人気ブログランキング | 話題のタグを見る
1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_07445362.jpg


Recitale Fortepianowe Hiroaki Ooi
《Szlak Fryderyka Chopina》


松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシ(

1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_19534352.jpg1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_19535473.jpg



〈第4回公演〉2024年1月7日(日)15時開演(14時45分開場)


■エロルドとアレヴィの歌劇《リュドヴィク》の「私は聖衣を売る」
の主題による華麗なる変奏曲 Op. 12 (1833) 8分

●ワルツ第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」 (1831) 5分

●3つの華麗なるワルツ Op.34 (1835/38) 12分
第1番 変イ長調 - 第2番 イ短調 - 第3番 ヘ長調

■タランテラ Op.43 (1841) 3分

●ワルツ第5番 変イ長調 「大円舞曲」 Op.42 (1840) 4分

●3つのワルツ Op.64 (1846/47) 8分
第1番 変ニ長調「仔犬」 - 第2番 嬰ハ短調 - 第3番 変イ長調

  (休憩15分)

●2つのワルツOp.69 [WN47/WN19] (1835/29) 8分
第1番 変イ長調「別れ」 - 第2番 ロ短調

■演奏会用アレグロ Op.46 (1841) 12分

●3つのワルツOp.70 [WN42/WN55/WN20] (1832/42/29) 8分
第1番 変ト長調 - 第2番 ヘ短調 - 第3番 変ニ長調

●ワルツ第14番 ホ短調 Op.Posth. [WN29] (1830) 3分

■舟歌 Op.60 (1846) 8分

■ピアノ協奏曲第1番ホ短調 Op.11 第2楽章〈ロマンス〉+第3楽章〈ロンド〉
(1830/1873/2023) [C.ライネッケ/米沢典剛による独奏版] 20分


[使用エディション:ポーランドナショナル版]

1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_07451627.jpg



サロン――あるいはワルツのアポテオーズ
山村雅治

1

 ショパンの音楽は三つの歴史的背景がある。その第一の背景は国家ではなく国際的な広がりに求められた。若いショパンは彼の「ピアノ協奏曲 第一番」を演奏することによって、ワルシャワ、ドレスデン、ウィーン、ミュンヘン、パリの音楽家と聴衆に認められようと望んだ。しかし彼の弾くピアノの音は小さく、大きな会場を満たすことはできなかった。この国際的な背景からショパンが退いたのはきわめて若いころのことであり、彼が名声を得た時期には、ほとんど完全にそこから身を引いていた。
 彼がサロンで名士を相手に、あるいはまれではあるが公開の席で名士を相手にするとき、そのスタイルは音楽会場で人気があるヴィルトゥオーゾたちのそれとは似ても似つかぬものだった。ときには小編成の伴奏アンサンブルか第二ピアノ奏者を伴って「協奏曲」の中間楽章が演奏されたものの、それは他のヴィルトゥオーゾたちの「協奏曲」に迫力において匹敵しうるものではなかった。

 第二の背景はポーランドだ。とりわけワルシャワの教養ある、国家意識の強い上流社会にかぎられていた。この背景からポロネーズとマズルカが、そしてバラードとポーランド語の詩をうたった歌曲がうまれた。彼の父親が教職を得て、一家がワルシャワに移ったころにはショパンはまだ幼かった。ショパンの父親はフランス人であり、ロシアやポーランドでの上流社会の会話はフランス語で交わされた。そしてショパンは、ポーランドがその苦闘の絶頂と領土併合の苦悶のさなかにあったとき、フランスに滞在したままだった。
 国民主義的と呼ばれてきたショパンの音楽には「英雄」を気取ったところは微塵もない。郷土舞踊家が身に着ける派手な衣装もみつけることができない。花も実も葉も落とし去った裸木の姿があり、そのたくましさに感嘆するだけだ。ショパンにおけるポーランドの要素は、リストの場合のハンガリーの要素と同じく「ヨーロッパ風」(もしくはパリ風)に洗練されていている。ショパンのポーランド的背景は必ずしも「最も重要な」ものではない。ポーランドに対する同情、共感と、意識しての国民楽派的な作風は、ロマンティックといえるにしても、それとは裏腹な誠実さをもつ。

 第三の背景はパリとそのサロンが現れる。彼と彼の友人の優雅な部屋であり、それに加えてジョルジュ・サンドと二人で過ごしたノアンの夏。この背景をもつ作品がノクターンとワルツになる。これらを「愛玩犬ショパン」と評されたこともある。これらが移り気な独創的な和声を含み、しかもそれらがロマン派の詩―華麗であるとともに内省的な詩にぴったりと対応するものとして、ショパンのさらに感銘深い曲と肩を並べているからだ。
 この同じ背景をもつ作品には練習曲、スケルツォと前奏曲がある。これらは単に「国際的演奏会の産物」「ポーランドの産物」、また「フランスの産物」であるだけでなく、高度に独創的な精神の産物であり、それでもこれらの曲は主としてパリと関連のある時代と社会の産物でもある。

1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_07452709.jpg



 1831年にショパンはパリにやってきて、すぐさま音楽活動をはじめた。オペラを楽しみ、ロッシーニやケルビーニ、宮廷指揮者のパエルらに会った。パエルの紹介でパリ随一のピアノの名教師カルクブレンナーにめぐりあった。弟子入りはしなかったが、カルクブレンナーはショパンのために演奏会を開いてくれた。
 「ワルシャワから来たフレデリック・ショパン氏による大演奏会」は何度か延期されたのち、1832年2月26日にプレイエルの小ホールで開かれた。亡命ポーランド貴族が喝さいを送り、メンデルスゾーンやリストも来場し、音楽雑誌にも好評が載ったが、入りは3分の1程度で収入は少なかった。
 5月にはパリ音楽院ホールで慈善演奏会に出演し、「協奏曲第1番」を弾いたがまたもや「ピアノの音量が小さくてよく聞こえず」、しかも「管弦楽書法も不十分だ」と批判された。ショパンは次第に、自分はロッシーニのようなオペラ作曲家としても、リストのようなコンサート・ピアニストとしてもやっていけないことを悟るようになる。

 彼が訪れたパリは、革命時代のまったく古いパリとはちがっていた。21歳の彼がパリに引きつけられたのは、ウィーン会議後にほとんどの上流・中級階級のポーランド人たちが亡命した都市だったからだろうか。それが第一の理由ではないにしても、彼がフランスに到着するや、ただちに交際を求めた最初の人びとは彼らだった。
 ショパンがフランス人の裕福な家庭にはじめて紹介され、そのサロンで自分の作品を弾いたり、その子女に最高の謝礼で教えることになったのは、ロッシーニやカルクブレンナーといった音楽家よりも、亡命したポーランド上流階級の人びとのおかげだっただろう。ヴァレンティン・ラージヴィル公爵は、彼をパリのロスチャイルド家に紹介することで社交界と財政面での成功を確保してやり、フランスからさらに他国へ移住するという考えを一掃してしまった。パリに住むショパンの同胞のなかで彼ほどに裕福な暮らしをしているものは少なかった。

 ロスチャイルド家はドイツ系ユダヤ人の銀行家一族で、ドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、フランス各国で事業を展開している。パリのロスチャイルド男爵のサロンで演奏したショパンは、男爵夫人から弟子入りを志願された。噂はまたたく間に社交界に広がり、多くの上流階級の貴婦人たちがショパンの個人レッスンを受けることになった。リストはパリ時代のショパンを「貴族のご落胤のよう」と評した。ワルシャワ時代のショパンは、アマチュア劇団に属する役者志望の少年だった。パントマイムや物真似の名人で、戯画を描くのもうまかった。パリの上流階級に出入りするショパンは、もしかすればかなり計算された彼なりの見せ方だったかもしれない。退路を断たれたショパンは、なんとしてもこの花の都で生きていかなければならなかった。

 ロンドンやウィーンでは、音楽はまだ貴族の掌中にあったが、たびかさなる革命で貴族による音楽活動が停滞していたパリでは、中産階級が貴族のようなサロンを開くなかで文化面の社会的進出を果たしていった。サロンが文化を生みだす時代はここに始まった。
 サロンには必ずグランド・ピアノが置かれ、うまくピアノが弾けるヴィルトゥオーゾが大いにもてはやされる。ショパンやリストのような優れたピアニストはパリの最上級の貴族たちが住むフォーブル・サンジェルマン界隈のサロンにも招かれたため、1840年代にはいると彼らのコンサートに貴族たちも来るということになった。かつてはあり得なかったふたつの階級がここで顔を合わせて、新しい文化を創造する基地になった。

 こうした状況はショパンにとっては都合がよかった。彼は公開演奏会の大きなホールでは大音量を出せないために、自己評価するほどの成果はあげられなかった。彼のピアノ演奏の美点は、繊細なニュアンスの変化、軽やかにして、ときに地底をも貫く重さをもつタッチの妙は、洗練された感覚をそなえる人々がつどう社交の場「サロン」でこそ真価を輝かせた。ショパンは、自分のことを知らない人々に向かって演奏すれば、ひどく気後れがして自分を満足に表現できなかったという。その意味でも、サロンの少人数の親密な空間がもっともショパンにふさわしい演奏の場だったといえるだろう。パリに滞在していた18年の間、彼がホールと名がつく場で演奏したのはいくつほどか。

1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_07454293.jpg


3

 ショパンの主要作品の多くはパリ時代にはいってから書かれている。ワルシャワ時代との大きな違いは作品の規模だろう。ウィーンでの成功を夢見ていたころは、協奏曲をはじめとしてオーケストラを伴う大規模な作品を5曲も書いている。パリに来てからもしばらくは新しい協奏曲を構想していたかもしれない「演奏会用アレグロ」が名残としてあるけれども、サロンの規模になじみ、より規模の小さなピアノ一台の曲に集中していった。

 それはショパンが公開演奏会で多くの聴衆を圧倒しうならせる「ヴィルトゥオーゾ」から、よい趣味をもつサロンに集まる人びとに音楽を届けるピアニストへと昇華した証だった。
 ノクターンはささやきかけるような旋律に沿って精緻な和声を聴かせる。それはサロンでのピアノ演奏の大きな武器になっただろう。ワルツもまた、ウィーンで流行していたような「踊るためのワルツ」ではなく、優雅で洗練された芸術作品として創造された。



 ショパンのワルツの作曲は生涯の全般にわたっている。しかし生前に出版されたものはわずか8曲。最初のワルツの出版は、パリの生活をはじめた3年後の1834年まで待たなければならない。
 ワルツ出版を遅らせたのは、成功を夢見て挫折したウィーンでの体験があったからだろう。20歳で訪れた2度目のウィーンでは演奏の機会は容易には手にはいらなかった。「自分の音楽が望まれないのは、人びとの趣味がシュトラウス・ファミリーのワルツだからだ」と手紙に書いている。

 しかし、パリではじまったサロンでの音楽生活のなかでショパンはワルツを発表しはじめる。彼は「踊らないワルツ」を書いた。それらは気品と洗練を愛するサロンにつどう人たちの耳を奪った。
 ノクターン、マズルカ、練習曲を集中して作曲した1831年から1833年にかけて完成させたのが「華麗なる大円舞曲」作品18だ。
 ワルツは全19曲あり、その順番は作曲された順番に番号がつけられていない。
 ショパンが生前に出版したのは作品18につづいて、作品34の3曲は1835年と1838年につくられて1838年に出版された。作品42は1840年に作曲、出版。作品64の3曲は1846年から1848年にかけての作品。第8番にあたるワルツが生前に出版された最後の作品になる。
 フォンタナによってまとめられた未発表のワルツは5曲ある。作品69の2曲。69-1は「別れのワルツ」として名高い作品で、1835年、マリア・ヴォジンスカとドレスデンで楽しいときを過ごしたあと、別れるときにこの楽譜を渡した。 69-2はワルシャワ時代の1829年の作品で、パリ時代の華やかさはまだない。作品70の3曲は1832年、1842年、1829年の作品。これら5曲はそれぞれ1853年と1855年に出版された。ここまでで13曲だ。14番は1830年に作曲したワルツである。 いまだ郷里ジェラゾヴァ・ヴォラにいて、華やかな演奏技巧で名をあげようとしていた時期の作品で、出版は死後の1868年だった。


1月7日(日) ショパン:ワルツ全14曲/舟歌/演奏会用アレグロ 他 [2023/12/12 update]_c0050810_07460048.jpg




# by ooi_piano | 2023-12-12 07:52 | ショパンの轍 | Comments(0)
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map

使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]

4000円(全自由席) [3公演パスポート 11,000円 5公演パスポート 18,000円]
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
チラシpdf(



【第2回公演】 2023年12月8日(金)19時開演(18時半開場)

B.ポゼ(1965- ):《ミニュット5》(2021/23、世界初演 2分
F.シューベルト:《4つの即興曲 D 899》(1827) 26分
  I. Allegro molto moderato - II. Allegro - III. Andante - IV. Allegretto

B.ポゼ(1965- ):《ミニュット6》(2021/23、世界初演 2分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第14番イ短調 D 784》(1823) 20分
  I. Allegro giusto - II. Andante - III. Allegro vivace

  (休憩10分)

横島浩(1961- ):《マッシュプローム Maschubroom》(2023、委嘱初演) 8分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第18番ト長調「幻想曲」 D 894》(1826) 31分
  I. Molto moderato e cantabile - II. Andante - III. Menuetto / Allegro moderato - IV. Allegretto

[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]


横島浩:《マッシュプローム Maschubroom》(2023、委嘱新作)
 音楽史における引用技法の歴史は長い。オルガヌムの発生からして「引用」作品といえるだろうし、中世ルネサンス時代のパロディ・ミサなど引用元を隠してクイズのように提示しているものもある。オケゲム《ミサ・ミミ》の引用元など、20世紀終末になり明らかになったという例もあり、そのような場合作曲家としての存在意義はどのような立ち位置になるのだろうか、私たちにはなかなかわかりづらい。
 19世紀末から興ったリコンポーズ作風は、前提的「引用」手法の前夜であったう。ストラヴィンスキー・シェーンベルク・ウェーベルンなど当時の前衛作曲家のほかに、レーガー・レスピーギ・エルガー等が古典曲を自家薬籠中し自己の独自性をアピールした。戦後はコラージュや素材としての引用が主流となったが、ポストモダン期に入ると、素材原曲のイメージを優先し残しつつ「幻惑」というキーワードで聞き手を引きこむという手法も現れた。今回の私の作品もその部類に入るものだろう。
 原曲の基本和音から第7~15倍音全てを根音から拾い上げて、次第にそれらをカットしてく作法による。倍音の鳴り方が現代ピアノより独特な古楽器で、どのような効果が生まれるのかが楽しみである。(横島浩)


横島浩 Hiroshi Yokoshima, composer
12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_16092065.jpg
 1961年長野県生まれ。武蔵野音楽大学大学院(作曲)修了。作曲を池本武、竹内邦光、田辺恒弥の各氏に師事。シアターピース《C.P.E.タイムス》により第5回日本現代音楽協会新人賞入選(1988)。室内楽《モードへのオード I》により第58回日本音楽コンクール入選(1989)。室内楽《インヴァッディオン》により第7回日本現代音楽協会新人賞入選(1990)。《グラーヴェより遅く》により第74回日本音楽コンクール作曲部門第1位、併せて明治安田賞(2005)。
 1990年、作曲家グループ「TEMPUS NOVUM」創立メンバーに加わる。2011年、2015年に作曲個展を開催。現在、福島大学教授。




ブリス・ポゼ:《ミニュッツ MINUTES》(2021/23)
12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21100088.jpg
 ピアノのための《MINUTES》は、1時間=60分というテーマで60曲を作曲すると云う、故・シュトックハウゼンのプロジェクトに部分的に呼応しています。彼の連作は、1日=24時間に基づく24曲の《クラング》に続く筈でした。
 私の作品では、フランス語の「Minute」という語の少なくとも3つの意味を生かすようにしています。すなわち、時間の単位、幾何学の角度の単位、そして(法律行為の)原本です。
 作曲プロセスにおいては、3つの意味が考慮され、連作自体と個々の断片の間の弁証法的関連において結晶化されます。それぞれ約1~3分の60曲のつらなりは、瞬間的な主観性の集合全体の途中に位置します。
 非常に短い作品で構成された長い連作の作曲は、大変特殊な技術的かつ美学的な問題を提起します。すなわち、何かを繰り返すたびに、膨らんでいく全体との接触を維持することが問題となるのです。ある意味、それは作曲家の創造的反射神経と衝動を記録した作品のようなものです。私はさらに、各曲の作曲と並行して、その作曲のプロセスにおける、特定の「世界の状態」をたどってマッピングすることを意図した、一種の作品日記を書き始めました。すなわち、自宅近所の写真(特に、各曲の作曲終了時にいつも同じ場所で撮影した小川の写真で、できるだけ「現実の生活」に即した気候変動を記録するものです)や、新聞記事の抜粋、作曲時に読んだり調べたりした文章、作曲時に観た芸術作品のことです。
 今回演奏される各曲は、一種のインスタレーションないし展示といった感じで提示しているので、これを聴きなが、ら2024年末頃に予定される全曲完成版を思い描いてみてください。
 この作品は1810年代から1820年代初頭にかけてのウィーン製のピアノのために特別に構想されています。よって、様々な音響的変化(ウナ・コルダ、モデレーター、ダブル・モデレーターや複数の効果の組み合わせ)を加えるとと、位相的な距離をシミュレーションすることが非常に容易になり、現代のグランドピアノのよりもはるかに効果的になります。
 《MINUTES》はまた、音楽学者のロザモンド・ハーディングへのオマージュでもあります。彼女は楽器学、美学、美術史研究における驚くほど謙虚な人物でありました。彼女の著作、《ピアノフォルテ》(1931)は当時このテーマに関して非常に先端を行く研究成果で、《インスピレーションの解剖学》(1940)もまた今日においてもなお示唆に富み、アイデアを与えてくれる著作だと思われます。(ブリス・ポゼ、訳/中西充弥




ましてや今は遠き世に――器楽の「復元」という試み
杉本舞(関西大学准教授)

12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21081515.jpg
 今でもよく覚えている。あれは私が中学生の頃、当時師事していたピアノ教師からベートーヴェンのソナタ第1番 Op.2-1 を課題に出されたときのことだった。レッスンで指導を受けた後、自宅のグランドピアノでおさらいをしながら「なんでこんな曲なんだろう」と思ったのだ。ベートーヴェンの作品は総じて好きだった。第1番も気に入って、よく練習していた。なのに、弾けば弾くほどしっくり来ない。なんだか「うまくない」。飛んだり跳ねたり転がったりする音の流れに、教師の言うとおりのメリハリをつけて弾くのだが、何故か「鳴り過ぎているのにスカスカ」というような訳の分からないことになってしまう。それはもちろん、そもそも自分の演奏が下手糞すぎるからには違いないのだが、ピアノ教師の模範演奏を聞いても、市販のCDを聞いても、何かがちぐはぐのまま残るのである。どんな演奏なら自分の感覚にしっくりくるのかわからない。ベートーヴェンは何故こんな、どう弾いてもしっくりこないような曲を書いたのか。「ピアノソナタ」なのに、はたしてこの曲はピアノという楽器に寸法が合っているのだろうか。あるいはベートーヴェンのピアノソナタ自体がそもそも「こんなもの」なのか。それとも自分の感覚が変なのか。……結局、好きな曲なのに好みの演奏に出会えないまま曲のレッスンは終わってしまい、ただ漠然とした違和感が頭の片隅に残ったのだった。
 ところが、2008年に大井氏がヨハン・アンドレアス・シュタインのフォルテピアノでこのベートーヴェンのソナタ第1番を演奏するのを聴いたとき、それまでの十数年間に及ぶ疑問はあまりにもあっけなく溶け去ってしまったのだった。シュタインのフォルテピアノは、飴細工のような質感の、みやびで繊細で大きすぎない、よく響く音を出していた。モダン・ピアノとはまったく違う方向性の表現力。モダンに比べて、ダイナミックレンジが制限されているのだけれど、それが良い。残響が大きすぎず、わりと歯切れがよく、しかし鋭すぎないのが良い。フォルテピアノ上では、少ない音で構成されたシンプルな曲想は、鳴り過ぎることも切れすぎることもスカスカになることもなかった。形容しがたい艶のある音で綴られたソナタ第 1 番は、まさしく楽譜上の表現の「寸法通り」だった。「なんだ、そういうことだったのか」と思った。何のことはない、単にこの曲はピアノ―モダン・ピアノのための曲ではなかったという、ただそれだけのことだったのだ。


------
12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21083531.jpg
 ロンドンの科学博物館に、1991 年に復元された一台の機械式計算機が展示されています。この機械は、もとはイギリスの数学者チャールズ・バベッジが 1847 年から 49 年にかけて設計したものです。航海用の天文表を効率よく計算したいという動機から計算機の製作を企画しはじめたバベッジは、結局生涯をかけてその作業にのめりこみ、何台もの試作機と大量の設計図を残しました。博物館の技術部が 6 年半をかけて復元したのは、設計されたもののついに組み立てられることのなかった「第二階差機関」と呼ばれる複雑な機械で、手回しで動き、計算だけでなく印字まで行う機能のあるものでした。技術部は当時の技術水準や、実際に製作されたならば利用されただろう材料を慎重に判断しながら何千個もの部品を組み立て、これを動作させることに成功しました(*) 。
 博物館では、歴史的な文化財を補修・補完したり、あるいは古い文化財を分析してその製作工程を明らかにし、同じものを新しく製作する、「復元」とよばれる作業がしばしば行われます。こういった復元には、文化財の保存という目的があるだけでなく、それ自体が歴史研究の一環として行われるという側面があります。技術史の研究でも、古い設計図やスケッチに基づいて、作者の意図した事物を当時の条件にできるだけ忠実に復元する、実験的試みが行われることがあります。こういった試みが行われるのは、その事物が実際に製作可能なものであったのかどうか、またそれがどのような機能をもっていたのかといった、紙に書かれたことを分析するのではわからない事実や作者の意図が復元から明らかになることがあるからです。たとえば、先に述べたバベッジの計算機復元では、設計図を見るだけではわからなかった内部機構の機能や、バベッジの設計が当時の技術水準でおおむね実現可能であったということなどが判明し、バベッジ研究に進展をもたらしました。

 ただ、どれほど当時の技術水準を吟味して再現し、どれほど精密さを期そうとも、出来上がった復元物は作者が当時作ろうとしたもの(もしくは作ったもの)そのものではありえません。材料調達や取るべき手順の決定など、その作業はしばしば困難です。それでも復元が試みられるのは、紙に書かれた情報を五感でとらえられる形へと具現化することで初めて「わかる」何かが確実にあるからです。それが「復元」とよばれるあらゆるプロジェクトの肝だと言って良いでしょう。
 また、こういった研究手法は、とりわけ科学史・技術史の場合には、歴史的事物を当時の文脈に置き、現代的な後付けの視点からは解釈しないという科学史・技術史研究の基礎的態度に、慎重に裏打ちされなければなりません。われわれは、今の科学・技術の水準を「高み」であるとみなし、人類がそこに向かって直線的に知識を蓄積してきた、あるいは科学研究・技術開発を行ってきたと考えがちです。現代の技術に比べて、過去の技術には何が「足りなかったか」という視点を持ってしまうことが往々にしてあります。しかし、実際には過去の事物と現在の事物はそれほど簡単には比較できません。事物の歴史的評価は、その時代の社会的・思想的背景を含む、複雑な関係性のなかに位置づけながら行わなければならないからです。現代の主流・常識が、過去の主流・常識であったことが、まず無いと考えられる以上、過去の技術を一概に「足りなかった」とはいえないのです。

12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21085262.jpg
 さて、作品を作曲当時にできるだけ近い状況・環境・文脈に置いて再現を試みるという意味で、古楽の演奏会は、上述の「復元」プロジェクトに似た構造を持ちえます。その時々の鍵盤楽器のために書かれてきた作品について、歴史的に真価を問おうとするならば、現代的な後付けからの解釈――モダン・ピアノに密着した解釈から離れてみる必要があります。フォルテピアノはモダン・ピアノとは似て非なる楽器です。作品そのものと作曲当時に使用されていた楽器は、本来切り離すことはできません。作曲当時により近い条件で作品を演奏すれば、楽譜だけ、あるいは楽器だけを観察・分析するだけではわからなかった何かが立ち現れる可能性があります。たとえ歴史的な価値を問う気がなくても、作曲者の意図を知りたいならば、作品を歴史的な文脈の中に置いてみるべきです。歴史的文脈の網目の間には、作品の中には直接書かれていないある種の空気が満ちており、作品のありようはその空気に決定的に影響されているからです。
 とはいえ、事態はより複雑です。なぜなら、器楽は楽器、作品、作曲者、演奏者、聴衆という多数の要素が絡み合って構成されたものであり、作品は本来、その網目の中で意図を与えられ演奏されてきたものであるからです。いざ楽器と演奏者をもってきて当時の状況を再現しようとしたとき、そこには単なる古物や古い機械の復元の範囲を越えた、独特の問題が立ちふさがります。
 大前提となるのが、まず楽器の再現性の問題です。これはあらゆる「復元」につきまとう課題ですが、古楽器を含む歴史的機械が、本当に当時使われていたそのままの状態で復元されることは、まずありえません。これは長年保管されていた古楽器を用いる場合も同様です。楽器には日々のメンテナンスの手順や頻度、老朽化に伴う補修に使われる技術などが必要ですが、これらは長年の間に必ず何らかの変化をこうむっています。機械にまつわる暗黙知は決して保存されえません。これは避けがたいことです。また、補修やメンテナンスに必要な材料(たとえば木材や金属材料など)も、当時のままというわけにはいきません。

12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21090977.jpg
 楽器に様々なバージョンがある場合には、どの楽器で演奏するかという問題も重要です。たとえばベートーヴェンはウィーン式とイギリス式の両方のフォルテピアノを所有していました。ベートーヴェンがどの楽器を好んだのかというのは興味深い問題ですが、ベートーヴェン作品の行間ならぬ「五線譜間」の意図を明らかにするには、ウィーン式だけではなくロンドン式のフォルテピアノで演奏され、比較される必要があるかもしれません。また、「採用されなかった」「好まれなかった」と言われる楽器に注目することも大切です。最終的に採用されたり、主流になったりしたものは、歴史の中で選ばれるべくして選ばれたのではないことも多いからです。
 次に、演奏法の再現性です。言うまでもなく、楽器の演奏法は(楽器製作と同じく、もしくはそれ以上に)暗黙知の塊です。その曲を弾くとき、どのように身体を使うべきであったのかは、伝わっている伝統的奏法、史料や作品の分析、楽器の機構による制約、そして自分の身体そのものによる制約などから推測するしかありません。
 ただし、器楽の場合、楽器の機構による制約そのものが復元を試みる際のヒントとなっている側面はあるでしょう。作曲当時の演奏は、鍵盤の幅や弾いたときのタッチ、ダイナミックレンジといった、当時使われていた楽器の特徴や制約のなかで可能な表現であったはずです。その点、楽器を使わず声だけを使った芸能などでは、復元が難しいことが少なくありません。たとえば日本の伝統芸能である能は、現在ではゆっくりとした重い曲調や、強吟と呼ばれる唸るような謡い方で特徴づけられていますが、室町当時は曲によっては現在の半分以下という遥かにスピーディな上演時間であったそうですし、強吟という謡い方は存在しなかったと言われています。江戸期を通じて変化した能の上演スタイルの元の姿は、現在のそれとはかけ離れたものだったのです。しかし、史料も少なく、機械による制約といったようなヒントも残されていない今となっては、かつての姿の再現はおそろしく困難な試みとなっています。

12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21092260.jpg
 第三に楽器と演奏者をとりまく環境の再現性です。楽器はどこに置かれたのか。それはどれくらいの大きさのどのような部屋だったのか(もしくは戸外だったのか)。聴衆は何人くらいで、どこに座り、何をしながら(あるいは何もせずに?)聴いていたのか。作曲者はこの曲がどのような環境で弾かれることを想定していたのか、そして演奏者が実際どこで弾いたのか。聴衆なしに音楽がありえない以上、本当に当時の状況を再現するならば、この要素を無視するわけにはいきません。
しかも、フォルテピアノの場合、座る位置の微妙な差異でモダン・ピアノとは比べ物にならないほど聞こえる音に違いが出ます。2008年7月に大井氏によるアントン・ヴァルターのフォルテピアノ演奏(於:京都文化博物館別館ホール)を鑑賞した際、会場内で座る場所を変えると、別の楽器かと思うほど聞こえる音に差がありました。演奏者側の前から 2 列目に座って聴いたときは、音はどこか少し遠くで鳴っており、強弱もそれほど感じられず、趣味良く可愛くこじんまりした印象があったのですが、そののち席を替え反響板側で残りを聴いたところ、音量は大迫力、機構の動作音も聞こえますし、強弱のメリハリに至っては明らかに作品の差を超えた違いでした(大井氏によれば、楽器の中に頭を突っ込んで聴けば、さらに違う音が聴けるとのことです)。座る場所がたった数メートル変わるだけで明らかな差が出るということは、フォルテピアノがモダン・ピアノと同じ環境で聴かれた楽器ではないということを示唆しています。

12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_21093356.jpg
 結局のところ、当時の状況の完璧な「復元」は不可能なのです。多数の要素の絡み合った「器楽」というものの構造、さらには演奏者がこれまで受けてきた教育課程や、聴衆の音楽経験や期待といった、演奏とその鑑賞に影響を与えるさまざまな社会的条件が、事態をさらに複雑にしています。しかし、それを承知のうえで敢えて器楽作品の「復元」を試みることに意味があるのは、楽譜に書きようのない、現代的演奏では欠落してしまう何かが、その試みの中で緩やかに立ち現れるからにほかなりません。堆く積みあがった解釈と変革の上にあるモダン・ピアノによる音楽は、それはそれ自身として価値のあるものです。しかし、ひとときそれを忘れて、モダン・ピアノに無いきめ細かな音の膚触りや、現代とはまったく異質の美意識を味わうとき、我々は作曲者の語る言葉なきメッセージに一歩近いところにいるのです。


(*) Science Museum, “Charles Babbage’s Difference Engines and the Science Museum,” July 18, 2023.
Swade, Doron. "The Construction of Charles Babbage's Difference Engine No. 2." IEEE Annals of the History of Computing 27.3 (2005): 70-88.





12月8日(金)シューベルト《4つの即興曲 D 899》《幻想ソナタ》+横島浩/ブリス・ポゼ新作初演 [2023/11/23 update]_c0050810_16100961.jpg




# by ooi_piano | 2023-12-05 02:39 | Schubertiade vonZzuZ | Comments(0)
大井浩明(フォルテピアノ)
松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-4)Google Map

使用楽器 ヨハン・クレーマー(Johann Krämer)製作フォルテピアノ(1825年ウィーン、80鍵、4本ペダル、430Hz) [タカギクラヴィア(株)所蔵]

4000円(全自由席) [3公演パスポート 11,000円 5公演パスポート 18,000円]
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
チラシpdf(



【第1回公演】 2023年11月10日(金)19時開演(18時半開場)

B.ポゼ(1965- ):《ミニュット3》(2021/23、世界初演 2分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第13番イ長調 D 664》(1819 or 1825) 16分
  I. Allegro moderato - II. Andante - III. Allegro

B.ポゼ(1965- ):《ミニュット4》(2021/23、世界初演 2分
F.シューベルト:《幻想曲ハ長調「さすらい人」 D 760》(1822) 20分
  Allegro con fuoco ma non troppo - Adagio - Presto - Allegro

  (休憩10分)

杉山洋一(1969- ):《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023、委嘱初演) 4分
F.シューベルト:《クラヴィアソナタ第17番ニ長調「ガスタイナー」 D 850》(1825) 35分
  I. Allegro vivace - II. Con moto - III. Scherzo / Allegro vivace - IV. Rondo / Allegro moderato


[使用エディション:新シューベルト全集(1984/2023)]



ブリス・ポゼ:《ミニュッツ MINUTES》(2021/23)
11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15300477.jpg
 フォルテピアノのための連作《MINUTES》は、作曲者が所有するJ.ブロートマン(1814年ウィーン、6オクターヴ、5本ペダル、C.クラーク/M.ヴィオン復元)による自作自演を前提とした、ヴィッテン市委嘱作品である。ヴィッテン現代室内音楽祭のために2021年に作曲を開始し、現時点で約10曲がほぼ完成、次の15曲の構想が固まっており、2024年末の完成を見超すワーク・イン・プログレスとなっている。
 Minuteというタイトルは、時間の尺度、幾何学上の角度、そして保存正本の3つの意味合いを重ねている。1~3分の小曲を60曲集成するアイデアは、シュトックハウゼンが《音(クラング) - 1日の24時間》(2004-2007、遺作)の完成後に取り掛かる筈だった構想に由来する。
 《ピアノフォルテの歴史》(1933)や《霊感の腑分》(1940)で知られるイギリス人音楽学者・楽器構造学者、ロザモンド・ハーディング(1898-1982)に捧げられている。


ブリス・ポゼ Brice Pauset, composer
 1965年ブザンソン生まれ。パリ音楽院でミシェル・フィリッポとジェラール・グリゼイに、シエナでフランコ・ドナトーニに師事。師グリゼイの3つの最期の作品、《時の渦》《背理のイコン》《4つの歌》の作曲補佐を行った。欧米の主要音楽祭、演奏団体によって多くの作品が演奏されている。2010年にフライブルク音大教授に就任。2012年から2019年までアンサンブル・コントルシャン(ジュネーヴ)の芸術監督を務めた。歴史的鍵盤楽器奏者として、チェンバロ5台/フォルテピアノ3台/クラヴィコード2台/クラヴィオルガン1台他(オリジナルまたは自作を含む)を所蔵している。




杉山洋一:《華(はな) ~西村朗の追憶に》(2023)
11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15303485.jpg
 四半世紀近く前に、「さくらさくら」をモチーフに、ヴァイオリンの小品をかいた。ぜひそれをピアノで弾けるように直してほしいと大井さんからお話をいただいていたのが、この編作の切っ掛けであった。今回は、フォルテピアノで演奏していただくのだけれど、フォルテピアノのためには、2年前にも、リストの《アンジェリュス!》を使って《山への別れ》という曲をかいている。現代のピアノより、セピア色で、どこか心に沁みとおるような音色のフォルテピアノに、とても感激した。
 今回、この小さな編曲を、急逝された西村先生にささげようと思ったのは、最後に自分が演奏した西村先生の作品、《華開世界》(2021)のリハーサルのとき、作品のあらわす、次から次へと新しい花が咲き誇るさまを、未来永劫へつづく生命の営みに喩えた先生の言葉に深く心を動かされたからであり、そこにはらはら散り行く花びらの一枚を、ふと手に取って愛でてみたくなったからでもある。(杉山洋一)

杉山洋一 Yoichi Sugiyama, composer
 1969年生まれ。桐朋学園大学作曲科卒業。95年に渡伊。作曲を三善晃、フランコ・ドナトーニ、サンドロ・ゴルリに、指揮をエミリオ・ポマリコ、岡部守弘の各氏に師事。作曲家としてミラノ・ムジカ、ベネチア・ビエンナーレをはじめ、国内外より多くの委嘱を受ける。サンマリノ共和国サンタアガタ騎士勲章(2010)、第13回佐治敬三賞(2013)、イタリアAmadeusディスク大賞(2015)、第2回一柳慧コンテンポラリー賞(2016)、芸術選奨文部科学省大臣新人賞(2018)等。指揮者として携わった主な劇場作品にノーノ《プロメテオ》、ヴェルディ《ファルスタッフ》、モーツァルト《魔笛》、クセナキス《クラーネルグ》、カザーレ《チョムスキーとの対話》、メルキオーレ《碁の名人》、細川俊夫《大鴉》他。現在ミラノ市立クラウディオ・アッバード音楽院で教鞭を執る。




古楽と自分――杉山洋一

11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15391156.jpg
 自分と古楽との出会いについて、改めて思い返してみた。
 幼少期、家にあったコレルリ《合奏協奏曲》のレコードを愛聴していたが、当時は古楽というジャンルすら知らなかった。音楽事典の巻頭に載っている、デュプレとデュカスやリュリとキュイの違いなど、時間や歴史の観念がないから理解しようもないが、何のてらいもなくすべてを無償に受容できたのだろう。
 1979年、カナダ放送協会で製作された「メニューヒンが語る 人間と音楽 (The Music of Man)」を見たのが、一つの切っ掛けには違いない。日本で放送されたのが何時だったのか定かではないが、当時、家には購入したばかりのヴィデオデッキがあって、シリーズ全てを録画して、擦り切れるほど見たものである。
 これは、古代ギリシャのアポロン賛歌からジョン・ケージ、ラヴィ・シャンカルまでの世界音楽史を紐解く、8回にわたるテレビドキュメンタリーで、ふんだんに実際の演奏風景が挿入されていて、あらためて顧みても、実に魅力的な番組だったとおもう。古代ギリシャの音楽は勿論、アフリカ、アジア、中東の民族音楽も豊富に紹介されていて、その中には、確か日本の筝も取り上げられていた。
 この番組の以前から、既にさまざまな音楽に興味を持っていたのか定かではないが、あそこまで飽きるほど眺めたヴィデオは他になく、今でもそれぞれのシーンや楽器をよく覚えている。当時はヴァイオリンを習っていたから、見馴れない形状の弦楽器に惹きつけられて、インドのサーランギや、おそらくキプロスのフィドル状の民族楽器が今も強く印象に残っている。ヴィオラ・ダ・ガンバやそれに類する中世の弦楽器も、中世音楽や初期ルネッサンス音楽紹介の折に演奏されていて、すっかり魅了されてしまった。
 その為なのか、民族音楽と古楽というと今でも無意識に近しい存在として認識していて、40年以上経った今でも、思い起こすと時めきすら覚える。
 特に好きだった、中世からルネッサンスまでを紹介する「花開くハーモニー( The Flowering of Harmony)」の回では、モサラべ聖歌、カンタベリー聖歌からペロタン、マショーやデュファイ、カベソンやパレストリーナ、ジョヴァンニ・ガブリエリの演奏が収録されていて、1600年代のコバルビアの古いオルガンで、カベソンのティエントを演奏する姿に憧れたものだ。
 その影響で、古楽と民族音楽を欠かさずFMで聴くようになり、カベソンを聴き漁るうち、スペインルネッサンス音楽に魅了されたのだろう。カバニレスやデ・アラウホなどのオルガン曲はよく聴いたし、ヴィクトリアの合唱も好きだった。
 当時、ヴァイオリン曲では普通にロマン派も近代音楽も聴いていたが、それ以外、室内楽も交響曲にも全く食指が動かなかったから、かなり臍は曲がっていたに違いない。バロックのヴァイオリン作品は好んで聴いたが、それも特殊調弦のビーバーの「ロザリアのソナタ」だったりしたから、押しなべて珍妙なものばかり聴いていたのだろう。だから、カークビーがF・クープランの「エレミアの哀歌」を歌うのを聴いて、これこそ天使の声ではないかしらと涙ぐんだのは、実に素直で初々しいとおもう。

11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15392482.jpg
 馬齢を重ねつつ、少しずつ興味の対象の年代も現在に近づいてゆき、高校と大学時代は、W.F.バッハとC.P.E.バッハの楽譜をよく眺めた。大バッハは勿論よく聴いたし、下手ながらピアノでも弾いていたが、あまりに偉大過ぎて、結局息子たちの楽譜を引っ張り出すのだった。それが高じて、大学では仲間を集めて、W.F.バッハのアダージォとフーガとか、C.P.E.バッハのチェンバロ協奏曲やフルート協奏曲など試演もした。
 当時、通っていた大学では、有田正広先生の授業が学生に人気で、ルネッサンス、バロックの、絵画や音楽のアレゴリーの逸話など、面白くて仕方がない。有田先生の古楽科の部屋に行くと、普段は触れない、クラヴィコードなどを隠れて弾くことも出来たし、当時有田先生に習っていたフルートの菊池香苗さんが、よく現代作品を演奏してくださったお陰で、現代と古楽の演奏は、思いの外近しいとも知った。
 「Giardino armonico」というとんでもないアンサンブルがイタリアにできて、常識を覆すような新鮮な音楽をやるんだ、信じられない、と興奮冷めやらないリコーダーの畑田祐二さんからカセットを借りたのもこの頃だったとおもう。こんな瑞々しいイタリア初期バロックは聴いたことがない、という畑田さんの言葉どおり、迸るような自由闊達なエネルギーに眩暈すらおぼえた。当時《Groviglio(ごちゃごちゃと絡み合ったもの)》というリコーダー曲を畑田さんのために書いたのが、自分にとって最初の古楽器曲になる。詳細は覚えていないが、とても複雑な作品だったはずだ。
 当時、以前から好きだったカスティリオーニやドナトーニのようなイタリア現代音楽と、より前衛らしいファーニホーのような譜面を見比べて、自分は何がしたいのかと、漠然と将来について考えあぐねていた。あの曲を、とても雰囲気のある、ひんやりとした土壁の洋館のような会場で聴いた記憶があるのだが、あれはどこだったのか。甲高いソプラノリコーダーの音が、心地良く会場中に反響していた。

11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15393794.jpg
 その後イタリアの作曲家や演奏家と付き合うようになり、ローマの現代音楽アンサンブルAlter Egoと知己を得た。その彼らと活動していたのが、アントニオ・ポリタ―ノというリコーダーの奇才で、アントニオは古楽から現代音楽まで、何の境界なく颯爽と吹ききってしまう。彼は当時Musica speculativaに凝っていたから、ボールドウィン写本で特に演奏困難な何曲か、わざわざ実演しやすくコンピュータで浄書し直して、友人たちと練習していた。それ以来だから、ポリターノとは随分長い付き合いである。彼のために、リコーダー曲《Notturno》と、リコーダーを含む短いアンサンブル作品を書いた。
 それから暫く、作曲者として古楽器とつきあう機会は途絶えているが、実際は、世界的に優秀な古楽器科で知られるミラノ市立音楽院に勤め始めて、オルガンのロレンツォ・ギェルミはじめ、古楽の同僚から常に刺激を貰っていた(Giardino armonicoのメンバーも、この古楽器科で研鑽を積んでいる)。
 音楽院から中華街を越えてすぐ、ミラノのスフォルツェスコ城には有名な楽器博物館があって、珍妙な楽器の宝庫だから足繁く通ったものだ。午前中は、楽器博物館には市内の幼稚園児、小学校生徒などが、集団で校外学習に訪れる。特に、巨大なアルチリュートや、側面のふいごを押して音を出すルネッサンスのオルガンなど、子供たちに大人気であった。
 当時は古楽好きと言っても《嬉遊曲》(1997)曲尾の民謡風の旋律が中世風であったり、民族音楽風だったりする程度で、具体的な理由も意図もない。それでも無意識に書いてしまうのだった。

11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15395276.jpg
 2014年にルネッサンス・フルートとサグバットのために《バンショワ「かなしみにくれる女のように」による「断片、変奏と再構築」 Frammenti, Variazioni e Ricostruzione sul “Comme femme"》を書いた。ガザの爆撃で死んだ母親から帝王切開で救い出され、5日間人工保育器のなかで生きた、シマ―という女の赤ん坊をニュースで知り、バンショワの旋律に、パレスチナとイスラエルの国歌を細切れにして、挟みこみ、ルネッサンス・フルートのパートは、パレスチナのフルート、dabkeを模して書いた。なるほど自分の裡では、民族音楽と古楽は、明らかに繋がったまま、脈々と生き続けていたのである。
 後日、原曲の歌詞を付加したヴァージョンや、10名のアンサンブル版を大学生が再演してくれた。選挙すら行ったことのない学生でも、何かを考える切っ掛けにはなるかも知れない、との事だった。どの演奏も押しなべて静謐なままだが、緊張と瓦解とそして祈りが霧状になって、次第に空間にたちこめてゆく。
 この不思議な体験は、数年後に管弦楽のための《自画像》(2020)を書く作業に繋がった。少年時代、無邪気に聴き続けたカバニレスの《皇帝の戦争 Battaglia imperiale》を織り上げていた糸を一本ずつほぐし、世界の戦争、紛争について、書き残さねばと感じた言葉を掬い取っては、その糸でその言葉を紡ぎ直した。そうして、全く別のカーペットを織り上げようと試みた。
 古来、音楽は明快に喜怒哀楽をあらわしていた。とりわけ、アレゴリーを含め古楽は非常に具体的なメッセージをもっていて、例えばBattagliaとは戦いを鼓舞する音楽であり、そこにみっしり縫い込まれた夥しい国歌も、国威発揚の象徴に他ならない。《自画像》の作曲は、頓に精神的負担を強いるものだった。

11月10日(金)シューベルト《さすらい人幻想曲》《ソナタ「ガスタイナー」》+杉山洋一/ブリス・ポゼ新作初演他_c0050810_15400618.jpg
 それから暫くしてフォルテピアノのための《山への別れ Addio ai monti》(2021)を書いた折は、敢えてメッセージ性から距離を置いたのかもしれない。コロナで死んだ友人が葬式で演奏してほしいと言い残した、リストの《守護天使への祈り》を下敷きにしている。
 パンデミックで非日常的な毎日を送っていたからか、フォルテピアノの音に助けられ、どこか現実を直視するのを避けているようにもみえる。恣意的な作業をできるだけ避けて、淡々と書き進めたつもりだが、実際はどうだったのだろう。
 その後、「ラフォリア」を素材にヴァイオリン協奏曲を手掛けた際、表面上の重苦しさを避けつつ、《自画像》に続く「狂気 la follia」を書こうとした。敢えて直截に書かないことについて後ろめたさもあったが、自分の感情と音楽との間で、意識的に普段以上の距離を置こうとした。そこにメッセージを絡み取る否か、聴き手に任せたのである。
 こうして、幼少期から現在まで、自分と古楽とのつきあいを振り返ると、自分にとって古楽は、ドナトーニに学んだ、音符に観念をこめない自らの作曲姿勢に通じるところもあって、観念性でも耳あたりのよさでもなく、「ラフォリア」のように、半ば形骸化しつつも直截に我々に訴えかける、堅固な構造の指針なのかもしれないし、クラシック音楽が、未だ確固とした方向性を持たなかったころ、緩やかに大らかに、社会と繋がっていた時代への憧憬なのかもしれない。







# by ooi_piano | 2023-11-05 13:26 | Schubertiade vonZzuZ | Comments(0)

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09110745.jpg2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09111682.jpg



《ウィーン体制のシューベルト Schubert im Metternichschen System》

2023年10月19日(木)19時開演(18時半開場)
浦壁信二+大井浩明 [4手連弾]
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円
FBイベントページ https://fb.me/e/8GE9tpBUK


F.シューベルト(1797-1828)

《F.エロルドの歌劇「マリー」(1826)の主題による8つの変奏曲 ハ長調 D 908》 (1827) 12分
  Thema (Allegretto) - Var.I - Var.II - Var.III - Var.IV - Var.V (Un poco più lento) - Var.VI (Tempo I) - Var.VII (Andantino) - Var.VIII (Allegro vivace ma non più)

《ピアノ五重奏曲 イ長調 D 667「鱒」》 (1819/1870、全5楽章) [H.ウルリッヒ編連弾版] 35分
  I. Allegro vivace - II. Andante - III. Scherzo / Presto - IV. Tema con variazione / Andantino - V. Finale / Allegro giusto

  (休憩)

《八重奏曲 ヘ長調 D 803》(1824/1905、全6楽章) [J.B.バイス編連弾版] 50分
  I. Adagio / Allegro / Più allegro - II. Adagio - III. Scherzo / Allegro vivace - IV. Andante / Un poco più mosso / Più lento - V. Menuetto / Allegretto - VI. Andante molto / Allegro / Andante molto / Allegro molto


2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09183839.jpg


総て燐火の戯れゆゑに Alles eines Irrlichts Spiel》――本郷健一

 フランツ・シューベルトが死んだとき、遺品は衣類・雑貨55点と古い楽譜(誰の作品かは分からない)2,3点、総額63フローリン(1フローリン5,000円とみても31万5千円)分で全部だった。これは、彼が最期を迎えた次兄フェルディナントの家の一室へ、死後13日目に管財人が立ち入って見積もったものだ。この遺品目録には、検閲局に届けるべき書籍があったか・・・なかった、との報告が含まれている。検閲局云々がされているところ、メッテルニヒ体制のもと、革命思想の浸透防止に厳しい目線がウィーンの市井隅々にまで向けられていたことがうかがわれる。
 シューベルトの創作活動期間は、ビーダーマイヤー文化の時代(1815~1848)の前半に、ほぼ包含される。
 1814年9月、ナポレオンの敗北をうけてヨーロッパの秩序回復を目的にウィーン会議が開催されたが、おもに各国の領土をめぐり10か月にもわたって紛糾し、それに伴い、主催したオーストリア外相メッテルニヒは秘密警察による諜報活動を大幅に増強した。この諜報活動はウィーン会議終了後も緩められることがなかった。
 これにより、張り巡らされた監視網は市井の隅々までを覆い、文化活動も委縮の度を強めることとなった。
 ビーダー(実直な)マイヤー(マイヤーさん~ドイツでもっともありふれた姓)なる語は、1853年になって、とある裁判官兼詩人が友人のエッセイ中の架空人物をこの名前で前時代的な滑稽詩の作者に擬したところから普及し、「お上のご政道に対しては口を閉ざして背を向け、お勤めでは黙々と義務を果たすが、あとは我が家とせいぜい隣近所との交際という小さな世界に閉じ籠って文学や芸術の世界に遊」ぶ、ウィーン会議後のドイツ圏の人々を、後付けで象徴することとなったものだ。
 シューベルティアーデの絵画で友人に囲まれたシューベルトの像は、このような象徴によく当てはまる。生前および死の直後に出版された作品も、作曲者と出版社の直接の合意で付された作品番号108までのうち、購入者の享受しやすいリートを集めたものが、半数超の58を占めている。その死後10年ほどを経て、シューマンはシューベルトのイ短調ピアノソナタD845につき書いた記事で、この作曲家のことを「いまだにただ歌曲しか作らなかったと思っている人が多い」と述べている。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09230769.jpg
 1828年11月19日に腸チフスで死んだシューベルトは、遺言書を書かなかった。ほんの一週間前には、兄の家に来る直前まで居候させてくれていた友人ショーバー宛に読み物をいくつか送ってくれるよう催促の手紙を送っている。同じく17日には、見舞いに訪ねた指揮者ラハナーに、自分が作曲する新しいオペラの台本を要求したほどだから、死への予感はまったくなかったのだろう。
 31歳での死が、シューベルトの悲劇的なイメージをもたらすものとなったようだ。
 9歳年下のシューベルトの庇護者的存在だったシュパウンが、歌曲集『冬の旅』(D911、1827年)について述べた回想も、このことに一役かっている。
 「『今日ショーバーのところへ来てくれ。僕は君たちに一組の恐ろしいリートを歌って聞かせたいんだ。・・・これには、他のどんなリートよりも苦しめられたんだ。』彼は我々に感動した声で『冬の旅』全曲[このときは最初に完成した前半12曲]を通して歌って聞かせてくれた。私たちはこのリート集の暗い気分に全く当惑してしまい・・・シューベルトはただ「(略)君たちもいずれは気に入ってくれるだろう」と言っただけであった。」
 ベートーヴェンと縁の深かったシュパンツィヒの四重奏団が、全曲短調という異例の弦楽四重奏曲『死と乙女』(D810、1824年)の公開を拒んだというエピソードも、それに重なる。1826年初のリハーサルでこの曲の第一楽章をさんざんミスしながら弾いたシュパンツィヒは、途中でやめると、こう言った。
 「兄弟、これは駄目だね、もう止めたほうがいい。君は君のリートだけに専念しなさい。」
 日本で最近書かれたクラシック音楽入門書は述べている。
 「シューベルトはそれまでになく暗い音楽を書いた人です。/こんな音楽を書く人が30歳を超えたあたりで世を去るのもあまりにも当然でしょう。」
 この本があげてるシューベルトの代表作は、『未完成』交響曲、バラード『魔王』、そして上の『冬の旅』、四重奏曲『死と乙女』である。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09232765.jpg
 とりあえず、しかし付き合いのあった人々からは、シューベルトはあくまでその突然の早逝によって惜しまれたのであって、生きていたシューベルトを悲劇的にとらえる向きはほとんどなかった。シュパウンの、上の回想の続き。
 「シューベルトは何事にも苦しむことのない鈍感な男だと信じていた者は大勢いたし、あるいはいまだにいるかも知れない。」
 こう述べたシュパウン自身は、シューベルトは苦しんで創作活動をしていた、そのため内面に閉じこもることを愛していた、と続けてはいる。それでも多くの人たちにとって、シューベルトは明るい思い出の中の存在だった。
 「[シューベルトを含む]数人の愉快な仲間が(略)夜パーティーから帰宅するところだった。彼らは、ようやく建物の外壁が出来上がったかどうかの段階にある建築工事現場に差しかかった。すると彼らはそこに並んで立ち、出来かけの建物の未来の住人に向かって、情のこもったセレナーデを歌いだしたのである。」
 シューベルトは友人と共にピアノ四手で演奏していたとの回想も見受けられる。
 他の人によってシューベルトがいつも彼と一緒でなければ四手用の作品を弾かなかったとまで報告されているヨゼフ・フォン・ガヒーの回想。
 「私がシューベルトと一緒に演奏をして過ごした時間は、私の生涯の一番の楽しさにあふれた時間のひとつに数えられるものです。」
 『未完成』交響曲を長いこと引き出しにしまいっぱなしにしていたアンゼルム・ヒュッテンブルンナーの回想。こちらは弦楽器で演奏を楽しんだのかも知れない。
 「ある日シューベルトが私のところへ来て、モーツァルトのヘ長調の『坑夫音楽』(「音楽の冗談」K.522のこと)の自筆楽譜を見せてくれました。・・・彼はこの作品を、当時まだ生きていたあるモーツァルトの友人から贈られたのです。私たちはヴァイオリン二挺、ヴィオラ、この交響曲を全部通して弾いてみて、モーツァルトがそこで意識的に犯した作曲上の間違いの混乱状態を大いに楽しみました。」
 ヒュッテンブルンナーは後年これをピアノ四手用に編曲したという。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09234030.jpg
 そもそもシューベルトの最初の作品は四手ピアノのための幻想曲D1(1810年)だった。富裕層を中心に急速に家庭内へピアノが普及したことを背景に、四手用の曲は18世紀後半から、師匠が手本を示し弟子が真似る(例:ハイドン Hob.XVII a:1)・師匠が弟子を支えて演奏するものとして流行しはじめ、19世紀には演奏会用に作られるようになった。シューベルトはその時流に乗って、モーツァルトやベートーヴェンを大きく超える数の四手用作品を作った。
 世間を見渡すと、ピアノの普及と反比例するように、ピアノ・ソナタの楽譜には需要が薄れた。1818年のウィーンのピアノ楽譜出版はまだ35%がソナタだったが、1823年には15%にまで落ち込む。代わりに台頭したのは出版の50%を占めるようになった変奏曲だったという。
 シューベルトにはピアノの変奏曲作品も若干あるが、同時期の出版リストに見られだす幻想曲ジャンルにも代表作の一つとなる『さすらい人幻想曲』D760など数作がみとめられ、2年後の四手用作品D940も優れた幻想曲である。
 アルフレート・アインシュタインは、シューベルトは四手用の作品を「本来はオーケストラ用に構想した作品の代用として利用」したと見ており、エステルハージ伯爵家で音楽教師をした1818年と1824年に高い集中度で作られたものは、伯爵令嬢たちの教育のためだったかとも考えている。上流家庭に浸透したピアノによるサロンでの効果的な演奏もシューベルトは想定していたかも知れない。24年の大二重奏曲(四手用作品である)D812はジェリズ(エステルハージ家の所在地)で客人たちの前で披露されている。加えて、最後の年に書かれた四手用作品には「社交的なもの」が多く現れる、とアインシュタインは言っている。通称「子供の行進曲」D928は、1827年にグラーツのバハラー夫人が夫の命名祝日に7歳の息子と連弾するため注文したものだ。同じ年の「『マリー』の主題による変奏曲」D908は、詳しい経緯は不明だが、リンツ大学の哲学教授ノイハウスに献呈されている。モーツァルト(6作+断片2)やベートーヴェン(4作)にはほとんどなかった四手用ピアノ曲ジャンルに、より立ち入ったシューベルトの場合、独奏用ピアノ曲が生前あまり出版へと結実しなかったのに対し、四手用は33作中17作と、半数が出版されている。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09235669.jpg
 シューベルトと交流のあった人々の回想は、それでもリートを含む声楽作品にまつわっているものが圧倒的に多い。
 創作の数が突然に減り、器楽曲が中途で放棄された稿ばかり残された、研究者の間で「クリーゼ(危機 Krise)」と呼ばれている1818年から1823年ごろには、「器楽は当時のシューベルトにとってまったく関心の中心にはなかった」。
 だが、それはシューベルトがこのとき器楽を諦めたことを示すのではない、と、近年の研究が明らかにしている。この期間は「音楽劇への取り組みが頂点を迎える。たいへんな時間を必要とするこのジャンルは、部分的には大いなる実りをもたらすものでもあった」(し、この期間にシューベルトは3作ものオペラを完成させている)。そうしたうちにあって、実は断片だとされている器楽曲も、ピアノソナタ数曲は再現部の開始直前で中断されていて完成のめどが立っている点が共通しており、変ホ長調の交響曲D729の場合はシューベルトが最終部分に「Fin」と書き込んでおり、一応できたと思ったものの浄書するに至らなかっただけだと考えられる。



2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09241112.jpg
 オペラは、残念ながら、書いても書いても水の泡だった。1823年に成った『陰謀者たち Die Verschworenen』D787は、検閲局の意向に沿うようタイトルを『家庭争議 Der häusliche Kreig』と改めたにもかかわらず、検閲で時間をとられているうちにベルリンで別の作曲者による同台本のオペラが好評を博してしまい、上演に至らなかった。
 同じ年に出来た『フィエラブラス』D796は、台本作者クーペルヴィーザーが色恋沙汰で劇場秘書の地位を降りてしまったため、結局上演されずじまいとなった。
 生涯に10作を完成させたオペラも、運と台本に恵まれず、1820年に2作が劇場にかかりながら短期間で打ち切られたのが関の山だった。この1823年の『フィエラブラス』上演不可をもって、オペラへの邁進を、シューベルトはいったん断念する。寿命が許せばまたこちらを向いただろうことは、彼が死の数日前に訪ねてきたラハナーに頼んだことを思い出せばうなずけよう。
 『フィエラブラス』台本作者の弟宛、1824年3月31日に出した手紙から。
 「君の兄さんのオペラは(舞台を離れてしまったのがよくなかった)、使い物にならないと宣告されて、そのおかげで、僕の音楽は不採用となってしまった。・・・僕はまたしても、オペラを二つ無駄に作曲したことになる。」
 こうして、シューベルトは器楽への注力を決心する。
 同じ手紙から。
 「リートのほうではあまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲を2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切拓いていこうと思っている。」

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09243279.jpg
 その後、シューベルト自身がブライトコップフ&ヘルテル社とライプツィヒのプロースト社に送った、日付も同じ1826年8月12日で内容もほぼ同じ書簡がある。
 「私はドイツ全土で、できるかぎり名を知られたく思っておりますので、下記のうちより貴殿のご選択にお任せ致し[て出版したいと思い]ます。ピアノ伴奏つきのリート・弦楽四重奏曲とピアノソナタ・四手用ピアノ曲等々、そのほか八重奏曲も一曲作りました。」
 最初こそ自費出版(実態は友人たちの出資)だったシューベルトの楽譜だが、クリーゼの時期までには、そのリート集が出版社にとって収益の上がるものとなっていたようだ。
 58に上る歌曲群(ドイッチュ番号が与えられた600弱の完成作のうち136作、22%)が出版され世に問われているのは、彼がビーダーマイヤー的に親しい隣近所ばかりを念頭に作曲をしていたのではないことを意味している。完成作品総数の5分の1程度しか出版できていないことは、そんな状況にもかかわらず、主要ジャンル次位であるピアノ曲が完成300作弱に対する37作出版(出版単位としては32)、12%程度であることも勘案すると、決して低い数字ではない。
 友人たちの助力による『魔王』Op.1、『糸をつむぐグレートヒェン』Op.2と単独歌曲の自費出版で出発したシューベルトの楽譜出版は、24歳になった1821年から軌道に乗り始める。自信を得たシューベルトは、それまで出版を担っていたカッピ&ディアベリ社が自分の作品を安く買いたたいているのではないか、との疑念を発し、他の幾つかの出版社に販路を拡げていった。1823年にはザイアー&ライデスドルフ社、25年にペナウアー、26年にアルタリア、以後ヴァイグル、ハスリンガー等々と、シューベルト作品を続々と引き受けている。
 歌曲に限らず、多様な器楽曲をアピールしたシューベルトは、器楽でも着々と成功を収めていく。
 1823年2月に出版した器楽、ハ長調の大幻想曲D760(「さすらい人幻想曲」)はウィーン新聞の出版広告で「最上の作曲家による似たような作品と同列にならべるにふさわしい」と紹介された。
 シューベルトは、出版に関してまた別に、1828年2月ショット社から打診を受けて返信をしている。このときは手元にある作品としてピアノ三重奏曲・弦楽四重奏曲(ト長調とニ短調)・ピアノ独奏のための四つの即興曲・ピアノ連弾の幻想曲(エステルハージ伯令嬢カロリーネに献呈したもの)・ピアノとヴァイオリンのための幻想曲・声楽曲数作を列挙し、
 「このほかにまだ3曲のオペラ、1曲のミサ、1曲のシンフォニーがあります」
 とわざわざ付記した。付記に関しては、なお
 「これらの最後の作曲群に言及したのは、貴殿に私が芸術における最高のジャンルを目指す努力の一端を知っていただきたい、という気持ちだけで、他意はありません。」
 とことわっていて、自分がこの年のうちに死んでしまうことなど思いもよらなかったシューベルトの、胸に描いていた音楽人生プランを垣間見させてくれる。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09244859.jpg
 ミサ曲は、シューベルトが最初に公的な成功を得たジャンルだった。17歳のとき作曲したヘ長調ミサ曲は、その年のうちに2つの教会で演奏され、生涯で6作書かれることになるラテン語通常文ミサ曲のうち4作までは演奏の記録ないし形跡がある。ただ、上のリストにある、おそらく最後の変ホ長調ミサ曲は、そこまでたどりつけなかった。
 シューベルトのミサ曲は、グローリアとクレドに一貫した詞句省略があり、とくにクレドにおいて「一にして聖かつ公の使途継承の教会を[我は信ず] Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam」に付曲されていないことは、他の詞句の省略とあいまって、シューベルトの信仰における非カトリック性を示すのではないか、と、研究者の間で議論され続けている。シューベルトの教会への皮肉な見方は、1818年10月29日にジェリズから家族宛に送った手紙で窺える。
 「兄さんには想像もつかないだろうな。ここの坊さんときた日には、老いぼれた駄馬みたいに偽善者で、ロバの親方みたいにバカで、水牛みたいにガサツな連中ばかりなのだ。お説教を聞いていると、あの悪徳に骨まで染まったネポムツェーネ神父でもまったく顔色なしというくらいひどいものだ。祭壇の上には道楽者や非行少年どもがわんさかとひしめいていて、この連中に思い知らせてやろうとするなら、死人の頭蓋骨を持ってきて祭壇の上に突き出して、こう言ってやるしかない。この罰当たりのチンピラめ、おまえたちもいつかはこういう風になるんだよってネ。」(ネポムツェーネ神父については具体的なことは分からない。)

 ショット社への手紙で言っているシンフォニーが「グレイト」を指すことはいうまでもないが、弦楽四重奏曲は少年期のシューベルトにとって家庭で父や兄と一緒に演奏するために作るジャンルだったことに目を向けておかなくてはならない。
 次兄フェルディナントの回想には、幼少のフランツ・シューベルトと一緒に弦楽四重奏を演奏するのは父と兄たちにとってこの上ない楽しみだった、とあり、家族にとってはその思いが持続していたようだが、ジェリズへ二度目の赴任をしていた1824年7月16~18日の手紙で、フランツは
  「[兄さんたちの四重奏演奏会は、兄さんの手元に残っている昔の]僕の作った曲より誰かほかの人の曲でやればよかったのに。僕のはそんなにたいした曲じゃない。」
 と、子供時代の自作にマイナス評価を下している。実際には、長く中断していた弦楽四重奏曲創作はこの年から再開、内容も精巧となって、産まれた名作、通称「ロザムンデ」D804は上の手紙を書いたよりも前の3月に公開演奏され、「死と乙女」D810は2年後に試演されているのである。
 作曲や出版をめぐって、シューベルトは相当にプロフェッショナルな意識を持って臨んでいたことが、以上のような行動や発言から明確に窺われる。シューベルト作品の評価の際には、この点が今後いっそう注意されるべきだろう。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09193516.jpg

 ところで、シューベルトの作品自体は、暗いものが主流なのか。
 内面的なもの云々は措いて、さしあたり短調が暗いものと前提し、前後の世代と比較しよう。誰もがわりと数を作っている弦楽四重奏曲・ピアノソナタの総数で、長調との作品比率を見てみよう。ハイドンは、総数121に対して短調作品19、約16%。モーツァルトは同じく40に対し4で10%。ベートーヴェンは48に対し14で29%。シューマンは絶対数が少なく総数8だが半分の4が短調である。シューベルトは、35の総数に対し短調は11。31%であって、ベートーヴェンに近い。このことから見る限り、シューベルトが暗い作品でとびぬけた作曲家であるとは言えないだろう。
 ともあれ、『死と乙女』は拒んだシュパンツィヒだが、それ以前の1824年3月にイ短調の弦楽四重奏曲D804(「ロザムンデ」)は公開演奏に応じており、八重奏曲D803も1827年4月のコンサートシリーズにとりあげている。
 五重奏曲『ます』は作曲年次(1819? 23?)、公開演奏の有無が不明ながら、こちらも早くに知られたものと推測される。
 「彼はこの曲を、この珠玉のリート[歌曲「ます」D550 1816-17または20]に心から魅せられていた私[回想者アルベルト・シュタードラー]の友人ジルヴェスター・パウムガルトナーの特別の要望によって書いたのでした。」
 このほか、弦楽五重奏曲、ヴァイオリンのための幻想曲なども出来上がり、とくにピアノ三重奏曲変ホ長調D929はライプツィヒの出版社プローストから出されることになった。1828年7月、プローストからの照会に対し、シューベルトは
 「拝啓! トリオの作品番号は100です。(略)この作品は誰に献呈したものでもなく、気に入ってくれる人なら誰にでも捧げます。」
 と陽気に返事している。
 期待に胸を膨らませて待っていただろうこの三重奏曲の印刷譜を、しかしシューベルトは生きて目にすることが叶わなかった。届いたのは、死の数日後だったという。
 自分でも予期しなかった死を迎えなかったなら、シューベルトのその後は順風満帆だったかも知れない。
 彼を病弱にし、その短命を導いたのは、1822年と思われる梅毒への感染との推測が確実視されている。その感染の原因をつくったのは、作曲家から最も親近感を抱かれ、最初のシューベルティアーデを開催もし、シューベルトにオペラ『アルフォンソとエストレッラ』D732(1822)の台本も提供したショーバーが、シューベルトを悪所に入り込ませたことだと疑われている。最も親しい間柄だったとみなされていたにも関わらず、ショーバーはシューベルトについての回想を書き残さず、人にもあまり語らなかった。
 「どんなにその気になろうとしても果たすことが出来ないのだ」
 と、ショーバーは言っている。
 「誰一人知らないだろうと思うシューベルトの一種の恋物語があって、これを・・・どんな風に、またそのどこまでを公表していいか・・・いまではもう遅すぎる。」
 ショーバーと1858年から短期間夫婦だったテークラ・フォン・グンベルトは、元夫がシューベルトの臨終に立ち会ったときの様子を伝えている。「ショーバーは、いつもよく知っていた目が彼をよそよそしく狂ったように見つめたときに」痛ましい印象を受けたのだ、と、それだけなのだが。

2023年10月19日(木)シューベルト《八重奏曲》《鱒》連弾版他 [2023/10/17 Update]_c0050810_09184902.jpg

# by ooi_piano | 2023-10-17 05:07 | Schubertiade vonZzuZ | Comments(0)

12月7日(土)〈暴(あら)ぶるアルバン・ベルク〉


by ooi_piano