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Хироаки Ои Фортепианные концерты
Сны о России


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松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシpdf 


【第4回】2023年1月7日(土)15時開演(14時45分開場)

S.I.タネーエフ(1856-1915): 前奏曲とフーガ 嬰ト短調 Op.29 (1910) 7分
D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
 第1番 ハ長調 - 第2番 イ短調 - 第3番 ト長調 - 第4番 ホ短調  20分
 第5番 ニ長調 - 第6番 ロ短調 - 第7番 イ長調 - 第8番 嬰ヘ短調  27分
 第9番 ホ長調 - 第10番 嬰ハ短調 - 第11番 ロ長調 - 第12番 嬰ト短調  25分

  (休憩 15分)

M.ヴァインベルク(1919-1996): ピアノソナタ第6番 Op.73 (1960) 12分
 I. Adagio - II. Allegro molto
D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
 第13番 嬰ヘ長調 - 第14番 変ホ短調 - 第15番 変ニ長調 - 第16番 変ロ短調  26分
 第17番 変イ長調 - 第18番 ヘ短調 - 第19番 変ホ長調 - 第20番 ハ短調  24分
 第21番 変ロ長調 - 第22番 ト短調 - 第23番 ヘ長調 - 第24番 ニ短調  27分

[使用エディション:ショスタコーヴィチ新全集版(2015)]



交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者による連弾版]、映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛編2台ピアノ版]、交響曲第13番《バビ・ヤール》第5楽章「出世」(1962/2022) [米沢典剛編独奏版]、オラトリオ《森の歌 Op.81》より第7曲「栄光」(1949/2021) [米沢典剛編独奏版)、オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人 Op.29》より~第2幕第4場から第5場への間奏曲「パッサカリア」 (1932) [作曲者編独奏版]、《ピアノ五重奏曲 Op.57》より第2楽章「フーガ」(1940/2022) [米沢典剛編独奏版]、《弦楽四重奏曲第15番 Op.144》より第1楽章「エレジー」(1974/2020) [米沢典剛編独奏版]、《革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲》(1918)



ショスタコーヴィチ《24の前奏曲とフーガ》とその辺縁――工藤庸介

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  2022年8月30日、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(1931~2022;任期は1985~91)が逝去した。彼がソヴィエト社会主義共和国連邦の最高指導者であった期間はニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(1894~1971;任期は1953~64)の半分ほどのわずか6年であったが、彼が世界史に刻んだ足跡は極めて大きなものである。彼の事績を辿るニュース映像の数々は、彼が書記長に就任した時にはまだ中学生だった団塊ジュニア世代の筆者にとって、青春時代の記憶を喚起するものであった。
  ソ連を地理の教科書で習った世代にとっては、1991年のソ連崩壊がどれほどショッキングな事件であったのかをよく覚えていることだろう。なにしろ、生まれた時から当たり前のように地図に載っていた国が消滅したのだから。
  それから、30年以上が経った。わが国では、歴史の教科書でしかソ連を知らない世代が約半数を占めている。それは、ソ連について語る際、そこに付き纏っていた秘密のベールの感覚を、もはや前提として共有できない、ということを意味する。


ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチ

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  さて、ショスタコーヴィチである。彼の人生と創作活動を、ソ連の国家体制との軋轢を無視して理解することは困難だろう。「血の日曜日」の翌1906年に生まれ、レオニード・イリイチ・ブレジネフ(1906~82;任期は1964~82)体制下の1975年に亡くなったショスタコーヴィチは、ソ連の第一世代であった。彼の家系には、父方と母方の双方に急進的政治活動に荷担していた者がいた1)こともあり、ロシア革命の理念に対してシンパシーを抱く家庭環境の中で彼は育った。無神論者であったか否かはともかく、ショスタコーヴィチに信仰を窺わせるエピソードも皆無である。彼が敬愛したベンジャミン・ブリテン(1913~76)の「戦争レクイエム」作品66(1962)と、それに対する音楽の返答とも言われているショスタコーヴィチの交響曲第14番 作品135(1969)とを比較してみれば、少なくともショスタコーヴィチの思想の根底に信仰がなかったことは明らかであろう。
  無論、だからといってショスタコーヴィチが模範的な心からの共産主義者であったということにはならない。しかしながら、1915年にイグナーツィ・アルベルトヴィチ・グリャスセル(1850~1925)が主宰する音楽学校へ入学してピアノのレッスンを始め、1919年からはペトログラード音楽院でピアノと作曲を学び、その集大成として発表した「交響曲第1番」作品10(1925)によって華々しく国際的なデビューを果たしたショスタコーヴィチは、紛れもなくソ連が誇る俊英であった。

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  そんな優等生だったからこそ、彼は全体主義国家の格好の餌食となった。イデオロギー統制を目的とした文化・芸術弾圧であるプラウダ批判(1936)とジダーノフ批判(1948)の槍玉として、ショスタコーヴィチの名が筆頭に挙げられたことはよく知られている。特に前者は、第1回モスクワ裁判の死刑判決がおりた、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(1878~1953)による大粛清が始まった年だったことを考えると、その意味は極めて深刻なものであった。翌1937年に逮捕、銃殺されたミハイル・ニコラーエヴィチ・トゥハチェフスキイ元帥(1893~1937)と親交があったことで、ショスタコーヴィチ自身もNKVD(内務人民委員部)で取り調べを受けている。この取り調べの担当者が逮捕されたことで、ショスタコーヴィチは最悪の結末を免れた2)が、明確に死を覚悟せざるを得なかったこの経験が、ショスタコーヴィチの精神に影響を及ぼさなかったわけがない。
  その後、ショスタコーヴィチは体制に対して、少なくとも表向きは服従し、順応した。1961年には正式に共産党員にもなった。そんなショスタコーヴィチのことを、アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(1918~2008)は「呪縛された才能3)」と形容した。反体制の闘士であったソルジェニーツィンの生き様は、ソ連が遠い過去の記憶となりつつある現代でも共感を持って理解され得るに違いない。一方、ソ連が失敗に終わった壮大な実験国家であったと結論付けられている現代において、その体制に恭順したショスタコーヴィチの内面を推し量ることは困難である。
  近年の研究で作曲家の私的な側面が解明されてくるにつれ、彼の「二重言語」が「体制=反体制」あるいは「公=私」だけではなく、彼自身の心性の表れとも考えられるようになってきたことは、間もなく没後50年となるショスタコーヴィチの評価に新たな地平を切り拓くものである。こうした作曲家像の変遷は、演奏者と聴き手の双方に対して、単なる意味解釈の修正を超えた「ショスタコーヴィチの音楽とは?」という根源的な命題を突きつけている。


ショスタコーヴィチにとっての社会主義リアリズム

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  ところで、2度に渡る批判では、ショスタコーヴィチの音楽の何が問題とされたのだろうか。キーワードは、「形式主義」と「社会主義リアリズム」の2つである。
  一般に「形式主義」とは、「作曲は形式的な美的法則を追うもの4)」という音楽美学の用語であるのに対し、ソ連において用いられた「形式主義」は、文学におけるロシア・フォルマリズム(ロシア形式主義)を批判するマルクス主義文学理論で用いられた語を援用したものである。すなわち、技法を重視するあまりに大衆との繋がりを欠いた作品や創作行為に対する蔑称と理解してよい。
  一方の「社会主義リアリズム」という概念もまた、文学の分野に端を発し、マクシム・ゴーリキイ(1868~1936)がその元祖的な存在とされている。1932年にスターリンによって与えられた定義は、以下のようなものである:「社会主義リアリズムは、ソヴェト文学と文学批評の基本的な方法である。それは、芸術家に、現実生活とその革命的発展を、真実に、歴史的に具体的に描写することを要求する。この真実と、歴史的な具体性とは、勤労大衆の中に新しい人生観を育て上げ、彼等を社会主義の精神において訓練するという問題とむすびつけられなければならぬ5)」。
  文化問題担当の共産党中央委員会書記であったアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ジダーノフ(1896~1948)らの指導で、1934年の第1回全ソ作家同盟大会においてこれが作家同盟規約として採択され、文学に留まらず、ソ連芸術全般に関わる基本方針とされた。これは幾許かの議論を経て6)音楽にも適用され、「形式において民族的、内容において社会主義的」というスローガンの下で以降のソ連芸術が展開されていくことになった。

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  歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29(1932)とバレエ「清流(明るい小川)」(1935)でプラウダ批判を受けたショスタコーヴィチは、「交響曲第4番」作品43(1936)をお蔵入りさせて「交響曲第5番」作品47(1937)で形式主義者の汚名を雪いだ。ジダーノフ批判には、社会主義リアリズムの範たる大作、オラトリオ「森の歌」作品81(1949)で応えた。
  社会主義リアリズムがソ連音楽に及ぼした影響について、フランシス・マース(1963~)は次のように述べている:「ソ連作品は何よりもまず『どのように』ではなく『何を』によって判断され、西側でなおも盛んであった様式的、技法的実験は、ソ連では不必要なものとして軽視された。代わりに、西側で伝統的な諸々の形式が放棄されていた一方で、ソ連音楽は19世紀の記念碑的な形式を人工的に蘇らせ続けた6)」。
  ショスタコーヴィチは、宗教音楽を除く、いわゆるクラシック音楽のほぼ全分野に渡って作品を残している。とはいえ、彼の創作の中心が交響曲(と弦楽四重奏曲)にあったことに異論はないだろう。その発表の場がそれなりに大規模なイベントとなるが故に公的な注目度が高かった交響曲というジャンルに、ショスタコーヴィチがこだわり続けた理由は定かではないが、いずれにせよ、そこで「何を」表現しようとするかについて彼が無自覚であったはずはない。第5番以降の交響曲に限っていえば、具体的な副題の有無に関わらず、叙事的な物語性が明白である。それでいて、その物語は多義的である。リチャード・タラスキン(1945~2022)が言うように、ショスタコーヴィチの器楽作品は「緊張とカタルシスに満ち、象徴や前兆的な意味合いを豊かに備えていたが、解釈のための明示的な鍵を渡すことはなかった。それは国民の秘密の日記となった。しかしこの音楽をそうさせた原因は、作曲家が込めたものだけでなく、聴衆がそこから引き出したものに帰するべき7)」なのだろう。


バッハの標題性

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  社会主義リアリズムの立場から、音楽が「何を」描くべきかという問題について、1951年に発表されたショスタコーヴィチ名義の文章がある。「音楽の標題性は、(中略)わが国芸術の思想的内容の問題、芸術とわが国の社会主義的現実とのかかわりかたの問題である8)」。面白いのは、標題(的な)音楽の例として、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の純器楽作品までも挙げている点である:「私にとって深く内容的、つまり標題的なのは以下の作品である。バッハのフーガ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲、ショパンの練習曲とマズルカ、グリンカの『カマリンスカヤ』、チャイコフスキー、ボロディン、グラズノフの交響曲、ミャスコフスキーのいくつかの交響曲など、ほかにも沢山ある。例えば、バッハの『平均律』第1巻嬰ハ短調のプレリュードとフーガの音楽にはっきりと感じられるのは、人間の悲しみを描いた、深く、ざわつかせる表現である。反対に、同巻嬰ハ長調のプレリュードとフーガには、個人的ではあるが、純真、素朴で楽しかった子供時代のイメージが浮かぶ8)」。
  この背景には、バッハの純器楽曲に象徴的意味内容を読み込んだ音楽学者ボレスラフ・レオポルドヴィチ・ヤヴォルスキー(1877~1942)の影響が指摘されている9)。ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス(1888~1964)は、ヤヴォルスキーを「最も奥深くて、徹底してバッハに通暁していた研究家達10)」の一人として挙げている。ヤヴォルスキーとショスタコーヴィチは1925年にモスクワで知り合って以来親交を結び、交響曲第1番の初演などに際してヤヴォルスキーが支援を惜しまなかったような仲でもあった。

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  スヴャトスラフ・テオフィーロヴィチ・リヒテル(1915~97)は次のように回想している:「古い伝統の源泉がロマン主義的なものだったせいで、ソ連ではバッハを弾くピアニストがほとんどいませんでした。《平均律クラヴィア曲集》はコンサートの演目にはけっして入りませんでした。オルガン曲をリストやブゾーニが編曲したものだけが市民権をもち、48の〈前奏曲〉と〈フーガ〉はただ音楽院の試験科目に適した曲とみなされていました。私以前に(のちにはマリア・ユージナがいますが)プログラムに入れたのは、サムイル・フェインベルクくらいしか思い当たりません。フェインベルクは(中略)バッハを我流に弾きました。バッハらしくなく、まるでスクリャービン晩年の作のように、おそろしく速く、正確に弾きました11)」。
  リヒテルの師でもあったネイガウスは、ピアノ演奏の技術的要素の「最も大切で、ピアノ音楽では最もすばらしいもの」としてポリフォニーを挙げ、「私たちは決められたとおり、ポリフォニーの勉強をバッハの《アンナ・マグダレーナ》、《2声のインヴェンション》から始め、3声に移り、その後に《平均律クラヴィーア曲集》、《フーガの技法》へと移り、おそらくショスタコーヴィッチの《プレリュードとフーガ》で終わるでしょう」と述べている12)。後述するようにロシア・ピアニズムには4つの大きな流派があり、ネイガウスで全てを代表することはできないが、この伝統的な学習用教材の選択については、どの流派でも大きな差異はなかったものと思われる。ショスタコーヴィチも、グリャスセルの下で学び始めて2年後の1917年に「平均律クラヴィーア曲集」全曲を弾いたと伝えられている。
  ソ連第一世代のピアニスト達が残した録音から、彼らがロシアの伝統的な音楽観に基づいてバッハの音楽にどのような標題性(ネイガウスに倣って「芸術的イメージ」と言い換えてもよいだろう)を見出していたのかについて思いを馳せるのも面白いだろう。


ピアニスト、ショスタコーヴィチ

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  ロシア・ピアニズムの系譜を辿ると、既に取り上げたネイガウスに加えて、アレクサンドル・ボリソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル(1875~1961)、コンスタンチン・ニコラーエヴィチ・イグームノフ(1873~1948)、レオニード・ヴラディーミロヴィチ・ニコラーエフ(1878~1942)の4人に行き着く。ここにサムイル・エヴゲーニエヴィチ・フェインベルク(1890~1962)を入れることも少なくないが、フェインベルクはゴリデンヴェイゼル門下である。ニコラーエフだけがレニングラード音楽院教授で、他は皆モスクワ音楽院教授であった。ネイガウス以外の3人は、対位法の大家であったセルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ(1856~1915)に作曲を師事している。
  ショスタコーヴィチは1919年にペトログラード音楽院のピアノ科に入学してアレクサンドラ・アレクサンドロヴナ・ローザノヴァ(1876~1942)のクラスで勉強を始めた。ローザノヴァはショスタコーヴィチの母ソフィア(1878~1955)の恩師でもあった。翌1920年からはニコラーエフのクラスに移った。後年、ショスタコーヴィチは当時のことを述懐している:「ピアノは、すぐれた教育家で立派な音楽家でもあったニコラーエフから教わった彼はタネーエフの教え子だったのに、作曲法についても教えてくれないのが残念だった。けれども自分の作品を見せさえすれば、いつもきわめて貴重な注意と助言をしてくれた13)」。ショスタコーヴィチは「ピアノ・ソナタ第2番」作品61(1943)を、その前年に亡くなったニコラーエフの思い出に捧げている。
  当時のニコラーエフのクラスには、ヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチ・ソフロニツキー(1901~61)とマリヤ・ヴェニアミノヴナ・ユーディナ(1899~1970)という2人の天才が在籍していた。彼らは共に1921年の卒業試験でリストのピアノ・ソナタを演奏したが、それはショスタコーヴィチに強い印象を残したという14)。彼らの影響もあったのだろうが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」、第23番「熱情」、第29番「ハンマークラヴィーア」、リストの「巡礼の年」より「ヴェネツィアとナポリ(第2年補遺)」、バッハ=リストの「オルガンのための前奏曲とフーガ」第1番イ短調といった辺りが、当時のショスタコーヴィチのレパートリーだったようだ。1923年の卒業試験では、バッハの「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」第14番嬰ヘ短調 BWV 859を弾いている他、その前年辺りには「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」第7番変ホ長調 BWV876のフーガをオーケストレイションしていることも併せると、ショスタコーヴィチ(あるいは師のニコラーエフ)のバッハに対する態度は、前述したリヒテルの言葉の通りだったように思われる

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  ショスタコーヴィチのピアノ演奏は、技術よりも個性的な解釈によって特徴づけられたようだ。「生来の感情抑制だけでなく、堂々とした弾き方、人を惹き付けるリズム感あふれる力強い演奏15)」、「名演奏家が示すような表情の豊かさや芸術的な直観を欠く代わりに、オーケストラ音楽のピアノ・スコアを演奏するときのように、演奏自体よりも音楽そのものを提示するようであった16)」などといった評言は、現在聴くことのできる彼の録音から受ける印象に通じる。
  1927年には、第1回ショパン・コンクールにソ連代表の1人として派遣されている。この選出にあたっては、ヤヴォルスキーの尽力があったらしい。結果は26人中7番目だったと伝えられており、入賞は逃したもののオノラブル・メンション・ディプロマ(選外佳作賞)を受けた。ここでも、「憂愁を湛えつつも堂々としており、サロン的気取りなどまったくなく、誠実そのもの、挑戦的ともいえるものだった」と評された17)
  リヒテルが、興味深い回想をしている:「彼(筆者注:ショスタコーヴィチ)の家で、手稿を見ながら第9交響曲も弾きました。彼との連弾は拷問でした。あるテンポで始めても、やがて加速したり減速したりしたからです。ペダルを踏むのは、低音部を弾く彼のほうでした。しかしペダルには何ら注意を払いませんでした。純然たる伴奏部分を含め、始終フォルティッシモで弾くので、主要動機を際立たせるためには、私のほうがいっそう強く弾く必要がありました18)」。
  リヒテルがショスタコーヴィチと連弾をした1940年代後半には、ショスタコーヴィチは職業ピアニストとしての活動も訓練もしていなかったと言ってよい。技術的な精度の問題もさることながら、まさに「演奏自体よりも音楽そのものを提示するよう」な弾きぶりだったことがリヒテルを当惑させたのだろう。彼の頭の中で鳴っている音の全てが聴こえるように弾いた結果が、「始終フォルティッシモ」だったに違いない。
  ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」作品87(1951)には、保続音が少なからず用いられている。これ自体は、たとえば「弦楽四重奏曲第4番」作品83(1949)の第1楽章などでも使われている手法で、特に珍しいわけではない。ただ、弦楽器やオルガンなどとは異なり、音が減衰するという性質を持つピアノという楽器にとって適した書法とは言い難い。たとえば、ショスタコーヴィチ自身の録音(1952年)が残されている第20番ハ短調の前奏曲について、自筆譜と出版譜、そして自作自演とを比較してみると、譜例のようなアーティキュレーションの揺れがある。これは、明らかに保続音を本来響いて欲しい強度で鳴らすための実際的な措置であろう(ちなみに、この曲集の全曲初演者であるタチアナ・ペトローヴナ・ニコラーエヴァ(1924~93)の録音(1962年)では、出版譜通りに弾かれている)。このような措置は、モイセイ・サムイロヴィチ・ヴァインベルク(1919~96)と2台ピアノで演奏した「交響曲第10番」作品93(1953)の録音(1954年)にも聴かれる。
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 「現代ピアノはディミヌエンドの楽器である」というセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873~1943)の定義をロシア・ピアニズムのポイント20)とするならば、ショスタコーヴィチはそのようなピアニズムの枠外でピアノ曲を作曲し、演奏したと言うことができるのかもしれない。


ショスタコーヴィチとフーガ

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  音楽院時代のショスタコーヴィチの有名なエピソードがある:「グラズノフは総じて演奏者の試験にはやさしく、しばしば5プラスをつけたが、作曲科の試験にはきびしく、気むずかしい、意地のわるいくらいのところがあった。(中略)忘れられないのは、フーガの試験のとき、ストレットのあるフーガをつくる出題のときのことだった。どう苦心してみてもうまくいかなかったので、とうとうストレットなしのフーガを出したが、点は5マイナスだった。ふつうそういうことは自分はしないのだが、それでも彼のところにいって話してみることにした。そしてわかったことは、わたしが清書のさい音符ひとつを書きちがったことだ。そのために全体が妙なぐあいになっていたのである。譜を書きちがえさえしなければ、グラズノフの問題から四度音程にも五度音程にも八度音程にも、じつにさまざまなストレットを書くことができ、また緩急、反進行などにもすることができるのだった。だがこの音符が正確に書かれていなければ、あらゆる可能性は失われてしまう。『この音符をまちがえたのなら、いいかね、その誤りに自分で気づいて、それを正さなければいけない』とグラズノフはいった21)」。
  音楽院の作曲科でショスタコーヴィチは、対位法とフーガをニコライ・アレクサンドロヴィチ・ソコロフ(1859~1922)に師事した。作曲科の指導教官であったマクシミリアン・オセーエヴィチ・シテインベルク(1883~1946)、そして音楽院の院長であったアレクサンドル・コンスタンティノヴィチ・グラズノフ(1865~1936)は、いずれもニコライ・アンドレーエヴィチ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908)が牽引したベリャーエフ・グループの一員であった。「力強い一団(ロシア五人組)」のリムスキー=コルサコフはグラズノフの前任の院長、シテインベルクはリムスキー=コルサコフの娘婿(彼の結婚を祝い、イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882~1971)は管弦楽曲「花火」(1909)を書いた)である。このような系譜を背景に、アカデミックな伝統に固執22)して作曲技術・技能の向上23)を目指したベリャーエフ・グループの理念の下で、ショスタコーヴィチは作曲法を習得していった。ちなみに、ベリャーエフ・グループの成果の一つである弦楽四重奏曲集「金曜日の曲集(Les Vendredis)」には、グラズノフの「前奏曲とフーガ」、ソコロフの「カノン」が収められている。

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  ショスタコーヴィチの作品目録を眺めると、「フーガ」と題された作品は作品87以外に音楽院時代の1923年頃の作とされる「7つのフーガ」と1934年の「4つのフーガ」しかない。音楽院時代のフーガは課題として書かれたもので特に興味を惹かれる点はないが、1934年のフーガには注目すべき点がいくつかある。
  まずは、作曲の動機である。当時の不倫相手であったエレーナ・エフセーエヴナ・コンスタンチノフスカヤ(1914~75)に送った1934年7月26日の手紙には、次のように記されている:「何も作曲できません。ほかに何も手につかないので、毎日、1曲ずつフーガを書いていくことにしました。すでに3つを書き上げました。とても悪い出来です。そんなわけで自分を不幸だと感じています。ともなく、何もしないで『休息』しているより、夢中になり、ぶっつづけに、息つくひまなく仕事をしていたほうがずっといい24)」。つまり、一種の手慰みで書き始めた、ということになる。
  次に、各曲の調性である。第1曲ハ長調-第2曲イ短調-第3曲ト長調-第4曲ホ短調という配列は、明らかにフレデリック・ショパン(1810~49)の「24の前奏曲」作品28(1839)、そしてショスタコーヴィチ自身の「24の前奏曲」作品34(1933)、そして作品87と同様のシステマティックなものである。
結局、第4曲は未完に終わり、続きが書かれることはなかった。しかしながら第2曲の主題は交響曲第4番に流用され(第3楽章練習番号191)、さらには作品87の第2曲フーガでも主題として使われている。未完の第4曲を除く3曲は、DSCH社の新全集第109巻(2018)にて出版された。
  「弦楽八重奏のための2つの小品」作品11(1925)では、第1曲の前奏曲に続く第2曲としてフーガが構想されていたものの「技巧に走った作品を作るのは私の領分ではありません」と言って、結局スケルツォとなった25)こともあったようだが、ショスタコーヴィチが必ずしもフーガの形式を忌避していたわけではない。「ピアノ五重奏曲」作品57(1940)の第2楽章をはじめとして、「交響曲第2番」作品14(1927)のウルトラ・ポリフォニー、「交響曲第4番」の第1楽章展開部、「交響曲第13番」作品113(1962)の第5楽章中間部、オラトリオ「森の歌」の第7楽章など、ショスタコーヴィチがフーガを駆使した例は枚挙に暇がない。


24の前奏曲とフーガ

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  その起源について筆者は寡聞にして知らないが、「前奏曲とフーガ」という組み合わせ自体はバッハ以前からあった。しかしながら、長調と短調の全てである24の調性で「前奏曲とフーガ」を書こうという企ては、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」が最初である。全ての調性を使った24曲の曲集は、その後カール・チェルニー(1791~1857)が「48の前奏曲とフーガ」作品856(1857)を作ってはいるものの、ネイガウスが「ポリフォニーをマスターするために、カール・チェルニーのフーガを弾くなんて、ほんとうに誰にも思いつかないでしょう12)」と揶揄しているように、それはとてもバッハに比肩し得る作品ではなかった。
  形式的に自由度の高い前奏曲だけならば、ショパンの作品28以降、アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・スクリャービン(1872~1915)の作品11(1888)や、ショスタコーヴィチの作品34、一つの曲集として構想・発表されたものではないがラフマニノフの作品群(「幻想的小品集」作品3第2曲(1892)、「10の前奏曲」作品23(1903)、「13の前奏曲」作品32(1910))などが全ての調性を網羅した曲集となっている(ドビュッシーの「前奏曲集」第1集(1910)および第2集(1913)も24曲ではあるが、全ての調性が割り振られているわけではない)。ちなみに、ショパン、スクリャービン、ショスタコーヴィチの曲集の配列は、全て同じである。
  フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)(6曲;作品35(1827))、マックス・レーガー(1873~1916)(6曲;作品99(1906))、タネーエフ(1曲;作品29(1910))、グラズノフ(5曲;作品62(1895)、作品101(1923))といった辺りがロマン派以降のよく知られた「(ピアノのための)前奏曲とフーガ」であるが、いずれも24曲には遠く及ばないし、そもそも24曲を目指していたとも思われない。
  「平均律クラヴィーア曲集」に続く体系的な作品としてよく知られているのは、パウル・ヒンデミット(1895~1963)の「ルードゥス・トナリス」(1942)である。この作品は、ヒンデミットの調性に関する理論に基づく12曲のフーガとその前後に置かれた前奏曲、間奏曲、後奏曲との計25曲で構成されている。
  近年、フセヴォロド・ペトローヴィチ・ザデラツキー(1891~1953)が1937~9年にシベリアの強制労働収容所の獄中で電報用紙や方眼紙に書き付けた「24の前奏曲とフーガ」が発掘された(2015年初演)。時系列で言えば、この作品の方がヒンデミットに先んじていたことになるが、最近までその存在すら知られていなかったのだから、当然、後世への影響という点での音楽史的な意味合いは持ち得ない26)。なお、この曲集の配列もショパン式である。


ショスタコーヴィチの作品87

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  1950年7月、ショスタコーヴィチはライプツィヒで開催されたバッハ没後200年祭にソ連代表団長として参加した。一連の祝賀行事の一環として開催された第1回ヨハン・ゼバスティアン・バッハ国際コンクール(第2回は1964年で、以後、概ね4年ごとに開催されている)では、ゴリデンヴェイゼル門下のニコラーエヴァが優勝した。
  この時にバッハの音楽から受けた強い印象が、ショスタコーヴィチを「前奏曲とフーガ」に向かわせたと考えられている。当初は1934年のフーガと同様、「自分の腕を落とさないよう」1日に前奏曲とフーガを1組作曲する27)計画だったようだ。1950年10月10日に第1番前奏曲を仕上げた後、およそ3日に1曲の割合で書き進め、1951年2月25日に第24番フーガを完成させた。音楽祭をきっかけに親交を結んだニコラーエヴァには、1曲仕上がる度に聴かせたと言われている。当初から24曲を目指していたとは言い難いものの、少なくとも、うまくいけば全24曲にしようという色気があったことは、ショパン式の調性配列を見れば明らかだ。
  全曲の完成から間もない3月31日、ショスタコーヴィチは前半の12曲を作曲家同盟で公開演奏した。ショスタコーヴィチの演奏は褒められたものではなかったらしいが、それ以上にジダーノフ批判下のソ連音楽界では、こうした純器楽的な多声音楽は理想主義的傾向あるいは形式主義的傾向にあるとして厳しく批判され、出版は見送られた
  一方で演奏家からの評価は高く、同年12月にはエミール・グリゴリエヴィチ・ギレリス(1916~85)が第1、5、24番の3曲をコンサートで取り上げた。時を同じくして12月6日にはショスタコーヴィチ自身も抜粋(第1、3、5、23番)を録音している。翌1952年2月には第2、4、6、7、8、12、13、14、16、20、22、24番を録音し、全体の3分の2の初録音を自身の手で果たした。ショスタコーヴィチが1958年にパリで録音した際に第18番が新たに追加されたものの、残る7曲(第9、10、11、15、17、19、21番)については、ショスタコーヴィチ自身による録音は残されていない。
  1952年夏に、ショスタコーヴィチには内緒でニコラーエヴァが芸術問題委員会において再演したことで、ようやく出版が許可された。これはニコラーエヴァの功績でもあるが、ショスタコーヴィチによる公開演奏から約1年半の間の音楽界における反応を見た上での追認という側面もあるだろう。そして第1番に着手してから2年の歳月が経った1952年12月23日と28日の2日間に渡って、ニコラーエヴァによる全曲初演が行われた。出版譜を手に入れたネイガウスはショスタコーヴィチに電話をかけ、第2集を期待していると伝えたらしいが、ショスタコーヴィチは笑いながら「絶対作らない」と答えた28)という。

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  ニコラーエヴァは全24曲を通して演奏されるべきだというのがショスタコーヴィチの考えだったと述べている28)ようだが、それはともかくとして、演奏家には全曲を弾いて欲しいという希望を持っていたことは確かなようだ。リヒテルはこうぼやいている:「彼は、私が24曲全曲を弾くことを希望していました。気を悪くする理由などないのです。私としては自分が好きなものを弾いていたのですから。気に入らないものを弾く必要などどこにありましょう。しかし彼はそれで気分を損ねました29)」。
  作品87には、前述した1934年のフーガからの引用(第2番フーガ)の他に、オラトリオ「森の歌」からの引用(第1番フーガ=第1楽章バスの歌い出し、第7番フーガ=第7楽章フーガ主題)があるものの、叙事的な意味が込められているとは考えづらい。ただ、ショスタコーヴィチがバッハに聴いたのと同種の標題性を感じ取ることは、そう難しくないだろう。その意味で作品87は、敢えて形式主義と批判されそうな形式で社会主義リアリズム的な内容を表現しようとした、ショスタコーヴィチの野心作と言うことができるかもしれない。
  ショスタコーヴィチ以降、旧ソ連の範囲に限ってもロディオン・コンスタンティノヴィチ・シチェドリン(1932~)の「24の前奏曲とフーガ」(第1巻(1964)、第2巻(1970))、ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・ポルトラツキー(1949~1985)の「12の前奏曲とフーガ」作品16・17(1967~71)、セルゲイ・ミハイロヴィチ・スロニムスキー(1932~2020)の「24の前奏曲とフーガ」(1994)、ニコライ・ギルシェヴィチ・カプースチン(1937~2020)の「24の前奏曲とフーガ」作品82(1997)など、「前奏曲とフーガ」は作られ続けている。ショスタコーヴィチが時代の制約の中で活用した伝統的な形式は、現代においても作曲家の創作意欲を刺激しているようだ。



引用文献
1) ファーイ,L. E.・藤岡啓介・佐々木千恵(訳):ショスタコーヴィチ ある生涯,アルファベータ,2002,p.29.
2) ファーイ,L. E.:前掲書,p.132.
3) ソルジェニーツィン,A.・染谷 茂・原 卓也(訳):仔牛が樫の木に角突いた ―ソルジェニーツイン自伝,新潮社,1976,p.232.
4) ハンスリック,E.・渡辺 護(訳):音楽美論,岩波文庫,青310,1960,p.185.
5) 古在由重・蔵原惟人(編):リアリズム研究,白楊社,1949,p.49.
6) マース,F.・森田 稔・梅津紀雄・中田朱美(訳):ロシア音楽史 《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで,春秋社,2006,pp.410~417.
7) マース,F.:前掲書,p.568.
8) グリゴーリエフ,L.・プラテーク,Ja.(編)・ラドガ出版所(訳):ショスタコーヴィチ自伝 時代と自身を語る,ナウカ,1983,p.189.
10) ネイガウス,H.・森松皓子(訳):ピアノ演奏芸術 ある教育者の手記,音楽之友社,2003,p.183.
11) モンサンジョン,B.・中地義和・鈴木圭介(訳):リヒテル,筑摩書房,2000,p.90.
12) ネイガウス,H.:前掲書,p.179.
13) グリゴーリエフ,L.・プラテーク,Ja.:前掲書,p.349.
14) 千葉 潤:ショスタコーヴィチ,音楽之友社,2005,p.20.
15) ファーイ,L. E.:前掲書,p.35.
16) 千葉 潤:前掲書,p.21.
17) 佐藤泰一:ショパン・コンクール1927-2000 若きピアニストたちのドラマ,春秋社,2022,pp.23~24.
18) モンサンジョン,B.:前掲書,p.186.
19) Moshevich, S.:Dmitri Shostakovich: Pianist, McGill-Queen's University Press, Canada, 2004.
20) 一柳富美子:ラフマニノフは、本当に「時代遅れのロマン派」か? ロシア音楽史の視点から,ユリイカ,40(6),2008,pp.145~151.
21) グリゴーリエフ,L.・プラテーク,Ja.:前掲書,pp.349~350.
22) 千葉 潤:前掲書,p.21.
23) 日本・ロシア音楽家協会(編):ロシア音楽事典,河合楽器製作所・出版部,2006,p.315.
24) ヘーントワ,S.・亀山郁夫(訳):驚くべきショスタコーヴィチ,筑摩書房,1997,p.131.
25) ファーイ,L. E.:前掲書,p.223.
26) 塩野直之:ザデラツキーと『24の前奏曲とフーガ』,Slavistika:東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報,33/34,2018,pp.51~60.
27) ファーイ,L. E.:前掲書,p.223.
28) ファーイ,L. E.:前掲書,p.226.
29) モンサンジョン,B.:前掲書,p.187.



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連続リサイタル《をろしや夢寤 Сны о России》

P.I.チャイコフスキー(1840-1893):
●ピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23冒頭(1875/1942) [P.グレインジャー編独奏版] 4分
●交響曲第4番ヘ短調Op.36 (1878) 45分
 I. Andante sostenuto - Moderato con anima - II. Andantino in modo di Canzona - III. Scherzo. Pizzicato ostinato. Allegro - IV. Finale. Allegro con fuoco
●《「ドゥムカ」 ハ短調 ~ロシアの農村風景 Op.59》(1886) 7分
●交響曲第5番ホ短調Op.64 (1888) 50分
 I. Andante/Allegro con anima - II. Andante cantabile con alcuna licenza - III. Valse. Allegro moderato (#) - IV. Finale. Andante maestoso/Allegro vivace
●バレエ音楽《胡桃割人形》より「花のワルツ」Op.71 (1892) [S.タネーエフ編独奏版] 7分
●交響曲第6番ロ短調『悲愴』Op.74 (1893) 45分
 I. Adagio/Allegro non troppo - II. Allegro con grazia - III. Allegro molto vivace (#) - IV. Adagio lamentoso
[ヘンリク・パフルスキ(1859-1921)編曲によるピアノ独奏版(1897/1901)]
[(#)... サムイル・フェインベルク(1890-1962)によるピアノ独奏版(1942)]


S.V.ラフマニノフ(1873-1943):
●前奏曲ヘ長調 Op.2 (1891) 3分
●24の前奏曲集 Opp.3-2 / 23 / 32 (1892-1910) 70分
  I. Largo /Agitato 嬰ハ短調 - II. Largo 嬰ヘ短調 - III. Maestoso 変ロ長調 - IV. Tempo di minuetto ニ短調 - V.Andante cantabile ニ長調 - VI. Alla marcia ト短調 - VII. Andante 変ホ長調 - VIII. Allegro ハ短調 - IX. Allegro vivace 変イ長調 - X. Presto 変ホ短調 - XI. Largo 変ト長調 - XII. Allegro vivace ハ長調 - XIII. Allegretto 変ロ短調 - XIV. Allegro vivace ホ長調 - XV. Allegro con brio ホ短調 - XVI. Moderato ト長調 - XVII. Allegro appassionato ヘ短調 - XVIII. Moderato ヘ長調 - XIX. Vivo イ短調 - XX. Allegro moderato イ長調 - XXi. Lento ロ短調 - XXII. Allegretto ロ長調 - XXIII. Allegro 嬰ト短調 - XXIV. Grave 変ニ長調
■山口雅敏(1976- ):《エピタフィア Эпитафия》(2022、委嘱初演) 7分
●9つの練習曲集《音の絵(第1輯) Op.33》(1911) 24分
  I. Allegro non troppo ヘ短調 - II. Allegro ハ長調 - III. Grave ハ短調 - IV. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(初版)〉 - V. Moderato ニ短調 - VI. Non Allegro / Presto 変ホ短調 - VII. Allegro con fuoco 変ホ長調〈市場の情景〉- VIII. Moderato ト短調 - IX. Grave 嬰ハ短調
●前奏曲ニ短調(遺作) (1917) 2分
●9つの練習曲集《音の絵(第2輯) Op.39》(1917) 38分
  I. Allegro agitato ハ短調 - II. Lento assai イ短調〈海とかもめ〉- III. Allegro molto 嬰へ短調 - IV. Allegro assai ロ短調 - V. Appassionato 変ホ短調 - VI. Allegro イ短調〈赤頭巾と狼(改訂版)〉- VII.Lento lugubre ハ短調〈葬送行進曲〉- VIII. Allegro moderato ニ短調 - IX. Allegro moderato, Tempo di marcia ニ長調〈東洋風行進曲〉
[使用エディション:ラフマニノフ新全集版(2017)]


S.S.プロコフィエフ(1891-1953):
●《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分
●ピアノ協奏曲第2番ト短調第1楽章 Op.16-1 (1913/23) [独奏版] 10分
●スキタイ組曲「アラとロリー」 Op.20 より〈邪神チュジボーグと魔界の瘧鬼の踊り〉(1915/2016) [米沢典剛による独奏版、初演]  3分
●ピアノソナタ第3番イ短調 Op.28「古い手帳から」(1907/1917) 8分
■ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82 「戦争ソナタ」(1940) 27分
 I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Tempo di valzer, lentissimo - IV. Vivace
■ピアノソナタ第7番変ロ長調 Op.83「スターリングラード」(1942) 18分
 I. Allegro inquieto - II. Andante caloroso - III. Precipitato
■ピアノソナタ第8番変ロ長調 Op.84「戦争ソナタ」(1944) 30分
 I. Andante dolce - II. Andante sognando - III. Vivace


松涛サロン(東京都渋谷区)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
●ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)

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《弦楽四重奏曲第1番ニ長調 Op.11 第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」》(1871/73) [K.クリントヴォルト編曲ピアノ独奏版]、交響曲第2番《ウクライナ》より第2楽章「行進曲」(1872/1942)[S.フェインベルク編独奏版]、歌曲集《6つのロマンス Op.16》より「ゆりかごの歌」「おお、あの歌を歌って」「それが何?」 (1873、作曲者自身によるピアノ独奏版)、《6つの小品 Op.19》より第4曲「夜想曲」(1873)、《「四季」(12の性格的描写) Op.37bis》(1876/全12曲)、《弦楽セレナーデ》より第3楽章「エレジー」 Op.48-3(1880/1902) [M.リッポルトによるピアノ独奏版]、《子供のための16の歌 Op.54》より「春」「私の庭」「子供の歌」 (1881-83/ 1942) [S.フェインベルクによる独奏版]、《即興曲(遺作)》(1892/1894) [タネーエフ補筆]

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<cf.>
●《ピアノで弾くバッハ Bach, ripieno di Pianoforte》(全8回) 第1回(平均律第1巻)第2回(平均律第2巻)第3回(6つのパルティータ)第4回(ゴルトベルク変奏曲、フランス序曲、イタリア協奏曲)第5回(イギリス組曲)第6回(フランス組曲)第7回(インヴェンションとシンフォニア、4つのデュエット他)第8回(音楽の捧げ物、フーガの技法) [2012.4.21~2015.01.17]
ピアノでバッハをどう弾くか(その1) [2008.10]、(その2) [2014.7.19]、 (その3)[2015.01.17]
クラヴィコード公演《平均律第1巻》プログラム・ノート [2005.02.01]
クラヴィコード公演《平均律第2巻》プログラム・ノート 「平均律と吉本漫才の比較論」 [2006.08.20]
バッハ:クラヴィア練習曲集全4巻連続演奏会 (その1その2) (チェンバロ+オルガン)[2009.09.11]
チェンバロ公演《イギリス組曲全曲》 [2010.03.03]
チェンバロ公演《フランス組曲全曲》 [2010.03.01]
●ペダル・クラヴィコード公演《トリオ・ソナタ集(全6曲) BWV525-530 +パッサカリアとフーガ BWV582》 その1 その2 [2016.10.23]

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# by ooi_piano | 2022-12-30 07:22 | Сны о России 2022 | Comments(0)
12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_18302543.jpg
《時は脱ぎけりその衣を ~ドビュッシー生誕160周年》
浦壁信二+大井浩明(2台ピアノ)
2022年12月15日(木)19:00開演(18:30開場)
東音ホール(JR山手線/地下鉄都営三田線「巣鴨駅」南口徒歩1分)
入場料: 3500円



クロード・ドビュッシー(1862-1918):

《交響的素描「海」》(1905/09) [アンドレ・カプレによる2台ピアノ版] 25分
  I. 海上の夜明けから真昼まで - II. 波の戯れ - III. 風と海との対話

《映像 第3集》 [アンドレ・カプレによる2台ピアノ版] 35分
I. ジーグ(19012/13)
II. イベリア(1908/10)
   通りから道から - 夜の香り - 祭りの日の朝
III. 春のロンド(1909/10)

 --(休憩10分)--

《舞踊詩「遊戯」》(1912/2005) [ジャン・エフラム・バヴゼによる2台ピアノ版/日本初演] 17分

《白と黒で》(1915) 15分
I. 夢中で - II. 昏く緩やかに - III. 燥いで


【アンコール】
〇ショスタコーヴィチ:映画音楽《忘れがたき1919年》より「クラスナヤ・ゴルカの攻略」Op.89a-5 (1951/2022) [米沢典剛による2台ピアノ版](初演)
〇ショスタコーヴィチ:交響曲第10番第2楽章 Op.93-2 (1953) [作曲者編連弾版]



12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_18320894.jpg
 [ ストラヴィンスキー(米沢典剛編):《結婚》、篠原眞《アンデュレーション B》(1997)、サンサーンス(作曲者編):《交響曲第3番「オルガン付き」》(1886/87)、高橋裕(米沢典剛編):《シンフォニック・カルマ》(1990/2020)、メシアン(米沢典剛編):《星の血の悦び》、武満徹《クロス・ハッチ》、フォーレ(作曲者編):《幻想曲 Op.111》(1918)、 M.-A.アムラン(金喜聖編):《サーカス・ギャロップ》(1994)、前山田健一(金喜聖編):《カカカタ☆カタオモイ-C》(2011/2019)、宮川泰(宮川彬良編):《宇宙戦艦ヤマト》(1974)他 ]




Avant-propos
par Pierre Boulez
 On a parfois tendance de nos jours à trouver que la substance musicale est inséparable de sa texture instrumentale et de l'authenticité de celle-ci par rapport au texte proprement dit. Certes, toute l'évolution de la musique témoigne que l'instrument est une part essentielle de l'idée et que plus on va, moins on peut dissocier celle-ci de celui-là. D'où l'on pourrait paraphraser ce que l'on dit de la traduction littéraire, à savoir que la transcription est une trahison. En même temps on peut constater qu'à toutes les époques et jusqu'à nos jours les compositeurs ne se sont pas privés de s'adonner à la transcription, quelquefois pour des raisons pratiques, mais souvent par simple plaisir de la transformation. Pourquoi les interprètes ne jouiraient-ils pas du même privilège, celui d'adapter pour leur instrument - dans ce cas, le piano - une œuvre qu'ils aiment mais que l'auteur a destiné à l'orchestre ! L'œuvre pourra en acquérir une réalité nouvelle sans perdre sa substance; elle sera en mesure d'augmenter sa capacité de toucher un plus large public grâce à de plus nombreux interprètes.
 C'est ce qu'on peut souhaiter de mieux à une œuvre des plus subtiles comme celle de Debussy.
Paris, le 21 octobre 2005

序文 (ジャン=エフラム・バヴゼ編曲《遊戯》に寄せて)
ピエール・ブーレーズ
  今日では、音楽的実体が、器楽のテクスチュアや、厳密な意味でそのテキストと関連する正統性と不可分にあると気付く傾向にあります。確かに、楽器が思想の本質的な一部分を占めており、音楽の進化が進むほど、楽器と思想が分かち難くなることは、音楽の進化のあらゆる過程で認められます。つまり、文学的翻訳の話を音楽の話に敷衍できるか、という議論です。というのも、編曲とは一種の裏切り行為だからです。それと同時に、今日まであらゆる時代を通して、作曲家は編曲作業に没頭する権利を奪われてはおらず、時には実用的な理由からですが、しばしばオリジナルを変形させることへの純粋な楽しみから編曲を行っていることが分かります。なぜ演奏家はこれまで同じような特権を享受しなかったのでしょうか、今回はピアノですが、演奏家が好んで演奏したがるが、作曲家自身は管弦楽のために書いた作品を自分の楽器用に編曲するという特権を。作品は本質を失うことなく、編曲によって新しい現実を手に入れることができるでしょう。すなわち、作品がより多くの演奏家によって、より多くの聴衆の耳に届く可能性が高まることになるのでしょう。
  これが、ドビュッシーの作品のように最も繊細な作品に対し、人々が願う最良の状態なのです。
パリ、2005年10月21日


 Dans une lettre à Jacques Durand datée du 13 septembre 1913, Debussy mentionne son intention de parachever une transcription pour deux pianos de Jeux. Cette partition reste malheureusement introuvable jusqu'à ce jour.
 C'est Klaus Lauer, directeur des Römerbad Musiktage en Allemagne, qui me donna l'idée d'effectuer ce travail et, lors de sa première exécution à Badenweiler, Zoltan Kocsis, transcripteur expérimenté, en fut un partenaire aussi dévoué qu'inspirant.
Connaissant son attachement particulier pour cette partition, je remercie également Pierre Boulez qui, après réception du manuscrit m'a confirmé l'intérêt que pouvait susciter cette œuvre sous cette forme « en blanc et noir » qui la rapproche étonnamment des autres opus écrits pour piano(s) à la même période.
 Puisse cette transcription donner à ceux qui la joueront et à ceux qui l'écouteront, autant de plaisir que j'ai eu à l'écrire.
Jean-Efflam Bavouzet
Paris, juillet 2005

  1913年9月13日のジャック・デュラン宛の手紙において、ドビュッシーは《遊戯》の2台ピアノ版の編曲を完成させるつもりだと綴っています。この楽譜は残念ながら現在まで見つかっていません。
  今回の編曲を行うアイデアを与えてくれたのは、ドイツでレーマーバート音楽祭のディレクターであったクラウス・ラウアーで、バーデンヴァイラーで初演した際、編曲の経験豊富なコチシュ・ゾルターンがインスピレーションを与えてくれ、共演者として献身的に支えてくれました。
  この編曲楽譜に特別な愛着を覚えてくれているピエール・ブーレーズにも感謝します。この原稿を受け取るや、「《遊戯》の編曲はドビュッシーの同時代のピアノ作品と驚くほど共通点があるので、《白と黒で》と同じピアノ2台の編成による版に興味をかき立てられた」と話してくれました。
  私が編曲した時と同じくらいの喜びを、この楽譜が演奏される際に奏者、聴衆が感じていただけますように。
ジャン=エフラム・バヴゼ
パリ、2005年7月


<Jeux - Poème>
 Le Rideau se lève sur le parc vide. Une balle de tennis tombe sur la scène. Un jeune homme, en costume de tennis, la raquette haute, traverse la scène en bondissant, puis il disparaît. –
 Du fond, à gauche, apparaissent deux jeunes filles craintives et curieuses. Pendant un moment, elles semblent ne chercher qu’un endroit favorable aux confidences. –
 Une des deux jeunes filles danse seule. L’autre jeune fille danse à son tour. Les jeunes filles s’arrêtent interloquées par un bruit de feuilles remuées. –
 On aperçoit le jeune homme au fond, à gauche, qui semble se cacher; il les suit dans leurs mouvements, à travers les branches; il s’arrête en face d’elles. Elles commencent par vouloir fuir, mais il les ramène doucement, et leur fait une nouvelle invitation. Il commence à danser. La première jeune fille court vers lui. –
 Ils dansent ensemble. Il lui demande un baiser. Elle s’échappe. Nouvelle demande. Elle s’échappe, et le rejoint, consentante. Dépit et légère jalousie de la seconde jeune fille. Les deux autres restent dans leur amoureuse extase. Danse ironique et moqueuse de la seconde jeune fille. –
 Le jeune homme a suivi cette dernière danse par curiosité d’abord, y prenant ensuite un intérêt particulier; il abandonne bientôt la première jeune fille, ne pouvant résister au désir de danser avec l’autre. ‘C’est ainsi que nous danserons.’ La seconde jeune fille répète la même figure, d’une manière moqueuse. ‘Ne vous moquez pas moi.’ Ils dansent ensemble. Leur danse se fait plus tendre. La jeune fille s’échappe et va se cacher derrière un bouquet d’arbres. Disparus un moment, ils reviennent presqu’aussitôt, le jeune homme poursuivant la jeune fille. Ils dansent de nouveau tous les deux. –
 Dans l’emportement de leur danse, ils n’ont pas remarqué l’attitude d’abord inquiète, puis chagrine, de la première jeune fille qui tenant son visage entre ses mains veut s’enfuir. Sa compagne essaie en vain de la retenir: elle ne veut rien entendre. La seconde jeune fille réussit à la prendre dans ses bras. –
 Pourtant, le jeune homme intervient en écartant leurs têtes doucement. Qu’elles regardent autour d’elles: la beauté de la nuit, la joie de la lumière, tout leur conseille de se laisser aller à leur fantaisie. –
 Ils dansent désormais tous les trois. Le jeune homme, dans un geste passionné, a réuni leurs trois têtes, et un triple baiser les confond dans une extase. –
 Une balle de tennis tombe à leurs pieds; surpris et effrayés, ils se sauvent en bondissant, et disparaissent dans les profondeurs du parc nocturne.

  幕が上がると人気のない公園。テニスボールが舞台の上に落ちる。テニスウェアを来た若者がラケットを掲げ、飛び跳ねながら舞台を横切り、そして消えていく。
  舞台奥、左手に臆病だが好奇心の強い二人の娘が登場する。しばらくの間、彼女たちは内緒話をするのに都合の良い場所を探しているようにしか見えない。
  娘の片方が一人で踊る。もう一人が次に踊る。娘たちは木の葉が揺れる物音に驚いて立ち止まる。
  左手奥に若者が見える。彼は隠れているようだ。彼は枝をかき分け、彼女たちの動きを追っている。そして彼女たちの正面に来て立ち止まる。彼女たちは最初逃げようとする。しかし、彼は彼女たちを優しく連れ戻し、誘い出す。彼は踊り始める。最初の娘が彼に駆け寄る。
  彼らは一緒に踊る。彼は娘にキスしようとする。彼女は逃げる。彼はもう一度試みる。彼女は一旦逃げるものの、同意して一緒になる。もう一人の娘は残念に思って軽く嫉妬する。彼と最初の娘は恋の恍惚に浸る。もう一人の娘は皮肉るように、からかうように踊る。
  若者は最初物珍しさからもう一人の娘の踊りを真似し、次第に興味を持ち始める。やがて彼はもう一人の娘と踊りたいという欲求に負けて、最初の娘を見捨ててしまう。「こういう風に踊りましょう」と今度の娘はからかうようなダンスを引き続き繰り返す。娘はワルツに誘われ「からかわないで」と言いつつも二人は一緒に踊る。このカップルのダンスもやがて優美になる。しかし、新たなパートナーは途中で逃げ出し、木々の茂みの後ろに隠れようとする。一瞬いなくなるが、若者が彼女を追いかけるので、すぐに戻ってくる。再び彼らは一緒に踊る。
  二人は無我夢中で踊るあまり、捨てられた娘の様子が、心配から悲嘆へと変わっていることに気が付かず、彼女は顔を手で隠して逃げていこうとする。もう一人の娘は引き留めようとするが失敗する。逃げる娘は何も聞こうとはしない。しかし何とか彼女を抱きしめることができた。
  そんな中、若者は彼女たちの頭を優しく引き離すようにして間に割って入る。彼女たち自身の周りに見えるもの、それは夜の美しさ、光の喜び、これら全てが彼女たちに自分自身の幻想に身をゆだねるよう誘う。
  今度は三人で踊る。若者は情熱的な身振りで三人の顔を引き寄せ、三人がキスをすることで彼らは法悦のるつぼと化す。
  テニスボールが彼らの足元に落ち、びっくりして怖くなり、飛び跳ねながら逃げ出し、夜の公園の奥深くへと消えていく。


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《白と黒で》

【第1曲】
Qui reste à sa place
Et ne danse pas
De quelque disgrâce
Fait l’aveu tout bas

ご自分の席から離れず
踊らないような方は
ご自身が不器量だと
こっそり認めているようなものですよ。
(シャルル・グノーの歌劇《ロメオとジュリエット》第一幕より、
キャプレット卿、台本:ジュール・バルビエとミシェル・カレ)

【第2曲】
Prince, porté soit des serfs Eolus
En la forest où domine Glaucus
Ou privé soit de paix et d’esperance
Car digne n’est de posséder vertus
Qui mal vouldroit au royaulme de France

王子様お聴きください、フランス王国に対し邪な心を抱く者は、
風神アイオロスのしもべである風に連れ去られ、
平穏な生活や希望も取り上げられ、
グラウコスが治める森から出られないようになればいいのです。
何故なら、そのような輩は徳を有するに値しないからです。
(フランソワ・ヴィヨン、[フランスの敵に対するバラード])

【第3曲】
Yver, vous n’estes qu’un villain

冬よ、お前は嫌な奴でしかない。
(シャルル・ドルレアン)


(訳:中西充弥





《ペレアスとメリザンド》以降のドビュッシー:管弦楽曲を中心に――野々村 禎彦

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10131840.jpg
 クロード・ドビュッシー(1862-1918) の音楽は、オペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) までとそれ以降で大きく変わった。このオペラが音楽史上で大きな位置を占めていることは言うまでもないが、この作品に至るまでに彼は歌曲と管弦楽曲において自己を確立しており、この作品は彼の創作史においてもひとつの集大成だった。本稿の主目的はこれ以降の彼の歩みを眺めることだが、比較のためにそこまでの歩みの振り返りから始める。

 パリ音楽院を修了しローマ賞を得た彼は、まず歌曲で頭角を現した。《忘れられたアリエッタ》(1885-87) や《ボードレールの5つの詩》(1887-89) を経て、ヴェルレーヌの詩による1880年代初頭の習作を改作しまとめ直した《艶やかなる宴第1集》(1891-92) は、「19世紀末の作曲家」ドビュッシーの完成形である。同時期の《ピアノと管弦楽のための幻想曲》(1889-90) やピアノ曲には依然残っている若書き臭は微塵もない。だが彼はそこに留まらず、《抒情的散文》(1892-93) で新たな一歩を踏み出した。そこでは歌はもはやオブリガートでピアノパートが主役。伴奏に留まるうちは縛られていた機能和声の制約からも自由になった。これは好きなように弄れる自作テキストだからできたことだが、一度縛りから解き放たれれば同じことは歌を大切にしても可能になった。《ビリティスの3つの歌》(1897-98) は完成度の高さに加え、「20世紀の作曲家」ドビュッシーが一足先に顔を見せている。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10132760.jpg
 他方、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) では音色が本質だった。管弦楽曲をまずピアノ曲(大編成の近代管弦楽では2台ピアノ曲)として発想し、そこに「彩色」する形で管弦楽化する作曲家は少なくないが、少なくともこの作品以降のドビュッシーはそうではない。同じ旋律を楽器を替えて何度も繰り返し、一周して元の楽器に戻ってきてもアンティーク・シンバルを添えれば別物になるという発想は音色が前提でなければ浮かばない。もちろん主題を吹く木管楽器を取り替えてゆくだけの曲ではなく、弦楽器群や倍音奏法を多用したハープの合いの手あってこそだが。このような音色操作をオーケストラの全楽器に拡張し、女声ヴォカリーズも加えた《夜想曲》(1897-99, 《黄昏の3つの情景》という紛失した初稿(1892-93) と、ヴァイオリンと管弦楽のための紛失した第2稿(1894-96) を経て完成) の音色世界に、《抒情的散文》に始まり《ビリティスの3つの歌》で完成した語るような歌唱を結びつけたのが《ペレアス》に他ならない。《ペレアス》の歌唱部分は1895年には既に書き上げられていたが、管弦楽化を始めたのは、彼の音楽を支持する作曲家=指揮者アンドレ・メサジュ(1853-1929) がオペラ・コミック座の首席指揮者になり、上演の見通しが立った1898年だった。

 ドビュッシーはピアノの名手でもあった。《牧神》の初演の成功は、初演を担当したスイスの指揮者=作曲家ギュスターヴ・ドレ(1866-1943) を自宅に招いて聴かせたピアノ演奏で、声部のバランスや各楽器の持つニュアンスを十分に伝えられたことが大きい。《ペレアス》がオペラ・コミック座で初演されることになった決め手も、メサジュを自宅に招いてピアノ弾き語りでオペラの概要を紹介したことだった。歌曲の初演でも、専ら彼自身がピアノを弾いた。それだけに、管弦楽曲のような音色のパレットが使えないピアノ曲というジャンルでは、時代の中心にして最前衛だったショパンの影の中でもがき続け、なかなか自己を見出せなかった。その中で、1894年からパリに居を移したスペインのピアニスト=作曲家イサーク・アルベニス(1860-1909) の音楽は啓示になった。アルハンブラ宮殿を描いた《ラ・ベガ》(1897) をアルベニス自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と感想を伝えたという。ただし彼は、その音楽の真髄をたちどころに聴き取ったわけではなく、《ピアノのために》(1894-1901) は《ペレアス》作曲中に書かれた歌曲や管弦楽曲と同列には扱えない。この曲の3ヶ月後に初演されたモーリス・ラヴェル(1875-1937) の《水の戯れ》(1901) の流動するフォルムはこの曲を過去のものにした。1901年内に書かれた《映像第1集》初稿も、第2曲〈ラモー讃〉以外は破棄されることになる。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10133669.jpg
 《ペレアス》初演後、ドビュッシーはアルベニス作品に向き合ってその本質を掴んだ。アルベニスはスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家フェリペ・ペドレル(1841-1922) に薫陶を受け、民俗音楽を通じてルネサンス時代のスペイン音楽の輝きを取り戻すという門人たちへの課題に、「民俗音楽に由来する不均質な素材を異なったレイヤーに置いて多層的に組み合わせる」という画期的な発想で応えた。ちなみに他の門人は、エンリケ・グラナドス(1867-1916) はロマン派の和声的対位法に民俗音楽素材を乗せるという師と同じ発想、マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946) はドビュッシーやストラヴィンスキーの対位法的な近代音楽に民俗音楽素材をトッピングするという発想、ロベルト・ジェラール(1896-1970) は左派政権メンバーに求められる社会主義リアリズムをカタルーニャ民族主義と新古典主義的対位法の組み合わせでクリアするという発想で、アルベニスの先進性は際立っている。セルアニメも現代美術も描画ソフトもない時代に「レイヤー」概念を発想したアルベニスも、それを見抜いたドビュッシーも凄い。

 アルベニスが用いた素材は調性的なものに限られ、機能和声には従っているので効果は限定的だが、その制約を外せば可能性は一挙に広がる。このレイヤー概念に基づいた拡張された対位法の感覚でさまざまな手持ちの素材を処理したピアノ曲集が《版画》(1903) である。フランス・バロック鍵盤音楽の書法でフランス民謡を扱うという発想は《忘れられた映像》(1894) 第3曲では上手くいかず、この曲集を死後まで封印する一因になったが、バロック音楽風素材と民謡を別レイヤーに置き、透し彫りのように組み合わせたのが〈雨の庭〉。この感覚を身に付ければ、ガムランの本質はエキゾティックな音階ではなく「その側に寄るとパレストリーナさえ幼く見えるような対位法」であることがわかり、〈パゴダ〉が生まれた。そして発想の源泉であるアルベニスへのリスペクトは、〈グラナダの夕暮れ〉で明示されている。《ペレアス》までのドビュッシーの創作の中心は管弦楽曲であり、それ以降の創作史も同様に記述されることが多いが、《版画》以降はピアノ曲が彼の創作の中心で管弦楽曲はそこでの成果の応用に過ぎないことは強調しておきたい。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10134529.jpg
 《水の戯れ》の新しさに打ちのめされて自信を失っていた創作の危機をアルベニス作品の助けを借りて乗り越えた彼は、《版画》の成果を応用した管弦楽曲として《海》(1903-05) を書き始めた。当時の彼は浮世絵を収集しており、葛飾北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の部分的模写を出版譜の表紙に選んだ。彼はそもそも音楽による直接的な情景描写を好まず、この浮世絵が曲想の源泉だとは言えないが、旋律素材にはオリエンタルなものが散見され、〈パゴダ〉はジャワに想を得たから今度は日本、という意識はあったのかもしれない。また《海》の作曲時期は、銀行家バルダック夫人エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした時期と重なる。彼女の英国趣味に合わせて英国の沿岸部を転々とし、《海》の主要部分はまさにこの時期に、海を実際に見ながら書かれた。リリーが拳銃自殺を図ったという一報が入ると慌ててパリに戻り、一命を取り留めたと知るとまた投宿先に帰るという人でなしぶりも遺憾なく発揮された。彼とエンマは冬の訪れとともに密かにパリに戻り、《海》は翌1905年3月に完成した。

 ジャン・バラケ(1828-73) やピエール・ブーレーズ(1925-2016) のような作曲家=分析者は、《海》を「形式」が素材から自律的に生成される音楽の出発点と捉えている。さまざまな旋律素材をいくつかのレイヤーに配分し、重ねたら一続きの持続になるように並べ替え続ける作業を伝統的な単層的視点から眺めればそのように見えるということである。しかも個々のレイヤーには《牧神》以来の手法で、最初から多様な彩色が施されている。全曲を通じて繰り返し登場する旋律素材を「循環主題」と捉えたとしても、このめくるめく音世界の秩序化は容易ではない。《夜想曲》を初演したラムルー管弦楽団の首席指揮者カミーユ・シュヴァイヤール(1859-1923) による1905年10月の初演は悲惨な失敗だった。コロンヌ管弦楽団の創設者エドゥアール・コロンヌ(1838-1910) も1908年1月に再演を試みたが音楽をまとめられなかった。しかし非凡なコロンヌは、公演を1週間延期して指揮を作曲者に任せる決断を下した。公の場での指揮経験はなくても、自作をピアノで再現できる作曲者ならば勘所の指示も出せるはずだと(ただし、翌月には《海》のロンドン初演を指揮することになっており、準備はできていた)。結果は大成功、そして伝説が生まれた。パリを代表するふたつのオーケストラの首席指揮者ですら手に負えなかった難曲も、ドビュッシー自身が指揮すれば魔法のように素晴らしい音楽になる!その後の彼は、《海》に限らず自作がオーケストラのプログラムに載るたびに、ヨーロッパ中を飛び回る指揮者になった。後年、《夜想曲》と《海》には指揮経験を踏まえた改訂が施されている。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10135485.jpg
 《海》を書き始めた彼はまた、塩漬けにしていた《映像》に立ち返ってデュラン社と出版契約を結んだ。《映像》は6曲2集、各々ピアノ独奏曲3曲と2台ピアノまたは管弦楽曲3曲からなるとされ、第1集と第2集のピアノ独奏曲3曲まではタイトルも内定した。結局、ピアノ独奏曲が現在の第1集(1901-05)・第2集(1907)、元々の第1集残り3曲が《管弦楽のための映像》(1905-12) となり、元々の第2集残り3曲は立ち消えた。《映像第1集》は「シューマンの左あるいはショパンの右に位置する」と自認する自信作だとされるが、これは公的な発言ではなくデュラン社に宛てた私信である。このような大型契約を結んでおきながら、その後完成したのは《海》などの「趣味の作品」ばかりだったので、シリーズ最初の作品を送る際には大きく出たという面もあるだろう。実際、《版画》と《映像第1集》のどちらがより新しいかは微妙なところがある。《映像第1集》最終稿の書法は複雑だが、美学的には多分に1901年の初稿に引きずられており、《版画》の方が斬新なレイヤー構造がストレートに出ている。両者を統合した《映像第2集》が完成形である。

 《管弦楽のための映像》は、英国民謡に基づく〈ジーグ〉(1909-12)・スペイン民謡に基づく〈イベリア〉(1905-08)・フランス民謡に基づく〈春のロンド〉(1905-09) の三幅対というコンセプトが出発点。最初に手を付けたのは素材が身近な〈春のロンド〉だったが、最初に書き上げたのは〈イベリア〉だった。〈イベリア〉の準備として、彼はペドレルが編纂したスペイン民俗歌曲集を入手し、1906年に出版されたアルベニス《イベリア》第1巻(1905) も購入し、夢中になった。レイヤー書法という発想を彼に与えたアルベニスはこのピアノ曲集で、同時代の彼と同じ段階までその発想を発展させていた。《海》は演奏家にも批評家にも聴衆にも理解されなかったが、彼は孤独ではなかったのだ。単にスペイン民謡を素材にするだけならば、アルベニスの達成に付け加えることはない。そこで彼は、スペインの民俗音楽の本質を抽出してオリジナルな旋律を作り、それを用いて昼から翌朝までの時間経過を描くという大掛かりな構想に至った。特に第2曲〈夜の芳香〉と第3曲〈祭の日の朝〉の移行部は、レイヤー書法を最大限に活かしたクライマックスだ。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10140442.jpg
 全3曲からなる〈イベリア〉で彼にとっての《管弦楽のための映像》は実質的に終わり、最後の第4巻(1907-08) まで購入したアルベニス《イベリア》に直結する《前奏曲集》(1909-10/11-13) の構想に彼の関心は向かった。あらためて、この時期の彼の創作の中心は管弦楽曲からピアノ曲に移っていた。残るは、出版契約でタイトルまで決まっている2曲を仕上げる「お仕事」である。どちらも明確な民謡旋律を「ドビュッシーらしい」管弦楽法で彩色するという、実は彼らしからぬ音楽。特に〈ジーグ〉では2台ピアノ譜の管弦楽化を友人のアンドレ・カプレ(1878-1925) に委ねた(楽器法まで任せていたのか、楽器指定通り浄書しただけなのかは諸説ある)。カプレはこの他、神秘劇《聖セバスチャンの殉教》の音楽(1911) 作曲助手やピアノ伴奏バレエ音楽《おもちゃ箱》(1913) の管弦楽化(1914/19) を務め、彼の音楽様式を熟知していた(《子供の領分》〈月の光〉〈パゴダ〉の管弦楽化も行っている)。これに限らず、《レントより遅く》ピアノ版(1910)・管弦楽版(1912)、バレエ音楽《カンマ》(1911-12, 管弦楽化はケックラン) など、この時期は「お仕事」曲が増えている。彼とエンマはともに浪費家で、新たに始めた指揮業のお座敷も減ってきて、生活のために背に腹は代えられなかったようだ。

 《遊戯》(1912) も当初はそんな「お仕事」のひとつだった。同年バレエ・リュスは《牧神》をバレエ化したが、クライマックスで牧神がニンフを妄想して自慰をするというニジンスキーの振付は大スキャンダルになった。彼らは懲りずに炎上商法を邁進し、3人の青年が愛し合う、ディアギレフのゲイ趣味丸出しのバレエを構想した。やがて登場人物を1人の青年と2人の少女に変更し(当時の性道徳ではこちらの設定の方が穏当)、テニスを介した恋のゲームに興じていると飛行機が墜落してくる、という筋書きでドビュッシーに音楽を委嘱した。さすがの彼も馬鹿馬鹿しすぎると断ったが、報酬を倍にし飛行機の墜落は取りやめるという条件で契約に至った(まず文句が付きそうな条件を入れておいて取り下げるという交渉術だったのかもしれない)。当時の彼は《前奏曲集第1巻》(1909-10) を書き上げてより実験的な第2巻(1911-13) に取り組んでおり、このバレエならば取り留めない筋書きに沿って音楽を付けてゆくだけで、抽象度が高く流れの方向の変化のみを純粋に結晶化した音楽が実現できると気付いて真剣に取り組んだ。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_10141349.jpg
 初演の評判は、大きな批判もないが話題にもならない、ある意味最悪のものだった。《海》の時のように批判という形でもリアクションがあれば、後で挽回も可能なのだが。彼にとって不運だったのは、この2週間後にイゴーリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) の《春の祭典》(1911-13) が初演されて《牧神》をはるかに上回るスキャンダルになり、《遊戯》は完全に忘れられてしまったことだ。ただし、ストラヴィンスキーに主役の座を奪われるのは、彼にとってはある意味本望だった。《ペレアス》の成功で盤石になったかに見えた「進歩派代表」の座は、エンマとの不倫が大衆紙の恰好のバッシング対象になって大半の友人とともに失い、徐々にラヴェルに移っていった。《ピアノのために》から《夜のガスパール》(1908) まで、ピアノ曲でラヴェルと競い合ったのはお互いにプラスになったが、ラヴェルがヴァンサン・ダンディ(1851-1931) ら保守派に牛耳られた国民音楽協会に反旗を翻して独立音楽協会を設立し、政治的にも「進歩派代表」になった頃から二人は決定的に離れた。代わって親密になったのがストラヴィンスキーで、《火の鳥》(1909-10) 初演の晩にドビュッシーから楽屋を訪れ、新作の進捗や作曲の秘密まで共有する間柄になった。《春の祭典》も初演に先立ってふたりで連弾して試演しており、この日が来るのは予期していた。むしろ彼は《春の祭典》を、《海》や《管弦楽のための映像》を発展させた音楽だと冷静に受け止めていた。

 《前奏曲集第2巻》と未来志向の歌曲集《マラルメの3つの詩》(1913) を書き上げた時に、《映像第2集》でピアノ書法を完成させて以来、休みなく作曲してきたモードは終わった。創作の中心であるピアノ曲では行くところまで行ったということだろう。作曲の片隅で気にかけてきた次のオペラの構想も、喜劇《鐘楼の悪魔》(1902-11, スケッチのみ) から悲劇《アッシャー家の崩壊》(1908-17, 未完) に移った。どちらもエドガー・アラン・ポーの原作で、フランスではボードレールが翻訳し象徴主義の先駆者として親しまれていることに加え、《ペレアス》では原作者メーテルランクの介入と妨害に悩まされたことから、原作者が既に死んでいることも大きかったのだろう。このモードに入って慢性化した痔が悪化して直腸癌に移行したことによる、体調の悪化と死への恐怖がすべての原因という見方もある。翌年の大きな作品は、未出版だった朗読とアンサンブルのための《ビリティスの歌》(1900-01) の12曲中6曲を2台ピアノに拡大編曲した《6つの古代墓碑銘》(1914) のみ。完成直後に第一次世界大戦が始まり、その後1年弱は全く作曲ができなかった。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_09382613.jpg
 第一次世界大戦が塹壕戦に移行して戦線が膠着し、当面パリが戦火に晒される恐れはなくなったことで、出版社には新たな商機が訪れた。大編成作品の上演は物資不足で難しくなった反面、敵国の出版社の楽譜が流通しなくなって楽譜の需要はむしろ上がった。そこでデュラン社は伝統的なレパートリーの新校訂版を企画し、オペラや管弦楽曲の委嘱がなくなった契約作曲家たちに校訂を依頼した(生活費を貸すよりも仕事を作った方がよい)。ドビュッシーにはショパン作品の校訂を依頼し、彼はそれに取り組むうちに作曲への意欲を取り戻してゆく。1915年6月にノルマンディー地方の避暑地プールヴィルに移ると創作力は爆発し、夏の数ヶ月に一挙に4作を書き上げた。

 その最初が2台ピアノのための《白と黒で》(1915) である。3曲は各々クーセヴィツキー、ジャック・シャルロー中尉、ストラヴィンスキーに捧げられており、いずれも第一次世界大戦と関係がある。クーセヴィツキーとストラヴィンスキーは同盟国ロシアの音楽家の友人(ロシア時代のクーセヴィツキーにはモスクワ演奏旅行で世話になった)、シャルロー中尉はディラン社主ジャック・ディランの戦死した甥である。彼は無調は独墺系音楽に固有の傾向だと考え、戦時下の「フランスの音楽家」としてバロック時代の軽やかな調性に立ち戻ろうとした。普仏戦争以来の独墺系音楽の優位への、第一次世界大戦を背景にしたラテン諸国の反発として大戦後の一大潮流になった新古典主義は、この作品が先駆だった。レイヤー書法を自在に扱えるようになり、調性の曖昧さに頼る必要がなくなったということでもある。ストラヴィンスキーは《3つの日本の抒情詩》(1912-13) でシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》(1912) に接近しており、第3曲の献呈には「自分の音楽の後継者に進むべき道を示す」という意図も込めていたのかもしれない。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_09383729.jpg
 彼は次に「さまざまな楽器のための6つのソナタ」の企画書をディラン社に送る。実際に書かれたのは最初3曲(チェロとピアノ、フルート・ヴィオラ・ハープ、ヴァイオリンとピアノ)だが、残り3曲の編成はオーボエ・ホルン・チェンバロ、トランペット・クラリネット・ファゴット・ピアノ、それまでに用いた全楽器とコントラバスである。《チェロとピアノのためのソナタ》(1915) は彼が偏愛したミュージック・ホールの音楽の総括(彼が耳にしたのはミンストレル・ショーや操り人形の音楽程度のはずだが、第2楽章は遠い未来のビバップのベースソロを思わせる音楽なのが、彼の想像力の凄いところ)、《フルート・ヴィオラ・ハープのためのソナタ》(1915) は《牧神》の最小編成による管弦楽法の総括(管弦の掛け合いプラス倍音奏法を多用したハープという「特殊楽器」が彼の管弦楽法には必要だということ)で、この時期のもうひとつの作品《練習曲集》(1915) はピアノ曲の総括だったことを考え合わせると、《オーボエ・ホルン・チェンバロのためのソナタ》は彼のもうひとつの偏愛対象である古代ギリシャ風のアルカイックな音楽の総括、《トランペット・クラリネット・ファゴット・ピアノのためのソナタ》は管楽器の音色対比の総括、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》の本来の意図は歌曲の総括で、迫り来る死を意識して「ドビュッシーのすべて」を《練習曲集》と併せて書き遺そうとしたのがこの企画の意図だったのではないか。

 だが、この4作を書き終えてパリに戻ると直腸癌は急速に進行し、年末に行われた手術はもはや手遅れであることを確認するだけのものだった。翌年は妻子の病気のために避暑に出かけることも叶わず、パリの自宅でうずくまっていた。音楽業界と無関係な数少ない友人で、無名時代から生涯にわたる友情を育んだロベール・ゴデ(1866-1950, 音楽を学んで作曲も嗜み、ドビュッシーにムソルグスキー作品を紹介したが、本業はジャーナリスト) には、現在の我が家はアッシャー家のようだと愚痴っている。《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》(1916-17) はそのような日々の中で冬から春にかけて書き進められ、初演では自らピアノを弾いた。飛翔するヴァイオリンをピアノが支え続ける、絶望的な日々から喜びの歌を絞り出した音楽はもはや「歌曲の総括」では全くない。アンヴィヴァレントな感情が吐露された、本来の意味で「ロマン主義的」な音楽には、シゲティ&バルトークからファウスト&メルニコフまで、その機微を汲んだ名演も少なくないが、生存証明のために書いた本来の音楽性とはかけ離れた作品に、彼自身は厳しい評価を下していた。

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_09384444.jpg
 最後にこれらの作品の2台ピアノ版について。《海》と《管弦楽のための映像》を編曲したカプレは、先述の通りドビュッシー作品の管弦楽化に関わってその音楽様式を熟知しており、ドビュッシーもこれらの編曲を聴いて賞賛していた。ただしレイヤー構造の秘密までは共有しておらず、それが編曲で浮き彫りになっているわけではない。《海》と〈イベリア〉は旋律素材を可能な限り拾って彩色を施した以上のものではないが、〈ジーグ〉〈春のロンド〉は最初から2台ピアノのために書かれたかのようで、両曲の成立過程を物語る。〈ジーグ〉はカプレによる2台ピアノ譜の管弦楽化の逆算、〈春のロンド〉も同様の2台ピアノ譜の管弦楽化で、違いは作曲者自身が行ったということだろう。《遊戯》を編曲したジャン=エフラム・バヴゼ(1962-) はフランスのピアニストで、ドビュッシーのピアノ曲全集を録音している。ただしこの全集は編曲作品まで網羅しており、そこにはドビュッシー自身による《遊戯》の編曲も含まれている。ソロ編曲で4管編成を拾いきれるはずはなく、主な旋律素材に最小限の彩色を施しただけの開き直った清々しいものだが、バヴゼはそれと原曲の差分を丁寧に取り、演奏経験を生かして2台ピアノに効果的に振り分けている。一度は忘れられた《遊戯》は前衛の時代に、総音列技法の推進者たちが夢見た「形式の自由」を体現する音楽として再評価された。その先頭に立った作曲家=指揮者ブーレーズの推薦は重みがある。



――――――――――――――――――――
【浦壁信二+大井浩明 ドゥオ】

D.ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調作品43 (1935/36) (作曲者による2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約60分]
A.スクリャービン:交響曲第4番作品54《法悦の詩》 (1908) (レフ・コニュスによる2台ピアノ版)[単一楽章、約20分]
(アンコール)B.バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》より第4楽章「遮られた間奏曲」(1943、ヴェデルニコフ編)、三宅榛名:《奈ポレオン応援歌》(1979)

A.オネゲル:交響曲第3番《典礼風》(1945/46)(ショスタコーヴィチによる2台ピアノ版、日本初演)[全3楽章、約30分]
  I. 怒りの日(Dies irae) - II. 深き淵より(De profundis clamavi) - III. 我らに平和を(Dona nobis pacem)
O.メシアン:《アーメンの幻影》(1943)[全7楽章、約50分]
  I. 創造のアーメン - II. 星たちと環のある惑星のアーメン - III. イエスの苦しみのアーメン - IV. 願望のアーメン - V. 天使たち、聖人たち、鳥たちの歌のアーメン - VI. 審判のアーメン - VII. 成就のアーメン
(アンコール)A.オネゲル:《パシフィック231》(1923)(N.キングマン(1976- )による二台ピアノ版(2013)、世界初演)、P.ブーレーズ:構造Ia (1951)

G.マーラー:交響曲第2番ハ短調《復活》(1888/94) [全5楽章] (約80分) H.ベーン(1859-1927)による二台ピアノ版(1895) (日本初演)
  I. Maestoso - II.Andante con moto - III. In ruhig fließender Bewegung - IV.Urlicht - V. Im Tempo des Scherzos. Wild herausfahrend
B.A.ツィマーマン:《モノローグ》(1960/64) [全5楽章]  (約20分)
  I.Quasi irreale - II. - III. - IV. - V.
(アンコール)G.マーラー:交響曲第3番第5楽章「天使たちが私に語ること」(J.V.v.ヴェスによる四手連弾版)

I.ストラヴィンスキー:《4つのエテュード》(1917)
  I. 踊り - II. 変わり者 - III. 雅歌 - IV. マドリード
I.ストラヴィンスキー:舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
I.ストラヴィンスキー:舞踊音楽《浄められた春(春の祭典)》(1913)
  〈大地讃仰〉 序奏 - 春の兆しと乙女たちの踊り - 誘拐 - 春の輪舞 - 敵の部族の戯れ - 賢者の行進 - 大地への口吻 - 大地の踊り
  〈生贄〉 序奏 - 乙女たちの神秘の集い - 選ばれし生贄への賛美 - 曩祖の召還 - 曩祖の祭祀 - 生贄の踊り
(アンコール)I.ストラヴィンスキー:《魔王カスチェイの兇悪な踊り》、S.プロコフィエフ:《邪神チュジボーグと魔界の悪鬼の踊り》 (米沢典剛による2台ピアノ版)

B.バルトーク=米沢典剛:組曲《中国の不思議な役人 Op.19 Sz.73》(1918-24/2016、世界初演)
  導入部 - 第一の誘惑と老紳士 - 第二の誘惑と学生 - 第三の誘惑と役人 - 少女の踊り - 役人が少女を追い回す
B.バルトーク=米沢典剛:《弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽 Sz.106》(1936/2016、世界初演)
  I.Andante tranquillo - II.Allegro - III.Adagio - IV.Allegro molto
B.バルトーク=米沢典剛:《管弦楽のための協奏曲 Sz.116》(1943/2016、世界初演)
  I.序章 - II.対の提示 - III.悲歌 - IV.遮られた間奏曲 - V.終曲
(アンコール) 星野源:《恋 (Szégyen a futás, de hasznos.)》(2016) (米沢典剛による2台ピアノ版)

12/15(木) ドビュッシー《遊戯》《海》《管弦楽のための「映像」第3集》(2台ピアノ版)他 [2022/12/12 update]_c0050810_20371155.jpg
ストラヴィンスキー(1882-1971):舞踊カンタータ《結婚(儀礼)》(1917/2017、米沢典剛による2台ピアノ版)
  花嫁の家で(おさげ髪) - 花婿の家で - 花嫁の出発 - 婚礼の祝宴(美しい食卓)
西風満紀子(1968- ):《melodia-piano I/II/III 》(2014/15、世界初演)
一柳慧(1933- ): 《二つの存在》(1980)
西村朗(1953- ): 《波うつ鏡》(1985)
篠原眞(1931- ): 《アンデュレーションB [波状]》(1997)
湯浅譲二(1929- ): 《2台のピアノのためのプロジェクション》(2004)
南聡(1955- ): 《異議申し立て――反復と位相に関する2台のピアノのための協奏曲:石井眞木の思い出に Op.57》(2003/10、本州初演)
(アンコール) 武満徹(1930-1996):《クロスハッチ》(1982)

ピアノと木管楽器のための協奏曲(1923/24)( 二台ピアノ版)
  I. Largo / Allegro - II. Largo - III. Allegro
ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ(1926/29)( 二台ピアノ版)
  I.Presto - II. Andante rapsodico - III. Allegro capriccioso ma tempo giusto
《詩篇交響曲》(1930)(ショスタコーヴィチによる四手ピアノ版、日本初演)
  I. 前奏曲:嗚呼ヱホバよ願はくは我が禱りを聽き給ヘ(詩篇38篇) - II. 二重フーガ:我耐へ忍びてヱホバを俟望みたり(詩篇39篇) - III. 交響的アレグロ: ヱホバを褒め讚へよ(詩篇150篇)
二台ピアノのための協奏曲(1935)
  I. Con moto - II. Notturno (Allegretto) - III. Quattro variazioni - IV. Preludio e Fuga
ダンバートン・オークス協奏曲(1938)(二台ピアノ版)
  I.Tempo giusto - II. Allegretto - III. Con moto
二台ピアノのためのソナタ(1943)
  I.Moderato - II. Thème avec variations - III. Allegretto
ロシア風スケルツォ(1944)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958/59)(二台ピアノ版)
  I. - II. - III. - IV. - V.

G.ガーシュイン(1898-1937)/P.グレインジャー(1882-1961):歌劇《ポギーとベス》による幻想曲 (1934/1951)  18分
  I. 序曲 Overture - II. あの人は行って行ってしまった My Man's Gone Now - III. そんなことどうでもいいじゃない It Ain't Necessarily So - IV. クララ、君も元気出せよ Clara, Don't You Be Down-Hearted - V. なまず横丁のいちご売り Oh, Dey's So Fresh And Fine - VI. サマータイム Summertime - VII. どうにもとまらない Oh, I Can't Sit Down - VIII. お前が俺には最後の女だベス Bess, You Is My Woman Now - IX. ないないづくし Oh, I Got Plenty O' Nuttin - X. お天道様、そいつが俺のやり方 Oh Lawd, I'm On My Way
L.バーンスタイン(1918-1990)/J.マスト(1954- ): ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」より 《シンフォニック・ダンス》 (1960/1998)  25分
  I. プロローグ - II. サムウェア - III. スケルツオ - IV. マンボ - V. チャ・チャ - VI. クール(リフとジェッツ) - VII.決闘 - VIII. フィナーレ
H.バートウィッスル(1934- ):《キーボード・エンジン――二台ピアノのための構築》(2017/18、日本初演)  25分
J.アダムズ(1947- ):《ハレルヤ・ジャンクション》(1996)  16分
N.カプースチン(1937- ):《ディジー・ガレスピー「マンテカ」によるパラフレーズ》(2006)  4分
(アンコール)メシアン:《星の血の喜び》(1948)(米沢典剛による2台ピアノ版)

G.フォーレ:《幻想曲 ト長調 Op.111》(1919、アルフレッド・コルトーに献呈)  15分  
  I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Allegro moderato
K.シマノフスキ:《交響曲第4番 Op.60 「協奏的交響曲」》 (1932、アルトゥール・ルービンシュタインに献呈) [グジェゴシュ・フィテルベルクによる2台ピアノ版] 25分
  I. Moderato - tempo commodo - II. Andante molto sostenuto - III. Allegro non troppo, ma agitato ed ansioso
スクリャービン:《ピアノ協奏曲 嬰へ短調 Op.20》 (1897) 全3楽章  27分
  I. Allegro Moderato - II. Andante - III. Allegro
スクリャービン:《交響曲第5番 Op.60 「プロメテウス(火の詩)」》(1910) [レオニード・サバネーエフによる2台ピアノ版] 23分

R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはこのように語った!》 作品30 (1896、オットー・ジンガーによる二台ピアノ版、日本初演)
  導入部(ツァラトゥストラの序説) - 背後世界論者について - 大いなる憧れについて - 歓楽と情欲について - 墓の歌 - 学問について - 病の癒えゆく者 - 舞踏の歌 - 夢遊病者の歌
R.シュトラウス:《アンチクリスト ~ アルプス交響曲》 作品64 (1915/2019、米沢典剛による二台ピアノ版、世界初演)
  夜 - 日の出 - 登り道 - 森に入る - 小川沿いに歩く - 滝 - 幻影 - 花咲く草原で - アルムの牧場で - 道に迷い茂みと藪を抜ける - 氷河で - 危険な瞬間 - 頂上で - 幻視 - 霧が立ちのぼる - しだいに日がかげる - 哀歌 - 嵐の前の静けさ - 雷雨と嵐、下山 - 日没 - 終了 - 夜
(アンコール)リゲティ:ピアノ協奏曲(1988、全5楽章)、冬木透:《ウルトラセブンのテーマ》

W.A.モーツァルト(1756-1791):2台のピアノのためのソナタ ニ長調K.448 (1781)
  I. Allegro con spirito - II. Andante - III. Molto Allegro
A. ジョリヴェ(1905-1974):「パチンコ」 (1970)
西村 朗(1953-):「波うつ鏡」(1985)
K.シュトックハウゼン(1928-2007):2台のピアノと電子音響のための「マントラ」(1970、関西初演)
(アンコール)武満徹:《Corona for pianists》(1962) + K.シュトックハウゼン:《JAPAN》(1970)〔同時演奏〕

C.フランク(1822-1890):《交響的変奏曲 嬰ヘ短調》(1885、作曲者による2台ピアノ版)  16分
  Poco allegro - Allegro - Allegretto quasi andante - Molto piu lento - Allegro non troppo - Un pochettino ritenuto - Tempo primo
V.ダンディ(1851-1931):《フランスの山人の歌による交響曲 Op.25》(1886/2021、米沢典剛による2台ピアノ版/世界初演)  24分
  I. Assez lent / Modérément animé - II. Assez modéré, mais sans lenteur - III. Animé
高橋裕(1953- ):《シンフォニック・カルマ》(1990/2020、米沢典剛による2台ピアノ版/世界初演) 24分
C.サン=サーンス(1835-1921):《交響曲第3番 ハ短調 Op.78 「オルガン付」 ~F.リストの追憶に》(1886、作曲者による2台ピアノ版)[米沢典剛校訂]  34分
  I. Adagio / Allegro moderato / Poco adagio - II. Allegro moderato / Presto / Maestoso / Allegro
(アンコール)G.フォーレ(1845-1924)/A.メサジェ(1853-1929):《バイロイトの思い出 ~ワーグナー「ニーベルングの指環」4部作のお気に入りの主題によるカドリーユ形式の幻想曲》(1880)

マックス・レーガー(1873-1916):《L.v.ベートーヴェン「11のバガテルOp.119」終曲の主題による12の変奏曲とフーガ 変ロ長調 Op. 86》 (1904) 22分
  Theme. Andante - I. Un poco più lento - II. Agitato - III. Andantino grazioso - IV. Andante sostenuto - V. Appassionato - VI. Andante sostenuto - VII. Vivace - VIII. Sostenuto - IX. Vivace - X. Poco vivace - XI. Andante con grazia - XII. Allegro pomposo - Fuga: Allegro con spirito
レーガー:《W.A.モーツァルトのピアノソナタ第11番「トルコ行進曲付き」K.331 の主題による8つの変奏曲とフーガ イ長調 Op.132a》 (1914) 24分
  Theme: Andante grazioso - I. L'istesso tempo (quasi un poco più lento) - II. Poco agitato (Più mosso) - III. Con moto - IV. Vivace - V. Quasi presto - VI. Sostenuto (quasi Adagietto) - VII. Andante grazioso - VIII. Moderato - Fuge: Allegretto grazioso
レーガー:《序奏、パッサカリアとフーガ ロ短調 Op.96》(1906) 18分
レーガー:《ピアノ協奏曲 ヘ短調 Op.114》 (1910、作曲者編2台ピアノ版)[全3楽章] 40分
  I. Allegro moderato - II. Largo con gran espressione - III. Allegretto con spirito
(アンコール)M.-A.アムラン(金喜聖編):《サーカス・ギャロップ》(1994)、前山田健一(金喜聖編):《カカカタ☆カタオモイ-C》(2011/2019)






# by ooi_piano | 2022-12-12 08:03 | POC2022 | Comments(0)

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【ポック(POC)#48】 2022年12月2日(金)19時開演(18時半開場)〈ドビュッシー・その1〉

12/2(金)〈ドビュッシー・その1〉+B.カニーノ/永野英樹新作初演  [2022/11/22 update]_c0050810_14512749.jpg
■クロード・ドビュッシー(1862-1918):《映像 第1集》(1905) 15分
  I.水の反映 - II.ラモーを讃えて - III.運動
永野英樹(1968- ):《瞬(めまじろき)》(2022、委嘱初演) 5分
C.ドビュッシー:《前奏曲集》第1巻(1909/10)  44分
  I.デルポイの舞姫たち - II.帆/ヴェール - III.野を渡る風 - IV.“音と香りは夕べの大気に漂う” - V.アナカプリの丘 - VI.雪の上の足跡 - VII.西風の見たもの - VIII.亜麻色の髪の乙女 - IX.遮られたセレナーデ - X.沈める寺 - XI.パックの踊り - XII.ミンストレルズ

 (休憩10分)

C.ドビュッシー:《映像 第2集》(1907) 14分
  I.葉ずえを渡る鐘の音 - II.そして月は廃寺に落ちる - III.金色の魚
ブルーノ・カニーノ(1935- ):《カターロゴ第2番「怒りの日?」》(2022、委嘱初演) 9分
C.ドビュッシー:《前奏曲集》第2巻(1912/13) 42分
  I.霧 - II.枯葉 - III.葡萄酒の門 - IV.“妖精たちは良い踊り手” - V.ヒースの茂る荒地 - VI.“ラヴィーヌ将軍”~奇人 - VII.月の光が降り注ぐテラス - VIII.水の精 - IX.サミュエル・ピクウィック殿下を讃えて - X.カノプス壷 - XI.交代する3度 - XII.花火
 [使用エディション/デュラン社新全集版(2005/07年)]

12/2(金)〈ドビュッシー・その1〉+B.カニーノ/永野英樹新作初演  [2022/11/22 update]_c0050810_14513858.jpg


永野英樹:《瞬(めまじろき)Un clin d’œil - Hommage à Debussy》(2022、委嘱初演)
  曲はドビュッシーの24のプレリュードを、終曲の「花火」で現れるフランス国歌を軸に、終わりから遡りながら回想するような形で作られています。其々の曲に留まることなく続いていくため、即興的な趣きを持つ小品です。(永野英樹)


永野英樹 Hideki NAGANO, composer
12/2(金)〈ドビュッシー・その1〉+B.カニーノ/永野英樹新作初演  [2022/11/22 update]_c0050810_15074577.png
  1968年名古屋生まれ。東京藝大附属音楽高校卒、東京藝大ピアノ科入学後、渡仏。パリ国立高等音楽院に学び、'90年歌曲伴奏科を一等賞で、翌'91年には同ピアノ科を満場一致の首席で卒業した。'92年には同音楽院室内楽クラスも一等賞で卒業し、以後、パリを中心にヨーロッパで活動する。伊達純、播本枝未子、ジャンクロード・ペンティエ、ジャンフランソワ・エッセー、ジャック・ルヴィエ、アンジェイ・ヤシンスキーに師事。
  モントリオール、オルレアン等の国際コンクール入賞を経て、95年、ピエール・ブーレーズが主宰するアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ・ピアニストとして迎えられ、現在まで活動を続けている。ブーレーズはもとより、新旧音楽監督及び客演指揮者、デイヴィッド・ロバートソン、ジョナサン・ノット、スザンナ・マルッキ、マチアス・ピンチャー等のもとでソリストを務め、カーネギーホール、ルツェルン音楽祭、ベルリン・フィルハーモニー等で演奏し、好評を博す。村松賞('98)・出光賞('98)・ショパン協会賞('99)を受賞。
  録音は、「21世紀フランス音楽作品集」(Fontec)、「アンタイル作品集」(Pianovox)、「プロコフィエフ・メシアン・ミュライユ」及び、「ラヴェル・ピアノ作品集」をDENONより、「J.Harvey : Bird Concerto/ロンドンシンフォニエッタ」(NMC Recordings)、またアンサンブル・アンテルコンタンポランとの録音はドイツ・グラモフォン、カイロス等から発売され、最近ではリゲティのピアノ協奏曲 (Alpha classics) やブーレーズのピアノ作品「天体暦の1ページ」(ドイツ・グラモフォン) がリリースされている。



ブルーノ・カニーノ:《カターロゴ第2番「怒りの日?」 Catalogo n.2 (Dies Irae?) 》(2022、委嘱初演) 
  この《カターロゴ第2番》で私は、全音階的・半音階的な素材を結合・重層させ、ときには戦わせてみた。全音階素材は有名なミサ続唱「怒りの日(Dies iræ)」であり、常にではないがしばしば12音列を惹起する。この素材選択は、我々人類、そして我々の惑星が今向き合う困難な時代にも関わらず、千年紀の不吉な予言とならぬことを願っている。曲の構成は至ってシンプルで、様々な界層を累積しつつ、反転と逆行という古典的手順で主題が3回提示される。各セクションの間には、2つのトリオ部を配置した。最初のトリオ「死の舞踏?(“Danse Macabre?") 」では、サンサーンスの著名曲の引用が回想され、第2のトリオでは同じく有名なモーツァルト《レクイエム》の「奇しき喇叭」が挿入される。奏者は引用主題を声で強調しても良い。《カターロゴ第2番》は大井浩明に献呈するもので、彼がベルン音楽院の私のクラスにいたことは大いなる喜びであり、その才能と強靭な知性には感嘆の念を禁じ得なかった。(ブルーノ・カニーノ)


ブルーノ・カニーノ Bruno CANINO, composer
12/2(金)〈ドビュッシー・その1〉+B.カニーノ/永野英樹新作初演  [2022/11/22 update]_c0050810_15075859.png
  1935年ナポリ生まれ。ナポリ音楽院でヴィンチェンツォ・ヴィターレに師事した後、ミラノ・ヴェルディ音楽院にて作曲(ブルーノ・ベッティネッリ)とピアノ(エンツォ・カラーチェ)を学ぶ。1956年ブゾーニ国際ピアノコンクール入賞。自作「Concerto da Camera No.2」がパリのUNESCOのコンクールで第1位入賞(1962)するなど作曲家としても活躍。現代音楽演奏のエキスパートとして、ベリオ《ピアノ協奏曲》《セクエンツァⅣ》、クセナキス《ディフサス》、シュトックハウゼン《マントラ》《ピアノ曲第1番~第11番》、ブーレーズ《構造 第1巻・第2巻》、カーゲル《ピアノ・トリオ》等の初演・再演、ブゾーニ《ピアノ協奏曲》《対立法的幻想曲》やスカルコッタス・シェルシ・カセッラ作品等の蘇演に携わった。
  ミラノ・ヴェルディ音楽院ピアノ科教授として24年間教鞭を執ったのち、ベルン芸大(スイス)ピアノ科マスタークラス教授を務めた。ベルリン・フィル、ニューヨーク・フィル、アムステルダム・コンセルトヘボウ、BBC響、バイエルン放送響、クリーヴランド管、フランス国立管、ロンドン響、イスラエル・フィル、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ケルン放送響等のオーケストラ、アバド、サヴァリッシュ、ブーレーズ、マズア、シャイー、ムーティ等の指揮者とソリストとして共演。同時に、パールマン、アッカルド、ムローヴァ、リン・ハレル、ニコレ、ガッゼローニ、グラーフ、バーベリアン、シフらの室内楽のパートナーとしても世界的名声を博している。ザルツブルグ、ウィーン、ベルリン、ルツェルン、マルボロ、エディンバラほかの国際音楽祭に定期的に出演。ドイチェ・グラモフォン、フィリップス、RCA、デッカ、CBS、オルフェオ、ヴェルゴ等のレーベルに、多数のCD録音がある。


[ List of compositions by Bruno Canino ]
Concerto da Camera n. 2 per 2 pf e strumenti (1961) - executed at the Festival di Venezia
“Tu n’as rien vu” - Cantata per soprano e trio d’archi (1962)
Piano Rage Music per 3 esecutori (1962-64)
Concerto da Camera n. 3 per oboe, vl e orchestra (1965) - conducted by Claudio Abbado in Milano
Labirinto n. 2 per pf (1966-67)
A Due per chitarra e pf (1967)
Impromptu n. 1 per fl, ob e pf (1969)
Labirinto n. 3 per quartetto d’archi (1970)
Impromptu n. 2 per pf (1970)
9 Esercizi per la Nuova Musica per pf (1971)
Black and White n. 2 di F. Donatoni per 2 pf (1972)
Labirinto n. 5 per vl, vcello e pf (1972)
Senza Titolo n. 2 per 2 vl e vla (1973)
Catalogo per pf (1977) - a Elena Canino
Tempo giusto per un Rag? per pf (1982)
3 Danze per vcello e contrabbasso (1982-84)
Piccolo Rondò Ostinato per vl e pf (1985) - per mia figlia Serena
Serenata - Concerto da Camera n. 4 per fl, vl, chitarra, vcello e pf (1988)
5 Momenti musicali per pf, oboe, cl, fagotto e corno (1989)
Cantilena e Rondò per vl e 11 strumenti (1989)
Ein kleines Pot-Pourri per orchestra (1990) - was used by Aterballetto for a ballet
Impromptu n. 4 per vcello e pf (1995)
Rondò n. 2 per pf (1995)
2 Studi di Ritmo per fl con accompagnamento ad libitum (1996)
Rondò n. 1 per pf (1997)
Due contro tre - Tre contro due per pf (1999)
Quattro Ritratti per quartetto d’archi (2008) - per il Quartetto Mantegna
Scherzo a capriccio per pf (2009)
Un Microritratto per pf (2010) - per Antonio Ballista
Almanacco - 12 pezzi per vl e pf (2020) - a Natascia e Raffaella Gazzana
Barcarola e Scherzo per vla e pf (2020)
Sestina per fl e pf (2020)
Catalogo n.2 (Dies Irae?) per pf (2022) - a Hiroaki Ooi




ドビュッシー《映像》と《前奏曲集》:アルベニスとの関係を中心に――野々村 禎彦

12/2(金)〈ドビュッシー・その1〉+B.カニーノ/永野英樹新作初演  [2022/11/22 update]_c0050810_15124087.jpg
 クロード・ドビュッシー(1862-1918) のピアノ曲の源流は、ショパン、J.S.バッハ、フランス・バロック鍵盤音楽だとしばしば言われる。それは確かにその通りだが、前二者の影響は《2つのアラベスク》(1888/91) や《ベルガマスク組曲》(1890) では既に明白、最後の要素も《忘れられた映像》(1894) で既に登場している。前者の時期には彼はまだ何者でもなかったが、後者に至るまでに歌曲集《抒情的散文》(1892-93)、《弦楽四重奏曲》(1893)、管弦楽のための《牧神の午後への前奏曲》(1891-94) で作曲家として自己を確立し、《忘れられた映像》はその名の通り、死後まで封印されることになった。すなわち、ピアノ曲の作曲家として一本立ちするには、この3要素だけではまだ不十分だったのである。

 オペラ専門学校だった時期のパリ音楽院で学び、カンタータ《放蕩息子》(1884) でローマ賞を受賞した彼が最初に頭角を現した分野は声楽曲だった。《忘れられたアリエッタ》(1985-87) と《ボードレールの5つの詩》(1887-89) は、交響組曲《春》(1887) やカンタータ《選ばれた乙女》(1887-88) と並ぶ、習作時代の佳品。そしてヴェルレーヌの詩による1880年代初頭の若書きを改作してまとめた《艶やかなる宴第1集》(1891-92) は、「19世紀末の作曲家」ドビュッシーの完成形。同時期の《ピアノと管弦楽のための幻想曲》(1889-92) やピアノ曲には依然残っている若書き臭は微塵もない。だが彼はそこに留まらず、《抒情的散文》で新たな一歩を踏み出した。そこでは歌はもはやオブリガートでピアノパートが主役。伴奏に留まるうちは縛られていた機能和声の制約からも自由になった。これは好きなように弄れる自作テキストだからできたことだが、一度縛りから解き放たれれば同じことは歌を大切にしても可能になり、《ビリティスの3つの歌》(1897-98) は完成度の高さに加え、「20世紀の作曲家」ドビュッシーが一足先に顔を見せている。この作品以降、歌曲は彼の主要創作ジャンルではなくなり、後々の器楽曲での新機軸をいち早く試行する実験ジャンルになった。

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 彼は最晩年まで室内楽曲を殆ど書かず、《弦楽四重奏曲》は例外的作品だが、この曲だけで「単色のアンサンブル」は極めてしまい、書き続ける意義を感じなかったのかもしれない。この作品は機能和声の枠内で書かれ、フランク流の循環主題で全曲が統一されている点は伝統的だが、堅牢な四声体が突然ユニゾンやピチカートに切り替わる落差がもたらす効果、反復する楽想を少しずつ急速に入れ替えることで得られるドライヴ感など、後世につながる要素も多い。むしろ素材を民俗音楽や無調的なものに置き換えて特殊奏法を加えれば、バルトークの弦楽四重奏曲における達成に直結する。この編成におけるバルトークは、大半の前衛音楽の源流にあたることをかつて論じたが、ここでもドビュッシーは「源流の源流」だった。ただし、この鉱脈は彼が総て独力で発掘したわけではなく、グリーグ《弦楽四重奏曲》(1877-78) という先例があった。そこではユニゾンやピチカートや急激な楽想の転換がロマン主義的な文脈で効果的に用いられていたが、ドビュッシーはそれを抽象化して拡張し、自身の語法に接続して未来につながる形に読み替えたのである。

 他方、《牧神の午後への前奏曲》では、音色こそが本質だった。管弦楽曲をまずピアノ曲(大編成の近代管弦楽では2台ピアノ曲)として発想し、そこに「彩色」する形で管弦楽化する作曲家は少なくないが、少なくともこの作品以降のドビュッシーはそうではない。同じ旋律を楽器のみ替えて何度も繰り返し、一周して元の楽器に戻ってきてもアンティーク・シンバルを添えれば別物になる、という発想は音色が前提でなければ浮かばない。もちろん主題を吹く木管楽器を取り替えてゆくだけの曲ではなく、弦楽器群や倍音奏法を多用したハープの合いの手あってこそだが。このような音色操作をオーケストラの全楽器に拡張し、女声ヴォカリーズも加えた《夜想曲》(1897-99)、その音色世界に元々得意な声楽が加わったオペラ《ペレアスとメリザンド》(1893-1902) と、彼の音楽(というか「印象主義音楽」)は、専らオーケストラの柔らかく多彩な音色として認識されている。

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 これらの出世作群を特徴付ける要素を何ひとつ持たないのが、ピアノ曲というジャンルだった。歌曲における声のような特権的パートは存在せず、弦楽四重奏曲のような確固たるフォルムも存在せず、管弦楽曲のような音色のパレットも使えない。デュカス(1865-1935) の《ピアノソナタ》(1899-1901) のように、あえてベートーヴェンの高みを目指すのでなければ、ピアノ曲では時代の中心にして最前衛だったショパンの影響力は大きく、ドビュッシーもその影の中でもがいていた。当時のイタリアやフランスはオペラがクラシック音楽の花形で、ピアノ曲で参照できるのは一世代上のマスネ(1842-1912)、シャブリエ(1841-94)、フォーレ(1845-1924)くらいだった(なお、マスネは当時はオペラ作曲家として一世を風靡していた)。

 そのような状況の中で、1894年からパリに居を移したスペインのピアニスト=作曲家アルベニス(1860-1909) の音楽は啓示になった。《ラ・ベガ》(1897) をアルベニス自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり、「今すぐグラナダに行きたい!」と感想を伝えたという。ただしこのエピソードが意味するのは、彼は当初は額面通り、この曲をアルハンブラ宮殿の描写音楽として受け取っていたということでもある。彼はアルベニスの真髄をたちどころに聴き取り、その時からピアノ曲は一変した…わけではない。《ピアノのために》(1894-1901) も、《忘れられた映像》とさほど代わり映えしない。実際、第2曲〈サラバンド〉は《忘れられた映像》第2曲そのものである。

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 《ピアノのために》は翌1902年1月、リカルド・ビニェス(1875-1943) の国民音楽協会でのリサイタルで初演され好評を博した。ドビュッシー自身もこの方向性に手応えを感じ、《映像第1集》初稿を1901年内に書き上げている。スペイン生まれのビニェスはパリ音楽院で学び、同い年の親友モーリス・ラヴェル(1875-1937) のピアノ曲を多数初演した。1902年4月のリサイタルでは《亡き王女のためのパヴァーヌ》(1899) と《水の戯れ》(1901) を初演し、《水の戯れ》の流動するフォルムは《ピアノのために》を過去のものにした。《映像第1集》初稿も第2曲〈ラモー讃〉以外は破棄されることになる。なお、ビニェスとラヴェルらは1902年に芸術家集団「アパッシュ」を結成し、《ペレアス》初演時は天井桟敷に陣取ってこの野心的なオペラを大いに擁護した。これ以降の数年間、ドビュッシーとラヴェルはビニェスを介してピアノ曲で競い合ってゆくことになる。当時のパリで「進歩的」なピアノ曲が演奏される機会はビニェスの国民音楽協会リサイタルだけで、同じ会場で同じ演奏家が交互に初演する状況では意識しない方が難しい。

 《ペレアス》初演に際しては、配役への不満に端を発した原作者メーテルランクの執拗な妨害などもあったが、それが片付いてようやく、ドビュッシーはアルベニス作品に向き合ってその本質を掴んだ。彼が慣れ親しんできたJ.S.バッハの対位法は、均質な素材を多声的に組み合わせる技術だが、民俗音楽に由来する不均質な素材を、アルベニスは拡張された対位法の感覚で多層的に組み合わせていた。アルベニスが用いた素材は調性的なものに限られ、機能和声には従っているので効果は限定的だが、その制約を外せば可能性は一挙に広がる。この拡張された対位法の感覚でさまざまな手持ちの素材を処理したのが《版画》(1894-1903) に他ならない。この作品の詳細は演奏される次回に譲るが、グリーグ《弦楽四重奏曲》の場合と同じく、既存の曲を単に模倣するのではなく、最良の部分を聴き取ってその本質を抽出する眼力こそが、彼の作曲家として最も卓越した能力だと言えそうだ。《ペレアス》までの彼の創作の中心は管弦楽曲だったため、それ以降の創作歴も管弦楽曲を中心に語られることが多いが、《版画》以降はピアノ曲が彼の創作の中心で管弦楽曲はそこでの成果の応用に過ぎないことは強調しておきたい。なかでも中核になっているのが、本日演奏される《映像》《前奏曲集》各2集である。

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 アルベニス作品の助けを借りて《版画》を書き上げた彼は、《水の戯れ》に打ちのめされて塩漬けにしていた《映像》に立ち返って、デュラン社と出版契約を結んだ。《映像》は6曲2集、各々ピアノ独奏曲3曲と2台ピアノまたは管弦楽曲3曲からなるとされ、第2集のピアノ独奏曲3曲まではタイトルも内定した。結局、ピアノ独奏曲が現在の第1集(1901-05)・第2集(1907)、元々の第1集残り3曲が《管弦楽のための映像》(1905-11) となった。ただし《管弦楽のための映像》の〈イベリア〉(1905-08) はさらに3曲に分かれ、実質的には11曲を書き上げた。雲を掴むような契約にしてはよく履行した方だろう。この途中でアルベニスは《イベリア》(1905-08) を発表し、彼の関心もそちらに移った。《管弦楽のための映像》の残り2曲、〈春のロンド〉(1905-09) と〈ジーグ〉(1909-11) は多分に「お仕事」で、アルベニス《イベリア》に直結する《前奏曲集》(1909-10/11-13) が創作の中心になった。

 《映像第1集》の作曲中には、私生活にも大きな変化があった。ピアノの家庭教師を引き受けた子供の母親である、銀行家バルダック夫人エンマと不倫関係になり、糟糠の妻リリーを捨てて駆け落ちした。歌姫出身のエンマは社交界の花形として奔放な私生活を送り、ドビュッシーと出会う前はフォーレの愛人で、1890年代のフォーレのミューズだった。駆け落ち中はエンマの英国趣味に合わせて英国の沿岸部を転々とし、管弦楽のための《海》(1903-05) の主要部分はこの時期に書かれている。リリーは拳銃自殺を図ったが一命を取り留め、彼は大衆紙の格好のバッシング対象になって大半の友人を失った。《ペレアス》の成功で盤石になったかに見えた、「進歩派代表」の座からも滑り落ちた。バッシングの渦中の彼は再び英国に逃れ、ほとぼりが冷めるのをエンマと待つ間に、《映像第1集》の〈水の反映〉〈運動〉の全面改稿を済ませた。なかなかの人でなしぶりである。

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 こうして完成した《映像第1集》は、「シューマンの左あるいはショパンの右に位置する」と自認する自信作だとされるが、これは公的な発言ではなくデュラン社に宛てた私信である。《映像》シリーズで大型契約を結んでおきながら、その後完成したのは《仮面》(1904)・《喜びの島》(1904)・《海》という「趣味の作品」ばかりだったので、シリーズ最初の作品を送る際には大きく出たという面もあるだろう。実際、《版画》と《映像第1集》のどちらがより新しいかは微妙なところがある。《映像第1集》最終稿は《海》などを経た複雑な書法を持つ反面、美学的には多分に1901年の初稿に引きずられており、不均質な素材を異なったレイヤーに置いて組み合わせるというアルベニス由来の発想(先の説明で「多声的」「多層的」を区別したのはこの意味で、セルアニメや現代美術や描画ソフトを通じて「レイヤー」概念に親しんでいる我々には自然でも、そういうものが一切ない時代に発想したアルベニスも、それを見抜いたドビュッシーも凄い)がストレートに出ているのは《版画》の方である。

 結局、両者を統合した完成形が《映像第2集》だった。管弦楽曲中心のドビュッシー観では、この時期の創作の中心は《海》であり、ラムルー管弦楽団による1905年10月の初演が大失敗に終わった後しばらく彼の創作は低調になったとされるが、ピアノ曲中心のドビュッシー観では、《海》は《版画》のひとつの応用以上のものではなく、《映像第2集》という完成形が得られるまでは創作の調子が出なかったということになる。いずれにせよ、エキゾティックな旋法で特徴付けられる第1曲/アルカイックで内省的な第2曲/名技的な反復運動で特徴付けられる第3曲という3曲セットが3回繰り返され、ピアノ曲のひとつの「様式」が確立したわけだが、このような様式化・標準化された世界はラヴェルの得意分野で、《夜のガスパール》(1908) という大輪の花を最後に咲かせた。《映像第2集》と《夜のガスパール》は目指すものが違うので単純な比較はできないが、古典派やロマン派の大曲を差し置いて演奏会のフィナーレを飾るにふさわしいスケール感を持っているのは、断然《夜のガスパール》であることだけは疑いない。

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 そもそもスケール感はドビュッシーの得意分野ではなく、それを持っているピアノ曲は《喜びの島》だけかもしれない。アルベニス《イベリア》に導かれて《前奏曲集》に向かった彼は、ますますその方向から離れてゆく。アルベニスはこの作品で、「形式」を素材から自律的に生成する境地に達したが、これはバラケブーレーズのような分析者が、ドビュッシーの《海》に見出していた音楽のあり方に他ならない。ドビュッシーが《イベリア》に見出したのは、アルベニスも自分と同じ道を歩んでいた、自分は孤独ではなかったという安心感であり、《海》では循環主題などを併用していた彼は、この方向性をより純粋に探求することになる。《前奏曲集第1巻》(1909-10) では、〈パックの踊り〉ミンストレルズがその典型であり、機能和声から切り離された調性が変転する音楽を最短距離でまとめている。他方、名技的な〈西風の見たもの〉では、調性感の希薄さゆえにクライマックスのみを切り取ってつないだような構成が成立している。《イベリア》との関連で付け加えるならば、民俗音楽素材から想起される地名を各曲のタイトルにした《イベリア》が情景描写音楽として消費されている現実を目の当たりにして、彼はタイトルを楽譜末尾に付け足しのように記すスタイルを選んだのだろう。

 《前奏曲集第2巻》(1911-13) と第1巻の比較にはさまざまな見方がある。ヨーロッパ各地の民俗音楽素材を収集して年末年始の2ヶ月で一気に書いた第1巻の方が、いや無調的な音組織の中に調性的な旋律断片を漂わせた〈霧〉や機能和声から切り離された連続する協和音の効果を探った〈交代する三度〉のような実験に2年かけて取り組んだ第2巻の方が、等々。少なくとも言えるのは、《イベリア》を強く意識した第1巻はやや「よそいき」で、第2巻の方が地が出ていることだろうか。エッセンスのみ凝縮した短い曲が大半で、スケール感で《イベリア》と比べ得るのは各巻1曲ずつだが、水没した寺院の伝説を倍音列に託して表現した〈沈める寺〉のドラマ性よりも、1種類の和音をさまざまな角度から眺めた〈月の光が降り注ぐテラス〉の静的な表現の方が彼らしく、逆にリスト的な名技性の表現では、ストイックな〈西風が見たもの〉よりも、革命記念日の情景を設定して最後にはフランス国歌が響く〈花火〉の方が彼らしい。何よりも、彼が偏愛したアルカイックな旋律を飾り気なく鳴らす〈カノープ〉は第2巻に含まれている。

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〈cf.〉
【フランソワ・クープラン「組曲(オルドゥル)」全27曲公演】(2012~2018)
●《王のコンセール》(クラヴサン曲集第3巻所収) 第1コンセール ト長調、 第2コンセール ニ長調、 第3コンセール イ長調、 第4コンセール ホ短調  [2012.06.20]
●第1組曲 ト短調/ト長調、 第2組曲 ニ短調/ニ長調、第3組曲 ハ短調/ハ長調  [2014.06.09] [closed]
●第4組曲 ヘ長調、 第5組曲 イ長調/イ短調、 第6組曲 変ロ長調  [2015.06.07] [closed]
●「クラヴサン奏法」から8つの前奏曲、 第11組曲 ハ短調/ハ長調、 第12組曲 ホ長調/ホ短調  [2017.07.08]  [closed]
■第18組曲 ヘ短調/ヘ長調、第19組曲 ニ短調/ニ長調、第20組曲 ト長調/ト短調、第21組曲 ホ短調、第22組曲 ニ長調/ニ短調 + ジェルジ・リゲティ(1923-2006):《連続体(コンティヌウム)》(1968)/佐野敏幸(1972- ):《GRS(ガレサ)》(2009)/上野耕路(1960- ):《リベルタン組曲》(2018、委嘱新作初演) [前口上 - フランス風序曲 - アリオーソ - ディヴェルティスマン - サラバンド - メヌエット - バデイヌリ]  [2018.08.19]
■第23組曲 ヘ長調、第24組曲 イ短調/イ長調、第25組曲 変ホ長調/ハ長調/ハ短調、第26組曲 嬰へ短調、第27組曲 ロ短調 + F.ドナトーニ(1927-2000):《ドゥエット》(1975、日本初演)/I.クセナキス(1922-2001):《二重平衡(ディプリ・ズィーア)》(米沢典剛によるチェンバロ独奏版、初演)(1952/2017)/S.ブッソッティ(1931- ):《啓示を受けた乙女》(1982、日本初演)/J.S.バッハ(1685-1750):《音楽の捧げ物 BWV1079》より「大王の主題によるトリオソナタ ハ短調」(米沢典剛によるチェンバロ独奏版、初演)(1747/2017) [2018.09.16]










# by ooi_piano | 2022-11-30 19:38 | POC2022 | Comments(0)

松涛サロン(東京都渋谷区松濤1-26-7
[使用楽器] 1912年製NYスタインウェイ〈CD75〉
4000円(全自由席)
お問い合わせ poc@artandmedia.comアートアンドメディア株式会社
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「スペインもまた東洋なのである。なぜなら、スペインは半分アフリカであり、アフリカは半分アジアだからである」
"l’Espagne c’est encore l’Orient ; l’Espagne est à demi africaine, l’Afrique est à demi asiatique."
ヴィクトル・ユーゴー《東方詩集》(1829)



【ポック(POC)#47】2022年11月11日(金)19時開演(18時半開演)〈アルベニス「イベリア」〉

イサク・アルベニス(1860-1909):《イベリア、12の新しい「印象」》(1905/08)
 第1集 〈I. 霊振(エボカシオン) - II. 港(カディス) - III. セビリアの聖体祭〉 20分

平野弦(1968- ):《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM》(2022、委嘱初演) 5分

■アルベニス:《イベリア》第2集 〈IV. ロンデニャ - V. アルメリア - VI. トゥリアナ〉 23分

  (休憩10分)

フランシスコ・ゲレロ(1951-1997):《オプス・ウノ・マヌアル》(1976/81、東京初演) 14分

■アルベニス:《イベリア》第3集 〈VII. エル・アルバイシン - VIII. エル・ポロ - IX. ラバピエス〉 21分

ルーク・ヴァース(1965- ):《卡赫爾頌》(2022、委嘱初演) 4分

■アルベニス:《イベリア》第4集 〈X. マラガ - XI. ヘレス - XII. エリタニャ〉 20分
  [使用エディション/Henle社新訂版(2007-2013)]



平野弦:《HYPERCALIFRAGILISTICSADOMASOCHISM(ハイパーカリフラジリスティックサドマゾキズム)》(2022、委嘱初演)
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  私が入学した国際海洋高校は全寮制で、音楽科はおろか、音楽の授業すらなかった。私たちが第一期生と言うことで、学校運営も授業内容も、諸々手探り且つ見切り発車的な感があった。それでも音楽室はあり、ピアノもあった。この音楽室は事実上私だけのものとなり、放課後や夜間にここで練習をした。
  当時校長だった井脇ノブ子(元衆議院議員)は、とてつもなく個性的且つ豪気な女性で、「ピアノを勉強するなら芸大に行け!」と(恐らく余りよく考えずに)檄を飛ばし、やがて本当に芸大の講師に月一回のレッスンを受ける手筈を整えて下さった。そして、一浪はしたものの、東京芸術大学ピアノ科に入学することができた。
  ボディビルを始めたのは、芸大のラグビー部に所属し、一人の先輩の勧めで筋トレを開始したのがきっかけだが、いつの間にかラグビーそっちのけでボディビルの沼にはまっていった。よく、筋肉とピアノの関連性、必要性を問われることがあったが、私にしてみれば二つは全く違う興味のベクトル上にあるものなので、期待されるような回答を示せたためしが無い。しかし、一つだけ言えるとすれば、馬鹿力で叩くフォルテッシモよりも、脱力時に於けるピアニッシモ(特に速いパッセージ)に筋肉は有用であると思われる。
  即興演奏や作曲は子供の頃から継続して行っていたが、いわゆる現代音楽に触れるまでの経緯は、先ず小学生時代にシンセサイザーが奏でるクラシック音楽に夢中になり、次いで、Yellow Magic Orchestraにどっぷりはまり、そのメンバーの坂本龍一がラジオで時折紹介する現代音楽と言うモノに次第に惹かれていったのだった。
  大井浩明氏に初めて会ったのは、もう30年前ほど昔、芸大第一ホールだったと思う。この度の思いがけない委嘱に際し、その頃のことを思い出しながら書いた。また、つい先頃この世を去った、私が最も敬愛した偉大な芸術家へのオマージュともなっている。(平野弦)


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  1968年和歌山県新宮市生まれ。4歳からピアノを始める。私立国際海洋高校に第一期生として入学。東京藝術大学ピアノ科卒業。野村真理、神野明の各氏に師事。主な作品として、《花 ~テープ、チェロと舞踏のための》(1990)、《達也の骨と弦の骨 ~浜島達也とのコラボレーション・ヴィデオ》(1992)、《夜想曲"壊れた籠" ~左手のための》(1992)、《未知への展望 ~合唱、長唄とエレクトリック・チェンバロのための》(1993)、《前奏曲とフーガ》(1996)、《練習曲ヘ短調(第1稿・第2稿》(2006)等。



ルーク・ヴァース:《マウリシオ・カーゲル「ルートヴィヒ・ヴァン、任意の編成のためのベートーヴェン頌」(1969)によるカーゲル頌》(2022、委嘱初演)
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  芸術家が自らの実践を振り返り、洞察する「芸術研究」の確立により、解釈の技法はより豊かな視点で見直されるようになった。演奏家の営為について論評するのはもはや音楽学者だけではなく、演奏家自身が自らの実践を教室で語っている。演奏家たちは、自分たちの行っている営為の機微を、自分たち独自の視点から考察し、発表している。
  このような学際化は、西洋のクラシック音楽の演奏を特徴づけてきた解釈の多様性への関心に、さらに拍車をかけている。私自身の研究テーマの一つに、マウリシオ・カーゲルの音楽特性がある。特に、ベートーヴェン生誕200年を記念して書かれ、マドリードで初演された《ルートヴィヒ・ヴァン》(1970)は、私の関心を曳き続けている。家具が置かれた部屋の写真にベートーヴェンの楽譜をコピーを貼り付けただけの奇妙な楽譜の序文で、カーゲルは楽譜の解釈法を説明し、見たままの記譜法に基づいて、ピントの合ったものははっきりと、ピントの外れたものは不明確に(あるいはその逆に)即興演奏しようと提案した。序文の最後には「音楽家はここから先へ進むことができる」とあり、どこか謎めいた解釈の可能性を無限に広げている。
  カーゲル自身の指揮によるアンサンブル版《ルードヴィヒ・ヴァン》では、この指定を厳密に遵守し、時にはベートーヴェンのハ短調変奏曲の一部に基づく即興演奏を領導している。(まぎらわしいことに、写真を(非)明確な焦点で演奏したケースが想定されるため、カーゲルの自作自演が規定した方法で楽譜を演奏しているかどうかは不明である。) 楽譜を無制限の解釈行動に開放することは、逆説を生む。本質的には、伝統的な演奏も含め、どのような方法でベートーヴェンを演奏しても、カーゲルの楽譜に適合することになるからだ。
2022/11/11(金)アルベニス《イベリア》全曲 + 平野弦/L.ヴァース新作初演  (2022/11/07 update)_c0050810_23254220.png
  大井浩明から新作を委嘱され、彼の無限のピアノテクニック、古今のピアノ文献と様々な時代楽器に精通していることを踏まえ、カーゲルに触発されつつ、さらに一歩前進することにした。もし《ルートヴィヒ・ヴァン》が、ベートーヴェン由来のほんのちょっとした要素がきっかけで、潜在的な多数の解釈を「遊び」、そのパラドックスが作曲者自身によって既に許容されているならば、このアイデアをメタレベルで他の作曲家にも広げてみてはどうだろうか。今のところ残る唯一の懸念は著作権である。その意味では、私の「作曲」は伝統的なものに留まり、パブリック・ドメインの曲からしか実験を始められない。大井はそこから先に進むかもしれないが。
  本作のタイトル自体が、カーゲル作品からの連想である。つまり、カーゲルも私もお気に入りである、非常に古い作曲家を非常に個人的に解釈した、《ヨハネス・ブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」(1861/62)による大オーケストラのための「フーガのない変奏曲」》 (1973)である。(ルーク・ヴァース)


ルーク・ヴァース Luk Vaes, composer
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  ルーク・ヴァースは、ベルギーの高等音楽教育機関であるオルフェウス研究所(ゲント)の「実験音楽の歴史的演奏実践(HIPEX)」部門の主任研究員として、博士課程カリキュラムである「docARTES」の教授と研究連携を兼務している。
  ゲントでクロード・コッペンスとホトフリート=ヴィレム・ラースに音楽の基礎を学び、さらにイヴォンヌ・ロリオ、オリヴィエ・メシアン、アロイス・コンタルスキー、イヴァ・ミカショフに師事した。ライデン大学より博士号(芸術学)を授与された論文「拡張されたピアノ技法」は、多くの被引用数を誇っている。
  アール・ブラウン、マウリシオ・カーゲル、フレデリック・ジェフスキ、ジョージ・クラム、ヘルムート・ラッヘンマン、ジョン・ケージなどの作曲家たちと協働し、多くの新作を初演した。演奏はヨーロッパならびに米国でTV・ラジオ放送され、ソリストとしてアムステルダム・コンセルトヘボウ、ベルリン・ビエンナーレ、ワルシャワの秋、ルール・ピアノ音楽祭、ザルツブルク・モーツァルテウム、ロンドンのアルメイダ音楽祭等に出演。ウィーン、ザルツブルク、シエナ、シカゴ、ベルリン等でマスタークラスを行う。
  現代音楽アンサンブル《シャン・ダクション》芸術監督、様々な国際コンクールの審査員として招かれるほか、ベルギー国営放送の番組制作や、Mode Records(ニューヨーク)、Winter&Winter(ミュンヘン)におけるCD制作・録音も行っている。ルーク・ヴァースへの献呈作《複合過去》を含むカーゲル全ピアノ作品のCDは、英誌The Wireの年間ベストアルバムや仏誌ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジックの「Choc」を含む、9つの国際賞を受賞した。



スペイン音楽史の中のアルベニス《イベリア》――野々村 禎彦

[スペイン音楽の最初のピークと歴史的背景]
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  神聖ローマ帝国属領ヒスパニアだったイベリア半島は、領土を北アフリカに拡大するイスラーム帝国に8世紀初頭に組み込まれた(アル=アンダルス)。イスラーム帝国がウマイヤ朝からアッバース朝に交代すると、旧王朝の残党が再興した後ウマイヤ朝の拠点になり、首都コルドバはヨーロッパ最大の都市になった(最盛期の人口は50万人以上)。後ウマイヤ朝が1031年に内紛で消滅するとイスラーム支配地域は小国に分裂し、キリスト教徒のレコンキスタ(再征服)運動に飲み込まれてゆく。やがてキリスト教国はポルトガル王国、カスティーリャ王国、アラゴン連合王国に統合され、13世紀にはイスラーム支配地域はグラナダ王国のみになる。1469年、カスティーリャ・アラゴン両王の結婚でスペイン王国が成立し、グラナダは1492年に陥落した。
  スペインがレコンキスタに国力を割く間に、ポルトガルはイスラームの帆船と測量の技術を用いてアフリカ西岸を南下する航路を開拓し、1488年に希望峰に到達した。グラナダが陥落するとスペインも遠洋航海に参入し、同1492年にコロンブスは西廻り航路でアメリカ大陸を「発見」した。彼らが行ったのは西インド諸島における虐殺と略奪に過ぎないが、この「成果」を受けてローマ教皇はアメリカ大陸の大半の地域でスペインに植民地化優先権を与えた(ポルトガルの勢力圏はブラジルのみ)。コンキスタドールたちは、中米全域・南米カリブ海沿岸・メキシコ・南米太平洋沿岸を順次征服した。彼らの植民地経営はコロンブスに倣った絶滅政策だった。アステカ・マヤ・インカの古代文明を滅ぼし、原住民はこれらの文明を支えた貴金属鉱山の奴隷として使い潰した。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の流行も相まって原住民は激減し、奴隷が不足するとアフリカから黒人を連行して補った。
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  このような中世からルネサンスにかけての歴史は、スペイン音楽史を眺める上で欠かせない。スペインがクラシック音楽の表舞台に登場したのは、中南米から収奪した金銀で海軍を増強し、ヨーロッパの覇権を握ったルネサンス後期の百年と一致している。この時期のスペインを代表する4人の作曲家――クリストバル・デ・モラーレス(ca.1500-53)、フランシスコ・ゲレーロ(1528-99)、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)、アロンソ・ロボ(1555-1617)――は、ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派を代表する4人の作曲家――デュファイ、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッソ――に対応する(時代の始まりに相応しい大らかな魅力、時代様式の可能性を突き詰めた実験性、時代様式を俯瞰する円熟した表現、時代の終わりに相応しいマニエリズム)。ブルゴーニュ楽派とフランドル楽派はポリフォニーの可能性を探求したが、スペインの作曲家はホモフォニーの表現性を探求した。

[国民楽派運動、ペドレル、そしてアルベニス]
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  スペインの国力は中南米植民地の貴金属鉱山の枯渇と共に衰え、英国・オランダなど新興新教国に植民地の拡大でも敵わなくなる。さらに19世紀初頭、ナポレオンのイベリア半島支配を契機に中南米の植民地では独立運動が始まり、1825年までにほぼ全域が独立した。スペイン本国では中産階級の形成は遅れ、産業革命も起こらなかった。1898年の米西戦争で残る植民地(キューバ・プエルトリコ・フィリピン)も失い、工業化の遅れたヨーロッパ南端の小国のみが残された。バロック・古典派時代で目立つ作曲家は、ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757) 、アントニオ・ソレール(1729-83) 、ルイジ・ボッケリーニ(1743-1805) 、ホアン・クリソストモ・アリアーガ(1806-26) 、ギター奏者フェルナンド・ソル(1778-1839) 程度である(後半生をスペインで過ごしたイタリア人を含む)。
  だが、国力の凋落と共にクラシック音楽も衰退する一方だったわけではない。キリスト教文化とイスラーム文化、ロマを含むヨーロッパ人とアフリカ人の交流から生まれた、フラメンコをはじめとする豊かな民俗音楽がまだ残っている。ロシアや東欧と同様の国民楽派運動から、スペインのクラシック音楽は再び活気を取り戻す。この動きは独奏楽器のヴィルトゥオーゾたちから始まった。ヴァイオリンではパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)、ギターではフランシスコ・タレガ(1852-1909) とその後継者たち、そしてピアノでは本公演の主役、イサーク・アルベニス(1860-1909)
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  ただし、アルベニスの作風は先行するヴィルトゥオーゾたちとは一線を画している。彼はスペインのルネサンス音楽を再発見した音楽学者=作曲家フェリペ・ペドレル(1841-1922) と1883年に出会って薫陶を受けた。ペドレルが門人たちに求めた「国民楽派」は、ロマン派の伝統に民俗音楽の素材をまぶしたような音楽ではなく、民俗音楽を通じてスペイン音楽黄金時代の輝きを取り戻そうとする壮大な試みだった。実際、ペドレルの弟子には、エンリケ・グラナドス(1867-1916)、マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)、ロベルト・ジェラール(1896-1970) という、「国民楽派」の枠を飛び越えて近代スペイン音楽を代表する作曲家たちが並んでいる。ルネサンス後期の作曲家たちはローマで活動したように、彼らが活動したのは主にパリだった

[ピアニスト=作曲家アルベニスについて]
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  ピアニスト=アルベニスは4歳から公開演奏を始め、1875年のプエルトリコとキューバでの演奏会は新聞記事になった。この間を繋ぐエピソードとして、「6歳でパリ音楽院入学を認められたがボール遊びで控室の鏡を割って取り消された」に始まる、世界を股にかけて家出と密航を繰り返す波乱万丈の物語が用意されているが、大半が作り話のようだ。むしろこれは、ヴィルトゥオーゾ=アルベニスの顧客がどのような物語を求めていたかを示している。「神童」の賞味期限が切れた1876年にブリュッセル音楽院に入学してピアノと作曲を正式に学び、首席修了後に憧れのリストに師事を申し出たが叶わず、結婚してバルセロナに住み始めた時、同地の歌劇場の音楽監督を務めていたペドレルと出会った。
  ただしペドレルの影響は、ただちに現れたわけではない。アルベニスは1885年にマドリードに移住し、ヨーロッパ各地で演奏して「スペインのルビンシテイン」として知られるようになり、スペイン王家に出入りして作曲家や教師としても認められた。この時期の《スペイン組曲第1番》(1886) がペドレルの影響が見られる最初の作品だとされるが、まだ民俗音楽の断片を用いたサロン音楽に過ぎない。とは言ってもモダニズム以前、ドビュッシーも《小組曲》(1886-89) すら書き始めていない時期ではしかたない。1890年、銀行家マニー=カウツのお抱え作曲家としてロンドンに移住し、英語オペラを書きながら演奏活動も続けた。《スペインの歌》(1892/98) はその合間に書かれたが、その書法は後のドビュッシーの方向性を予言している。
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  彼は1894年にパリに居を移すが、マニー=カウツは終生彼を援助し続けた。今回の移住の目的は、パリの優れた作曲家たちと交流して作曲の腕を磨くことであり、例えばアルハンブラ宮殿を描いた《ラ・ベガ》(1897) は《スペインの歌》からさらに踏み込んだ内容を持ち、この曲を彼自身の演奏で聴いたドビュッシーは感激のあまり「今すぐグラナダに行きたい!」と伝えたという。彼は同年からスコラ・カントゥルムのピアノ科で教鞭を執り、党派的にはドビュッシーとは対立することになるが、優れた作曲家同士のリスペクトはそれを乗り越える。歌曲と管弦楽曲ではいち早く時代の先頭に立ったドビュッシーが、ピアノ曲でようやく殻を破った《版画》(1894-1903) の3曲は、その際にドビュッシーが参照したものを物語る。旧作リライトの〈雨の庭〉はフランス・バロック鍵盤音楽、〈パゴダ〉はガムランなど東南アジアの民俗音楽、そして〈グラナダの夕暮れ〉はアルベニスのピアノ曲に他ならない
 1900年頃から腎臓病が悪化して演奏活動は困難になり、彼は教職も辞して作曲に専念する。パリとニースを往復して療養に努めたが快方には向かわず、仏領バスクの温泉保養地カンボ=レ=バンで49歳の誕生日の直前に亡くなった。32歳で書いた《スペインの歌》はop.232という作品番号を持っており、彼は元々多作だったが、《ラ・ベガ》と《イベリア》(1905-08) の間に書いたのは、マニー=カウツの援助への謝礼の英語オペラ1作と、明らかに試作品のピアノ曲《3つの即興曲》(1903) と若干の歌曲のみ。慣れない教職を務め、悪化してゆく体調と折り合いをつけるのにも時間を要したとはいえ、10年近い準備期間を要するほど、《イベリア》は隔絶した作品だった。青年時代の彼が多作だったのは、既成の形式に素材を流し込む作曲で満足していたからにすぎない。民俗音楽素材の魅力を拡張された対位法の感覚で引き出せるようになった《ラ・ベガ》も、2種類の素材が交代しながら発展し、分厚く音を重ねてクライマックスを築くあたりはまだ型通りである。しかし《イベリア》に至ると、「形式」は素材から自律的に導かれるようになる。
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  民俗音楽素材から想起される地名をタイトルに持つ「12の新しい『印象』」というと、往々にして情景描写的な音楽と受け取られがちだが、実際に行われているのは高度に抽象的な作業である。素材は調性的なものに限られ機能和声には従っているが、これはビバップにおけるコード進行のような、音楽ゲームを捗らせる適度な制約として機能しており、全12曲80分という作品規模の要因だろう(この制約を取り払ったドビュッシー《前奏曲集》は、12曲2巻でようやく同規模に達している)。ただし《イベリア》の作曲開始年は《サロメ》初演の年、作曲終了年は《エレクトラ》初演の年にしてシェーンベルクが無調に踏み込んだ年であり、音組織の革新に関心が集まっていた同時代には、その先進性は殆ど理解されなかった。その真価を例外的に見抜いていたのが他ならぬドビュッシーであり、《前奏曲集》(1909-10/1911-13) の作曲中もその後も、そのピアノの譜面台には《イベリア》が乗せられていたという。20世紀音楽の扉を開いたドビュッシーを、生涯にわたって(個人的な関係ではなく、作品を通じて)導き続けた唯一の作曲家がアルベニスである。


[アルベニス以降のペドレル門下生たち]
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  グラナドスはパリでピアノを学び、その人脈でティボーやヌヴーの伴奏など室内楽奏者として活躍した。主な創作分野はピアノ曲で、大規模なプログラムを持つ組曲《ゴィエスカス》(1911) が代表作。オペラ化(1915) しNYのメトロポリタン歌劇場での初演は成功を収めたが、帰国の途にドイツ軍の攻撃で亡くなった。ファリャは1907年からパリに移住し、アルベニスの紹介で芸術家集団「アパッシュ」に加わり、ラヴェルらと親交を結んだ。第一次世界大戦を逃れてマドリードに戻ると筆が進み、《スペインの庭の夜》(1909-15)、《恋は魔術師》(1914-15/15-16/24)、《三角帽子》(1916-17/18-19) と、国際的に知られる代表作が並ぶ。スペイン内戦で親友ロルカが殺されると心は祖国から離れ、1939年にアルゼンチンに亡命して同地で亡くなった。
  ファリャより20歳年下のジェラールの世代になると、第二共和制からスペイン内戦に至る歴史と創作は切り離せない。英国との連合軍でナポレオン支配を打破して独立を回復したスペインは、立憲君主制の近代的な中央集権国家に近づいてゆくが、その恩恵を受けられない労働者やカタルーニャとバスクの民族主義者の不満は蓄積され、第一次世界大戦後の不況を背景に爆発した。ストライキやテロが頻発する中、右派のプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターで独裁権力を握ったが、世界大恐慌への対応を誤って1930年1月に首相を解任され、国王も任命責任を問われて1931年4月に亡命に追い込まれた。こうして第二共和制が成立し、1936年2月の選挙では左派が主義主張の違いを棚上げにして大同団結する人民戦線戦術で勝利した。教会領の没収など急進的な政策を続ける人民戦線政権を旧体制側は恐れ、同年7月にモロッコで蜂起した陸軍右派グループを支持して内戦が始まった。ソ連とメキシコ、及び欧米諸国の義勇軍(国際旅団)が人民戦線、ドイツ、イタリア、ポルトガルが反乱軍を支持した内戦は1939年4月に終結し、フランコ独裁が始まった。
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  ジェラールはウィーンとベルリンでシェーンベルクから12音技法を学んだ最初の弟子のひとり。帰国後は左派の音楽政策に深く関与し、カタルーニャ民族主義を打ち出して社会主義リアリズムと折り合いをつけた。内戦に敗れるとフランスを経て英国に移住する。12音技法を本格的に使い始めた1950年が本当のキャリアの始まりで、4曲の交響曲(1952-53/57-59/60/67)、2曲の弦楽四重奏曲(1950-55/61-62)、カンタータ《ペスト》(1963-64)、管弦楽のための協奏曲(1965) は、シェーンベルクがカーターのように長生きして作曲を続けたかのような作品群だ。ジェラールと同世代のフェデリコ・モンポウ(1893-1987) は内戦と無縁な平穏な生活を送り、《ひそやかな音楽》(1959-67)、《歌と踊り》(1921-79) など、時代を超えた独自の作風を持つ。ジェラールの次世代にあたるのが、1930年にマドリードで結成された「スペイン8人組」である。エルネスト・アルフテル(1905-89)、ロドルフォ・アルフテル(1900-87) 兄弟を中心に、民俗音楽と新古典主義をブレンドし名称も6人組にあやかったグループで、構成員の生年は1895-1906年に広がる。

[フランコ独裁とスペイン現代音楽]
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  ここでフランコ独裁について少々。非常に狡猾なフランコは、内戦初期には反乱軍の指揮をエミリオ・モラに任せ、枢軸国とのパイプ作りに専念した。優勢が固まった1937年7月にモラは都合よく飛行機事故で死亡し、軍の全権を握った。独伊の支援は反乱軍の命綱だったが、政権掌握後に第二次世界大戦が始まると、内戦による国力消耗を理由に参戦を拒んだ。参戦を求めるナチス支持者は独ソ戦に義勇軍として送り込んで始末し、大戦の推移を読み切っていたかのようだ。非民主的な独裁体制は戦後世界とは相容れないが、冷戦下では黙認されることも見越していた(フランコを排除すれば、共和国亡命政府が復帰して親ソ国が誕生する)。独裁は一代限りと定めて米国の支持を取り付け、「スペインの奇跡」と呼ばれた1960年代の高度成長で経済も安定した。フランコは1975年に亡くなり、政権を引き継いだカルロス国王は立憲君主制を選んで共和国亡命政府も解散し、民主化を経て国際社会に復帰した。
  フランコはナチスドイツのように前衛芸術を弾圧せず、むしろ抑圧的なソ連とは違うと言わんばかりに称揚した(ただしカタルーニャ・バスク民族主義に連なる芸術は厳しく弾圧した)。すると戦後前衛音楽も興隆し、20人近い大所帯のグループ「51年世代」が生まれた。現代詩の「27年世代」(ロルカやノーベル賞詩人アレイクサンドレら)から名称を借り、構成員の生年は1925-37年に広がる。結成時点では多くの作曲家がセリー技法を用いていたが、クリストバル・アルフテル(1930-2021, 「8人組」のアルフテル兄弟の甥) とルイス・デ・パブロ(1930-2021) は傑出していた。ふたりは60年代には徹底的に厳しいセリー音楽の書き手だったが、前衛の時代が終わると書法に柔軟性が加わってくる。C.アルフテルは《ドン・キホーテ》(2000)、パブロは《クリスティーナ》(1997-99) という集大成的なオペラを同時期に書き、ともに90歳を超える長寿を全うし、ふたりは最後まで並走していた。
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  フランシスコ・ゲレーロ(1951-97) はほぼ独学で作曲を身に付け、クセナキスらに賞賛されて評価を高めてゆく。終生の代表作となった弦楽器のための連作《Zayin》シリーズ(1983-97) 着手後に一度作曲を止めたが、組み合わせ論とフラクタル理論を結びつけて内部構造を自律生成する方法論を1988年に編み出して作曲を再開し、この方法論をコンピュータ上に乗せた管弦楽曲《Sahara》(1991) で評価をさらに高めた。《Zayin》シリーズ完成直後に急逝した彼が、早すぎた晩年に最後に取り組んだのが、アルベニス《イベリア》全曲のオーケストレーション(1994-) だった。この仕事は未完に終わったが、数学的方法論を極めたゲレーロの最終到達点が《イベリア》だったことは、この作品のスペイン音楽史における存在感の大きさを象徴している。





# by ooi_piano | 2022-11-07 21:40 | POC2022 | Comments(0)
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Хироаки Ои Фортепианные концерты
Сны о России


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松山庵(芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
〔要予約〕 tototarari@aol.com (松山庵)
チラシpdf 


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【第3回】 2022年10月1日(土)15時開演(14時45分開演)

S.S.プロコフィエフ(1891-1953)

●《憑霊(悪魔的暗示) Op.4-4》(1908/12) 3分

●ピアノ協奏曲第2番ト短調第1楽章 Op.16-1 (1913/23) [独奏版] 10分

●スキタイ組曲「アラとロリー」 Op.20 より〈邪神チュジボーグと魔界の瘧鬼の踊り〉(1915/2016) [米沢典剛による独奏版、初演]  3分

●ピアノソナタ第3番イ短調 Op.28「古い手帳から」(1907/1917) 8分

■ピアノソナタ第6番イ長調 Op.82 「戦争ソナタ」(1940) 27分
 I. Allegro moderato - II. Allegretto - III. Tempo di valzer, lentissimo - IV. Vivace

  (休憩)

■ピアノソナタ第7番変ロ長調 Op.83「スターリングラード」(1942) 18分
 I. Allegro inquieto - II. Andante caloroso - III. Precipitato

■ピアノソナタ第8番変ロ長調 Op.84「戦争ソナタ」(1944) 30分
 I. Andante dolce - II. Andante sognando - III. Vivace


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プロコフィエフの手



ドンバスの大地が生んだ野性と知性―――大塚健夫

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  プロコフィエフは1891年、帝政ロシアのエカテリノスラフ州(現在、ウクライナ共和国ドネツク州)、ソンツォフカの生まれである。母は優秀なピアニストであった。州の中心都市ドネツクから40kmほどの豊かな自然に恵まれたこの地まで、ウクライナを代表する作曲家レーインホルド・フリエール(グリエール)(1875–1956)がキエフから、モスクワからはセルゲイ・タネーエフ(1856–1915) がやってきて、10歳に満たないセリョージャ(プロコフィエフ)に和声や管弦楽法を教えていたというのも母の影響によるところが大きい。いま、毎日のニュースでこの地名を耳にしないことはないドネツク、炭田で有名だったドンバス地方であるが、交通手段の発達もあり帝政末期の文化的レベルはペテルブルグやモスクワと比べても遜色なかったということであろう。20世紀に入ってドンバス地方が工業地帯として発展してゆくとロシアから多くの人がやってきて、中には炭鉱労働者として送り込まれてきた囚人たちもいた。彼らはリタイア後、あるいは娑婆に出た後も家族と共にこの地に定住するようになり、ドンバスにロシア系の住民が多いのはこういった歴史も背景にある。

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  1904年、13歳でサンクト・ペテルブルグの音楽院に入学を許されたプロコフィエフはリムスキー=コルサコフを感激させ、グラズノフから叱咤激励を受けて早くもピアノと作曲で注目を浴びる。彼のペテルブルグ時代のあの機械的なリズムとメタリックな響きをもつ作品、例えばピアノ協奏曲第2番(1913)、『束の間の幻影(原題はмимолётность,“ 瞬時”』(1918)、ピアノソナタ第3番(1918)(1907年の「古いノート」の習作をリライト)は、ペテルブルグ(1914年以降はペトログラード)郊外のパヴロフスクにあった音楽駅広場で初演されている。初演はいずれも賛否が激しく分かれたと「自伝」で述べているが、ピクニック気分で聴きに来るようなこの場所であの当時としては十分に「尖がった」音楽を聴衆にぶちかましたのだから、その反応は想像に難くない。この野外音楽ステージはその約50年前、ウィーンから毎夏ヨハン・シュトラウス・ファミリー(会社組織)の楽団がやってきて、ロシアの富裕層を相手にワルツを演奏して荒稼ぎをしていた場所だ。またドストエフスキーの『白痴』の第三編で、ヒロイン、ナスターシャがオーケストラの演奏中に客席でひと悶着起こす舞台になっているのもパヴロフスクのこの野外ステージである。

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  1910年代はロシアに資本主義という景色が短い期間ながら現れるとても興味深い時代だった。プロコフィエフは他の芸術家と同じく、欧州まで及んだこの大波をエンジョイし、また足をすくわれている。ロンドンにいたセルゲイ・ディアギレフとの出会いは、ストラヴィンスキーのような「大当たり」にはならなかった。バレエ音楽『アラーとロリー』はディアギレフに『春の祭典(浄められた春)』の二番煎じだと言われ取り上げてもらえず、管弦楽の『スキタイ組曲』と形を変えて世にでる。1916年のモスクワでの作曲者自身の指揮による初演では、ティンパニ奏者が演奏中に楽器の皮を破ってしまったとか、グラズノフが聴くに耐えないと途中で退場したとか、『ハルサイ』のパリ初演に劣らぬエピソードが残されている。なお、「スキタイ」というのは紀元前8~3世紀にかけて今のウクライナの大地に君臨した遊牧騎馬民族、遊牧国家。残忍で好戦的な集団であった一方、スキタイ金細工と言われる極めて精巧な手工芸品を残しており、これらはエルミタージュ美術館やトプカプ宮殿博物館のコレクションの中でも第一級の至宝として評価されている。1910年代のロシアでは、画家で考古学者だったニコライ・リョーリヒ(1874–1947)のグループが、19世紀末の音楽・美術に別れを告げ初期のスラヴ人、スキタイ人まで遡ってロシアの民族芸術を再発見しようという運動を組織した。プロコフィエフはいにしえの遊牧民族のダイナミックな野性さと精密極まる創造性に、自分のルーツを見出していたのではないだろうか。

  プロコフィエフの才能と躓きの両方をしっかり見据えていたのが、ロシア出身でのちにボストン交響楽団のシェフとなるセルゲイ・クーセヴィツキーである。逆タマ結婚で資金力のあったクーセヴィツキーは『スキタイ組曲』の譜面に6千ルーブル前払いしたという。ロシア初演のあとクーセヴィツキーの指揮によってパリで披露されたのは1923年になってからだったけれども。その後交響曲第2番はクーセヴィツキーに献呈されているし、4番はクーセヴィツキーの依頼、つまりスポンサーシップを糧に書かれている。

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  ロシア革命の混乱を逃れ、日本経由で米国に渡り、欧州も含めて「西側」で過ごした18年間は、プロコフィエフにとって何だったのだろうかと改めて考える。結局彼はアメリカ資本主義全盛時代における金儲け一徹のショウ・ビジネス、また興行師ディアギレフが展開したモダンなショウ・ビジネスに相容れなかったということだろう。自伝の内容を全て信じてはいけないのかもしれないが、「ペトログラードの音楽生活の方が外国(ディアギレフ)より魅力的」という彼の言葉がそれを物語っている。ミシェル=ロスティスラフ・ホフマン (1915–1975) というペトログラード出身で1923年にパリに亡命しプロコフィエフと親交のあった音楽学者が書いている著書(『プロコフィエフ』 1962年、清水正和訳)の中に、あるフランス人の観察として、プロコフィエフがパリではよくマスクを付けていたこと、「彼は自分が気に入らない外の世界とのあいだには、越えがたい柵を設けていたようである」という指摘がある。ショウ・ビジネスの要素を吸収した上で新古典主義、さらには独自の様式に昇華していったストラヴィンスキー、移民後は殆ど作曲を行わずショウ・ビジネスをあくまで生活手段として割り切りピアニストとして米国で生涯を終えたラフマニノフ、この二人に比べるとプロコフィエフにとってはヨーロッパもアメリカも永住の場所とはならなかった。米国でプロコフィエフと交流のあったミンスク出身の作曲家ウラヂーミル・ドゥケーリスキー(1903-1969)(米国ではVernon Dukeとして知られる) は、ジャズのヒット・ナンバー 『Autumn in New York』などを書いてショウ・ビジネスの世界で成功した移民だった 彼は1930年代、ソ連に戻ったプロコフィエフから熱心に帰国を勧められたが、熟慮の末米国に残った。一方でプロコフィエフに言われた通りクラシックの作曲も続け、その時はロシア語の名を記していたという。

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  1918年、革命直後のペトログラードで、革命政府の初代教育人民委員(文相)だったアナトーリー・ルナチャルスキー(1875-1933) の了解を得て国外に出ている。ルナチャルスキーも現ウクライナ領のポルタワの出身だが、その彼に「仁義をきって」みたいな、佳き時代の人間関係があったのかもしれない。そして「スキタイ組曲、古典交響曲、ピアノ協奏曲第一番の譜面のみを鞄にいれて」(自伝)1903年に全通したシベリア鉄道でウラヂオストクに向かう。

  当時のウラヂオに筆者は想いを馳せる。明治末期から日本人の多くがフロンティアスピリット(風俗業等も含めて)でこの地に渡った。日露戦争で一旦下地になるがその後は増え続け、1917年には約3700名が「浦潮斯徳」に居住していたという。1991年のソ連崩壊後、それまで閉鎖軍事都市だったウラヂオでのビジネスが復活しても、2020年でウラヂオの在留邦人はせいぜい100名弱だった(その後はコロナによる引き揚げで激減)ことを考えると当時の日本人コロニーの勢いがわかる。1912年にはロシア閣僚会議でオデッサのドイツ人学校と、浦潮の「日本尋常高等小学校」がロシア国内の外国人学校として認可されている。プロコフィエフが浦潮から定期船で敦賀に渡ったのが1918年の6月、この時点でまだ革命軍はロシア極東に達していない。反革命軍を支持し、あわよくば領土を拡げるために日本が「シベリア出兵」を開始したのはこの年の8月である。プロコフィエフの日本滞在日記によれば、浦潮での日本行きヴィザの発給等に際し、かなり不愉快な思いをしたらしい。

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  プロコフィエフがほぼ二カ月滞在した大正7年の日本にも想像を掻き立てられる。
  東京の帝国劇場で二回、横浜のグランドホテルで一回、ソロ・リサイタルを行った。帝劇でのプログラムには、『世界的作曲家洋琴家 セルギー・プロコフィエフ氏 ピアノ演奏會』と「大」が三回入っている。しかしこれが当時の日本の文化的後進性を表しているかと言えば必ずしもそうではない。ソナタ 1,2,3番とともに弾かれた『四つの小品』op.4 の終曲には、今日定着している『悪魔的暗示』という実に曲にふさわしい邦訳が既に使われている。想像するに、滞在中の作曲家と親交をもった大田黒元雄、あるいは徳川頼貞(紀州徳川家第十六代、ケンブリッジ大留学時に小泉信三と同宿)といった音楽学者たちは既に若きプロコフィエフの曲に通じていたのだろう。大田黒は1915年の著書で「シェーンベルグが現時点での終着点」という鋭い指摘を既にしている人でもあった。『悪魔的暗示』のロシア語の原題は Наваждение であり、おそらく仏訳 Suggestion diabolique からの重訳ではないかと思う。 現代においてНаваждениеという言葉の一般の意味は必ずしも悪魔や邪悪とは結びついておらず、「幻影」あるいは「見えないものが見えてしまう精神状態」であり、たとえばシンデレラの夜12時に鐘が鳴るまでは一種のНаваждениеなのだと知合いのロシア人が説明してくれた。ひとつよくわからないのは、プロコフィエフの滞在日記では寂しい自分の財布の中身を心配する記述がよく出てくるけれど、一方で箱根に行ったり、軽井沢に遊んだり、これまた横浜の娼館に出かけたり、外国人として不自由のないふた月を送っている点だ。麻布の自邸に「南葵(なんき)楽堂」というホールも建てていたという前述の徳川公爵から援助が出ていたのかもしれないが、作曲家はこのあたりのことをあえて語っていない。

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  プロコフィエフがソヴィエト連邦となったロシアに完全帰国し市民権を得たのは1936年のことだが、1927年に一時帰国してコンサートで成功を収めている。前述のホフマンによれば1925年頃からソ連に帰ろうという決意はあったという。米欧のロシア音楽学者であるリチャード・タラスキン(今年7月1日、77歳で没)やフランシス・マースやらは、帰国の最大の理由として、プロコフィエフが西側の最新のモダニズムについて行かなくなったことを指摘しており、たしかにその後没するまでの彼の作風を見ているとこの指摘は正しいのかもしれないが、果たしてそうだったのだろうか。共産主義者という枠組みとは別の次元でもともとショウ・ビジネスを嫌い、より自然なかたちで自分の中の野性と知性を作品にして見せたかったプロコフィエフにとって、1920年代のソ連、少なくとも芸術の分野においてもスターリン旋風が荒れ狂うようになる以前のソ連は、彼にとって理想的な環境だったのかもしれない。仁義を切られてプロコフィエフを国外に送り出したルナチャルスキーは1929年までは教育人民委員(文相)の要職にあり「彼のあらゆる潜在能力を発揮させるために、プロコフィエフは我々の下に戻らなくてはならない」とまで言っている。

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  プロコフィエフの正式帰国以前の1932~33年、彼の故郷ウクライナではスターリンの過激な農業政策が農村での食糧飢饉「ホロドモール」をもたらし、四百万人が餓死した。帰国後のプロコフィエフはスターリン政権下における「プロパガンダ」音楽も書いているが、これはショスタコーヴィチも同じであり、生きる、いや生き残るために致し方ないことであったはずだ。そのような環境の中で、バレエ音楽としての不朽の名作『ロメオとジュリエット』、そして「戦争ソナタ」といわれるピアノソナタの三部作といった傑作が生み出されてゆく。これらはまさに野性と知性のベスト・ミックスと呼ぶに値する作品であろう。
  プロコフィエフの音楽は最後の作品に至るまで調性をもった構成であったが、独自の透明な転調感が随所に聴かれる。ソ連時代、ベルコフという音楽学者が『現代和声の研究』(1962年)にこんなことを書いている。・・・・プロコフィエフはよくシューベルトの音楽における調関係について話した。彼はシューベルトが好んで工夫した「爆発的」な調性の脱線のことを考えていた。(ジェームス・バクスト『ロシア・ソビエト音楽史』 1966年、森田稔訳)。

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  スターリン体制による作曲家と家族への直接の悲劇は戦後の1948年に起きた。プロコフィエフは1923年、ドイツでリナ(カロリーヌ)と結婚し、二人の息子をもうけモスクワに移住してきた。リナは父がカタロニア出身のスペイン人、母がウクライナ出身で、歌手であった両親の血を受け継ぎ音楽性豊かな女性だったようだ。ソ連に戻って2年後、プロコフィエフは24歳年下の翻訳家であり詩人でもあったミラ・メンデルソンと不倫の恋に落ち、リナとは別居生活となっていた。リナは欧米での長い暮らしもあって自由で社交的な女性でもあり、ソ連の市民が外国人と接するだけで逮捕されていた時代、英国大使館等に頻繁に出入りしていたようである。ある夜、小包を郵便局に受取りにきてほしいという電話がリナにあり、出かけていったリナは拉致され、一方的な裁判で北辺の地、コミでの8年間の矯正労働の刑に処せられた。1956年に刑期を終えて出所するが、1953年3月、スターリンが死んだ同じ日に病気で永眠したプロコフィエフには知るすべもなかった。リナは1974年にソ連を出てフランスに移り住むが、1991年に英国で91歳で没するまでソ連での自身に起きた不幸な出来事を語ることは殆どなかったという。一方のミラはモスクワに残り1968年に53歳で没、プロコフィエフが署名した二人の遺言にもとづき、ノヴォデーヴィチ寺院の墓に夫と一緒に葬られた。戦争ソナタ三部作の最後の作品、抒情性に富んだソナタ8番はミラに捧げられている。

  ところで1918年の日本経由米国往きの渡航費用についてその後、先妻リナの波乱万丈の生涯をまとめた Simon Morrison “The Love and Wars of Lina Prokofiev” (2013)を読んでいたら、米国の産業人サイラス・マコーミック・ジュニア(1859-1936)の援助についての短い記載があり、さらに調べたら2021年のシカゴ交響楽団のプログラムにこのことについて書かれている記事を見つけた。
  ロシアの10月革命の直前、米国の国務長官経験者、エリフ・ルートが率いる実業界の代表団がウラヂオストクからシベリアを縦断してペトログラードに入り、帝政に代わる「民主主義の定着」を当時期待されていたケレンスキーの新政府首脳と面談した。このメンバーの中に世界初の機械式刈取機を発明し「現代農業の父」と言われたサイラス・マコーミック(1809-1884) のジュニアがいた。彼は父の「マコーミック・ハーヴェスター社」をさらに拡大し、1902年には「インターナショナル・ハーヴェスター社(以下IH社)」と改名、その後20世紀を代表する総合農機メーカーとして名を馳せる。19世紀後半にはロシアにも輸出され、訪露の時点ではモスクワ郊外で現地生産の企画もあったようだがその後の革命で実現には至らなかった。
  この時ペトログラードにいたプロコフィエフは27歳、子供の頃に父が管理していたドンバスの広大な農地で動いていた「マコーミック」、馬に牽かせて刈取の生産性を向上させたゴツい仕掛けのブランド名は脳裏に焼き付いていたのだろう。どういう出逢いだったのかはわからないけれども、プロコフィエフは滞在中のマコーミック・ジュニアのところに乗り込んで行ったのではないだろうか。若き作曲家は『スキタイ組曲』の未公刊のスコアを見せ、アメリカ行きの援助を依頼する。IH社はシカゴ交響楽団を支えるスポンサー会社の一つであり、ジュニアはその譜面を音楽監督のフレデリック・ストック(1872–1942)に送った。ストックはプロコフィエフの疑うことのない才能に太鼓判を押してきたという。
  かくして青年プロコフィエフの渡航資金は得られた。しかし、当人は最初「南米に行くつもりだった」と自伝にも書いており、スポンサー側がどういうコミットメントをしたのかは定かではない点もまだある。
  前述のサイモン・モリソンは1964年ロンドン生まれ、タラスキン亡きあと期待される広い視野に立ったロシア音楽のスペシャリストの一人である。既にプロコフィエフに関する複数の著作があり、2011~15年までプロコフィエフ財団の会長も務めた。その後舞台芸術についても健筆をふるい、『ボリショイ秘史』(2016)は現代のスキャンダルも含めて興味深い内容の本。翻訳もこなれていて読み易い。




[cf.] 「プロコフィエフ日本滞在記」についてのブログ紹介記事(2005年7月11日)


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〈公演予告〉

【第4回】 2023年1月7日(土)15時開演(14時45分開演)
松山庵(兵庫県芦屋市)
■D.D.ショスタコーヴィチ(1906-1975): 24の前奏曲とフーガ Op.87 (1951)
■S.I.タネーエフ(1856-1915): 前奏曲とフーガ 嬰ト短調 Op.29 (1910)
■M.ヴァインベルク(1919-1996): ピアノソナタ第6番 Op.73 (1960)
[使用エディション:ショスタコーヴィチ新全集版(2015)]

【番外編】 2023年3月17日(金)19時開演(18時半開場)〈ロシアン・アヴァンギャルド類聚〉
松涛サロン(東京都渋谷区)
■N.A.ロスラヴェツ(1881-1941) : 3つの練習曲(1914)/ソナタ第2番(1916)
■A.V.スタンチンスキー(1888-1914) : ソナタ第2番(1912)
■S.Y.フェインベルク(1890-1962) : ソナタ第3番 Op.3 (1917)
■N.B.オブーホフ(1892-1954) : 2つの喚起(1916)
■A.-V.ルリエー(1892-1966) : 2つの詩曲Op.8 (1912)/統合 Op.16 (1914)/架空のフォルム(1915)
■B.M.リャトシンスキー(1895-1968) : ピアノソナタ第1番 Op.13 (1924)
■A.V.モソロフ(1900-1973) : 2つの夜想曲 Op.15 (1926)/交響的エピソード「鉄工場」 Op.19 (1927/2021)[米沢典剛によるピアノ独奏版、世界初演]
●ジョナサン・パウエル(1969- ):委嘱新作初演(2023)


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# by ooi_piano | 2022-09-20 18:59 | Сны о России 2022 | Comments(0)

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