ヴァイオリンとチェンバロの右手によるデュエット。バスの音型は1楽章と同様オスティナートと見ることができます。ここでは4小節に渡るオスティナート音型が階段状に使われています。

4楽章 アレグロ 3/4拍子 ホ長調
 オーケストラの響きを想定した、華麗なフィナーレ。リトルネロ形式によるフーガ。協奏曲の様式で、中間部には3連符の旋律と冒頭の16分音符の音型が競い合うがごとく交替で現れます。



第4番 ハ短調 BWV1017

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1楽章 ラルゴ ( 1725年頃の原典、また他の18世紀後半の写譜にはシチリアーナとの表示がある ) 6/8拍子 ハ短調
 シチリアーノのスタイルによるヴァイオリン独奏と通奏低音の二部形式。チェンバロによる16分音符の、シチリアーノ風の分散和音は、通奏低音のレアリゼーションの好例です。ヴァイオリンが奏でる旋律内の6度跳躍は、鎮魂歌のような曲に用いられる表現手段の一つで、後半では旋律内の跳躍が大きくなり、さらに強い表現となります。マタイ受難曲のアルトとヴァイオリンソロによるアリア、“Erbarme dich"「わが神よ、憐れみたまえ」を彷彿させる二部形式の楽章です。

2楽章 アレグロ 4/4拍子 ハ短調
 3声のリトルネロ形式によるフーガ。テーマに含まれる音程跳躍が3度、5度、8度、10度と広くなり、ダイナミックな効果を生んでいます。

3楽章 アダージョ ( 18世紀後半のコペンハーゲンに保管されている写譜にはアダージョ・マ・ノン・タント )  3/4拍子 変ホ長調
 1楽章と同じく、ヴァイオリンのソロと通奏低音のスタイル。チェンバロの分散和音はここでは8分音符による3連符で書かれています。旋律線にはエコー効果を狙った強弱の指定があります。また、分散和音の3連符に対して、旋律には付点のリズムが現れます。このような場合、同時代の音楽家たちの記述にあるように、緩徐楽章において付点のリズムは書かれてある通りに奏し、リズムを3連符に合わせることはなかったようです。旋律を浮かび出させる手法と言えるでしょう。

4楽章 アレグロ 2/4拍子 ハ短調
 二部形式のようなフーガ。2楽章の主題の変形とも取れる、やはり音程跳躍を使った主題を用いています。展開部においては、この主題とは性格の違う16分音符によるなめらかなテーマを用い、コントラストを出しています。



第5番 ヘ短調 BWV1018

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1楽章 ( 速度表示なし )  3/2拍子 ヘ短調
 18世紀の写譜の中にはラメントと記されているものもあり、哀愁に満ちた楽章です。チェンバロで同じ音型が音域を変えて繰り返され、オルガンによるプレリュード形式のひとつをとっています。モノトーンなチェンバロ音型にヴァイオリンの旋律がそれに分け入るように歌われます。
 チェンバロのこの音型は、モテット" Komm, Jesu, komm „ 「来れ、イエス、来れ」BWV229のモチーフと同じもので す。( „die Kraft ver-schwindt je mehr“ 「力がどんどん尽きていく…」という歌詞の箇所 )

2楽章 アレグロ 4/4拍子 ( 1725年頃の原典、また幾つかの他の写譜ではアラ・ブレーヴェ ) ヘ短調
 2楽章としては珍しく、繰り返し記号のついた反復二部形式をとっています。主題はヘンデルのように単純で直接的、力強く、後半で出てくるもう一つの新しいフーガ主題はそれに対しなめらかな16分音符から成っています。この二重フーガの技法はバッハの作品の中でも特別のものです。

3楽章 アダージョ 4/4拍子 ハ短調
 6曲中で唯一、3楽章に他の楽章と同じ短調を用いています。ここでは役割が交代し、ヴァイオリンが通奏低音のレアリゼーションを8分音符で伴奏、チェンバロは流れるような分散和音を奏でます。初版ではこの分散和音は16分音符でしたが、後に32分音符の音型に変更されました。

4楽章 ヴィヴァーチェ 3/8拍子 ヘ短調
 リトルネロ形式のフーガ。半音階進行とシンコペーションを用いたジーグと言えます。ラメントの最終楽章に速い舞曲の形式を用いたのは、“Totentanz“「死の舞踏」を意識したのかもしれません。



第6番 ト長調 BWV1019 ( 最終版 )
 第3楽章を中心としてシンメトリーな構造となっています。

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1楽章 アレグロ ( 初版ではヴィヴァーチェ、第2版ではプレスト 、18世紀後半の写譜にはモルト・ アレグロとあるものもある) 4/4拍子 ト長調
 イタリアの協奏曲の形式を用いた、華やかで軽快な楽章。リトルネロ形式で、ソロと合奏の交替効果を狙っています。他のソナタとは違って5楽章形式をとるこの6番のソナタで、バッハは冒頭に速い楽章を置きました。初版、第2版ではこの楽章が最終楽章としてもう一度演奏されます。

2楽章 ラルゴ 3/4拍子 ホ短調
 すべての版に共通して使われている楽章です。コレルリのトリオソナタの形式を模した、バスの8分音符の音型の上に模倣技法での上2声の掛け合いで始まり、4声部での反復進行と主題の模倣、そしてフリギア終始で3楽章へと続きます。

3楽章 アレグロ 4/4拍子 ホ短調
 チェンバロの独奏。2声部で書かれた二部形式。

4楽章 アダージョ 4/4拍子 ロ短調
 2楽章のように、コレルリのトリオソナタ形式を思い起こさせる始まりで、フーガ技法、半音階進行、シンコペーションを使ったトリオとなります。
 
5楽章 アレグロ ( 18世紀の写譜の中にはアレグロ・アッサイとあるものも ) 6/8拍子 ト長調
 ジーグとも言える、ギャロップの音型を用いた爽快な三部形式のフーガ。1楽章の性格を引き継ぎ、チクルスの締めくくりとなります。



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【過去の公演】
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朗読:濱田壮久神父 バロックバイオリン:阿部千春 オルガン:大井浩明  テオルボ:蓮見岳人
H.I.F.v.ビーバー(1644-1704):《ロザリオのソナタ》(全16曲、1674)
〈キリストの誕生〉 - 喜びの神秘 Der freudenreiche Rosenkranz -
  第1番「お告げ」 - 第2番「訪問」 - 第3番「降誕」 - 第4番「キリストの神殿への拝謁」 - 第5番「神殿における12歳のイエス」
〈受難〉 - 哀しみの神秘 Der schmerzhafte Rosenkranz -
 第6番「オリーヴ山での苦しみ」 - 第7番「むち打ち」 - 第8番「いばらの冠」 - 第9番「十字架を背負うイエス」 - 第10番「イエスのはりつけと死」
〈復活〉 - 栄光の神秘 Der glorreiche Rosenkranz -
 第11番「復活」 - 第12番「昇天」 - 第13番「聖霊降臨」 - 第14番「聖母マリアの被昇天」 - 第15番「聖母マリアの戴冠」 - 終曲「守護天使」


阿部千春(バロック・ヴァイオリン)+大井浩明(チェンバロ)
●ビアージョ・マリーニ (1594-1663):ヴァイオリンのための変奏ソナタ第3番 (1629)
●ジョバンニ・バッティスタ・フォンターナ (1589?-1631):ソナタ第6番 (1641)
●カルロ・ファリーナ (c.1600-1639):ソナタ “ラ・デスペラータ”(1628)
●マルコ・ウッチェリーニ (c.1610-1680):ソナタ第3番 “ラ・エブレア・マリナータ”(1645)
●ジョバンニ・アントニオ・パンドルフィ・メアッリ(1624-c.1687):ソナタ “ラ・クレメンテ” 作品3-5 (1660)
●アンジェロ・ベラルディ (c.1636-1694):カンツォーネ第1番作品7 (1670)
●アレッサンドロ・ストラデッラ (1639-1682):シンフォニア第6番(1670s)
●カルロ・アンブロジオ・ロナーティ (c.1645-c.1712):ソナタ第5番(1701)
●アルカンジェロ・コレッリ (1653-1713):ソナタ作品5-10 (1700)

2009年7月25日 W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのパリ・ソナタ集 (全6曲、1778)
阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) 大井浩明(フォルテピアノ)
●ト長調K.301 (293a) 全2楽章
●変ホ長調K.302 (293b) 全2楽章
●ハ長調 K.303 (293c) 全2楽章
●ホ短調 K.304 (300c) 全2楽章
●イ長調 K.305 (293d) 全2楽章
●ニ長調 K.306 (300l) 全3楽章

2010年10月13日 W.A.モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのアウエルンハンマー・ソナタ集 作品2 (全六曲) (1778/81)
阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) 大井浩明(フォルテピアノ)
●ヘ長調K.376(374d) 
●ハ長調K.296
●ヘ長調K.377 (374e)
●変ロ長調K.378 (317d)
●ト長調 K.379 (373a)
●変ホ長調 K.380 (374f)

2012年2月10日 ピリオド楽器によるモーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ全曲シリーズ 最終回
阿部千春(クラシカル・ヴァイオリン) 大井浩明(フォルテピアノ)
●ソナタ第40番 変ロ長調 K.454 (1784/1784出版)[全3楽章] Largo/Allegro - Andante - Allegretto
●フランスの歌《羊飼いの娘セリメーヌ》による12の変奏曲 ト長調 K.359(374a) (1781/1786出版)
●ソナタ第41番 変ホ長調 K.481 (1785/1786出版)[全3楽章]
●《泉のほとりで》による6つの変奏曲 ト短調 K.360(374b)(1781/1786出版)
●ソナタ第43番 ヘ長調 K.547 (1788)[全3楽章]
●ソナタ第42番 イ長調 K.526 (1787/1787出版)[全3楽章]
●ソナタ第39番 ハ長調 K.404(385d)(1782)[全2楽章]


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# by ooi_piano | 2017-11-13 21:22 | コンサート情報 | Comments(0)

11/4(土)ウストヴォリスカヤ・ピアノソナタ全曲+水野みか子新作


【ポック[POC]#33】 2017年11月4日(土)18時開演(17時半開場) ウストヴォリスカヤ全ピアノソナタ集

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大井浩明(ピアノ)
JR渋谷駅徒歩8分、井の頭線神泉駅徒歩3分

3000円(全自由席) [3公演パスポート8000円]
【お問合せ】 合同会社opus55 Tel 050(5849)0302 (10~18時/水木休) Fax 03 (3377)4170 (24時間受付)
チケット予約フォーム http://www.opus55.jp/poc.html


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●ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975):ピアノ・ソナタ第1番 (1926) 13分
  Allegro -Meno mosso - Allegro - Adagio - Lento - Allegro - Meno mosso - Moderato - Allegro
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ(1919-2006):ピアノ・ソナタ第1番 (1947) 9分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第2番 (1949) 11分
  I. - II.
同:ピアノ・ソナタ第3番 (1952) 17分
  Tempo I. - Tempo II. Meno Mosso - Tempo III.
 (休憩 10分)
●水野みか子:《植物が決める時》(2017、委嘱新作初演) 10分
  I. Arnica - II. トゥーランドットの庭 - III. 土の音
●ガリーナ・ウストヴォリスカヤ:ピアノ・ソナタ第4番 (1957) 11分
  I. - II. - III. - IV.
同:ピアノ・ソナタ第5番 (1986) 16分
  1. Espressivissimo - 2. - 3. Espressivo - 4. Espressivo - 5. Espressivo - 6. Espressivo - 7. - 8. A punto, aspro - 9. - 10. Espressivissimo
同:ピアノ・ソナタ第6番 (1988) 7分



水野みか子:《植物が決める時》
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  大井さんから委嘱のお話をいただいたとき、植物に関係する作品の第三弾を考えた。十年以上前に管弦楽のための《緑の波》を作曲したときには、豊かに実る穀物の畑をイメージしていた。第二弾、昨年作曲した《ピアノとエレクトロニクスのための リポクローム》は人参のカロチノイドにあるような黄色い色素に関係させた。
  本日初演していただく作品のタイトル《植物が決める時 tempus planta》は、 1557年に書かれたとされる「自然哲学」の書にヒントを得て作成したフレーズである。
  植物は行動しない。光、水、土などに反応することはあっても意志をもって次の動きを決めるということはなく、行動せずに根を張っていく。植物の魂によって決定される、底力ある「時間」は、人間意志に左右されずにどっしりした生命力で包んでくれるように思う。本作は、<Arnica>、<トゥーランドットの庭>、<土の音>の三曲で構成される。(水野みか子)

水野みか子 Mikako Mizuno, composer
  東京大学、愛知県立芸術大学卒業。同大学院音楽研究科修了。工学博士。作曲と音楽学の分野で活動を展開。名古屋市立大学芸術工学部芸術工学研究科・情報環境デザイン学科教授。2016年パリ・ソルボンヌ大学招聘研究員。近作に、《尺八、箏とオーケストラのための「レオダマイア」》(2012)、視聴覚同期プログラムIanniXのための《Trace the City 》(2014)、三人の演奏者のための《かげきじゃないかげき》(2015)などがある。2016年5月、伊交流コンサート(ベネチア、トレヴィーソ)にてソプラノとピアノのための《Per acqua chiare》(2016)他を発表。同年9月アジア・コンピュータ音楽会議においてヴァイオリニスト木村まりによって初演された《ヴァイオリンとエレクトロニクスのための「行き交う光束」》はICMC2017において再演された。2016年6月より国際音楽学研究組織IReMusメンバーとして電子音響音楽研究を推進している。先端芸術創作学会JSSA運営委員、日本電子音楽協会 JSEM会長。EMS2017実行委員長。
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ウストヴォリスカヤと旧ソ連の戦後前衛―――野々村 禎彦
(※音源リンク付)

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 ガリーナ・ウストヴォリスカヤは1919年にペトログラード(1924年からソ連崩壊まではレニングラード、現在はサンクトペテルブルク)に生まれ、1939年にレニングラード音楽院に入学してショスタコーヴィチに師事した。レニングラードは独ソ戦における包囲戦の舞台であり、疎開を挟んで卒業は1947年までずれ込んだ。同年に大学院に進んで教鞭を執り始めたが(1977年まで続けた生業)ショスタコーヴィチには師事しなかったのは、文学の世界では1946年に進歩的な作家への批判が始まっており、翌1948年のジダーノフ批判を予期して、優秀な弟子は遠ざけておいたのだろう。彼女も活動初期には体制に順応し、ピアノソナタ第1・2番(1947, 1949) や社会主義リアリズム路線のカンタータ《ステファン・ラージンの夢》(1949) を書いた。この間もショスタコーヴィチは彼女に新作の草稿を見せ、彼女のヴァイオリン・クラリネット・ピアノのための三重奏曲(1949) 終楽章の主題を弦楽四重奏曲第5番(1952) や《ミケランジェロの詩による組曲》(1974) に引用している

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 だが1950年に大学院を修了すると、以後は独自の道を歩み始める。2オーボエ、4ヴァイオリン、ティンパニ、ピアノのための《八重奏曲》(1949-50) を書いた時点で既に一般的ではない編成への指向は明白で、この作品も「思想的に狭量」と批判されて1970年にようやく初演された。ただし、敬虔な正教徒でもある彼女は世俗的な成功や評価は望んでいなかった。ショスタコーヴィチのように激烈な批判を受けることはない代わりに、ひたすら無視された。それでも50年代は比較的多作で、ピアノソナタ第3・4番(1952, 1957)、ピアノ独奏曲《12の前奏曲》(1953)、交響曲第1番(1955) など10曲を書いた。しかし、チェロとピアノのための《大二重奏曲》(1959) から彼女は変わった。もはや師の面影は微塵もなく、彼女だけの強靭な持続が生まれた。この変化は彼女も自覚していたのか、次作はヴァイオリンとピアノのための《二重奏曲》(1964) まで空き、これが彼女の60年代唯一の作品になった。彼女は「生活のために書いた不本意な曲」(例えば《詩曲》第1番(1958)・第2番(1959))は作品表から抹消しているが、それも50年代に限られる。

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 彼女の沈黙の背景には、ソ連の音楽状況の変化もあった。ショスタコーヴィチは《アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲》(1967) から半音階的書法への傾斜を強め、弦楽四重奏曲第12番(1968)・交響曲第14番(1969)・弦楽四重奏曲第13番(1970)・交響曲第15番(1971) では部分的に12音技法も用いているが、その背景にはこの時期に戦後前衛世代の作曲家たちがセリー書法を導入して成果を挙げたことがある(また、自己を確立したウストヴォリスカヤは彼の作風を嫌悪するようになったのとは対照的に、この時期の彼は彼女の旧作を参照して音楽的持続を作っており、その旨を彼女に私信で伝えている)。その急先鋒はエディソン・デニソフ(1929-96) であり、彼がモデルにしたのはブーレーズだった。ソプラノと9楽器のための《インカの太陽》(1964) はブーレーズに献呈され、西側でもたびたび演奏されて彼の国際的名声の出発点になったが、音楽的にはあからさまにブーレーズ《主なき槌》(1952-55/57) を換骨奪胎したものである。

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 この「国際的成功」でデニソフは当局に危険視されたが、ショスタコーヴィチのように教職を追われることもなく、ドミトリ・スミルノフ(1948-) やエレーナ・フィルソワ(1950-) をはじめ、旧ソ連のポスト戦後前衛世代を代表する作曲家たちを門下から輩出した背景には、ノーノの存在が大きい。前衛の時代のイタリア共産党はソ連と友好関係を結び、党員のノーノは文化使節としてソ連をしばしば訪れていた。ナチスドイツに抵抗した共産主義者や、北ベトナムなどのソ連に支援された民族解放闘争を讃える音楽をセリー書法で生み出し続ける彼の手前、ソ連でこの方向性を代表するデニソフを冷遇するわけにもいかない。彼もホリガーと同じく、この書法をブーレーズの枠を超えて柔軟に発展させ、ピアノ三重奏曲(1971) とソプラノと6楽器のための《赤い生活》(1973) で頂点に達した。

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 同世代の作曲家たちも同様の書法から出発したが、その路線ではデニソフに伍することは難しく、独自の道を歩み始めた中で最初に頭角を現したのはアルフレート・シュニトケ(1934-98) だった。彼はアンドレイ・フルジャノフスキー監督(1939-) の実験アニメ『グラスハーモニカ』の音楽を担当したが、監督一人で寓話的な切り絵アニメを制作するのと並行して、先の見えない状況でシークエンスごとに音楽を付けて行くと、おのずと泰西名曲や大衆音楽の断片を表層的に切り貼りした、神経症的なカットアップ音楽になる。この音楽をほぼ転用したヴァイオリンソナタ第2番(1967-68) で独自の書法を確立すると、この路線を過激化させてゆく。チャイコフスキーと自身の映画音楽を混淆してジョン・ゾーンの音楽を予言したような交響曲第1番(1969-72) は画期的な成果だが、強烈な音楽は強烈な批判も招き、結局彼は教職を追われて長らく映画音楽で生計を立てることになる。

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 シュニトケの覚醒は短期的には彼に困難をもたらしたが、西欧の戦後前衛の後追いとは異なる道を示し、同世代への刺激になった。イタリア共産党が1973年にユーロコミュニズムに転換し、ノーノの庇護を失ったデニソフがピアノ協奏曲(1974) でジャズとの混淆に転じたのは象徴的である。ただしデニソフはこの様式に長居はせず、セリー書法と後期ショスタコーヴィチを折衷した(すなわち、間接的にウストヴォリスカヤに影響された)繊細で穏健な様式に落ち着いた。シュニトケは、ピアノ五重奏曲(1972-76) や合奏協奏曲第1番(1977) のような端正な多様式書法で西側に知られるようになったが、彼の本領は様式混淆を極めた合奏協奏曲第2番(1981-82) や宗教的緊張感を極めた交響曲第4番(1984) のような、テンションを振り切った音楽にあることは強調しておきたい。

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 この時期に新たに覚醒したのはアルヴォ・ペルト(1935-) だった。彼は60年代末までは多作で、セリー書法や多様式書法を試みていたが限界を感じ、交響曲第3番(1972) で中世・ルネサンス音楽に鉱脈を見出していったん作曲を中断した。1976年にルネサンス・ポリフォニーと三度和声を融合する新たな発想を得て作曲を再開し、繰り返される三和音と全音階の順次進行をシステマティックに重ねる「鈴鳴らし」様式を提唱した。調性的動機をミニマルに反復する見かけの類似から、70年代以降のヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010) やジョン・タヴナー(1944-2013) らと「聖なるミニマリズム」と総称されることもあるが、新ロマン主義や神秘主義の文脈で調性に向かった彼らと、戦後前衛のシステム思考は保っていたこの時点のペルトの音楽の密度の差は明白である。

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 戦後前衛の後追いから解放されてウストヴォリスカヤも創作力を取り戻し、まず3曲の《コンポジション》(1971/73/75:編成はピッコロ、チューバ、ピアノ / 8コントラバス、ピアノ、巨大な木製ブロックとハンマー / 4フルート、4ファゴット、ピアノ) を書いた。いずれも高音楽器と低音楽器をピアノが結ぶ極端な編成であり、ピアノの役割も両者を和声的に繋ぐのではなく、強烈なクラスターで一拍子を刻むことである。彼女がセリー音楽を受け入れなかったのは「前衛的すぎる」からではなく、近代西洋音楽の残滓を引きずって穏健すぎるからだった。この3曲はミサ通常文に由来する副題「我らに平和を与え給え」「怒りの日」「来たる者を讃えよ」を持つが、このキリスト教的な側面も保守主義と結びつくものではなく、クセナキスのビザンチン音楽理解と共通する、東方正教の汎理性主義と超越指向の音楽(ただしペルトとは対照的に極めて暴力的な)を結びつけている。この路線を継承して声を含むより大きな編成(特定楽器群のみ増強した、ピアノと打楽器を含む室内管弦楽)に拡大したのが交響曲第2番(1979)・第3番(1983) であり、この5曲が彼女の創作の頂点をなす。

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 ただし、彼女の充実は同時代の評価には直結しなかった。1985年にゴルバチョフがソ連書記長に就任して文化開放路線に転じるのと前後して、音楽の世界ではCDが普及し、この機に乗じて一挙に認知されたレーベルが幾つかある。そのひとつスウェーデンBISはシュニトケの全曲録音を現代音楽部門の看板にし(この録音シリーズは穏健な曲目から始まったが、これを受けてソ連国営Melodiyaレーベルがテンションを振り切った作品群の未発表録音をCD化して西側に販売し)、ヨーロッパの静謐なジャズを紹介してきたECMレーベルはクラシック部門開設にあたり、その方向性を象徴する作曲家としてペルトに白羽の矢を立てた。この方向性はペレストロイカ/グラスノスチ以降のロシア文化ブームを受けたものだが、彼らが選ばれたのは1980年にソ連から西側に亡命した世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル(1947-) が彼らを積極的に取り上げていたことが大きい。むしろ、彼らとは比べるべくもないがクレーメルとは親交があった数人の作曲家も、前世紀末には頻繁に取り上げられていたことに、クレーメルの影響力の大きさを見るべきだろう。

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 シュニトケは1985年に脳梗塞で倒れた後も作曲を続けたが、全盛期の振り切ったテンションは戻らなかった。ペルトはクレーメルと同じく1980年に西側に亡命したが代表作は専らそれ以前、名声の高まりと共に新ロマン主義に飲み込まれ、後期ブリテンの音楽に共鳴し「鈴鳴らし様式」に至った時期の純粋さは失われれた。だが、彼らが峠を越えると今度はソフィア・グバイドゥーリナ(1931-) が注目された。敬虔なキリスト教徒の女性作曲家という表面的な部分では彼女とウストヴォリスカヤは被っており、ウストヴォリスカヤへの注目はまたもや遅れた。彼女の特徴は非主題的かつ無時間的な即興演奏に強い関心を持ち、旧ソ連の前衛的な作曲家の中では電子音響に関心が強かったことで、1975年にはヴァチェスラフ・アルチョーモフ(1940-)、ヴィクトル・ススリン(1942-2012) と即興演奏グループ「アストレイヤ」を結成した。この不定形の魅力は70年代の作曲作品にも共通する。

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 ただし彼女は70年代末から、宗教的な作品では内的プログラム(J.S.バッハの数の象徴のような、譜面には明示されない構成原理)を用いるようになり、80年代初頭からはフィボナッチ数列に基づいたセクション分割も行うようになり、局所的には無時間的でも大域的な流れは明確な、幾らか理解されやすい方向に変化した。この時期に、《音楽の捧げ物》の主題を用いた彼女の作品の中でも特にわかりやすいヴァイオリン協奏曲《オッフェルトリウム》(1980/82-86) をクレーメルが初演以降もたびたび取り上げたことで国際的認知も進んだ。《7つの言葉》(1982)、《声…沈黙…》(1986)、弦楽四重奏曲第2番第3番(1987) と代表作も次々と生まれ、民族解放闘争の時代以降の共産主義国に失望して政治性は薄く即興性の強い作風に変化した晩年のノーノに強く支持され(W.リームと並び称され)、クレーメルのためのヴァイオリン曲の録音パート制作を任されたこともあった。

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 彼らもシステム思考に支えられた戦後前衛の末裔ではあり、方法論をアップデートし続けなければ10年程度で古びて行く。デニソフは一度アップデートして《パウル・クレーの3つの絵》(1985) やヴィオラ協奏曲(1986) あたりまで、シュニトケも一度アップデートして弦楽四重奏曲第4番(1989) あたりまでは保たせたが、ペルトは高々80年代末まで、グバイドゥーリナも同じ頃に行き詰まった感がある(ノーノが1990年に亡くなり、ソ連崩壊後の混乱を避けて1992年にドイツに移住したのが分岐点になってしまった)。年下の「先輩」(西側での認知という点において)たちが峠を越え、Sikorski社と全作品の出版契約を結び、いよいよウストヴォリスカヤの時代が訪れたのだが…



c0050810_00313887.jpg 交響曲第3番以降の作品でまず注目すべきは、ピアノソナタ第5番(1986)・第6番(1988) である。クラスター絨毯爆撃の苛烈さは全盛期の諸作品すら凌ぐが、そこにアンバランスな楽器群を重ねて得た多様性はもはや見られない。彼女は編成に応じて書法を柔軟に変える器用な作曲家ではなかった。交響曲第4番(1985-87)・第5番(1989-90) も書いたが、実態は声と3-5楽器のための室内楽小品であり、極限的なテンションを広いキャンバスで持続させる、全盛期の筆力は既に残っていなかった。むしろ彼女の非凡さは、ここで筆を置いた(宣言したわけではなく、結果的にではあるが)ことだ。3大Bのように死の直前まで創作を続け、それが傑作に数えられる人生は幸福だが、政治力は得ても霊感は失い、晩節を汚す大作を量産してしまう大家は多い(戦後前衛世代では、Bで始まる作曲家に多いのは皮肉だ)。旧ソ連の戦後前衛世代は全盛期に当局に抑圧された反動なのか、霊感を失っても創作にしがみつく作曲家が多いだけに、彼女の潔い引き際はひときわ鮮やかだった。

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 しかし彼女は隠遁生活を続けたわけではなく、国際的な評価の高まりに応じて彼女の作品を特集する音楽祭やワークショップが増えると積極的に立ち会い、自作をあるべき姿で後世に残そうとした。特に、旧ソ連時代から彼女の作品に献身的に取り組んだ地元サンクトペテルブルクのピアニスト=指揮者オレグ・マーロフと、彼女の国際的認知に大きな役割を果たした指揮者=ピアニストのラインベルト・デ=レーウとは関係が深い(ただしマーロフへの評価は微妙だが、終生デ=レーウを高く評価し、実験主義ベースの解釈も支持)。彼女の作品でまず知られたのは編成的にも扱いやすいピアノ独奏曲であり、90年代にはマーロフ盤をはじめソナタの全曲録音が5種類リリースされたが、その演奏者の中にはシェルシ作品やフェルドマン作品も数多く録音しているマリアンヌ・シュレーダーとマルクス・ヒンターホイザーが含まれるのは、今年度のPOCの作曲家選択の裏付けにもなっている。

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# by ooi_piano | 2017-11-03 14:28 | POC2017 | Comments(0)