ヤニス・クセナキス《日本の閃光――1961》
*この文章は、クセナキスが1961年4月に「東西音楽会議」のために初来日した直後に執筆したものである。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15313136.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15313136.jpg)
太陽はまだ水平線の上、三十度のところにあり、飛行機の主軸と同じ角度である。乗客は疲労困憊して、 皆カーテンを閉めて眠ろうとしていたが、私は彼らを真似することはできない。
上空は深い青紫色だ。我々は、実体の感じられない、綿のような雲の上を飛んでいる。雲は紫紅色から緋色へと変りつつあり、見慣れない色調をしている。
前方の朧げに見える水平線の上には、霧のような雲が幾層も連なっているが、我々が紺碧の大洋を想い描くことを妨げるほどに密集しているわけではない。コズミックなフライトだ。既に何時間も太陽は動かない。ジェット機のスピードが地球の自転をあざ笑っている。
その時、飛行機が下降する。幾つもの空を通り過ぎ、突然、東京湾が窓外に迫ってくる。太陽は雲の背後に消えた。夕方だ。地球の反対側にあるこの国によって喚起された溢れんばかりの疑問符。パリから東京まで北回りで十七時間……それは本当にこの新しい国へ来るのにふさわしいプレリュードだったのだろうか?
たった今我々が横切ってきた、あの驚くべき色彩。「旧世界」の空には、あれに相当するようなものはない。あのような色彩に満ちた広大な空間は、我々とは別種の、もう一つの生活を暗示しているのだろうか?
郊外、というよりむしろ都市そのものが、既にここにある。ここには、非常に高さの低い二階建ての黒っぽい木造家屋が無数にあり、他の国と同様に、一階は店舗になっている。看板が掛かっているが、踊っているような表意文字なので、何か書いてあるのかさっぱり分からない。少しは同じ文字だと同定できるものの、それは際限なく変化しうるのだ。
人間のミニマムのスケールに合わして建てられた小さな家々は、この新世界の秘密を隠しているかのようである。この古い国内建築は、渋滞した道路の喧騒と、多かれ少なかれ、西洋の他の大都市に匹敵するほどの明りに包まれている。かくして、奇妙な感じは、現代の見慣れた科学技術という動因によって背後へ追 いやられてしまう。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15331834.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15331834.jpg)
科学技術は地球を小さく均一なものにしてしまった。そのベースは? 石油と電力である。
私は完全に日本で作られたかわった車の車体が見れると期待していたのだが、それは実現しなかった。 アメリカ車が写真を独占し、フランスの四馬カルノー車が安いタクシー会社に指定されていた。しかし、創造的な想像力は都市の中心部でネオンサインに囲まれながらも、炸裂していたのだった。近代的な都市の夜の明りは、大衆表現の主要な方途である。それゆえ、我々は少しの間それについて注目してみよう。
大雑把に言って、照明には二つのカテゴリーが存在する。一つは、銀座のような歓楽街において見出さ れるものであり、もう一つは、大産業企業の宣伝に含まれるものである。後者の標徴は、巨大な石壁や深い堀に囲まれている皇居周辺の東京中心部にある高層ビルの最上部にある。
歓楽の標徴は、地階から始まり、二階や三階がナイトクラブやレストランや商店によって占められている。この狭い路地では、形と色の戯れは、狂気的集団が創り出した芸術作品の暴力性を持っている。孤独な知性でさえ、未だ嘗てこれほどまでに表現の豊穣さを希求することはできなかったのであり、孤立した西洋の前衛芸術家たちの試みは、この激騒に比べれば、どもりながら青ざめるしかないのである。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15320865.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15320865.jpg)
なぜなのだろうか? 私の考えでは、このような事実を支配する三つの根本的法則がある。第一に、この標徴は、常にすべて、道路のどちら側からでも見えなければならず、路上では、ネオン管の三次元的タペストリーが重要とされる。第二に、ナイトクラブや商店は小規模であるから、経済的理由によって、標徴は必然的に小さくなる。第三に、しかし、客を惹き寄せるためには、形も色も際限なく、どんな曖昧さもないよう正確に変化せねばならない。
このためには色(ネオンカラー)の密度に変化を付けなければならないのだから、これはもう色における音楽という意味になるが、そこで我々が触れているのは、四十年ほどの歴史を持った、製図版の上の抽象的なアーバニズムが抱える本質的な問題なのである。抽象的な都市計画が産み出したものは、ピカピカではあるが既に死んだ都市であった。どんなに優れた都市設計技師の頭脳から産み出された幾何学的な都市であろうとも、何千何万の個人の利害関心と趣味に支えられた生き生きとした街に取って代ることは決してないのである。
芸術においてもそうであるが、アーバニズムにおいても、思想家は、ルネサンスを想起させるような静的なコンセプションを捨て去らねばならず、その代わりに、大多数の人々を支配している法則を利用し、大衆によって創られた現象と結果に注意せねばならない。つまり、思想家は統計学を扱い、微積分に撤退せねばならないのだ。
東京や京都のような日本の都市は、芸術家のためにヴィジュアルなデモンストレーションが行われてい る。勿論、日本人の芸術的センスが、ごくわずかであれ、芸術の趣をコントロールしてきた。
対照的に、高層ビルの宣伝照明は、より大きな法則によってコントロールされる。巨大な球状や円錐状や円柱状の構造はイルミネーションを施され、空間的シネラマを創り出しているが、それは視覚芸術がまもなく大都市中心部の路上に押し寄せてくるであろうと告げている。
東京は真に光の都市であり、単にガス灯が蛍光灯に取って代った都市なのではない。
昼でも夜でも、都市の外観は、しかし、表層的な印象しか与えない。人間的な触れ合いは、国民と都市の本質についての中心的問題を解く、真の鍵なのである。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15311694.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15311694.jpg)
自分の作品のために、私は日本の音楽家や技術者と連絡を取らねばならなかったが、そこでは英語が唯一の情報伝達の手段であり、私は相互に理解しあうことの難しさに悩まされた。西洋社会では意見を交換するのに10分もあれば充分であっただろう事が、東京でははるかに長い時間を要した。この時間のロスは職業上の序列制度のせいだと言う人もいたが、私はその説明に満足できなかった。というのも、私が言っているのは、日本語の文の性質と、日本人の思考を反映しているように思われるその流動性についての難しさだからである。この徴候は私を含語の問題に向けさせた。学校で我々は、日本語がインド・ヨーロッパ語の言語構造とは異なることを学ぶ。私は一人の東洋学者に尋ねてみた。彼は、文における語順が日本語においては明らかに異なっているにもかかわらず、論理は基本的には同じである、と考えていた。日本語からフランス語や英語へ翻訳するにあたって、精神的な障壁があるべきではないのは当然であり、このことは、一般的に言って正しい。しかし、深刻な疑惑が私の心をじらし続けていた。以下に挙げるのは、日本に住んでいる日本人及びヨーロッパ人の文学者あるいは科学者の何人かと交わした会話である。
「語順が違うのですか?」
「ええ」
「しかし、同じ現象は、ヨーロッパの幾つかの言語にもあります。例えば、ルーマニア語では、冠詞は名詞の語尾に付けられますし、ドイツ語では、動詞は文章の最後に来ます。それに、フランス人にはよく混乱を招くのですが、現代ギリシア語のように動詞と名詞の区別が曖昧な言語を除けば、動詞は名詞の形に分解して他のあらゆる言語に翻訳できます。一体、どこに違いがあるのですか?」
「違いはあるのですが、それを即座に説明することは難しいことです」
「よろしい。そうであると認めましょう。しかし、我々は、アリストテレスの論理学や、その結果として当然現代の論理学も、言語の内部で形成されてきたものであり、また今なおそのようにして作られているのだ、ということを知っています。そういったものを排除しようとする最近の努力もありますがね。すると、我々は次のようなことも想定できるのでしょうか。即ち、日本語の背後には、西洋人にも東洋人にも未だに発見されていない根本的に異なる論理が隠されているのだ、と」
「ええ。そう考えることは可能です」
「もし、そうであるなら、西洋のものとは異なる科学やテクノロジーが現れる可能性もあるのです か?」
「おそらくはね。しかし、今日の知識に至るまでに西洋世界において三千年以上もかかったプロセスを、人工的に創り出すことは、不可能でしょう」
「確かにその通りです。しかし、ひょっとすると、知識の、あるいはもっと一般的に言うなら思考の一つの手段が、日本語の領域外における新しい代数的構造の発見から利益を得ることもありうるのでしょうか?」
この問題に取り組んでいる論理学者が大阪にいるということを、私は後になって聞いた。私自身は、パリにいる論理学者たちにこの問題について聞いてみようと決めた。
日本語の書き言葉の三重の特性(漢字、カタカナ、ひらがな)から言って、この仮説を承認するのは実に簡単なことである。三重の特性とは、例えば、名詞は幾つかの異なった形で書くことができるし、逆に、日本語で書かれたものは、音とイメージにおいて無限のレゾナンスを持ちうる、という意味である。記号と音と概念の間の正確さを欠いているという事実によって、日本語は難しいが、言語としての潜在的な豊いを持ちうるのである。日本人は、自分の言葉と筆跡を通じて、西洋的思考の最も発達した風土の中で、直接に自分を発見する。そこでは、象徴的で格調高いヨーロッパの表現手段はほとんどついて行けないのだ。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15321928.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15321928.jpg)
ところで、思い出したのだが、活版印刷が発明されるよりはるかに昔に日本では印刷術が知られていた。 このことは、
奈良の法隆寺博物館に所蔵されているような、十三世紀の鎌倉時代における仏教教典の木版によって証明されている。
東京では道路に名前や番号がついておらず、ヨーロッパから来た訪問客はこのことにすっかり驚かされるのだが、それは同じ考え方の範疇にある。分類の原理は、算術の秩序を通じて、もっと直接的な幾何学的知識によって置きかえられた。アメリカ合衆国の占領軍は絶望して、五番街だとか九十番街だとか書いた木の立て札を立てざるを得なかったが、その立て札が、彼らの立ち去った今でも取り去られずに残っている場所がある。
それにもかかわらず、私は、日本人の友人が日本語で書いてくれた住所に到着するまでに、四回もタク シーを乗り替えねばならなかった。勿論、その四人の運転手はそれを完全に読むことができた(三つも異なる書き方があるにもかかわらず、日本には文字の読めない人はいない)。
この多価性ゆえに、日本人は新しいものすべてに対して警戒心と好奇心を持つのである。中国から伝わった芸術や文化や宗教を吸収・同化した今日、日本人は、自分たちを何か新しい発見に注目させてくれる知識に渇望している。全てを語り尽くし、もはや何ものも待ち望んではいないヨーロッパ人の、催眠術にかか ったような《無感動》状態から、我々は遠く離れているのである。このことは、おそらく、人間関係における極端な優しさの説明になるだろう。つまり、知り合いの人に会うたびに、恭しい挨拶やお辞儀が長々と交わされるのである。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15330737.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15330737.jpg)
ある日、一人の紳士が私に自己紹介し、私を京都・奈良を探訪するように招待してくれた。私はこの親切な申し出にいたく感動したが、私は言葉が分からないうえに知人もいなかったので、この旅行が実りあるものになるとは思えない、と言った。すると、彼は即座にガイドとして私に同伴してくれると言ってくれたのだ。彼は京都で、私を日本の生活様式で過ごさせ、市内観光してくれた。私は、人間の内の最も偉大な豊かさの一つ、即ち、無私の奉仕という可能性をぶち壊してしまう西洋人の無関心さや自己満足を、彼の態度と比べずにはいられなかったが、しかし、これは彼に限ったことではなかった。特に、私の二人の友人、一人は詩人で批評家、もう一人は建築家で、二人ともまだ若い「アヴァンギャルド」な芸術家なのだが、彼らは、私が日本に滞在している間中、まるで兄弟がしてくれるかのように、何かと便宜をはかってくれた。
もし、ヨーロッパが、あるいはもっと一般的に、ロシアをも含めた西洋が、宗教や資本やあるいは国家によって唯一の文化を常に創り出すことが出来てきたとするなら、日本では、複数の文化――仏教、禅、神 道、キリスト教、無神論、そして現代の工業化された生活から生れた科学――が共存しているのだ。
伝統的芸術は、家庭の習慣や建築がそうであるように、この驚くべき多様性を示している。つまり、日本では幾つもの生活を同時にすることができるのである。この共存のバランスは、必ずしも普及しているわけではないが、今日それは、同時代の歴史の中で、例外的かつおそらくは唯一であろう雰囲気を醸し出して いる。それは、多分、古代ギリシア文明と比較されうる。古代ギリシアでは、新しく誕生したキリスト教も含めてあらゆる宗教が受け入れられ、前五世紀のペリクレス時代には科学が発生したのだ。
日本の海岸線がギリシアのそれと同様入り組んているように、日本とギリシアは、過去、現在、未来にわたって近接性を有しており、互いに触れ合い再現しあっているのである。そして、こうしたあらゆる興奮を広げていくことは、日本人の豊かな性格であり、それは、伝統的建築や人々の接触、料理、舞台あるいは音楽表現、そして工業的美学において表現されている。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15324088.png](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15324088.png)
ある晩、私は京都で能を見に行った(入場料は無料だった)。正方形のステージの上に、黒色や青灰色の衣装をまとった男たちが、仏像の如く座っており、鏡のように磨かれたステージの上で、ユニゾンで朗吟した。男たちは各々が扇を斜めに持っており、それは、彼らに話をする権利を与える一種の日本風の笏である(それは沈黙の間に引っ込められる)。文が何時間かぶっ通しで読まれるのだが、西洋人にはいささか単調である。飾り気のない厳格な朗吟は、テクストに合わせてゆっくりと半音階的に上昇したり下降したりし、 時々ビザンティンのプサルモディーに似た終り方によって中断される。能は仏教の詠唱に由来するため、この類似性が、ギリシア=仏教の時代における歴史的連関の喪失から来たものであるということは、ありえないことではない。男声のコーラスは、ソロと交替する。この時、コンポジションが変化し、コーラスはソロに取って代られる。脆そうな十二、三歳の少女が出てきて、ステージの前面に静かに座った。彼女は赤と白の上着を着、銀色の刺繍の入った金色のガウンのようなものをまとい、青灰色の帯をしていた。それは男たちの厳格な衣装とは対照的だった。
男たちが、感知しえない程の変化でもって、別の台詞を読み始めたその時、突然、少女が扇を手に取り、ヴィブラートのない新鮮な声をほんのわずか発した。ソロとコーラスの声部分配というこの方法は、日本における伝統芸能の力を説明する。
観客は、さほど多くなく、しかもその大半が四十歳過ぎの男女で占められていたが、この間ずっと、観客たちは、自分たちのテクストを見ながら、ソロの後を追っていた。
能は、身のこなしや音楽伴奏にとって、最も簡素な舞台光景である。私は皇居で舞楽を見た。舞楽は極めて古いものであり、中国に起源を発する。舞楽には、壮麗に彩色された中国のヴァイオリンや打楽器の大オーケストラがあり、それに合わせて、パントマイムや、舞妓や芸者の都踊りのようなものが演じられる。 それは、身のこなしにおいても歌においても、そしてその光景においても洗練されており、コーラスや、あるいは今日の我々なら立体音響とでも呼ぶだろうものを伴っている。それから歌舞伎を見た。歌舞伎は人気 のある舞台だが、最近では現代化される傾向があり、伝統の純粋さの一部が破壊される恐れがある....
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15341748.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15341748.jpg)
日本の粋を集めた芸術は、そのユニークな料理にも見出される。生野菜や刺し身の芳香は、舌の先に箸でつまんで味わったり香りを楽しんだりする。料理を作ることが料理を食べることと同義であるような国は日本以外にはないだろう。香りと味わいの感覚は、それとは互いに対立しあう様々な傾向に囲まれている。 西洋人のフォークやインド人の指を考えれば、このことがよくわかるだろう。
私は日本庭園について多くのことを聞いてきた。この雑誌にも、パリにあるユネスコの小さな日本庭園の写真が載っており、建築家と彫刻家が日本庭園について賞賛しながら語っていた。私は本物の日本庭園を見るのを待ちわびていた。日本庭園には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、京都の龍安寺の「石庭」のような、禁欲的なタイプ。もう一つは、やはり京都にある桂離宮のようなタイプである。どちらの場合も、実物は、彫刻家や風景画家による模型や模写から私が見聞きしていたものと違っている。龍安寺の庭は、本質的に宗教的な二つの欲求から生れた。秩序と自然である。これら二つの欲求が、芸術家でない人間、例えば僧侶によって見られる時、その結果は極めて意義深いものとなり、芸術そのものを超出するので ある。それは、自分たちは傑作を作ったのだと信じているストーン=トーテムの制作者たちとは対極にある。 桂離宮も同じようにその熱意を表現しているが、しかしそれは俗人の視点からである。即ち、自然に対する尊敬と、自然とのコラボレイション。日本人は、自然の上に幾何学的図形を探そうとするとき、西洋人のように自然を踏みにじったりしない。
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15315394.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15315394.jpg)
ここでは、土地と形の自由さが、構成や、あるいは幾つかの次元に向けられている。空間にとっては次の三つの次元がある。第一の次元は、物質、小石、玉砂利、石、大地、木、湖、多種多様な植物、針葉樹、確かな立体的形。第二の次元は、影、花、緑色の色合い。第三の次元は、小道にそって立ち並ぶ焦茶色の建物の明確な立体的形。そして、最後の次元は時間であり、それは、感覚と知性に対して、絶えず新たな驚きの発見 に導く。人間の手になる丘は、地面と池を多様化する。水は山峡を開き、太陽は、人間が惜し気もなく創り 出したこの自然の形の上に、明るくそして穏やかに降り注ぐ。
しかし、もし日本人が自然を尊敬し、暴力を振るうことなく自然に対して本質的に働きかけているならば、庭園や離宮に点在する小さな茶室を造る時、日本人は幾何学的に、厳しく、ありのままに振る舞っているのである。障子や襖を用いることで、日本人は、同時代の立体的建築の最も偉大な作品が成し遂げたよりもはるかに偉大に、はるかに親しみやすく、室内にパースペクティヴの無限の豊かさを与えた。造形的効果の変化や紙越しに漏れてくる光は、世界中の建築家にとって豊富なレッスンとなるべきである。
寺院や塔における杉の木の木造構造を最大限に利用することは、極めて難しい。それはまさに、屋根や枠組みの重量をアクロバティックなやり方で支えるカスケードであり、アルキメデスの法則の無限のヴァリエイションである。しかし、このような伝統的な構造は学校では教えられていない。学校で我々が習うのは、西洋風の格子窓だとか、
ポロンソー梁についてである。京都の東大寺(原文のまま――訳注)や、奈良の法隆寺の複雑な建築が教えてくれるような、物質の抵抗について学習しようとするものはいないのだろうか?
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_15310203.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_15310203.jpg)
しかし、音楽や建築、造形芸術が、伝統芸術の価値に見合うだけの現代的な表現手段を作り出すことに一般的に成功していなかったなら、映画や産業的美学こそが最も高いクオリティーを持っていると言えよう。 『羅生門』のような古典的映画の他にも、科学的映像作品がある。私は、その実例を少し見たが、色や映像の技術的すばらしさは、その構成と同じくらい、卓越している。
知性はあらゆる芸術における共通の尺度であるが、これらの映画において、知性は、主体のリアリズムと、形と動きのいわば「コズミックな」抽象の間にある、生命の流れを創造することに成功した。その結果は、
岡田桑三氏がプロデュースした『
ミクロの世界』や『
マリンスノー』『
潤滑油』におけるような、直接的論理である。
産業的美学について言えば、技術的な洗練さや色や形は、日本人の忍耐強さとデリカシーによって、 ヨーロッパやアメリカの生産品と強力に張り合うまでに発達した。テープ・レコーダー、トランジスター、 テレヴィジョン、家庭用電気製品。産業文明のこれらすべての小悪魔たちは、完璧で魅力的で親しみやすく、ここでは、実用的な目的の方が、良い趣味の背後に追いやられるのだ。
アテネ風の花瓶や、俗悪な古い容れ物は、地中海世界におけるアテネの経済的優位を築くのに非常に貢献し、その経済的優位は、大英帝国やドイツが他を圧倒的に引き離したのと同じくらいであった。機械製の小さな生産品を持つ日本は、アメリカのトランジスター市場の一角を征服した。もしヨーロッパがまだ侵略されていないとするならば、それは、ヨーロッパが高い関税障壁によって自分を守っているからである。日本においては、1960年のエレクトロニクス分野での生産高は、1956年のそれに比べて、300パーセントも上回っており、工業拡大の年平均指標は、アメリカ合衆国が7.5パーセントであるのに対して、29パーセントにも及ぶ。勿論、この拡大に問題がないわけではない。労働は相対的に安く、メイ・デーの平和なデモは、労働者の世界が組織化され統制されていることを物語っていた。
あらゆるものが急速な動きの渦中にあり、しかも伝統が脈々と深く根付いているこの国の未来はどうなるのだろうか?
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_13065285.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_13065285.jpg)
【年表/クセナキスと日本】
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_07120460.png](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_07120460.png)
1953
À la demande de Le Corbusier, Xenakis organise pour le Congrès International d’Architecture Moderne (CIAM) un « concert spatialisé » sur le toit de l’unité d’habitation de Marseille, avec trois sortes de musique en trois points différents de la terrasse (musique concrète, musique traditionnelle de l’Inde et du Japon, jazz).
1961(初来日)
17-23 avril : participe à Tokyo au Congrès international Orient-Occident (East-West music encounter) organisé par Nicolas Nabokov. Parmi les compositeurs occidentaux : Berio, Carter, Cowell, Sessions, ainsi que le musicologue Stuckenschmidt.
29 avril : présente à Tokyo un concert de musique expérimentale, comprenant des
œuvres instrumentales et électroniques. Le programme y annonce : Hidalgo : Ukanga, Tremblay : Pièces pour piano, Malec : Mouvement en couleur, Ballif : Lovecraft, Philippot : Composition pour double orchestre, Ferrari : Visage IV,
Xenakis : Metastasis, Analogiques A et B, Concret PH, Achorripsis, Pithoprakta, Riedle : Elektronische Musik, Henry : Co-existence concret, Boucourechliev : Texte II, Mâche : Praelude, Varèse : Déserts, Schaeffer : Etude aux objets, Ferrari : Tête et queue dragon (le concert commence à quatorze heures!).
Rencontre au Japon Yuji Takahashi qui restera un de ses interprètes les plus dévoués : le compositeur Toru Takemitsu le présente à Seiji Ozawa.
<L'éclat du japon> (1961)
: "La littérature japonaise peut avoir des résonances infinies en sons et en images. "
: "Par le langage et par l'écriture le japonais se trouve d'emblée dans le climax le plus avancé de la pensée occidentale, que les modes d'expression symboliques et sonores ont tant de peine à suivre. (…) Cette polyvalence de la pensée les rend alertes et curieux de tout ce qui est nouveau. (…) On est bien loin de l’état hypnotique et blasé des européens qui ont tout dit et n’attendent plus rien. C’est ça qui explique peut-être l’extrême gentillesse dans les relations humaines."
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![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_07131368.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_07131368.jpg)
1962
23 février : création de Herma par Yuji Takahashi à Tokyo.
1970 (大阪万博)
Exposition Universelle d’Osaka : Présentation de
Hibiki-Hana-Ma, pour bande huit pistes, en même temps qu’un spectacle de lasers de Keiji Usami.
1972
Oresteia - "Some of the instruments can be replaced by Japanese traditional ones whenever this is possible. I think that the frugality of the action in the Noh constitutes a deep power of dramatic expression which should be reflected in the staging of Oresteia. I would admit even traditional Japanese costumes and masks adequally chosen from the existing Noh repertoire, bearing in mind that the ancient Greek drama used such tools although we very little know about the way and the stile they had. The phonetics also should be inspired from the ancient Japanese language as it is used in Noh."
1985
1987
24 octobre : création de
Horos par l’Orchestre philharmonique du Japon dirigé par Hiroyuki Iwaki, à Tokyo, pour l’inauguration du Suntory Hall.
1989
1990
9 octobre : création de Tuorakemsu à Tokyo par l’Orchestre symphonique Shinsei, dirigé par Hiroyuki Iwaki, pour le soixantième anniversaire de Toru Takemitsu.
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_07145310.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_07145310.jpg)
1996
"Il est certain que, lorsque à Ypsilanti je me suis lancé dans l'Orestie, l'idée était présente à mon esprit sinon de réaliser un théâtre total, du moins d'aller dans ce sens là. Aujourd'hui, le théâtre total, avec cette vie et cette harmonie interne qui le définissent, n'existe à mon sens véritablement qu'à l'extérieur de l'Occident - au Japon, à Java, en Inde même, éventuellement en Afrique. Je pense d'ailleurs qu'à l'époque où elle vivait encore, la tragédie antique devait être beaucoup plus proche du Nô japonais que de la façon qu'aujourd'hui nous avons de représenter une œuvre d'Eschyle ou de Sophocle. Séparez dans le théâtre Nô la musique de l'action scénique ou l'action scénique de la musique: le résultat sera à chaque fois probant. Cette forme-là se prête à tous les tests susceptibles d'examiner sa validité théâtrale. Même isolé, chaque élément du Nô conserve tout son intérêt."(I.X.)
1997
11 novembre : reçoit au Japon le Prix Kyoto.
30 novembre : création de O-Mega, sa dernière œuvre, à Huddersfield par Evelyne Glennie (percussion solo) et le London Sinfonietta dirigé par Markus Stenz.
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_13461768.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202201/23/10/c0050810_13461768.jpg)
ル・コルビュジェ門下の坂倉準三(1901-1969)設計による、渋谷駅西口・東急百貨店東横店南館の 「クセナキス窓」のファサード(1970年完成/2020年3月閉館)
![クセナキス初来日時のエッセイ《日本の閃光――1961》 [2022/01/22 update]_c0050810_23585295.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201109/11/10/c0050810_23585295.jpg)
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